ギャンブル漫画・必勝法と逆転劇一覧 - 『賭博黙示録カイジ』『嘘喰い』『ジャンケットバンク』『賭ケグルイ双』 -

 ※『賭博黙示録カイジ』『嘘喰い』『ジャンケットバンク』『喧嘩稼業』『バトゥーキ』『地雷グリコ』のネタバレ注意。

 

 

 ギャンブル漫画では天才と天才の対決が描かれる。では、なぜ天才同士の対決で勝敗が分かれるのだろう。本記事ではその勝因と敗因のパターンを分析する。

 まず問題となるのが、何をもって勝敗とするのかということだ。ここに福本伸行のギャンブル漫画の創始者としての貢献がある。

 次に、勝利という目標が定められたとき、そもそも人間は合理的に行動できないということを見る。例外は、カイジなどの社会性に欠ける人間だ。逆に、人間の不合理性を強調すると、デスゲームを題材にしたクソ漫画になる。これがギャンブル漫画とデスゲームもののクソ漫画が隣接する理由だ。

 ただし、人間の不合理性は一般には有益なものだ。『ライアーゲーム』がいかにして人間の有益な不合理性を排除しているかを見る。

 ここまでが前提だ。ここから合理的な人間同士の対決で、いかにして決着がつくのかを見る。『賭博黙示録カイジ』の「Eカード」から、無限の読み合いがどこで停止するのかを見る。主に停止するのは、ゲームのルールが更改されるときだ。第1にゲームの目的、第2にゲームの判定、第3にゲームの道具だ。

 そして、こうしたルール違反がいかにして正当化されるかを見る。ここで、なぜ『嘘喰い』で「エア・ポーカー」が人気なのかを明らかにする。また、こうしたメタ=ルールが『喧嘩稼業』や『バトゥーキ』に通底していることを見る。『ジャンケットバンク』はメタ=ルールをルールに内部化している。

 最後に、合理性という概念を再考する。この合理性という概念が、『嘘喰い』の切間創一というキャラクターと「ハンカチ落とし」のゲームに直結している。

 

1.ゲームの設定 - 天才と凡夫 -

 

 麻雀で勝ったあと、敗者やその手下に襲われ、金を奪われる。そして、自己憐憫にふける。あるいは、麻雀に負けても愛人の同情を得て、自己愛にふける。社会的な敗者の願望充足的な麻雀劇画はこういうものだ。

 負けることが悪いのではなく、そもそも、勝っても負けても変わらないため、勝負に意味がない。

 エルスター『酸っぱい葡萄』は、19世紀末のイギリスの産業界を分析した『Gentlemen and Players』を引用する。「チェスプレイヤーにとって、勝つためでなく優雅さのために指すということはありえない。あるのは優雅に勝つ方法か、勝つ方法だけで、優雅に負ける方法など存在しない」。

 

 福本伸行が画期的だったことは、あくまで勝負における勝ちを追求したことだ。『アカギ』で安岡刑事がセッティングしたり、『銀と金』の誠京麻雀編で、銀二が立会人を要求したりすることが好例だ。

 こうしたゲームの設定そのものの検証は、『嘘喰い』でより複雑に発展することになる。

 

 ゲームの設定に伴ったのが、物語からの「色と血」の排除だ。暴力については、ゲームの設定に必要であることを考えると逆説的だ。だが、ゲームのあいだは、プレイヤーたちが集中するのはゲームについてだけだ。

 

"「お前ら……… 本当になんにもわかっちゃいねぇな…」「オレたちが今取ったり取られたりしてるのは 実は点棒じゃねぇんだ」〈プライドなんだよ…………〉"(『天』)

 

"「オレは‥‥‥‥‥‥‥負けたんだ‥‥‥‥‥」「敗者は失うっ...!」「それをねじ曲げたら‥‥‥‥‥‥なにがないやらわからない‥‥‥」「受け入れるべきだっ‥‥‥!」「負けを受け入れることが‥‥敗者の誇り‥‥オレは‥‥‥」「負けをぼかさないっ‥‥‥‥‥‥!」"(『賭博黙示録カイジ』)

 

"「ねじ曲げられねぇんだっ………!」「自分が死ぬことと………」「博打の出た目はよ……!」"(『アカギ』)

 

 個人的には、場末の賭場で自棄になるアカギは柄ではないと思うが、鷲巣麻雀編の前にアカギの人生観をあらためる意味があったのだろう。

 

 こうして、ゲームの設定そのものの検証は、それを要求したプレイヤーの自負心と一致する。この自負心、すなわち自己制約を合理性と見なしてもいいだろう。

 

 ついでに、ゲームそのものへの追求を裏面から描いたのが、かわぐちかいじの『はっぽうやぶれ』だ。

 

"〈ここまで盛り上げてきて〉〈こんなつまらん勝負が勝ち牌譜として残って、終了(おわ)ってしまうとね…!!〉"(『はっぽうやぶれ

 

 こうして和了を拒否したタケオは、ゲームそのものを追求する蟹江に敗北することになる。これでタケオが勝っていたら、『はっぽうやぶれ』はまったくの凡作になっていただろう。

 

 ところで、麻雀漫画、広くギャンブル漫画は、なぜゲームそのものへの追求を福本伸行まで待たなければいけなかったのだろう。しかも、一度、福本伸行がゲームそのものへの集中という世界観を提示すると、圧倒的な支持を得ることになる。もちろん福本伸行の筆力のためもあるが、福本伸行が人気を博したのはギャンブル漫画からだ。

 それは、合理性が人間にとって貴重なものだからだ。つまり、必要だが自然ではないのだ。

 

2.デスゲームもののクソ漫画 - 凡夫と凡夫 -

 

 グリーン『モラル・トライブズ』は脳神経科学を使用し、理性と情動の働きが対立することを示す。とくに認知制御を司る前頭前野背外側部(DLPFC)と、情動反応を司る前頭前野腹内側部(VMPFC)だ。

 注目すべきなのは、ユーモアでポジティブな感情を誘発すると、合理性が高まることだ。逆に、ストレスに過敏だと不合理的な傾向にある。

 抗不安薬ロラゼパムを投与すると合理性が高まり、抗鬱薬シタロプラムで情動反応を活性化すると不合理的になる。

 

"〈オレはダメだ つくづくダメ ............〉〈ここの他の連中のように うまく取り入ることができない〉〈結果浮き 疎まれてしまう〉〈まさに典型的社会不適合者 天の邪鬼〉〈損ばかりだ‥‥‥‥‥〉〈この難儀な性格のせいで オレは行く先々で上から睨まれ ゴミ出しや窓拭きなど 損な役回りをいつも負わされる〉〈そしてなんというか............始末に悪いのは オレにはその方が心地良いというか....楽なのだ〉〈他人とぬるぬる係わって 作り笑いするより数段 楽〉〈結果 毎度繰り返してるいつものパターン〉〈一人「孤立」という沼にズブズブ嵌まっていき 気が付けば変人扱い........〉"(『賭博黙示録カイジ

 

 つまり、合理的であることは、多少は偏屈であることを必要とするのだ。

 カイジほど変人偏屈、ひねくれ者ではなくても、誰でも頑固なところはある。福本伸行はそうした粘性の感情の高貴さをはじめて描いたのだ。

 その意味で、カイジの怠けや気紛れ、その結果として、落伍者であったり貧困者であったりすることは本質ではない。

 

 一方で、そうした性格の偏りがなくても合理的な判断ができる人間が、天才ということになる。

 

"「あ…赤木さん あんた今までどこに? 探したんですよ!」「……」「ハワイ…」「連日ゴルフ場通って やっと90をきったよ」「いや――難しいな……ゴルフは」"(『天』)

 

 赤木は鷲尾と金光を誘ってハワイにゴルフしに行ったりしている。青年時代のアカギもオサムの世話を焼いたりしている。

 こうした飄々としているという天才の人物造形は、『嘘喰い』の貘さんや『ジャンケットバンク』の真経津さんにまで影響している。

 

 逆に、ストレスをかけ、感情的にさせると、誰でも不合理的になる。これがデスゲームもののクソ漫画がしていることだ。

 デスゲームで命を賭けたり、五体満足を賭けたりしているプレイヤーたちよりも、『からかい上手の高木さん』の高木と西片のほうが高度な頭脳戦と心理戦をしているということになる。

 

"「見た目だけ派手で残虐 悪趣味なデスゲームを私は是としておりませんし この戦いには相応しくないと考えております」"(『嘘喰い』)

 

 マネーゲームも同じだ。経済学者のセイラーは『セイラー教授の行動経済学入門』で、心理実験において、金銭的な報酬があるほど行動経済学的なバイアスが大きくなると指摘している。

 凡夫が天才になるため、また、天才が天才として輝くためには過酷な状況が必要だ。だが、クソ漫画は過酷な状況における凡夫を主役にしている。

 

3.ゲームのプレイヤーの調整 - 嘘つきと正直 -

 

 もちろん、日常生活では偏屈でないほうがいい。

 最後通牒ゲーム(一方が資金を分配し、もう一方はその諾否を選択する。ただし、拒否したときは資金は没収される)では、合理的に判断すれば、分配率は最小単位になるはずだ。

 だが、大多数が等分し、合理的な分配についても大多数が拒否する。

 こうして不合理な人間たちが協力しあい、社会は円滑に運営されている。

 

 一方で、アメリカの大学生とイスラエルの空軍を対象にした「囚人のジレンマ」実験では、実験名を「ウォール街ゲーム」とするか「共同体ゲーム」とするかで協力率が変わった。

 行動を先読みするためには、その相手が合理的でなければならない。『ライアーゲーム』でアキヤマが「このゲームには必勝法がある」という決め台詞を言うには、あらかじめフクナガが「騙されるほうが悪いんだよ!」と顔芸をして、プレイヤーたちの方針を合理的なものに変えていなければならないということだ。より正確には、プレイヤーたちが合理的な行動を取るだろうと、読者に納得させるということだ。言うまでもなく、『ライアーゲーム』というタイトルの命名がその最たるものだ。

 

 不合理にもかかわらず有益な判断について、スタノヴィッチ『心は遺伝子の論理で決まるのか』は「文脈」という概念で定式化している。

 人間は社会的動物であり、判断において本能的に「文脈」を汲む。この点では、動物の判断のほうが合理的だ。

 そのため、ギャンブル漫画の多くはデスゲームやマネーゲームといった、利己主義が要求されるソリッド・シチュエーションを設定する。

 

 ただし、こうした不合理性は生物学的な本能と文化慣習によるものでしかない。

 公共財ゲーム(N人で資本を出資し、そのX(<N)倍が等分に分配される)では、北米・西欧は出資率が平均50%、中東・南欧では25%、北欧では75%ほどだ。

 つまり、ただ本能と習慣だけで不合理な行動をしている人間は、異なる環境におかれれば、不合理にもかかわらず有益ではなく、不合理で当然ながら有害な行動を取ることになる。外国への旅行者はしばしばそうした醜態を演じる。

 だから、合理性によって築かれた関係は、より公平で開かれたものになる。

 

"「どうだ‥‥? カイジくん 面白かろう‥‥! これが本当の会話だっ‥‥!」「今やっているEカード これは相手の真実‥‥心を‥‥ 追い続け突き止めるギャンブル 混じりっけなし本当の意味で 心と心の会話なのだ」「この会話の純粋さ真実さ加減に比べれば 日常での友との会話など たとえそれがどんな相談事 打ち明け話であろうと 全部虚仮‥‥嘘ばかりだ‥‥!」「しかし‥‥このEカード この心理戦がらみのギャンブルは違う‥‥! 言葉一つ発せずとも‥‥真剣だっ‥‥! 真剣に互いの心を測ろうとしている 真実を追いかけている」「ギャンブルこそ 国籍・年齢・貧富の差・性別‥‥そういうあらゆる垣根をあっさり乗り越え 語り合える‥‥共通の言語なのだっ‥‥‥‥! 特に‥‥このEカードのような心理戦はな‥‥!」"(『賭博黙示録カイジ』)

 

 まさに利根川の言うとおりだ。

 『地雷グリコ』の「フォールーム・ポーカー」では、2人のプレイヤーが高次化した読み合いでたがいに手札を知ったことに対し、傍観者が疎外感をおぼえる。

 

4.いかにしてゲームの勝敗が決まるのか - 皇帝と奴隷 -

 

 では、合理的な人間同士の対決で、いかにして勝敗が決まるのかを見よう。なお、クソ漫画では合理的な人間が不合理な人間に勝つが、これは意味がない。

 なぜ合理的な判断が勝因とならないのか。『嘘喰い』の「ハンカチ落とし」から考えよう。

 「ハンカチ落とし」は1分以内に落し手がハンカチを落とし、受け手がふり返る。ハンカチが落とされてからふり返るまでのあいだの時間が罰になる。ただし、ふり返ったときにハンカチが落とされていなければ、1分間の罰が与えられるというものだ。

 受け手はいつふり向くべきか。合理的には、落とす時点をx、ふり返る時点をy、落とす確率pについて、p(y-x)+(1-p)60の最小値問題を解けばいい。確率を一様分布とすれば、30秒時点でふり返れば、罰の期待値を37.5秒に最小化できる。

 だが、落し手も合理的で、かつ受け手が合理的なことを知っていれば、30秒時点までには落とさず、受け手は自滅するだろう。

 こうして、合理的な人間同士の対決は先読みの無限後退に陥る。『賭博黙示録カイジ』の「Eカード」の勝負はまさにこれだ。

 

 これを経済学では「戦略的相互依存状況」と言う。

 新古典派経済学は合理的行動と、完全競争市場における価格は需給の均衡点だという2つの仮定をおいていた。合理的行動とは効用最大化のことだ。よって、経済学はただ最適化問題を解けばいいことになる。

 ところが、寡占市場ではそうはならない。1社が均衡価格から出しぬけば、競合他社を倒産させ、市場を独占することができる。

 じつのところ、新古典派経済学の2番目の仮定は、「価格受容者の仮定」を前提にしている。市場参加者が無限に多いため、各々が無限小の影響しか与えず、誰も価格操作はできないということだ。

 これに対し、「戦略的相互依存状況」は各々が影響を及ぼしあう。この分析のため、ゲーム理論が考案された。

 

 ゲーム理論は、最適な行動を均衡として求める。均衡とは、個々の行動が、相手の行動を所与として最適な反応の組合せのことだ。

 ここでゲームは「同時手番」だ。「同時」とは、期間の長さや先後関係のことではなく、相手の行動を知らないということだ。そのため、相手の行動を所与とした分析が最善になる。

 もっとも、「戦略的相互依存状況」の分析について、ゲーム理論の有効さも限られている。選択について混合支配戦略、組合せについて複数均衡なら、最適な行動の選択は1つに定まらない。ジャンケンなら3×3の9つの組合せすべてが均衡だが、そんなことを知っても役には立たない。

 

 ところで、これで『賭博黙示録カイジ』の「限定じゃんけん」がいかに画期的だったかがわかる。

 

"〈限定と聞いて‥‥すぐある予感が走った‥‥〉〈この勝負 運否天賦じゃない‥‥〉〈‥‥‥おそらくは‥‥‥愚図が堕ちていく〉〈勝つのは智略走り他人出し抜ける者‥‥‥‥!〉"(『賭博黙示録カイジ』)

 

 まさに「限定じゃんけん」の「限定」は「戦略的相互依存状況」を出来させるためのものだったのだ。

 

 では、いかにして均衡は勝敗の分かれたものになるのか。

 そもそも、ゲーム理論は相手の行動について無知であることが前提だ。だから、読心術で相手の行動を把握できればいい。いわば、後出しできるということだ。ゲーム理論では、これを「同時手番」に対し「逐次手番」と言う。

 「囚人のジレンマ」については、アクセルロッド『つきあい方の科学』が、「しっぺ返し」戦略が最適だと結論づけている。ただし、ゲームが1回限りか、参加者が3人以上のときには、この戦略は使えない。

 この問題に対し、読心術が有効だとして、フランク『オデッセウスの鎖』は深く分析している。具体的には瞳孔の収縮、赤面、発汗、唾液の減少、さらに、3つの不随意筋である表情筋を挙げる。オトガイ方形筋、錐体筋、前頭筋・雛眉筋だ。表情筋についてはエクマン『暴かれる嘘』による。

 これらの読心術の信憑性は、次の3点から言える。 1. 模倣の困難さ 2. ニコ・ティンバーゲンの派生原理(外生的なもののため、制御できない) 3. すべての情報を公開していること(不利な情報を選択的に非公開にするほど、信憑性は下がる)

 

 Eカードの第11戦までにおける帝愛のイカサマは、まさに、あらゆるゲームの本質を突いたものだ。

 『ジャンケットバンク』では読心術が基本技術の扱いになっている。

 『嘘喰い』でも「ハンカチ落とし」で切間創一が心音を聴いている。ただし、身体の反応はその信憑性と同じく、外生的なものだという理由で、その原因を特定しない。そして、人間は統合的だ。『嘘喰い』の最終巻では、ゴーネンが心拍数を高めて切間を騙している。

 このとおり、読心術がもたらす情報は限られている。また、「逐次手番」ゲームにおいて後手番が必勝でないとおり、相手の行動を知ることも必勝法ではない。

 

 イカサマとその逆用という逆転劇は明快だ。

 だがむしろ、私たちが知りたいのは、プレイヤーたちがイカサマを黙認しているときについてだろう。ゲーム理論で言えば、イカサマが「共有知識」になっているときだ。このとき、イカサマはゲームに内部化されていて、ゲームは通常のものだ。

 

"〈このEカード‥‥‥‥‥‥真剣勝負という意味ではこれが初戦っ‥‥‥‥!〉"(『賭博黙示録カイジ』)

 

 当初の問いに戻ろう。合理的な人間同士の対決で、いかにして均衡は勝敗の分かれたものになるのか。

 Eカードの第12戦は、まさにこの状況だ。カイジイカサマを仕かけ、利根川がそれを見抜くが、カイジ利根川イカサマを見抜くことを見抜いていた。

 

"〈ぐっ‥‥! 待て‥‥〉〈気が付かないだろうか‥‥‥?〉"(『賭博黙示録カイジ』)

 

 ゲーム理論は共有知識と合理性、そして無限後退的な推論から成立する。最後のものは、まさに無限の先読みだ。

 当然だが、現実にそうした推論の高次化が無限ということはない。あくまでそう見なしていいということだ。

 ここで重要なのが、シェリング紛争の戦略』が提唱する「フォーカル・ポイント」だ。人間は行動を選択するとき、高度な推論を働かせるというより、ただ「フォーカル・ポイント(顕著さ)」を利用している。この「フォーカル・ポイント」が均衡になる。

 Eカードの第12戦では利根川は過信のために無限の先読みを停止する。

 こうして、均衡は勝者と敗者を隔てたところに落着するのだ。

 そもそも「戦略的相互依存状況」が合理的な人間同士の対決である以上、「フォーカル・ポイント」は、その合理性に関するものであることが、物語としてもっとも完成されているだろう。

 

"「会長がどう毒づこうと オレはあんたを買っている」「クズだなんてとんでもない、優秀だ それもとびっきり」「オレが出会った大人たちの中じゃ 文句なくナンバー1 切れる男」「そんな男がまず この血に気付かないはずがない」「気付く 気付くさ 優秀なんだから」「そして気づいたら その血をそのまま単純に信じたりなんか これもしない」「必ず洞察する 血は見かけとみる 見抜く こちらの作為を」「当然だ 優秀なんだから」「優秀だから 気付いた後に疑うんだ」「そして その洞察はきっと届く すり替えの「時」があったことに」「そしてそこに辿り着けば その時オレがした疑わしい動きにも気付き ほくそ笑む 「このバカめっ」と」「そうなればもう自分の勝ちを疑わない そりゃそうだ なんせ今自分が相手にしているのは 自分と比べたら話にならぬクズ ゴミ 劣等 低能なんだから」「優秀な自分の「気づき」に敗れるなんて思わない」「驕る 驕るさっ‥‥!! 優秀だから‥‥‥‥‥‥!」「ここまでクズを寄せ付けず‥‥勝ち続けてきたんだから‥‥‥‥‥‥!」"(『賭博黙示録カイジ』)

 

"〈利根川敗れるっ‥‥!〉〈優秀であるがゆえの合理と驕りを衝かれ 敗れる‥‥‥!〉〈劣性の意地‥‥ 「奴隷」の捨て身の前にっ‥‥!〉"(『賭博黙示録カイジ』)

 

 この過信という敗因を、福本伸行はすでに『銀と金』のポーカー編で名言によって表している。

 

"彼の敗因は傲慢……… 彼には自分の都合 ジャックしか見えない……… その下の真実(♡9)を見通す力がない……!"(『銀と金』)

 

 青崎有吾が『地雷グリコ』の「坊主衰弱」で、『銀と金』のポーカー編のシチュエーションを、トリックは安易にもかかわらず借用したことも分かろうというものだ。

 本来は読切りだった表題作「地雷グリコ」も、この「合理と傲り」を敗因にしている。

 ギャンブル漫画は連載のため、「合理と傲り」以外に敗因となるさまざまな性格の偏りを設定する。だが、やはり物語としては「合理と傲り」がもっとも完成されている。

 

 無限後退的な推論という理論上の仮定は、主として理論経済学者のビンモアによる。行動経済学者のセイラーは、ビンモアによる理論化を批判している。

 セイラーはフィナンシャル・タイムズ誌上で、0-100の数字で、応募者の回答の平均の2/3を当てるゲームを開催した。無限後退的な推論が働くなら、回答は全員が1になるはずだ(ゲーム理論の用語で言う「逐次均衡」)。だが、最多の回答は33、次位が22だった。正答は18.91で、優勝は13の回答の応募者だった。つまり、推論の高次化は平均で2次ということになる。

 『嘘喰い』も敵側=読者の高次化した推論に対し、主人公側=作者が3次の推論を行っている。そして、読者に騙される快感を与えている。ラビリンス編なら、「貘が上着の交換によるルールの曲解を企む」から「天真がそれを見抜く」から「貘は天真がそう見抜くことを見抜いていて、上着の交換は盗聴器を仕こむためだった」。エア・ポーカー編なら、「貘はエアタンクの圧力計を偽装していた」から「ラロがそれを見抜く」から「貘はラロがそう見抜くことを見抜いていて、圧力計の偽装を偽装していた」だ。

 

 さらに、無限の先読みで顕著なところは、ルールそのものに関わるところだ。

 

 第1はゲームの目的だ。『エンバンメイズ』の第1話である「神谷戦」では、烏丸の目的がゲームにおける勝利ではなく、ゲームそのものを利用して神谷を病死させることだったと明らかになる。『嘘喰い』の卓上「ラビリンス」では、貘がゲームに負けることで、雪井出に死の宣告を譲渡する。こうした主人公の「真意」は、勝利条件というゲームのルールそのものを変えるものだ。

 

 第2はゲームの判定だ。まず、ルールに関する文理解釈の問題だ。『嘘喰い』の「ラビリンス」で、実際には重要でなかったが、貘は「賭郎の衣服に指一本たりとも触れてはならない」という文言に注目させる。解釈は裁量の余地があるため、とくに文理解釈を問題にすると、ゲームの本質から離れたものになりかねないだろう。

 それより「ラビリンス」で重要なのは、審判の中立性を覆したことだ。審判とは、第三者としてルールに強制力を与えるもののことだ。貘は賭郎をも騙し、盗聴器を仕こむ。騙された黒服と、監督責任のある門倉の中立性が不明確なものになるため、ラビリンス編の終盤では、第三者としてときどきヒゲの黒服に焦点が当たる。

 『地雷グリコ』の「自由律ジャンケン」は発想もさることながら、ルールの確認のために1ラウンドを費やしたという合理性で、ルールの文理解釈の更改を冴えたものにしている。

 

 第3はゲームの道具だ。『賭博黙示録カイジ』の「限定ジャンケン」での「X」の問題。映画『ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ』での「リンゴ」の改造、『嘘喰い』の「マキャベリストゲーム」での「Mカード」のICチップの破壊がそうだ。ゲームの道具は解釈によってルール上の役割が与えられている。そのため、ゲームの道具も本質的には判定の問題だ。だが、解釈における裁量の余地が狭いため、ゲームの道具の偽造は説得力がある。

 

 ここで、審判について一言しておいたほうがいいだろう。『銀と金』や『賭博黙示録カイジ』の「Eカード」では、不特定多数の聴衆がいることによる。この機能はゲーム理論ではメタ=ルールとして「評判」と言われる。

 審判が制度化、すなわち外在的なルールと化しているときは、そのゲームにおける目的が問われることになる。

 ギャンブル漫画の里程標である『賭博黙示録カイジ』の「限定ジャンケン」は、債務を少数の債務者に再分配するという目的で、審判の中立性とルールに関する強制力を保証している。

 同時に、主題として、そうした制度は一時的なものでしかないことも語られている。

 

"「お前たちは皆大きく見誤っている この世の実体が見えていない」「まるで3歳か4歳の幼児のように この世を自分中心 求めれば周りが右往左往して世話を焼いてくれる そんなふうにまだ考えてやがるんだ 臆面もなく!」「甘えを捨てろ お前らの甘え その最たるは 今口々にがなりたてた その質問だ 質問すれば答えが返ってくるのが当たり前か? なぜそんなふうに考える? 馬鹿が! とんでもない誤解だ」「世間というものはとどのつまり 肝心なことは何一つ答えたりしない 住専問題における大蔵省銀行 薬害問題における厚生省 連中は何か肝心なことに答えてきたか? 答えちゃいないだろうが!」「これは企業だから省庁だからってことじゃなく 個人でもそうなのだ」「大人は質問に答えたりしない それが基本だ お前たちはその基本をはきちがえている 今朽ち果てて こんな船にいるのだ」「無論中には答える大人もいる しかしそれは答える側にとって都合の良い内容だからそうしてるのであって そんなものを信用するってことは つまりのせられているってことだ」"(『賭博黙示録カイジ』)

 

 冴えているのは、あくまで仮説だったが、『ライアーゲーム』における「事務局」の目的だ。「ライアーゲームの実態は最初に貸与される1億円を見せ金にした出資詐偽であり、勝負がおこなわれるほど利益が生じる」というものだ。勝者と敗者のゼロサムゲームだが、勝者は賞金の半額を支払うことでトーナメントから脱退し、利益を確定することができる。これにより、主催者は見せ金だけで賞金の半額を稼得することができるというものだ。主催者の目的は合理的で、しかも、公正に審判する動機がある。また、出資詐偽を阻止するにはトーナメントで優勝すればいいため、物語における主人公の動機付けとも整合している。

 

 ゲームのルールそのものの更改は、読者の予想の埒外にあるために、きわめて大きな驚きを与える。だが、ゲームのルールそのものを変えているにもかかわらず、なぜゲームの勝利を認めることができるのだろう。それを知るためには、ゲームとルールの関係について確認する必要がある。

 

5.ルール違反はどこまで正当化されるのか - 卑怯と非道 -

 

 グァラ『制度とは何か』はルールをゲーム理論の均衡として説明する。

 制限速度60キロの道路を考えよう。ここで人々は最高時速80キロほどで運転しているとする。このとき、客観的にはルールは制限速度80キロで、60キロではない。客観的にルールが制限速度60キロになるには、交通当局が100%の割合で速度違反を取締まらなければならないだろう。

 人々が最高時速80キロほどで運転しているのは、それがゲーム理論における「均衡」だからだ。

 つまり、ルールをゲームに外在的なものと見るか、内在的なものと見るかは、視点の違いにすぎない。

 ルールをゲームに内在化すれば、次のようにいえるだろう。無限回繰返しゲームにおいて、将来の期間のすべてで賞罰を執行することの利益が、そうしないことの利益を上回っているとき、そのルールは存在するといえる。

 ルールがゲームに外在的なものとして存在しているのは、それが「複数均衡」に関するときだ。右側通行か、左側通行かは、人々が互い違いに通行すればいいだけなので、どちらでもいい。つまり、右側通行と左側通行の「複数均衡」だ。だが、それでは人々が同じ方向に道を譲りあうという、よくある状況が出来するだろう。そのため、右側通行か左側通行かを、外在的にルールとして定めなければいけない。

 なお、このとき人々が同じ方向に道を譲りあうのは、ゲーム理論における「同時手番」だからだ。「逐次手番」なら、相手がどちらかに進むのを待って、それから反対方向に進めばいい。

 

 このゲームとルールの関係を明らかにしているのが『喧嘩商売』の「高野対石橋戦」だ。

 路上で喧嘩を売ってきた石橋に対し、高野はルールとして「目突き金的の禁止」を合意させる。だが、高野は金的を狙い、石橋をダウンさせる。石橋は「目突き金的の禁止」を合意させることこそ、巧妙なゲームプレイだったと理解する。

 もっとも、ここまでルールが根本的に変化するのは、これが喧嘩という目的が単純明快で、議論の余地のないものだからだろう。

 

 『鉄鍋のジャン!』でも、ジャンがよく卑怯卑劣な手を使っている。だが、むしろより美しく見えるのは、ゲームが料理で、その目的がより美味く感じさせるという単純明快なものだからだろう。だから、ジャンがマジックマッシュルームで審査員を錯乱させる試合は、同じ卑怯卑劣な手でも、ジャンの柄ではないように見える。

 

 これがルール違反の限界を示している。つまり、ルールを変化させる限界は、ゲームが成立しなくなるときだ。

 これが『喧嘩商売』の佐藤と金田の姿勢が「卑怯」と「非道」と区別される理由だ。金田のように安易に殺人を犯していれば、喧嘩というゲームどころか、人生というゲームすら崩壊させてしまうだろう。

 

 逆に、自分がルールを遵守していようが、ゲームの目的に対し、ルールを主観的に解釈し、相手がその解釈に違反したときに「卑怯」と罵る姿勢は愚かで醜い。

 橋口を倒したときの金田は卑怯卑劣で、勝ちに執着する姿勢は幼稚にもかかわらず、むしろ高貴に見える。

 

"「橋口‥‥恥ずかしいんだよ 自分の負けた相手を持ち上げて 目の前の相手を卑しめるお前の姿勢が」「お前は俺に意地を張るほど強くない」「「すみませんでした金田さんのおっしゃる通りです」「進道塾生得意の虚勢を張ってしまいました」と言え 言え 言わなければ今 見えているほうの左目えぐり出すぞ 言え」「‥‥‥す すみません‥‥でした 金田さんのおっしゃるとおりです」"(『喧嘩商売』)

 

 よくある詭弁は、ポリティカル・サスペンス映画で悪役がよく言う「我々は君とは違うゲームをしている」だ。実際には、「部分ゲーム」を入れ子にしたゲームをプレイしている。

 『嘘喰い』の同作者の『バトゥーキ』では、主人公の一里に対し、ライバルの羚が『喧嘩商売』『喧嘩稼業』の勝ちへの執着という姿勢を継いでいる。最終回で、羚はわざと一里が戦いにくい教会で勝負し、勝利を誇る。一里はおとなしく勝利を譲る。これが実際にゲームが成立していない状況だ。

 この状況はすでに『喧嘩稼業』で語られている。

 

"「たとえば俺が金隆山に喧嘩を売るとするじゃん さわやかな笑顔で「まいったまいった君の方が強いよ」――って言われて命を懸けた決意が一瞬で終わるわけじゃん」"(『喧嘩稼業』)

 

 『バトゥーキ』については後述する。

 

 ルールの更改という観点から、トリックは「ハングマン」が、対戦相手は「ラビリンス」が、物語における盛りあがりは「業の櫓」がもっとも優れているにもかかわらず、なぜ『嘘喰い』で「エア・ポーカー」がもっとも人気があるのかがわかるだろう。

 ゲーム理論は主として共有知識と合理性から成る。共有知識はゲームのルールの知識に等しい。ゲーム理論では、原則としてプレイヤーは対称的、すなわち無差別だ。「エア・ポーカー」ではゲームのルールの解明がラウンドごとに進行する。それが、読者に作中のプレイヤーとの一体感をもたらすのだ。

 

 『ジャンケットバンク』は、主催者である銀行の目的が、顧客に殺人ショーを見せることだという説明で、ルールの更改をゲームに内部化している。そんな「株主優待券目当てでイオンの株を買う」みたいなノリで殺人ショーを見にくるなよ。

 

 ルールによる均衡はつねに最善のものとは限らない。

 なぜなら、均衡はそれ自体が「フォーカル・ポイント」となり、自己実現的なものになるからだ。そのため、ルールの強制力がなくなっても、人々はルールに従いつづける。

 

 まさに、これこそ『天』の最終章で原田が赤木に悟らされたことだ。

 

"「………なんだかよ………縛られてるよな…これっぽっちのことでも…」「は…?」「フフ… たかだか……靴を履かずに庭に下りる… この程度のことでも…縛られている……!」〈…………〉「普段はやらねぇ……! 俺は今無理してやっているだけだ………! しかしそもそも…なんでそういう事をしちゃいけないかというと 靴下が汚れないようにとか…このまま上がれば廊下が汚れるとか…その程度のことだ」「でも…そんなものこうして 払えばいいだけのことだろ…! だから……もし気分が動けば…どんどん歩けばいい……! 何の不都合もあるもんか…!」"(『天』)

 

 ベルリン国際映画祭金熊賞受賞の『エリート・スクワッド』は、ブラジルの特殊警察作戦大隊(BOPE)を題材にしている。本作における警察は、権威のない、ただの権力だ。『エリート・スクワッド』では、哲学者のフーコーの理論が空論として否定される。フーコーの『知への意志』が哲学でした貢献は、人々がルールに従うのは、ルールとして認めているからだという自己言及性を明かしたことだ。なお、『エリート・スクワッド』におけるフーコーの理解は、おそらくブラジルの哲学者であるメルキオールの『フーコー』による。

 逆に、先進国では警察の権威が権力より重要になっている。これこそ、『嘘喰い』でカールが言う「無敵のバッファロー」の寓話に他ならない。

 

"「君達の数に勝てる権力など存在しない 君達は無敵のバッファローの群れだ」「不当なものと戦いたければ戦えるじゃないか」「不動の群れ 弱気を内に守り 隊列を崩さず立ち向かえば 個体で捕食動物より遥かに強靭なバッファローは 決して食われない完全な群れとなる」"(『嘘喰い』)

 

 そして、こうした自己実現的な均衡は、合理的判断によって選択されたものではないため、かならずしも最善ではない。そうした均衡を打破する、すなわち、より良い均衡に移行させることができるのは合理的な個人だけだ。

 これが『嘘喰い』のラビリンス編の主題だ。

 

"「これは秩序なんかじゃない 卑な行為」「秩序を正とするならその正は悪を生む 悪から生まれるのが秩序ある正って奴だ」「逆に正から生まれた悪はタチが悪い それはただの卑…」「ユッキーは」「卑だ」"(『嘘喰い』)

 

 また、そうした個人の合理的な行動も、最終的には徒手空拳の暴力に行着くだろう。だから、『嘘喰い』では智力と暴力という両極が併存することになる。最後にこのことを確認しよう。

 

6.なぜゲームをするのか - 人間と超人 -

 

 最後に、合理性そのものについて確認する。

 そもそも、人間は本質的には合理的でない。

 日経・経済図書文化賞を受賞した林貴志『意思決定理論』から、人間の意思決定の過程を見よう。

 人間が合理的なら、期待値がもっとも高い行動を選択するはずだ。だが、そうはならない。期待値は以下のとおりに客観的な数値から離れていく。

 

  1. 期待効用理論:サンクトペテルブルクパラドックス

 危険(risk)は不確実性(uncertainty)ではない。危険回避的、危険中立的、危険愛好的を加味。

  1. 主観的期待効用理論:情報と知識の問題。想定不可能と客観的不可能が同値。
  2. 非加法的主観的期待効用理論

3-1. 不確実性回避:アレのパラドックス。期待効用理論は危険評価については線形性を弱めるが、確率については保持する。

3-2. 曖昧性回避:エルスバーグのパラドックス

 2階の信念、すなわち、確率の正しさについての判断はできない。不確実性回避と曖昧性回避は一体。

  1. 非定常性:歴史依存性と時間依存性。動学的整合性に関する、指数割引に対する双曲割引。追跡可能(tractable)でない。ただし、準双曲割引で近似できる。

 

期待値:

E=Σ p[i] x[i]

 

期待効用:

U=Σ p[i] u(x[i])

 

 人間が生物である以上、期待値のとおりには行動できない。そこで、期待値に効用関数を適用することになる。

 とくに危険回避性だ。線形な危険中立性に対し、凹性、すなわち劣加法性になる(u(λz+(1-λ)z)>λu(z)+(1-λ)u(z))。予想されるとおり、危険愛好性は凸性、すなわち優加法性だ。

 ここで一言すべきなのは、アカギや『嘘喰い』の貘さんは危険愛好的ではなく、危険中立的だろうということだ。凡夫は危険回避的なため、相対的に危険愛好的に見えてしまうのだ。

 『セイラー教授の行動経済学入門』は、『ウォール街のランダム・ウォーカー』を引いて、実際には投資家が危険回避的なために機会損失していることを指摘している。

 

"「死ねば助かるのに………」「……」「……おまえ……麻雀がわかるのか……?」「いや…全然…」「ただ…今 気配が死んでいた………」「背中に勝とうという強さがない ただ助かろうとしている 博打で負けの込んだ人間が最後に陥る思考回路…………」「あんたはただ怯えている」〈……あのガキ……いいたいこといいやがって〉〈しかし…奴の言うとうりだ……!〉〈この手がどうして2筒切りなんだっ!〉〈どうかしてた……! 仮にここを凌いでも こんな発想してたら決してトップはとれない。ジリ貧必至…!〉"(『アカギ』)

 

 アカギの「死ねば助かるのに…」という名言は、まさに凡夫の危険回避性を突いたものだ。

 さらに、期待効用理論はプロスペクト理論によって修正される。

 

プロスペクト値:

U=Σ π(p[i]) μ(x[i])

 

確率評価関数π(p):逆S字性

価値関数μ(x):損失回避。μ'(-x)/μ'(x)>1。期待効用理論では=1。感応度逓減。μ''(x)≤0。

さらに、参照点依存。

 

 『銀と金』の誠京麻雀編からプロスペクト理論を考えよう。

 まず、確率評価関数だ。逆S字性、すなわち参照点を転換点として凹性と凸性になる。

 蔵前は牌山が減り、森田の大三元への当たり牌を引く確率が1に近づくと、その確率を逓増的に過大評価することになる。

 次に、価値関数だ。損失回避性により、それだけで高額にもかかわらず、蔵前は銀二に3,000億円(実際には現金500億円と2,500億円相当の与党議員の借用書)もの示談金を承諾させられてしまう。

 銀二の時宜を得た交渉の巧みさがわかるというものだ。

 

 最後に、『賭博破戒録カイジ』の地下に落ちたカイジの行動から、非定常性について考えよう。

 カイジは初任給91,000ペリカのうち柿ピー1,000ペリカを買い、残りを貯金しようと考えている。

 この計画はどうなるだろう。将来における効用は当然、現在と同等ではないため、時間割引が働く。このとき、時間割引はおのおの同じ割合のため、貯蓄と消費の優先順位は変わらないはずだ。

 だが、実際にそのときになると、カイジは豪遊してしまう。それどころか、1日目の浪費のあと、翌日に貯蓄する計画を立てるものの、実際に2日目になるとまた浪費してしまう。

 

"〈豪遊‥‥っ! カイジ2日続けて豪遊‥‥っ!〉"(『賭博破戒録カイジ』)

 

 まさに、大槻の名言に他ならない。

 

"「明日からがんばるんじゃない‥‥‥‥」「今日‥‥‥‥今日だけ(・・)がんばるんだっ‥‥‥‥‥‥!」「今日をがんばった者‥‥‥‥‥今日をがんばり始めた者にのみ‥‥‥明日が来るんだよ‥‥‥!」"(『賭博破戒録カイジ』)

 

 つまり、こうした時間割引は誤っていることになる。

 これは実際には時間割引が非線形のためだ。線形である指数関数的な時間割引の代わりに、双曲関数的な時間割引が提案されている。

 

指数割引:U[t] = e^[-δ[t]] u(t)

 

準双曲割引:U[t] = u(c[t]) + βΣ[T=1] δ^[T-t] u(c[t])

β=δで定常性は保たれ、β=1で指数割引になる。

 

洗練:

u(c[t]) / u(c[t+1]) = βδ(1+r)

s[t] = e[t] - (c[t+1]-e[t+1]) / (1+r)

(消費c、貯蓄s、所得e、利子率r)

β=1なら不要。

 

 非線形な変化は計算が困難だが、双曲割引は準双曲割引として近似することができる。

 こうして、将来の自分の浪費も予測できるようになる。これを使い、現在の自分の判断を、将来の自分に強制することもできる。

 これこそ、カイジたち45組がしたことに他ならない。

 45組は組合をつくり、基金を設立。そこに貯蓄し、強制的に消費できないようにしたのだ。

 

 これを行動経済学では「素朴な(ナイーブ)」意思決定に対し、「洗練された(ソフィスティケーテッド)」意思決定と言う。

 たとえば、上式を使えば、そのときどきに浪費癖が強まることを見越したうえで、貯蓄すべき金額を求めることができる。

 大槻がしていることがこれだ。大槻はほどほどに優柔不断で(効用関数が線形でなく)、また享楽的(時間因子が≒1ではない)だが、己を知るために丁度いい頃合いで1日外出を楽しむことができる。

 

 さらに、人間は論理的な思考もできない。

 歴史的名著のカーネマン『ファスト&スロー』は、人間は連言的な推理ができないことを示す。

 いくつかの前提から、「リンダ」が銀行員か、銀行員でフェミニストのどちらの可能性が高いか尋ねると、多数は後者だと答える。だが、論理的には前者の可能性のほうが高い。

 また、人間は選言的な推理もできない。大学生に、進級試験の合否発表の前後で旅行を提案すると、不明の時点では1/3しか受けなかったにもかかわらず、合格者は1/2、不合格は1/2超が受けた。つまり、場合分けして思考できないのだ。

 

 また、数理的な思考もできない。

 一般的に、合理的判断とはベイズ推定することだ。

 ふたたび『ファスト&スロー』から引くと、人間はベイズ推定における事前確率について判断できない。

 タクシー台数がA社85%、B社15%の町で事故。目撃者はB社と証言。信憑性は80%。多数は証言の信憑性を事実どおりだと答える。だが、実際には41%だ。「統計的基準率」を「因果的基準率」に変え、表現を事故に占める割合がA社85%、B社15%に変えると間違わない。

 また、代替仮説の事後確率についても判断できない。これが、よく言われるモンティ・ホール問題だ。

 

 この人間の合理性の限界について、『モラル・トライブズ』は「2次以上の因果関係について推測する能力を獲得しなかったため」と仮説を述べている。2次以上の因果関係は多すぎ、処理能力の負担が大きすぎるからだ。このため、人間の本能的な行動計画は直線的だ。

 まさに『ジャンケットバンク』の迷言にして名言のとおりだ。

 

"「どうだ ルールが全然ピンと来ねえだろ!!!」"(『ジャンケットバンク』)

 

 そして、人間の基礎的な能力が低いことで、『嘘喰い』の貘、切間創一、カラカル、天真、捨隈、ラロといった「超人」たちの勝負が魅力的なものになる。

 誤解してはならないのは、こうした合理性の能力は、箕輪のミオスタチン異常やジョンリョの眼筋といった、遺伝的な才能ではないことだ。

 

 経済学者のハーバート・サイモンは『システムの科学』で、限られた能力による人間の合理性を「限定合理性」として理論化している。

 人間の合理性はおおむね作業記憶と直列的な情報処理能力による。

 短期記憶はミラー『The Magical Number Seven, Plus or Minus Two』が、数列で7項前後だと明らかにしている。

 ところが、人間は訓練すれば100桁まで記憶できるようになる。これは複数の数字をリスト対にすることによる。

 また、長期記憶も同じだ。チェスのアマチュアは駒の配置を4-5個しか記憶できない一方、マスター、グランドマスターは20-25個を完全に記憶できる。ところが、棋譜でなく無作為な配置だと、4-5個しか記憶できない。これは、長期記憶の検索もリスト対を利用していることによる。

 合理性の能力の差はこうして生じる。

 

 サイモンは1個の「チャンク(リスト対)」の長期記憶に約8秒かかることから、能力の獲得には1.5万時間、10年ほどかかると結論づけている。なお、サイド『才能の科学』はこの仮説を裏付け、才能は時間投資に依存し、いわゆる天才が存在しないことを例証している。

 真経津さんはちがう。あの体力は遺伝性でなければ説明できない。

 

 全米ジュニアチェス大会王者、世界チェス大会ジュニア部門ベスト4のジョシュ・ウェイツキンは、なぜか太極拳の世界大会王者に輝いている。

 『嘘喰い』を連載しながら、なぜかボクシングの大会に出場していた迫稔雄のようなものだ。

 ウェイツキンは著書『習得への情熱』で「僕が得意なのはチェスでも太極拳でもない。習得の技法なのだ」と語る。

 やはり、ウェイツキンも『習得への情熱』でサイモンの理論を支持する。

 『バトゥーキ』の主題は青春でも、家族でも、裏社会の抗争でも、異種格闘技戦でもない。カポエイラの啓蒙だ。『バトゥーキ』の構成は、ギャングや半グレが関わっているだけで、ほぼ進研ゼミの広告マンガだ。というより、進研ゼミの広告マンガにギャングや半グレが登場すれば、およそ『バトゥーキ』と同じ作風になる。

 だから、『バトゥーキ』の主題は総合格闘技との対決で「カポエイラは最強の格闘技ではない。ただし、格闘技に留まらない魅力がある」という結論が出たときに、およそ決着している。

