2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)


 昨年、百合マンガの年間ベスト(

2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞) - 白樺日誌

)を自選してみた。先日、見返したところなかなかいい趣味だった。ややサブカル寄りな気もしたが、ある視点からした2018年の年間傑作選としてはかなり参考になるものだった。というわけで、今年も百合マンガと百合小説の年間ベストを選出する。

 

・マンガ部門

1.高野雀『世界は寒い』第1巻

 『あたらしいひふ』の高野雀の描く高校生の女子6人の群像劇。密売品らしい拳銃を拾って、試射で1発を消費し、5発の残弾を1人1発ずつ使えることにして共同所有する話。
 このあらすじで察せられるだろうが、拳銃はあくまで小道具で、主役の6人がこの契機に自分の人生を考えることが本題だ。6人の人物描写と関係性の描出も見事で、百合としてもよい。

 

2.あらた伊里『とどのつまりの有頂天』第1巻

 『総合タワーリシチ』の天才、あらた伊里の新作。完璧に構成されたコマ割りのギャグというのは、笑わずにはいられないものだ。

 

3.るーすぼーい、古屋庵無能なナナ』第4巻

 第1-3巻はまったく百合ではなかったのだが、第4巻で急に百合が主題になった。ベートーヴェン交響曲第9番も第4楽章で急に声楽になるし、そういう構成もいいだろう。冗談事ではなく、交響曲第9番の「歓喜の歌」のように、本作も本巻でとうとう主役の内面に踏みこむことになり、百合が主題になるのもそのためだ。
 るーすぼーいはもともとギャルゲーのシナリオライターで、主役がつねに『罪と罰』のラスコーリニコフらしい人物造型という、独特の作風をしていた。本作でもそれを踏襲しているが、これが百合として最大の効果を発揮する。

 

4.谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第12-13巻

 第8巻の修学旅行編から次第に青春群像劇へと路線変更し、再ブレイクした本作。根暗な主役の黒木智子が高校デビューを果たそうとして、愚行をくり返すというのが前半の流れだ。それが修学旅行編で意にそぐわない団体行動を強制させられたことで、クラスの周縁にいる同級生たちと交流ができ、それがクラスの中心-周縁の構造まで揺るがす大きな流れをつくってゆく。
 第13巻は遠足編。谷川ニコの学校行事の描写は卓抜している。智子がトリックスターの立場になることで、生活と会話のコンテクストがまったく異なるクラスの中心-周縁の生徒たちが、思わぬ接触をすることになる。百合だ。

 

5.模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』第2巻

 解決しない、救われない、癒されない数話完結の物語の第2巻。完結編。

 

6.伊藤ハチ『ご主人様と獣耳の少女メル』第3巻

 獣耳の亜人が存在する世界で、主人と亜人で幼女のメイドがイチャイチャするマンガの完結編。
 これだけ述べると、いわゆるきらら系のヌルい物語を想像しますが… このマンガ、最終巻で主役2人がエクソダスします。
 最終巻で描かれるのは、獣人の権利保護を謳いつつ、獣人を人間の所有物として自由恋愛を制限する社会の独善性だ(なお、私は青少年の健全な育成ための自由恋愛の制限は妥当だと考える。念のため)。つまり、「ご主人様」とメルの恋愛はペドフェリア=ズーフィリアとして迫害の対象になる。
 昨今、LGBT運動は盛んで、思想的背景としてしばしばフーコーが利用される。しかし、そのフーコーは『知への意志』においてホモセクシュアルとともに、ズーフィリア、ペドフィリア、その他、あらゆる性的倒錯を羅列し、それらを性的倒錯として認定する社会の原理を批判している。つまり、ホモセクシュアルを「正常」と認めつつ、ズーフィリアやペドフィリアを「異常」と認定する人々は、フーコーの理論ではホモセクシュアルを「異常」と認定する人々と変わらない。
 『小百合さんの妹は天使』のあたりから抱いていた「もしかしてこの作者はマルクス主義者なのではないか」という疑念が裏づけられた最終巻だった。
 ちなみに、いわゆる「おねロリ」のジャンルでは中村カンコ『うちのメイドがウザすぎる!』、柚木涼太『お姉さんは女子小学生に興味があります。』もマルクス主義を内包している。
 しかし、伊藤ハチほど先鋭な問題意識と高い技術をもっているものは他にいない。『メル』第3巻の37ページで「ご主人様」がメルの恋愛感情に気づいたあと、それまで水平アングルが常態だったのに対し、メルを俯角で(=「ご主人様」の視点で)とらえる。この流れはページ上の視点移動がごく自然で、そこにおいてコマ間の切返しがおこなわれる。
 本年、伊藤ハチは『パルフェ2 おねロリ百合アンソロジー』にも『姉の秘密』という短編を寄稿している。本作はそのままホモセクシュアルペドフィリアに対する社会の視線を主題にしているが、やはり各コマにおける距離とアングルがきわめて適切だ。
 せーの、「《姉さんがしていることは優しい虐待だよ》~!」(「プリキュア、がんばれ~!」のリズムで)。

