劇場版『名探偵コナン』全21作レビュー

 いまさら劇場版『名探偵コナン』をみようと思う人間に、どの作品が好適か教えることなどできないし、そもそも自分は他人に合わせるのが苦手だ。だから、このブログ記事では未視聴者に配慮して物語の核心を伏せることなどはしないが、要約したプロットを併記したりもしない。劇場版『名探偵コナン』全21作をみている人間のための暇潰しだ。
 ちなみに、気紛れか話題合わせか、いまさら劇場版『名探偵コナン』をみようなどと思う人間にあえて数本を薦めるとしたら、「第1作から第7作まで」と言うだろう。いまさら『007』シリーズをみようとする人間のために数本を選ぶとしたら、あれこれ抜粋するより、ショーン・コネリーの初代ジェームズ・ボンドのシリーズを丸ごとみせるようなものだ。人気のシリーズというものは、オリジナルが完成した時点で、もうだいたい要素が出尽くしている。あとは細部での差異化と、無限の自己言及があるだけだ。そういう差異化と自己言及を喜ぶ集団をファンダムと言う。わたしにとっては退屈だ。なぜ第7作までなのかは、後述を参考されたい。

 

・第1作『時計じかけの摩天楼』

 初代にして傑作。このことも後述するが、今作がこれほど成功しなければ、劇場版のこれほどのシリーズ化も、おそらくは原作の長期化もなかっただろうと思うと罪深い。
 白眉は犯人の異常な動機。「森谷帝二」という名前が「モリアーティー」とかけつつ伏線になっているのがうまい。しかも、爆破で死者がでていると仮定すると、黒の組織の構成員をふくめても単独犯としては『名探偵コナン』史上、最大の殺人犯ではないだろうか。
 『スピード』… というより、その原典の『新幹線大爆発』をオマージュした山手線(東都環状線)のシークエンスが迫力あっていい。しかし、一本あたり数百人の乗客の命がかかっている推理が、「××の×」が「線路の間」だというのは不確かすぎる。
 今作から劇場版『名探偵コナン』では爆発シーンが恒例化して、爆発したあとはとくに説明もなく遣りすごされるが、今作はきちんとあらかじめプラスチック爆薬200kgが盗まれたという説明がされている。犯人は建築士だし。
 今作から第7作までこだま兼嗣が監督を務めるが、きっちり演出されたライティングなど、いい意味でフィルム時代の映画らしくてよい。

・「俺は高校生探偵、工藤新一」
・連続殺人犯(今作では連続爆破犯)との対決
・クライマックスの爆破シーン
・「新一ィー!」「らァーん!」
・異常な動機
・犯人を追いつめたあとの「うつむーくー そのせーなーかに」
・実写ED

 というテンプレート(第1作である今作においてはテンプレートではないのだが)ができる。

 

・第2作『14番目の標的

 あまり面白くない… コナンの関係者が名前にはいっている数字の順番どおりに次々と狙われ、最後の標的が「工藤新一」だというのがコンセプトだが、英理、阿笠博士、目暮警部と次々に襲撃されているわりに緊迫感がない。このサスペンス性の問題は『瞳の中の暗殺者』で解決されている。脚本の都合で目暮警部の名前が「十三」になった。阿笠博士の「士」を分解すれば「十一」になるというのも強引だが。海中施設崩壊まで、面白い場面がヘリコプター墜落くらいしかない。
 しかし、海中施設崩壊からは海洋アドベンチャーの性格を帯びてそれなりにみれる。上述のとおり、第2作でいきなりただのソムリエが何の説明もなく海中施設を崩壊させるだけの爆弾を設置したことになっている。小学生のときみていて、面倒で不確実な連続殺人への偽装より、直接、目的の人物を爆殺した方がはやくないかと思った。
 第1作に輪をかけて異常な動機で、もはや伝説。
 しかし、今作の最大の見場はクライマックスの360度連続ショットで、セル画時代にこの映像をつくっただけで素晴らしい。シナリオとの一体性としても、なぜ小五郎が刑事を辞職したのか、なぜ英理と離婚したのかという本編未出の謎に、刑事時代、小五郎が英理を誤射したからという事実を与え、その理由を解明するというもので申分ない。
 第1作の「赤い糸」といい、今作の「A(キス)」といい、古内一成が劇場版にあたって映画らしくトレンディドラマのクリシェを使っていることが面白い。

・「俺は高校生探偵、工藤新一」
・博士の新発明(伏線)
・博士のクイズ
・連続殺人犯との対決
・クライマックスの爆破シーン
・「しん… いち…?」(「新一ィー!」「らァーん!」)
・「ハワイで親父に習ったんだ」
・異常な動機
・犯人を追いつめたあとの「うつむーくー そのせーなーかに」
・実写ED

 のテンプレートが完成。

 

・第3作『世紀末の魔術師』

 面白い。劇場版第3作にして、初の怪盗キッド編で、劇場版スタッフがマンネリズム防止に気を遣っていたことがわかる。怪盗キッドとの対決、ロマノフ王朝の謎、連続殺人のコンセプトがあり、後半が冒険アドベンチャーのジャンル性をもつことで構成も十分。ヒロイン役の香坂夏美がなかなかかわいい。後の『戦慄の楽譜』ではボンドガールめいたわかりやすいヒロイン役がいたが、それよりはるかに成功している。
 犯人が国際手配中のロマノフ王朝の財宝を狙う暗殺者、スコーピオンということで、異常な動機の要素は一時休止したかにみえるが、未遂に終わったとはいえ「ラスプーチンの悪口を言ったから」というしょうもない理由で小五郎を殺そうとしている。というか、それが動機だとわかったコナンもすごい。
 「犯人がかならず右目を撃つ暗殺者だからメガネのレンズを防弾ガラスに換えておいた」というのは、劇場版『名探偵コナン』の阿笠博士の発明でも傑出している。そこに至るあらかじめ装填しておけば弾倉に加えてもう1発、装弾できるという流れも素晴らしい。まあ、仮に防弾だったとして入射角45度でもベクトル分解で力は1/2、弾が当たらなくても無事ではすまないだろうが… しかも弾を正面から受けてたし。