 ただし、羚というキャラクターを通じ、スタミナが続けばカポエイラは最強の格闘技でありうるとも示唆している。羚の多血症は箕輪のミオスタチン異常に匹敵する発見だ。『喧嘩稼業』でも、相撲が最強の格闘技でありうるために、ミオスタチン異常を使用している。

 

 このとおり、論理的思考と数理的思考の能力は、合理性について本質的ではない。

 クイズやナゾトキについてエリート主義だと言う人々がいる。だが、私たちは将棋の名人に劣等感を覚えたりはしない。自分たちと関係がないからだ。クイズやナゾトキについて差別されているという人々は、それらの課題を解けないからではなく、解けるから不満を感じている。だから、そうした人々の自分たちも課題を解けるようにすべきだという主張は、ただ意味がない。

 合理性とは、合理的に行動する方法を知っていることだろう。つまり合理性は、合理性の能力を得る方法を知っていることも含む。もっとも、ギャンブル漫画のゲームくらいなら、合理性の能力は紙と鉛筆があれば足りる。

 

"「分かった ちょっと待て」「俺が今 表にして計算してやる」"(『嘘喰い』)

 

 マクレイ『フォン・ノイマンの生涯』には次のような逸話が書かれている。20キロ離れた2台の自転車が時速10キロで直線上を走っている。この2台がすれ違うまでに、時速15キロで飛ぶハエはそのあいだを往復で何キロ飛ぶか。これはひっかけ問題で、すれ違うまでに1時間なのだから、答えは15キロだ。この問題にノイマンはしばらく考え、「15キロ」と答えた。答えを知っていたのかと尋ねられると、「無限級数の和を計算するだけだろう」と答えたという。

 ギャンブル漫画の読者にとって魅力的なのは、ノイマンの計算能力よりも、ひっかけ問題に気づく発想力のほうだろう。ちなみに『フォン・ノイマンの生涯』によると、ノイマンはめちゃくちゃギャンブルが弱かったらしい。

 『嘘喰い』の「業の櫓」編の誤爆した人主は、合理性の能力について、暗算ではなく紙と鉛筆を使った場合だ。

 これがクソ漫画の「頭の良い」ことの描写が頭の悪いことの理由だ。どのように能力を使えば課題を解決できるかについて、無能なのだ。

 なお、計算能力については、須田良規井田ヒロト東大を出たけれど』がゲームの強さとして魅力的に描いている。

 

 『嘘喰い』が画期的だったのは、そうした構想力を描いたうえで、合理性の能力を描いたことだ。

 しかも、そうした合理性そのものを主題にしている。

 『嘘喰い』の登場人物はおおむね智力と暴力に役割が分かれている。そこにおいてカラカルは、ウェイツキンや迫稔雄のように、智力と暴力の両方を極めている。だが、そうした習得への情熱は超人願望とも接している。

 「業の櫓」編でカラカルは超人になることに失敗し、敗北する。

 

"〈1万メートル…? 見誤ったか… ……私は存在出来なかった…… たかがこの3百メートル程度の塔にさえ…〉"(『嘘喰い』)

 

 超人思想と神秘体験の場としての旅客機と、主舞台である東京タワーが結実した名場面だ。カラカルが賭郎勝負をせずに退場したことは惜しいが、その価値はある。

 一方、捨隈は合理的思考の能力を極めつつ、危険回避性を限界まで高めた人物だ。それでは意味がないということが、カラカルの敗北と並ぶ「業の櫓」編の主題だ。

 「業の櫓」編の長大化もやむを得ないところだろう。

 

 じつのところ、現実におけるギャンブルの強さは、ただ合理性を徹底することだ。

 既述したとおり、『セイラー教授の行動経済学入門』によると、個人投資家は証券市場で危険回避性のために損失を被っている。

 また、同書は競馬についても分析する。競馬はオッズ比が実際の確率から離れているため、長期的には稼得することができる。とくに大きいのが大穴バイアスで、不合理に大穴馬券を買う人々がいる。セイラーの「人々は勝つために競馬をするのではない。なぜなら、競馬ファンの仲間同士で競馬場に行っても、グループで賭けないからだ」という指摘は爆笑だ。

 名著のテトロック『専門家の政治予測』は合理的思考の能力についての研究だ。本書は予測の能力を1. 経験に対する信念の客観性 2. 信念の論理性 の2つで定義している。

 本書はバロン『Thinking and Deciding』を引き、気象学者とプロのブリッジプレイヤー、ポーカープレイヤーの判断は完全に確率どおりになっていることを挙げる。また、ポーカーの世界大会のタイトル保持者であるアニー・デュークは、『確率思考』で、判断をただ確率に近づける方法を説く。

 だが、こうした強さはギャンブル漫画の題材にならないだろう。くり返しになるが、『東大を出たけれど』は例外的にこうした強さの魅力を描いている。

 

 経済学における合理性は一般に効用最大化のことだ。だが、サイモンはそれが現実的でないことを指摘する。

 買物するとき、予算制約線のもとで効用最大化する品物の組合せを選ぶことは組合せ最適化問題だ。これはNP完全な問題で、計算時間が指数関数的増加を上回る。当然、そんな計算をしているはずがない。実際には、ただ「要求水準」を上回る選択をしている。サイモンはこれを「最大化」に対し「満足化」と理論化する。

 ゲーム理論についても、プレイヤーと選択肢の数が増えるほど、同じ問題が発生することはわかるだろう。

 この「要求水準」は「歴史依存的」だ。

 効用最大化は積分可能でなければできないため、非経路依存性を前提としている。

 

 さらに、効用最大化をおこなっても、数学的には開区間や半開区間でなければならない。

 でなければ、サンクトペテルブルクパラドックスが生じる。コイン投げで表が連続で出た回数が賞金となる賭けで、それに値する賭金は無限に発散する。

 また逆に、クロムウェルの差止め規則の問題も生じる。コインが不正なものでないと100%の確率で仮定すれば、裏が何回連続で出ても、不正な確率は0%に収束しない。

 

 つまり、完全な合理性は時間中立的であることを必要とする。さらにそれは、非物質的であることと接している。

 それが切間創一の「超俗」と「天命」の意味だ。

 『嘘喰い』で智力と暴力の両方で最高位にいるのは、おそらく切間創一だ。少なくとも、切間撻器はそうだったようだ。だから、しばしば切間創一は「超個体」として賭郎と自身を同一視している。

 サイモンは「機能」を「目的の達成における主体と環境との関係」と定義する。逆にいえば、「機能」の限界は主体と環境の区別による。覚醒したとき、切間創一はこの限界を超越する。

 

"「私にとって完璧とは 己に根差す機能を自由自在に操ることである」"(『嘘喰い』)

 

 超俗的な哲学者であるパーフィットは『理由と人格』で、人間が時間依存的なことを論証する。逆に、人間が時間中立的なのは、その対象が他人でかつ死人のときだけだ。

 ここから、パーフィットは無私になることを推奨する。"その変化がわれわれの感情にもたらす影響は、人によって違うかもしれない。(中略)私は真理が解放と慰藉をもたらすと感ずる。おかげで私は自分自身の未来や死について関心を持つ程度が小さくなり、他の人々について関心を持つ程度が大きくなる。私は関心のこの拡大を歓迎する。"。

 言うまでもなく、時間中立的であることは、すべての歴史について知っていることを要求する。

 

 期待値と期待効用の区別は、古典であるナイト『リスク、不確実性、利潤』の影響が大きい。

 本書によれば、リスク、すなわち危険と不確実性は異なる。すでに知られている危険は問題ではない。なぜなら、統計学的に、保険によって無効化することができるからだ。だから、逆説的ではあるが、真の問題は、その問題がまだ知られていないことを前提とする。

 利子は生産性の差と耐忍のために、あらかじめ定められたものだ。それに対し、利潤は不確実性を引きうけることで発生する。そうするものが経営者だということだ。

 なお、『専門家の政治予測』は原理的に予測が不可能な4つの場合を挙げている。1. 経路依存性(タイプライターの配列) 2. 複雑性(リンカーンの護衛、フェルディナント大公の運転手) 3. 戦略的相互依存状況 4. ブラックスワン理論

 『リスク、不確実性、利潤』のいう企業家あるいは経営者は、人間そのもののことだろう。

 これが『銀と金』の名言「死人の考え」の意味だ。

 

"「そう!」「それ庶民の夢っすよ! 五十億の金利ったら仮に年六%で えーと……‥一億で月五〇万」「どへー月二五〇〇万……‥! ひーっ」「ぼうず……」「それは死人の考えや………」"(『銀と金』)

 

 人間の生は記憶を得て、不確実性を減らしていくことだ。だが、生には限りがある。そのことを受けいれられず、ただ合理性の能力を肥大させていたのが蔵前や鷲巣だ。

 逆に、そうした生の意味がなく永らえても仕方がない。それが、死ぬまで自分自身でいつづけるために、赤木が生前葬をおこなった理由だ。

 

 「ハンカチ落とし」で切間創一は記憶の欠如のために敗北する。

 超俗であることとは時間から独立していることだ。切間創一の敗因が記憶という歴史に関するものだったことは、超俗そのものの否定という意味があったのだろう。

 

 切間創一が勝利したのは「コインの幅寄せゲーム」だ。ここで、蜂名直器こと切間創一は時間を超越している。

 つまり、ここで切間創一はギャンブルそのものを超越している。

 

"「君にギャンブルは向いてない …… …いや」「…… 僕は今まで 見た事がない ギャンブルに向いてる人間など」"(『嘘喰い』)

 

 合理性について、ここまで目的は不問にしてきた。

 だが、「機能」を「目的の達成における主体と環境の関係」と定義するなら、逆に主体と環境の相互作用を機能として、そこに事後的に目的を想定しているともいえる。擬人法的な考えといわれるものだ。

 エルスター『酸っぱい葡萄』は目的についての判断も含む、合理性の定義を提唱する。とくに問題となるのが「適応的選好形成」だ。なお、「選好」は効用最大化の効用と数学的に同値で、同じ意味だ。

 限られた可能性しかないとき、人々が環境や能力に合わせて欲求を縮小させるというものだ。このとき、本人は満足していても、客観的には不合理だ。身近なところでは悪趣味だ。高尚な文化を利用できてなお悪趣味なら、それが自由なものだといえるが、実際には、不自由で、ただ低俗な文化しか利用できないために悪趣味なことが多い。詳しくはこの要約を参照されたい(ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄』要約(with『ちいかわ』))。

 セン『不平等の再検討』と、経済開発に携わる哲学者のヌスバウムの『女性と人間開発』は「適応的選好形成」の概念を採用している。ただし、ヌスバウムは自由の獲得も相対的な価値しかないことを注意している。ここでは『理由と人格』の「鳥のように飛びたいという願望も合理的だ」という主張が挙げられている。

 余談だが、ヌスバウムはこのために独立した「基本的善」の基準が必要だと説く。『嘘喰い』の「ファラリスの雄牛」編における、梶と郁斗や滑骨との思想対決はまさにこれだろう。

 

 さて、私たちは結論に達したようだ。

 ところで、『バトゥーキ』は最終章でB・Jがビゾウロと対決する。これは『エアマスター』の「深道クエスト」を物語の中心に構成したものと見ていい。「深道クエスト」が印象的なのは、ただ脇役が活躍しているからではなく、深道という、読者と同じ視点のキャラクターがラスボスと対戦するからだ。読者と同じ視点をもつこととは、作中で完全な合理性が達成されていることに他ならない。

 B・Jの無感情と合理性という主題は『嘘喰い』の捨隈と通底している。そして既述したとおり、羚に継承されている。

 その一方で、最終章での、一里とアルナとペドロ、アグリと一里、ギラとレグバという3組の家族の物語はきわめて感動的だ。この主題は家族愛で、愛とは不合理なものだ。

 

 スタノヴィッチは人間の合理性について、クワインことばと対象』の「ノイラートの船」という比喩を使う。私たちは船をはじめから建造するのではなく、航海中に改造していかなければならないということだ。

 「業の櫓」編で、貘さんはまさにこの船の比喩を使う。

 人間の意味ある生は合理性を高めていくことだが、すべての生は不合理に決まった歴史によるし、将来も完全な合理性に至ることはない。

 『嘘喰い』は頑健に構成されているが、「廃ビル脱出」編から「ハングマン」編に対し、「ラビリンス」編から「業の櫓」編、これに対し「プロトポロス」編から「ハンカチ落とし」編は、明らかに新たに構想している。

 『嘘喰い』という作品そのものが「ノイラートの船」なのだ。

 

○付録 ギャンブル漫画の主人公の戦略

 

 ここまで経済学の概念を利用してきた。

 ロス『経済理論と認知科学』は、ミロウスキー『Machine Dreams』の経済学の分類に解釈を与える。ミロウスキーの分類法は、経済学とは問題解決方法の発見だというものだ。そして、それぞれの方法の代表的な論者を挙げる。

 ロスはそこに"経済学の哲学的基礎付け"を与える。

 要するにタイプ別キャラクター診断だ。これをギャンブル漫画に利用しよう。

 

  1. ケネス・ジャッド:計量経済学:徳倫理学
  2. アラン・ルイス(Alain Lewis) :新古典派経済学功利主義論理実証主義
  3. ハーバート・サイモン:実験経済学:記号論
  4. ダニエル・デネット行動経済学:物理主義
  5. ジョン・フォン・ノイマンゲーム理論:機能主義

 

  1. クソ漫画の主人公
  2. 桃喰リリカ(カワイイ電卓)、御手洗暉(キモイ電卓)(※このタイプがギャンブル漫画で主人公になることはない)
  3. 伊藤カイジ、早乙女芽亜里
  4. 斑目貘、赤木しげる
  5. 秋山深一、切間創一

 

○必勝法と逆転劇一覧

 

○『銀と金

 

○「ポーカー」

・ルール:-

イカサマ:カウンターテーブルを通した透視。

・展開:

 透視の逆用。

 敵が♠J♥9から♠Jを捨てたことを透視。かつ、すり替え防止で捨札にタバコの葉を乗せる。すり替えのための停電が起きる。だが、持札には♠Jがあった。

 敵は2枚目の♠Jの存在を告発。しかし、2枚目の♠Jは、ゲームの盤外である捨札に仕込まれていた…

(備考:手汗の伏線)

 

○『賭博黙示録カイジ

 

○「Eカード」

・ルール:X1枚とY4枚、Z1枚とY4枚の2組を使用。XはYに、YはZに、ZはXに勝つ。交互に1枚ずつ出して開示。決着がつくまで続ける。3戦ごとに役を交代。Zの役での勝利は配当率が5倍。全12戦。

イカサマ:嘘発見器

・展開:

 第1戦:有利なXの役。1枚目にXを出し勝利。

 第2戦:1枚目にXを出し勝利。

 第3戦:保守的になる。敵が読心術を示唆。3枚目にXを出し敗北。

 

 第4戦:不利なZの役。賭けも落とす。2枚目にZを出し敗北。

 第5戦:あえて先出しの2枚目にZを出し敗北。

 第6戦:賭けを上げる。意図的に2枚目にZを出すが、その思考を嘲笑され敗北。

 

 第7戦:決定的な敗北で戦意喪失。5枚目にXを出し敗北。

 第8戦:あえて1枚目にXを出し敗北。

 第9戦:2枚目にXを出し、思いがけず勝利。敵の反応からイカサマに気づく。

 

 第10戦:敗北。嘘発見器イカサマを看破。

 第11戦:賭けを聴力から命に変え、乾坤一擲の勝負。イカサマを逆用、勝利。

 第12戦:初の実力勝負。読み合いで勝利。

 

○『賭博破戒録カイジ

 

○「チンチロ」

・ルール:-

イカサマ:456サイ

・展開:

 イカサマを暴露。特製のサイコロを使う合意を得る。常識外の全面1のサイコロを使用。

 

○『賭ケグルイ双

 

 河本ほむら原作の漫画は読むほど頭が悪くなる。そのため、『賭ケグルイ』のスピンオフとして『賭ケグルイ双』が連載開始したとき、まともな頭脳戦が展開されていることに、ファンたちは「河本先生、なにか悪いものでも食べたんじゃないだろうか…」と心配した。

 

○「スリーヒットダイス」

・ルール:サイコロの1-3、4-5の出目をU、Dとして、さきに3連続のパターンを当てたほうの勝利。

イカサマ:回答用紙のすり替え

・展開:条件付き確率のため、パターンの頻度に差がある。DUU、DDU、UDD、UUDが最頻。

 しかも、パターンを特定すれば、また頻度に差が生じる。回答用紙のすり替えで後出し。

 除光液で回答を偽装して逆転。

 

○「魔法のダイスゲーム」

・ルール:334488,115599,226677の3種類のサイコロを使用。出目が大きいほうの勝利。

イカサマ:-

・展開:平均値は同じだが、条件付き期待値で後攻が有利。胴元として荒稼ぎするが、マーチンゲール法で賭場荒らしされる。

 

○「カップリングギャンブル」

・ルール:グループ間でマッチング。マッチングの成否が勝敗になる。

イカサマ:発表順の順送り

・展開:連続でマッチングが成立。情報漏洩が疑われる。

 実際には、裏切り者はマッチングの提案を1つ前に順送りして提出。相手は発表後に諾否を決めることができていた。

 

○『ライアーゲーム

 

○「少数決」

・ルール:少数派の勝ち残り。1人か2人になった時点で決着。

イカサマ:-

・展開:参加者は22人。

 8人でチームを組み、つねに同数で分かれる必勝法を取る。

 だが、じつは黒幕が同じ必勝法で3組を組織していた。

 他の組と内通して逆転。

 

○「リストラゲーム」

・ルール:複数回、1人5票で最下位を決める不人気投票。

 ゲーム中は自由な売買が可能。売買契約は審判が履行させる。

イカサマ:-

・展開:参加者は9人。

 黒幕が孤立させるように誘導。一方、たがいに全票数を投票する必勝法を提案。他の7人が結託しても、得票数は5票のはず。

 だが、黒幕は10票を得票していた。付則のルールを利用し、取引を売買していた。

 他の7人と秘密裏に同時に取引。1抜けし、自分の票を最下位候補に売る。最終回に近づくほど価格は高騰。

 

○「密輸ゲーム」

・ルール:2チームで対戦。各回、代表者が0-1億円を密輸。他方の代表者が密輸額を提示。上回っていれば没収。下回っていれば密輸。密輸額が0円のときは、提示額の半額を支払う。

 密輸額の合計が多いチームの勝利。

イカサマ:内通

・展開:代表者の個人責任。つまり、チーム戦である以上に個人戦。そのため、誰も密輸しないし検査しないはず。

 だが、敵チームは連続で1億円を密輸。ついに自チームのひとりが1億円の密輸を看破。

 提示額は5000万円か1億円だろうと推測し、5001万円を密輸するが、看破される。

 敵チームのひとりと自チームのひとりが内通していた。

 敵チームの残りと内通して逆転。

 

○「エデンの園ゲーム」

・ルール:

 X、Y、Zのいずれかに投票。

 Zが無投票なら、XとYで多数派に賞金、少数派に罰金。引分けは無効。全員同票なら、全員に罰金。

 原則として、Zに罰金、その他に賞金。Zで全員同票なら、全員に賞金。

 Zが1人のみの場合、高額の罰金。Z以外が1人のみの場合、賞金とボーナス。

イカサマ:押印と投票用紙の偽造。

 

・展開:全13回戦。参加者は11人。

 

・序盤

 1回戦:2人が裏切り。Zの投票はなくなる。

 2回戦:フクナガが6人で多数派工作。多数派工作をされれば、多数派のみ賞金か、全員罰金か。アキヤマが多数派の投票を看破し、全員罰金。

 3回戦:同前。

 4回戦:アキヤマがXに投票すると宣言。多数派が裏切り、X7票、Y4票に。

 

・中盤

 5回戦:仕切り直し。再度2人が裏切り。

 6回戦:X1票、Y10票。Zのアイテムにメッセージを残していた。メッセージに気づいた参加者は未投票でスタンプのみ置いた。マヌケが見つかる。

 7回戦:全員のスタンプを1人が預かる戦略を取る。だが、X1票、Z10票。天才的な裏切り者はこの展開を予測、あらかじめスタンプを使用していた。

 8回戦:X4票、Y6票、Z1票。Zはアキヤマ。裏切り者がスタンプの戦略を逆用した。アキヤマは退場。

 9回戦:裏切り者が名乗る。裏切り者はナオかもう1人のスタンプでZに投票したと宣言。

 結果はX6票、Y3票、Z1票。だが、Zは裏切り者のものだった。スタンプを逆用し、裏切り者を陥れた真の裏切り者がいた。裏切り者の宣言はそのための防衛策だった。

 

・終盤

 10回戦:アキヤマが復帰。アキヤマはXのアイテムを焼却。結果はY2票、Z9票。

 11回戦:X10票、Y1票。Xのアイテムをあらかじめ隠していた。

 12回戦:Y10票、Z1票。Zは真の裏切り者のもの。計票は電子回路による。これを利用し、アイテムを偽装した。

 6回戦で、スタンプを逆用できたのは投票順から3人のみ。9回戦で裏切り者に先手番を取られた1人を除外。さらに今回、真の裏切り者の代理投票のみしないことで、真の裏切り者を特定。

 13回戦:Z11票。

・備考:囚人のジレンマとその対策、囚人のジレンマ入れ子化と、囚人のジレンマを使い倒した傑作。

 

○『ジャンケットバンク

 

○「ウラギリスズメ」

・ルール:一方がXとYのどちらか選び、もう一方が当てる。ただし、賭金はXで2倍、Yで1/2倍になる。

イカサマ:通し

・展開:イカサマを看破。敵を動揺させ、定石(Yの選択)を外させる。

 

○「気分屋ルーシー」

・ルール:2人のプレイヤーが箱の5面の5箇所から1箇所ずつ指定。交互に当てる。

イカサマ:偏光性の塗料

・展開:イカサマが看破される。しかも、同じ箇所を指定したと挑発される。実際、その通りになる。

 箱そのものの交換を疑う。

 相手は全箇所を指定していた。最終面のみ正常に指定。

・備考:『嘘喰い』の「ラビリンス」の換骨奪胎。

 

○「ライフ・イズ・オークショニア」

・ルール:全4ターン。1-4の4枚の競売札を使用。2枚以上、同種の競売札が使用された場合は無効。2回先取で勝利。

 落札価格が累計16点を超えると失格。

 2対2。3ラウンドの先勝で勝利。

イカサマ:-

・展開:罰は電気。

 1勝1敗1分で第4ラウンド第1ターン。4,2/1,1で落札。一方、累計15点に達し、死の淵に立つ。

 絶体絶命の状況下で思考。

 第2ターン。3,3/4,3で死を回避。一方、敵に落札させ、累計13点に追いやる。

 第3ターン。残る競売札は[1,2],[1,4]/[2,3],[2,4]。すでに敵は3で落札できない。相方が4で阻止することも不確実。しかも、第3ターンと第4ターンは同値。

 2,1/2,2で勝利。第1ターンの時点でここまでの推移を予測していたことになる。

 

 主導権を確保。しかし、勝利を確定させず、第11ラウンドまで延長させる。

 第2ターン。残る競売札[2,3],[1,4]/[2,3],[1,4]で累計点15,11/13,14。1人を除き、全員が詰みに。逆上させ、警察の介入を示唆させて粛清させしめる(ゲーム開始前の伏線)。勝負を超えた勝利。

・備考:オークションなら真実表明入札が支配戦略になる。よって、問題はバッティング。

 とくに、この2対2のルールでは、4,3と3,4の順番に提出すればかならず引分け以上になる。そのため、むしろ主目的は敵に16点以上を取らせるという殺し合いだろう。顔のいい成人男性を椅子に拘束して電気拷問するだけだと、殺人ショーとはまた別のいかがわしいショーになるし。

 村雨さんが獅子神に4から降順に提示するように指示したのは、既述のとおり、落札についての必勝法ではある。村雨さんだけで戦うつもりだったのだろう。

 超思考と時限爆弾のシーンが激アツだったから、獅子神さんには読心術に開眼しないでほしい…

 

○「サウンド・オブ・サイレンス」

・ルール:3つのアイテムに0、2、3ポイントが設定。交互にアイテムを配置、選択し、さきに累計10ポイントに達したほうの敗北。

 アイテムはレコード。ラウンドごとにペナルティの音響兵器で拷問。

イカサマ:-

・展開:レコードのジャケットを交換して攻防。

 レコードは外装で、電子回路が本体。すでに3枚のレコードとも電子回路を交換したと宣言。

 敵は電子回路を探すが、見せた電子回路は無関係のもの。

 本来、音響兵器は耐えられるものではなかった。敵は1度のペナルティで昏倒。

・備考:『嘘喰い』の「マキャベリストゲーム」の換骨奪胎。

 真経津さんの脳筋ゴリラ戦法の第1段。

 

○「ジャックポット・ジニー」

・ルール:X4枚、Y1枚、Z1枚の6枚のカードを使用。Xはポイントを4倍に増加。Yは相手のポイントの1/2を奪取。Zは相手がYのときのみ、相手のポイントの9/10を奪取。YとZは引分けのときは無効。

 3ラウンド。

 ポイントは金貨。敗者は累計ポイントの金貨で生埋めになる。

イカサマ:-

・展開:決着後もポイントの清算が終わるまで監禁が続く。そのため大勝で衰弱死。

・備考:『エンバンメイズ』の神山戦の類例。

 

○「アンハッピー・ホーリーグレイル

・ルール:1個のαと2個のβ、1個のAと2個のBをそれぞれ配置。βのとき、Aはマイナス1ポイント、Bは2ポイント。αのとき、Aは2ポイント、Bはマイナス1ポイント。

 前半で各々1個を選択、αβ側の得点になる。後半で役割を交換、各々残る2個から1個を選択、AB側の得点になる。

 さきに10ポイントに達したほうの敗北。

 アイテムは毒。

イカサマ:-

・展開:ゲームを楽しもうと称して解毒剤であるAを飲ませ、反則負けさせる。平静を装っていただけで、実際は解毒剤の薬効は乏しかった。

・備考:2種類の毒はアルカロイド系のアコニチンとテトロドトキシンをモデルにしているのだろうが、具体名を伏せて、かえって状況が曖昧になっている。しかも、のちに毒に関するルールは茶番だったという補足説明をしている。

 真経津さんの脳筋ゴリラ戦法の第2段。

 

○「ブルー・テンパランス」

・ルール:3枚のカードが1ポイント、10ポイント、ラウンド数の2倍のポイントを表す。一方は各カードの正負を決めて配置。ただし、すべて同じ正負にはできない。もう一方が、自分か相手を指定して選択。

 相手との大差をつければ勝利。

 ポイント差は気圧の加減圧で、2ラウンドごとに執行。

イカサマ:-

・展開:秘密のルールが存在していた。100ポイント差をつけると敗北。

 秘密のルールに注意を逸らし、急激な減圧をさせて逆転勝利。

・備考:気圧による拷問は『特捜部Q』からの着想か。

 真経津さんの脳筋ゴリラ戦法の第3段。

 

○『嘘喰い

 

○「セブンポーカー」

・ルール:テキサスホールデムイカサマに対する厳罰。

イカサマ:ジュースカード

・展開:敵がジュースカードで透視。すり替えを看破。イカサマを告発しようとする。

 だが、すり替えたカードは扇状の持ちかたのために見えていた部分のみ。ただの切れはしだった(伏線あり)。その意味は、敵がフォールドしなければジュースカードのイカサマを告発するということ。脅迫で勝つ。

 

○「ラビリンス」

・ルール:6×6のマスに2点の「入口」と「出口」、20本の「壁」を設定。2人のプレイヤーがそれぞれ「壁」に当たるまで解く。

イカサマ:転写

・展開:消しゴムで油性マジックペンの転写を防ぐ。かつ、紙の裏に油性マジックペンで描き、偽の「壁」を転写させる。

 シャープペンを使用させないように没収する、あらかじめシャープペンで描いていた用紙を提出させないように1度破棄させる、シャープペンの消しゴムの破片を使用、と攻防。

 

○「ニム」

・ルール:ニム

イカサマ:-

・展開:ビルの全3階にそれぞれ設けたスイッチでニム。ニムには2進法を使用した必勝法がある。1階のスイッチを単純に全押しすることを狙った不意打ち。

 遠隔操作の後攻に対し、スイッチを物理的に連動させて勝つ。

 

○「ファラリスの雄牛」

・ルール:体内時計ゲーム。誤差の秒数は蓄積し、最下位のものへの罰になる。最上位のものが罰を執行するか、もう1巡するか選択する。

 決着には関係しないが、即時に罰を執行できるピタリ賞がある。

イカサマ:モスキート音

・展開:拍子計でイカサマをしていることを察知。ペースメーカーだと推測し、レーザーポインターを照射。だが、無為に終わる。

 次いで、席替えを要求。それも無為に終わるかと思われたが、じつは、すでにイカサマの正体を看破していた。モスキート音を発するスピーカーに鏡を立てかけ、その震動をレーザーポインターの反射で見ていた。

 "(ある意味では郁斗にこれほど似合わない言葉もないが)(違うんだよ)(この場にいる誰より郁斗にはある優れた能力(ちから)がある)"というトリックが見事。

 

○「マキャベリストゲーム」

・ルール:6枚のマスをコマが順次、移動する。6人のプレイヤーは10票ずつ投票権を所有。第1位と第2位の投票数の差だけコマが移動する。最上位が同数の場合は不動。自分のマス目にコマが2回止まると敗退。

イカサマ:-

・展開:

 ①-⑥のマス(原作ではA-F)。まず①が見せしめで敗退。コマは②に。②者は買収工作。次いでコマは⑤に。

 ②者は安全策で5票の投票を図るが、投票権の売買の誤情報で6票を投じ、自滅。

 次いでコマは③に。③者の敗退が他の全員の勝利条件。談合で、まず残数7票同士の協力が提案。次いで、全員の残数が16票を超えるため、全員で協力。投票用のカードを開示し、全員で1票ずつ投票。

 ルールには穴があった。カードを使用しなければ、自動的に1票の投票が計上される。そうしてカードを秘蔵。が、それも誤解。投票権はカードのICチップで管理されていた。

 一方、③者は全員のカードのICチップを破壊。所持数を0票にする。放置されていた①者のカードで逆転。ゲーム開始時点、すでに①者のカードを奪っていた。そのために自動的な投票もされなかった。

 

○「ハングマン」

・ルール:ババ抜き。

 ババに1-5の数字が割当てられ、合計失点が11に達すると敗北。ただし、作中では3敗してはならないというだけの役割。

イカサマ:人工視覚

・展開:

 まず2敗。

 その後、まず1勝。敵が運任せにするが、また1勝。

 "「何が起こっているんだ!?」"の驚異の展開。

 ババであるハングマンのカードを引いたはずが、それは落書きした「8」だった。種明かし。人工視覚でギャンブルの実況中継をそのまま窃視。実況中継は監視カメラの8台を順番に切替えていること、その周期を確認。つまり、故障中の1台で盲目になる周期を。

 実力で、すなわち運任せで勝負していれば、まだ勝目があったととどめを刺す。

 

○「実物大ラビリンス」

・ルール:6×6の迷路を解く。進んだマスの総計だけポイントが蓄積。プレイヤー同士が同じマス目で遭遇したとき、ポイントを消費、上回るほうが実力行使の権利を得る。

イカサマ:色聴

・展開:

 迷路の法則は左折か右折のみというものだった。敵は色聴で他のプレイヤーの進行状況を把握。

 迷路上には罠のマス目があった。敵のイカサマを看破(開始地点が角部屋でないことを見抜いた、「み…」の失言。なお、イカサマの本質は超聴覚で、共感覚かは重要ではない)。救助に来た審判の動きで、自分の動きを偽装。

 さらに、そもそも審判に盗聴器を仕掛けていた(ゲーム開始以前の伏線)。

 

○「業の櫓」

・ルール:数当て。それぞれ1-10のうちの1つを選択。合計数を申告。挑戦の機会は3回。ただし賞罰を受けることで、勝敗と無関係に挑戦できる。このとき申告した数は公開される。また、論理的に不可能な数は申告できない。

イカサマ:-

・展開:

 調査の1ラウンドでそれぞれ11、10を申告。

 挑戦の1ターンで敵は8を申告。敵は実力行使で殺しにかかる。

 調査の2ラウンドではそれぞれ12、14を申告。

 挑戦の1ターンで13を申告。

 調査の3ラウンドでも13を申告。ここまでの全情報で自分の数は6か7の2択に狭まる。敵は15を申告。

 挑戦の2ターンで敵は16を申告。確実な推測のはずだったが失敗。じつは、敵の8の申告はブラフ。直接的に勝敗を決める挑戦で、論理的に不可能な数を申告するはずがない。そのルールの間隙を利用。

 だが、ブラフは看破されていた。敵の殺意は偽装(スーツのボタンを閉じなおさなかった。殺そうとして、そのじつ、警察の狙撃手からかばった)。13の申告はブラフだった。

 15か16の2択を外したときに疑問を持つべきだったと心理分析。さらに、自分の数が9か10という状況で、あらためて2択を提示。みずから9の証拠まで見せるが、敵は自滅。

 

○「エア・ポーカー」

・ルール:5回戦。プレイヤー2人。各カード5枚、チップ25枚。

 カードには6-65までの任意の数字。ラウンド数と同じ参加料を支払わなければならない。カードを選択、開示後、ベット。特殊なペナルティ。

 チップは約5分のエアタンク。水中で行い、10秒以上、離席すると敗北。

イカサマ:通し、圧力計の偽装(※どちらも主人公側)

・展開

 第1回戦:手札は各々25,26,36,39,45/8,15,44,47,63。

 36/15を提出。勝敗の法則を知るためにフォールドはできない。一方、参加料の総数15点を超える敗北はできない。最終的に8点をベット。15が勝利。

 第2回戦:39/8を提出。エアタンクをすべて放出し、無呼吸で15点を総賭け。39が勝利。

 勝敗の法則が解明される。カードの数は、トランプの所定のデッキから作られる、最善の役の数字の合計数。

 敵に法則を伝え、思考で酸素の消費を促す。

 第3回戦:残るカードは25,26,45/44,47,63。25,45は5の倍数で、準最強のカードのストレートフラッシュ。47は最強のカードのロイヤルストレートフラッシュ。

 45/47を提出。持点は29/16点。5点をベット。参加料以下の9点差にはならないはずが、特殊なペナルティ。条件は、役で同じカードを使ったときの敗北。ペナルティはベットと同点の減点。

 第4回戦:残るカードは25,26/44,63。持点は17/19点。

 敵がエアタンクの圧力計の偽装に気づく。

 26/63を提出。敵は8点にレイズし、フォールドする。

 第5回戦:25/44を提出。第4回戦の時点でストレートフラッシュは作れなくなっているはずが、協力者が拷問のペナルティを受忍し、意図的に敗北していた。通し(テーブルを叩く伏線)でも暗号を使用していた。逆転勝利。

 酸素切れを待つ敵に、圧力計の偽装が偽装だったと示してトドメ。

 

○「ハンカチ落とし」

・ルール:1分間に先攻、後攻がある時点を選択。差が後攻の罰になる。ただし、後攻の選択のほうが早かったときは、1分が罰になる。また、そのとき罰が執行される。先攻と後攻は交互に交代する。執行された罰、または未執行の罰が合計5分を超えると敗北。

イカサマ:閏秒(※主人公側)

・展開:

 

・第1回戦表:罰は臨死。先攻の貘は失敗、いきなり臨死。

 裏:貘が切間創一の正面に立つ奇策。蓄積24秒。

・第2回戦表:貘は蓄積25秒。

 裏:切間創一は開始5秒で失敗。臨死1分24秒。

・第3回戦表:貘は冴えて蓄積4秒。

 裏:切間創一は1分の安全策で蓄積36秒。

・第4回戦表:貘は蓄積3秒。

 裏:貘は0秒。切間創一は保険的な34秒でそのまま蓄積。

・第5回戦表:貘は開始1秒で成功。あえて臨死することで蓄積の最大容量を増やすという逆転劇。さらに、蘇生の保証がないという再度の逆転劇。

 裏:貘は0秒。切間創一は開始15秒で成功、そのまま蓄積。

・第6回戦表:貘は失敗、臨死1分33秒。

 裏:切間創一は覚醒して蓄積8秒。

・第7回戦表:切間創一は0秒。貘は安全策の1分でそのまま蓄積。

 裏:切間創一がエコロケーションイカサマを使用。開始前にハンカチを置く逆転劇。それにもかかわらず開始0秒で成功。

・第8回戦表:切間創一は5秒。貘は安全策の1分で蓄積55秒。次の臨死で死亡することが確定。

 裏:切間創一は失敗、あえて臨死する秘策を使用。臨死2分34秒。

・第9回戦表:切間創一は0秒。貘は安全策の1分でそのまま蓄積。

 裏:切間創一は勝利が確定したため、1分の安全策。閏秒の大逆転。

 

○「コインの幅寄せゲーム」

・ルール:2枚のコインを10マスと5マスの2列の両端を設置。どちらかのコインを動かしてゆき、両方とも詰められたほうの敗北。

 動かすことのできるマス目の数はコーヒーフレッシュのロットナンバーで決定。ロットナンバーが2桁のときは、どちらかの数字を選択。どちらもマス目の数を上回るときは1の扱い。

・展開:初戦で秒殺。

 再戦を頼み、条件として自分も賭けることに。さらに、マス目の数はコーヒーフレッシュの抽選で決めることに。抽選器代わりにコーヒーフレッシュの山を渡される。賭金はロットナンバーの合計。

 コーヒーフレッシュで先攻後攻を決める。72、66で後攻に。

 途中、ロットナンバーの法則を知るためと称して、コーヒーフレッシュを買収。3百万円を始まりに散財。ついに5千万円を放出。それは敵の裏金1億円だった。敵は高飛びを決意、残る5千万円の回収を図る。

 賭金をロットナンバーの和から積に変更。

 使用されたロットナンバーは(5,12)(2,11)(1,13)(15,20)。

 コインの幅寄せゲームは2列で間隔を等しくするという必勝法があった。そのため先攻が必勝。敵はコーヒーフレッシュを配分するときに仕込みをしていた。

 残る21でも勝てるが、5千万円のために先攻後攻の決定で使った72を拾う。

 だが、72はひそかに開封。6に重ねられていた…

 敵の残るコーヒーフレッシュは(39,43,63)。自分が配分した相手の山は(3,8,33,38)。あっさり8を引かれて大手詰み。

 そもそもコーヒーフレッシュの使用は誘導されていたという驚異の展開。"「あの時 既に君のメンタルは僕の管理下にあった」"。

 テーブルにあった18個のコーヒーフレッシュ、(1,2,3,5,8,11,12,13,15,20,21,33,38,39,43,63,66,72)は仕込まれていた。敵の自由意志は初戦と、そのときにコーヒーフレッシュで先攻後攻を決めようとしたところまで。

 21で妥協していれば勝てていたとトドメ。

 "「君にギャンブルは向いてない …… …いや」「…… 僕は今まで 見た事がない ギャンブルに向いてる人間など」"

 

 備考:所与のコーヒーフレッシュは(1,11,12,21,13,15,2,20,72,3,33,43,63,38,39,5,66,8)。

 城道の考えとしては、最大の数と5を含む数を確保。5以下を含まない数は除外。

 (1,15,21,2,72,43,63,5,39)を確保、(11,12,13,20,3,33,38,66,8)を分与。

 だが、蜂名はあらかじめ城道に6を引かせ、必勝法に則する立場を逆転させることを決めていた。たまたま手近にあった72を基準にして、それ以下の数だけで組を構成。5を含む数と、5以下を含まず、かつ、7もしくは8を含む数を仕込んでおく、という手順だったと思われる。

 ギャンブル漫画史上の金字塔。

 

○参照

 

・「囚人のジレンマ」実験

 

・独裁者ゲームのメタ分析。分配率0%が36%、50%が17%。20%以上分配したのは55%。:Engel『Dictator Games』

 

・『セイラー教授の行動経済学入門』第2章「協調戦略」から

 

・公共財ゲーム。出資率は40-60%。ゲームの経験、人数、金額に無関係。:Marwell, Ames『Economists Free Ride, Does Anyone Else?』

・複数回繰返し。53%から2、3回で急減。6回から16%で低止まり。1ラウンド初回48%、2ラウンド初回44%で、セットを改めると回復する。よって「学習」にはよらない。:Isaac, et『Public Goods Provision in an Experimental Environment』

・回数を通知しても影響はない。:Kreps, et『Rational Cooperation in Finitely Repeated Prisoners' Dilemmas』

 

・協調行動ゲーム。7人中3-5人拠出で全員にボーナス。拠出率51%。ペナルティをなくすと58%、ボーナスをなくすと87%に。

 討議を設けると成功率100%に。「約束」をする。:Dawes, et『Organizing Groups for Collective Action』

・討議なしで拠出率30%、ありで70%。ボーナスが他のグループに支給される場合は、討議ありでも30%以下。

 全員一致でなければ「約束」は無効。犠牲者の合意、合意者の人数は無関係。:van de Kragt, et『The Minimal Contributing Set as a Solution to Public Goods Problems』

 

・『セイラー教授の行動経済学入門』第3章「最終提案ゲーム」から

 

最後通牒ゲーム。最多は等分。:Güth, et『An Experimental Analysis of Ultimatum Bargaining』

 等分が76%。利己主義には74%が罰。:Kahneman, et『Fairness as a Constraint on

Profit Seeking』『Fairness and the Assumptions of Economics』

・2ラウンド、割引率25%。2ラウンド目で最多は25%弱。:Binmore, et『Testing Noncooperative Bargaining Theory』…指示で誘導していた。

・割引率が10-90%で影響なし。:Güth, et『Ultimatum Bargaining for a Shrinking Cake』

・多段階に。2ラウンドなら理論値、3ラウンドなら等分、5ラウンドなら2ラウンド目における理論値に。:Neelin, et『A Further Test of Bargaining Theory』

・つまり、理論値にはならない。:Ochs, Roth『An Experimental Study of Sequential Bargaining』

 

・12ドルか、14ドルの分配か。最多は14ドルの等分。ただし、「分配者を指名した」と告げると強欲になる。指名の方法がゲームの勝敗か、コイン投げかは無関係。:Hoffman, et『Entitlements, Rights and Fairness』

 

・『モラル・トライブズ』から

 

・「囚人のジレンマ」実験、公共財ゲームでは、決断に時間をかけさせるほど協力率は下がる。慎重な思考の利益について考えさせると下がり、直感的思考の利益について考えさせると上がる。:Rand,et『Spontaneous Giving and Calculated Greed』

最後通牒ゲームの分配率は、西欧で平均44%。20%を下回ると50%が拒否。パプアニューギニアのアウ族は平均50%超で、高すぎる提案も拒否。パラグアイアチェ族、インドネシアのラメララ族は平均50%、最低のペルーのマチゲンカ族は平均25%で、拒否は25人中1人のみ。:

 独裁者ゲームの分配率は、アメリカの大学生は50%か0%。ボリビアのチマネ族は平均値、中央値とも32%。

 公共財ゲームの出資率は、西欧は平均40-60%、大半が100%か0%。ボリビアのチマネ族はほとんどが約50%。マチゲンカ族は平均22%、100%は0人。

 1.協力への報酬 2.市場への統合 という2因子の影響が2/3。性別、年齢、富は影響しない。

:Henrich,et『In Search of Homo Economics』『Costly Punishment across Human Societies』『Markets, Religion, Community Size, and the Evolution of Fairness and Punishment』

・大都市における公共財ゲームの分配率は、アテネ、リヤド、イスタンブールは平均25%。協力者への「反社会的処罰」が多い。ボストン、コペンハーゲン、ザンクトガレンは平均75%超。この2者では繰返しゲームの影響なし。ソウルでは協力率が上昇。

 この結果は世界価値観調査とも一致。:Herrman, Thoni『Antisocial Punishment across Societies』、Elingen, Herrman『Civic Capital in Two Cultures』

 

・「囚人のジレンマ」実験を「ウォール街ゲーム」、「共同体ゲーム」と呼ぶと協力率が変わる。:Liberman,et『The Name of the Game』

 

・レベルk思考

 

・Camerer,et『A Cognitive Hierarchy Model of Games』

・Thaler『From Homo Economicus to Homo Sapiens』、Nagel『Unraveling in Guessing Games』

・情報開示ゲーム。1-5の数字について、受信者は「数字-予想」、発信者は「5-予想」を没収される。唯一の逐次均衡は1のみ確率100%で非開示。だが平均1.7。2でも58%が非開示。:Jin,et『Is No News (Perceived As) Bad News?』

 

・『モラル・トライブズ

 

・人間は数量的な判断ができない。「汚染された2つの河川の浄化費用」の質問を、「20の河川」に変えても回答は同じ。Baron, Greene『Determinants of Insensitivity to Quality in Valuation of Public Goods』

・時間を定め、熟考を促すと功利主義的回答の割合が上がる。:Suter『Time and Moral Judgement』

・間違えやすい数学の問題を解かせると、功利主義的回答の割合が上がる。:Paxton,et『Reflection and Reasoning』

・認知的負荷をかけると、功利主義的判断には時間がかかるが、非功利主義的判断は変わらない。:Greene, Morell『Cognitive Load Selectively Interferes with Utilitiatian Moral Judgement』、Tremoliere『Mortality Salience and Morality』

・直感的思考を好むひとは功利主義的回答の割合が低く、慎重な思考を好むひとは功利主義的回答の割合が高い。:Bartels『Principled Moral Sentiment and the Flexibility of Moral Judgment and Decision Making』

・認知制御能力が高いほど功利主義的回答の割合が上がる。:Moore,et『Who Shalt not Kill?』

 

前頭前野背外側部(DLPFC)…認知制御を司る。ストループ課題(赤で書かれた「青」の文字を判読する等)で機能する。前頭前野腹内側部(VMPFC)…情動反応を司る。:Greene, Sommerville『An fMRI Investigation of Emotional Engagement in Moral Judgement』