 

7.『Avalon bitter』


 アンソロジー。姉妹編の『Avalon』とも、わりと玉石混交だが、本編のいとう『良い旅を』が傑作。
 2人しかいない衛星軌道上の宇宙ステーションが舞台で、その意味で『たったひとつの冴えたやりかた』と『冷たい方程式』に似ている。が、本作の主題は「愛」。ネタバレになるため詳述できないが、愛の利己性と利他性の両義性を、惑星と衛星間の引力を隠喩とし、画面において完全に同致させた。ここにおける愛はシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』で重力と喩えたものだ。しかし… 構成も冗長がなく完璧。

 

8.平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』第4-5巻

 シリーズの最新刊。昨年と重複するため感想は省略。

 

9.くずしろ『兄の嫁と暮らしています。』第5巻

 シリーズの最新刊。同上。

 

10.吐兎モノロブ『少女境界線』

 百合SFアクションの連作短編集。作風がクールでいい。

 

・選外

 強引に下位を決めてもいいが、不実なのでそういうことはしない。きっちり10位で収まったのも偶然だ。
 冬目景『空電ノイズの姫君』第2巻。
 缶乃『あの娘にキスと白百合を』第9巻。
 ヤマシタトモコ『違国日記』第3巻。

 

・余談

 『木根さんの1人でキネマ』第5巻で木根の同居人の佐藤が友人たちに「嫁」呼ばわりされるようになっていた。ただしこれはギャグの前振り。『22ジャンプストリート』の冒頭で男2人が意味もなく『アニー・ホール』のパロディをしていたのと同じだ。しかし、その後も「嫁」呼ばわりは続いている。
 『アフターアワーズ』の完結編となる第3巻が刊行。クラブの熱狂でもっとも恐るべきことは何か? 翌日の虚無感と自己否定感だ。というわけで、日常にもどった主役2人の生活が詳しく描かれる。本巻は第1-2巻に対する後日譚だ。

 

・小説部門

1.草野原々『最後にして最初のアイドル』

 短編3作を収める。
 『最後にして最初のアイドル』は言わずと知れた星雲賞受賞作。ハードSFにしてメタ=フィクションの傑作。
 個人的に推薦したいのは第3作の『暗黒声優』。本作だけメタ=フィクションの構造でないが、それについて一言したい。本作はアルフレッド・べスターのような活劇だ。理論上の仮説だったエーテルが実在するという外挿がSF的な設定になる。さて、活劇は本当にメタ=フィクションではないのだろうか。映画の話になるが、ゴダールら『カイエ・デュ・シネマ』の面々はハワード・ホークスジョン・フォードらの活劇を高く評価し、手本とした。それは彼らが映画という表現を理解していたからだ。ゴダールトリュフォーのメタ=フィクショナルな映画はあくまでホークス、フォードらの活劇に依拠している。そして、それは政治にも通じている。ゴダールは映画監督の最左翼だ。これを踏まえれば、ジョン・フォードを右翼と誹ることがいかに半面的かわかるというものだ。それは蓮實重彦が『ハリウッド映画史講義』で「ハリウッドの映画で真に左翼的なものは『怒りの葡萄』だけだ。しかし、その監督のフォードは左翼とはまったく無関係の人物だ」という引用で、静かに怒りを表わしているとおりだ。というわけで、活劇の本作は第1作に続く「実存主義ワイドスクリーン百合バロックプロレタリアートアイドルハードSF」の系譜を継ぐものだ。

 