 ラストの新一に変装したキッドが現れるシークエンスが素晴らしい。

 

・第4作『瞳の中の暗殺者』

 面白い。警視庁の刑事が次々に殺されて、全員が実は過去の捜査チームの構成員だった、そしてその1人である佐藤刑事もまた凶弾に倒れ… という物語。レギュラーメンバーである警視庁の刑事たちが口々に「Need not to know」と言い、部内での解決を目論み、犯人を目撃したはずの蘭は佐藤刑事が撃たれる原因をつくってしまったことから記憶喪失に陥る、という劇場版『名探偵コナン』随一の重い雰囲気。
 犯人も意外性がありいいのだが、「犯人は左利き」という話が出たあとで左手で電話をかけはじめるものだから、小学生の時分、みていて呆然とした。
 秀作だが構成に難があり、このようなコンセプトでアクションを入れようとしたために、後半でコナンと蘭が犯人と遊園地で逃走劇をするという、やや無理のあるものになっている。このため、この後半に「ジェットコースターをスケボーで滑るコナン」や、「モーターボートで逃げるとモーターボートで追ってくる犯人」「その犯人から逃れるため、決死で滝を飛びおりるとまた滝を飛びおりる犯人」などの無茶な場面が多々ある。犯人もハワイにいっていたのだろうか。
 しかし、噴水で記憶を取りもどさせるコンセプトはいい。

 

・第5作『天国へのカウントダウン

 傑作です。傑作。劇場版『名探偵コナン』の最高傑作。
 封切のときはついに黒の組織の謎が明らかになるという宣伝文句だった。予想されていたとおり、たいして明らかにはならなかったのだが。
 今作が傑出しているのは「高層ビル火災」というジャンル映画と推理映画が見事な形で合体したこと。いわば劇場版『名探偵コナン』の理想だ。ジャンル映画と推理映画という劇場版『名探偵コナン』の両面が、これほど高い結構性をもったのは今作だけだ。
 例によってというか、5作連続で異常な動機なのだが、今作ではワイダニットとして高い完成度をもつ。そして、それが高層ビル火災というジャンル性に合体している。ついでにいえば、爆発シーンも、黒の組織が爆弾をしかけたということになっているので、さほど無理はない。
 メインテーマの編曲も、金管の吹鳴するシンフォニックなもので、今作が一番かっこいいと思う。鐘が鳴ってタイトルの現れる3Dのオープニングも素晴らしい。
 爆風で飛距離を伸ばすというハイ・コンセプトは出来がよすぎてさまざまなエピゴーネンを生んだ。そこを中心とした、正確なカウントダウンが必要で、灰原が自己犠牲しようとするという一連の流れも見事。
 ただ難をいえば、蘭との脱出に加えて、少年探偵団との脱出をするために、一度降りたビルをふたたび昇るというやや無駄のある構成になっている。この昇るときのエレベーターの階数表示が「天国へのカウントダウン」になっているのだが、それでもだ。

 

・第6作『ベイカー街の亡霊』

 面白い。脚本が野沢尚。親子の呪縛と日本論および体制批判という、野沢尚好きなら明らかな本人の常例なのだが、完璧に劇場版『名探偵コナン』になっている。ホームズとワトソンがロンドンに不在なのも『バスカヴィル家の犬』事件の最中だからだったり、モリアーティー教授がカメオ出演したり、シャーロキアン要素も十分。ホームズ・パスティーシュとしての切り裂きジャック事件と、現実の切り裂きジャック事件の調査が平行する構成もしっかりしている。
 「切り裂きジャックに血まみれに……」という伏線も見事。

 

・第7作『迷宮の十字路』

 京都編。爆発しない義経記の登場人物の名前を暗号名にする古美術窃盗団の構成員が次々と殺されているという筋書き。そこに平次と和葉のラブコメも絡んでくる。今作以後、劇場版の準レギュラーメンバーとなる綾小路警部が登場。
 メインテーマの編曲も和風で、オープニングでは小鼓が鳴る。
 地味だが、全体的に風雅でよい。恒例の異常な動機は「おれは義経になりたかったんや!」というもので、(複雑な心理をそう端的に表現したのだろうが)「おっちゃん、小学生じゃないんだから」と言いたくなる。しかし、それを受けての平次のセリフはまさに名ゼリフだ。
 和葉が小石を入れた靴下をブラックジャックにしていたが、映画史をとおしてそんな野蛮なことをしているのは他に『HANA-BI』の北野武くらいだ。
 ラストの綾小路警部に対する歩美の発言が爆笑もの。

 