・前頭側頭型認知症(FTD)患者は、健常者とアルツハイマー患者の20%に対し、60%が功利主義的な回答をする。:Mendez, Anderson『An Investigation of Moral Judgement in Frontotemporak dementia』

前頭前野内側部に損傷のある患者は、功利主義的回答の割合が約5倍。:Koenings,et『Damage to the Prefrontal Cortey Increases Utilitarian Moral Judgements』、Ciaramelli,et『Selective Deficit in Personal Moral Judgement Following Damage to Ventromedial Prefrontal Cortex』

・ストレスに過敏だと功利主義的回答の割合が下がる。:Cashman『Simulationg Muder』、Navarrete,McDonald『Virtual Morality』

 

・ユーモアに関係するポジティブな情動を誘発すると、功利主義的回答の割合が上がる。:Valdesolo,et『Manipulations of Emotional Context Shape Moral Judgement』、Strohminger,et『Divergent Effect of Different Positive Emotions on Moral Judgement』

抗鬱薬シタロプラムを投与し、扁桃体前頭前野服内側部などの情動反応性を高めると、功利主義的回答の割合が下がる。:Crocket,et『Seroronin Selectively Infuluences Moral Judgement and Behavior through Effects on Harm Aversion』

抗不安薬ロラゼパムを投与すると、功利主義的回答の割合が上がる。:Perkins『A Does of Ruthlessness』

 

2024年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2023年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2023/02/08/225429

 2022年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2022/02/14/221729

 2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035

 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 

 去年は「まさか6年も続けることになるとは」と書いたが、その時点で、翌年からは確実に更新するだろうと予想していた。ただ日記を要録するだけで記録を作成できることが分かったからだ。

 7年も経ちながら、毎年、心の琴線に触れる傑作が現れることに驚く。ジョー・ヒルの『年間ホラー傑作選』(所収『20世紀の幽霊たち』)の百合版だ。

 それより、自分があと1年で33歳になることに失望する。高校生の時分からこのかた、"「私の名は『吉良吉影』 年齢33歳」「自宅は杜王町北東部の別荘地帯にあり……… 結婚はしていない………」「"仕事は『カメユーチェーン店』の会社員で 毎日遅くとも夜8時までには帰宅する」"を人生の目標にしてきたというのに(ただし殺人はNO)。これからは大槻班長を人生の目標にするしかない(ただし搾取はNO)。

 

・マンガ

 

 志村貴子著『おとなになっても』全10巻、雁須磨子著『あした死ぬには、』全4巻、ヤマシタトモコ著『違国日記』全11巻は完結。

 原則として、特筆すべきことがないかぎりシリーズ作品の続刊については記述しないことにしている。なおいまい著『ゆりでなる♥えすぽわーる』既刊4巻は毎年、第1位に挙げていたが、2023年は休載で新刊が刊行されなかった。

 

1.原作:羽流木はない・作画:篠月しのぶ『フツーと化け物』第1巻

 

 2019年に羽流木はないがツイッターで発表した『普通と化け物』が、作画に篠月しのぶが参加して商業出版化された。

 百合ファンにとっては、ONEの『ワンパンマン』が村田雄介の作画で商業出版化されたときくらいの急報だった。

 

 人間と人外という設定で、もともとはツイッター漫画だったが、人間と人外という設定でマンガの大半を、とくにツイッター漫画のほぼすべてを占める話ではない。社会的能力のない人間が、精神的に未熟な人外を相手にして支配欲を満たし、その人外の異能によって社会に対して権力欲を満たすという話だ。

 それどころか、人外の高橋は社会的必要により「普通」に擬態しているため、本心が不明だ。そして、「普通」ということも対象化されることになる。

 じつのところ、「普通」とはたんに集団で平均一般的なことではない。なぜなら、集団が平均一般的な標準を認識することで、この標準はつねに更新されるからだ。そのため、たんに平均一般的なことはしばしば笑いの対象になる。

 例示すれば、オモコロチャンネルの「サーティワンダービー」で、かまどがバニラのシングル、カップを注文してきたときだ。これが「普通」になることは、バスキン・ロビンスの創業以来、一度もなかっただろう。サイコサスペンスの『ニードレス通りの果ての家』でも、サイコパスであることを示す描写が「アイスの店でバニラしか注文しない」だった。

 そして、「普通」という可変的な標準が何度、再帰的に更新されるかは、経験的にしか判断できない。そのため、「普通」ということは、個人がどうするかより、個人がどうすることを社会に許されているかの問題になる。

 ネタバレ感想:とはいえ、連載の宿弊で、原作に相当する第1-9話のあとはよくある人間と人外の漫画に近づく。

 

 商業化で作画が改作されると、原作の訴求力が減殺されるということがよく言われるが、篠月しのぶは原作の魅力を増している。

 

 なお、2023年は良作のクワハリ著『ふつうの軽音部』が発表されたが、本作も新たに作画が参加して改作された。

 技術的な巧拙と訴求力については、有名なゴンブリッチの『美術の物語』が、ピカソの『博物誌』挿絵の写実画と戯画の鶏を比較し、後者のほうが魅力的なことを示している。高名な美術評論家であるゴンブリッチも、『ワンパンマン』のONEと村田雄介のどちらの作画が魅力的か尋ねたら「アニメから入ったから村田雄介のほうが違和感がないんですよね」と答えただろう(外国人だから)。

 

2.空次郎著『雛猫』

 

 リンク(https://comic-days.com/episode/4856001361096893378)。

 たかだか16ページの掌編でありながら、呆然自失する傑作だ。

 2023年、作者は単行本『にゃこと博士』も上梓している。

 一見して、広漠たる『雛猫』と、舞台が小間物の密集した室内である『にゃこと博士』は対極的だが、そうではない。広大な空間の崇高美と、空間恐怖は表裏一体のものだからだ。

 ここで働くのはマニエリスムの原理だ。マニエリスムルネッサンスバロックの中間にあり、ロマン主義の先駆だった。

 エヴァンズ著『魔術の帝国』によれば、マニエリスムの芸術の機能は、遊戯的な外見に隠された、真剣な形而上学的意図。形而上学的に捉えられた全体と、細部のリアリズムの二元性だった(下巻、p.48)。これについて、カウフマン著『綺想の帝国』は、アルチンボルドの「怪奇趣味(グロテスク)」へのビザール(奇怪)、カプリッチョ(奇想)、スケルツォ(冗談)といった通念を否定する。アルチンボルドは書簡で、グロテスクを生んだのは古代人だが、それを名づけたのは近代人だと述べる(p.271)。

 縦長の枠線はそれ自体と同時に、暗示する広大な空間によって、水平性と垂直性を提示する。

 その幾何学的な静性において、変身による肉体への違和感と、現実逃避を希求させる、妹への劣等感が語られる。また、舞台となる建物は木造、木製の肌理が強調され、大道具である怪奇趣味的な「有用性調査」の貼紙も、紙が質感を伴うものだ。

 13ページの、変身が完了する直前において描かれる渦巻く海と、15ページにおけるS字型のコマ割りは、曲線とS字曲線を基本とするロココ、またバロック調のもので、最終ページと対比的だ。

 そのため、最終ページの、変身の完了した主人公が、妹にしっかりと抱きかかえられている安定的な情景が、肉体と自我を失くしたことの寂寥感と、そのことの安堵感という、両義的な感情の衝撃をもたらす。なお、この一枚絵は、情景そのものは安定的ながら、背景は夕景の海中電柱、主人公を抱きかかえる妹は歩いているという、故郷喪失と不穏さをも演出するものだ。

 

2.Heisoku著『春あかね高校定時制夜間部

 

 第7話の『雨森みこの歌』が素晴らしい。

 第4話の『谷原ゆめの幼馴染』で登場する雨森みこと、谷原ゆめの関係性は、凡庸なマンガなら不良と不登校児という類型的なものだが、雨森に関する「友人がいないのに人懐っこい笑顔」「自転車で蛇行しながらついてくる」という具体的な描写が、強い現実感をおぼえさせる。

 第7話で雨森が回想する記憶は、不登校になる前日の谷原が、雨森にハンカチを貸してくれたことだ。連想で、腕にリストカット痕のあるひとが、笑顔で手袋を拾ってくれたことも思いだす。そうした"些細なこと"の記憶に拘泥する自身に、雨森は自己嫌悪をおぼえる。話末で雨森は思う。"(…谷原は早く俺なんかとの些細な出来事なんて よく覚えてないくらいになれたら嬉しいなあ)"(p.126)。

 叙情性を排した作品にもかかわらず、心が震えた。

 ここで描かれているのは、社会から疎外されているものほど、無償の親切を施すということだ。こうした些細なことが描かれているマンガはほとんど見かけず、不意に動揺した。

 

 余談だが、あるマンガ書評サイトに雨森について、"人懐っこい笑顔の裏に、人がしてくれたごく些細な親切の幾つかを心の支えにしているという繊細な面を持っています"と書かれていて呆れた。雨森の笑顔は社会の周辺的なひとびとに特有のもので、社会経験があれば記憶にあるだろう。

 その記事によれば、雨森は"本当に良い子"らしい。

 それを読み、名著であるヴァンス著『ヒルビリー・エレジー』の以下の記述を思いだした。

" アイビー・リーグの大学は、学生の多様性にこだわりを持っているため、黒人、白人、ユダヤ人、イスラム教徒など、さまざまな学生がそこに集まっている。しかし、そのほぼ全員が、両親のそろった、経済的にも何ひとつ不自由のない家庭の出身だ。

 1年目が始まったばかりのころ、クラスメートと夜遅くまで飲み会をしたあと、みんなでニューヘイブンのフライドチキンの店に寄ったことがある。しかし、メンバーのほとんどが帰るころには、あたり一面ひどいことになっていた。汚れた皿やチキンの骨がそのまま放置され、ソースや飲みものがテーブルにこぼれたままで、とにかくめちゃくちゃだった。

 後片付けをする人のことを思うと気の毒でならず、とてもそのままにはしておけなかったので、私は店に残った。10人ほどの級友がいたなかで、手伝ってくれたのは親友のジャミルだけだった。ジャミルもまた、貧しい家庭の出身だ。片付けが終わって「誰かの食べ残しを片付けなければいけない環境で育ったのは、たぶん、きみとぼくだけだろうね」と言葉をかけると、ジャミルは静かにうなずいた。"(pp.316-7)

 マルクス主義におけるブルジョワサルトルが説明するところの、自身の愚鈍さに気づかない二重の愚鈍さを持つひとびとは、こうした物質的な現実を人情と通俗道徳で隠蔽する。マルクスエンゲルスが『共産党宣言』でブルジョワの家族、親子、結婚と恋愛について看破したものだ。

 本作でもっとも社会に適応できているのは、凡庸なマンガでは「コミュ障キャラ」である染井つむぎだ。それは「キャラ」がブルジョワ文学の擬制だからだ。

 事物を審美的に抽象化しない作者の視線が、物質的な現実、ひいてはその断片的なもの、些細なことを捉えることは、前作『ご飯は私を裏切らない』から一貫している(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/09/08/180038)。

 

4.スタニング沢村著『佐々田は友達』第1巻

 

 説話が先鋭的で、頭の裏側を引掻かれるような感覚がする。

 内容はやや古典的だが、これについては、マルクス主義者であることを公言するサリー・ルーニーの作品が先鋭的なことと同じだ。

 

4.小峱峱(シャオ・ナオナオ)著『守娘』上下巻

 

 清代台湾。地方官吏の娘である潔娘(ゲリョン)は纏足を拒み、結婚を避ける方途を探していた。そこに若い女性の水死事件が起きる。鎮魂のために招かれた女性の済度師(霊媒師)を見て、潔娘は弟子入りを目論む。道士は試験として、死者を霊媒するための毛髪を取ってくることを課す。潔娘はあえなく課題に失敗。だが、死体の爪に泥が詰まっていたことから、水死が故殺であることに気づく。潔娘はそのことを道士に告げるが、道士はあらかじめ知っていたようだった。なら、鎮魂はただの演技だったのか、そして、なぜそれを潔娘に教えたのか… という導入だけで、充分に魅力的だ。

 ネタバレ感想:この第1話で示される図式が、作品全体を貫徹している。霊異は治世の乱れによるが、治世を改めても霊異は鎮まらないし、霊異を鎮めても治世は改まらない。作中では、天人は現世に干渉してはならないと、台詞でまで明示している。霊異が意味を為すとしたら、それは生きた人間を動かすときだ。それはフィクションも同じだ。

 

 制度的でないコマ割りについては、下掲のブログ記事が詳細に摘示している。

 『コマったさんの台湾怪奇ミステリまんが――シャオナオナオ『守娘』』https://proxia.hateblo.jp/entry/2023/07/26/111318)。

 ただし、分析については過度に理論化して硬直化している。分析は、コマの配置とコマ内の描写が連動していて、とくに三次元的な前後軸についてそうだというものだ。

 だが、第1の例からして、遠景から近景に引く3つのコマが順次上に重なっている。仮に説話と連動しているなら、時間経過に従い、順次下に重なっているはずだ。しかも、空間的な配置についても、遠景のロングショット、人物のフルショット、人物のクローズアップで、雑然としている。

 つまり、実際には、コマの配置とコマ内の描写に強い関連はなく、ただ順番を示すだけということだ。そして、先後のコマ間におけるコマ内の描写は、映画的なモンタージュ理論に従っている。少なくとも、上掲の記事の第1の例については、このほうが理論化として整合的だ。

 同様に、奥行き効果の例として挙げる、第3例、第4例についても、物語は無関係だ。第3例の、奥行き効果を生じさせる、重なった3コマ目の描写は任意だろう。第4例の、4コマ目のぶち抜きについて、浮出し効果を生じさせる3コマ目との関係は、空間的な配置に従ったズームアップだ。だが、空間的な配置に反する切返しのほうが、はるかに効果的だっただろう。そして、その効果はモンタージュ理論の叙述的なものによる。

 では、なぜ制度的でないコマ割りをしているのか。それは、コマ枠を中性化するためでなく、強調するためだ。

 アルンハイム著『中心の力』は、絵画における枠組と中心の効果を分析する。そして、遠近法による消失点を、中心点と競合するものと位置づける。じつのところ、前景の人物は、三次元的な前景の一部ではなく、空間から独立している。遠近法の主要な機能は視覚を再現することでなく、空間に連続的な第3の次元を設けることだ(p.226)。また、消失点が中心点と一致したとき、劇的な効果が生じる。無論、これはルネッサンス以降の西洋絵画の伝統だ。

 つまり、『守娘』におけるコマ枠と奥行きの強調は、東洋画と対立的なものだ。

 ゴンブリッチ著『芸術と幻影』は、『芥子園画伝』を参照し、中国美術の目的は説明や図像の固定化ではなく、詩情の喚起だと述べる(p.218)。そして、知覚と投射は対照的であり、後者のためには余白が必要だと述べ、『芥子園画伝』の「不在」の技法を挙げる(p.284)。

 上掲の記事における第3例、第4例のコマ割りは、絵画についてグリーンバーグが提唱する、モダニズムの手法をそのまま準用できる。イメージによる、伝統的な"空間のイリュージョン"を、平面性と枠によって更新するものだ(グリーンバーグ著『モダニズムの絵画』(所収『グリーンバーグ批評選集』p.70))。そして、グリーンバーグは前者をペルシャの装飾写本や中国の掛軸と対立させる(同著『イーゼル画の危機』(同前p.77))。

 『守娘』はコマ割りを重用するが、終盤、潔娘が嫁いでからは例外的に見開きを利用する。これにより、総理の屋敷での日常は幻惑的なものとなり、潔娘の惑乱が示される(下巻、pp.146-9)。また、婚礼の場面では東洋装飾が用いられ、秘洞と、そこからの脱出における花火の情景は墨絵で描かれる。

 一方、革命(同、pp.200-1)、陳の祭祀(同、pp.206-7)、そして結尾である潔娘の奔走(同、pp.214-5)もまた、見開きで空白の背景を用い、水墨画のような描写をしている。言うまでもなく、見開きと空白の背景はどちらもマンガで一般的なものだ。だが、本作はここまでで非制度的なコマ割りにより、コマ枠を意識させている。そのため、最終ページの情景は、単純な不易でも革命でもない、深い余韻をもたらす。

 

 なお、上掲の記事で関連作として挙げられている作品はゴミだ。

 

6.ほそやゆきの著『夏・ユートピアノ

 

・『夏・ユートピアノ』

 冒頭でピアノを演奏する手と、ピアノの機構がクローズアップされ、それが試弾であることと、そこがピアノ調律の楽器店であることを説示する2ページのあと、ピアニストの目のクローズアップと、ピアノ調律師とピアニストの対峙が交互に描かれる。ピアニストは無言で店を出る。その後、ピアノ調律師は出張修理に赴き、そこでピアニストに再会する。両開きの扉による枠効果とともに、ピアニストは画面の中心に立ち、そのままドリーで室内に進む。このとき、ピアニストは無言で、またしても目のクローズアップがカットインする。そして、グランドピアノが2つ並置された、奇妙な部屋に到着する。

 この尋常でない緊張感の導入部だけで、充分に魅力的だ。

 このとおり、構図主義的だが、四コマ漫画のような諧謔スケルツォ)の楽章を挿入する聡明さもある。

 ネタバレ感想:もっとも、この表現の緊張感は、響子の視覚障害という説話論的な理由が与えられ、解消されるべきものとしてある。それは新の調律がクローズアップであるのに対し、父親のものはミドルショットで、緊張(テンション)の解除されたもの(p.111、pp.120-1)であることを見れば明らかだ。ここではその説話の成否は問わない。

 

・『あさがくる』

 

 見事な傑作だ。

 導入部の、感情の整理がついているがゆえに感情的に振舞える母親と、無感情(アパシー)の主人公という描写から卓出している。

 こうして導入部が予示するとおり、主題の1つはカウンセリングすることでカウンセリングされるということになる。そのため、くるみが寡黙なのは性格によるものだと思っていたら、自分を「先生」だと思っていたからだと分かったり、音楽教師に共感を求めると、かえって責任感を知らされたり、という予想の範疇外の出来事に朝顔は出会う。

 ネタバレ感想:合格発表の場面の感情の昇華はあまりにも見事だ。冒頭で予示されたお守りを握る手を通じ、空手から拳へ、拳から空手へと、朝顔とくるみが連続する(pp.191-2、194-5)。そして、実際の朝顔は泣いているにもかかわらず、くるみの想像上の朝顔は冷酷でいる。ページをまたぎ、正確に配置された対比はあまりに劇的だ。同情と、分離による罪責感の両義的な感情の同致を完璧に示している(pp.197-8)。

 そして、空間を強調した静的なエスタブリッシュ・ショットを挟み、鏡を介して朝顔とくるみの視線が正対するとともに、平行になる。そして最終ページで、「ないものになる」という台詞で、くるみがはじめての笑顔を浮かべる。

 あまりに見事な構成だ。

 

 それだけに、「自分が辿ってきた道にもっと自信をもっていい」云々の説明的な台詞と、ビー玉転がしのオモチャのイメージ図は悪目立ちしていた。

 どのみち、そうした分かりやすさを求める読者は、説明的な台詞と記号的な感情表現で構成されたジュニア・フィギュアスケートが題材のマンガを読んで、作品の話をすると言いながら自分の話をし、才能もなく、努力もしてこなかったのに「才能の残酷さ」と言ったり、結婚もしていなく、親の世話もしていないのに「子供の搾取」と言ったりするだけだ。

 

7.ティリー・ウォルデン著、三辺律子訳『are you listening?

 

 じつはティリー・ウォルデンの名前は、2021年にテキサス州議会議員がLGBTQ関連のコミックを学校と図書館から禁書にすることを提案し、そのなかに志村貴子の『放浪息子』があることで話題になったときに知った。世界的に有名で、作品を読むと名作であり、自分の不明を恥じた。

 「テキサス州議会議員が規制を求めたLGBTQ関連コミックス10選」(

Shaenon K. Garrity @shaenongarrity 2:31 PM · Oct 30, 2021)(https://x.com/shaenongarrity/status/1454320145858383877?s=20)を読んだところ、すべて感嘆する名作だった。ありがとう、共和党公認テキサス州第93区選出、マシュー・ハストン・クラウス州議会議員。

 ついでに、同10選の百合マンガについては後記しておく。どのみち、話す友人知人もいない。仮に、「テキサス州議会議員が規制したLGBTQのコミックスを読んだんだけど、感想を話していい?」と尋ねて絶縁しない人間がいればだが。

 

 ネタバレ感想:本作はロードムービーだ。ビーとルーは同乗してすぐ険悪になるが、トンネルに入ることで雰囲気が和らぐ(pp.33-4、pp.36-7)。ひとの行動が環境を変化させるのではなく、環境の変化がひとの行動を変える。

 一方、拾った子猫の仮名はダイヤモンドで、その故郷である「ウエスト」を目指すとなれば、『オズの魔法使い』を連想する。また、ビーとルーの道中はしばしば騎士道小説じみたものになる。

 だが、そうではない。『オズの魔法使い』の結尾は"「やっぱりお家が一番!」"。そして、バフチンの『小説の時空間』によれば、騎士道小説の冒険は、主人公のアイデンティに試練を課すためのものだ。

 だがしかし、本作は主人公に変容を促す。"「あの男たちは動くものはなにひとつコントロールできない そのせいでますますやっきになるんだけどね」(p.259)"

 導入でビーはバスに乗り損ない、そこから物語が始まる。だが、結尾でバスに乗るのはルーだ。そして、ビーは自身の車を得る。

 ビーがルーにゲイであることを告白する場面では、切返しやクローズアップといった、性的に親密な表現は排除されている(pp.115-6)。つまり、ビーとルーの関係は大人と子供であり、本作は教養小説なのだ。その関係から性的さが除かれていることは、セジウィックが『男同士の絆』で、ディケンズの『大いなる遺産』について指摘するとおりだ。

 ちなみに、本作のロードムービーという設定、主役2人の関係の変化に伴う、運転の代行、バイクの2人乗りという展開は、ジェームズ・マンゴールド監督、トム・クルーズ主演のスパイ映画『ナイト&デイ』に着想を得たのだろう。

 

8.三島芳治著『衒学始終相談』第1巻

 

 同作者の『児玉まりあ文学集成』は衒学、竹本健治の名づけるところの汎虚学を皮相とするラブコメだったが、そうした実相がなくなり、結果的により純化されている。

 

8.紫のあ著『この恋を星に願わない』第1巻

 

 これほどまでに作画が脚本を高めている作品は稀だ。

 プロローグが結婚式場で、幸福そうな礼服を着た京、そして新婦が冬葵と絵莉のどちらかが不明ということで、最終回がじつは冬葵と絵莉の結婚式だったと分かるプロローグにつながるだろうことが自明だ。そのため、脚本については、連載が長引くだけオチを知っているジョークを聞いているときのような気まずい間が続くことになる。

 だが作画については、なぜ雨宿りする軒下の天井が、丸天井(ヴォールト)なのかということに尽きる(p.38)。それは濃淡の連続的な変移を表現するためだ。この調和が作品の静謐な雰囲気をもたらしている。

 つまり、惹句の「淡い」は誤りで、正しくは濃淡がある。実際、本作は一般より黒ベタの使用が多い。

 

8.郷本著『破滅の恋人』第1巻

 

 『夜と海』の郷本の新作。

 『夜と海』同様にバロキッシュな演出が巧みだ。さらに、そうした子供の幻想的で非晶質(アモルファス)な世界観に、大人の物質的で固定的(スタティック)な世界観を交錯させ、緊張感をもたらしていることが冴えている。

 

11.佐悠著『爛漫ドレスコードレス』第1-3巻

 

 かなり面白いし、百合度が高い。

 

・その他

 

トマトスープ著『天幕のジャードゥーガル』第2-3巻

 

 第2巻で急に百合度が上昇した。

 "「勉強ってこういうことなんじゃないかな」「君は今 自分の身がどこにあるかも 何が起こっているかも」「この先どんなことが起きるのかも まるでわからないでいる 言ってみれば叔父様たちと同じ状況だ」「でも勉強して賢くなれば」「どんなに困ったことが起きたって 何をすれば一番いいかわかるんだ」「それは絶対に悪いことじゃない」"(第1巻、pp.25-6)

 2022年、地動説を題材にしたマンガについて、エスタブリッシュメントである科学史、科学哲学の専門家が批判し、ポピュリストである読者たちが反発したが、エスタブリッシュメントがポピュリストたちに教育したかったのは、そもそも、こうした教育そのものについてだっただろう。

 岩明均の『ヒストリエ』ならば、"「図書室で読むのは学校の授業とは直接係わらないモノが多いんだけど……」「でも考えを組み立てたり」「少し角度を変えて物事を見たりするのに役立ってると思う…… それが学校の成績に出たんなら良かったよ」"(第1巻、p.158)だ。

(なお、トマ・ピケティは『資本とイデオロギー』で、ポピュリストという語について「政治とイデオロギーの多元的な亀裂、とくに資本の亀裂について隠蔽し、自身の反対者をすべてスティグマ化し、自身への批判を拒絶するものだ。よって使用すべきではない」と批判している(p.866)。だから、いまはピケティのことは忘れて、新NISAの非課税枠を最大限まで使いきることを考えよう)

 

・原作:マリコ・タマキ、作画:ローズマリー・ヴァレロ・オコーネル、三辺律子訳『ローラ・ディーンにふりまわされてる

 

 いわゆる『ブリジット・ジョーンズの日記エピゴーネンの作品だ。主人公が恋愛コラムニストに送るメールがナレーションになっている。序盤、主人公が恋人にフられ、落ちこんでいるところを占い師に相談すると「その問題を解決するには、あなたのほうから彼女をフることよ」と託宣される。ベタすぎる。

 ドゥードルはこのジャンルでストックキャラクターとなる、相談役の女友達と都合のいい男友達の役を兼ねる。1人で負うには重荷すぎる。

 

・ひの宙子著『最果てのセレナード』第1巻

 

 脚本はベタだが、演出はサスペンスフルで良い。

 だいたいフィクションの世界は事件、事故、病気の犠牲者のピアニストが多すぎる。フィクションの世界の国際ピアノコンクールは、障碍者部門と被害者遺族部門、ジュニア部門(出場要件:18歳未満・両親なし・余命半年)が設けられるだろう。

 

・原作:マシーナリーとも子、作画:もつ『社長の夢』

 

 リンク(https://shonenjumpplus.com/episode/4856001361532661097

 ネタバレ感想:読後、題名を見直すと爆笑する。

 

 つのさめ著『一二三四キョンシーちゃん』第1巻はオフビートなコメディで良い。

 熊倉隆敏著『つらねこ』第1-2巻はさすがに安定して面白い。

 田口祥太朗著『裏バイト』の最新第10巻は「スーパーマーケット」編があまりにも名作だった。いわゆる思弁的実在論の論客がよく嘆賞する唯物論的ホラーを完全に表現している。

 

・「テキサス州議会議員が規制を求めたLGBTQ関連コミックス10選」

 

②ティリー・ウォルデン著、有澤真庭訳『スピン

 

 百合マンガ界の『牯嶺街少年殺人事件』。必読

 

③原作:Suzanne Walker、作画:Wendy Xu『Mooncakes

 

 冒頭で、人狼の少女が故郷である秋の町にきて「ひとつの場所に長くいたことはなかった」と独白する。そして、幼馴染の魔女の少女と、町を震撼させる悪魔騒動を解決するという、スティーヴン・キングのスモールタウンものらしいベタなヤングアダルト小説だ。

 だが、ジェンダーについては10選でもっとも破壊的かもしれない。

 ジェンダーについて外生的なのは、人狼のTamが二人称を「they」に訂正する2コマだけだ。あとは自然に、TamとNovaのヤングアダルト的なラブロマンスになる。まさに、ゴダールブレッソンを引用して述べた"「何も変えるな。すべてが変わるために」"だ。無論、その自然さにはTamが変身する人狼であることと、Novaが秘密を持つ魔女であることも理由しているだろう。

 Tamは町から町へ渡る生活をしているが、Novaもまた両親(節句にだけ幽霊として帰省する)から、生家を出て自立するように促されている。ネタバレ感想:この物語で、「外に出るための居心地のいい場所、自分の道を見つける場所が必要なんだと思う。それが家」「家はあなたのいる場所」で、2人で故郷の町を出立する結末なのが巧みだ。

 

⑤『ローラ・ディーンにふりまわされてる

 

 上述。

 

 ① Trung Le Nguyen著『The Magic Fish』は傑作。物語を読むことと自己を語ることの物語。

 ④Liz Prince著『Tomboy』はノンバイナリーのエッセー。セリーヌ・シアマ監督『トムボーイ』とは同名だが無関係。

 ⑥志村貴子著『放浪息子』。個人的な感想は『『放浪息子』と『家の馬鹿息子』 - 志村貴子論 -』(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2018/02/06/090929)。

 ⑦Maia Kobabe著『Gender Queer』はノンバイナリーのエッセー。

 ⑧ちぃ著『花嫁は元男子。』。

 ⑨原作:マリコ・タマキ、作画:ジリアン・タマキ、三辺律子訳『THIS ONE SUMMER』は傑作。湖畔でのひと夏の物語、といっても、湖はアバンチュールが演じられるのでなく、ジェイソンが惨劇を演じるほうだ。全編にホラー映画の名作の引用が充溢し、うだつの上がらないもの同士の悪友、地元の不良たち、バラック街、先住民の歴史民族博物館と、ホラー映画のような避暑地で夏休みを過ごす。導入部もヒッチコック的なミドルショットで、戯画的な構図と、ぎこちない編集、クロッキー調の稠密な筆触で描写される。

 ⑩Jerry Craft著『The New Kid』はニューヨークの黒人少年の学校生活を描く、コメディの子供向けコミックス。

 

・小説

 

1.陸秋槎著、稲村文吾他訳『ガーンズバック変換

 

 『色のない緑』がついに単行本化した。感想はこのブログで2度も書いているため省略する。

 じつは、表題作は『ニューヨーカー』風の時事問題を題材にした軽妙な小品だ。著者曰く「コニー・ウィリス風」だ。

 『物語の歌い手』が秀逸だった。年代と地理はカルカソンヌ落城が100年前と、14世紀初めのフランスであることが明確にされている。無論、これはルネサンス、宮廷と市(まち)の時代の端緒だ。

 名高いアウエルバッハ著『ミメーシス』によれば、宮廷叙事詩の題材、騎士の目標は武勲と恋愛の2つだ。だが、恋愛は献身などではなく、官能的な愛だ。トリスタンとイゾルデ、エーレクとエニード、アレクサンドルとソルダモール、ペルスヴァルとブランシュフルール、オーカッサンとニコレット。いわゆる慇懃(ガランデリー)というプラトニズムは、プロヴァンスの抒情詩、イタリアの清新体を経て、その後に定着した(上巻、p.154)。

 ネタバレ感想:誤導が哲人政治をもじった詩人政治ともいうべき、新プラトン主義であることが巧みだ。そして、リアリズム、実在論の終わりと、ミメーシス、ただ模倣のみの、無限の自己言及性へと行きつく結末が圧巻だ。

 

1.エリー・ウィリアムズ著、三辺律子訳『嘘つきのための辞書』(※「嘘」は異字)

 

 カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』以来の知的興奮を起こす。

 物質としての言語を直写する名作だ。当然、「マウントウィーゼル」や「ドードー」を初めとする辞書と言葉に関する逸話も充実している。

 こうした奇作の訳業は偉大だ。いくつか上掲しているが、訳者の三辺律子は百合作品を多数翻訳していて、百合界の柴田元幸だ。

 マルクス主義者であることを公言するチャイナ・ミエヴィルも、『ウシャギ』(所収『爆発の三つの欠片』)で稀語の蒐集を主題にしている。

 

 言語の物質性については、マルクス主義文芸批評家のフレドリック・ジェイムソンが『言語の牢獄』で概説している。シニフェについて語るときは、シニフィアンの組織を見ることができるが、シニフィアンを語ろうとすると、無限後退に陥る(p.155)。そして、サルトルの『存在と無』を参照する。曰く、このために話者は忍耐しなければならない。そうしないものを、サルトルは卑劣漢(サロー)と呼ぶ。卑劣漢はシニフィアンからシニフェへの無限の意味の受け渡しを拒絶する。そして、特定のシニフェを特権化する(p.190)。

 『存在と無』では、その説明に同性愛を例挙する。"一連の行為が男色漢の行為であると規定されるかぎりにおいて、私は男色漢である。しかし人間存在が行為によってあらゆる限定から逸脱するかぎりにおいて、私は男色漢ではない。"(第1巻、p.212)。つまり、誠実と、同性愛者の代表者を自認するものは、同性愛者であることを自称するが、そのじつ、その定義を非難者に委譲している(同、p.216)。

 こうした古典的な議論は講壇的(ディダクティック)に見えるが、状況は変わっていない。というより、愚かなひとびとの行動はつねに変わらない。

 セジウィックは遺著の『タッチング・フィーリング』で、そうした自然主義本質主義に立つひとびとを、消費主義的だと痛烈に批判している。"こうした概念はうわべには倫理的な切実さがあるので、その内実がじょじょに空疎になっていることはおおい隠されている。"(p.30)。そうしたひとびとは「買うか、買わないか」に二分化された消費者に等しい(同前)。

 

1.斜線堂有紀著『選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい』

 

 理想的な恋愛映画では、行動的な恋人が奥手な主人公を振りまわし、しばしば政治に目覚めさせ、そして、主人公はありのままの自分でいられるようになる。例えば、心に残る恋愛映画であるアンドリュー・ヘイ監督『ウィークエンド』がそうだ。

 だが、現実は恋愛映画ではない。

 現実には、雑談で政治談義をしだすようなひとびとは非常識であり、社会から忌避されている。より社会的能力の高いひとびとは、それを愛想笑いで聞き流すだけだ。

 だがしかし、社会の多数派でいることと、中心にいることとは、ただの偶然の結果だ。だから、実際には社会的能力は、ただ社会に合わせることしか可能にしない。

 だから、同性愛者は社会の物質的な利益のために認識的な暴力を受けるが、そうした同性愛者がカミングアウトすると、今度は自身の物質的な利益のために、まだカミングアウトしていない同性愛者に認識的な暴力を振るうことになる。

 だから、社会的能力の高いひと、他人に対して操作的なひとは、本当は弱いのだ。そもそも、社会的に恵まれていたり、他人から愛されたりしていれば、社会的能力や、他人に操作的であることは必要ない。

 松本那由他は人生でもっとも記憶に残る登場人物のひとりになった。

 ネタバレ感想:でも恵恋は那由他と別れたほうが幸せになれると思う。

 

 断っておかなければならないが、個人的に投票することとは別論として、投票率が上昇することはかならずしも社会にとって良いことではない。

 2023年に『民主主義を装う権威主義』でサントリー学芸賞、日経・経済図書文化賞、アジア・太平洋賞大賞を受賞した東島雅昌は、もはや選挙はかならずしも民主主義に有用でないと言う。選挙が民主主義に有用という言説が主流だったのは、90年代のアフリカ諸国の民主化が起きたときまでだ。2000年代半ばから政治不信とポピュリスト政治家の台頭、そして権威主義諸国による選挙操作が発生した。V-Dem研究所によれば、前者について「政治的分極化」指数は過去120年間で最悪、後者について「公正な選挙」指数は2000年代半ばから悪化している(日経新聞2024年1月16日)。

 『民主主義を装う権威主義』が実証するのは、破綻した独裁体制と権威主義体制は選挙に失敗するが、選挙に成功していることは、独裁体制と権威主義体制でないことをなんら保証しないということだ。

 政治哲学者のジェイソン・ブレナンは、『アゲインスト・デモクラシー』で、「投票を呼びかけることは、ゴミのポイ捨てを呼びかけるようなこと」とまで述べる。

 『アゲインスト・デモクラシー』はブレグジットとトランプの大統領当選の以前に出版されている。そのことについて、ブレナンは「本書の内容には影響しない。変わったのは、読者が真剣になったことだけだ」と述べる。そして、投票率の上昇を訴えるひとびとは、実際には、自分が望む選挙結果になるときだけ、投票率の上昇を支持していることを、厳しく指摘している。

 本書によれば、アメリカの貧困層民主党支持層は、イラク侵攻、拷問、市民的自由の侵害、保護主義産児制限手段の規制を強く支持。中絶の権利、同性愛者の権利に反対している。

 そもそも、脱産業社会を提唱した社会学者のダニエル・ベルが、すでに70年代に『資本主義の文化的矛盾』で現状を予測している。社会が発展するほど、租税への反対が高まり、多党化と政治不信が起こり、ポピュリスト政党が台頭する。ベルは73年の「反税」を掲げるデンマークの進歩党と、ノルウェーの「税金と公的介入を強力に縮小するためのアンネシュ・ランゲの党」を例挙する(下巻、p.130)。

 

 なお、掲載誌のアンソロジーは低質だ。

 周知のとおり、紙の出版市場は2018年にピークである1996年の半額を割った。その一方で、書籍出版点数は増加した。当然、類書と悪書が増加しているだろう。悪書かは悪徳商法と同じ、対象顧客、すなわち対象読者の特性が経済的困難や、孤独感の高さ、不安性の高さ、衝動性の高さ、自尊心の低さかで判断すべきだ。

 ベルの『資本主義の文化的矛盾』によれば、現代は「文化的大衆」と呼ぶべき集団が形成されている。"かれら自体が、書籍や、印刷物や、まじめな音楽のレコード等を買うので、一つの市場(、、)となるに十分な大きさを有している。"(上巻、p.199)。

 一般公募の作品が陰惨なのも、さもありなんというところだ。

 他方、名誉賞の「カクヨム公式自主企画「百合小説」斜線堂有紀賞」https://kakuyomu.jp/features/16817330668950038092)受賞のさちはら一紗著『天国のエンドクレジット』は傑作だった。

 

1.チョ・ウリ著、カン・バンファ訳『私の彼女と女友達』(所収『私の彼女と女友達』)

 

 あらすじと帯文はネタバレだから読むな。

 あらかじめ予想したものしか受けとることのできない、資本主義の常同反復症の病弊だ。

 

 同性愛について叙述した名作は多々あるが、同性愛と政治について、これほど明晰に叙述した作品は稀だ。

 ネタバレ感想:まず彼女のジョンユンとのカミングアウトをめぐる鞘当てがあり、ウンジュはその政治性について不信感をもつ。そして回想し、女友達のスジと恋愛関係になりかけるが、その政治性について自意識過剰になり、友人関係も破綻したことを思いだす。

 結局、ウンジュがカミングアウトを拒んだことで、ジョンユンが女友達たちから代償を受ける。ウンジュは後悔にかられる。だが、スジから届いた「非婚式」の招待状、そこにはウンジュとジョンユンをパートナーとして記していた。

 つまり、私的領域は公的領域と対立するが、私的領域のためには公的領域が必要で、私的領域を目的とすれば、公的領域もまた良いものだということだ。

 同性愛と政治についてこれほど明晰に書くには、「私と彼女と女友達」というただの並称ではなく、「私の彼女と女友達」と階層構造を持つものでなければならなかっただろう。

 

4.斜線堂有紀著『回樹

 

・『回樹』

 

 ネタバレ感想:愛のない人間が他人を愛することができるのか。ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』によれば、ナボコフは文学の不死を示した。それは感覚的な内容がなくとも、形式的な構造だけで文学が成り立つのを示すことだった。蝶の羽から鱗粉が落ちれば、残るのは「美しい羽(ビューティー)」ではなく「透明な羽(トランスパレンシー)」だ(p.308)。斜線堂有紀は蝶の羽ではなく、木の葉を薬液に浸し、葉脈標本を作った… と、ナボコフを引用するには文章が粗すぎることが難だ。

 

・『回祭』

 

 ネタバレ感想:『回樹』が愛のない人間の話だったため、対になる本話は愛のある人間の話で、金と愛の対立で後者が勝つのだろう、ということは予想がつく。それは自明のこととして、愛と信念、つまり、愛した相手の尊厳との対立になる。そして、回樹という愛した相手を外在化させる審判により、やはり愛が勝つ。それは救いでもあるため、離別のために公権力が介入する。

 

4.宮澤伊織著『ときときチャンネル 宇宙飲んでみた

 

 快作。

 全編が動画配信の台詞だけで構成されていて、良い意味でのライトノベルだ。

 シリーズ化でき、『裏世界ピクニック』くらいの潜在性があるが、単行本でやや敷居が高いことが残念だ。

 

・その他

 

・シャーリー・アン・ウィリアムズ著、藤平育子訳『デッサ・ローズ

 

 原著はトニ・モリスン著『ビラヴド』の前年に出版されている。

 歴史二次創作百合が政治的、学内政治的に後援されることがあるんだ。

 

・キム・ボヨン著、斎藤真理子訳『鍾路のログズギャラリー』(所収『どれほど似ているか』)

 

 高校生女子3人組の超能力バトルでウケた。もっとも、これは『僕のヒーローアカデミア』が英語圏でウケていることと同じく、文化による偏好だが。

 なお、本国で「もっともSFらしいSF」と評されているらしいが、内容は86世代的、英語圏における68年的で、カウンターカルチャー的なもののため、いわゆるSFである古典SFでなく、ニューウェーブSFのほうの意味らしい。

 表題作は百合か以前に低質だ。叙述トリックが自明で、「緊急脱出装置」と書かれた赤いボタンを前にして「たった冴えたひとつのやりかた… くそッ、わからない!」と右往左往するコントのようだ。そもそも、ひとは心の理論をもっているため、他者を自己と同一視したりしない。そのため、自閉症を主題にした美しい短編である『同じ重さ』に対し、本作は作品そのものが自閉症だ。

 

・青崎有吾著『地雷グリコ

 

 『嘘喰い』ファンであることを公言する青崎有吾の学園ギャンブル小説。

 『嘘喰い』でもっとも優れた勝負は何か? 展開がもっとも驚異なハングマンか? 相手がもっとも梟雄なラビリンスか? 舞台がもっとも絢爛なボールの数当てか? 勝負がもっとも巧緻なポーカーか? 計略がもっとも壮大なハンカチ落としか?

 ファミレスのコインゲームに決まっているだろ!

 

 じつのところ、読むまではあまり期待していなかった。山口雅也の「アーティスト・ドミノ倒し理論」を知っていたからだ。

"山口「「アーティスト・ドミノ倒し理論」というのが、僕にありまして(笑)。」

綾辻「何ですか、それ。」

山口「僕は最初マンガ家になりたかったんですよ。描いたマンガを友達に見せたりして。ところが、僕よりマンガのうまいやつが現れて、マンガ家は挫折。」

綾辻「よくある話ですね。」

山口「その次が、円谷英二に心酔するんですよ。ウルトラマンとかのヒーローに憧れるというんじゃなくて、特撮自体にすごく魅かれて。」

綾辻「いつ頃ですか。」

山口「小学校五年ぐらい。それで、友だちが読んでいる本の挿絵に怪獣みたいなのが描かれてて、それで読んだのが江戸川乱歩の『暗黒星』。これですっぽりミステリにハマりまして。」

綾辻「それと「アーティスト・ドミノ倒し理論」がどうつながるわけですか。」

山口「まあ、待ってください。そのあと中学に入ると、今度は音楽に目が向くんですよ。ここでドミノ理論の本題に入れるんだけど(笑)、作家って、まずヴィジュアルから入って、次に音楽へ行って、そのどれもに挫折して、しょうがないから作家になったという人が多いんじゃないかって気がするんですよ、ドミノ倒し的に(笑)。」

綾辻「うーむ(苦笑)。」

山口「現役のミステリ作家で確認取ってみたんですけど、そういう人がやたら多い。で、僕は「アーティスト・ドミノ倒し理論」を確信しまして、いろんなところで力説してるんだけど、みんな嫌な顔をするんですよ。それじゃ、小説家は吹き溜りかって(笑)。」

綾辻「さもありなん、かな(笑)。」"(『セッション 綾辻行人対談集』pp.157-8)

 だが、本来、頭脳戦は言語的なものだ。第1話『地雷グリコ』は50ページほどの短さに頭脳戦の魅力が凝縮されていて、他の表現媒体を上回っている。

 第3話で『嘘喰い』に織田信長が登場したときくらいのハンドルの切りかたをする。そこにオマージュを捧げるのかよ。

 ネタバレ感想:最終話の三角関係はさすがに良すぎた。じつは射守矢真兎がオマージュしているのは『嘘喰い』の斑目貘ではなく、矢とダーツの異同はあるものの、『エンバンメイズ』の烏丸徨だ。それが末尾の人間的な逆転劇につながっている。

 

 ついでに、第4話『だるまさんがかぞえた』について解説しておく。つまり、第3戦で、子(真兎)の勝利条件は40の入札であるにもかかわらず、なぜ鬼(巣藤)は50の入札を警戒し、49にしたのか(p.225)ということだ。

 第5戦での巣藤の必要勝利条件は、ノルマが<40であることだ。≧40であれば、真兎が十分勝利条件を達成する。

 そのため、第4戦で、巣藤は必要勝利条件として、>10の入札をしなければならない。だが、このため、真兎は≦10の入札が可能になる。

 お気づきのとおり、鬼はE−1(E:最終戦)の手番でN(N≧11)の入札をしなければならず、よって、子はE−1の手番でN'(N'≦N)の入札が可能になる。そのため、鬼はN''(N''≧11+N')の入札をしなければならない。この再帰性により、最終的に、鬼はつねにノルマの最大値を入札しなければならない。そして、鬼のノルマが子のノルマを上回っている以上、鬼は必敗する。

 そのため、真兎の勝利条件は40の入札であるにもかかわらず、巣藤は真兎がピタリ賞を狙い、理外の50の入札を行うことを懸念したのだ。

 じつのところ、「だるまさんがかぞえた」の本質は、鬼と子のノルマの差となる実数を、鬼が有限の手番にどのように配分し、子がそれをいかに予測するかだ。そして、プレイヤーの合理性を前提にすれば、再帰性により、鬼は初回の手番に最大値を配分しなければならない。これは、経済学における最後通牒ゲームや独裁者ゲームの類例だ。だが、あくまで「だるまさんがころんだ」の工夫という体裁をとるため、そのことを説明できず、上述の下りがやや分かりにい。作者に代わって説明した。リアクション役の『嘘喰い』のガクトや鉱田ちゃんはいないが。

 

 良書であるヘレン・オイェイェミ著、上田麻由子訳『あなたのものじゃないものは、あなたのものじゃない』はレズビアン表象が多々ある。説明が困難と評されているが、要するにデヴィッド・フォスター・ウォレスのような作風だ(ついでに言えば、ウォレス著『奇妙な髪の少女』所収の『無表情な小動物たち』はウィトゲンシュタイン百合だ)。

 

・アニメ

 

・柿本広大監督、彩奈ゆにこ脚本『BanG Dream! It's MyGO!!!!!