1.陸秋槎『元年春之祭』

 新本格推理小説にして百合の傑作。百合ミステリのベストが編纂されるとき、本作が筆頭にくることはまちがいないだろう。
 「読者への挑戦状」が2回挿入される新本格推理小説の意欲作。また、探偵役の於陵葵、関係者の観露申、葵の侍女である小休の3人の少女が主役の百合でもある。この3人の関係性は伊藤計劃の『ハーモニー』に似ている。『ハーモニー』もまた、メタ=フィクショナルな構造をもっていた。そして、新本格推理小説でも京都大学推理小説研究会の出身者を中心とする一派は、いわゆる「後期クイーン問題」というメタ=フィクショナルな課題を掲げていた。なお、いわゆる「後期クイーン問題」が登場するのは初期作品の『ギリシア棺の謎』であり、このような誤称が広まっているところが、クイーンの国名シリーズ全作を読むこともなくミステリを論じるものの跋扈していることを示している。それはともかく、ここに新本格推理小説にして百合である必然がある。

 前漢時代を舞台にしており、四書五経が博引傍証される衒学性もすばらしい。作者は本職の研究者でもある。
 作者曰く、麻耶雄嵩の『隻眼の少女』と三津田信三の『厭魅の如き憑くもの』が源流としてあるそうだ。

 

3.麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』

 意図してこの並びにしたわけではない。むしろ、新本格推理小説のいわゆる「後期クイーン問題」(誤称)の解決として百合を用いるのは必然だったのだろう。
 本作ではシンタグマに対するパラディグマの記号性の限界を、ディアクレティケーによって解決している。このような古代ギリシャのデモクラシーによる「後期クイーン問題」へのアプローチは、じつは作者はすでに『貴族探偵』でおこなっている。本作はその成果だろう。
 百合としてもすばらしく、本作を読んでいるあいだ、今年一番ニヤニヤした。『デスノート』で40秒後にニアが死ぬと思いこんでいる夜神月くらいニヤニヤした。

 

4.川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』

 ヴァージニア・ウルフを引用する文学的に正当な百合。

 

・選外

 宮澤伊織『そいねドリーマー』、『裏世界ピクニック』第3巻。
 入間人間やがて君になる』外伝。

 

・映画

 山田尚子監督の『リズと青い鳥』が話題になったが一言しておきたい。山田尚子は政治的に危険だ。私は『けいおん!』の修学旅行の回で、他の演出家がおおむねコメディに努めているにも関わらず、この演出家が旅行先でおこりがちなもめ事を表現しようとしていることに気づき、脳内に危険信号が灯った。しかし、ネット上で他のオタクたちは「あずにゃんペロペロ」などと言うばかりで、この演出家の政治的な危険さに気づくどころか、その演出意図すら理解していなかった(その意味で演出は失敗していた)。8年後、私の懸念は現実のものとなった。
 まず、本作はカメラワークと編集ができていない。つまり、手持ちカメラの撮影なのだ。ならば、ブレッソンやドグマ95の方法論を用いているのだろうか。作中作や演奏のプロモーションビデオの、映画を映画とも思わない無造作な編集による挿入からして、それは断じてちがう。そもそも、アニメでそうしたマラルメ的な偶然性はありえない(当たり前すぎて、書いていて自分でもバカバカしいが)。アスガル・ファルハーディーの初期作品も手持ちカメラを用い、かつ、ブレッソンやドグマ95の方法論とも異なり、臨場感を伴なう心理描写を演出していた。だが、そこには人格描写の文法(スタイル)があった。山田尚子監督にそういう意図はない。登場人物のあいだに差異はなく、みな同じように苛立ち、同じように怒る。いわば人格描写なき心理描写だ。これは政治的に危険なことではないか? カメラワークと編集を用いることがないため、適切な演出をおこなうことができず、象徴表現という映画というものに無自覚な安直な手法に頼る。
 その結果は、作家が映画および映画と自己の関係に無自覚な、拙劣な空間だ。ここではすべての登場人物が均質化されている。全員が個性化しておらず、神経過敏で、まるで中世のようだ。これは現代そのものの問題でもある。つまり、近代性の衰退であり、文学性の欠如だ。『管理される心』の著者であるアーリー・ラッセル・ホックシールドが『壁の向こうの住人たち』を書き、アメリカの二極分化として、右派とともに左派をも批判したのはこのためだ。
 山田尚子のような存在は、映像制作が劇場公開からネットにおけるストリーミング配信へと移行しつつある状況における必然なのかもしれない。しかし、少数の良心的で賢明な視聴者はその政治的な危険性を自覚すべきだ。
 私は中学生のとき細田守監督の『時をかける少女』をみて、この監督は政治的に危険だと直感した。10年後、オタクたちは細田守を大バッシングすることになるが、『時をかける少女』のときからその政治的な危険性を察知できていたのは、ごく少数の慎重な視聴者だけだった。おそらく10年後、山田尚子の政治的な危険性は最悪のかたちで発現することになるだろう。それまでに私たちは冷静さを身につけなければならない。