・第8作『銀翼の奇術師』

 つまらない。劇場版『名探偵コナン』で初の凡作だが、シリーズ全体を通してもつまらない方。

 第1作が原点、第2作がコナンの関係者が被害者の事件、第3作が怪盗キッド編、第4作が警視庁編、第5作が黒の組織(灰原)編、第6作がホームズ・パスティーシュ、第7作が平次(京都)編と、マンネリズム防止につねに新規のコンセプトを使用してきた劇場版『名探偵コナン』だが、ここにきて2度目の怪盗キッド編だ。つまり、オリジナルが完成した。以降は新規性もなく、オリジナルの細部の変化に留まるだろう。もっとも、差異化と自己言及でいえば、わたしはアメコミ映画の自己言及を下らないと思っているので、限界を自覚しつつ、その中で最大のエンターテイメントを目指す差異化の方が好きだ。だって、アメコミ映画とは何なのか? と問われたって、「もろもろの会社の営業」以上に正確な答えはない。

 

・第9作『水平線上の陰謀』

 ご存じのとおり、映像作品ならではのどんでん返しがあるのだが、封切のときに宣伝でミステリー要素を過剰に強調しすぎていたため、引っかからなかったひとが多いのではないか。
 それよりも、小五郎の活躍という特徴が魅力。

 

・第10作『探偵たちの鎮魂歌』

 つまらない。劇場版10周年記念作品ということで視聴者サービスが多いが、劇場版というより雑誌の読者応募全員サービスのOVAのような作品。ただ、本当は探偵なんて必要なかったというメタミステリーっぽいオチは好きだ。

 

・第11作『紺碧の棺』

 つまらない。ファンダムでも『戦慄の楽譜』と今作のどちらかが劇場版『名探偵コナン』史上最低という定評がある。わたしは今作だと思う。

 

・第12作『戦慄の楽譜

 つまらない。上述したとおりボンドガール的なヒロイン役がいるが、べつに成功していない。

 

・第13作『漆黒の追跡者』

 黒の組織編。公開時、第11、12作と凡作が続いたので、黒の組織が出てくるのはテコ入れだろうという観測があった。そこそこ面白い。例によってとくに黒の組織の真相が明らかになるということはない。
 今作で特筆すべきなのは、ついに蘭が銃弾を避けるようになったこと。字義どおりの意味である。
 全国都道府県警察の幹部の中に黒の組織の構成員がいるという脚本上の都合で、山村刑事が警部に昇進している。黒の組織より、よほど日本の危機だと思う。作中においていえば、コナンがたびたび山村刑事を探偵役に仕立てたためだろう。おそらくはコナンの推理がもたらした唯一の弊害だ。

 

・第14作『天空の難破船

 面白い。上述したように、第8作以降はマンネリズムとの戦いを放棄しているのだが、今作は怪盗キッド編と平次編を足すことで、量によって質を補っている。スタッフにも自覚があるらしく、作中にそのまま「そりゃ豪勢やのう。豚イカタコそばのミックスモダン焼きみたいなもんやな」というセリフがある。『銀翼の奇術師』と同じ上空の密室だが、次々に乗員乗客が犯行グループの一員だとわかっていく構成で、サスペンス性も保たれている。
 コナンがスケボー1つで完全に武装した特殊部隊1個小隊を全滅させている。劇場版『名探偵コナン』のオープニングの「頼れるボディガードだ」のところで「おまえにボディガードはいらないだろ」と言いたくなる。

 

・第15作『沈黙の15分

 つまらない。冒頭に数少ない見場で地下鉄の爆破があるが、シナリオ全体には関わらない。あとはどうでもいい田舎の若者たちの内輪揉めが続くだけ。彼らの悩みは東京に出れば半年でなくなると思う。

 

・第16作『11人目のストライカー

 つまらない。現役サッカー選手がアフレコしていて、その棒読みが意図しない面白さを出している。

 

・第17作『絶海の探偵』

 つまらなくはない。ただ大半の観客は、序盤で電波時計が出てきて、それが終盤で活躍したときやはり脱力したのではないかと思う。
 脚本が櫻井武晴らしく社会性がある… というより時事ネタを使っている。
 防衛省全面協力だからか護衛艦が爆発しなかったのは、劇場版『名探偵コナン』ファンとして涙をのんだ。
 蘭が北朝鮮工作員を格闘戦で倒している。

 

・第18作『異次元の狙撃手』

 そこそこ面白い。しかし、推理映画の要素が五芒星の暗号だけなのは物足りない。
 FBI編で、赤井・世良編。

 

・第19作『業火の向日葵』

 つまらない。原作同様、劇場版『名探偵コナン』の怪盗キッド編は外れと言われても仕方ないのではないか。

 

・第20作『純黒の悪夢

 そこそこ面白い。キュラソーというキャラクターの物語の映画としてそこそこ面白いが、推理映画の要素を完全に排除したのは物足りなくもある。
 『漆黒の追跡者』で東京タワーに武装ヘリからガトリング砲を乱射するジンさんも相当バカっぽかったが、今作の、オスプレイでスイッチを連打(カチッ、カチカチカチ)させて爆弾が解体されたことに気づいた挙句、何事もなかったかのようにキメ顔で「浴びせてやれ、弾丸の雨を!」とポエムで指示を出すジンさんは完全にアホだ。武装ヘリに続いてオスプレイも撃墜されてるし… たぶんジンさんはコナンと灰原の手がかりを掴んだメンバーばかり殺すので、業を煮やした「あの人」に「骨格・筋肉・内臓・体毛を除く神経組織の細胞が幼児期のころまで後退する神秘的な毒薬」でも飲まされたのだろう。

 

・第21作『から紅の恋歌

 そこそこ面白い。今作では爆発に裏社会の人間が関わっていたということで、一応の説明がされている。連続殺人とカルタ大会と平次および和葉のラブコメが関係していて、プロットは十分。ワイダニットもそこそこ工夫されている。