 

 金田一耕助シリーズのような、秘密の過去と閉鎖的な人間関係の、骨太な脚本で面白かった。『悪魔の手毬唄』の犯人も、数え歌で連続見立て殺人をするより、歌にのせて村民たちに思いを伝えたほうが良かったかもしれない。

 原作のプレイヤーとしては、月ノ森女子学園のモデルが学習院女子だったことに驚いた。だが、たしかに地理的に整合的だ。

 続編では、豊川祥子が家庭の経済問題を解決するために、バンド活動をするということが動機になるらしい。作中で頭脳明晰とされる祥子がなんらの公的扶助も利用できないなら、よほど豊島区、東京都、日本国の政治が腐敗しているにちがいない。バンド活動をするより、Ave Mujicaのメンバーで、学習院女子から徒歩5分の田中角栄邸を焼き打ちにいったほうがいい。

 

・ゲーム

 

・『The Cosmic Wheel Sisterhood』

 

 ヴァルハライクなゲームに『VA-11 HALL-A』以来の百合ゲーが来た。

 なお、『VA-11 HALL-A』については2023年、ゲーム翻訳家のnicolithが素晴らしいエッセーを発表している。

 『VA-11 Hall-Aとことば』(https://note.com/nicolith/m/m1ba128062e68

 

 ただ、レビューを見るかぎりプレイヤーが一様に困惑していることだが、占いゲームの本作は、後半で突然、選挙ゲームになる。

 それには直接的な文脈がある。マキャベリが『君主論』で力量(ヴィルトゥ)と運命(フォルトゥナ)を対立させていることだ。マキャベリ論であるハンナ・ピトキン著『Fortune Is a Woman』は、マキャベリの政治哲学が男性中心主義と関係していることを論じる。マキャベリは運命(fortune)、すなわち運命の車輪(wheel of fortune)を敵視し、それを女性性に帰した。また、中世イタリアでもフォルトゥナの表象は女神に移行していった。

 "This civic, human world is what is at stake in the battle of the sexes, men's shared struggle not merely against the real woman whom they encounter, but even more against the lager feminine force: nature, fortune, or whatever her name."(p.232)(この都市、人間の世界は男女の闘争の利害得失において、彼らが接する現実の女性に限らず、より広い女の力――自然、運命、その他に彼女の名前で呼ばれるあらゆるもの――に対し、男性たちが組織する構造なのだ。)

 このため、自由意志によって世界を変えると、変えた世界がその自由意志を定めていたことになる、という自由意志の両義性を描くために、政治という題材が用いられる。

 また、本作はメタ=フィクショナルに、ゲームシステムにおいて自由意志の両義性を表現する。

 そのことは、下掲のブログ記事が詳説している。

 『『The Cosmic Wheel Sisterhood』における一回性とゲームにおける変更可能性の衝突 そして自由意志の危機』https://youge.hatenadiary.jp/entry/2023/11/27/195037

 ただ、同記事は本作の自由意志、すなわち"操作可能性・変更可能性"の自己否定、すなわち"自己回帰性"を批判している。そこには誤解がある。ノイマン著『量子力学の数学的基礎』を参照すると、容易に説明できる。

 

 『量子力学の数学的基礎』は、古典力学的な運動方程式であるハミルトン関数と、エネルギー準位の遷移確率を表す行列につき、両者の同等性を数学的に証明したシュレディンガー微分方程式について、関数空間をヒルベルト空間に拡張し、より堅固な数学的証明を与えるものだ。

 シュレディンガー微分方程式:ψ(q[k];t)=-H(q[k],(-2πi/h)(d/dq[k]))ψ(q[k];t) 

 ヒルベルト空間において…

 ψ(q[k])の系は確率密度|ψ{q[k]}|^[2]で{q[k]}にある。部分空間Iには∫[I]|ψ{q[k]}|^[2]dI。

 固有値λにつき、E[k](λ)(f(q[k]))=f(q[k],0)として、区間q'[k]<q[k]<q''[k]={λ',λ''}のI[k]にq[k]がある確率∫[q''[k]][q'[k]|ψ(q[k])|^[2]dq[k]=∫|E[k](I[k])ψ(q[k])|^[2]。

 これを以下のとおり表記する。:

 E(I)=Σ[λ'≦λ≦λ'']P[ψ,n]

 こうして、量子力学に数学的基礎づけを与えるという本書の目的は果たされる。また、「隠れたパラメーター」仮説が明晰に否定される。「隠れたパラメーター」があるなら、物理量は混合でなく平均になる。そして、他の決定因子が存在するなら、結合関係は矛盾する(p.260)。

 この後、ノイマンシュレディンガー微分方程式について、哲学的洞察を行う。

 系の変化は2通りある。第1に、測定による任意的なもの。U'=Σ[∞][n=1](Uψ[n],ψ[n])P[ψ,n]。第2に、時間経過による自動的なもの。U[t]=e^((-2πi/h)tH)Ue^((-2πi/h)tH)。

 後者は因果的だ。だが、tは独立したパラメーターで、U[t]はUのユニタリー(UU*=U*U=1)、すなわち同型写像だ。よって可逆的だ。

 前者は統計的だ。だが、これのみが不可逆的だといえる。

 こうして因果律に関する直観が否定される。"そして、先入観をもたずに対象に近づくものは、古い考え方に固執するなんの根拠ももたないのである。そのような事情のもとで、合理的な物理学の理論を昔からの考え方のぎせいにするという動機が存在するであろうか?"(p.263)。

 

 測定による変化の不可逆性について、ノイマンは熱力学で説明する。そのため、あくまで証明でなく仮説だ。

 一方的に透過する隔壁が、気体の分子を1/2に集中させる仕事を考える。W、Q/T=Nk(1/2)ln2(ボルツマン定数:k)。

 気体の混合U=Σ[∞][N=1]W[N]P[ψ[N]]とおく(点スペクトル:W[N])。エントロピー:Σ[∞][N=1]W[N]Nk ln W[N]。Spur(U ln U)=Σ[∞][N=1]W[N] ln W[N]より、Uのエントロピー:-Nk Spur(U ln U)。Spur U=1より、U=P[ψ]のみエントロピー=0、その他は>0。

 U=P[ψ[N]]について、U'=Σ[∞][N=1](P[ψ]ψ[N],ψ[N])P[ψ[n]]。よって、測定による変化は不可逆だ。

 そして、ノイマンはシラードを参照し、知識とエントロピー減少が交換されると言う。分子の位置と運動量の知識があれば、エントロピー不変になるからだ。そのため、エントロピーの時間的変化は測定者の無知による。

 なお、ここで測定者に相当する系は任意で、人間は一例に過ぎない。そして、測定はただの系と系の相互作用でしかない(p.333)。反=人間中心主義(アンチ・アントロポセントリズム)は『The Cosmic Wheel Sisterhood』も強調している。

 このエネルギー保存則とエントロピー増大則による宇宙の摂理は、作中でジュンレイシャが説明している。

 

 さて、ブリルアン著『科学と情報理論』は『量子力学の数学的基礎』を発展させ、情報を負のエントロピーの単位にする。

 I=k ln P(情報:I、事象の個数:P)。Iは確率の精度で、0≦I≦1。

 初期状況:I[0]=0、最終状況:I[1]=k ln P[0]-k ln P[1]

 先験的な確率p[j]の情報:i=-kΣ[n][j=1]p[j] ln p[j]

 また、エントロピー増大則を証明する。

 熱源が2つ以上ないかぎり、熱は仕事に変換されない。W-Q[A]-Q[B]=0。熱効率:W/Q[A]=(T[A]-T[B])/T[A]<1。エントロピーの変化が可逆的なら、ΔS[A]+ΔS[B]=0。よって、エントロピーの変化は不可逆だ。

 ブリルアンは情報を物理的な意義をもたない自由情報I[f]と、束縛情報I[b]に分類する。

 I=I[b][1]+I[f]

 I[b]=-ΔS=ΔN(ネゲントロピー:N)

 ΔI[f]≪0、Δ(N[0]+I)≪0

 例えば、自由情報は誰かが所有する情報、束縛情報は音波だ(p.159)。

 

 『The Cosmic Wheel Sisterhood』のゲームシステムによるメタ=フィクショナルな表現について、批判的なひとが誤解しているのは、ゲームについてではない。現実についてだ。

 ゲームと同じく、この世界の「選択肢による分岐」は所与だ。自由意志、すなわち"操作可能性・変更可能性"はあくまで擬制だ。自由意志が両義的、すなわち"自己回帰的"なのは、所与の複数の時系列から擬しただけのものだからだ。本作はあらかじめ、この構造、すなわち、分岐が所与であることと、それはこの世界も同じだということを、ゲーム内ゲームである「インタラクティブ・ブック」で提示している。

 だが、自由意志が擬制でも、意志決定は行わなければならない。そして、情報を得ることは意志決定というより、その前提だ。力量(ヴィルトゥ)と運命(フォルトゥナ)は相対立するのでなく、相即不離なものだ。

 ゲームもまた、そうして伝えられる情報のひとつなのだ。

 

 終盤のグレーテの行動について、さもありなんと思った。いや、「恋愛」の分岐ではない。そもそも、「恋愛」の分岐はあきらかに外挿的だ。ピクセルアートでテキストベースのゲームをプレイするような人間が、"渇望するもの"の選択肢で「恋愛」を選ぶはずがない。陰キャのフォルトゥーナがあえて「恋愛」を選択するとすれば、その相手は同じ陰キャのグレーテがもっとも蓋然的だということだ。

 つまり、『The Cosmic Wheel Sisterhood』のメタ=フィクションに批判的なひとが言いたいことは、この選択肢で『VA-11 HALL-A』のように、テアと交流を深めたり、パトリスと悪魔崇拝のカルトも畏れおののくような近親相姦をしたり、ユーエニアと大角のあいだに鉄板をかければマルガリータピザを何枚も焼けるくらい愛の炎を燃えあがらせたりできるようにして、擬制としての自由意志、すなわち"操作可能性・変更可能性"の価値を示すべきだったということなのだろう。いや、違ったら、マルガリータピザとか言っている私がバカなのだが。

 

・ドラマ

 

ティム・バートン監督『ウェンズデー

 

 最高。

 Netflixオリジナルドラマでスピンオフ作品と、絶対に面白くないはずが、滅茶苦茶面白かった。ティム・バートン監督作品でも最上位に位置する。

 

・その他

 

 アバター動画配信者である名取さなが数年来、勧奨してきた『ブルーアーカイブ』をついにプレイした。

 面白い。推理小説畑の人間だから、ラビット小隊にとくに注目している。

 母校の廃校が決まったときにすることはなにか? アイドル活動で知名度を上げる? なにかの全国大会で優勝する? 公園にピケ張って無期限ストに決まっているだろ!

 

『ブルーアーカイブ』「エデン条約編」のメタフィクション性について

 

 『ブルーアーカイブ』の「エデン条約編」はかなりメタフィクション的です。

 ただし、メタフィクションといっても、あくまで物語に埋めこまれ、隠れたものです。

 でないと、中学生が考えたようなシナリオになってしまいます(「サービス終了したソーシャルゲームのキャラクターたちが世界の終末を旅する」とか、そういうのです)。

 

 さて、「エデン条約編」を通じてキーワードとなるのが、「キヴォトスの『七つの古則』」の「五つ目の古則」です。

 

"セイア「キヴォトスの、『七つの古則』はご存知かい?

 その五つ目は、正に『楽園』に関する質問だったね。

 『楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか』/

 他の古則もまたそうであるように、少々理解に困る言葉の羅列だ。

 ただ、一つの解釈としては、これを『楽園の存在証明に対するパラドックス』であると見ることができる。/

 もし楽園というものが存在するのならば、

 そこに辿り着いた者は、至上の満足と喜びを抱くが故に、永遠に楽園の外に出ることはない。/

 もし楽園の外に出たのであれば、つまりそこは真の悦楽を得られるような『本当の楽園』ではなかったということだ。

 であるならば、楽園に到達した者が、楽園の外で観測されることはない。存在を捕捉されうるはずがない。/

 存在しない者の真実を証明することはできるのか?

 つまるところ……この五つ目の古則は、初めから証明することができないことに関する『不可解な問い』なのだよ。/

 しかしここで同時に、思う事がある。証明できない真実は無価値だろうか?

 この冷笑にも近い文章を通じて、何か真に問いたいことがあるのではないだろうか?/

 エデン……経典に出てくる楽園(パラダイス)。どこにも存在せず、探すことも能わぬ場所。

 夢想家たちが描く、甘い甘い虚像。/

 どうだい? そう聞いてみると、この『エデン条約』そのものが、まさしくそんなもののように思えてこないかい?」"

(第1章第1話「プロローグ」)

 

 「五つ目の古則」の「楽園」は、あきらかに『創世記』の失楽園のエピソードを示しています。

 じつは、『創世記』の失楽園のエピソードは、メタフィクションでしばしば用いられるものです。

 有名なところでは、ポール・オースターの『ガラスの街』があります。

 

 "エデンにおけるアダムの唯一の仕事は、言語を創り出すこと、生き物や事物それぞれに名前を与えることであった。その無垢の状態にあって、彼の舌は世界の核にまっすぐ届いていた。言葉は彼が見たものに付随するだけでなく、それらのものの本質を明かし、文字どおり生命を吹き込んだ。物と名は交換可能であった。堕落後はもはやそうではなくなった。名は物から隔たり、言葉は無根拠な記号の集まりになり果て、言語は神から切り離された。ゆえに楽園の物語とは、人類の堕落のみならず、言語の堕落を伝える物語でもあるのだ。"

ポール・オースター著、柴田元幸訳『ガラスの街』)

 

 『創世記』の失楽園のエピソードが、メタフィクションでしばしば用いられるのは、これがアダムの言語に関わるからです。

 アダムの言語とは原初の言語、普遍言語のことです。

 なぜ、普遍言語がメタフィクションで重要視されるかというと、もし普遍言語が存在するなら、概念と実在がかならず対応することになるからです。

 フィクションで、概念と実在が対応しないと困る理由はわかりますね。ルイズコピペや"惣流・アスカ・ラングレー」「これは単なる絵だ」"のようなことになってしまうからです。

 

 しかも、普遍言語の問題は、現代まで脈々と続いています。

 パオロ・ロッシの『普遍の鍵』と、ウンベルト・エーコの『完全言語の探求』によると、おおまかに以下のような歴史になります。

 先駆的に、ヤコブベーメがバベルより以前の自然言語(ナチュル・スプラキ)を提唱。

 コメニウスが記号と事物との対応の問題を提起。論理学と百科全書に発展。

 ライプニッツが普遍記号法を研究。現代に至る。と、いうことです。

 

 さて、哲学者のドナルド・デイヴィドソンは『真理と解釈』所収の論文「真理と意味」で、こうした問題に決着をつけます。

 すこし遠回りになりますが、「真理と意味」の内容を説明します。

 

 デイヴィドソンは、フレーゲの論理学による普遍言語の試みを批判します。

 フレーゲはすべての文に対象を与えようとしました。ですが、「アネットの父」の「の父」は無限につけ足すことができて、これにはあきらかに対象がありません。

 また、文の意味は指示だと見なしました。ですが、これだと同じ事物を指示するすべての文は同じ意味だということになります。そんなはずはありません。

 

 デイヴィドソンは、「t(名辞)がx(独立変項)を指示する」という形式の文すべてが意味をもてればいいとしました。個々の語についても、文が意味をもつだけの意味があればいいということです。

 また、意味は「s(文)がm(文の意味を指示する名辞)を意味する」という形式の文すべてを帰結としてもてばいいとしました。

 こう考えれば、意味は指示を兼ねるので、対象を想定しなくてもいいわけです。

 ある文の意味は、その言語のすべての文の意味を与えれば、与えられることになります。

 これは言いかえれば、「s(文)はthat p(pということ)を意味する」となります。

 この「を意味する」は、次のように言いかえれば、消去できます。

 「sがTであるのは、pの場合、かつその場合に限る」。

 以上から、ある言語に関する意味とは、すべての文を含意するだけの制約を述語「Tである」に与えることだといえます。

 おわかりでしょうが、「Tである」は「真である」です。

 こうして、意味については意味を使わず、真理(真か偽か)だけですべてを表わせるわけです。真理が何かは、文が加わるたびに変わっていきます。

(冗長になるので言及しませんが、クワインの『ことばと対象』は『真理と解釈』とたがいに補っていて、参考になります)

 

 こうして、普遍言語の問題は決着がつきました。

 ですが、これは失楽園でもありました。

 概念と実在の、唯一で絶対の結びつきを絶つことでもあったからです。

 

 「エデン条約編」での、聖園ミカの裏切りも、こうして可能になるわけです。

 

 いうまでもなく、『ブルーアーカイブ』のシナリオはひとつの文です。

 「最終章」では、ゴルコンダがメタフィクション的に「テクスト」と言ってさえいます。

 

 ミカの裏切りとは、裏切り行為というより、むしろキャラクターの変化ということです。

 もちろん、いまはミカについては、「もう夜遅いから返信はしなくていいよ。おやすみ」というモモトークがきたら、誰でも危険信号が点いたと考えるキャラクターです。

 ですが、「エデン条約編」の第2章「不可能な証明」までは、その言葉を文字どおりに受けとっていいキャラクターでした。文字どおりに受けとって寝たら、翌朝には未読が50件くらい溜まっていそうなキャラクターではありませんでした。

 

 このことは、言語についてだけでなく、現実の心理についても当てはまります。

 

"ハナコ「……いえ、先生が仰りたいことは――/

 私たちにはミカさんの本心を察することなどできない……そういうことですか?」

〈「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」……〉

ハナコ「五つ目の……/

 楽園に辿り着いた者は、楽園の外で観測されることが無い。存在することを観測できない……楽園の存在証明に関するパラドックス……」

〈……証明できないものを、どう証明するのか。〉

ハナコ「……。

 もし「他者の本心」なんてものに辿り着いたら……それはもう、他人ではありません。/

 辿り着けないなら、やはり本心など分かっていないということで……。/

 楽園も、誰かの本心も一緒……そういうことですか?/

 ……確かに、そうかもしれませんね。私たちは誰かの心に直に触れる方法も、その真実を証明する術も持ってはいません。/

 「誰かの本心を理解した(楽園に辿り着いた)」という言葉を、どうすれば「本当」だと証明することができるのか……/

 正に矛盾……不可能なのでしょうか。他者の本心を理解する方法は、無いのでしょうか……。」

〈……無いんだろうね、きっと。〉

ハナコ「……。」

〈それはきっと、不可能な証明……。/

 ……だとすればもう、信じるしかないのかもしれない。/

 そこには楽園がある、って。〉

ハナコ「……。/

 そう、ですね……。/

 考えてみれば、先生は最初からそうでしたね。この疑惑と疑念で満ち溢れたお話の、初めからずっと――」"

(第3章第3話「ポストモーテム(3)」)

 

 デヴィッドソンは『行為と出来事』所収の論文「行為・理由・原因」で、ひとの行為の意図は、理由というより原因だといいます。

 理由については、このように定式化できます。

 「記述d、行為Aについて、理由Rであるのは、以下の場合、かつその場合に限る。RはAに対する賛成的態度と、Aのdに関する信念である」。

 ただし、理由はつねに複数考えられます。なので、行為と意図については因果性が必要で、意図は理由というより原因だということです。

 

 そして、同書所収の論文「心的出来事」で、心理について述べます。

 態度と信念が意味をなす、または、行為を記述するときは、行為と信念と欲求に最大限の合理性と整合性を想定しなければならない。これは言語行為を解釈するときと同じである。と、いうことです。

 

 こうして、テクストのキャラクターと、現実の人間が同じ問題でとらえられます。

 このことは、逆説的に、作品がフィクションであることをユーザーに意識させます。つまり、メタフィクション的になります。

 

 そのことを象徴するのが、「エデン条約編」でキーパーソンとなる百合園セイアです。

 セイアは予知能力をもち、時間を超越して、作中のすべての出来事を知る立場にいます。そして、そのすべての出来事は変えることができません。

 つまり、セイアはユーザーと同じ立場にいます

 

 また、セイアはキヴォトスにおいて死は見えにくい概念だと言います。そして、その例外がヘイローを破壊することだと言います。

 これは、そのままソーシャルゲームのキャラクターのことだといっていいでしょう。

 例外的な死とは、シナリオにおける死や、システム上での抹消のことだといえます。

 

 ただ、キヴォトスにおける生死については、秤アツコの絆エピソードで言及があります。

 アツコが"「子どもって、どうやってできるの?」"と尋ね、「先生」が慌てふためくというものです。

 これによると、キヴォトスにおける生殖も現実と同じものということになります。

 もっとも、アツコの脱いだ蒸れたレオタードの周りで「先生」が三日三晩踊りあかせば、そのなかから生命が誕生するという仕組みだったりするのかもしれません。だとすると、「先生」が言葉を濁すのも当然です。

 

 セイアはキヴォトスでは「約束」が重要だと言います。

 これは、作品ではテクストそのものは無視できないことだといっていいでしょう。

 一度テクストにしたものは、制作者の過誤や都合で無かったことにはできないということです。

 

 

"セイア「先生、君はキヴォトスの外部から来た人間であり大人だ。となれば、契約、取引……そういった「約束事」のもつ重要性についてよく知っていることだろう。/

 たとえば「悪魔と契約する」、という言い回しがあるだろう?/

 昔話においても「驚異的な何かが不注意な約束をしてしまったがために敗北する」、あるいは逆に「そういった約束によって打ち勝つ』というお話は幾つもある。/

 ……だけど、そこからはこうも読み取れないかい?/

 単純な紙切れ、あるいは口約束に過ぎないとしても……「約束」というものは時に何かを強く拘束し、定義付けることもある。/

 契約、戒律、約束……こういったものはそれら昔話と同様に、キヴォトスにおいても重要な概念だ。/

 例えばトリニティの経典には太古の始まりの「神性」、そしてそれとの間に締結された10の戒名が描かれている。/

 その他にも、私たちは原初において「約束」を破ったから楽園から追放されたのだ……そのようなことも書き伝えられている。/

 ……今さらな話かな。なにせ実際に君は、そういった概念を利用した誰かを救ったことがあったはずだ。」"

 (第3章第10話「甘い嘘」)

 

 こうして、「エデン条約編」は『ブルーアーカイブ』という作品そのものの是非を問うものになります。

 そのことは、プロローグであらかじめ述べられます。

 

"セイア「もしかしたらこれから始まる話は、君のような者には適さない、似つかわしくない話かもしれない。/

 不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を顰めるような……/

 相手を疑い、前提を疑い、思い込みを疑い、真実を疑うような……/

 悲しくて、苦くて、憂鬱になるような……それでいて、ただただ後味だけが苦い……そんな話だ。/

 しかし同時に、紛れもない真実の話でもある。/

 どうか背を向けず、目を背けず……最後のその時まで、しっかり見ていてほしい。」"

(第1章第1話「プロローグ」)

 

 さて、では、その答えはどのようなものでしょう。

 それは、ただ信じるというだけのことです。

 

 

"セイア「……。/

 これが全ての、無意味な足掻きの終着点……。/

 私はアズサに警告をしていた。何度も何度も、このような結末になるだろうということを。/

 それでもアズサは、希望を抱いてしまった。淡い希望を。/

 ……。

 だから言っただろう?/

 これが物語の結末。何もかもが虚しく、全てが破局へと至るエンディング。ここから先を見たところで、無意味な苦痛が連なっていくだけだ。/

 これはつまるところ各位が追い詰められ、結局誰かが誰かを殺める物語。誰かが、人殺しにならざるを得ない話。/

 不快で、不愉快で、忌まわしく、眉を顰めたくなるお話だ。/

 悲しくて、苦くて、憂鬱になるような。それでいて、ただただ後味だけが苦いお話……そうは思わないかい。/

 しかし同時に、紛れもない真実の話でもある……。/

 これが、この物語の正体だ。/

 ……。/

 君は以前、五つ目の古則に対してこう言っていたね。/

 「ただ楽園があると信じるしかない」、と。/

 然して、信じた結果がこれだ。/

 元より不可能だったのだよ。エデン条約、お互いに「憎み合うのはやめよう」という約束。/

 そんなこと、できるはずが無いというのに……。/

 その上、条約の名前に「エデン」と来た。ここで楽園の名前だなんて、相変わらず連邦生徒会長の不愉快な冗談は皮肉にもほどがある。下手をすれば悪意すら感じてしまいそうなほどだ。/

 このプロセスを経て、確認できたものはあるだろう。/

 それは不信から降り積もった、ゲヘナとトリニティの互いへの恨み。そしてアリウスたちが持つ恨み。/

 それらを通じてこの条約は、歪な形で完成されてしまった。

何よりも皮肉なことに、何処にも存在しない、証明すら出来ない……その楽園の名前を携えて。/

 まさに、楽園から追放された私たちに相応しい結末なのかもしれないね。」"

 

"セイア「……先生。君は未だに、楽園を信じているのかい?/

 証明すらできないまま、ただ盲目的に信じていると?/

 「楽園に辿り着きし者の真実を、照明することはできるのか」……

 つまりこれは楽園証明の話ではなく、ただそれを信じられるかという話だとでも……?」"

(第3章第15話「五つ目の古則への答え」)

 

 信じるというと聞こえは良いですが、実際にはそれしかできないので、消極的なことです。

 

 デイヴィドソンは『真理と解釈』で、解釈は「慈善の原理(プリンシプル・オブ・チャリティー)」を前提にしなければならないと述べます。

 文は発話者に最大限の合理性と整合性を想定しなければ、解釈できないということです。

 「慈善の原理」というと聞こえが良いので、最近は「チャリタブル・リーディング」などという新語もつくられたりしています。

 ですが、「慈善の原理」はあくまで最大限の合理性と整合性を想定するものです。ですので、発話者に悪意があったり、愚かさがあったりすることを想定することさえ含みます。

 「チャリタブル・リーディング」などというひとは、それ以前に正確にリーディングしたほうがいいでしょう。

 

 さて、「エデン条約編」の最後で「先生」は信じるという消極的なことをおこないます。

 ですが、その結果は知ってのとおりです。

 まさに予想外の展開である、阿慈谷ヒフミによる『ブルーアーカイブ』のタイトル回収です。

 これはそれまでのテクストからして、予想外でありながら、きわめて妥当なものです。

 ですので、ユーザーも感動します。

 

 信じるという、それだけしかできない、消極的なことの価値を知らしめる『ブルーアーカイブ』の「エデン条約編」は、優れたフィクションであり、またメタフィクションだといえます。

 

 最後に、楽園と、楽園としての文学について、ニコール・クラウス著、広瀬恭子訳『フォレスト・ダーク』から引用します。

 

 "楽園からの追放は、その主たる点において永遠である。したがって楽園からの追放は決定的であり、この世での生は逃れようがないが、それにもかかわらずその過程の永遠性ゆえに、我々は永久に楽園にとどまりつづけることが可能になったばかりか、現にいまも楽園にいるということもありうるのだ。この世の我々がそれを自覚していようといまいと。

 ――カフカ"(『フォレスト・ダーク』巻頭言)

 

 "けれど楽園追放は、カフカの理解では、生命の木の実を食べなかった(、、、、、、)せいなのだ。あの庭の真ん中に立っていたもう一方の木の実を食べていたら、目覚めたわたしたちの体内には永遠が、カフカが「不滅のもの」と呼んだ存在が宿っていたはずだった。いまや人は誰しも善悪を見分ける力においては基本的に対等だとカフカは言う。差が出るのはその知恵を得たあと、それに従って各々が動く努力しなければいけないところからだ。それなのにわたしたちには善悪の判断に従って動く力が足りないためにあらゆる努力は無に帰し、しまいにはその努力で身を滅ぼすだけになりかねない。エデンの園であの実を食べたことで身についた知恵をなかったことにしたいだけなのに、それができないばかりに正当化を図り、そうしたら今度は世界に正当化が溢れかえることになった。「ひょっとしたら現世そのものが」とカフカは思いをめぐらせる。「束の間の休息を求める人間の自己正当化以外のなにものでもないのかもしれない」。どうやって休息を得るのか? 知恵それ自体が目的になりうると思いこむことでだ。その間、アダムとイヴが致命的に生命の木を見落としたのとまったく同じように、わたしたちは自分たちの内にある永遠を、不滅のものを見落としつづける。永遠がそこに、いつでも自分の内にあって、上に向かって枝を伸ばし光の下で葉を広げていると信じていなければ生きていられないくせに、見落としつづけるのだ。そういう意味では、楽園とこの世界とのあいだのとば口など錯覚なのかもしれず、じつはわたしたちは楽園を離れたことなどないのかもしれないとカフカはほのめかす。そういう意味では、わたしたちはいまこの瞬間ですらも、そうとは知らず楽園にいるのかもしれないのだ。"(『フォレスト・ダーク』p.286)

 

 ちなみに、『フォレスト・ダーク』にはヘイローについての記述もあります。

 

 "リビングでスイッチに手を触れると、自動調光機能つきの室内灯が目を覚まし、東側の壁に一つだけかかっている小さなパネル画の表面に、つやのある金色の光輪が二つ浮かびあがった。幾度となく見てきた光景だが、その効果を目にするたび、頭皮がそくっとする。それは唯一手もとに残してある傑作で、六百年近く前にフィレンツェで描かれた祭壇飾り用のパネル画だ。(中略)

 ……二人の頭のまわりの平らな金色の円盤だけが、奇妙に静止している。なぜ当時は光輪をこんなふうに描くことにこだわったのだろう。奥行きの錯覚の生み出し方を発見したあとでもなお、これについてだけは執拗な平面性に常に立ち戻ったのはなぜか。しかもそれがなんでもよかったわけでなく、神の近くに引き寄せられ、無限によって満たされるものの象徴にほかならなかったのは?"(『フォレスト・ダーク』pp.44-5)

 

 ここまで読まれたかたなら、この修辞疑問文の答えはもうおわかりでしょう。もちろん、ヘイローを描き忘れないためです。

 

 ついでに、『ブルーアーカイブ』の「最終章」についても触れます。

 「最終章」は、より直接的にメタフィクション的です。さまざまな用語が登場します。

 ですが、「エデン条約編」で問題になった、概念と実在という区分に当てはめれば、理解するのは簡単です。

 

 「最終章」から登場する用語で中心になるのは「崇高」と「色彩」です。

 

 「崇高」は、美学論であるカントの『判断力批判』で扱われる概念です。

 カントは人間の認識能力を理性、悟性、判断力に区分しました。ここで重要になるのが、超越論という概念です。超越論は論理学や数学といった、普遍的な法則のことです。

 もうおわかりでしょうが、超越論には直接的には触れることができません。失楽園です。実際、『純粋理性批判』では、理性だけによる「恩寵の王国」というユートピアが仮定されています。

 ですが、美感に近い判断力では、超越論的なものにほぼ触れることがあります。そのときの感覚が「崇高」です。

 

 ゲマトリアは「崇高」を目指しています。

 超越論的なものは上位の次元にあるといえます。

 つまり、作中世界で「崇高」を目指すとは、フィクションの力を使って、メタフィクション的に現実世界を目指すということでしょう。

(リオタールの『崇高の分析論』はこのことを詳しく述べています)

 

 「色彩」についても、『判断力批判』に「色」は「魅力」だという論点があります。

 「美」は形式であって、色は形式に注意をうながすためのだけのものであり、「魅力」であって「美」ではないといいます。

 一方で、やはり「美」ではない「崇高」とは、ある意味で近いともいいます。

 メニングハウスの『吐き気』は『判断力批判』を分析しています。

 それによれば、理性、悟性、構想力が、それぞれ「崇高」、「美」、「吐き気と羞恥心」に対応するそうです。ここでは、判断力と構想力は区別しなくてもいいです。「吐き気と羞恥心」は「魅力」と同類とみていいでしょう。

 

 つまり、作中世界での「色彩」は、「崇高」とは別の方法で現実世界を侵蝕するものだといっていいでしょう。

 例えば、エログロです。

 つまり、「色彩」はエロ二次創作のたぐいだということです。

 このことを考えれば、ゲマトリアが「色彩」に恐怖し、敵意を抱くこともわかります。

 

 冗長になるのでいちいち説明しませんが、その他の用語も同じように整理できます。

 また、最終章が『ブルーアーカイブ』のプロローグに繋がり、アロナが失踪した連邦生徒会長だったと明かされる物語の円環構造も、同じように解釈できます。
 「先生」、すなわちプレイヤーを作中世界に招来させ、物自体であるテキストを、悟性をもって認識させる。それにより、作中世界を「実在」化させる。それが連邦生徒会長の目的だったということでしょう。
 つまり、ジーン・ウルフの『デス博士の島』タイプのメタフィクションだということです。

太ったおばさん著『出会って4光年で合体』感想

 高名な批評家であるロラン・バルトは、写真論の『明るい部屋』で「ポルノ写真はエロティックではない」と言った。

 バルトはメイプルソープの作品を指し、「この写真は定型的なイメージではなく、タイツの網目に私の注意を向けさせた。これでようやく、この写真はエロティックになった」と言う。

 そして、SMの愛好家たちを、定型的なイメージを実現しないかぎり満足できない人々として憐れむ。

 なぜ、ポルノはこれほど非難されなければならないのか。

 

 ただし、バルトは偏見でポルノを侮っているわけではない。

 バルトは『恋愛のディスクール・断章』で「今日ではセックスより感傷のほうが社会の禁忌を犯す」と言う。

 これは現代について正しい意見だろう。

 つまり、ポルノについても現代では正しい。

 

 『出会って4光年で合体』で、くえんは文字どおり、傾国の美女として描かれる。

 そして、それは読者にとって説得力をもつ。

 なぜか。

 そもそも絵柄、つまり、様式(スタイル)が他の登場人物と違うからだ。

 

 バルトは小説論の『零度のエクリチュール』で文体(スタイル)を問題にした。

 前近代から近代に移行するにつれ、小説のリアリズムは自明のものでなくなり、小説がリアルかを判断する上で、文体が意識されるようになった。

 逆に、文体が意識されなければ、小説は自明にリアルだということだ。これが「零度の文(エクリチュール)」の意味だ。

 

 文学者のジェラール・ジュネットは、『物語のディスクール』で、これをより明確に定式化する。

 物語内容(イストワール)、物語言説(レシ)、語り(ナラシオン)だ。

 物語内容は内容、物語言説は文章だ。そして、内容と文章が分離すれば、創作活動、つまり語りが問題化される。

 

 現代アメリカ文学のポスト・モダン小説や、ラテンアメリカ文学マジック・リアリズムも、こうしたナラティブの問題意識のもと書かれた。

 作中で引用される、『メイスン&ディクスン』のトマス・ピンチョン、『楽園への道』のバルガス=リョサといった作家もそうだ。

 フランスの実験文学のグループ「ウリポ」は、言葉遊びに傾倒した。作中の『らくゑんの餅』の言葉遊びと同じ意識だ。

 

 そもそも、本作の大量の引用、脱線しがちな語りといった話法は、いわゆるポストモダン文学のものだ。

 

 もちろん、本作でもっとも目立つナラティブはナレーションだろう。

 このことは後述する。

 ただ、コマとフキダシで構成された漫画が、手塚治虫以後の少年漫画における慣習でしかなく、もともとナレーションも一般的だったことは述べておく。

 このことは岩下朋世『少女マンガの表現機構』と、孫引きだが、三輪健太郎マンガと映画』引用のET「絵物語と漫画の違い」が実証している。

 

 さて、橘はやとの出生は村上龍コインロッカー・ベイビーズ』を強く意識させるものだ。

 

 蓮實重彦は『小説から遠く離れて』で、村上龍の作品の特色を、大量の短い描写の印象強さにおく。

 また、福嶋亮太『らせん状想像力』は、村上龍の作品を細分的でピクチャレスク(絵画的)と評する。

 これは本作にもそのまま該当するだろう。

 

 『コインロッカー・ベイビーズ』は捨子の物語だが、『小説から遠く離れて』は、近代で小説が誕生したことを、捨子であることを誇ることになぞらえる。

 そうすることで、前近代の封建社会のくびきを逃れる。

 この図式はマルト・ロベール『起源の小説と小説の起源』による。

 

 エリアーデが『永遠回帰の神話』で示すとおり、前近代の封建社会は不変の秩序を前提にしている。

 

 ところが、近代が進展し、現代になると、ふたたび決定論が優勢になる。

 ナラティブの問題意識も、そのひとつだ。

 すべてを技術的に再現できるのなら、リアルなものなど存在しない。

 

 本作では、『銃・病原菌・鉄』がパロディされたうえで、作者の渡辺麦が長宗我部真男に思想対決で敗北する。

 『銃・病原菌・鉄』の書きぶりでは、アタワルパが鉄を知っていれば、スペインに勝てたようだ。だが、そんなはずはない。

 つまり、『銃・病原菌・鉄』は決定論的で、歴史を軽視している。

 本作が代わりにおくのは、洞窟壁画とフィクションの力を重視する『サピエンス全史』だろう。

 

 ジャック・モノー『偶然と必然』が示すとおり、人間の存在は偶然の積み重ね、つまり歴史による。

 

 なお、長宗我部真男によって崩壊へと導かれるカセドラルも、そうした対比での命名だと思われる。

 エリック・レイモンド『伽藍とバザール』が説明しているが、カテドラルはソフトウェア開発における計画的、バザールは臨機応変な方法の通称だ。

 

 九尾Cは自分たちの食糧が情報であり、人間はその源だと告げる。

 シャノンの定理によれば、情報はネゲントロピーだ。これはブリルアンの『科学と情報理論』が詳しい。

 シュレディンガーが『生命とは何か』で言うとおり、生命はエントロピー増大のために生まれた。

 人間は、熱的死という不可避の結末に向かう、エントロピー増大という決定論の、局所的な逆転だ。

 

 だが、決定論が優勢になれば、人間は目的を見失う。

 創作では、創作の純粋性を高めることか、創作活動への自己言及が目的になる。

 そして、その他の創作は不純だとして否定される。

 かならず挙げられるのは、政治的なプロパガンダ、商業的な広告、そしてポルノだ。

 

 だが、なぜポルノが否定されなければならないのだろう。

 引退したアバター動画配信者である皇牙サキは、アバター動画配信の黎明期、ポルノのファンアートについてこう言った。「問題があるのはわかるんだけどさ。否定はしたくないんだよね。だって、エロい創作って絶対にいいものじゃん!」

 

 本作の終盤における、谷川順の独白は、やや泣かせるものだ。だが、それも本作がピクチャレスクな文体をとっていなければ、ただのフィクションのお涙頂戴で終わっていただろう。

 

 本作のナレーションは、終盤において九尾Cの一人称だったことが明らかにされる。つまり、物語内容(イストワール)から物語言説(レシ)へと分離する。

 だが、それはナラティブを意識させるだけではない。

 ナレーションは言葉どおり消滅し、セックスがはじまる。

 

 長いまわり道を経て、本作はようやくポルノをイメージではなく、リアルだと読者に認めさせた。

 

 だから、本作のラストはこれほどまでに感動的なのだ。

 

 "しまった……、願った後で後悔する橘はやと。

 今のだったら後段だけでいいじゃん……。

 一言一句一致しなきゃいけないんだぞ……。

 天文学的な確率じゃん…。

 ただでさえ至難の難易度だろうに……なぜ二文もの文言を……絶対無理じゃん……。ん?"