 

佐藤卓哉監督『あさがおと加瀬さん。

 では、映画というものを自覚し、真摯にカメラワークと編集を施した作品は何か? と尋ねられれば、2018年の成果は本作だろう。だが、視聴は推薦しない。
 ピュアすぎるのだ。佐藤卓哉の優れた才能で演出されたピュアさが、うしろ暗いところのある人間には剥きだしの刃として襲いかかってくる。ここまでの文章を読めばわかるかもしれないが、私には性格の悪い部分がある。竹内涼真の主演する少女マンガ原作映画をヘラヘラと笑いながらみることのできる私が、本作は開始5分で顔を覆い、あとはひたすら上映時間が終わることを祈っていた。人生でもっとも長い1時間だった。「好きな人といるためにバス停でバスを1本見送る」というようなシチュエーションをきいて、顔を赤くして叫びながら走りたくなる人間はみないほうがよい。精神的に消耗して疲労困憊する。

 

Vtuber

 難しい。私はたんにラジオのパーソナリティだと思っているが、それでも女性Vtuber同士が親しくしているとニヤけてしまう。伊集院光がゲストとイチャついていても真顔になるだけだ。

 

・余談

 『百合姫』がエロコメから癒し系へと誌風を変更したらしい。最善ではないが次善だ。とくにみるべき作品はない。

『金田一少年の事件簿』全作レビュー

 なぜいま『金田一少年の事件簿』なのかというと、アンソニーホロヴィッツの『カササギ殺人事件』を読んだからだ。ミステリのすばらしさを称揚する本作で、古色蒼然たるミステリのすばらしさを思いださされた。そう。私たちはクローズド・サークル、連続殺人、怪人を自称する殺人犯、見立て殺人が大好きなのだ。
 というわけで、『金田一少年の事件簿』である。
 なお、第2期以降はシリーズに含めない。絵柄と上述の特徴につき、完全な別物である。『37歳の事件簿』は本元のパロディがあるものの、いわゆる「中年の再起」の物語に本元における金田一少年の活躍を重ねたもので、やはり別物だ。

Fileシリーズ

オペラ座館殺人事件


 記念すべき第1作、と言いたいところだが、あまり面白くない。クローズド・サークルでおきた殺人事件を金田一耕助の孫が解決するだけの話。
 クローズド・サークル、連続殺人、登場人物一覧、怪人を自称する犯人、見立て殺人の要素はすでに完成している。
 第1作なので犯人もあまり強敵でなく、その煩雑な犯行計画と度重なるミスは『犯人たちの事件簿』でネタにされたとおりである。
 初登場の剣持警部が完全な別人。横柄で乱暴な警察官になっている。第2作でも説明するが、この大味さが本シリーズの特徴である。
 オペラ座館は劇場版でふたたび惨劇の舞台となり、第2期でみたび惨劇の舞台となる。とっとと閉館しろ。さすがにその後、解体されたらしいが『37歳の事件簿』で跡地に建てられた施設でまたまた惨劇がおこる。

 

異人館村殺人事件

 本シリーズを読んだことがない人もこの事件が『占星術殺人事件』のトリックをパクったことは知っている、というくらいに有名な事件。
 トリックの盗用を除外しても、第2作というだけあって舞台設定と登場人物がマンガ的すぎ、あまりいい出来ではない。
 しかしこの事件で特筆すべきなのは、犯人を特定する証拠がメインとなる盗用した大トリックではなく、物語の冒頭で描かれるラブホテル前の盗撮写真であること。大がかりでマンガ的な舞台設定と登場人物、密室殺人と死体のすり替えに対し、犯人を特定する証拠の卑小さ。この落差の展開は見事である。そして、この展開が犯人と被害者のお涙頂戴の人情劇に繋がる。
 この大映的な人情劇を結末に配置するのが金成陽三郎の原作の特徴である。そして、この大味さが本シリーズの特徴であり、また『名探偵コナン』と差別化している。本シリーズに影響を受けた多くの推理マンガが本シリーズほどの人気作になることができなかったのは、この大映的で印象強い物語の魅力を欠いたためである。なお、『名探偵コナン』はまたシリーズ物として別の魅力をもっている。