 

・第22作 -

 安室編らしい。最近の正義とか真実とかいう言葉の出てくるフィクションは、何となく早慶MARCHっぽいチャラい感じがして好きではないのだが、脚本が櫻井武晴だから大丈夫だろう。

 

 東宝は年間目標として興行収入500億円を掲げており、2016年の854億円は史上初、700億円超は史上6回目となる。その主因は「君の名は。」243億円(当時)と「シン・ゴジラ」82億円で、この2作を除外すれば529億円となる。
 「純黒の悪夢」は63億円で、本作を除けばもちろん年間目標は達成できない(466億円)。
 「君の名は。」「シン・ゴジラ」に続く年間邦画興行収入第3位で、当然、これはそのまま東宝興行収入の順位でもある。
 そもそも、"アニメーション映画が大きな柱である東宝の16年は、「君の名は。」以外にも、「名探偵コナン 純黒の悪夢」(シリーズ新記録)、「映画妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!」、「映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生」、「ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ」、「映画 クレヨンしんちゃん 爆睡! ユメミーワールド大突撃」、「ルドルフとイッパイアッテナ」などが成果を上げている。"(『キネマ旬報』2016年3月下旬号)で、「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「名探偵コナン」「ポケモン」「妖怪ウォッチ」の5シリーズは欠くわけにはいかない。
 ステークホルダーが増えすぎ、もはや作者はおろか、作者と出版社の合意が取れてさえ完結させることはできまい。「あの人」の正体が明らかになって長期休載に入ったのは、そういう事情もあってのことではないかと思う。

『放浪息子』と『家の馬鹿息子』 - 志村貴子論 -

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(戦争体験者のサルトルの村焼き。本論とは関係ない)