 

 文字どおり、信じられない奇跡を信じさせたために。

 フィクションだからではなく、リアルだと思えるからという理由で。

 

廾之著『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』読解 - 橘ありす=時任謙作=竹原秋幸 -

 

1. 要約

 

 廾之著『アイドルマスターシンデレラガールズ U149』の読解をおこなう。

 本論では『U149』が物語に対抗する物語であることを論証する。反=小説(アンチ=ロマン)でない、物語に対抗する物語の先例として、志賀直哉著『暗夜行路』と中上健次著『枯木灘』を参照する。その際、両作の分析である蓮實重彦著『「私小説」を読む』、『文学批判序説』、『小説から遠く離れて』を援用する。

 補論として、『U149』の表現とその主題との関係を分析する。

 

2. 本論「物語に対抗する物語」

 

2-1. 『暗夜行路』と『枯木灘

 

2-1-1. 序論

 

 『U149』の主題論は物語に対抗する物語だ。また、説話論は各キャラクターを主役とする物語の連作で、錯雑としている。いずれも複雑だ。そのため、先例とその分析を参照する。

 なお、アニメ版はこの複雑さが易化されている。おそらく、アニメ(アニメーション一般でなく、いわゆる日本のアニメ(anime))という媒体の性質のためだ。

 

 志賀直哉の『暗夜行路』と中上健次の『枯木灘』という範例は蓮實重彦による。

 蓮實は『文学批判序説』で、『枯木灘』を"『暗夜行路』以来の知的な作品"と選奨する。"言葉と思考との程よい距離の計測という知識人風の営み"に対し、距離の意識という錯覚、距離の捏造を排除し、言葉そのものと取り組む"聡明なる知性"をもつ。蓮實はそれを文学の絶対的な条件とまでいう(p.255)。

 主題論だけでなく、『暗夜行路』と『枯木灘』は主人公も類似する。

 蓮實は『「私小説」を読む』で、『暗夜行路』の主人公である時任謙作が凡庸であることを指摘する。

 実のところ、『岬』と『枯木灘』の主人公である竹原秋幸も、義兄の工務店で現場監督を勤めあげることだけを目標とする凡庸な人物だ。誹謗中傷ではないが、このことを蓮實は『小説から遠く離れて』で"染まりやすさ"と指摘する。

 

 『「私小説」を読む』における典拠は以下のとおりだ。

 

 "時任謙作と命名された虚構の人物が『暗夜行路』の主人公たる特権的な存在だとしたら、それは、特異な生いたちと妻の不貞とが不幸な色調に染めあげるその宿命を超えんとする意志の力によってでもなければ、行動の軌跡や心理の綾といったものが、ひときわ鮮明な輪郭の肖像を描きあげているからでもない。謙作が耐えねばならなかった程度の不幸ならどこにもころがっていようし、性格もうんざりするほど凡庸で、人を魅了する陰影にとぼしい。"(p.25)

 

 これは『U149』と『暗夜行路』および『枯木灘』の類似でもある。

 『U149』の主人公である橘ありすは凡庸な人物だ。『U149』で、橘ありすは渋谷凛と継承の関係性をもつ。その理由の一部は、この人格の共通性だろう。

 なお、橘ありすはアニメの類型的なキャラクターである、いわゆる毒舌キャラではない。例えば、ゲームにおけるTIPSの「橘ありすのウワサ②」は"インターネット上での議論は建設的ではないためやらない主義らしい。"だ。こうした人格の世俗的なところは、アニメのキャラクターの類型性を逸脱している。渋谷凛も同様だ。

 橘ありすの注文と叱責は、むしろ『不思議の国のアリス』のアリスや、『我らが共通の友』のジェニー・レンといった、子供が大人ぶるときのナンセンスに関連づけられる。

 

 "`--yes, that's about the right distance--but then I wonder what Latitude or Longitude I've got to?' (Alice had no idea what Latitude was, or Longitude either, but thought they were nice grand words to say.)"(『Alice's Adventures in Wonderland』)

 

 "The dolls' dressmaker had become a little quaint shrew; of the world, worldly; of the earth, earthly."(『Our Mutual Friend』)

 

 廾之もこのことを意識している。

 

"橘ありすについて

頭の良い子なので、どこまで考えててどこまでを言葉にするかを気をつけています。

メンドくさい子(そこが可愛い!)ですが、Pへの反応や

乗り越える壁がはっきりしてる分扱いやすい子だと思っています。

大人びつつも、まだまだ子供である事を忘れないようにしています。"(『U149』第1巻「あとがき おまけ」、p.172)

 

 子供であることによるナンセンスを除けば、橘ありすはまったく面白みのない人格だ。だが、面白いといわれるものが字義どおりに面白いことはない。また、自分を面白いと思っている人物は深刻につまらない。よって、橘ありすの人格の面白みのなさは普遍性をもつ。このことは時任謙作と竹原秋幸にもいえる。

 

2-1-2. 『暗夜行路』

 

 蓮實は『「私小説」を読む』で『暗夜行路』を以下のとおり分析する。

 『暗夜行路』は「二」の主題、偶数原理をもつ。「比較」と「選択」、さらには「類似」と「反復」だ(p.20)。

 結婚は「一」という奇数性の勝利でなくてはならない(p.37)。妻は偶数性と奇数性の戯れを超えた領野をみずから捏造する(p.44)。

 主人公の謙作は、過去を物語として提示しつつ現在を回避することの安易さと、過去を不断に現在に投影しつつ生きる物語の困難という、二者択一で苦しむ。だが、これもあくまで偶数原理だ(p.49)。

 偶数原理は、とくに次の対立構造に表れる。母に屋根から下ろされるか、娼婦を二階に引き上げるかだ。終盤で、妻である直子はみずから登山する。つまり、自発的に上昇する。ここで偶数原理は消滅する(p.56)。これは、『暗夜行路』が唯一無二の作品になったことも意味する(p.59)。

 

 修辞法を除けば、偶数原理とは志賀直哉の正確無比な作風だろう。これは著名な短編の『焚火』にあらわれている。また、この作風のため、志賀は短編作家として実力をあらわす。志賀が長編小説の『暗夜行路』を完成させたとき、それは読者を世界そのものに開くものだった。これが結尾部への賞讃の意味だろう。蓮實はあえて触れていないが、この賞讃は、むしろ名高い大山の描写に相応しいだろう。

 なお、正確無比な作風と、短編作家として実力をあらわすということは、初期の中上健次にもいえる。

 

 『「私小説」を読む』における典拠は以下のとおりだ。

 

 "人はいかにして犯された罪を懺悔するかという点をめぐって、彼は、いまは芸者をしている「栄花」という女義太夫と「蝮のお政」という旅役者を例に引き、「現在、罪を犯しながら、その苛責の為め、常に一種張りのある気持(、、、、、、、、、)を続けてゐる栄花の方が、既に懺悔し、人からも赦されたつもりでゐて、其実、心の少しも楽しむ事のないお政の張りのない気持(、、、、、、、)よりは、心の状態として遥かにいいものだと思ふ」という。かつて「栄花」と呼ばれた女義太夫は、嬰児殺しをしてまで男と別れようとはしない「芸者の中でも最も悪辣な女」として知られ、「蝮のお政」は、男を殺した自分の過去を芝居に仕組んで、日々、罪ある過去を悔いながら各地を巡業して歩くという女である。そこには、「過去」という「類似」があり、「償罪」をめぐる姿勢の「比較」がある。そして、「栄花」の態度をよしとする「選択」もある。その二者択一の根拠となっているのが、張りのある気持(、、、、、、、)と張りのない気持(、、、、、、、)という「緊張」=「弛緩」の双極性であることは誰の目にも明らかであろう。いうまでもなくお政の「弛緩」よりも栄花の「緊張」に惹かれる謙作は、前篇の終り近くで栄花のことを小説に書こうとさえ思いたち、ついに書きあげることなくその着想を放棄しなければならない経験を持っている。おそらくそこには、罪を告白することで存在を弛緩させつつ生きるというキリスト教的な「償罪」観にたいする志賀直哉の狂暴な反撥が読みとれるかもしれないが、ここで重要なのはその点ではない。「懺悔と云ふ事も結局一遍こつきりのものだから」という謙作が「蝮のお政」の中に認めているのは、過去を物語として提示しつつ現在を回避することの安易さであり、「懺悔もいつそ懺悔しなければ悔悟の気持も続くかも知れない」と考える謙作が「栄花」の中に感じとっているのは、過去を現在へと不断に投影しつつ生きることが開示する物語の困難である。そして、彼は、物語の安易さに対して、物語の困難さを選んでいるのだ。とうぜんのことながら、「栄花」の物語は書くことができない。"(pp.48-9)

 

 "この感慨は、日本女性としては典型的なあの自己犠牲の精神といったものとはまったく無縁の場でつぶやかれたものと考えなければならない。それは、「作品」の構造から自分が排除されてはおらず、夫とともにその磁力を触知しうる自分を確認しえたものが、偶数的世界を統禦していた「選択」原理の崩壊を身をもって生きる瞬間の歓喜の表明にほかならぬのだ。『ドンキホーテ』と『真夏の夜の夢』の婚姻は、このときはじめて排除された偶数として成就する。それを、感動的と呼ばずにいられるだろうか。そしてその感動は、前(、)篇、後(、)篇、第一(、)部、第二(、)部といったあからさまな偶数原理に従って書きつがれてきたこの長篇小説が、唯一無二の「作品」へと変容する瞬間の感動でもあるだろう。そのとき「作品」は、作家たる志賀直哉の側にあった構想も、読者の誰もがたどりえた物語をも同時に超え、何ものにも帰属することのない不断の言葉の戯れを現出せしめる。だからこの感動は、志賀的な「主題」郡がかたちづくる構造的な相貌に無感覚な人間には、永遠に禁じられるほかはないものだろう。だが、「作品」を読む(、、)という体験は、書く人と読む人との間で演じられるあの偶数的な関係をも廃棄する一瞬の感動でなくて、何であろう。"(pp.59-60)

 

 蓮實はわざわざ指摘していないが、『暗夜行路』は結尾近くでここまで直接的に書いている。

 

 "其晩、彼は蚊帳の中の寝床を片寄せ、その側に寝そべつて、久しぶりに鎌倉の信行に手紙を書いた。彼は自分が此山に来てからの心境について、細々と書いてみるのだが、これまでの自分を支配してゐた考が余り空想的であることから、それから変化した考も自分の経験した通りに書いて行くと、如何にも空虚な独りよがりを云つてゐるやうになり、満足できなかつた。さういふ事を書く方法を自分は知らないのだとも思つた。"

 

 『枯木灘』につき、蓮實は比較論として『一番はじめの出来事』を挙げる。多幸感に包まれた、自他未分化な幼少期の描写として、『暗夜行路』では序詞が当てはまるだろう。

 

 序詞と大山の描写は以下のとおりだ。

 

 "四つか五つか忘れた。兎に角、秋の夕方の事だつた。私は人々が夕餉の支度で忙しく働いてゐる隙に、しかも手洗場の屋根へ懸け捨ててあつた梯子から誰にも気づかれずに一人、母屋の屋根へ登つて行つた事がある。棟伝いに鬼瓦の処まで行つて馬乗りになると、変に快活な気分になつて、私は大きな声で唱歌を唄つて居た。私としてはこんな高い処へ登つたのは初めてだつた。普段下からばかり見上げていた柿の木が、今は足の下にある。

 西の空が美しく夕映えてゐる。鳥が忙しく飛んでゐる……

 間もなく私は、

「謙作。――謙作」と下で母の呼んでゐるのに気づいた。それは気味の悪い程優しい調子だつた。

「あのネ、そこにぢつとしてゐるのよ。動くのぢや、ありませんよ。今山本が行きますからネ。そこに音なしくしてゐるのよ」。

 母の眼は少し釣り上がつて見えた。甚く優しいだけ只事でない事が知れた。私は山本の来るまでに降りて了はうと思つた。そして馬乗りの儘少し後じさつた。

「ああつ!」母は恐怖から泣きさうな表情をした。「謙作は音なしいこと。お母さんの云ふ事をよくきくのネ」。

 私はじつと眼を放さずにいる、変に鋭い母の視線から縛られたやうになつて、身動きが出来なくなつた。

 間もなく書生と車夫との手で用心深く下された。

 案の定、私は母から烈しく打たれた。母は亢奮から泣き出した。

 母に死なれてからこの記憶は急に明瞭(はっきり)して来た。後年もこれを憶ふ度、いつも私は涙を誘われた。何といつても母だけは本統に自分を愛してゐてくれた。私はさう思ふ。"

 

 "中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はつきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏を伏せたやうに平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟が所々に見え始めた。然し麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却つて暗く、沈んでゐた。謙作は不図、今見てゐる景色に、自分のゐる此大山がはつきりと影を映してゐる事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上つて来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度地引網のやうに手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似てゐた。

 中国一の高山で、輪郭に張切つた強い線を持つ此山の影を、その儘、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。"

 

2-1-3. 『枯木灘

 

 蓮實は『文学批判序説』で『枯木灘』を以下のとおり分析する。

 『枯木灘』は残酷な物語を語ろうとする自分を、物語の残酷さに送り返し、その機能を試練として受けいれる。物語は現存としての環境であり、同時に、物語が組織する言葉が語る対象は、不在の物語の残酷さだ。作品は"この現存と不在の同時的な戯れ"により構成される(p.180)。

 比較論として、『一番はじめの出来事』は幼少期の体験をその視点から語っているが、残酷な体験を残酷な物語として語ることの甘美さをまとった牧歌的な作品だといえる(p.181)。

 

 "そして彼は、記号の解読という作業が、何よりもまず聡明さを必要とする力仕事だということを知っている。そしてこの聡明さは、精神の問題でも肉体の問題でもない。ただ、物語を読むという作業が、必然的に物語に読まれることでしか終りえないという現実を、物語という暴力装置があたりに波及させる現存と不在の戯れの中で学びえたものの聡明さが問題なのだ。その意味で、中上健次は、近年まれに見る聡明な作家だといえる。"(p.188)

 

 蓮實は『小説から遠く離れて』で、『枯木灘』をさらに具体的に分析する。

 『枯木灘』は物語に従うことで、逆に自らを物語から小説へと解放する。物語的な典型への執念が、無方向性を示す。執念がその不在と似る。物語とは、言葉をその方向の消滅へと導く誘惑だ。そのため、秋幸は「染まりやすさ」を特徴とする(p.130)。

 中上の初期の短編作品は「染まりやすさ」を放棄させる命令の遅延による。対して、長編小説は中上にとって失楽園の物語となる(p.142)。

 秋幸が捨子であることは、欠落でなく過剰による。孤児や私生児を主人公とする小説のほとんどは、共同体的な慣習の物語にすぎない。対して、『枯木灘』は共同体の外に出ることを目指す。捨子の物語からは外部に位置する。捨子の物語ではなく、物語の捨子となる(p.149)。

 構築が、物語がその不可能性そのものに合わせて進む物語を構築する。『枯木灘』は物語が物語の限界と接してしか語られないという事実の推移を追ったレアリスム小説だ(p.150)。

 捨子が捨子として完全なのは、親殺しの機会が奪われているからだ(p.152)。秋幸は実父である浜村龍造そのものでなく、その言語的な表象と、それがあたりに波及させるイメージに苛立つ。表象化された父親の実子であるため、完全な捨子になることができない(p.158)。

 典型的な物語なら龍造との対決で終わる。だが、龍造は何事も等価交換できるという神話的、古代的な無法の世界にいる。そのため、対決は無効となり、『枯木灘』では中盤でしかない(p.179)。

 『枯木灘』は母と女に説話論的な役割がない。また、主人公に性格と心理がない。愛への執着が希薄だ。秋幸はたんなる血の伝承の装置となり、近代的な意味での恋愛が、歴史の意識とともに消滅する。超=歴史的、古代的な王者の孤独に至る。路地は、その無限に物語を生成する場所だ(pp.209-12)。

 そもそも、小説はアリストテレスの『詩学』が根拠づける文芸の伝統、すなわち抒情詩、叙事詩、演劇ではない。正統的な起源を欠き、近代に誕生した文芸の私生児だ。蘇生を虚構によってはじめて現実化する。子であることを決定的に否定するのではなく、「完璧な捨子」として蘇生する、存在を虚構化することによって物語の構築に加担する(p.229)。

 物語のように、あるいは物語に従って小説を書くなら、たんなる物語の伝承装置になるだろう。そうではなく、私生児性により、物語の解読装置となり、物語から無限の継承という属性を奪い、その真実のみを再生させる(p.231)。

 中上が言う路地への愛しさは、失われたものへの郷愁ではない。退行ではなく、虚構化への欲動だ。中上のこれ以降の創作活動は、路地の物語を小説として解説する作業になる(p.232)。

 

 近代に誕生した小説が、神話的、古代的な力をもつという議論がやや複雑だ。これは、いわゆるポストモダンが近代とともに誕生したということを踏まえれば分かりやすい。つまり、近代は自己を超克する力をすでにもっていたということだ。

 浜村龍造は"「なんでもかまうか。車もじっても、人を怪我させても、弁償したらええんじゃ」"(河出文庫、pp.184-5)という交換原理で、近代的な法を無効化する。

 また、龍造は浜村孫一の伝説を宣伝し、自らの血族を権威付けしようとする。龍造の噂や、浜村孫一の伝説に対し、秋幸はきょうだい心中の俚謡や、伊邪那美命の伝説で対抗しようとする。最終的に、秋幸そのものが噂となり、そうした物語を伝える土地だけが残る。

 

 蓮實が『文学批判序説』と『小説から遠く離れて』で引用する、『枯木灘』の冒頭の自他未分化な描写は以下のとおりだ。

 これは具象的には自然描写であることが優れている。

 

 "舗装された道路は川に沿って続いていた。トンネルを抜けるとすぐに川の蛇行にあわせてカーブがあった。川は光っていた。水の青が、岩場の多い山に植えられた木の暗い緑の中で、そこだけ生きて動いている証しのように秋幸には思えた。明るく青い水が自分のひらいた二つの眼から血管に流れ込み、自分の体が明るく青く染まっていく気がした。そんな感じはよくあった。土方仕事をしている時はしょっちゅうだった。汗を流して掘り方をしながら秋幸は、自分が考えることも判断することもいらない力を入れて掘りすくう動く体になっているのを感じた。土の命じるままに従っているのだった。硬い土はそのように、柔らかい土にはそれに合うように。秋幸はその現場に染まっている。時々、ふっとそんな自分が土を相手に自瀆をしていた気がした。いまもそうだった。"(p.13)

 

 なお、蓮實はあえて指摘していないが、序盤で秋幸は自然だけでなく労働とも同化している。

 

 "ミキサー車が可もなく不可もない出来のコンクリをつくりあげ、人夫はただそのこね上ったものを一輪車に受けて運ぶだけでよかった。文昭がこの組を繁蔵から引き受けてから、生コンは「藤田」から注文した分だけ届く。モーターでミキサーをまわし、バラスを入れ、砂を入れ、ころあいを見てセメントと水を加えて目分量で程よいコンクリをつくる手仕事は要らなくなったのだった。秋幸はそれが不満でもあった。徹や女の人夫や運転手の運んできた一輪車の生コンを、秋幸と中野さんが型板につっこみ、バレンで平らにする。それは土方ではなく左官屋と一緒だと思った。それでも掘り方や石垣積みと同じように汗が出た。汗が眼に入り、痛かった。手も腕もコンクリがついているためぬぐうことも出来なかった。秋幸はまた自分の体が、光を受けた山や川の景色に染まり始めていると感じた。それが快かった。安心できた。"(pp.37-8)

 

 秋幸は物語に物語で対抗しようとする。

 

 "みかん畑は濃い緑に光っていた。

 音はなかった。秋幸は白く光る山の際、その山裾から広がるみかん畑を見ていた。秋幸は自分の中にゆっくりと首を持ちあげてくるものがあるのを知った。山が幾つも連なってある。それは秋幸らの住む土地も、有馬も変わらなかった。山は、だが、あの土地で見るものとは違って見えた。山は架空の物語に出てくる山だった。石碑のあるその寺にむかってだだっぴろく山裾に広がるみかん畑も架空の土地だった。その山、その土地は、大きな体の蛇の眼をしたその男、蝿の王浜村龍造の熱病がつくり出す架空の物語の場所だった。火の神を産み、女陰が焼けて死んだ伊邪那美命を葬った窟は車で五分たらずのところにある。神話の中の黄泉はここだった。このあたり一帯だった。そこに男は碑を建てた。"(pp.198-9)

 

 『枯木灘』の結尾部は以下のとおりだ。『暗夜行路』と同様に、ここで主人公は消滅する。また、この悠大な自然描写は『暗夜行路』の大山の描写に通じる。

 

 "まだ昼からの仕事にかかるには一時間もあるのを知り、徹は文昭の家へ行こうと外に出た。日が丁度空の真中に、白く破け穴のようにあった。風は凪いでいた。九月の日にさらされ、あぶり出され、道も家も樹木も動きを忘れてただ日を耐えているようだった。徹は文昭の家へ道を歩き、それから思いついて、山の石段へ抜ける道を歩いた。小山へは幾つも道があるのだった。小山は耕やす者もなく、雑木ばかりだった。徹は石段に出た。草のいきれ、土のいきれがした。徹は石段をのぼった。石段の中ほどから、雑木の中に入り、その小枝に青い小さな実が幾つもついているのを知り、取ってポケットに入れた。そのすぐ下が、竹藪だった。竹藪からではなく徹のすぐ脇から、草色の小鳥が飛び出しあわただしく翼を広げ、縮めながら、製材所の方へ下りて行った。徹は石をひろい、雑木の方へ投げた。また投げた。小鳥は飛び出してこなかった。徹は雑木の幾つもおり重なった枝を払って前へ進んだ。山は徹を安心させた。一度、秋幸にそう言うと、秋幸も安心すると行った。「山ばっかしあるとこを見てきたし、小さい時から山でチャンバラごっこしたり、〈秘密〉つくって遊んだんじゃもん」秋幸は言った。木の枝を切り、幹を切り、隠れ家をつくり、他所の町の子供との戦争の武器をたくわえた。女の子が仲間に入る時もあった。枝のしなる力を利用したコブチで小鳥を取った。小鳥は赤い実の餌に誘われ、コブチにかかり、頭が潰れたり足が折れて死んでいた。

 頂上に出て、徹は小屋の中をのぞいた。

 徹は小屋の横から、草が密生した見はらしのよい松の根方に出た。そこから山の下に製材所が見え、道を幾つも曲ると秋幸の家が見えた。防風林と海があった。日は、真南にあった。草が呼吸していた。雑木の葉が呼吸していた。いきれが息苦しく、むせた。風が突然、吹く。ざわざわと草が音をたてて動く。くっくっ、とわらう声がした。振り返った。石段から山の頂上への昇り口に、あごのたるんだ白痴の子が口を開け、笑をつくり、徹を見ていた。口を開け、くっくっとわらい声を喉の奥で立てる。徹が山に上るのを見つけて追ってきたと思った。

 歯が虫歯のため黒く見えた。また山が鳴った。徹は山鳴りの音を耳にしながら、立ちあがり、顔に笑をつくって、手まねきした。"(pp.369-71)

 

2-1-4. 『U149』

 

2-1-4-1. 序論

 

 まず、『U149』の脚本を見て、その主題論が物語に対抗する物語であることを論証する。

 ここでは第1巻から第4巻所収の第23話『第3芸能課⑦』までに集中する。本作には"大きなあらすじ"(『U149』第5巻「あとがき」、p.159)がある。登場人物の名前を冠する話数に対し、第1-3話から、二度目の「第3芸能課」の名前を冠する話数で、このあいだで大きなプロットがまとまっている。

 とくに、第1-3話『第3芸能課①』-『第3芸能課③』と、第4-6話『橘ありす①』-『橘ありす③』、第20-23話『第3芸能課④』-『第3芸能課⑦』を扱う。この各編が作品の説話で中心をなすためだ。

 なお、補論として第83-86話『横山千佳①』-『横山千佳④』を扱う。作者が自薦しているためだ。

 その後、アイドルという題材が、論証した主題論と親和的であることを見る。また、説話論における登場人物の配置が、その主題論に即していることを見る。

 最後に、その主題論と作品の制作との関係を見る。

 

 『暗夜行路』と『枯木灘』には、対比的に幼少期の視点をとる文章がある。それにもかかわらず、『U149』を前者の範例とするのは以下の理由による。

 第1に、『U149』では子供の可塑性を絶対視していない。第32.5話「描き下ろし小編」には以下の場面がある。佐藤心が"「"自己紹介だけ"で動画を作れるのって」「未来が無限大な子供ならでは…かもね」"と慨嘆し、ページをまたぐとともに、衛藤美紗希に"「何言ってるんですかあっ」「心さんも美優さんもまだまだ可能性の塊ですよおっ」"と反論される(第5巻、p.143-4)。

 第2に、『U149』の主人公は橘ありすだ。主役たちは子供だが、年齢によって分化されている。橘ありすをはじめとする12歳の登場人物に対し、市原仁奈龍崎薫、横山千佳の9歳の3人は自他未分化に描かれている。3者を主人公とする各編は、そうした多幸感に満ちている。

 市原仁奈編では、福山舞が市原仁奈を気遣ったことに対し、市原仁奈はそうした対他行動を踏まえず、単純に自分の心情を言う。そのことがかえって福山舞を励ます。"「私…ほら みんなとの合流遅くなっちゃって…」「その間にもみんなはお仕事いっぱいしてたんだよね」「だからかな 中に入る時は私もしっかり頑張ろうって」「ちょっとだけドキドキしちゃうんだー」「仁奈とおそろいです!」「え?」「仁奈もこれから舞ちゃんといっぱいお仕事できるんだーって」「ドキドキワクワクしてやがりますよ!」"(第4巻、p.143)。

 龍崎薫編では、龍崎薫はプロデューサーを励まそうとするとき、単純に自分がされれば喜ぶことをしようとする。"「何作ろっか」「えっとねー」「おにぎり!」「おにぎり?」「うん!」「あのね! おにぎりってこう 手でギュっギュって握るでしょ?」「美味しくなーれ! 笑顔になーれ! って」「元気を注入(ちゅーにゅー)しやすいんだって!」"、"「ママに教えてもらったの! だからかおる達のおにぎり食べたら」「プロデューサーさんもいつもの元気いっぱいになるよね!」"(第7巻、pp.39-40)。

 横山千佳編では、小関麗奈の忠告に対し、横山千佳は悪意があることを疑わず、単純に受けいれる。"「千佳の演技は何とかした方がよくない?」「…えっ」「だって」「あのままじゃただの」「アニメのキャラの真似じゃない」"、ページをまたぐサスペンスを介し、"「ま… マネっこになってた!?」"と続く(第10巻、pp.175-6)。

 仮に、自他未分化な子供が大人の意図に反応しているように見えるのなら、それは大人の願望を投影しているだけだ。

 

2-1-4-2. 第1-3話『第3芸能課①』-『第3芸能課③』

 

 第1-3話『第3芸能課①』-『第3芸能課③』の説話論は、子供であるということの固定観念を対象化することが中心主題だ。"〈プロデューサーを待ってたって言ったことも〉〈仕事を早く取ってきてと言われたことも〉(小学生らしい素直な言葉だと受け取ってたけど)"、"〈本当は〉〈憧れていたアイドルに不安を覚えた日々から〉〈抜け出したかったからじゃないのか?〉"(第1巻、pp.67-8)。

 無論、この固定観念は物語というほど強固なものではない。だが、この微細な描写はここから始まる作品の全体を予示している。『U149』ではプロデューサーは身長が低く、子供である登場人物たちと目線が近い。仮に、これが凡庸な作品だったら、プロデューサーと登場人物たちを、大人と子供という単純な対比で図式化していただろう。その場合、説話は子供が大人の与える事物に喜ぶか、大人が子供のとる想像の埒外の行動に驚き、未来に希望をもつかだ。その両者とも大人の価値観を実現しているだけだ。前者の欺瞞は自明だ。後者について、想像の埒外であることは既成概念でのみ、未来は伝統的価値観でのみ意味づけられる。

 

2-1-4-3. 第4-6話『橘ありす①』-『橘ありす③』

 

 第4-6話『橘ありす①』-『橘ありす③』は作品の主題論を中心主題におく。

 グラビア写真の撮影で、橘ありすは自然体の笑顔を要請され、それに応じることができない。これが凡庸な作品なら、橘ありすが自然体の笑顔をつくるだけだ。いわゆる脚本術が提唱するところの、脚本における障害とその克服だ。

 本編で、橘ありすが障害に直面したあとの、プロデューサーと橘ありすとの対話はきわめて緊密に構成されている。

 前提として、舞台設定は公園という開空間になっている。導入部で、プロデューサーと橘ありすの接触は、プロデューサーがキャンディによる人形劇という、橘ありすをあからさまに子供扱いすることによる。"「そうやってまた 子供扱いして…!」"(第1巻、p.132)。橘ありすはそれを額面どおりには受けいれないが、同時に、これによって両者の緊張は緩和する。ここで子供という固定観念は対象化される。

 実のところ、要請された自然体は子供という固定観念を擬したものだ。そのため、橘ありすは二律背反に陥る。それに対し、プロデューサーは、子供らしくない、意識的な表情のほうが橘ありすにとって自然だったと指摘する。そして、この方向性で再撮影する。

 プロデューサーがこの指摘をおこなうコマでは、公園という開空間で、背景にビルを遮蔽物として活用する。これにより、構図が安定感のあるものになる。"「私は」「最初の写真の方が予習の成果を出せたいい写真だと思っています」「でもカメラマンさんもプロデューサーも」「あの写真じゃダメだったんですよね…?」"(p.133)、"「まさか!」「オレもあの写真すげーいいと思ったよ!」"(p.134)。または、被写体であるプロデューサーを構図の中心に配置する。"「で…でも それでは クライアントの要望から外れてしまうのでは…?」「いや! この際思いっ切り外れちゃった方がいい!」「もっといい橘さんらしい(・・・・・・)一枚を見せれば」「それを使いたいって思うに決まってるからな!」"(p.148)。自然であるということの形象化は複雑微妙だ。そのため、構図の安定性が必要となる。開空間で背景に遮蔽物を活用し、安定感を演出することは、ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』のベルリンの壁が先例に見られる。

 そして、青空という自然描写がおこなわれる。"「オレは 橘さんならもっといい写真撮れると思ってるよ」"(p.149)。

 この自然描写は、第25話『第3芸能課⑦』の海辺と第40話『櫻井桃華③』の青空、第81話『橘ありす④』の川原に見られる程度の、作品で例外的なものだ。第22-25話『第3芸能課④』-『第3芸能課⑤』は橘ありす編と同様、作品にとって中心的なものだ。また、櫻井桃華は橘ありすと類比的な位置にある。

 ここにおける自然描写は『暗夜行路』と『枯木灘』における自然描写と類似のものだ。より直接的には、中上健次に私淑する、青山真治の『EUREKA』の結尾部における空撮シーンと類似している。

 

 『EUREKA』の空撮シーンにつき、青山真治は以下のとおり述べる。

 

"――『Helpless』は空撮で始まり、『EUREKA』は空撮で終わります。『路地へ〜中上健次の残したフィルム〜』でも主人公は中上健次の生まれた場所を高い場所から俯瞰しようとします。以前お話ししたときに、「自分が映画を撮っている」という自意識で映画を作っているわけではなく、自分ではない、別の視線、誰でもない視線が世界を見ているということを前提に映画を作り、それが俯瞰という視線になる、といっていましたが。

 言わばそれは大文字の歴史の視線だと思うんです。僕は常に歴史と自分のふたつの視線で映画を作っている気がしてます。摑みどころなく広くて複雑な東京では、目の高さで地図を作るように映画の視線を設定している。歩きまわって頭の中に地図をイマジネ―としてるわけです。九州では地図は前提なんですね。そこからどう解放されるかが目的になるんです。

――『EUREKA』や『Helpless』の不穏さというものは、その俯瞰が象徴するような視線――自分を取り巻く世界をどう見るか、という視線から生まれてくるような気がします。

 ただその歴史の構造を漠然と眺めているだけじゃなく、どう見るかが問題なんです。そこに展開する絶望的な繰り返しをまだやるか、といった呆れや怒りや無念さが発動する時、物語が動く。しかしそれだけではまだ不十分なんですよ。そこに〈実感〉が伴わないと。それに映画を作ることにすべてを賭けているんです。

 そしてその絶望的な繰り返しの退屈さを見せつけるんです。しかもそれだけじゃなくて、その退屈さ、くだらなさを忘れないために僕の映画はあるんです。"(青山真治著『われ映画を発見せり』所収「『EUREKA』」、pp.105-6)

 

"――映画のラストシーンについては?

 照れてる自分も巻き込んで、これが正しいんだという、僕の信じる正義みたいなものが、最後の最後に立ち現れているのかもしれません。あんな山のてっぺんにポツンといる小さな存在を応援している視線が、最後のカットなのだ、と思います。"(p.106)

 

 第4-6話『橘ありす①』-『橘ありす③』、そして『U149』の主題論は、所与の物語に対し、現実的で具体的な認識と、登場人物の主体性で対抗することだ。だが、そうした現実性や具体性も、すぐ抽象化され、物象化される。そのため、そうして対抗することは不断に続けなければならない。要言すれば、これは物語に対抗する物語だ。

 

 なお、第6話『橘ありす③』の縦長の仰瞰のコマ割りは、第81話『橘ありす④』において、縦長の俯瞰のコマ割りとして対比的に反復される(第10巻、p.131)。

 『橘ありす③』で橘ありすが主体化を促されているのに対し、『橘ありす④』では橘ありすが客体化され、それに対する反応を促されているのだといえる。

 

 また、この場面におけるアイレベルの高さの交錯は、作品において例外的なものだ。むしろ、作品において典型的な演出は、第10話『赤城みりあ③』のクライマックスに見ることができる。このことは『U149』の表現の特質として、補論において後述する。

 

 さて、ここでは錯時法により、プロデューサーがあらかじめカメラマンと段取りをつけている。仮に、単線的で直線的な話法により、経時的に、橘ありすが変心したあとで段取りをつけたとする。その場合、説話論としては非現実的で、主題論としては情緒性だけを問題にする浅薄なものになっただろう。

 登場人物が各々で主体性をもち、ときに登場人物のあいだで知性と信頼により、共時的な出来事が生じる。そのことが作品を深長なものにしている。

 

 また、このクライマックスののち、本編の結尾部では緩徐楽章らしく、橘ありすが自然な笑みを浮かべているグラビア写真が描写される(第1巻、p.162)。自然さを形象化することは、自家撞着の危険をもつ。そのため、『U149』では自然であることの表現は謙抑的におこなわれる。第1-3話『橘ありす①』-『橘ありす③』では、こうして事後的に回顧するかたちでだけおこなわれる。

 

 また、本編では橘ありすに関するプロットに、橘ありすと櫻井桃華のライバル関係がサブプロットとして構成されている。ライバル関係という対比は、結城晴編における結城晴と的場梨沙でも用いられる。さらに、第22-25話『第3芸能課④』-『第3芸能課⑤』では、12歳の5人において、橘ありす、櫻井桃華、的場梨沙と、結城晴、古賀小春という対比がおこなわれ、彼らとより年下の登場人物との対比がおこなわれ、子供たちと大人である佐藤心、三船美優との対比がおこなわれる。さらに、佐藤心と三船美優という配役も対比的だ。"「そこの負けず嫌い組 顔が怖くなってんぞー」「負けず嫌い組って何よ!!」"(第3巻、p.155)。

 こうした分化が正確無比な作風を構成し、作品を深長で頑丈なものにしている。一方、的場梨沙編は結城晴編に対し、やや生彩を欠く。その主因はプロットの一部を遊佐こずえの人物紹介に当てたためだ。ただし副因として、結城晴編の結城晴と的場梨沙の対比に対し、的場梨沙と遊佐こずえの対比が非対称的であることにもよるだろう。

 蓮實重彦志賀直哉について言う「偶数原理」だ。このことは廾之自身も言う。

 

"そんな舞編では一緒にお仕事をするアイドルも

真面目っ子とギャルで対比をしましたが、

宿題回では千枝を通して舞と千枝、真面目な子同士の違いを考えてみました。"(第12巻「おまけ」、p.176)

 

 

2-1-4-4. 第20-23話『第3芸能課④』-『第3芸能課⑦』

 

 第20-23話『第3芸能課④』-『第3芸能課⑦』では橘ありす編と同様、子供であるということの固定観念を要請され、登場人物たちが二律背反に陥る。"「でも… 台本は段取りだけだから 自由にやってOKだって…」「まあまあ そうだけど それはあくまで建前というか 台本に縛られない"子供らしい回答"を期待してのことというか」"(第3巻、p.141)。

 ここで、低年齢の登場人物は二律背反にとまどう。一方、古賀小春を除き、12歳の4人は仕事として、物象化された子供という固定観念に応じるつもりでいる(p.145)。だが、橘ありす、櫻井桃華、的場梨沙の3人は能力を発揮できずに終わる(p.152-4)。

 このことにプロデューサーは焦燥を抱く。ここでロケ地を見失うというトラブルが起き、プロデューサーは自分が探すという、やや見当違いの提案をする。だが、それに対し、低年齢の登場人物たちが自分たちも探すと言う。登場人物たちはロケバスを降り、徒歩でロケ地を探す。こうして、あらためて登場人物たちは自発的な行動をとる(第4巻、pp.16-9)。その模様が撮影され、結果的にロケ撮影は成功する。

 

 本編はロードムービーだ。場面の多くはロケバスの車内だ。一方、ロケ撮影であるため、旅は直線的でなく、むしろ円環的だ。終盤で、目的地を見失うことにより、旅は決定的に彷徨となる。そこで、登場人物たちはバスを降り、移動手段はバスから徒歩になる。

 車内の場面では、大型バスや列車に一般的な、通路を活用した遠近法の構図は厳密に避けられる。さらに、俯瞰による等角投影法の構図を用いる(第3巻、pp.114-20)。このことは多人数を描写する必要性にもよる。だが、それ以上に登場人物のデラシネ(放浪者)という立場を表わすためだ。そのため、登場人物たちが目的を見つけ、バスを降りて歩きはじめた場面は、アイレベルがミドル・ポジションのロング・ショットになる。そして、ここで順行である左向きの移動であることを示したあと、画面の奥に向かう、移動撮影のような歩行の場面が展開する(第4巻、pp.20-3)。

 俯瞰のショットによるデラシネの表現は、ヴィム・ヴェンダース監督のロードムービーの諸作に先例がある。とくに、『パリ、テキサス』の導入部が顕著だ。青山真治は『われ映画を発見せり』所収の『大きな男の逡巡 ヴェンダース中上健次』で、その"抽象性・唯物性"により両者を併置する。

 『U149』では唯物主義の微視的(マイクロスコピック)な手法が、描き文字による台詞に表れている。"千佳ちゃんのプリント絵がいっぱいだー! いいなー!"(第9巻、p.180)。"「傘持ってて良かったぁ〜」「降るって分かってたら 新しいレインブーツ履いてきたのになぁ」 傘はおニュー! かわいい♪"(第11巻、p.128)。

 

 "唯物論的な、固有の〈物語〉。しかし〈物語〉という制度に従属する者としてこれほど矛盾した態度もなかろう。だが、元来〈物語〉とは、映像や言葉(小説)を「強制」し、その「内にある「生」を吸い尽くしてしまう」制度であり、しかしそれなしでは「生きることも不可能な」、もどかしい「矛盾」であった筈だ。この「矛盾」を生きることこそ、映画や小説を作る営みそのものに違いない。彼ら大きな男たちは、そのもどかしさを自らの身体感覚と瓜二つのようにことさらに体感していたのではないか。そしてそのもどかしさと折り合いをつけるためか、彼らは唯物性へ、固有性へ、それが大きな男の生理であるかのように時として埋没し、語られる〈物語〉を停滞させる。"(pp.147-8)

 

 "想像の映画と物の映画。カメラによるシニフィアンシニフィエの分解。但し、それらは彼らの中で地続きに、ひとつながりのフィルム上を共有する……。

 この抽象性・唯物性なしに映画はありえない。物語だけ、あるいは映像だけなら、映画でなくても構わないのだ。"(p.148)

 

 アッバス・キアロスタミ監督にもロードムービーの諸作がある。ヴェンダースの『パリ、テキサス』と対照的に、『オリーブの林をぬけて』は結尾部で俯瞰のショットを使用する。両者と比較すれば、本編における表現の意味合いはなおさら鮮明だ。

 

 さて、ロケ撮影の後、宿泊施設でプロデューサーは登場人物たちの、登場人物たちはプロデューサーの会話を立聞きし、互いへの信頼を強める(第4巻、p.38、p.42)。立聞きという出来事は偶然による。そして、偶然の出来事として、プロデューサーと登場人物たちの声がそろう。"「花火 やらないか!?/やりたい!」"(p.48)。

 こうした偶然性は超越的なものだ。二度目の「第3芸能課」の名前を冠する物語として、また、これ自体で重大な物語として、この程度の超越性は普通だ。だが、本作は自然さを形象化することについて、きわめて謙抑的だ。

 こうして海辺で花火がおこなわれるが、プロデューサーと橘ありすは、花火に興じる登場人物たちを距離をおいて眺める。そして、橘ありすが意志的に決意を述べる。"「オレは今日色々と勉強になったなー…」「まぁ近道はないし 地道に進むしかないんだけどさ」「プロデューサー」「私達も」「です」"(p.51)。

 ここでの自然描写もやはりミドル・ポジションだ(pp.52-3)。

 『EUREKA』の導入部はバスジャックだ。ここのバス車内の撮影は閉塞感を演出するものだ。『EUREKA』では導入部のバス車内から、結尾部の大自然に移行する。この青山が言うところの往復運動について、第20-23話『第3芸能課④』-『第3芸能課⑦』は、結尾部で個人と自然を対等な関係に留めている。

 このとおり、本作は物語に対抗する物語だ。

 

2-1-4-5. 第83-86話『横山千佳①』-『横山千佳④』

 

 最後に、補足として第83-86話『横山千佳①』-『横山千佳④』を見る。

 作者が自薦しているため、登場人物の名前を冠する話数を検討するなら、とくに参照すべきだ。

 

"千佳編の続きからスタートの第11巻です!

個人的に千佳編は構図・演出共に作者の意図と上手くかみ合ってくれたと思っていて

かなり好きなお話のひとつです。"(第11巻「あとがき」p.191)

 

 ヒーローショーを演じるにあたり、横山千佳は演技がオリジナルなものでないことに悩む。"「でも」「魔法少女(マジカルミラクル)のセリフとポースは」「魔法少女(マジカルミラクル)達のものだもん!」"、"「プロデューサーくんはアニメ見てないから分からないんでしょ!」"(第10巻、p.184、p.185)。

 これが凡庸な作品なら、横山千佳がオリジナルとされる演技を発見するだけだ。いわゆる脚本術の障害とその克服だ。

 だが、そうではない。

 正確無比な作風からは当然だが、マニエリスムバロックで、「魔法少女(マジカルミラクル)」のアニメを見るという、たかだか消費活動が問題の解決になることもない。その行為は現実的に必要だが、必要最小限に描写される(第11巻、p.57)。なお、マニエリスムバロックは、マンガの表現ではそれぞれポップとサイケデリックに当たるだろう。アイドルについて、前者の成功例は平尾アウリ著『推しが武道館いってくれたら死ぬ』だ。エヴァンズの『魔術の帝国』によれば、マニエリスムとは写実主義形而上学の二義性だ。

 来園客の子供が落とし物をする。それについて、横山千佳と南条光は仕事と信念の板挟みになる。プロデューサーが演出を変更させ、2人に時間を捻出する。2人が客席後方から舞台に上がるというものだ。結果、2人は落とし物を発見できる。

 この説話は強引だ。だが、作品の表現はそれに値するものだ。客席後方から登場することで、いわば横山千佳が花道を駆けぬけることになる。構図上で、横山千佳は左端に配置され、右から左への直線的な運動がおこなわれる(pp.60-61)。

 終演後、横山千佳はこのことを回想する。その際、作品ではほぼ唯一の例外である、超現実的な演出がおこなわれる。構図上で、横山千佳は右端に配置され、中央の超現実的な輝きに正面から向かう。"「すごいよね!」「アイドルって」「ほんとうに魔法が使えちゃうんだよ!」"(p.79)。

 ここには、オリジナリティや現実という仮象を実在だとする誤解はない。そうでなく、仮象に実在する人物が変化する。

 これは、ただ純心な少女の夢が叶うという牧歌的なものではない。ショーン・ベイカー監督『フロリダ・プロジェクト』の結尾部と同じ、凄絶なものだ。

 

 このとおり、本作は「物語の暴力性」(『「私小説」を読む』「流離譚を読む」)、「物語の暴力性、あるいは神話本来の残酷さ」(『文学批判序説』「中上健次論」)についてきわめて鋭敏だ。

 

2-2. アイドル

 

 『U149』の主題論は物語に対抗する物語だ。

 この主題論はアイドルという題材による。

 

 前提として、現代は後期資本主義、脱産業社会だ。ここで、経済はニューエコノミーになる。

 クリスティアン・マラッツィは『現代経済の大転換』で、脱産業社会の特徴として、次の3点を挙げる。1. 市場の飽和状態。規制緩和、市場開放。2. 失業率改善のための、賃金上昇によるインフレリスクの減少。3. 経済循環の国際的シンクロナイゼーション。

 そして、『資本と言語』で、それによるニューエコノミーを定義する。通貨創造の主体が中央銀行から金融市場に移行することだ。

 また、ディスインフレーションを分析する。特徴は次の3点だ。1. デフレ開始。1979年、FRB議長のポール・ボルカーマネタリスト政策に転換。2. 貨幣と生産性との矛盾。フォーディズムケインズ主義のもとでは、インフレ政策と賃上げがおこなわれた。対して、現代では生産のフレキシブル化と労働の外部化がおこなわれる。3. 収穫逓増の経済への転換。

 

 この経済の転換は大きな影響をもつ。

 とくに、トマ・ピケティは『21世紀の資本』で資本収益率>経済成長率により、今後、不平等が絶対的に拡大していくことを実証した。

 2015年、世界の上位62人の富は下位50%に等しくなった。これは、2014年には85人、2010年には388人だった。

 2016年、世界の上位1%の富は下位99%に等しくなった。

 同年、アメリカでは上位20人の富が下位50%に等しかった。上位1%が国民所得の20%を独占した。これは80年代には国富の33%、国民所得の12%を独占するだけだった。

 上位1%の平均年間世帯所得は、全体の平均の100万倍だ。これは80年代には20倍だった。

 「上位1%」は誤称で、上位0.1%、上位0.01%と呼ぶほうが適切だ。

 70年代から、アメリカの上位0.1%の所得は4倍、上位0.01%の所得は6倍になった。残りはわずか1.75倍だ。

 

 論文集『ピケティ以後』で、デヴィッド・ワイルは『所得格差、賃金決定、破断職場』で賃上げの停滞について分析する。なお、ワイルはアメリ労働省、賃金労働時間部門長官の歴任者だ。

 1949-79年、生産性は119%増加。平均時給は72%、福利厚生を加えた平均時間報酬は100%増加した。一方、1980-2000年、生産性は80%増加したが、平均時給は7%、平均時間報酬は8%しか増加しなかった。

 これは下請けと人材派遣、フランチャイズ化とライセンシング、第三者管理システムによる。こうした外部委託と外注、条件付き作業合意は、以下の理由による。1. 労働組合の回避。2. 社会保障便益の転嫁。3. 賠償責任の最小化。

 まさにニューエコノミーの特徴だ。

 また、上位1%の所得の急騰について、技術革新と教育と技能の競争による反論がある。これはピケティが『トマ・ピケティの新・資本論』で再反論している。最上位の労働所得が平均賃金より急速に上昇したのは、新技術と独自の技能によって、これらの労働者が平均以上に生産性を上げたからという説明は、循環論法だ。

 

 アメリカでは80年代に確定給付年金から確定拠出年金に移行した。

 家計の金融資産比率は80年代から現在まで、30%未満から60%まで上昇した。

 世銀副総裁の歴任者である、ジョセフ・スティグリッツは『世界の99%を貧困にする経済』で、リーマンショックを以下のとおり分析する。

 リーマンショックの時点で、住宅バブルと消費ブームにより、アメリカ人の下位80%は平均で所得の110%を消費していた。

 その時点で、金融部門はシェアでGDPの8%、企業収益総額の40%を増やしていた。収穫逓減の法則では、資本収益率が下がり、賃金が上昇する。だが、国の総資産の総所得に対する比率が上がりながら、平均賃金が横ばいのため、実質の資本収益率は低下しなかった。こうして不動産価格が上昇した。

 量的緩和策の主眼は中小企業への融資を回復させることでなく、株価を回復させることだった。したがって、雇用を創出することでもなかった。リーマンショック後の最初の3年間、所得増加は95%が上位1%のものだった。

 

 今年、2023年も、シリコンバレー銀行、シグネチャー銀行、ファースト・リパブリック銀行と、アメリカの銀行3行が破綻した。とくにファースト・リパブリック銀行の破綻はリーマンショック後で最大、史上2番目の資産規模のものだった。

 ファースト・リパブリック銀行の破綻の主因は、預金口座の多数が富裕層のもので、そこに取り付け(ラン)が起きたためだ。

 これは金融中心の経済の脆弱性と、いわゆるナラティブ経済学の浸透を示す。

 

 さて、アイドルはニューエコノミーにおける仕事の特徴を満たす。

 マラッツィは『資本と言語』では、脱産業社会の特徴として以下の6点を挙げる。

 1. フォーディズムの批判

 2. 労働時間の長時間化

 3. ヴァーチャル産業の拡大

 4. 労働作業の計測の不透明化

 5. 記号と資本の同一化

 6. 生産の属人化

 アイドルという仕事は上記の6点を満たす。

 1. テイラーの科学的管理法の対象外である。

 2. 労働時間と余暇時間の区別がない。

 3. ヴァーチャル産業である。

 4. 労働作業の計測は事前にはできず、事後的になされる。労働契約は関係者間で随時、契約を締結する方法でなされる。

 5. 知的財産など、本来は公共のものである記号を私的所有の対象とすることでなされる。ネットワーク外部性により、所有者はレントを得る。

 6. 技術進歩によって労働時間が縮小することがない。

 

 ここで、『U149』の第23話『第3芸能課⑦』の結尾部を参照する。低年齢の登場人物を眺め、プロデューサーと並ぶ登場人物として、橘ありす、櫻井桃華、的場梨沙の3人が描かれている(第4巻、p.51)。

 なぜこの3人なのか。消極的な理由としては、12歳の登場人物から結城晴と古賀小春を除いたためだ。結城晴は登場人物で半ば部外者の地位に立つ。"結城晴について 第3芸能課の子達の中では、ある意味外の立場にいた貴重な子です。"(第2巻「あとがき」、p.171)。