 

③雪夜叉伝説殺人事件

 本シリーズのベストトリック推理小説全体の中でも優れたトリックである。シンプルで効果的。トリックとして最上である。
 明智警視の初登場。割と性格はそのままだが、今作では見事な金田一の噛ませ犬になっている。
 明智警視との推理合戦ということもあり、否定される推理が3つも出てくる。
 速水玲香の初登場。

 

④学園七不思議殺人事件


 傑作。本シリーズでもベストを争う。
 本作を傑作たらしめているのはテーマの徹底である。金田一らの通う不動高校が舞台であり、ミステリー研究会の会員が主要登場人物である。エキセントリックな会長の桜樹るい子、会員で嫌味男の真壁誠、得体の知れない尾ノ上貴裕、つねにカメラをもち歩く佐木竜太、潔癖症の高島友代。いずれも名キャラクターである。しかし、桜樹も尾ノ上も故人となってしまう。そして、その犯人は怪人などではなく、保身にかられるあまり犯行を重ねた憐れな小心者だった…
「桜樹センパイ…ここには『放課後の魔術師』なんていなかったよ いたのは『過去』に怯え罪を重ね続けた あわれな人間だけだった」
 名言である。
 終結部では金田一が桜樹と言葉を交わした屋上で、晴れ渡った青空をみて独白する。青春の喪失感と寂寥感。明確な物語のテーマ性を設定し、それを描ききった今作は傑作である。
 ミステリー研究会で生きのこった佐木は『異人館ホテル殺人事件』で殺されることになり、まったくやりきれない。
 今作では珍しく美雪が被害に遭う。『飛騨からくし屋敷殺人事件』でも襲撃されるが、殺害の目標になったのは今作だけである。本シリーズにおいて美雪は日常の象徴であり、金田一の生きる世界はあくまで日常の世界であり、ミステリーの世界ではないことを示す役割をもつ。金田一がコナンほど「死神」という感じがしないのはこのためもあるだろう(事件の数がちがうことも大きいだろうが)。
 犯人の動機の「真壁のポスターを剥がそうとしたから」も白眉。この動機の浅はかさも前述の虚無感に繋がっている。
 犯人の死にざまの憐れさは本シリーズでもトップ。的場が犯人だと思って再読すると、かなり笑えるシーンが多いことは『犯人たちの事件簿』でネタにされたとおりである。

 

⑤秘宝島殺人事件

 美作碧(佐伯航一郎)クン
 「トイレの便座が上がっていたから」は本シリーズの手がかりでもベスト。
 火村医師は本シリーズにときどきある目撃証人の口封じのための殺人だが、「女装をみてしまったため」という理由は本シリーズでもトップの憐れさ。
 推理のあとの展開がだいぶグダグダ。
 茅杏子は準レギュラー化。「箱」だけで強い個性を獲得。キャラ立てのお手本である。「箱」の中身はリドル・ストーリーになっている。電動バイブ説もあるが、「この子」呼びや「ガサガサ」という擬音など、動物と考えるほうが自然。

 

⑥悲恋湖殺人事件

 伝説の動機
 「イニシャルがS・Kだったから」という伝説の動機はさまざまなパロディを生んだ。
 「二人とも助かる方法をさ!!」
 名言。霧舎巧の『私立霧舎学園ミステリ白書』のエピグラフにもなった。まあ、哲学の思考実験としては設問を否定しているため答えになっていないのだが。
 脱獄囚「ジェイソン」という怪人の設定はかなり好きだ。
 いつきさんの初登場。

 

異人館ホテル殺人事件

 佐木死亡。悲しい。しかも、殺害の必要性がかなり低い。
 いわゆる意外な犯人。不破警視のキャラクターはけっこう好きだったため、残念でもある。
 麻薬中毒の不良少女だった時分から、「不破鳴美」の戸籍を手にいれてからおそらく1年、長く見積もっても2年で整形し、麻薬の薬抜きをし、猛勉強をして東大に合格するという偉業をなし遂げている。ぶっちゃけ麻薬に頼っていたと思う。大学に入学してからゆっくり薬抜きをしたのだろう。
 俵田刑事の言からして、警察官として普通にキレ者だったらしい。
 おそらく今作に潜在するテーマは「ナルシズム」で、世間的には無名の舞台俳優の花蓮より、エリート警察官僚の不破警視の方が羨まれる立場だが、不破警視は双子で自分と同じ顔をもつ花蓮に嫉妬してしまった。
 キレ者で捜査責任者という立場だったにも関わらず、トリックは割と安直。