 『放浪息子』は名実ともに志村貴子の代表作だろう。『放浪息子』は〈放蕩息子〉の言葉遊びだが、文学史上、もっとも名高い〈放蕩息子〉はサルトルの『家の馬鹿息子――1821年から1857年にかけてのギュスターヴ・フローベール』だろう(志村貴子の文学趣味は『青い花』に顕著だ。この場合は、タイトルはそのままノヴァーリスからの借用だ)。
 題名にまで冠されているものを、いまさら口幅ったくもあるが、志村貴子の作歴における『放浪息子』の重要性を鑑み、覚書き程度に『家の馬鹿息子』の『放浪息子』への影響をみておきたい。
 フローベールの没年は1880年で、1857年とは『ボヴァリー夫人』発刊の年だ。つまり、『家の馬鹿息子』とは家の馬鹿息子… 白痴だったフローベールが『ボヴァリー夫人』の作者となるまでの年代記だ。ご承知のとおり、『放浪息子』もまた、二鳥修一が自身の物語を著わす(「これは僕の記録なのだ」)ところで終わる(「これは僕の記録なのだ」… 無論、その小説は創作だ。現実との正否はそもそも問題ではないのだが、作中では虚構であることが明確にされている。フローベールは「ボヴァリー夫人はわたしだ」と言った。サルトルが注意しているように、「わたしはボヴァリー夫人だ」と言ったのではない)。なお、『ユリイカ《総特集=志村貴子》』のインタビューで、氏は『放浪息子』がはじめは10巻ほどの予定だったと語っている。よって、大きな構成はあらかじめ決められており、この終結部の展開も、予定されていたと考える。
 では、サルトルは『家の馬鹿息子』で、フローベールはいかにして『ボヴァリー夫人』の作者となったと述べているのか。その根本は、フローベールが長兄に劣る次男であり、受動的な人格に形成されたということにある。『ボヴァリー夫人』の作者になることは、その投企だったのだ。その投企とは、受動的な人格であるフローベールが言葉を用い、芸術家になることで、自己を実現すること〈ではない〉。フローベールにとって言葉とは、話すために語を利用するのではなく、孤独のうちに、その暗示の力のために語を利用するものなのだ(1巻、p.40)。
 ここで、前提として言語は物質的なものだ。志村貴子の柔弱な輪郭線は、フローベールの言語に通じるだろう。フローベールの言語は明証性によってではなく、密度によって、堅牢さをもつ。超越性である意味作用は、記号の物質的重さと相補する。
 無論、『放浪息子』を語るうえでは、異性装の問題を欠かすことはできない。しかし、『家の馬鹿息子』ではフローベールの女性性や同性愛的なところに言及しているものの、あくまで傍論なので、それはさておきたい。それより、『放浪息子』のクィア理論は、バトラーの『ジェンダー・トラブル』やセジウィックの『ジェンダー・トラブル』に顕著な、異性装を楽しむように同性装を楽しんでもよいし、そもそも両者の区別は歴史的なものでしかないという、マルクス主義フェミニズムのものだ(『放浪息子』ではユキさんや千鶴が例外的に説明的なセリフを言っているが、まさにそういうことを言っている)。フローベールは常套句や、他人の愚鈍さ、つまり紋切型の観念をそれと意識する能力をもっていた。それはやがて『紋切型辞典』に結実するだろう。紋切型の観念とは、ブルジョワ社会特有の物化だ(1巻、p.660)。サルトルフローベール第二帝政期というブルジョワの誕生した時代の生児として、歴史に綜合する。
 余談だが、サルトルは2巻でフローベールの〈笑い〉に筆を割いている。笑いは情け容赦がなく、連帯を廃棄する(だから反動保守や右翼は笑いに親しむ)。そして、笑うものと対象を脱現実化する。なぜ、平尾アウリがギャグを基調とするのか、木多泰昭が『喧嘩商売(稼業)』でもギャグを挟みつづけるのか、わかろうというものだ(紋切型の観念… 「『よく頑張った』『勇気を貰いました』『私たちのためにありがとう』――と頭のおかしいヤツらに言わせてあげられるような」)。
 また2巻では、フローベールがもともと役者志望で、家族の前で小劇団を演じていたことを分析している。それもまた、フローベールの受動性によるものだ。『青い花』と『放浪息子』で、しばしばナラティヴに演劇を使うのも、基底は同じだ。そして、志村貴子の群像劇の手法が確立されていくと、歌劇学校を舞台にした『淡島百景』では、ナラティヴとしての演劇は後景に退く。
 『敷居の住人』の千暁、『どうにかなる日々』のすべての人々、『青い花』のふみ… 志村貴子の初期作品の人々はみな受動性をかこつ。『放浪息子』で修一が女装を思いたってから登校するまで、いかに過程を踏んでいるかみよ。そして、そこでは(修一の内心においては)土井に責任転嫁することが許されている。対して、失敗はごく一瞬だ。また、『青い花』でふみとあきらの付合うはじまりが、どれほどあっさりしていることか。はじまりが簡単だったからといって、実際に付合うと困難に直面するという作劇の手法でもない。
 これが近作になると、『淡島百景』や『娘の家出』のように、主体的で能動的な人物が前景化する(『起きて最初にすることは』の公崇も高校は中退するけど、寝ている弟に顔射するし… 寝ている弟に顔射しないで)。しかし、それは根本が変わったわけではない。志村貴子の非人称の話法が徹底し、群像劇の手法が確立したのだ。
 フローベールにおいて《きみ(tu)》は不可能だ。そのうえ、《彼(Il)》が《われ(Moi)》に絶対的に優位する。即自が対自を吸収すれば、主観と客観の一致が生じるだろうが、その〈他者〉は他人にも自分にも三人称単数形でしか存在しないのだ(2巻、p.134)。
 ここで、フローベールは無(ネアン)を信奉することになる。『聖アントワーヌの誘惑』は幕=すべての仮象が燃えつきる物語だ。そこでは芸術も無意味だ。そこで、芸術的創意は勤労としてのエクリチュールになる。〈芸術家は労働者〉なのだ(3巻、p.548)。サルトルはこれを《詩人から芸術家へ》と題している。『放浪息子』の最終巻で修一が小説を書くとき、それは無思慮な私小説ではなく芸術的創意だ(「よし ウケた」)。
 こうして、フローベールの投企とは、世界を否定的に全体化することとなる。物質は無名だ。作品は読者と脱人間化された《視線の関係》を結ぶ。メルロ=ポンティが『シーニュ』で言うように、芸術は《未来の回路を開く》。制度を立て、世界を空無化する(3巻、p.409)。それは社会の総体を復元し、虚構の真実性を問おうとする自然主義者でも、非-世界(ノン・モンド)を作り、構造を形成しようとする象徴主義者でもない。文学は、読んでも抽象的な意味作用には還元されないのだ(これと対照的なのが教科書である)。
 文学がはじまるのは、直接的な意味作用は放棄しないまま、言語を分節化できないものを現前化する手段にするときだ。つまり、読者には物語を読ませつつ、意味を意味しないもの(アンシニフィアンス)に保つときだ。非本質的で直接的な意味作用(シニフィカシオン)の総合が進むと同時に、本質的な内在的言語の意義(サンス)が現実化する。言語は物質だ。そして、世界と自己は言説の沈黙の意義なのだ。
 フローベールはより個人主義的だったボードレールを双子として、文学を画する。後にはマラルメが続くだろう(4巻、p.252)。それが作者の追放だ。そのため、フローベールの文体は、一見して古典的客観主義になるだろう。サルトルはこれを、マラルメの造語を借りて《エルベノンまたは最後の螺旋》と題している。リシャールによれば、エルベノンとは《El be none》、非人称性だ。ゆえに、志村貴子の筆致が完成されると、群像劇の手法が確立することとなる。だから安那は泣く。「シュウがもうすぐ死んじゃうみたいな気がするの」。この説話論的に不可思議な下りは何か。無論、修一が説話論的に死ぬことはない。(関係ないが、安那は本当にいい子だと思う)
 『放浪息子』最終巻の、誰もが落着くべきところに落着いているにも関わらず、あの凄絶さは何か。《「ひとりは男の子になるのをやめた ただそれだけの話」》。《ただ》それだけの話なのだ。志村貴子もまた、世界の否定的全体化を果たした。これは、『淡島百景』の岡部絵美の無を眼差す視線にも現れる。
 もうお分かりだろう。『放浪息子』=『家の馬鹿息子』とは修一=フローベールのことであり、志村貴子のことなのだ。

2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 わたしも百合厨であるからには、毎年、年末は『この百合マンガがすごい!』を読んでいるが、たまには自分で選んでみようと思った。それだけでは芸がないので、本年度の百合小説の順位も考えてみた。

・マンガ部門

 

1.模造クリスタル『スペクトラルウィザード』

 物悲しくも美しい寓話。ちなみに、スペクトラルウィザードはこの世から自分の存在を消すという能力の魔女で、『透明人間の骨』と相通ずるものがある。2017年にしてレズの透明人間のブームがくるとは。ウェルズさんもビックリ。

 

2.あらた伊里『総合タワーリシチ【完全版】』上下

 第2位が再版か! と言われるかもしれませんが、それくらいの重大事件でした。そう… 若島正によるナボコフの新訳に匹敵するエポックと言っていいだろう。
 どうでもいいですが、初版での第2巻の《出会いは、惨劇》の帯がなくなって、第1巻と第3巻の帯を上下巻に転用した結果、《出会いは、戦い》と《出会いは、革命》で平仄が合ってエモくなっているの、ちょっと笑いませんか?