 ただし、積極的な理由としては、橘ありす、櫻井桃華、的場梨沙がいわゆる三大階級を代表しているためだ。これにより、3者で仕事に対する立場を代表することができる。

 アダム・スミスは『国富論』第1編第11章で、三大階級を定義する。地主階級、資本家階級、労働者階級だ。所得を地代、利潤、賃金のいずれに負うかによる。

 また、マルクスは『共産党宣言』で三大階級として、ブルジョワジー、小ブルジョワジープロレタリアートを定義した。地主階級は封建制のもののため、近代の資本主義では消滅するか、ブルジョワジーに変化している。

 マイク・サヴィジの『7つの階級』は、トムスンの『イングランド労働者階級の形成』を引用しつつ、イギリスでは貴族階級が資本家に転身したことを指摘する。

 明らかに、櫻井桃華ブルジョワジー、橘ありすは小ブルジョワジー、的場梨沙はプロレタリアートの性格をもつ。

 

 なお、現代日本の階級構造はやや異なる。

 橋本健二は『新・日本の階級社会』で、就業構造基本調査から4つの階級を定義する。資本家階級、旧中間階級、新中間階級、労働者階級だ。資本家階級は経営者、旧中間階級は自営業者を主とする。新中間階級は男性正規雇用労働者で、専門・管理・事務に従事するもの。労働者階級はその他の労働者だ。この区分では、2012年、資本家階級4.1%、旧中間階級12.9%、新中間階級20.6%、労働者階級62.5%だ。

 小熊英二は『日本社会のしくみ』で、国民意識調査と賃金構造基本調査、就業構造基本調査から3つの社会集団を定義する。大企業型、地元型、残余型だ。地元型は地方在住者。大企業型は都市在住者のうち、終身雇用制度で正規雇用のもの。残余型は都市在住者のうち、その他のものだ。この区分では、2017年、大企業型26%、地元型36%、残余型38%だ。

 

 これらでは、橘ありすは新中間階級と大企業型だ。やはり、マルクスの階級論では小ブルジョワジーだ。

 なお、橋本の定義では労働者階級が62.5%を、小熊の定義では後2者が74%を占める。実のところ、日本人の大半は労働者階級でいることの自覚がない。

 しばしば、いわゆる貧困層を扱った新書や娯楽作品が流行する。これは、最下層の階級であるサービス労働者が、最下層の階級であるために、さらなる下層を分化させようとするためだ。

 

 蓮實重彦は『小説から遠く離れて』で以下のように述べる。小説は近代に誕生した。すなわち、無根拠なものだ。そのため、つねに自己批判できる。

 これはルカーチが『小説の理論』で分析したことだ。

 ルカーチは『歴史と階級意識』で階級論を述べる。

 マルクスの階級論では階級はおおむねブルジョワジープロレタリアートに二分する。

 ブルジョワジー階級意識は、ブルジョワジーの階級的利害に適うものだ。そのため、ブルジョワジー階級意識をもつことがない。いわば無意識だ。

 だが、プロレタリアートブルジョワジー階級意識をもっている。プロレタリアートはこのことを自覚しなければならない。これにより、プロレタリアート階級意識をもつことができる。

 

 橘ありすは小ブルジョワジーだ。

 だが、アイドルという仕事を通じて、その物象化されたものに気づく。

 すなわち、橘ありすはプロレタリアート階級意識をもつ。

 このとき、橘ありすは労働者、プロレタリアートだ。その仕事の名前でいえば、橘ありすはアイドルだ。

 

 的場梨沙はプロレタリアートだ。ただし、むしろマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で述べるルンペン・プロレタリアートに近い。ルカーチは『歴史と階級意識』で、ルンペン・プロレタリアートを生産に携わらない消費者と定義する。

 的場梨沙は社会規範を軽視する。また、消費文化を愛好する。所得については不明だ。あえていえば、"パパ"こと的場梨沙の父親は稼ぎがあり、BMWを転がし、ロレックスの腕時計をはめていそうだ。

 ただし、アントニオ・ネグリは『マルチチュード』で、ルンペン・プロレタリアートを認知資本主義における生産者として積極的に評価する。

 

 的場梨沙編では的場梨沙が社会規範を欠如していることが問題になる。

 的場梨沙はドラマのオーディションで「なにをしたいか」という人格に関する質問に答えられない。この質問は高圧的なものであることが明示されている(第8巻、p.167。第9巻、p.33)。的場梨沙は社会的慣習を学ぶ(pp.31-2)。これにより、2回目のオーディションで満足のいくパフォーマンスができる。

 ブルデューは『ディスタンクシオン 』で、労働者階級の特徴を実用主義だと分析する。

 実用的でない社会規範を労働者階級は知らない。このため、資格審査や採用試験で、労働者階級は暗黙のうちに差別される。こうして、権力は暗黙の権力をも発揮する。

 的場梨沙が人格に関する質問で審査されているのは、人格ではない。人格がどれだけ社会規範に馴致しているかだ。

 人格と役柄の適否を審査するだけなら、その場で採否は決まる。そうではなく、学習と訓練の余地があるため、2回目の審査がおこなわれる。

 演劇について、役者は役柄に人格を表さなければならないという考えは、スタニスラフスキー・システムが代表的だ。演出家の太田省吾は『裸形の劇場』で、これを批判する。これに対し、役者の人格が自然に劇に表れるような演出法を提唱する。著名な演出家である平田オリザはこの方法論をひき継いでいる。

 このことからも、的場梨沙が直面した障害は、個人的な自己表現でも自己形成でもなく、社会的な規範と権力だといえる。

 これはスティーヴン・マーチャント監督『ファイティング・ファミリー』と同じ説話だ。WWE女王の女子プロレスラーの伝記映画だ。プロレスは自己演出が求められる。イギリスの労働者階級出身である主人公は、プロレスラーとしての技能しかもたず、アメリカのショービジネスの世界で苦労するが、自己演出の方法を学び、ついにWWE女王に輝く。という自己演出を習得するまでを描く。

 

 的場梨沙と遊佐こずえは2人ともオーディションに落選する。これは2人の対決について、典型的な結末に見える。だが、これはオーディションに合格することが権力におもねることだからだ。社会的成功だが、あまりにも陰惨だ。

 

 櫻井桃華については説明を要する。

 現代日本に貴族は存在しないためだ。

 ブランコ・ミラノヴィッチの『大不平等』と、ウォルター・シャイデルの『暴力と不平等の人類史』は、第二次世界大戦で日本が平等化されたことを分析する。

 1938年、日本の上位1%は国富の19.9%、上位0.1%は9.2%を独占した。これが1945年にはそれぞれ6.4%、1.9%まで下落する。富そのものは1936年から1949年のあいだに、上位1%は97%、上位0.1%は98%減少した。国民所得ジニ係数は1930年代後半の0.45-0.65のあいだから、1950年代半ばの0.3まで改善した。

 戦後改革で資本は戦中からさらに90%減少する。上位1%の総所得に対する資本所得比率は、1937年の45.9%から、1945年の11.8%、1948年の0.3%まで低下する。

 また、『U149』では櫻井桃華がパーティーに出席するところが描かれる。これは貸会場における立食で、社交界より、政界の政治資金パーティーや財界の式典後の懇親会を思わせる(第11巻、p.109)。ただし、この挿話で櫻井桃華の描写は例外的だ。

 

"そして小春と桃華がケンカをする回。

U149を描く上で「新しい一面」は見てみたいし画いてみたいとは常に考えていて

「じゃあケンカしそうにないペアって?」というところからアイデアを詰めて、

繋げていったお話でした。"(第11巻「あとがき」、p.191)

 

 そもそも、貴族であるということは抽象的なものだ。

 ブルデューは『ディスタンクシオン』で、貴族であるということを本質的なものだとしている。規範に従った振舞いは貴族らしさと見なされ、規範に反した振舞いも、優雅な振舞いとして貴族らしさと見なされる。強いていえば、貴族らしさの特徴は自信とゆとりだ。

 

 このことはプルーストが『失われた時を求めて』の全編を通じて、シャルリュス男爵について描いている。

 櫻井桃華はむしろ、高慢であり、それに見合う知性と気品をもつゲルマント公爵夫人に近い。だが、ゲルマント公爵夫人はプチ・ブルジョワジーだとしてもその特徴を失わないだろう。むしろ、高慢さに見合う知性と気品がないということが、貴族らしさを明らかにする。

 

 "もしあのような目をしていなければ、シャルリュス氏の顔は多分あまたの美男の顔立ちと似ていたのではないだろうか。のちになってサン・ルーがほかのゲルマントの人間について、「もちろん、ああいう名門らしさ、つまり大貴族の風采を、それこそ爪の先まで漂わせているのは叔父のパラメード一人しかいないんだ」と言い、名門らしさや貴族の気品には新しいものなど何もない、そんなものはあなたが特別な印象すら持たずに容易に見いだした要素のうちにあるだけだと私に確言したとき、私は自分の幻想のひとつが消えてゆくのを感じることになるだろう。"(『失われた時を求めて』第2編「花咲く乙女たちのかげに2」第2部「土地の名・名前」。高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫。第4巻、pp.294-5)

 

 "しかも、誰もが口を揃えて請け合ったのは、夫人がきわめて知的な女性で、会話は才気に満ちあふれ、この上なく魅力的な人びとだけで構成される小さな集団のなかで暮らしているということだった。それらの言葉は私の夢想の言わば共犯者だったと言っていい。なぜなら、人が知的な人びとの集団とか才気溢れる会話だとか言うときに私が想像したのは、たとえどれほど偉大な人びとの聡明さであっても、私がそれまで見知っていた聡明さとはとはまるで違う聡明さであったからであり、また、私がその集団を構成する人びとだと考えるなかにはベルゴットのような人物は決して入っていなかったからである。そう、私は知性というものを、言葉では説明できない能力、瑞々しい森の空気のような、金色にきらめく能力だと捉えていたのだ。だから知的この上ない言葉(私がここで「知的」というのは、哲学者か批評家に関して使う意味においてであるが)を口にしても、ゲルマント夫人は、他とは違う特別な才能を期待する私を失望させることになったろうし、それくらいなら、他愛ない会話のなかで、料理のレシピや館の調度品の話をしたり、近くに住む女性たちや自分の親族の名前を挙げたりするだけにとどめておいたほうが、夫人の生活を思い浮かべることができて、ましだったかもしれない。"(第3編「ゲルマントのほう」第2部「ゲルマントのほうⅡ」。第6巻、pp.75-6)

 

 廾之もこのことを言う。

 

" 櫻井桃華について

桃華を動かすにあたって絶対に意識から外さないようにしているのが

「育ち」です。生い立ちは行動と言動に必ず現れるからです。"(第6巻「あとがき おまけ」、p.190)

 

 この"育ち"、"生い立ち"とはブルデューが『ディスタンクシオン』でいう身体的ヘクシスだ。身についた挙措動作は不可逆的なもののため、後天的な育ちは先天的な生まれに等しい。

 櫻井桃華が規範に外れた振舞いをする場面は2つある。そのどちらにも挙措動作として育ちの良さがあらわれている。紙飛行機を飛ばし、無邪気な笑みを見せる場面では、両手を胸元に寄せている。"「ええ!」「やりましたわ!」"(第5巻、p.136)。バンジージャンプを終え、安堵して涙を見せる場面でも、両腕を脇に着けている。"「ああ」「怖かった!」"(第6巻、p.58)。

 この貴族であることの抽象性が櫻井桃華編を難解なものにしている。

 櫻井桃華バンジージャンプで子供であることの固定観念を要請される。櫻井桃華は物象化された子供らしさを演じようとする(第6巻、p.22)。だが、これについて自信阻喪に陥る(p.32)。櫻井桃華バンジージャンプで背面跳びという、自信に満ちた振舞いをする。だが結果的に、自信に欠けた、素直な振舞いをみせる(p.58)。

 すでに、子供であるという固定観念を演じることが、そのことに反するという再帰性をもつ。これを物象化した上で、自信に満ちた振舞いとして、自信に欠けた振舞いを演じることが、また再帰性をもつ。

 そして、貴族であるということは本質的なもののため、実のところ、自信に満ちた振舞いの成否はどちらでもいい。

 二律背反が階層構造になっていて、しかも、それらが両義性をもつ。この説話は難解すぎる。この説話を抽象化した台詞までが難解だ。"「さっきのは"いつもの櫻井さんらしく飛ぶ"か "櫻井さんの思う子供らしさで飛ぶ"」「どっちを選択しても大丈夫って意味で言っただろ?」「初めての挑戦なんだから」「"そういうのを一切考えないで飛ぶ"選択肢もあるってこと!」"(pp.43-44)。

 この台詞は"いつもの櫻井さんらしく飛ぶ"と"そういうのを一切考えないで飛ぶ"が同義のため、自家撞着に見える。

 貴族であるということは本質的なものである、すなわち、身体的ヘクシスとしてあらわれるため、どう行動してもそうなる。ただし、貴族であるということを意識した場合だけは別だ。この場合、貴族らしさは非=本質的なものになり、挙措動作はぎこちないものになる。

 このため、プロデューサーはこうした自己認識を解き、櫻井桃華に自信とゆとりを回復させる。

 

 以下の記事に、この難解さで読者が当惑したさまが書かれている。

 櫻井桃華研究会『仮面の少女・櫻井桃華――あなたは『U149』桃華編を誤読していないか?』(https://momoka-society.hatenablog.jp/entry/2019/01/29/212129

 

2-3. 作品の制作

 

 蓮實重彦は『小説から遠く離れて』で、なぜ小説が物語より重要なのかを述べる。

 

 "われわれが小説を擁護しなければならないのは、この種の悪しき風俗の蔓延こそが、文学を大がかりな停滞へと導くものだと確信しているからである。しかもその錯覚は、文学を超えた領域にまで拡がりだして人の思考をまどろませずにおかぬだろう。小説が物語と無縁のいとなみであるはずはなかろうが、いったん物語の支配に屈したものは、それが長篇であれ中篇であれ、歴史を解消することで得られる白々とした地平での葛藤の不在を容認することにしか役立ちはしまい。"(p.273)

 

 "そもそも、物語というものは、それを享受する共同体の成員に対していつでも前衛的な代弁性を発揮するものなのだ。だからこそ、人はその支配を胡散臭く思うのだし、そこからの解放を願わずにはいられないのである。村上春樹丸谷才一、あるいは井上ひさしにその意図がなかったとしても、彼らが無意識に依拠していた物語は、その構造において、前衛的な特権者の犠牲的な代弁性を語っていたことになり、それに対して小説が擁護されねばならぬ理由はいまや明白だろう。小説とは、その無根拠性において、優れて反=前衛的なものであり、共同体の成員に対して何ごとをも強制したりはしないという意味で、「完璧な捨子」と深い関係を持つものなのだ。共同体内部での前衛的な役割をいったん担わされていながら、その役割をあえて徹底させることで物語から苦しげに離脱する存在を描いた大江健三郎中上健次の試みに注目せざるをえなかった理由もそこにある。"(p.277)

 

 だが、現代で文化産業はこうした作品の制作とますます対立しつつある。

 

 アラン・クルーガーは『ロックノミクス』で、音楽についてこのことを分析する。

 第1に、いわゆる体験消費が中心になっている。音楽は複製芸術だ。だが、ボーモルのコスト病をこうむるパフォーマンスが中心になっている。

 アメリカの音楽の売上高は、デジタル、フィジカル、出版、シンクロ権の合計が52%、コンサート収入、ツアー費用、スポンサー、物販・売店・駐車場の総売上高の合計が48%だ。上位48組のミュージシャンの所得は、平均でツアーが80%、録音が15%、出版が5%だ。

 第2に、ブランドが中心になっている。スーパースターの経済学のためだ。規模の経済、ボーモルのコスト病、不完全代替財により、需要がべき乗則でスーパースターに一極集中する。さらに、選好もべき乗則に従う。バンドワゴン効果ネットワーク効果のためだ。

 アメリカのアルバム、ストリーミング、ダウンロードの売上高は、上位0.1%が半分以上を独占する。さらに、コンサート収入のシェアは、1982年から2017年のあいだに、上位1%が26%から60%、上位5%が62%から85%に上昇している。

 

 また、小説については、エンパシー(理解と感情移入)ではなく、シンパシー(自己投影と共感)による読書が主になっている。

 このことについて、翻訳家の鴻巣友季子は以下のとおり解説する。"近年の“親近型読書”は本の中に自分の似姿を見つけて記録する「自撮り」のようなものだと、「ニューヨーカー」誌で評され議論を呼んだこともある。"(鴻巣友季子読書と親近感 均質な感動にあらがう醍醐味朝日新聞文芸時評2022年5月(https://book.asahi.com/article/14636671))

 

 2018年、紙の出版市場は売上高1兆2000億円で、ピークである1996年の2兆6000億円の半分以下になった。なお、電子出版市場を加えれば、1兆5000億円だ。

 文芸書については、2010年から2020年までで、1400億円から790億円にほぼ半減。文庫については、同じく2500億円から1200億円に半分以下に減少している。

 事業戦略の指針であるクロスSWOT分析では、外部環境がOpportunity(機会)でなくThreat(脅威)であるとき、内部環境がStrength(強み)なら防衛、Weakness(弱み)なら撤退だ。よって、出版市場の縮小という事業環境において、出版社の事業はリスク回避になる。

 一方、マンガについては4400億円から4200億円にやや減少している。電子出版を加えれば、文芸書は半分以下、文庫はほぼ半減、マンガは微増だ。

 小説という自己批判的で挑戦的なものは、今後はマンガが中心になるだろう。

 

 さて、高雄統子監督『アイドルマスター シンデレラガールズ』第16話では安部菜々が主役になる。安部菜々はキャラ芸人としてのタレント性を捨てることを求められる。これにより苦しむ。結局、タレント性を守る。

 物語であることが明らかな物語だ。その物語を共有する共同体の成員にしか意味がない。

 だが、これに寛容なものでも、後半の説話には抵抗があっただろう。安部菜々のコンサートで、前川みくがいわゆるコールをおこなう。安部菜々がそれに応えてパフォーマンスをし、タレント性を守る。この一連の場面には卑しさを感じたはずだ。この卑屈さは、共同体の外部には理解を求めないという居直りと、内部には共感を望むという甘えによる。

 

 『U149』の古賀小春編でも前川みくが説話で役割を担う。

 本編で前川みくは"「小春チャンの良さって きっとそういうところにあると思うんだ みくもそういう子好きだし」「でも そういうのをよく思わない現場もあるの」"、"「だから"自覚"はちゃんとした方がいいと思う! この先 もしそれで嫌な思いしちゃったらみくも嫌だから」"(第6巻、p.129)と、「私はいいけれど」「あなたのために言っているんだから」という、世間的に卑しいとされる台詞を言う。

 本編は典型的な物語だ。無能な登場人物と希薄な社会的背景を特徴とする、いわゆる勧善懲悪劇だ。

 実のところ、前川みくというキャラクターは軽侮されている。ゲームで最初期に実装されたという事実と、キャラクターの類型性のためだ。

 教訓譚や勧善懲悪劇が軽蔑されるのは、教訓や勧善懲悪のためではなく、そこで具象性が捨象されているためだ。

 物語は抽象的で空虚さをもつ。この空虚さを埋めようとする欲求が、ひとを代弁者にさせようとする。ひとは代弁者の地位に立ったとき、自己批判の視点を失う。そのため、メディアミックスやファンアートで、前川みくはだらしなく饒舌になる。代弁者の無能と悪意のはけ口になる。

 

3. 補論

 

 『U149』の表現を見る。第8-9話『赤城みりあ①』-『赤城みりあ③』を参照する。

 その後、その特徴と主題論との関係を見る。

 

 本編で、赤城みりあ佐々木千枝、古賀小春は遊園地のパレードに参加する。プロデューサーは適切な指示を出せず、隘路に陥る。だが、それが独善的であることを、赤城みりあたちに指摘される。プロデューサーは赤城みりあたちと相談する。その結果、プロデューサーもきぐるみでつき添うことになる。赤城みりあたちはパレードで成功する。

 その後、プロデューサーと赤城みりあは対話する(第2巻、pp.70-3)。

 作品において、登場人物のコマはミドル・ポジションのバストアップが主だ。登場人物は単独でも複数でもアシンメトリーに配置され、頂点が1つか2つの山型という、安定した構図をとる。

 こうした安定した作風のもと、ここでは消失点を中央に置き、プロデューサーを右端に配置する。枠線と接して題材は安定する。構図と調和して、プロデューサーは左を向く。そして、次の大コマで、赤城みりあが画面に垂直に右を向く。

 純粋に内容を表した表現でありながら、きわめて印象的なものになっている。

 常態である安定した構図さえ、訴求力がみなぎっている。事実、『特別編 志希の暇つぶし』にはその反例がある。

 本編は番外編として、年長の一ノ瀬志希宮本フレデリカを主役にする。ここではバストショットが、山型の構図ではなく、上の枠線と接するものになっている。これは山型の構図と同じく安定するが、視線の上下の動きを促すものだ。

 一ノ瀬志希の独白(モノローグ)はこれによる。緊張が緩和したあと、宮本フレデリカとの対話(ダイアローグ)では、上の枠線と十分に距離をおいた山型の構図になる(第9巻、pp.180-3)。

 これが形象の力だ。

 仮に、画面を隠喩の媒体としか見ないなら、それはゴンブリッチが『芸術と幻影』で風刺する"精神のバケツ"でしかない。

 

 蓮實重彦は『小説から遠く離れて』で、作品を隠喩や所与の記号体系で読解する読書を批判する。

 

 "そもそも、長編小説が作品として生産されるという意識そのものがきわめて観念的な比喩に安住することでしかあるまいし、だいいち、想像力が作品を生んだりはしないのである。想像力とは物語がある閉ざされた空間に等しく共有されるための円滑剤にほかならず、作家という名の「完璧な捨子」にできることは、物語によって均質化された集団的な想像力を解きほぐし、共同体の内外に向けて断片化された記号として再分配するふさわしい装置におのれをなぞらえることをおいてはあるまい。"(p.278)

 

 そうした誤解は「表象」という考えに顕著だ。

 「表象」とは「想像力」という思考のイメージに言語的な形式を与え、言葉の無方向な拡散を沈静化するものだ。よって、「表象作用」は記号の発信者と受信者が既知のイメージを共有していることを前提としていて、そこにはなんらの発展もない。得るものは、同じ共同体に所属しているという同族意識だけだ(p.280)。

 

 だからこそ、私たちは具象性において作品を見なければならない。

 蓮實は『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』で、ドゥルーズの『差異と反復』を読書の勧めとして解説する。通俗的な読書はなんらの発見ももたらさない。そこでは所定の距離と方向、中心と周縁が前提されている。すなわち、所定の記号体系で、起源をもつ「反復」と相対的な「差異」からなる。だから、起源なき「反復」と絶対的な「差異」である、単一の「記号」に出会わなければならない。これはイメージを欠いた無媒体的なものだ。この「記号」との遭遇が、作品を読書することだ。

 

 こうした姿勢は、翻って作品の制作にもいえるだろう。

 『U149』には一ノ瀬志希を主役とする短い挿話が数話ある。そこで、一ノ瀬志希は登場人物たちにパラシュートを作ってみせ、鏡で集光してみせ、虹を予測してみせる。

 一ノ瀬志希のギフテッドという人物造形は、しばしばゲームでユーザーを悲嘆させ、STEM教育の充実を訴えさせてきた。

 『U149』で一ノ瀬志希はなぜ理科の実験をおこなうのか。仮に、等速運動と等加速度運動は無関係なため、銃弾とコインは同時に落ちることを示したり、フェルマーの原理により、光は異なる媒質間で屈折するとき最短距離を選ぶことを示したりすれば、直観と自然法則との相反で、両者を超克する天才を描けるだろう。だが、そんなことに意味はない。

 水深を測ったところで、海の深さが増すわけではないからだ。

 

 "なぜなら、彼は毎日前進しようとしていたから。ひとつの岸からべつの岸へと、ロープに曳かれたフェリーみたいに、おなじ形の赤いブイをいくつも通りすぎながら。ブイの役目は、無限に対する水の独占をうばうこと、水を測れるものにすること、そうやって海は支配されているのだという偽りの印象を与えることだった。"(オルガ・トカルチュク著、小椋彩訳『逃亡派』p.81)

 

 なぜ現実の人々の訴えがおどろくほど浅薄になり、たかだかソーシャルゲームのキャラクターの印象がとまどうほど深長になるのか。

 この理由を一ノ瀬志希のパラシュートが示している。距離と時間と速度、または質量と速度と力は相関し、その関係でだけ意味をもつ。

 現実的で具体的な認識と、自らの主体性に立ち返る。『U149』はそのことの意義を教えている。

ニール・スティーヴンスン『クリプトノミコン』あらすじ・要約

○前書

 「読んでいないのに堂々と語られているSFの十大小説」というリストがあり、『クリプトノミコン』『デューン』『重力の虹』『ファウンデーション』『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』『1984』『最後にして最初の人類』『長い明日』『ダールグレン』『インフィニット・ジェスト(未訳)』らしい。
 『1984』は別論として、宜なるかな、というリストだ。

 ニール・スティーヴンスンの『クリプトノミコン』は、SFに限らず著名なピンチョンの『重力の虹』としばしば比較される。
 『重力の虹』は難解なうえにクソ長いことで悪名高い。
 『クリプトノミコン』は『重力の虹』の2倍長い。だが、安心してほしい。『重力の虹』の2倍読みやすい。つまり、普通にクソ長い。

 だが、『クリプトノミコン』の先見性は驚くほどだ。
 90年代の時点で、暗号資産、3Dプリンター銃、匿名化サービス、P2Pネットワークと、現在の社会問題である技術をすべて予見している(ついでに、文化戦争と90年代の東京にも触れている)。
 そもそも、『クリプトノミコン』はローカス賞を受賞しているが、『重力の虹』と異なり、超自然的な事物はまったく登場しない。SF小説というより、テクノロジー小説というべきだ。

 読みやすいと既述したが、小説としても魅力的だ。
 『クリプトノミコン』は第二次世界大戦中の暗号をめぐるスパイ小説であり、不条理と諧謔に満ちた戦争冒険小説であり、3人の天才たちの友情の物語であり、シリコンバレーの変人たちがスタートアップを興す企業小説であり、オタクが愛を見つけるまでの恋愛小説であり、中世から続く自由と平和をめぐる戦いの物語だ。

 だが、それにしてもクソ長い
 作中にまったく関係ないポルノ小説の掌編が挟まったりする

 そのため、自分のためも兼ねて、節ごとの要約を作成した。
 そうした閑話休題もなるべく記録した。
 完全にネタバレしているため、注意してほしい。『クリプトノミコン』は長大な物語だが、最高の伏線回収が2つあるため、なおさらだ。
 クソ長いが、第1巻を読んで魅了されたひとなら、最終巻まで楽しめるはずだ。
 『イミテーション・ゲーム』の、ベネディクト・カンバーバッチ演じるアラン・チューリングが好きなひとは気にいるだろう。

○要約

ローレンス・プリチャード・ウォーターハウス(青)
ランディ・ウォーターハウス(黄)
ボビー・シャフトー(赤)
後藤伝吾(緑)
閑話休題(紫)

第1巻『エニグマ』

・「プロローグ」

〈シャフトー〉
 上海租界に駐在するアメリ海兵隊ボビー・シャフトー
 ある日、上海が陥落。路上に各種銀行券が舞う。

・「バレンズ」

〈ローレンス〉
 変人のローレンス・プリチャード・ウォーターハウスは幼少期、パイプオルガンに魅了される。
 ローレンスは長じてケンブリッジ大学に留学。アラン・チューリング、ドイツからの留学生のルディ・フォン・ハッケルへーバーと友情を築く。

 ローレンス、アラン、ルディの3人はアメリカ、ニュージャージー州に自転車旅行に行く。夜のサイクリングに出る。リーマンのゼータ関数、『プリンキピア・マテマティカ』。ライプニッツ、普遍チューリング機械、判定問題について話しあう。
 アランとルディがイチャつくあいだ、ローレンスは夜歩きをする。パイン・バレンズでヒンデンブルク号の爆発事故を目撃。

 ローレンスは海軍に入隊する。入隊試験の川下りの問題で、これほど簡単な問題が出題されるはずがないと思ったローレンスはナビエ−ストークス方程式の新たな定理を証明。見事、白痴と判定されるのだった。

・「ノブス・オルド・セクロルム」

〈ランディ〉
 ランディ・ウォーターハウスはフィリピンに渡航する。
 ビジネス・パートナーのアビ・ハラビーオルドで通信する。暗号化ソフトのノブス・オルド・セクロルム、通称オルド。

・「海草」

〈シャフトー〉
 「プロローグ」の前。上海でシャフトーは日本軍の後藤伝吾と知りあう。日本料理店に強引に入ったのだ。「何度見ても、料理人は未調理の魚を切り刻んで、弾丸状に押し固めた米にのせているようだった」「シャフトーは虫を食べたり、鶏の首を噛みちぎったりする訓練も受けている」。
 シャフトーは後藤から柔道と俳句を学ぶ。代わりに後藤には野球を教える。やがて、日本軍は上海から移動する。シャフトーは艦上の後藤にヘルメットを投球。代わりに、後藤は手榴弾を重しにして鉢巻を投球する。「それには彗星のような吹流しがついていた」。

 海兵隊はマニラに移動する。上海駐留で堕落した古参兵たちの悲喜交交が語られる。
 シャフトーは恋人である看護師のグローリー・アルタミラを訪問する。シャフトーの叔父がグローリーの大家夫妻の知人だった。「薔薇の花束はドイツ式の柄付き手榴弾のように、木の手摺をのり越え、二階の窓に飛びこんだ」。「グローリーとふたりだけの時間を設けてくれるのではと期待したが、そんなことは欲情したシャフトーの愚かな妄想でしかありえなかった」「社交儀礼のため、シャフトーの感覚では三十六時間ほどおしゃべりした」。
 シャフトーとグローリーは夜中に密会する。グローリーはサンアグスティン教会を見せ、その長い歴史を話す。ふたりは浜辺で交わる。シャフトーは少年時代からの人生を回顧。「いまこの瞬間こそが槍の穂なのだ」。
 その最中、マニラ中にサイレンが響く。何事か尋ねるグローリーに、シャフトーは答える。「戦争だよ」。

・「ビジネス挑戦」

〈ランディ〉
 ランディはカリフォルニアで人文学系のポスドクであるシャーリーンと同棲していた。ランディはシンポジウム「テキスト戦争」でシャーリーンを手伝ったときから悪い予感がしていた。「テキスト戦争」では、第二次世界大戦の兵士の写真を女装したものに加工した画像をポスターに使っていた。その兵士である高齢の退役軍人が訴訟を起こし、ポスターは回収、制作者は多額の損害賠償を負う。制作者の資産は未済の学生ローンくらいのものだった。

 暗号の安全性はキー長による。アビはビジネスで、解読に天文学的な時間のかかるキー長を使っていた。「これを見た人間は次の可能性を考えるだろう。1. アビは暗号の素人。2. アビは偏執狂。3. アビは一世紀以上に渡る計画を立てている」。シャフトーはキー長について、いつまで想定しているのか質問したことがある。アビはこう答えた。「この世に悪があるかぎり、だ」。

 ランディは公共図書館で司書をしていた。「子供のときのランディが、いまの自分を見たら狂喜しただろう。子供時代のランディはホチキス外しが大好きで、それを未来のロボット竜の顎に見立て、オモチャでいっぱいの子供部屋を恐怖に陥れたのだ」。ひたすら小部屋でホチキス外しを使うだけの日々。
 そのなかでランディはシャーリーンと出会い、またアンドリュー・ローブと出会う。アンドリューは歴史学の学生で食糧のエネルギー収支について研究していた。ランディはそれをTRPGに応用することを思いつく。TRPGで移動のエネルギー消費が考慮されないことは、ランディたちには許しがたかった。ランディにはアビ、チェスターというTRPG仲間がいた。ランディたちはRPGのソフトを開発する。その際、シャーリーンのアカウントで大学のUNIXを使用する。ソフトは高額で売れそうだったが、アンドリューが訴訟を起こす。また、大学も提訴する。「権利関係があまりに複雑になり、買手はつかなくなっていた。錆びついたフォルクスワーゲンをバラバラに分解して、世界中の犬小屋に隠して売ろうとしたようなものだった」。初めての起業は失敗に終わるが、ランディはアビというビジネス・パートナーを得る。

・「インディゴ暗号」

〈ローレンス〉
 ローレンスは軍楽隊に配属される。ハワイで真珠湾攻撃に遭遇する。
 軍楽隊は解散。転属先の候補として、暗号学の講習を受ける。ローレンスは講習中に実例を解読し、暗号解読のハイポ施設に配属される。「ハイポ(H)施設ということは、他にA〜G施設があるのだろうとローレンスは推測した」。
 ハイポ施設のシェーン中佐は日本軍のインディゴ暗号を解読。一方、神経衰弱に陥っていた。ローレンスは『暗号書(クリプトノミコン)』を読む。『暗号書』はジョン・ウィルキンズによって創始され、代々、加筆されてきたもので、最近の大部分はシェーン中佐によっていた。原理上、解読不可能なワンタイムパッド暗号
 ローレンスは情報理論について考察する。暗号は解読した事実を知られてはならない。そのため、逆説的に復号文は利用できない。そのことを報告すると、ローレンスはイギリスへの派遣を命令される。

・「オナンの子ら」

〈ランディ〉
 シャーリーンはランディとの同棲中、「髭を解体批評する論文」を発表し、学界の評価を高めていた。論文はとくに「北カリフォルニアのハイテク業界の髭文化」を的にしていた。ポストモダンフェミニズムのパロディで、「性差は社会的に構築されたものにすぎない(ここで大量の脚注)」とか爆笑)
 ランディは天文学の博士課程に進むが、軽率に「UNIXならちょっとできますよ」と言ったために満期退学で終わる。「学部は二千ドル以下の出費で、ランディから二十五万ドル相当の労働を引きだしていた」。

 シャーリーンと学界の仲間たちは、訴訟を起こした退役軍人を貶していた。彼らに囲まれたランディは、自分をホビット庄に滞在するドワーフのように感じていた。ある日、シャーリーンと親密な教授のG・E・B・キビスティクに、ランディは行きがかりから論戦を挑む。キビスティクは「情報スーパーハイウェイ」を提唱する、サイバー文化の論客だった。実際の情報技術については無知なキビスティクを、ランディはあっさり論破。虚しさだけが残る。
 そして家を出て、夜の町をさまよっているとき、アビから起業に誘う電話がかかってきたのだった。

・「炎上」

〈シャフトー〉
 海兵隊はマニラから撤退する。戦争が間近であることを知ってなお、シャフトーの叔父はマニラに留まった。「クリーム色のスーツとパナマ帽でボートの上に直立したすがたを、艦上の海兵隊員たちは感嘆の眼差しで見送った」。
 海兵隊の輸送船が岸壁を離れたとき、マニラは炎上する。シャフトーはグローリーのことを考える。陥落した都市の女たちがどうなるか。「その顔や名前は忘れたほうがいい」。

・「歩行者」

〈ランディ〉
 ランディは起業したエピファイト社にマニラ市街を徒歩通勤する。銀行の上階に間借り。徒歩通勤はGPSでの計測も兼ねる。「人々は鈎をかけて下水溝の蓋を開け、そこに排泄する。歩道とはすなわち蓋をした下水溝だったのだ」「電柱は電気メーターで覆われ、公的なものから私的なものまで、大量の電線が引かれている」。

・「ガダルカナル島

〈シャフトー〉
 ガダルカナル島の戦闘で、シャフトーは唯一の生存者になる。浜辺で神父のイーノック・ルートに救助される。「このラテン語のことかね、暗号での無線通信のことかね」。

・「ガレオン船

〈ランディ〉
 ランディは髭を剃る。
 アビはプレゼンテーションのためのビデオを制作していた。エピファイト社の事業は光ファイバー網の敷設。(このビデオが爆笑もの。三流会社に発注、「パイもあまり薄く切りすぎると崩れるからな」。荒波を進む帆船のイメージ映像、「出資者のひとりはヨット遊びが趣味なんだ」。地元の歴史のナレーション、「出資者のひとりは礼拝堂に寄付しているんだ」。「この俳優は出資者の甥」)

 ランディは探査船のグローリー号に乗船する。船長のエイミー・シャフトー(本名はアメリカ・シャフトー)と会う。
 センペル・マリン・サービス社。じつは海底探査は副業で、本業はサルベージとトレジャーハント。日本軍の埋蔵金伝説。
 エイミーにエピファイト社の事業について説明。起業の事務的なところ、曰くナンバープレートづくり。出資者のひとつはコンビニの24ジャム。なぜコンビニが参加するのか尋ねるエイミーに、コンビニのチェーン店を使った画像データの通信サービス、ピノイグラムの説明をする。じつのところ、すでにランディはエイミーに惹かれていた。

・「悪夢」

〈シャフトー〉
 シャフトーは心的外傷に苦しむ。入院中のシャフトーを、広報部隊のロナルド・レーガン中尉が訪ね、戦功者のインタビューを撮影しようとする。シャフトーは半狂乱で応じる。
 シャフトーは帰郷する。帰還兵であるシャフトーは故郷で疎外感を覚える。「足に食いこんだ戦友の奥歯を銃剣の先でほじくり出した話など、誰も聞きたくないのだ」。シャフトーに戦場の話を聞かなかったのは祖父だけだった。「彼はピーターズバーグの戦いで、バーンサイド将軍の命令によって兵士たちが穴に飛びこまされ、虐殺されたなかにいた」。

・「ロンディニウム

〈ローレンス〉
 歩道の縁石をのり越えるたび、頭が波形を描く。そのパターンを収集すればロンドンの街路図が分かるだろうと、ローレンスは考察。
 ローレンスはイギリスの高官たちの会議に出席。イギリスの社交儀礼、発音。「紹介のときからみんな口々に「ハイスに災いあれ」と唱えていて、さすがにそのハイスに同情しはじめたころ、それがウォーターハウスのイギリス流の発音だと気づいた」。
 イギリスではアランが情報部隊、2701部隊の参謀を務める。ローレンスはその部隊名はアランが名づけたのか尋ねる。「2701は37と73、ふたつの逆順の素数の積ですから」。高官たちは色めきたち、2072部隊に改称することを決める。「ローレンスに期待されているのは、まさにこうしたお座敷芸らしい」。

・「コレヒドール島」

〈ランディ〉
 ランディはエイミーの父親で、社長のダグラス・マッカーサー・シャフトーと会う。ダグラスはベトナム戦争の退役軍人で、スキー場のリフトから政府高官のカムストックを突き落としたことがある。グローリー号は正式にはグローリーⅣ世号。ダグラスは光ファイバー網敷設の大規模事業に参加することを約束させる。
 海上でグローリー号はヨットと接近する。その所有者は歯医者だった。歯医者ことヒューバート・ケプラーは投資会社AVCLAの社長だ。フィリピンの歌姫と結婚して、地元のギャング団のボロボロ団とも関係している。歌姫はボロボロ団が送りこんだ娼婦だったからだ。(「車のヘッドライトみたいにデカい結婚指輪」という比喩が笑える)。

・「地下鉄」

〈ローレンス〉
 「地下鉄駅には美人の女性モデルを起用した、ガスマスクの使用法を説明するポスターが貼られている。美しい顎を突きだし、両手を差しだしている。ガスマスクのマーカーが毒ガスで緑色に変わったら、空に向かって二千万本の親指が立てられ、一千万個の顎が突きだされるのだ」。さまざまな戦時のポスター。「くすんだ黄色い光に満たされた大聖堂に、いくつもの偶像が並ぶ」。
 ブレッチリー・パーク直行便は女性たちの専用車両だ。「戦時下の口紅は代用品の鉱物性、動物性原料の匂いがする。戦争の匂いだ」。「彼女たちは文字や数字の羅列を機械に送りこんで、ナポレオンより多くの敵兵を殺している」。(戦時の幻想的で奇妙に美しい描写)。
 ローレンスはブレッチリー・パークでチャタン大佐、ロブスン中尉と会う。ロブスンは2072部隊への改称で疲弊していた。「ローレンスはハッとした。ロブスンと部下たちは大忙しになるにちがいない」。
 暗号を解読した事実を知られないためには、それによる外れ値がベルカーブに収まるように、逆説的にも、暗号を解読していないことを前提としたイベントがそれだけ大量になければならない。

・「肉」

〈シャフトー〉
 シャフトーは2071部隊、もとい2072部隊に配属される。ルートも2702部隊の従軍司祭に任命されていた。2072部隊は北アフリカに派遣され、食肉用冷蔵庫で凍死した炊事兵の死体を回収する。死体を変装させる。「手袋は心配するな。最初に指から解凍する」。死体の代わりに豚肉を納棺し、伝染病予防の名目で封印する。「この棺を合法的に開けられるのはマーシャル将軍だけで、その場合も軍医総監の許可を得て半径百キロ以内からあらゆる人物、家畜を退去させなければならない」。

・「周期」

〈ローレンス〉
 ローレンスとアランはサイクリングに行く。ドイツ軍はUボートでシャーク暗号を使用。3連式エニグマを4連式に強化。自転車が故障するのは、チェーンの不具合のある鎖と、歯車の不具合のある歯が重なったときだけ。エニグマも同じ原理だ。「C[i]=n mod l」。
 アランは埋めた銀の延棒を掘りおこそうとするが、見失う。
 ある種の星型エンジンは気筒数が奇数であるために、輻輳して怪音が鳴る。バグパイプの低音管も同じ原理。
 軍は復号文の情報を使い、霧のなかで護送船団を撃沈するという失策をする。「どうにかごまかしたけどね。ナポリの波止場でナチスがスパイを探しまわっているよ」。

・「機上」

〈シャフトー〉
 2702部隊は北アフリカからイタリアへ。シャフトーは後遺症で悪夢を見る。輸送機が被弾し、悪夢が現実と混じりあう。ルートが従軍した理由。シャフトーを救助したあと、その無線通信のために援助していた原住民が鏖殺された。それを教訓に、ルートは暗号を学ぶ。「ルートは笑わなかった」「それで分かった。ルートは略奪の冗談に気を悪くしたのだ」。
 潜水服に変装させた死体を海に投下する。

・「秘密保持契約」

〈ランディ〉
 カリフォルニアでエピファイト(2)社のメンバーが顔合わせする。時差ボケを緩和するためのオーバーヘッド・プロジェクターエバハード・フェール、ジョン・カントレル、トム・ハワード、ベリル・ヘイゲン。(フェールとカントレルはブレスレットを着けている。通常、事故に遭遇したときの治療上の諸注意が書かれているブレスレットには、人体冷凍の手順が書かれている、という下りが爆笑。しかも、手順はバージョン6.0になっている)。
 アビの本命はエピファイト(2)社の事業。フィリピンの近海にあるキナクタ・スルタン国データヘブンを築くことだ。

・「ウルトラ」

〈ローレンス〉
 ブレッチリー・パーク。夜は無線技師が活動を始める時間だ。通信は電波を電離層に反射させておこなうが、昼は太陽光がノイズになる。テープを使用した計算機による暗号解読。「煙を吹いているようだ。いや、回転するローターから本当に煙が出ている」。
 復号文はドイツ陸軍担当課の部屋へ。「戦時中に頑健な若い男がこれだけ集まっているのを見ることはほとんどない」。
 機密情報取扱資格の最上級であるウルトラ

・「キナクタ島」

〈ランディ〉
 ランディはキナクタ島に渡航する。奇妙に日本人の団体旅行客が多い。「飛行機が高度を下げると、ビルの窓からオープンキッチンに立つ女性が見えた」。ビルの屋上に柱石の並ぶ庭園がある。ランディはそれが戦没者の墓地だと気づく。「この団体客のお目当ては、あの集団墓地なのだ」。

・「クフルム・ハウス」

〈ローレンス〉
 ローレンスはクフルム島の城主である公爵に会うため、クフルム人協会を訪問する。架空の国であるクフルムの地誌のパロディ。クフルム百科事典。
 公爵は戦時のため軍に城を提供することを快諾する。

・「電動勘定台会社」

閑話休題
 カムストック少佐。ETC(電動勘定台会社)。目当ての物資はかならず最後の箱にあるという与太話。

・「秘匿洞」

〈ランディ〉
 ランディは第二次世界大戦回顧録を読み、キナクタ島について予習する。無名の退役軍人の回顧録を楽しむが、それも回想が終戦に近づくまでだった。「このあたりからマッギーは怒りっぽくなり、ユーモアを失っていく」。
 キナクタ島では日本軍が残したトンネル、秘匿洞を利用し、基地局の建設に当てていた。施工業者の後藤エンジニアリング。ランディは後藤フェルディナンドと会う。

・「大蜥蜴」

〈シャフトー〉
 2702部隊はイタリアでSASと合流。シャフトーはまだ後遺症に苦しむ。「クソ!」「どうかしましたか?」「おれは目が覚めるといつもそう言うんだよ」。
 長期間、潜伏していたように偽装工作をおこなう。「アメリカ軍規格一般支給品百パーセント純正の糞尿」まで埋伏。
 「護送船団の情報だ」「いつのですか」「未来のだよ」。

第2巻『エニグマ』

・「城」

〈ローレンス〉
 ローレンスはクフルム島に派遣される。「列車を降りるなりスコットランドの穀潰し男が水をぶっかけてくる」。水飛沫で跨線橋バグパイプのようになる。
 クフルム島の事物には定冠詞が頻出する。ザ・タウン、ザ・ホテル。「誰かがタクシーの窓拭き(ザ・スクイージー)をなくしたらしい」。
 クフルム人はバイキングを撃退したことをいまだ誇りにしている。公園には銅像。「あのバイキングに捕まっているやつは?」「アウター・クフルムのやつらに決まってまさあ!」。

 城では偽装としてハフダフ(HF/DF)の観測に従事。城内の照明はガルバーニ電燭。
 通信にはワンタイムパット暗号を使用。教区司祭の妻、テニー夫人がビンゴを引いて乱数生成をおこなう。