 

⑧首吊り学園殺人事件

 いわゆる読者正答率最低の最強犯人
 犯行そのものもムダもなく、犯行計画でも危ういのは仁藤に遺書の偽造をさせるところだけ。室井が試験でカンニングするというかなり蓋然性の低い偶発的な出来事がなければ証拠もなく(さすがに犯人が完璧すぎるためか、筆圧による痕跡という物語とは関係のない証拠も用意してある)、名実ともに最強犯人に相応しい。
 阿久津國夫という強烈なギャグ要員がいる。
 ダミー犯人はオカルト少女の森宇多子。かわいい。短編でカメオ出演する。

 

⑨飛騨からくり屋敷殺人事件

 愛する母親に虫ケラのように殺されるという本シリーズでもかなり可哀想な被害者。
 自分を愛する品行方正な養子ではなく、自分を嫌う不品行な実子を選んだ。その実子も義理の母親だと思っていた実母を毒殺する。すべてが明らかになったとき、彼らは慟哭する。
 お前ら全員『重力ピエロ』を読め
 実際に殺害したのは目標である息子と共犯者だけという、ムダのない優れた犯行計画。
 殺人劇を招いた遺産はもえぎが相続するものとみられる。それだけあって、黒ネコを抱きかかえる金に執着しない浮世離れした美少女。ただ40年くらいしたら飛騨からくり屋敷はネコ屋敷、もえぎはネコおばさんとしてワイドショーでパパラッチされていそうな気もする。

 

金田一少年の殺人

 本シリーズでもっともとばっちりの被害者たち
 『学園七不思議殺人事件』と『悲恋湖殺人事件』もとばっちりなのだが、本作は「名前を暗号に使われただけ」という直接的にも間接的にも無関係な人びとで不条理感が強い。しかも5人も死んでいる(ただし1人目だけは本来の標的である)。その上、被害者たちは悪人ですらない。金田一少年の事件簿』シリーズでどれか1つの事件の被害者たちを蘇生することができるというなら、私はまちがいなくこの事件を選ぶ
 明智警視が金田一を追跡する捜査責任者として再登場。『雪夜叉伝説』の終結部で殊勝な姿をみせたためか、すんなり味方になる。
 いつきさんの再登場。かなりの熱血漢になっている。ダミー犯人でもあったが、そのまま準レギュラー化。
 『クロック城殺人事件』がメフィスト賞を受賞した際、メフィスト巻末編集者座談会で「このトリックは『金田一』だ」と言っていたのは今作のこと。

 

⑪タロット山荘殺人事件

 金田一が殺されかける。トリックもシンプルかつ効果的で申し分ない。かなり強敵の犯人。
 ただし前半の倒叙モノと後半の真犯人との対決で2部構成になっているため、カタルシスはやや損なわれている。
「こいつ… 東大を出てないのに頭いいぞ!」
 明智警視を除けば不破警視に続く2人目の東大出身者で、「東大出身者は犯人か被害者」という本シリーズの「東大のジンクス」の始まりをつくる。今作では犯人でしかも死ぬ。
 誘拐犯に父親を殺された挙句、奮起してなおそのトラウマのためにまともに就職できなかった経緯は割と憐れではある。
 速水玲香の再登場。父親だと思っていたのは実は実父を殺した誘拐犯だった。しかもマネージャーは実兄で、その実父を殺した犯人だった。まあ生き別れた兄妹がタレントとマネージャーとして再会するというのは蓋然性としてかなりムリがあると思うが…
 しかしその父親も、本来なら誘拐した自分を殺すべきだったにも関わらず同情から娘として育ててしまい、親としての愛情をもってしまった。またその父親を殺した実兄も、最後には兄としての愛情から自分を守って死ぬ。
 犯人の強敵さに加え、物語も哀切で秀作。
 今作での速水玲香は屈託を抱え、かなり魅力的である。その後は美雪の永遠に勝てないライバルという立ち位置に落ちるわけだが…

 