 

3.西尾雄太『アフターアワーズ』第2巻

 90年代ではなく、2017年の渋谷のクラブ文化を自然に活写している。第1巻の売上によっては、本巻が発売されなかったかもしれないというのが恐ろしい。なぜなら…
 "「私としては次の仮説を提案します。二人の人間の間の関係の本質は一方がもう一方に隷属するかどうかである、と何世紀もの間みなしてきた文化において、人々の興味と好奇心、彼らの狡知の一切は、相手に屈従を強い、ベッドに一緒に入るよう強いることにあった。性的出会いが容易で頻繁になった今では、そしてこれは今日の同性愛の場合でもあるのですが、諸々の複雑化は行為の後で生じる。したがって、この種の容易な出会いでは、寝た後でしか相手に対して好奇心を抱かないというわけです。性行為が終わってから、相手に「ところで名前は?」と尋ねるわけですね。……」"(『恋愛における最高のときとは、恋人がタクシーで去るときだ』(ミシェル・フーコー著、増田一夫訳『同性愛と生存の美学』))

 

4.平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』第3巻

 平尾アウリ、やはり天才か… ちなみに、今年は同作者の『わびさび』と『青春の光となんか』も上梓された。どちらも軽い百合要素がある。『青春の光となんか』の英題が"awry blue springs"ではじめて筆名の由来を知る。"awry"、すなわち"weird"でマルクス主義ではありませんか!
 リシャールの『フローベールにおけるフォルムの創造』によると、フローベールは怪物により正常なフォルムを嘲弄し、現実の固定性を揺るがすらしい。すなわち、怪物は可能なものの無限の可塑性の徴なのだ。チャイナ・ミエヴィルの諸作では、これを直喩している。

 あと、『わびさび』収録の『夢見る時が過ぎても』の希枝は、モデルがZARD坂井泉水ですよね…?

 

5.模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』第1巻

 百合要素が比較的少ないため、標題の性格からこの格付けでは下にしたが、個人的には『スペクトラルウィザード』よりも好きだ。〈奇妙な味〉の名品。

 

6.道満晴明『オッドマン11』第1巻

 道満晴明の作品にしては珍しく、おちゃらけつつも、わりと前面に恋愛要素が出ている。つまり、この場合は百合である。
 しかし、第1巻が出るまでに7年かかったらしい。続刊が出るころには年号が変わっているだろう。

 

7.くずしろ『兄の嫁と暮しています』第3巻

 家と喪の話の最新刊。もはや言うことなし。

 

8.仲谷鳰やがて君になる』第4巻

 菱川六花みたいな髪型をしているからお遊びキャラなのかな? と思っていた佐伯先輩が重要な役割を担い、構成の周到さに舌を巻く。

 

9.宇河弘樹『猫瞽女』第4巻

 ソ連占領下の戦後日本を舞台にした瞽女と手引の諸国行脚剣戟復讐譚の最終巻。すべての伏線を回収し、見事な大団円でした。第1巻は『座頭市』シリーズ(ことに『座頭市 血煙り街道』)でしたが、最終巻は『子連れ狼 親の心子の心』でしたね。

 

10.黒釜ナオ『魔女のやさしい葬列』第2巻

 著者曰く吸血鬼物語の語りなおしだそうだが、看板に違わない面白さ。

 

11.缶乃『あの娘にキスと白百合を』第6-7巻

 6巻、7巻ともに〈新しい関係〉を主題にしていて面白い。進歩主義的な物言いなのは許してください。マルクス主義者なので。7巻ではとうとう黒沢ゆりねの物語が動きだし、今後も目を離せない。

 

12.冬目景『空電ノイズの姫君』第1巻

 まさかの冬目景の百合! 冬目景作品の雰囲気はそのままに、少女二人が主人公で、いつもとは作劇が変わっているのもファンとして面白い。

 

13.高橋聖一『好奇心は女子高生を殺す』第1巻

 少女二人の〈すこし不思議〉な連作短編集。軽妙洒脱な雰囲気とエスプリが魅力的だ。
 《友情》を主題とした回もあり、すこし『第七女子会彷徨』を思わせる。ちなみに、『第七女子会彷徨』の作者のつばなは今年『惑星クローゼット』を上梓している。少女二人が主人公で、たしかに百合だったが、怖くてそれどころではなかった。『零』シリーズの百合要素に対する怖さを1とすると、10『零』くらいあった。ゼロに幾らかけてもゼロだが、『零』シリーズの怖さが10倍になったら気絶する。

 

14.大沢やよい『2DK、Gペン、目覚まし時計。』第4-6巻

 物語が大きく進み、目が離せない。フジテレビの夜10時台のドラマなら、第10話くらいのところだ。

 

15.志村貴子淡島百景』第2巻

 『淡島怪談』は志村貴子得意の幽霊譚。このコマの繋ぎ=ショットのカッティングによる幽霊の表現は黒沢清ではないか。つまりドゥルーズで、やはり志村貴子の画面構成はマルクス主義的だ。

 

 その他、アンソロジーの『エクレア blanche』、『新米姉妹のふたりごはん』の新刊、『違国日記』、『透明人間の骨』、『ななかさんの印税生活入門』もよかった。kashmirなのに衒いのない百合だった。『百合星人ナオコサン』より百合だ(当りまえだ)。あと、『木根さんの1人でキネマ』の最新刊。『○○の危機コメディ』の回… 完全にレズ。あ、海外にいる資産家で美食家の親戚というと、ハンニバル・レクター博士を想像しませんか?

