白鷺千聖と丸山彩の関係性についての統一的見解

 白鷺千聖の人物像を考察し、もって、丸山彩、その他、瀬田薫および松原花音との関係性を考察する。
 白鷺千聖の人物像を考えるとき、《優しく人当りのいい白鷺千聖》と《計算高く合理主義者の白鷺千聖》の、一見して相反する二面で把握するのが一般的だと考える。しかし、それは《計算高く合理主義者の白鷺千聖》が《優しく人当りのいい白鷺千聖》を演じているという、単純なものではない。なぜなら、《計算高く合理主義者の白鷺千聖》のような明快な自我をもっているものなどいないからだ。あるいは、そのようにアイデンティティを確立しているものもいるかもしれないが、千聖はそうではない。(※煩瑣な議論になるが、純粋に利己的な人間というのは思考実験にしか存在しない。ある人間が自己をそのように把握していた場合、それはアイデンティティとして仮構したものだ。(参考:ヤン・エルスター『社会科学の道具箱』))
 イベント『つぼみ開く時』のストーリーは、千聖が自分の表面的な態度を見直し、それにより、演技が上達するというものだ。スタニスラフスキー・システムでは、役の自己像を構築し、それに則り演技する。千聖の場合、もともとの自己像が表面的なものだったため、役の自己像も迫真性を欠いたものになったということだろう。このストーリーは、千聖が他者と接するときに演技を介在させることを控え、虚心坦懐な人付きあいをするようになり、また、それにより自己実現を果たすようになった、という主題をもつものだと考える。だが、ここでも本心の暴露とは《計算高く合理主義者の白鷺千聖》という自己像の表出のことではない。Pastel*Palettesのメンバーと本心で接しているときも、千聖は利他的な《優しく人当りのいい白鷺千聖》だ。
 《優しく人当りのいい白鷺千聖》と《計算高く合理主義者の白鷺千聖》に共通するのは、頭脳明晰で、自分のおかれた状況を客観的に把握していることだ。サルトルは『存在と無』で、漠然とした自我に対し、対象化された自己像を超越論的《我れ》と定義した(超越論的とは、言語論的の意味だと思えばよい)。サルトルは超越論的《我れ》を、一人称の《je〔私〕》に冠詞をつけて《le je》と表記することでそのいかがわしさを表現した。なお、日本語には冠詞がないため、その代わりに、一人称の《私〔je〕》を《我れ》と表記している。さて、白鷺千聖は頭脳明晰であり、この自我と超越論的《我れ》が異なることに自覚的だ。しかし、超越論的《我れ》でない自我は把握することができないため、自我の苦悩を背負うことになる。頭脳明晰さと、そのための実存的苦悩が白鷺千聖の人物像だと考える。
 それを踏まえ、丸山彩の人物像を考察したい。彩はアイドルを、努力する姿をファンにみせ、感動させるものだと考えている。そして、そのように自己実現しようとしている。ヤン・エルスターは『社会科学の道具箱』で、大人が子供の拙いプレゼントに感動するのは、子供が大人を感動させようとしたからではなく、大人を喜ばせようとプレゼントを贈ったからだと述べている。ファンを感動させるために努力するという彩の目標は、主客が転倒して、結果、主体性を失っている。前述のサルトルの論でいえば、自我が超越論的《我れ》に規定されている。なお、これは脱工業社会における現代的な現象であり、瀬田薫の近代的自我と対比できる。このことは後述する(参考:ホックシールド『管理される心』。より理論的にはマラッツィ『資本と言語』、ヴィルノマルチチュードの文法』)。千聖は、彩の自我と超越論的《我れ》の違いに無自覚なことと、その主体性を失った自我に苛立っている。バンドストーリーにおいて、千聖が彩に攻撃的になるのはそのためだ。(なお、個人的には千聖に加虐的なところがあり、彩が嗜虐心をそそるところがあることも、理由として考える。これは、とくにバンドストーリーの問題が解決したあとのイベントにおいて、千聖が嗜虐的な理由だと考えるが、本論には関係ない)
 しかし、千聖の彩への軽蔑は、彩のそうした理想の実現への努力が尋常でないことを知ることにより、解消する。これが、バンドストーリーの主題だと考える。そこを詳述するまえに、瀬田薫および松原花音との関係性を考察する。
 まず、松原花音だ。花音は善人であり、自我と超越論的《我れ》との葛藤がない。そのため、千聖も自我と《優しく人当りのいい白鷺千聖》としての超越論的《我れ》との葛藤をおこすことがない。これが、千聖が花音と兼ねてから虚心坦懐な人付きあいをしていた理由だと考える。
 次に、瀬田薫だ。『儚世に咲く薔薇の名は』で描かれるとおり、瀬田薫の王子様然とした振舞いは仮構したものだ。さて、『儚世……』の題材は『ロミオとジュリエット』だ。作中で千聖は、『ロミオとジュリエット』の主題を名前の問題だと語る。この解釈は、シェイクスピアを近代的自我が確立した時代との関係で分析する作者論における教科書的知識であり、千聖、あるいはライターの独創ではない。さて、薫は意識的に道化を演じることで、このような近代的自我の問題、いわゆる近代的苦悩を解決しているのだと考える。第一に、千聖はこのことを尊敬している。第二に、旧知の間柄であることから、千聖は虚心坦懐に振舞うことができ、自我と《計算高く合理主義者の白鷺千聖》としての超越論的《我れ》との葛藤をおこすことがない。作中で語るとおり、千聖はこのことに快さを感じている。
 最後に、千聖の彩に対する好意を考察する。千聖は彩に対する軽蔑や嗜虐心をとくに隠そうとはしていない。しかし、同時に彩に対し敬意をもっている。このことを千聖は《『丸山彩』を信じる》と表現している。千聖のいう、二重鉤を付けて区別する『丸山彩』とは、彩の理念を指しているのではない。もし、彩の理念に共感したなら、『あゆみ続けた道、彩られる未来』に登場した、彩が理念の模範とするアイドルに興味をもちそうだが、そうはならない。千聖のいう二重鉤の付いた『丸山彩』とは彩の理念ではなく、彩がその理念を実現しようとする姿勢のことだ。よって、千聖の彩に対する姿勢も、簡単に二分法で捉えることはできず、今後も複雑に変わっていくだろうと考える。

追記:

 千聖の『丸山彩』への信頼の根拠とは何か。蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で、あらゆる人間は優秀さに関わらず凡人であることから免れないと提言している。この点、日菜やこころは作中で天才とされている。しかし、千聖は優秀であるものの天才ではなく、かつ、頭脳明晰でそのことに自覚的だ。だから、彩が『丸山彩』になること、凡人が一瞬だけ超越性を実現することに興味をもっているのだと考える。