⑫蝋人形城殺人事件

 シリーズ最高傑作。少なくとも代表作であることは疑いがない。
 登場人物が全員、探偵役に相応しいミステリファンの大好きな「名探偵登場」の回。導入部で各人が壁の出っぱりの正体を推理する場面がこのテーマを端的に示している。しかも、この部分が伏線になっているのが巧い。
 本作の主人公でヒロインは明智警視。元々、美形という設定だが、今作の明智警視は作画が異様に美しい。シリーズ全作、全登場人物を通して今作の明智警視の顔が一番美しい。
 現実の「三億円事件」をモチーフに使い、それを明智警視の人物像の背景にする豪華な構成。
 この豪華な構成に加え、結末に軽いホラー落ちまでつけて、作品としては完璧である。
 ラストの明智警視が父親の遺影とともに「三億円事件」のおきた年の製造年のワインを開封する場面もよい。ナレーションもモノローグもないのが渋くてすばらしい。
「犯罪は「芸術」なんかじゃない!! あんただってもう気づいてるはずだ! 紙の上に書かれた「犯罪計画」と「現実の犯罪」がまるで違うものだってことに!! たしかに昔あんたの彼氏が作った「現金強奪計画」は完璧だったかもしれない! だが、かつてそれを実行したあんたたちに一体何が残った!? 仲間の「裏切り」と、恋人の無惨な「死」と、「憎悪」だけじゃないか!! 今のあんたにしたってそうさ! 20年以上も人を憎み続けて幸せだったのか!? 復讐を遂げて本当に満足したのか!? どんな綺麗事で飾ろうとしたって犯罪は悲劇しか生まないんだ!!」
 シリーズを象徴する名言である。どこかの自称「犯罪芸術家」にも言ってください
 20年以上かけてベストセラーの推理小説家になり、莫大な資金を用意し、招待客一行の蝋人形を自作するというめちゃくちゃ手間のかかった犯行。古城の土地建物はどう考えても架空名義で購入できるものではないが、どうやって処理したかは謎。

 

⑬怪盗紳士の殺人

 怪盗紳士の盗難事件と、真犯人の殺人事件が噛みあっていない失敗作。実際、怪盗紳士は物語の中盤で退場するという半端な展開になっている。
 が、結末の美しさとメッセージ性はシリーズ随一。画商の羽沢、天文学者の和久田、画家の吉良という小悪党や不快な人物たちが最後に少しずついいところをみせるところが小憎い。ささやかに感動的である。
 『学園七不思議』の桜樹に続く「序盤で金田一に好意をみせると死ぬ」、『秘宝島』の美作クンに続く「序盤で金田一に好意をみせると犯人」のジンクスをつくる。犯人でしかも死ぬ。

 

⑭墓場島殺人事件

 『異人館村』とちがってほとんど指摘されないが、トリックが『不連続殺人事件』のパクリ。関係者中で一番仲が悪いように装い、共犯者であることが気付かれないようにしたというところも同じ。しかも、『不連続殺人事件』でのトリックは共犯のいる部屋の前で騒ぎたてることで共犯と自分のアリバイをつくるというものだったが、この事件ではお粗末なことに全員のアリバイをつくっているため不可能犯罪となってしまっている。
 砂糖の数というマンガならではの手がかりは割と好き。
 登場人物がサバゲーマーの一行で、怪人が第二次世界大戦の生きのこりの兵士という舞台設定はオリジナリティがあり、サスペンス性も富んでいて好きだ。
 サバゲーチームに長期潜伏している檜山のミリタリーオタクぶりが明らかに演技ではないノリノリぶりである。
 爆弾も所持していて、下手に偽装工作するよりも、単純に無人島で全員を皆殺しにしてこっそり本土に戻り、あとは知らぬ存ぜぬを貫いたほうが完全犯罪としての成功率が高そうに思えるが、そこはマンガなので仕方ない。
 被害者たちのゲスさが目立つ事件でもある。
 被害者の荻元が「東大のジンクス」を叶えている。

 

⑮魔術列車殺人事件

 「地獄の傀儡師」高遠遙一の初登場。
 の割に、トリックがショボい。パクリ元の『奇想、天を動かす』では無学無芸の男が咄嗟に思いついたトリックであるにもかかわらず、自称・犯罪芸術家の高遠が計画してこれである。
 犯罪コンサルタント、犯罪芸術家を名のる高遠の好敵手としてのカリスマ性が薄れる一因でもある。のちの2度目の犯罪コンサルタントとなる『金田一少年の決死行』ではちゃんと大がかりなトリックを用意してある。