 

・小説部門

 

1.松浦理英子『最愛の子ども』

 2018年百合総合部門優勝。どころか、2010年代のベストも堅い。泉鏡花文学賞受賞。
 本作のマルクス主義的解釈については、すでに蓮實重彦が『文學界』2017年6月号に寄稿しているので贅言となろう。
 高校の女子クラス十数人の話でありながら、世界を破壊する物語。

 

2.宮澤伊織『裏世界ピクニック』第2巻

 存在論とホラーとレズの調和で百合厨を唸らせた『裏世界ピクニック』の続刊。第1作がタルコフスキーの映画でいえば、《ゾーン》の草原地帯に過ぎなかったことを教えてくれた。《部屋》に入った百合厨にレズが襲いかかる! 窓に! 窓に!
 ちなみに、リビングに便器が置かれているというのはモダニズム建築の一種で、そういう意味ではニューヨークで流行っているというのもあながち嘘ではない。これにつき、篠原雅武『複数性のエコロジー』はコルビジュエからタルコフスキー映画との関係まで触れていて丁度よい。

 

3.月村了衛『機龍警察 狼眼殺手』

 夏川と宮近の当番回は犠牲になったのだ… レズの犠牲にな…

 

4.柾木政宗『NO推理、NO探偵?』

 《メタミステリ》って薄目で遠くからみると《レズミステリ》にみえませんか?

 

5.乗代雄介『本物の読書家』

 収録作の『未熟な同感者』が百合です。

 

 その他、『スチーム・ガール』、入間人間の新作など。

 

・ドラマ

 

『二人モノローグ』

咲-saki-阿知賀編』

 実写版『咲-saki-』につづき、配役と、演技指導という意味での演出が見事。また、ロケーションが実写版『咲-saki-』にも増す雰囲気を添えている。

 

・アニメ

 

プリンセス・プリンシパル

 斯界、つまり百合厨の界隈では第10話が人気だが、わたしは第9話の『case20 Ripper Dipper』を推す。本作のスパイ小説のジャンル性に対し、本話が《壁を越える》という結論において『寒い国から帰ってきたスパイ』の真逆になっていることを鑑みれば、その意味は明らかだ。

 

少女終末旅行

キラキラ☆プリキュアアラモード

ラブライブ!サンシャイン!!

 

・評論

 

 今年は『ユリイカ』が9月臨時増刊号《総特集=幾原邦彦》に、11月臨時増刊号《総特集=志村貴子》と百合イカの当たり年だった。木造船でイカの密漁をしている北朝鮮の貧乏な漁師たちに分けてあげたい。

 

・ゲーム

 

バンドリ! ガールズアンドパーティ!』

 わたしも本作をプレイするまでは、多大な費用と機会費用を要するソシャゲーを費用対効果から不合理だと思っていた。しかし、本作をはじめたわたしは、餌の報酬で条件付けされた狂った実験用マウスのように、ひたすら音ゲーに没頭していた…
 エリアマップにいる女のアイコンをタップすると会話が表示され、音ゲーをやると、またマップ上のアイコンが更新されるというシステムが画期的だった。チョコレートの包み紙に書かれているクイズや雑学が楽しみで、食べる気もないのに幾つも包装を解いてしまうようなものだ。

 

・その他ニュース

 

志村貴子原画展

 

百合姫』編集長交替

 『ゆるゆり』と『百合男子』が象徴する〈百合冬の時代〉を築いた中村成太郎編集長がようやく異動した。しかし、後任の梅澤佳奈子は編集者時代から悪名高く、編集長就任にあたっても既定路線の踏襲を宣言しており、誌風は変わらないようだ。これは、中村成太郎編集長時代にKADOKAWAによる百合アンソロジー『エクレア』、有志による同人誌シリーズ『ガレット』が創刊するなど、実力のある作家の『百合姫』に対する遠心力が働いたこともあるだろう。よって、『百合姫』が文化的な覇権を取りもどすことはもはやないと思われる。