・「理由」

〈ランディ〉
 エピファイト社の事業計画書。
 機密保持のため、専用サーバー、トゥームストーンを設置。
 ランディに不審なメールが届きはじめる。データヘブンを建設する理由を問う。「ネットで論戦を挑んでくるのは暇をもて余した16歳のガキか、それと同じ精神構造のやつだが」。
 アンドリューは群衆精神を提唱するネット上の思想家になっていた。(この分派と内紛のパロディが爆笑もの)。
 アンドリューの派閥はランディたちを非難していた。「走資派であり、麻薬業者や第三世界の収奪政治家に住みよい世界を作っている」と。「理由がようやく見つかった」。

・「転進」

閑話休題
 ニューギニア島で日本軍第二十師団無線小隊が暗号書を放棄する。

・「ハフダフ」

〈ローレンス〉
 ローレンスは城でドイツがハニートラップで送りこんできたメイドとよろしくやる。

・「ページ」

閑話休題
 プリズベーンのアスコット競馬場は兵営に、娼館は兵舎に徴発されていた。いま娼館は洗濯紐が張られ、大量のページが吊るされ、扇風機が稼働していた。日本軍の暗号書を回収したのだ。

・「突入」

〈シャフトー〉
 2072部隊は商船をノルウェー座礁させる。事故を偽装するため、斧を貨物に叩きつけていた指揮官が自分の足を斬る。「これはいい! もっとリアルになるぞ!」。

 そのすこし前。
 ナポリでドイツ軍と交戦する。隊員がビッカース重機関銃を使用。シャフトーは高校の工作室を思いだす。そこには工具でありながら基盤設備をもつ帯鋸があった。ビッカースも同じだ。水冷式でラジエーター、基盤設備をもつ。反動があり、熱、汚れが蓄積し、ついに詰まる。ビッカースの猛攻と敗北。

 連合国商船用暗号書を残すという矛盾した命令で、2072部隊は混乱する。

・「注意義務」

〈ランディ〉
 エピファイト社のミーティング。キナクタ島はシンガポール、台湾、オーストラリアの中心にあって、ルーターを建設するのに最適。「この三つを結ぶと三角形ができる」「どんな三点を結んでも三角形はできるよ」。結果、秘匿洞の建設は合弁事業になる。
 エピファイト社のメンバーにアビが情報を隠していた理由。訴訟に備えるなら、一対一の対話形式を徹底すべき。エブが納得せず、ランディがなだめる。「技術屋は大抵そうだが、エブは相手が論理的でないと思うと徹底して頑固になる」。エブは裁判所が提出命令を出せないよう、暗号化でなく、自己完結的なネットワークを構想する。
 歯医者が訴訟を仕掛けてくるかもしれない。AVCLAと決裂すれば、資金がなくなり、さらに資金繰りのために持株比率を下げればのっとりを仕掛けられる。「訴訟はリスクのない攻撃だ。僕たちは太平洋を渡って証言させられたり、証拠書類を提出させられたりする。弁護士費用もかかる」「それに、裁判に負けるかもしれない(ジョーク)」。

 メール送信者探しその1。アンドリュー。(その後、アビ、エイミーと続く)

・「槍の穂先」

〈ローレンス〉
 クフルム島沿岸にU-553座礁する。ローレンスと2072部隊が急派、いまにも海中に滑落しそうなU-553に侵入させられる。「553は7と79の積ですね」。

・「モルフィウム」

〈シャフトー〉
 承前。シャフトーは戦争後遺症でモルヒネ中毒になっていた。艦長室の金庫が未回収のまま、U-553から退去命令が下されるが、シャフトーがモルヒネともども回収する。「目の前にあったのに気づかなかった。モルフィウム。ドイツ語だったのだ」。艦内には金の延棒が積載されていた。

・「スーツ」

〈ランディ〉
 ハッカーが嫌うのは、スーツを「着ている状態」ではなく「着ること」だ。また、選び、保管し、手入れすることを重荷に感じる。スーツそのものは着心地がいい。そこで、アビはスーツを会議当日にエピファイト社のメンバーに届けることにした。

 ランディは歯医者と接触しないようにアビから忠告されていたが、エレベーターで遭遇する。「一九五九年式キャデラックのフロントガラスと見まちがうほど大きな眼鏡」。3人の歯科衛生士の助手。「運命の三女神とも、復讐の三女神とも、美の三女神とも、北欧神話の運命の三女神であるノルネンとも、女怪物ハルピュイアたちとも呼ばれる」。

・「金庫破り」

〈ローレンス〉
 ローレンスはU-553から回収した金庫を解錠する。2枚の剃刀、膠、爪楊枝、炭素のかけら、電線、ラジオで集音器を自作。
 中身は書類で、文鎮に金の延棒が使われていた。「大したものを見つけたな」「ええ。エニグマでない暗号文です」「その”あらゆる悪の根源”のほうだよ」。

・「スルタン」

〈ランディ〉
 合弁事業のスルタンの御前会議。台湾、ハーバード・コンピューター・カンパニー社のハーバード・リー。歯医者。その他、数社。
 スルタンの開会の演説。「スルタンはスルタンらしくふるまった。構想と方向性を示すだけで、具体的経営という危うい領域には立ちいらなかった」。「「ネットワーク化された世界では、物理的な位置などもはや意味をもたない」出席者は力強くうなずいた。「しかし、それはネットワーク世界を賛美したい連中のたわ言にすぎない!」出席者はうなずきすぎで、多くは頸椎が鞭打ち症寸前になっていた」。プロジェクターでのプレゼンテーション。「しかし、それもたわ言だった!」。
 情報相のモハメド・プラガス。カリフォルニア大を卒業、スタンフォード大で博士号取得。学生時代はTシャツとジーパン姿で、ビールとピザが大好物。そんな男がスルタンの又いとこで、数億ドルの資産をもっているとは誰も思わなかった。
 ランディは会議の末席にギャングが混ざっていることに気づく。

・「跳飛爆撃」

〈後藤〉
 ビスマルク海海戦。後藤は漂流する。後藤は北海道の鉱山技師で、潜水ができた。

・「顔写真」

〈ランディ〉
 承前。ランディは即席で顔写真(マグショット)のプログラムを書き、ラップトップに触れたものの顔写真を撮影する。

・「山本」

閑話休題
 山本五十六の暗殺。死ぬ直前、まさにそのことで山本は日本軍の暗号が破られていることを悟る。

・「アンタイオス」

〈ローレンス〉
 ローレンスはU-553から入手した暗号文に挑む。

 チューリング真空管(バルブ)を研究。『RCA真空管便覧』。古典学者、ドナルド・ミチーとよくチェスを指す。「アランは純粋な観念を物質世界に現出させることに夢中になっている。野原に座れば、松ぼっくりや花の構造に数学的パターンを見出し、床に着けば、真空管のフィラメントや遮蔽格子のあいだを吹く電子の風を夢見る。チューリングは神でも人間でもない。ギリシャ神話に登場する巨人、アンタイオスだ。数学世界と物質世界のあいだに橋をかける巨人だ」。

 ローレンスとチューリングはU-553の暗号文について討論。おそらく疑似乱数を使用しているということで合意する。ボーコードの形式によるフィッシュ暗号。フィッシュ暗号はコロッサスで解読。暗号文の写しを見たチューリングは愕然とする。暗号文についてではない。「これはルディの字だ」。

・「フリーキング」

〈ランディ〉
 バン・エック傍受(フリーキング)の解説。ラスタースキャン、あるいは画素のスクリーンバッファの電磁波のリンギングを探知する。

 群衆精神のオンライン百科事典のパロディ。

 バン・エック傍受が可能か賭けになり、カントレルがハワードのラップトップを傍受する。
 「これをペントハウス誌の読者欄に投稿してみよう!」。(『クリプトノミコン』のクソ長さを指摘するときにかならず挙がる、ポルノ小説の掌編。ストッキングフェチ。ゴーマー・ボルストルード製家具。ストッキングはライフスタイルと分かちがたく結びついている。主人公は自分と同じ知識人の女性と結婚するが、ジーンズとスニーカーにストッキングは合わず、妻への愛情と性的欲求の板挟みになる)。
 「これは賭けの証拠にできないな」。

・「漂流」

〈後藤〉
 後藤は漂着。食人族に遭遇する。

・「靴墨」

〈シャフトー〉
 2072部隊はトリニダード島の不定期貨物船を偽装、靴墨で黒人に変装。補給用Uボート接触する。「こんな偶然がありえるだろうか。N[n]=1キロ四方の黒人の人数 N[m]=補給用Uボートの数 A[A]=大西洋の面積 いや、こんな計算をしている場合ではない。とくにN[n]を減らすことに全力を傾けている今は」。

 貨物船は撃沈され、シャフトーとルートは捕虜になる。艦長のギュンター・ビショフ大尉。

・「敵対行為」

〈ランディ〉
 エピファイト社のメンバーは会議の出席者たちを確認する。中国軍の投資部隊。「人民解放軍は巨大なビジネス帝国でもあるのよ」。
 アビがメンバーを説得する。「ゴールドラッシュの時代、カリフォルニアの金鉱掘りの町には”おたく”がいた。試金屋だ」「おたくの試金屋の相手は男娼売春宿の常連、世界中の脱獄囚、精神異常のガンマン。そうでなくても悪党どもだ」「だが、やがて西部には教会や学校が次々と建ち、荒くれ男どもは同化したか、追放されたか、牢屋に放りこまれた。残ったのはおたくたちだ」「金鉱掘りを怒らせたあと、通りで射殺された試金屋は何人くらいいたんだ?」。

 プラガスと共同企業体で秘匿洞の建設現場へ。「カリフォルニアには皮肉を笑う気分がペストウイルスのように蔓延していて、一度感染すると治らない」。

 良い知らせと悪い知らせ。良い知らせは、歯医者がのっとりを仕掛けるだけエピファイト社が魅力的な存在になったこと。悪い知らせは歯医者がのっとりを仕掛け、戦略的訴訟を起こすこと。訴訟を起こされれば、エピファイト社の企業価値は無意味になる。つまり、歯医者が主導権をもつ。「ビジネスの世界で小さくて金銭的価値のある会社は、ジャングルで木の枝にとまって楽しげな歌を一キロ先まで響かせる、美しくてよく目立つ鳥と同じだ。普通は大蛇が忍びよってくるまで猶予があるが、大蛇の背中にとまっていたらしい」。

・「フンクシュピール

〈ローレンス〉
 U-691によるシャフトーとルートの拿捕のため、ブレッチリー・パークで対策会議が行われる。ウルトラメガの資格者たち。オクスフォード大学監、ユダヤ教律法学者、新聞のクロスワードパズル担当編集者、アメリカ人。
 無線員の打鍵の癖「筆跡」。打楽器奏者、傍受員のアルビノの女。
 対策会議は補給用Uボートの緊急電文、U-691の反乱を偽装する。

・「HEAP」

〈ランディ〉
 アビはホロコーストの資料収集をライフワークにしている。スペイン人はアステカ族を虐殺したが、アステカ族は2万5千人のナワトル族を捕虜にして、テノチティトランに連行し、数日のうちに虐殺した。「一種のお祭りだろう。スーパーボウルの週末みたいな」。
 ホロコーストの追悼は将来のホロコーストの予防には無益だ。だから将来、ホロコーストの加害者になりうる人々でなく、被害者になりうる人々を教育する。HEAP(ホロコースト教育および回避に関する情報集)
 埋蔵金伝説は夢物語のはずが、ダグラスが潜水艦の残骸を発見。シャフトー父子に財宝を回収させれば信義則違反で歯医者に提訴され、シャフトー父子は歯医者とボロボロ団から財宝を隠したがっている。

・「探し癖」

〈シャフトー〉
 U-691艦内。艦長のビショフは拘束帯を着させられている。エニグマは破られていると報告したためだ。政治将校のベックが艦長を代行。シャフトーの持つモルフィウムの通し番号を報告したところ、ベックも捕虜の尋問を禁止される。
 ドイツ海軍にU-691の撃沈命令が出される。ビショフが艦長に復帰。デーニッツに喧嘩別れの電文。海戦、ドーヴァー海峡の突破。2702部隊がノルウェー沿岸で水深測量をしていたため、ノルウェーへ。

・「食人族」

〈後藤〉
 後藤は砂金採りで食人族に取りいる。日本軍が食人族を虐殺。峠越え、オーストラリア軍と交戦。

・「沈没船」

〈ランディ〉
 サルベージ。海洋無人探査機(ROV)。「ランディが気にいっている軍人の特徴は、いつでも教育せずにいられない強迫的な心理だ」。
 ランディの腕時計が鳴ると、エイミーが「それで平方根を計算してくれない?」と頼む。「ランディの腕時計が外れ、エイミーの左手に落ちた。ビニール製のバンド部分がすっぱり切断されている。エイミーの右手にはクリースがあり、その刃にはランディの腕毛が何本かついていた」「肩越しに放り投げられた腕時計は南シナ海に消えた」。
 潜水艦は海中で倒立している。図解入りのドイツUボート史。「「どうして水平に横たわっていないのかな」ダグはまだ水がはいったボトルを舷側の向こうに放り投げた。ボトルは逆さになって浮いた」。
 「「ほとんどの乗員は即死だ。その魂に神のお恵みを」べつの情況であれば、ランディはその宗教的な言葉に苛々しただろうが、ここではむしろいちばんふさわしい台詞に感じられた。無神論者ならどう言うだろう」。
 ハッチの蓋は開いていた。脱出した乗員がいたらしい。
 「一服するのにちょうどいいタイミングだ」。「「一服するのにちょうどいいタイミングとは、どういう意味ですか?」「記憶のなかにしっかり固定し、刻みつけるためだ」「きみは今、人生でもっとも重要な瞬間にいるんだ。今このときをさかいに、すべてが変わる。わたしたちは金持ちになるかもしれない。殺されるかもしれない。ハラハラドキドキするだけで終わるかもしれないし、なにかを学ぶかもしれない。しかしわたしたちは変わるんだ」丸めた手のなかからまるで手品師のように火の点いたマッチを取りだし、ランディの目のまえにかかげた。ランディはそれで葉巻に火を点け、じっと炎を見つめた。「とりあえず、幸運がありますように」「あそこから脱出したやつにもな」」。
 (信じがたいほど美しい一節だ。同じ巻にポルノ掌編があるとなおさら信じがたい)。

・「サンタモニカ」

〈ローレンス〉
 「アメリカ軍の第一で最大の部分はタイピストと事務職員のネットワーク、第二は人員を移動させるメカニズム、最後が戦闘集団としての部分」。
 デーニッツがロケット燃料による次世代艦の完成まで、Uボートをすべて帰港させることを決定。ローレンスの地上の戦争は終わる。帰郷、ロサンジェルスに遠出。
 「はじめてカリフォルニアに来たときのローレンスは、数学と音楽が得意で、すこしだけ頭がいいというほかは、他の兵士となにも変わらなかった。今はちがう。彼らが考えている戦争は、ここからすこし離れたハリウッドで製作されている戦争映画と変わらない、完全なフィクションなのだ」「パットンもマッカーサーもウルトラ情報あるいはマジック情報の消費者でしかない。モンティはバカだ。ウルトラ情報を無視して大損害を与えた」。
 ローレンスの地理的感覚も変わる。地球はひとつの情報網に。
 砂と波のパターン。海がチューリング機械だとしたら、砂はテープ。

・「前哨地」

〈後藤〉
 後藤は日本軍の前哨地に合流。ゴムボートでニューギニアを離島。

・「流れ星」

〈シャフトー〉
 シャフトーたちはフィンランドで密輸業者のオットー・キビスティクと姪のジュリエタのもとに寄食する。「フィンランドは国全体が実存的絶望と、自殺的な鬱状態の明けない夜のなかにある。水に浸した樺の枝鞭で自分を痛めつけることも、辛辣なユーモアも、一週間も続く酒宴もやり尽くした。残っているのはもうコーヒーしかない」。
 ノルスブルックに火の玉が墜落する。

・「ラベンダーローズ」

〈ランディ〉
 サルベージ作業。潜水病の説明。

 メール送信者からポンティフェクス暗号の概念を教えられる。

 ダグが潜水艦内にあったブリーフケースを見せる。判読できる便箋の宛名はルドルフ・フォン・ハッケルへーバー。封筒の走書きを見て、ランディは愕然とする。「ウォーターハウス ラベンダーローズ」。

第3巻『アレトゥサ』

・「ブリズベーン」

〈ローレンス〉
 ローレンスはブリズベーンに配属。事実上の無期限待機命令を受ける。

・「デーニッツ

〈シャフトー〉
 承前。シャフトーとビショフは飛行機の墜落現場に行く。スオミ短機関銃。哭泣するルディがいる。ルートが説明。「ルディは恋人の遺体をまえにして泣いているんだ」「あの飛行機は女が操縦してたんですか?」「きみはルディが同性愛者であるという可能性を考慮していないようだな」。
 「広い意味でいえば、わたしがここにいるのは、教区司祭の妻のテニー夫人がビンゴマシーンからボールを取るときに面倒くさがって目をつぶらなかったせいだよ」。

・「クランチ」

〈ランディ〉
 シリアルへの偏執。キャプテン・クランチ。ダンスレッスンのビデオ。

 マニラ・ホテル。「年中、ロビーは舞踏会用のドレスで着飾った年配のフィリピン人女性が行き来している」「最初に見たときは、大ホールでなにかおこなわれているのかと思った。結婚式か、年配のビューティーコンテスト参加者たちが化繊メーカーに集団訴訟を起こしているのか」。
 ランディの祖母は社交ダンスを習うように言っていた。祖父との出会いはブリズベーンの舞踏会。
 ダグラスの連れの中年のフィリピン人美女、オーロラとダンス。オーロラはランディに経緯度を教える。

・「娘」

〈ローレンス〉
 ローレンスはマクティーグ夫人の家に下宿。同室の兵士ロッドの従妹、メアリー・スミスに惚れる。

・「秘密結社」

〈シャフトー〉
 ルディによるドイツ軍の官僚組織の偏執的な説明。
 ルディはワンタイムパッド暗号を解読していた。カードを使った乱数生成では、担当者は無意識にeをzより引く。機械で統計分析。2072部隊のワンタイムパッドは欽定訳聖書と同じ頻度分布をもっていた。

 回想。ルディはゲシュタポに連行される。「午前四時の来訪はなかなか賢いやりかただった。人間の闇に対する原初的恐怖心を利用するわけだ。だが、今は四二年。もうすぐ四三年だ。みんなゲシュタポを恐れている。闇よりだ。なら昼に活動したらどうだい?」。
 イタリアから招聘されたテストパイロットのアンジェロとの同性愛が露見したらしい。アンジェロともどもゲーリングの特別列車に乗せられ、脅迫される。

 U-553はゲーリングの財宝運搬船だった。
 アンジェロはメッサーシュミットのタービンジェットエンジン搭載の新型試作機に志願。それを使って亡命。
 ルディはライプニッツの資料収集を名目に亡命。知人であるルートを頼る。
 シャフトーたちはマニラの財宝に関する秘密結社を結成。
 ルートはエルディトルム会のメンバー。

・「財宝」

〈ランディ〉
 エピファイト社で唯一の従業員のキアとやりとり。「若いハイテク企業の管理職員はスポーツ体型の二十代で、新型の自動車のような名前だと相場が決まっている」「ハッカーはほとんど白人男性なので、人種的多様性は非ハッカーの一、二名の従業員に頼るしかない」「この種の人々にとっては、いつでも最高の仕事をすることが暗黙の社会契約らしい」。

 カントレルの作成したオルドイマックス。揮発性RAMにのみ保存するうえ、つねにカメラで本人がいるか点検する。

 「「ジャングル旅行記」あるいは「フク団の宣伝」あるいは「聞いて驚け」あるいは」「ルソン島北部の広大な熱帯雨林における冒険と発見の物語 ランドール・ローレンス・ウォーターハウス記」。
 冒険記のパロディ。教えられた経緯度に行くと、ジャングルに巨大な金塊が鎮座している。だが、輸送の困難と国軍とNPAのゲリラのために誰も回収できない。
 経緯度はメッセージ。金は使えなければ意味がない。世の中には使えない大金を抱えている連中がいる。その連中はその金を使えるようにすることを望んでいる。

・「ロケット」

〈シャフトー〉
 ジュリエタがグローリーのことでシャフトーを揶揄する。「密輸業者の娘、無神論者でインテリのゲリラが」「そのときやっと、納得できる理由に思いいたった。ジュリエタは妊娠しているのだ」。
 新型艦のUボートがビショフを迎えに来る。
 新型艦について知ったことで、ナチスがシャフトーを暗殺しようとする。ルートがそれを伝える。「きわめて複雑な事態になっているんだ」「知っていますよ」。「ジュリエタと寝ていることを教えにわざわざ来たんですか?」「ちがう! いや、そのことは話すつもりだったが、それは本題ではない」。「ジュリエタはフィンランド人であることの短所を捨てて、長所だけ楽しもうとしてるんだ」「短所とは?」「フィンランドに住まなくてはいけないことですよ」。「目当てはアメリカかイギリスのパスポートだ。だからギュンターとは寝てなかったでしょう? いや、寝てたかも」。「ここへ来てくれた勇気に感謝しますよ」「ジュリエタは納得してくれるだろう」「ドイツ人のことですよ」。
 ナチスと交戦。ソ連製120ミリ迫撃砲。ルートは致命傷を負い、パスポートのためにジュリエタと結婚する。「あなたはさっきまでジュリエタと寝ているのに寝ていないと言い、だから司祭の地位に留まれると主張していた。ところがジュリエタと結婚し、寝ないのに寝ていると主張すると」。
 ルートはシャフトーを含め、死亡を偽装。シャフトーはマニラを目指す。

・「求愛」

〈ローレンス〉
 頭脳の明晰さは性欲の影響による。「0≦C[m]<1 σa(t-t[0]) C[m]a・∫(1/(σ-σ[c])^n)」。「頭脳の明晰さ、C[m]はこうなる。性欲は解剖学的な理由によりσで表す。閾値はσ[c]だ」。「ところが、ここにメアリー・スミス近接性(プロクシミティ)という因子(ファクター)、F[MSP]が現れた。F[MSP]とσは直交どころか、空中線を延々と演じる二機の戦闘機の軌跡のように複雑に絡みあっている。かつて一次関数だったローレンスの方程式はいきなり複雑になってしまった」「ローレンスは膨大な数の制御不能な因子にもてあそばれるようになってしまった。そして普通の人間社会とつきあっていく必要に迫られた。社交ダンスに出かけるはめになったのだ」。

 「ローレンスは会話のきっかけを探した。候補はいくつか見つかった。”知ってるかい? 日本の工業生産能力はブルドーザーを年に四十台つくるくらいしかないんだよ” そして、こう続く。”だから防壁を築くのに奴隷労働力を使うのも仕方ないのさ!” あるいは、”日本海軍のレーダーシステムは、その設計からアンテナ配列に制約があって、後方が死角になる。だから真後ろから近づけば安全なんだ”」「あるいは、”ケンブリッジ大学チューリング博士は、魂は幻想であり、人間の定義と思われているものはすべて一連の機械的処理に還元できると主張しているんだ”」。
 「正装して、実際より頭よさそうに見える男たち。じつのところ、ローレンスより頭よさそうに見える」。「ローレンスは遅れて到着した。ガソリンはすべて、日本に高性能爆薬の雨を降らせる巨大爆撃機を空気中に押しあげるために使われている。乙女の陵辱をもくろむローレンスという肉塊をプリズベーンの反対側に運ぶことなど、優先順位がはるかに低いのだ」。

 ローレンスはメアリーたちの一団に近づき、会話が英語でないことに気づく。「しばらくして、その聞き覚えのあるアクセントがなにか分かった。それどころか、マクティーグ夫人の下宿屋に届けられた郵便物のなかに見たスムンドゥフという奇怪な宛名の謎も、いま解けた」。「つまり、ロッドとメアリーはクフルム人なのだ!」
 「これをチューリングはどう説明するだろうか! ここで証明されているのは、まちがいなく神は存在するということだ」。
 「ローレンスはメアリー・スムンドゥフに意気揚々と挨拶した。「ギュンヌ・ブルドゥ・スクルドゥ・ム!」」。「「おい、きみ!」メアリーの連れが言い、ローレンスがその声のほうを向くと、だらしないニヤニヤ笑いに拳が狙いたがわず叩きこまれた」。
 「「どこでその言葉をおぼえたんだ?」「アウター・クフルム島か?」ローレンスはうなずいた。まわりの顔がいっせいに能面のように無表情になった」。「そうか! この連中はインナー・クフルム人なのだ!」。
 (モンティ・パイソンばりの伏線回収で、ここで死ぬほど笑った)。

 ロッドはローレンスを慰める。アメリ海兵隊は無線員にナバホ族を採用。イギリスでは海軍がアウター・クフルム人を、陸軍と空軍がインナー・クフルム人を採用。「クフルム語は簡潔で含蓄の多い言語だからな」「冗長性が少ないほど暗号は破りにくくなる」。ピグミー族のクンド語、アリュート語に近似。
 「ぼくはメアリーに、きれいだねって言おうとしただけだよ」「だったら、”ギュンヌ・ブルドゥ・スクルドゥ・ム!”と言わないと」「だからそう言ったじゃないか!」「きみは中間声門音と前部声門音を混同しているよ」。
 「「大丈夫だ。クフルム人は言葉を使わないコミュニケーションに長けているから」ローレンスは”そ、そうなのかい?”と言いそうになったが、また顔を殴られると思ってやめた」。

・「INRI」

〈後藤〉
 後藤はカトリックの慈善病院で治療を受ける。

 後藤はマニラに派遣される。さらにジャングルへ。現地住民の運転手が尋ねる。「「あんた、兵隊さん?」「いや、兵隊とは言えないな」詩人だと言おうかと思ったが、その肩書にも値しないと考えなおした。「おれは穴掘りだ」」。
 そのことを聞いた将校が運転手を射殺。後藤の任務は鉱山技師としてのものだった。

・「カリフォルニア」

〈ランディ〉
 ランディはシャーリーンとの財産分割のため帰国する。サンフランシスコ国際空港。そこの「床がすべりやすいので注意」と同じくらい「麻薬密輸者は死刑」というポスターが貼られたニノイ・アキノ国際空港。
 アビはジャングルの金塊から電子通貨の発行を構想する。「新聞を読んでないのか?」。
 アジア通貨危機。「「わけがわからなくて逃げ出したくなる話だな」「この娘はわけがわかっているみたいだぞ」三紙とも通信社配信の同じ写真を採用している。銀行のまえから延々と続く行列に並んだひとりのタイ美人が、アメリカのドル札を一枚掲げている」。
 「まるで”第二十三回党大会の目標を達成するために奮闘努力します”と連呼するように、くりかえし唱えないと自分の言っていることが信じられなかった。銀行家になるんだ、銀行家になるんだ…」。
 「かつて銀行はそれぞれ通貨を発行していた。スミソニアン博物館にはそういう古い銀行券が展示してある。”サウスなんとかの第一国立銀行は本券持参人に豚肉十切れを進呈します”とかなんとか書いてあるわけだ」。

 キアはランディについて、エイミーと統一戦線を組む。
 伝染病でカイユース族を全滅させたホイットマン夫妻。

・「オルガン」

〈ローレンス〉
 ローレンスはインナー・クフルム人の教会に行く。「教会はメアリーをファックしたいと考えるのを正当化する文脈を与えてくれる。教会に通ってさえいれば、メアリーをファックしたいと考えてもいいし、教会の内でも外でもメアリーをファックすることを想像してもいい。間接的な言い回しさえすれば、きみをファックしたいと本人に言ってもかまわないのだ。金の関門をくぐり抜ければ、現実にメアリーをファックすることもできる」。
 「ローレンスはさっとベッドから下りて、ロッドを驚かせた(ジャングル戦をたたかう特殊部隊員のロッドは、ちょっとしたことでも驚きやすいのだ)。そして、「きみの従妹をベッドが潰れて粉々になるまでファックしたい」と言った」。「実際には、「きみといっしょに教会へ行きたい」と言ったのだが、ローレンスは暗号の専門家だった」。

 「メアリーをファックする作戦」のために、ローレンスは教会のオルガンを演奏する。そのとき天啓が訪れる。「電子の記憶のつくり方がわかった! 急いでアランに手紙を書かなくては!」「数ブロック歩いたところで、ローレンスは二つのことに気づいた。裸足で通りに出てきてしまったことと、その若い女がメアリー・スムンドゥフだったことだ。あとで靴をとりに戻って、できればメアリーをファックしよう。でもそのまえにやらなくてはいけないことがある!」。

・「家」

〈ランディ〉
 ランディとシャーリーンの家は地震で全壊していた。シャーリーンはキビスティクと同棲。エイミーとアメリカ在住の親類の青年2人もいる。「「廃屋ですね」ロビン・シャフトーはテネシー州の山村の生まれで、トレーラーハウスや丸太小屋に住んでいるが、その不動産評価でもそういう結論になるらしい」。

 エイミーはランディに謝罪。「わざと追突したりして、ごめんなさい」「家がこんなことになってるなんて、知らなかったのよ」。
 「あなたの車を目のまえに見つけたときに、神はわたしとともにあると思ったわ。あるいはあなたとともに」。エイミーはランディに好意をもっているわけではないが、ランディが自分に好意を見せながらシャーリーンと復縁するらしいと誤解し、怒りのままカリフォルニアまで追ってきた。「自分が気にしているだれかがひどくバカげたことをやろうとしているのに、車の外っ面を傷つけたくないというだけの理由で、力づくで止めるのをためらう連中もたくさんいるわね。ピカピカの車に乗って、感情的にもつれた最低の未来に走っていけばいいのよ」。
 「とにかく、車を降りてからきみに怒鳴り散らしたりして悪かったよ」「どうして? 追突してきたトラックの運転手に怒鳴るのは当たりまえじゃないの」「きみだとわからなかったんだよ」。「シャーリーンには一度も怒鳴り散らしたことがないんじゃないの?」「いい人間関係を築くには、おたがいの問題を解決する手段がいくつか必要じゃないか」「車をぶつけるのはいい手段のうちにはいらないというわけね」「あまりよくないだろうね」「声を荒げることも、口論することも」「さぞかしうまくいったでしょうね」。

 シャーリーンが悪評を流布したらしく、ランディは地元で冷遇される。「もっとも頑迷な旧約聖書的倫理観をふりかざしたのは、すべての物事は相対的であって、複婚も単婚と同じように正当であると考える連中だった」。敬虔なキリスト教徒で、化学教授のスコットと小児科医のローラの夫妻だけがランディを歓待する。「UNIXシステム管理に即していえば、現代的で政治的に正しい無神論者たちとは、資料もマニュアル類もないまま、おそろしく複雑なコンピューターシステム(つまり社会)にかかわらざるをえなくなった人々に似ている。なにもわからないままシステムを運用するには、とにかく厳格なルールをつくって強制するしかない。教会に通う人々は、UNIXシステムについてすべてを理解しているわけではないにせよ、基本的なマニュアル類やFAQやハウツーやリードミーなどはもっている管理者だといえる」。
 ランディは地元と永別する。

・「ブンドク」

〈後藤〉
 後藤は地下貯蔵施設の建設を進める。

・「コンピュータ」

〈ローレンス〉
 ETC社からの出向のアメリカ陸軍中佐、アール・カムストック。(スティーヴンスンのお約束の)企業の官僚主義のパロディ。
 Uボートアレトゥサ暗号。日本のアジュア暗号、ドイツのパファーフィッシュ暗号も同じ原理。3つの暗号はすべて金に関係。
 開戦以来の傍受電信をすべて統計分析したことで解明した。

 ETC社のカード機械で入出力。必要なのは、論理回路に機械記憶を付加することだった。
 オルガンの原理。RAM(ランダム・アクセス・メモリー)。水銀入りのU字管で、一連の二進数を再生する。
 「機械全体の名前は?」「コンピュータとか」「計算者(コンピュータ)は人間のことだぞ」「この機械は計算するのに二進数を使いますから、デジタル・コンピュータとか」。
 ローレンスのコンピュータは報告書には記載されずに終わる。
 「もうひとつ。この会議にふさわしい話題ではないかもしれないのですが、わたしは婚約しました!」。

・「キャラバン」

〈ランディ〉
 祖母のメアリーの財産整理のため、ランディは故郷のワシントン州ホイットマンへ。エイミーたちが旅の道連れに。ランディは若者2人の信頼を得る。

 ランディはエイミーに電子銀行券の構想を説明する。「いかにも偽造されやすそうだけど」「優秀な暗号があれば心配ない。ぼくらはもうもっている」。「マニアックな連中との長年のつきあいでね」「どういうふうにマニアックなの?」「優秀な暗号をもてるかどうかが、世界の運命を左右するくらいに重要なことだと信じているという意味でマニアックなんだよ」。
 「「あなたもそう思うの?」エイミーは訊いた。これは、人と人との関係が変化する分水嶺の質問かもしれない。「午前二時にベッドのなかで考えるときは、きっとそうだと思う」「でも翌朝明るくなって考えると、すべて偏執狂の妄想に思える」「まあ、お粗末であるより安全なほうがいいと思う。優秀な暗号ももっていて損はない。役に立つかもしれない」」。
 「「ついでに金儲けもできるかもしれない、というわけね」エイミーはつけ加えた。ランディは笑った。「今の時点では金儲けのことなんかぜんぜん考えてないよ。これは自尊心の問題さ」エイミーは謎めいた笑みを洩らした。「なんだい?」「まるでシャフトー家の人間のような台詞だからよ」」。「ランディはそれから三十分にわたって無言で運転を続けた。思ったとおりだった。あれは、人と人との関係が変化する分水嶺の質問だったのだ。あとはしゃべっても、ろくな結果にならないだろう。だから黙って車を走らせた」。

・「大将軍」

〈シャフトー〉
 シャフトーはニューカレドニア島へ。さらにニューギニア島のホランディアへ。マッカーサーの宮殿に行き、マニラの掃討戦に加えるように直訴する。「息子の名前は……お許しください。息子の名前はダグラスです」
 マッカーサーの直命を受け、マニラへ。

・「原点」

〈ランディ〉
 パルース丘陵のつむじ風。非線形空気力学とカオス理論の実験場。
 物理法則のなかにつむじ風の存在する余地はなかった。科学教育の現場の無言の馴れあい。「優秀でありながら退屈で自信のない教授の講義を聴きにきている学生は、二種類いる。工学専攻の学生は、教授が直観的に理解できない現象を話すと、緊張で手のひらが汗ばみ、不機嫌になる。物理専攻の学生は、自分たちは工学専攻の学生より頭がよくて精神的に純粋だと思って、それを誇りにしているので、わけのわからない話など聞きたくない」。

 学生寮のウォーターハウス・ハウス。祖父ローレンス・プリチャード・ウォーターハウス。「”デジタル・コンピューターの発明者”という基本的に無意味な称号を争っている十数人の一人」。
 クリスマス休暇で車のない駐車場の原点、X軸とY軸の交点に家具が運ばれる。メアリーの5人の子供で財産分割。イリノイ州マコームのオケーリ大学数学科長のレッド叔父、ニーナの夫妻。
 n個のアイテムからなる均質でない集合を、なるべく均等に、m個の部分集合に分ける。疑似-ナップザック問題。「Σ[i=1,n]V[i]=τ」「トムやその他の相対論物理学者のやり方からヒントを得て、τ=1と決めた」。トム叔父はパサデナのジェット推進研究所で小惑星を追跡。だが、経済的価値に感情的価値もある。とくにトム叔父の妻、レイチェルは無遠慮。そこで「ΣV[i]^[e]=τ[e]∧Σ[i]^[s]=τ[s]」。経済的次元をX軸、感情的次元をY軸として、各夫婦が駐車場の四象限に家具を配置する。
 「紙の上に書きこんでいけばいいことじゃないの?」。結果はパルース大学のスパコン、テラで演算。ランディの父はパルース大学の学長。ジュネーブの研究者にプログラムを依頼。おそらく遺伝的アルゴリズムを使うだろう。
 (いい年した大人たちが、駐車場の四象限に家具を動かすバカバカしい絵面が爆笑もの)。
 ゴーマー・ボルストルード製のダイニング家具一式。

 「ランディは自分の家族について話したがるタイプではなかった。特別なところはなにもないと思うからだ。グロテスクな精神病理学的事例とか、性的虐待とか、トラウマとか、裏庭での悪魔崇拝の集会とかがあったわけではない。だから人々が自分の家族について語りはじめると、ランディは黙って聞き役にまわった。ランディの家族のエピソードはありふれていてつまらないので、とりわけだれかが衝撃的な恐怖の事実を告白したあとでは、そんなことを話してもなんの意味もない気がした」。
 「ところが、ここでこうして空気の渦を見ていると、本当はどうなのだろうと考えはじめた。人はよく「今日の[ぼくは/わたしは]、[煙草を吸っている/太っている/落ちこんでいる]。なぜなら、[ママが癌で死んだから/叔父が親指をケツの穴に突っこんだから/パパがベルトでぶったから]」と主張したがる。だが、それは決定論的すぎる。つまらない目的論に身をゆがねてしまっているのではないか」。「学生のだれかが放置した車が小さな渦のパターンを百メートル風下までつくりだすようすを見ていると、世界についてもっと慎重な見方をすべきではないか、この宇宙の奥深い不思議を受けいれるべきではないかと思えた。そして、衝撃的な出来事(悪魔教会への参加など)が一度もなくても、記憶にとどまらないような無数のちょっとした影響にふれる生活を送るだけで、その風下ではそれなりに興味深い結果がうまれてくるのではないかという気がした」。「アメリカ・シャフトーも同じように考えてくれていることを、ありそうにないと思いながら、ランディは期待した」。

 ランディはローレンスの黒いトランクをちらっと見てしまい、ニーナにそれを目撃される。ニーナはトランクをX軸とY軸の果てまで運ばせる。
 「陶器類」の箱。記憶にある食器の底には「ロイヤルアルバート社 ラベンダーローズ」と焼きつけられていた。
 ランディはプログラムに細工することを決意する。

・「ゴルゴダ

〈後藤〉
 建設が進む。地下貯蔵施設はゴルゴダと通称される。日本軍は帰郷する技師、労働者を秘密裏に処刑していた。中国人労働者の

・「シアトル」

〈ランディ〉
 メアリーは完璧な淑女だった。「祖母の家事遂行能力は伝説的というよりむしろ悪名高かった」「理論物理学者の頭のなかは大半を数学が占めているように、祖母の頭のなかは大半がそういうことで占領されていたのだ」。「だから実際的なことがらになると祖母はまったくだめだったし、昔からそうだったにちがいない。祖母のホイットマンでの移動手段は一九六五年型リンカーン・コンチネンタルだった。夫がパターソン・リンカーン−マーキュリー商会から購入した最後の車だ」。「祖父は病で床に臥せてから、パターソン家の生存する男系メンバー全員を病室に呼び集め、フォースタス博士さながらの契約を結ばせた。祖父は、妻がタイヤについてきわめてぼんやりとした認識しかもっていないことを知っていたのだ。タイヤとは、男性たちがときどき英雄的に車から跳びおりて交換作業をおこない、自分は車内に座ってその姿を眺めていればいいもの、なのだ。祖母にとって物質世界とは、まわりの男たちが手を汚してなにかするためのものであり、しかもそのことに実用上の理由などはなく、たんに祖母が男たちを感情的にもてあそぶための仕掛けにすぎなかったのだろう」。「リンカーンが四分の一世紀にわたっていっさい無整備で、それどころかガソリン無給油で、なんの問題もなく走りつづけているという事実は、男性たちはとにかく過剰な性能を求めるものよねという祖母の見解を裏づける証拠としてあつかわれた」。
 ランディはローレンス、チューリング、ルディの自転車旅行の写真を発見。
 エイミーがメアリーから話を聞きだす。ラベンダーローズは1945年9月の結婚祝い。Uボートの沈没は同年5月。

 「ぼくはうちの家族のほかの男たちに比べたら、わずかながらも社交能力をそなえている。いや、社交能力のなさを意識しているというべきかな。だからすくなくとも困惑するときは困惑する」「あなたはそれが得意よね」。「そこがぼくのマシなところだと言いたいんだよ。本物のおたく野郎にみんながいちばんうんざりさせられるのは、その社交性のなさではなくて、本人が自分の社交性のなさについてすこしも困惑しないことなんだ」「みじめという点ではどちらも同じだと思うけど」「高校時代はみじめだったさ」「でも今はちょっとちがうんだ」「なに?」「わからない。それをあらわす言葉がない。そのうちわかるよ」。

 シャフトー家の若者2人は帰宅。ランディとエイミーはシアトル郊外のモールへ。
 MTGのプレイヤーの群れ。チェスターと再会。「チェスターは黙ってうなずきながら話を聞き、若いおたくのようにランディの話を遮ったりはしなかった。若いおたくは、だれかが平叙文で話しているとすぐに、きみの知らないことを教えてやっているんだという裏の意図を勝手に感じて反論してくるものだ。年をとったおたくはもっと落ち着きがあり、人はしばしばしゃべりながら考えるということを理解している。高度に進化したおたくはさらに、その場にいる全員がすでに知っている内容の平叙文をしゃべるのは、会話という社交プロセスの一部だと理解している」。

 チェスターは資産家になっていた。LOHO(ばかげて巨大な住宅を規制する条例)。
 チェスターは自宅を古い技術の博物館にしている。
 フレックススペース。ハイテク企業が産声をあげる場所は、大抵、倉庫のようなところ。チェスターはその天井にTWA機を懸吊、展示している。「このとき初めて、機体が軽く傾いているのに気づいた。垂直に急降下しているほうがそれらしい気がするが、そうしたらこの家は五十階建のビルくらいの高さにしなければならないだろう」。
 「エイミーは疲れた顔をしていた。この旅に出るまえのエイミーは、世の中は多くの物事から成り立っているということを認めたはずだ。今でも認めるだろう。しかしこの数日間にランディは、それがどういうことか具体的に見せた」。
 チェスターの知人である元ETC社の技術者に、ローレンスのトランクのETCカードを預ける。ラベルは「アレクサ傍受電文」。他に「ハーバード−ウォーターハウス素因数難問」の書類。「うまくいけば、ランディの人生をすこしおもしろくしてくれるはずだ。いまがおもしろくないわけではないが、古い問題の解決に苦労するより、新しい問題を導入してしまったほうが楽な場合もあるのだ」。

・「岩」

〈後藤〉
 建設作業。

・「煙草男」

〈ランディ〉
 アンドリューはAVCLAの顧問弁護士に。
 歯医者は沈没船を探している。沈没船は信義則違反の証拠になる。フランスのSPOT(映像望遠写真衛星)をレンタル。
 歯医者はトゥームストーンの提出命令を請求するだろう。トゥームストーンはロスアルトスのノブス・オルド・セクロルム・システムズ社のオフィスにある。オフィスの賃料は少額だが、T1回線の通信料で発覚するだろう。
 オルド社社長のデイブ。
 ランディは対応を決意。

・「一九四四年のクリスマス」

〈後藤〉
 後藤は不要な換気坑を建設する。

・「パルス」

〈ランディ〉
 ランディはオルド社の向かいのマクドナルドに駐車。車の屋根でラップトップを使用する。
 オルド社に強制捜査が入る。オルド社が実況中継。人間、ドワーフ、エルフ。人間… 警官隊、テレビクルー、法律事務所のスーツの男たち。ドワーフ… シークレット・アドマイアラーズのおたくたち。山本五十六の意匠のTシャツ。HEAP銃。多くの州法では拳銃の携帯は許可制だが、大型の猟銃を持つのは合法。そのため、大型の銃器を見せびらかす。
 セキュアシェル。パケット通信。秘匿洞の匿名化サービス、crypt.kk。
 FBI。司法長官のポール・カムストックシークレットサービス財務省は電子通貨を敵視している。
 ランディはリスクを承知で、自分のアカウントでトゥームストーンにログイン。再フォーマットは数分かかり、復元の危険も残る。そこで、ファイルを検索、ランダムな数字を7回連続で上書きするコマンド、rm(削除)コマンドを実行。
 さらに、Eメールのアーカイブをランダムに上書きするスクリプトを実行しようとしたとき、シークレット・アドマイアラーズのバンから電気音が鳴る。髪の毛が逆立ち、ラップトップは暗転。付近一帯が停電、車は操縦不能、通信機器は沈黙。
 シークレット・アドマイアラーズがビル全体に強力な電磁パルスを放射、射程距離内の半導体を黒焦げにした。「安心して。HDDは無傷だから」

第4巻『データヘブン』

・「仏陀

〈後藤〉
 金塊が搬入されはじめる。

・「ポンティフェクス」

〈ランディ〉
 沈没船の時価の50%×エピファイト社における歯医者の持株比率10%-諸経費=x、エピファイト社の時価総額×40%=y。x>yなら少数株主訴訟の損害賠償、株式による支払いで歯医者ののっとりが成功する。

 オルド社の強制捜査はCNNが放送。ランディも映る。カムストックは公式には政府の関係を否定する。
 キナクタ航空の機載電話。ランディがダグラスと通話すると、メール送信者、ポンティフェクスから電話がかかってくる。
 ポンティフェクスは古ラテン語で「僧侶」、字義は「橋をかける人」。
 ポンティフェクスによれば、NSAはローレンスの業績を盗んだ。40年代の暗号解読スーパーコンピュータ、ハーベスト。
 アレトゥサ電文は虚妄。カムストック(父)はNSA創設後、アレトゥサ解読にリソースを費やしてきた。59年、ついに解読。実態はただのゼータ関数の出力。しかも、入力の数列は「COMSTOCK」だった。カムストックは46歳でNSAを放逐され、ケネディ政権の国家安全保障会議に入った。

・「グローリー」

〈シャフトー〉
 シャフトーは抗日ゲリラとなったグローリーと再会。グローリーは顔がなかった。

・「第一貯蔵庫」

〈ランディ〉
 ランディはキナクタ国に移動。(「アジアの航空会社が使っている旅客機の後部には、二十八歳になったスチュワーデスを成層圏に射出する特別な装置があるにちがいない」が酷い)。

 ハワードは私邸を建設していた。モスクワのアメリカ大使館はKGBが基礎のコンクリートに盗聴器を混ぜていたために解体された。陸屋根のコンクリート構造、丘に排水溝を立てたようなもの。
 オルド社のコンピュータ室はドア枠が巨大な電磁コイルになっていて、HDDの磁気情報をすべて消去する。
 HEAP銃。海兵隊にM1ライフル銃が配備されたとき、隊員たちは海に放りこんだり砂まみれにしたりした。それで故障したため、1903年モデルのスプリングフィールド銃を使いつづけた。ダグラスはHEAP銃に反対。
 黒い部屋(ブラック・チェンバー)ブリュッセルでのG7の高官級会合。議長はカムストック(子)。NSA国税庁シークレットサービス、副大統領、政府に協力的な数学者。国際データ転送規制機関の準備委員会。暗号、とくに電子通貨の規制が目的。
 ランディは引揚げた金塊をハワード邸に隠匿することを提案。
 魔法使い、エルフ族、ドワーフ族、人間、ゴクリ。
 ダグラスによれば、ベトナム戦争中、カムストック(父)は米軍にルソン島を捜索させた。目的は第一貯蔵庫。
 ランディはハワードのラップトップを借りて、自分のHDDを接続。遺品のアレトゥサ電文がNSAのものでないことを知る。

・「浸水」

〈後藤〉
 予想どおり、日本軍は後藤たちを生埋めに。秘密の換気抗から脱出する。

・「逮捕」

〈ランディ〉
 ランディはマニラへ移動。
 『暗号書』を読みこむ。例文が軍隊の指令で「嘘っぽい(ホーキー)」と思うが、それが実際のものだと気づいて動揺する。暗号の専門家は脆弱性を指摘するだけだが、それは実際の暗号化、復号化ではない。映画評論家が映画監督でないことと同じ。
 ニノイ・アキノ国際空港でランディの荷物から麻薬が見つかる。「麻薬密輸者は死刑」。

・「マニラの戦い」

〈シャフトー〉
 マニラ掃討戦。シャフトーは息子を探す。

・「虜囚」

〈ランディ〉
 アレハンドロ弁護士。「”法律家”の肩書が先生(ドクター)と同じくらいありふれている国」。
 刑務所ではメディアが逆進化。観たビデオの口承文化が発達。「『ランボー3』でスタローンが薬莢から火薬を取りだし、傷口を焼灼する場面を聞くと、全員が畏敬の表情でしばし恍惚となる」。アンリ・シャリエール風の独房ではなく、超過密の都市社会。
 死刑執行場という先端設備の予算はなく、死刑囚は250人以上いる。
 かといって、保釈はありえない。「極刑に値する罪で起訴されているのだぞ! ジョークであることはみんなわかっているとはいえ、法は遵守しなければならない」。
 ランディは個室と私物のラップトップを与えられる。

 エイミーと面会。「ランディは思わず腕時計に目をやりたくなかったが、とうに没収されていた。エイミーはいま男女の会話部門で世界記録を達成したのだ。ランディが感情的に素直に応じないことへの話題の転換だ。こういう場所でそれができるとは、尊敬すべき神経の図太さだ」。
 ランディは一瞬、エイミーが黒幕かと疑う。
 ランディたちは、全壊した家の地下で歴史ロマンス小説を発見していた。「シャーリーンは週一冊くらいのペースでこういうものを読んでいたらしい」。「シャーリーンの業界においてそういう本を読んでいるというのは、一六九二年頃のマサチューセッツ州セーラムの村の通りを、とんがり帽子を頭にかぶって歩いているのと同じ行為だというのに」。「彼女がなにを求めていたかわかったでしょう?」「求められるものを与えていたの、ランディ?」。
 ランディはエイミーに告白。「初めて会ったときからきみにのぼせあがってるんだ」「ぼくが気持ちを表現したり行動に移したりできなかったのは、そもそもきみがレズビアンなのかそうではないのか、よくわからなかったからなんだ」「……でもそのあとは、たんに引っ込み思案のせいだ」。

・「誘惑」

〈シャフトー〉
 承前。野球場で手榴弾が投球される。シャフトーと後藤は再会する。
 後藤は進退に迷っていた。そこにマッカーサーが訪れる。シャフトーは後藤が改宗すると告げる。マッカーサーは感涙、後藤を迎える。
 シャフトーはダグラスと会う。ダグラスにサンアグスティン教会を見せ、来歴を伝える。

・「知恵」

〈ランディ〉
 ランディの親知らずの話。
 ラップトップはバッテリーが抜かれ、電源コードの長さで一箇所に固定。
 隣の独房にルートという老神父が収監される。その声はポンティフェクスのものだった。「どうだね、ランディ。橋をかけて(メイク・ア・ブリッジ)みないか。そんな風に尊大な態度(ポンティフィケイト)で立ちつくしているくらいなら」。

・「降下」

〈シャフトー〉
 コレヒドール島にある日本軍のコンクリート掩体の通信施設。シャフトーは自動開傘策で降下。アンテナが刺さって致命傷を負う。華々しく爆死。

・「メティス」

〈ランディ〉
 ラップトップはバン・エック傍受されている。Xウィンドウズ・システムで画面を読みにくくし、タイトルバーを非表示にする。パール言語でスクリプトを書き、ランダムにウィンドウを表示させる。
 埋蔵金のある土地は教会が所有している。中国共産党長老幹部、袁将軍。
 ポンティフェクス暗号の正体はソリティア暗号

 ルートのメダルには「イグノティ・エト・クアシ・オックルティ(未知にして隠微)」の文字。「オカルト」という言葉に悪魔崇拝のような意味はない。「ぼくは大学で天文学を勉強しました。星蝕(オカルテーション)は知っています。隠蔽(オカルテーション)も」。
 メダルの女性像はアテナ。アテナは生殖によって生まれたのでなく、ゼウスの額から出てきた。好色なオリュンポス神族のなかで、例外的に処女。残酷なギリシャ神話のなかで、例外的に寛大で公正。挑発したアラクネを正当に機織りで敗北させる。アテナは戦争の神、知恵の神、工芸の神。奇妙な組み合わせだ。ギリシャ語の知恵は「ディケ」で、アテネが司るのは「メティス(狡猾さ、巧妙さ)」。工芸は巧妙さの応用。
 「ぼくが工芸という言葉から連想するのは、サマーキャンプでつくらされるへたくそなベルトや灰皿ですね」「それは翻訳がまずいせいだ。現代の言葉でいえば”テクノロジー”に相当すると思ったほうがいい」「だんだんわかってきました」。
 もう一方の戦争の神のアレスは無能、荒淫。アテナが加護するヘラクレスはアレスに痛打。アレスの残虐な息子たちを処刑。アテナはオデュッセウスにも加護、オデュッセウストロイの木馬を発案した。ヘラクレスオデュッセウスはメティスを武器とする。
 「アテネはヘパイストスに押し倒されたことがあると言っただろう」「ぼくの精神にははっきりした表象が生成されていますよ」「それでこそ神話だ」。ヘパイストスは金属、冶金学、火を司る。地面に捨てられた精液からはエリクトニウスが生まれた。エリクトニウスはチャリオットを発明、銀を通貨として使用しはじめた。
 シュメール人のエンキ、古代スカンジナビア人のロキ、アメリカ先住民のトリックスター。だが、先住民はテクノロジーをもたなかった。
 アレスのような人間の行動パターンはいつの時代も存在する。「文明には盾アイギスが必要なのだ。そして悪者を最後に撃退するのは、知性だ。狡猾さだ。メティスなのだ」。戦略的狡猾さ、技術的狡猾さによって。「わたしたちが第二次世界大戦に勝ったのは、ドイツがアレスを崇拝し、わたしたちがアテナを崇拝していたからだ」。
 (『クリプトノミコン』のクライマックスとなる一節だ)。
 ランディはアレトゥサ暗号がゼータ関数を使用していると推測。チェスターにローレンスのトランクを求める。

・「奴隷」

〈ローレンス〉
 承前。ローレンスは通信施設に入る。
 算盤(アバカス)、もとい複数形の算盤(アバシ)と40人弱の奴隷の死体が見つかる。「戦争が始まるまで”奴隷”という言葉は”桶屋”や”蝋燭屋”のような死語だと思っていた」。

・「サブリミナル・チャンネル」

〈ランディ〉
 ランディは『暗号書』のC言語C++言語に変換したり、ルートと雑談したりして過ごす。ナチスユダヤ人科学者を嫌った理由。「ヒルベルトラッセル、ホワイトヘッドゲーデル。彼らは数学を解体し、いちからつくりなおそうとした。しかしナチは、数学とは混沌を秩序に変えていく使命をもった英雄的な科学だと考えていた。それはまさに、国家社会主義が政治の世界でもっている使命でもあったんだ」。
 歯医者と面会。歯医者は黒幕ではないらしい。「ランディはかなり高度なC++のコードを書いている最中に独房から引っぱり出され、歯医者との面会に連れてこられていた。そしてひどく退屈して苛々している自分に気づいて、少々驚いていた。ランディは退化していたのだ。つまり、徹底的なおたく状態に戻っていたのだ」。
 チェスターはデータをCDにコーディングして届ける。シアトル・サウンド。バンド「シェコンダー」、プレイしたTRPGの地下世界の神の名前。
 サブリミナル・チャンネル。スペースバー、LEDでモールス信号を入出力し、スクリーンに表示せずラップトップを操作。スクリーンには第一貯蔵庫の偽の経緯度を表示させる。ランディはアレトゥサ電文を解読。そこには本物の経緯度が書かれていた。

・「地下室」

〈ローレンス〉
 承前。奴隷たちは人力のコンピュータだった。
 アメリカ陸軍通信情報部隊が、マニラにローレンスのデジタル・コンピュータを設置。ローレンスは奴隷計算者によるアジュア暗号=パファーフィッシュ暗号を解読。残るはアレトゥサ電文のみ。

・「秋葉原

〈ランディ〉
 ランディはフィリピンを国外退去処分になる。成田国際空港へ。
 日本人はアメリカ人よりアメリカ的に見える。中産階級は豊かに、人間は丸くなる。若い女の子はかわいく、年配者は立派なのに、野球帽にスニーカー履き。低所得者層は鋲打ちのレザージャケットに手錠で、むしろマニラの貧しい囚人に見える。
 日本ではすべてが女性のか細いアナウンスで始まる。日本人はグラフィック表現の才能がある。あらゆるところに安全標識。天井は各種安全装置でいっぱい。「LEDがつくりだす赤い星座は、古代ギリシア人が観たらガニュメデスあるいはホモ好きのする酌童を連想するだろうが、日本人が見たら大災害とレスキュー隊員を思い浮かべるはずだ」。
 ランディは獄中生活で痩せる。
 アビと秋葉原へ。「パソコンオタク」が集まる「おたく涅槃(ナードバーナ)」。
 世界は海底ケーブルに依存。海底ケーブルを切断する海軍力をもつ国。その集団安全保障体制で生まれたのが、国際データ転送規制機関。
 後藤フェルディナンドの父、日本政財界の大物の後藤伝吾が上京する。

・「プロジェクトX

〈ローレンス〉
 1945年4月。ほぼ終戦
 コロッサス・マークⅡが完成。チューリングはコンピュータの開発に本格的に取組む。ジョン・ウィルキンズの発案した水銀の音波。「きみが埋めた銀の延棒は見つかった?」「消えたのさ。ノイズの海に」「今の質問はぼくのチューリング・テストだ。チューリングだかチャーチルだか、この機械のせいでわからないんだよ」。
 ロンドンの地下司令部にいるチューリングと、マニラのコレヒドール島にいるローレンスが通話。各々でホワイトノイズのレコード盤を同期させることで、通話を暗号化。ニューヨークのベル研究所の「プロジェクトX」と書かれた部屋で、「最新チャート第一位のホワイトノイズ」が作成、世界各地に配送される。
 アレトゥサ電文について、疑似乱数生成がゼータ関数によるという仮説を、チューリングは却下。ゼータ関数はルディ、アラン、ローレンスの共通認識。だが、ローレンスはルディが2人に解読されることを期待していたと推理する。

・「着岸」

〈ビショフ〉
 ルディ、ビショフを新型艦が迎える。Vミリオン号ゲーリングは逃亡、デーニッツが新総統になる。
 ジュリエタに子供が生まれる。「秘密結社に息子が生まれたぞ」「名前はなんて?」「G(ギュンター)・イノック(E)・ボビー(B)・キビスティクだ」。
 マニラの金塊を回収しに出航。
 (文庫4巻に渡る長大な伏線回収で爆笑)。

・「後藤様」

〈ランディ〉
 ランディとアビは後藤父子と面会。
 ランディと後藤は経緯度の秒以下だけを交換。数値が一致する。アビは情報漏洩を疑うが、ランディは後藤が埋蔵金埋伏の当事者だと断言する。
 後藤はランディとアビに金箔コーヒーを出し、本当の金は人々の頭と手だと説教する。
 アビは後藤に白黒写真を見せる。「わたしの大叔父とその家族です」「一九三七年、ワルシャワでの写真です。大叔父の歯があのなかに埋まっているのですよ。あなたが埋めたんですよ!」「わたしは大叔父を知らないし、ホロコーストで死んだほかの親類も知りません。しかしその親類たちを人間らしく埋葬してやれるなら、金塊などひとかけらも残さず海に放り込んでいい。あなたがそれを条件にするなら、そうしますよ。でもわたしの計画はすこしちがう。そういうことが二度と起きないようにするために、その金塊を使いたいのです」。
 袁が採掘を始める。後藤とランディたちとの競争が始まる。

・「墓」

〈後藤〉
 シャフトーの葬儀。後藤はルートと会う。

・「帰還」

〈ランディ〉
 キナクタ国のハワード邸。パムボートで沈没船の金塊をハワード邸に陸揚げ。ダグラスとエピファイト社のメンバーが金塊を目にする。
 パムボートでランディ、ダグラスはフィリピンに密入国。ジャングルでランディはエイミーと再会する。ルート、探検記のメンバーとも再会。
 ランディはついにエイミーと結ばれる。だが、挿入前に果てる。ひとまず無精髭は剃ることに。
 袁は爆破掘削を進める。
 ランディたちは地雷原に迷いこむ。

・「クリブ」

〈ローレンス〉
 ローレンスはシャフトーの葬儀で張込みしていた。

 その1ヶ月後、ローレンスはマニラでルディと再会。「FUNERAL」をクリブにして、ついにアレトゥサ暗号を解読した。
 ルディはローレンスを秘密結社に誘う。ローレンスはワシントン州の大学に数学教授として招かれているとして辞去。「”秘密を守る”という連中にかぎって秘密を守れないものだとは、よくいうだろう?」「秘密は守るから」。

・「カイユース」

〈ランディ〉
 承前。ランディたちは地雷原で身動きがとれない。「「袁が金塊を手にいれるのを阻止するためなら、死んでもいいと思っているのか?」「そこまでは思ってませんね」「だれかを殺す覚悟はあるか?」「だれかが夜中にきみの家に侵入して、きみの家族を脅しているときに、きみの手のなかにショットガンがあったら、それを使うか?」これは倫理的な難問であるばかりでなく、娘の夫として、孫の父親としてふさわしいか調べるテストなのだ。「まあ、使えればいいなと思います」。
 エイミーがカイユース族の矢で射られる。ランディは平石に決死のジャンプをする。「ランディ、それは日本軍の対戦車地雷だ」「きみがそういう無意味でばかげた行動をしばらくやめてくれたら、われわれはおおいに感謝するよ」。
 (この終盤でギャグを挟んでくるのに爆笑)。
 カイユース族の矢を使うのは、絶滅したカイユース族ではなくアンドリュー。
 エイミーがアンドリューを射殺。

・「ブラック・チェンバー」

〈ローレンス〉
 カムストックがローレンスを新設する国家安全保障局NSA)に誘う。戦間期の前身は暗号局(ブラック・チェンバー)。メリーランド州フォートミードに前代未聞の規模の機械室を建設する。

 マニラのアメリカ陸軍本部。アメリカ軍はVミリオン号を追跡していた。
 ローレンスはアレトゥサ電文を「COMSTOCK」の暗号文とすり替える。Vミリオン号は撃沈される。

・「パラワン水道」

〈ビショフ〉
 Vミリオン号は海戦、ついに座礁する。
 艦内の空気は圧縮されていて、火を点けると爆発する。だが、第一貯蔵庫の経緯度を書いた紙が残っている。ルディはビショフを脱出させ、紙を燃やす。

・「流動性

〈ランディ〉
 後日談。スペクトル拡散式パケットラジオで、ランディは全世界に状況を発信。袁は撤収。
 エイミーは回復。
 報道関係者、金掘り、おたくたちが現地に集まる。
 ランディは有名人に。タイム誌とニューズウィーク誌の表紙に載る。
 ランディの発案で、第一貯蔵庫は掘削せず、金を燃料で溶かして流出させることに。後藤エンジニアリングが施工。
 ダグラスが演説し、点火のスイッチを押す。
 川に黄金の河が流れだす。

○後書

 『クリプトノミコン』のクライマックスは、ルートがアレスとアテナの戦いについて語るところだろう。
 じつのところ、『クリプトノミコン』は戦中と現代の物語が繋がり、現代で祖父世代の謎が解けるところで終わる。そうしたプロットについていえば、『重力の虹』などより、名作であるリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』のほうがはるかに類似している。
 スティーヴンスンは事物や人間関係の変化より、ひとの精神が変化することや、理解が深化することのほうをはるかに重視しているのだろう。

 『クリプトノミコン』の中心主題は、オタクこそ決起しなくてはならないということだ。
 現在では、オタクというと一般にアキバ系サブカルチャーのファンだ。そのため、マニアというべきだろう(『げんしけん』を読んで喜んでいるような人々に、理性と良心を期待できるはずがない)。
 エルフ、ドワーフ、人間という区分は分かりやすい(『クリプトノミコン』の発表は『ロード・オブ・ザ・リング』の流行前だ)。人文系の研究者がホビットで、マニアック(偏執狂)になるまで発狂したマニアがゴクリということも、説得力がある。
 私自身の性格類型はまったく人間だ。だが、エルフやドワーフが活躍できる社会になればいいと思う。

 なお、暗号資産や3Dプリンター銃は社会問題を起こすばかりで、むしろアテナよりアレスのものになっている。この予想の失敗は、技術が万人に中立のものであることを、スティーヴンスンが考慮しなかったためだろう。『クリプトノミコン』における青写真は、エルフとドワーフだけの社会を前提としていたように思える。

 しかしまた、現在でもメティスの重要性は変わらない。
 クリストファー・ワイリーの『マインドハッキング』、『スノーデン 独白』はおおいに欣快とした。

2023年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2022年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2022/02/14/221729

 2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035

 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 

 まさか6年も続けることになるとは…

 

 2021年は残念なことに、文化庁メディア芸術祭が終了した。雁須磨子あした死ぬには、』、高野雀『世界は寒い』、志村貴子淡島百景』など、この年間傑作選で採りあげた作品が入選することもあり、クロスチェックを受けることができていた。

 良かったこととしては、サルトルの『家の馬鹿息子』の最終巻となる第5巻の邦訳が刊行された(『放浪息子』と『家の馬鹿息子』 - 志村貴子論 - (https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2018/02/06/090929))。また、イヴ・セジウィックの『タッチング・フィーリング』の邦訳が刊行され、『男同士の絆』が再版された(2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035))。

 

 

・マンガ

 

1.雁須磨子ややこしい蜜柑たち

 

 本作について語るなら、ホモソーシャルの概念を確認したほうがいいだろう。

 イヴ・セジウィックの『男同士の絆』が提唱するホモソーシャルの概念は、通俗化された上で大きな歪曲が2点ある。第1はホモソーシャルが男性に固有だということ、第2はホモソーシャルが性差別の機能だということだ。

 『男同士の絆』は冒頭(p.4)でハイジ・ハートマンの家父長制の定義「物質的基盤を持つ男同士の関係で、階層的に組織されていてはいても、男性による女性支配を可能にする組織体」を引き、古代ギリシャを男性同性愛と家父長制を同時に実行する例として挙げる

 すなわち、家父長制に異性愛規範とホモフォビアは必要ない。これが冒頭に書かれているにもかかわらず、ホモソーシャルを性差別の機能として挙げることが、大衆の知的怠慢を表している。

 セジウィックは男性同性愛がホモソーシャルに変化する転機として、具体的にはヴィクトリア朝オスカー・ワイルド裁判、より一般的には知的中産階級の勃興を挙げる(p.332)。これにより同性愛のイメージはホモフォビア、ホモフィリアともに純粋に性的、また想像的なものになり、同性愛はホモフォビアによってホモソーシャルへと転化した。

 すなわち、ホモソーシャルホモセクシュアルに起因するのであり、ホモフォビアや性差別に起因するのではない(参考:大橋洋一『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』(名古屋大学出版会)書評 https://allreviews.jp/review/4320)。大衆における、ホモソーシャルホモフォビアや性差別から発生するという理解は、因果関係の錯誤を冒している

 労働階級において、中産階級より強固な性差別が行われつつ、ホモソーシャルがほぼ存在しないことは、ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』やリチャード・ホガートの『読み書き能力の効用』などの生活誌に記述されているし、そもそも、肉体労働の経験があれば知っているはずだ。

 

 ホモソーシャルという抑圧が『ややこしい蜜柑たち』の清見や、『ゆりでなる♥えすぽわーる』の雨海(参考:2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞) https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228)の強さと弱さを表している。

 弱さのために反抗してこなかっただけの人間が感情を爆発させるさまは醜悪だが、知性と自制心によって環境に順応してきた人間が心を折られるさまは美しい。それは環境への順応から解放され、環境そのものを新たに創造する契機だからだ(『ゆりでなる♥えすぽわーる』第2巻第6話を見よ)。

 

1.なおいまい『ゆりでなる♥えすぽわーる』第4巻

 

 第15話であまりにも心を揺さぶられた。

 ネタバレ感想:しばしば誤解されるように、想像力は消極的なもの、未発達な子供のものではない。子供は自分が想像力を働かせていることを知らない。つまり、それが現実とは異なるということを知って、はじめて想像は想像となる。想像力は積極的なものなのだ。

 しかし、物理的には私たちの認識はつねに想像だ。物理系では私たちの位置はつねに相対的で、物質的には私たちの存在は遺伝子から複製されたものにすぎない。これは物質に生命が宿る、ピグマリオンの創作の神話と同じだ。

 世界の悪は、善悪二元論という虚構ではなく、世界が無であるという事実に根ざす。本作で描かれる悪はつねに現実的だが、第15話における、朝海心花の視点を通じたものはとくにそうだ。つまり、心花の認識は想像的でなくなり、本人は世界という無に漸近している。そして、実際に心花は幽霊となる。

 幽霊はすべての場所に存在している。だから、本話における驚異は幽霊ではない。幽霊と人間が対話するという、本来ありえない奇跡が起きているから、本話は感動的なのだ。

 

1.模造クリスタル『スターイーター

 

 短編4作を収める。

 ・『カウルドロンバブル毒物店』:凄すぎる。アヴラム・デイヴィッドスンの『ゴーレム』を思わせる人造人間のゴーレムの話。ささやかな変化と喪失をここまで克明に描けるのは凄すぎる。

 ・『スターイーター』:『ミッションちゃんの大冒険』風の、奇妙に思弁的な会話とスラップスティックな展開で、『金魚王国の崩壊』のファンは楽しめるだろう。

 ・『ザークのダンジョン』:"もしもある人が夢の中で楽園を横切り、そこにいたことの証しとして花を一輪もらい、もしも目覚めた時手にその花があったとしたら……それからどうなるのだろうか?"の問いへの答えがようやく分かった。ネタバレ感想:価値判断を読者に委ねる結末だが、私は悲しみのほうを強く感じた。物語と現実、および世界の象徴としての地下迷宮という道具立ては古典的なものだが、読者にそのことを気づかせず、鮮烈な印象を与える(ここでは秩序と混沌を象徴化したものとしての迷宮、精神を世界化したものとしての地下は、物語と同等の役割を担っている。つまり、物語に対する現実と同様に、地下迷宮からの脱出は、自由の牢獄への放擲を意味する)。結末を読んだとき、まさにボルヘスの『伝奇集』を初読したときのような衝撃を加えられた。

 ・『ネムルテインの冒険』:ネタバレ感想:既刊の読後感が「死」「死」「死」「死」「お前を殺す」というもので、本作は救いがあって良かった。

 

4.大白小蟹『うみべのストーブ

 

 『雪を抱く』はシスターフッドで、『雪子の夏』はさすがに百合。

 『うみべのストーブ』における色の添加は、モノクロの画面を対比的に冷酷なものとして強調するために行われている。その上で、最終的に熱情が冷静さに統合される。このように、『うみべのストーブ』の連載作品は象徴主義の文法をとっていて、「日常の」や「ささやかな」といった形容は誤解を生む。

 実際、『雪を抱く』ではアジールという通俗的な概念に依拠するため、銭湯の温かさと雪原の冷たさとの象徴性の結合が性急なものになっている。

 また、象徴主義に対し、話末の短歌は屋上屋を架すように思える。ただし、より自然主義的な同人出版の時代からの惰性かもしれない。

 『雪子の夏』は話の構成が「雪女に一目で魅入られる」という雪女譚の転倒であることを考えれば、紛れもなく百合だ。

 

5.眞藤雅興『ルリドラゴン

 

 スタイリッシュでドラマティックな『週刊少年ジャンプ』掲載作品の百合(つまり、夜一-砕蜂など)に対し、ホリスティックでエロティックな百合の分析は、このブログ記事(聖なるマンガ――『ルリドラゴン』『チェンソーマン』

https://note.com/rabbitsecuhole/n/n4d841f277dfd)がよくまとまっている。

 

6.鯨庭『言葉の獣

 

 『文字禍』の作者である中島敦の『山月記』もまた、言語への偏愛を主題にしている。李徴は詩を為すため、あるいは詩人になるため、人身を捨てる。それはいわば知行合一の境地だ。そして実際、漢詩を著すことができる。

 しかし、詩が形象化されれば、ふたたび知行は背馳していく。李徴は口語で漢詩を自註しはじめる。それが安易に引用される"臆病な…"の部分で、これはあらかじめ詩美性を欠くことが定まっている。

 この本歌取りを鑑みれば、薬研が東雲に導かれて言葉の獣である虎になりながら、さらに言葉を話すのは自然なことだ。

 

 言葉が心理を裏切ることは心理学でも実証されている。例えば、大学生にゴッホとモネのポスターと、キャプション付きの漫画のポスター3種を選ばせる実験では、理由を書かせることで、心理と選択が変化した。すなわち、キャプション付きの漫画のポスターの好感度が上がり、選択率が上がり、そして、満足度は下がった。数週間後に追跡調査すると、キャプション付きの漫画のポスターのほうが捨てられていて、また、捨てたい、売りたいという回答率が高かった。

 もっとも、言語化が認知の歪みを生じさせるということは、作品の感想を高頻度でツイッターに投稿するひとびとを見れば明らかだ。

 東雲と薬研は、もっとも美しい言葉の獣を見つけるため、ツイッターという言葉の森を探検する。探検するよりナパーム弾で焼き払ったほうがいい。漫画版『風の谷のナウシカ』も、腐海ツイッターの森なら全1話で終わっていた。「ナウシカ! 渡しなさい!」「何もないわ、何もないったら! ガソリン缶なんて隠していないの!」

 

7.平尾アウリ女子には歴史がありまして

 

 最高。

 

8.シマ・シンヤ『Gutsy Gritty Girl

 

 収録作2編が百合。

 

 私の考えでは藤本タツキチェンソーマン』の第2部は百合ではない。ただ、第2部の2-3話は構図が入念に設計されていて、藤本が時間を費やして準備したことが分かる。黒沢清青山真治蓮實重彦との鼎談『映画長話』で語るとおり、ドッペルゲンガー、双子、鏡は映画に本質的なものだ(なお、ホラー映画については、単著より「幻想映画から怪奇映画、さらに恐怖映画まで」という篠崎誠との対談、『黒沢清の恐怖の映画史』のほうが通史的で詳しい)。

 『好奇心は女子高生を殺す』の高橋聖一の新作『われわれは地球人だ!』は安定して面白い。

 一応、言及しておくと、冬虫カイコの作品はあざとすぎるように思った。

 

・小説

 

1.ケヴィン・ウィルソン(芹澤恵訳)『リリアンと燃える双子の終わらない夏

 

 大幅に要約すれば、人生を諦めて空虚な生活を送る28歳の人間が、15年来の親友の頼みを聞くことで、自分の生きかたを考えなおす… というだけの話だが、素晴らしい。

 『地球の中心までトンネルを掘る』はやはり奇想を隠喩として用いつつ、モチーフが見透いていて洗練されていなかったが(ただし、『代理祖父母派遣会社』は揺るぎない傑作だ)、本作ははるかに入念に構成されている。

 

1.松浦理英子ヒカリ文集

 

 文体実験や、話者が交代する推理小説のような知的な遊戯性を言える。また、ポリフォニー(多声)論や、モラリズム(性格描写)も言える。

 だが、本作はそれに留まらない。『裏ヴァージョン』、『奇貨』、そして本作で松浦理英子が問題として提起しているものはひと言で表せる。人間性だ。

 説得は文学の本来の機能ではない。だが、同様の手法を用いた『裏ヴァージョン』とは異なり、本作はそれを試みている。

 『裏ヴァージョン』では透明な高温の炎で読者を焼きつくしたが、本作では火災のあとに残る焼きつけで、陰画のようにひとりの人影を浮かびあがらせている。

 

3.斜線堂有紀『一一六二年のLovin'g Life』(載録『小説現代』2022年10月号

 

 斜線堂有紀の直球の愛の物語は素晴らしい。

 英訳がナボコフのような美文で驚く。

 ネタバレ感想:原文というものはない。すべての文は翻訳文だ。したがって、内心がそのまま言表されつくすことはない。それが人間の孤独ということでもある。「詠訳」というSF的なガジェットはそのことを異化している。

 帥との二度目の死別を経て、帥を内化した表現へ発展すると思わせ、怨嗟とともに、まったく内化されていない無骨な翻訳文で、あらためて孤独を強調する展開が見事だ。しかも、それが名高い「玉の緒」を原典としている。ここでは、読者に自らが解釈=翻訳(interpret)していることを意識させる重奏も行われている。無論、その孤独は愛の裏面だ。

 

・李屏瑤(李琴峰訳)『向日性植物

 

 初出が掲示板のSSであり、印象派の点描のような文体ではじめは期待できなかった(印象派の現在の評価が商業主義と大衆の審美眼の欠如によることは、『サザビーズで朝食を』と『印象派はこうして世界を征服した』が詳しい)。また、作中でもしばしば引用されるイー・ツーイェン監督『藍色夏恋』や、ロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』のエピゴーネンがあからさまで、台湾ニューシネマというよりシアオ・ヤーチュアン監督『台北カフェストーリー』のような軽薄さを感じた。だが最終的には、印象派の絵画を全体から眺めたようで悪くなかった。ただ、終盤は上記2点の欠点が目立った。

 「小○○」「学姐」という語彙に、日本語の「○○さん」「センパイ」の翻訳における語感がはじめて分かった。

 訳者あとがきで素朴政治(フォーク・ポリティクス)が展開されていて呆れた。文芸批評としても幼稚だ(岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か 』、具体例としては『アラブ、祈りとしての文学』第11章「越境の夢」の、サーダウィ『0度の女』、メルニーシー『ハーレムの少女ファティマ』評を参照せよ)。

 

・ニタ・ブローズ(村山美雪訳)『メイドの秘密とホテルの死体

 

 百合要素は若干だが、良作だ。

 ルンバとあだ名されるホテルの客室清掃係が主役だ。その一人称の語り(ナラティヴ)で物語が進むが、独特の言葉遣いをするうえ、よく話題が脱線し、他の登場人物の言動を誤解している(観察そのものは具体的で詳細なため、読者にはそのことが分かる)。

 ジャンルはミステリーだが、いわば、いわゆる信頼できない語り手ではなく「めちゃくちゃ信頼できない語り手」だ。

 

・『九段下駅 或いはナインス・ステップ・ステーション

 

 小説というより、架空のドラマの脚本というパロディの色彩が強い。

 「シーズン1」の「エピソード1-10」と題され、各話、40-50分のドラマとして映像で再現できる。タイアップを思わせる固有名詞と、イコンと化したサイバーパンクのガジェットが頻出する。

 バディもののSF-刑事ドラマで、『トゥルー・ディテクティブ』のコールとハートほどに職務上の関係に肉体的な官能性は加わってはいなく、『パーソン・オブ・インタレスト』のリースとフィンチほどに欠けてもいなく、『ホワイトカラー』シーズン1のニールとピーターほどの距離感だ。ただし、その親密性は脚本上のものでなく、役者が演じる肉体的な存在感によるものだ。

 

・鵺野莉紗『君の教室が永遠の眠りにつくまで

 

 エリック・マコーマックの『』を思わせる、32年間、町が雲に覆われているという怪奇現象。小学生の視点で、児童文学らしい雰囲気のもと、頻発する猟奇的な出来事。不穏さと「奇妙な味」が素晴らしい。

 ただし、二部構成で後半部は無用の長物だった。主題について予定調和的な結末も、懐郷心を誘うべく、時代錯誤な要素を出す雰囲気作りも、マコーマックに近しい硬質な文体ではほぼ無意味だった。

 要するに、前半分は人面犬で、後半分はしっぽがベビーカステラに激似の柴犬くらいの怪奇と魅了だった。

 

 横溝正史ミステリ&ホラー大賞は前年の『虚魚』に続き、2年連続で百合作品が受賞。

 江戸川乱歩賞は荒木あかね『此の世の果ての殺人』で3年連続、5年で4回目となるが、これは特筆することのない小品だった。

 

 一応、言及しておくと、好著である青崎有吾『11文字の檻』所収の『恋澤姉妹』は、沢木耕太郎の文章とアクション映画の情景のサラダに、百合萌えのシーザードレッシングをかけてシャカシャカ振った珍作だった。

 

・アニメ

 

斎藤圭一郎監督『ぼっち・ざ・ろっく!

 

 きわめて聡明な斎藤圭一郎という監督は、明確に第8話と第12話に力点を定めている。したがって、この2話を中心として見なければ、本作はまったく異なる印象になるだろう。

 この2話はライブのシークエンスで入念な演出が行われているが、その他のシークエンスでも、画面が緊張感のあるものになっている。

 第8話のライブのシークエンスは、ロー・キーで自然光、かつ暗い照明だ。さらに、ロングショットが主体で、また手持ちカメラらしい演出で、ドキュメンタリー的だ。物語上で観客との緊張を煽りながら、ぼっちが決起したあとも、ファン以外の観客はなかなか映さず、映しても遠景に留める。舞台上を映すときも、後半、すなわちファン以外の観客を映したあとは、他の登場人物を画面の中心に置き、主題における力点であるぼっちは画面の端に留める。そのきわめて抑制的な演出のもと、失うものがなにもないものの反抗という焦燥と熱情が描かれる。失うものがなにもないものは、自身の生命を賭けるしかない。

 虹夏との対話のシークエンスでは、他の登場人物との対比で、逆説的にぼっちがなんらの目標も持たないことが示される。情動が力能を帯びるのは、刹那的な衝動においてだけだ。それを形にするのが音楽であり、だから「ぼっち・ざ・ろっく!」ということになる。

 第10話のライブのシークエンスでも、ぼっちが機転を働かせた手元にズームせず、きわめて抑制的な演出が行われている。そうして、ライブのシークエンスのあとも、ロングショットを主体とした構図と、自然光の照明により、現実性を保ったまま、明るさによって多幸感と非現実感を演出する。この演出はファイナル・シークエンスにおいても行われ、ここでは高架線を見上げるシンメトリーの構図により、主観的な非現実感を表現している。"「今日もバイトかあ…」"という現実性を強調する最後のセリフは、逆説的なロマン主義だ(※)。

 これほど聡明な演出は稀だ。

 『ぼっち・ざ・ろっく!』は、孤独な少女が努力して報われる話ではない。この世界はレベリングをすれば敵が倒せるRPGではない。『ぼっち・ざ・ろっく!』は努力しても報われないことを知りつつ、なかば夢想として夢を追っていた人間が、世界に着地させられ、現実を変える選択肢を与えられたときの、暴力的な契機の話だ。

 上述のとおり、第8話と第10話は、ライブのシークエンス以外も緊張感のあるものになっている。ロングショットとロー・キーが主体になっている。

 ここで前提として、キャラクターデザインについて確認しておくべきだろう。本作に限らず、マンガ等のデフォルメはイメージに依存するものではない。ゴンブリッチの『芸術と幻影』によれば、児童画と原始美術はほぼ象徴(イコン)だ。それは視覚の表現が未熟ということではなく、イメージをそのまま表している。そのため、それらは鮮烈だ。ゴンブリッチは《皇帝ユスティニアヌスとその従者》という高雅な例を挙げているが、フリー素材の「怖い画像」で十分だろう(梨とかがよく使っているやつ)。対して、マンガ等のデフォルメは、あくまで視覚の抽象だ。アルンハイムの『美術と視覚 』はエジプト美術の正面投影図法と透視図法を比較し、後者の特徴として短縮と重複を挙げる。例として、完全な横顔では短縮は無視される。明らかに、マンガ等のデフォルメは後者に近い。

 写実的で、自然光の照明の背景は灰色が基調だ。カンディンスキー抽象芸術論』、クレー『造形思考』が指摘するとおり、混合色である灰色は静的だ。対して、ぼっちのピンクはあくまで明度だけを変えた原色だ。単色、また高い明度により浮出効果が生じる。そして、背景とは主線で区切られ、背景との調和は照明の方向の影で行われている。この自然主義と異化作用が、感情というより理性による情動をもたらす(マネやドガの色調を鑑み、ここでは写実主義でなく自然主義と呼ぶ)。実際、背景の彩度が高く、登場人物との色調が近い第9話は、もっとも牧歌的だ。

 こうした基礎のもと、第8話の虹夏との対話のシークエンスにおける例外的な、黒い背景とサイドライトによる明暗法(キアロスクーロ)も、醒めた叙情性(リリシズム)が働いている(ただし、原作第1巻の表紙からして、黒の背景にピンクのぼっちというハイセンスなものだった)。

 本作については、以下の記事が明晰に解説している。とくに劇伴について詳しい。青山真治の『われ映画を発見せり』曰く、「映画にとってロックなどどうでもいいと言うひとは、だいたい、映画すらまともに見ていない」。

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(※ ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポターの『反逆の神話』は、カート・コバーンの自殺について述べたあと、そうした反体制文化の起源を18世紀のロマン主義に位置づける。曰く、ロマン主義者はオルタナティヴなライフスタイルとしてボヘミアンの生活を送り、ヘロインの過剰摂取の代わりに肺病で死んだ。そして、ロマン主義の始源をルソーの『人間不平等起源論』に据える。「自然に生じるすべては善」だが、人類全体が「労働と、隷属と、貧困とに」服せしめられている。カッシーラーの『ジャン=ジャック・ルソー問題』は、ルソーの問題として、この個人と世界との対立を提起する。スタロバンスキーの『ルソー 透明と障害』によれば、ルソーは「自己自身にかえること」で、孤独のうちに「自由、徳、真理、自然」などの普遍に一致しようとした。なお、ここでルソーはロマン主義者ではなく、その先駆者に位置づけられている。プーレの『人間的時間の研究』によれば、ルソーは自己が「生まれたままの感情」と「自我」に分裂するなかで、現在の瞬間という永遠のなかで、自己自身、そして自然に一致しようとした。もしくは、激しい情念を排し、感情の記憶のうちに安逸しようとした。サルトルの『家の馬鹿息子』によれば、ロマン主義の主人公の特性は、美と善を絶望の眼差しで見ること。排除された者、追放の権利も手段ももたない悲惨な者が読者を呪うために、読者に奇妙な感情を惹きおこすことだ。曰く、「瀕死の人の偉大さがすべてを偉大にする」。"すばらしい夏の夜のさなかに死ぬこと、断末魔の身震いの中で、空について、そこにある星までなにひとつ省かずに語ること、これを考えつくのはロマン派の主人公だけだ。"(『家の馬鹿息子』第5巻 p.127)。)

 

・川崎芳樹監督『処刑少女の生きる道(バージンロード)

 

 B級でしかない異世界転生モノというジャンルを、メタ=フィクショナルに、存在論的に成立させる。メノウの空虚な自己の自己確立という物語も、そうした作風に合っている。原作からの構成としても、世界をB級映画と称する悪役をラスボスに据えたことは妥当だ。

 簡素なキャラクターデザイン、動きでなくカッティングで見せる演出、シンセサイザー系の劇伴は、殺伐とした作風に合っていて、おそらく小規模だろう予算に対し、財政的に賢明に制作されている。

 

 去年、『ラブライブ!スーパースター!!』について「第2期では澁谷かのんは高坂穂乃果化する」とドヤ顔で書きましたが、間違っていました。すみません…

 

・映画

セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう

 時間と空間と記憶の関係を表現した、きわめて明晰な作品だ。

 冒頭の「アレクサンドリア」の語は、当然、アレクサンドリア図書館、すなわち記憶と忘却、情報とその喪失の意味だ。

 導入部では、ドリー撮影により、病院における3世代の空間における配置を的確に示す。空間的な配置は同時的なもので、逆説的に、空間は時間を内包する。壁紙の挿話が、この図式を強調する。

 この図式が反転するのが、ネリーとマリオンの出会いだ。ネリーが時間を移動したことを知るのは、同じ家を訪れることによる。このとき、時間は空間を内包する。

 クルードのようなゲームで、マリオンは「秘密とは隠すことではなく、言う相手がいないこと」と言う。秘密は情報を保存している。よって、情報の喪失とは忘却のことだ。

 ネリーは父にお泊りの許可を求める。つまり、過去でも現在と同様に時間は進行する。換言すれば、記憶を想起する一瞬の出来事のように、時間が停止したりはしない。さらに言えば、正確には、記憶を想起するあいだも同時的に現在の時間は進行している。プルーストとウルフは、いわゆる意識の流れの技法により、このことに注意を促している。過去でマリオンが誕生日を迎えることで、この時間概念はより明確に表される。

 しかし、プルーストとウルフが技術的な工夫を施さなければならなかったとおり、物理学的な相対時間に対し、主観的な絶対時間という固定観念は根強い。シアマはきわめて知的だ。

 ネリーがマリオンに状況を教える場面では、ネリーが青、マリオンが赤の服という衣装で、明示的な図式化を行っている。

 その後、前述のゲームで、マリオンは子供をもつ演技をする。ここで、客観的な相対時間において、ある世界点の主観的な時間を構築することが示される。

 さて、その後はネリーとマリオンは童心に返り、時間から解放される。

 そして翌日、マリオンが去るとき、マリオンが乗った車が去るときは、過去に向かうにもかかわらず、順行ではなく逆行の右向きだ。過去での時間進行も、また現在と未来での時間進行と同じものだからだ。

 現在で、マリアンヌは空虚な部屋であぐらをかいている。孤立系である世界点を思わせる図式だが、構図はその場合に当然である、中央の配置でなく、右の配置だ。そして、ネリーがマリアンヌに抱きつく。

 このとおり、シアマは『燃ゆる女の肖像』と同じく、戦慄するほど知的だ。

 全編が72分であることも優れている。「映画は90分」という文言は、主として蓮實重彦が映画の凡庸化と冗長化を批判して言ったことを淵源としているが、この文言すら凡庸化して紋切り型になった。ゴダールはしばしば90分未満に収め、とくに代表作の1つである『新ドイツ零年』は62分だ。

 シアマは父にも記憶を語らせ、記憶や複数的な時間把握を安易に女性性やレズビアン連続体に還元することも阻止している。

 シアマは暴力的なまでに知的だ。つまり、いわゆる女性的や女性同性愛的ではなく、クイアだ。いわゆる女性性でレッテル貼りすることは馬鹿げている。

 

・ナヴォット・パブシャド監督『ガンパウダー・ミルクシェイク

 

 『オオカミは嘘をつく』(明るい『プリズナーズ』だ。明るい『プリズナーズ』!?)でタランティーノに熱賛されたパブシャドの新作。前作が『レザボア・ドッグス』なら、新作は『キル・ビル』くらいに振りきった。

 タランティーノらしさは何かといえば、映画史的な記憶の豊饒さだ(文芸批評の用語でいえば間テクスト性だ)。そのため、タランティーノエピゴーネンの多くが本流に近づかなかったのに対し、本作は30年間の間隙を経て、はるかに接近している。

 フェミニズムを物語装置にしているが、『処刑人』の「十戒に反しているからマフィアを殺す」くらいの意味合いだ(ただし、『処刑人』のファイナル・シークエンスの垂訓はすごすぎる)。

・ドラマ

・『アストリッドとラファエル』

 女性バディものの最新作。アストリッドの「名探偵」らしさがとくに良い。
 志賀直哉は「あなたは私の指貫(※フランス語)」を「日本語では《愛している》と訳すのだ」と言った。
 ミステリーの要素が、いわゆるフレンチ・ミステリーなのが残念だ。ただ、推理小説家殺人事件の第5話はさすがにパズラーの趣向が強い。先行作の『リゾーリ&アイルズ』はミステリーの部分も爽快だ。