白鷺千聖と丸山彩の関係性についての統一的見解

 白鷺千聖の人物像を考察し、もって、丸山彩、その他、瀬田薫および松原花音との関係性を考察する。
 白鷺千聖の人物像を考えるとき、《優しく人当りのいい白鷺千聖》と《計算高く合理主義者の白鷺千聖》の、一見して相反する二面で把握するのが一般的だと考える。しかし、それは《計算高く合理主義者の白鷺千聖》が《優しく人当りのいい白鷺千聖》を演じているという、単純なものではない。なぜなら、《計算高く合理主義者の白鷺千聖》のような明快な自我をもっているものなどいないからだ。あるいは、そのようにアイデンティティを確立しているものもいるかもしれないが、千聖はそうではない。(※煩瑣な議論になるが、純粋に利己的な人間というのは思考実験にしか存在しない。ある人間が自己をそのように把握していた場合、それはアイデンティティとして仮構したものだ。(参考:ヤン・エルスター『社会科学の道具箱』))
 イベント『つぼみ開く時』のストーリーは、千聖が自分の表面的な態度を見直し、それにより、演技が上達するというものだ。スタニスラフスキー・システムでは、役の自己像を構築し、それに則り演技する。千聖の場合、もともとの自己像が表面的なものだったため、役の自己像も迫真性を欠いたものになったということだろう。このストーリーは、千聖が他者と接するときに演技を介在させることを控え、虚心坦懐な人付きあいをするようになり、また、それにより自己実現を果たすようになった、という主題をもつものだと考える。だが、ここでも本心の暴露とは《計算高く合理主義者の白鷺千聖》という自己像の表出のことではない。Pastel*Palettesのメンバーと本心で接しているときも、千聖は利他的な《優しく人当りのいい白鷺千聖》だ。
 《優しく人当りのいい白鷺千聖》と《計算高く合理主義者の白鷺千聖》に共通するのは、頭脳明晰で、自分のおかれた状況を客観的に把握していることだ。サルトルは『存在と無』で、漠然とした自我に対し、対象化された自己像を超越論的《我れ》と定義した(超越論的とは、言語論的の意味だと思えばよい)。サルトルは超越論的《我れ》を、一人称の《je〔私〕》に冠詞をつけて《le je》と表記することでそのいかがわしさを表現した。なお、日本語には冠詞がないため、その代わりに、一人称の《私〔je〕》を《我れ》と表記している。さて、白鷺千聖は頭脳明晰であり、この自我と超越論的《我れ》が異なることに自覚的だ。しかし、超越論的《我れ》でない自我は把握することができないため、自我の苦悩を背負うことになる。頭脳明晰さと、そのための実存的苦悩が白鷺千聖の人物像だと考える。
 それを踏まえ、丸山彩の人物像を考察したい。彩はアイドルを、努力する姿をファンにみせ、感動させるものだと考えている。そして、そのように自己実現しようとしている。ヤン・エルスターは『社会科学の道具箱』で、大人が子供の拙いプレゼントに感動するのは、子供が大人を感動させようとしたからではなく、大人を喜ばせようとプレゼントを贈ったからだと述べている。ファンを感動させるために努力するという彩の目標は、主客が転倒して、結果、主体性を失っている。前述のサルトルの論でいえば、自我が超越論的《我れ》に規定されている。なお、これは脱工業社会における現代的な現象であり、瀬田薫の近代的自我と対比できる。このことは後述する(参考:ホックシールド『管理される心』。より理論的にはマラッツィ『資本と言語』、ヴィルノマルチチュードの文法』)。千聖は、彩の自我と超越論的《我れ》の違いに無自覚なことと、その主体性を失った自我に苛立っている。バンドストーリーにおいて、千聖が彩に攻撃的になるのはそのためだ。(なお、個人的には千聖に加虐的なところがあり、彩が嗜虐心をそそるところがあることも、理由として考える。これは、とくにバンドストーリーの問題が解決したあとのイベントにおいて、千聖が嗜虐的な理由だと考えるが、本論には関係ない)
 しかし、千聖の彩への軽蔑は、彩のそうした理想の実現への努力が尋常でないことを知ることにより、解消する。これが、バンドストーリーの主題だと考える。そこを詳述するまえに、瀬田薫および松原花音との関係性を考察する。
 まず、松原花音だ。花音は善人であり、自我と超越論的《我れ》との葛藤がない。そのため、千聖も自我と《優しく人当りのいい白鷺千聖》としての超越論的《我れ》との葛藤をおこすことがない。これが、千聖が花音と兼ねてから虚心坦懐な人付きあいをしていた理由だと考える。
 次に、瀬田薫だ。『儚世に咲く薔薇の名は』で描かれるとおり、瀬田薫の王子様然とした振舞いは仮構したものだ。さて、『儚世……』の題材は『ロミオとジュリエット』だ。作中で千聖は、『ロミオとジュリエット』の主題を名前の問題だと語る。この解釈は、シェイクスピアを近代的自我が確立した時代との関係で分析する作者論における教科書的知識であり、千聖、あるいはライターの独創ではない。さて、薫は意識的に道化を演じることで、このような近代的自我の問題、いわゆる近代的苦悩を解決しているのだと考える。第一に、千聖はこのことを尊敬している。第二に、旧知の間柄であることから、千聖は虚心坦懐に振舞うことができ、自我と《計算高く合理主義者の白鷺千聖》としての超越論的《我れ》との葛藤をおこすことがない。作中で語るとおり、千聖はこのことに快さを感じている。
 最後に、千聖の彩に対する好意を考察する。千聖は彩に対する軽蔑や嗜虐心をとくに隠そうとはしていない。しかし、同時に彩に対し敬意をもっている。このことを千聖は《『丸山彩』を信じる》と表現している。千聖のいう、二重鉤を付けて区別する『丸山彩』とは、彩の理念を指しているのではない。もし、彩の理念に共感したなら、『あゆみ続けた道、彩られる未来』に登場した、彩が理念の模範とするアイドルに興味をもちそうだが、そうはならない。千聖のいう二重鉤の付いた『丸山彩』とは彩の理念ではなく、彩がその理念を実現しようとする姿勢のことだ。よって、千聖の彩に対する姿勢も、簡単に二分法で捉えることはできず、今後も複雑に変わっていくだろうと考える。

追記:

 千聖の『丸山彩』への信頼の根拠とは何か。蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で、あらゆる人間は優秀さに関わらず凡人であることから免れないと提言している。この点、日菜やこころは作中で天才とされている。しかし、千聖は優秀であるものの天才ではなく、かつ、頭脳明晰でそのことに自覚的だ。だから、彩が『丸山彩』になること、凡人が一瞬だけ超越性を実現することに興味をもっているのだと考える。