 

⑯黒死蝶殺人事件

 作中で「前代未聞のトリック」と明言するだけあり、このトリックから逆算してすべての舞台設定が考案されている。
 そのため、本シリーズでは唯一、子供の被害者になっている。「序盤で金田一に好意をみせると死ぬ」の犠牲者。
 舘羽も割とかわいかったため憐れ。
 犯人はそうと知らずに実の妹を殺害していたという悲劇だが、母親の「20年以上に渡り冷凍保存していた精子で人工授精して故人の子供を産み、それを仇敵に育てさせる」という気が長く、迂遠で、効果のほどもわからない奇行としか言いようのない復讐が原因のため、どう反応していいかわからない。紫紋が『重力ピエロ』を読んでいたらどうするんだ
 終結部も感動的なのだが、上述の理由により、やはり微妙な反応になる。

 

仏蘭西銀貨殺人事件

 『金田一少年の事件簿』シリーズで嫌いな犯人のランキングをとったときに大体1位にくる犯人。
 動機は自己中心的、同じ生立ちなら同じ行動をとるはず、とトリックも支離滅裂、改悛の情なし、といいところのまったくない犯人。
 「葬送銀貨」というシリーズでもっともカッコいい怪人の二つ名をムダにもっている。
 シリーズの末期感が漂う作品。

 

⑱魔神遺跡殺人事件

 読者正答率の高い弱敵の犯人。
「だって普通のオバサンだし…」
 しかし火を使わない料理を献立にしていたというさりげない手がかりは割と好きだ。
 さつきは「序盤で金田一に好意をみせると死ぬ/犯人」というジンクスに反して生きのこる。
 「落下してきた吊鐘に手と首を切断される」というシリーズでもトップクラスにショッキングな死にざまがあるが、事故

 

速水玲香誘拐殺人事件

 面白くない。
 タイトルからし速水玲香が誘拐されるが、本人は死なずに関係者が1人か2人死ぬだけだろうと予想のつく緊張感のなさ、グダグダな構成と普通に面白くない。

 

以下、Caseシリーズ。

 

①魔犬の森の殺人


 ご存じ、千家が犯人の回。
 「レギュラーメンバーの名前に全員、数字が入っている」という偶然を利用した犯人当ては割と好きだ。
 「狂犬病の犬が闊歩しているため逃げられない」というクローズド・サークルは奇を衒いすぎの気もする。
 「壁に耳あり」の被害者のゲス行動は有名で方々でパロディされた。

 

②銀幕の殺人鬼

 シリーズで一番の凡作。
 強いて言えばポアロの「ラベンダーの匂いが嫌い」という設定を再利用したことが気が利いている。
 黒河の背中の火傷痕については最後まで疑問のまま残る。まあ、紙幅が割かれたとしてどうでもいい小話で終わるのだろうが。

 

③天草財宝伝説殺人事件

 前作に続く凡作なのだが、言及すべき点があり「シリーズ史上、最も地味な事件」
 本シリーズにしては珍しく、綿密に現地取材している。それだけに旅情モノとしての雰囲気があり、地味さに拍車をかける。
 被害者の赤門は「東大のジンクス」の犠牲者で苗字はダジャレ… というのがレッドへリングというシリーズのファンにだけ通じるムダな仕込みがある。

 

④雪影村殺人事件

 長期シリーズにつきものの異色作、と言ってもいいが、割と雰囲気が出ていて良作。
 金田一以外のレギュラーメンバーが登場しない上、金田一金田一耕助の孫であることに触れられることもなく、金田一が個人として旧友の自殺とそれをめぐる殺人事件に関わることになる。
 「嬉しい色のはずが許されない色だったなんて」。妊娠検査薬の陽性反応をここまで詩的に表現するひといる?

 

露西亜人形殺人事件

 秀作。今作の主人公は高遠。
 高遠が珍しくカッコいい、というより、高遠が唯一、カッコよかった回
 高遠が主役のため、高遠の知己の人物も魅力的に描かれている。
 そのため、犯人も小物であることが強調されている。
 「私がコンダクターよ!(迫力ゼロ)」は物語と演出の合致した迷シーンにして名シーン。
 純粋に金目当てで連続殺人をおこなったのだが、貧乏な生立ちで、それが偶発的なものだったという割と憐れな人物でもある。
 金田一に犯行を暴かれて自殺を試みるが、喉を突いたはずのナイフは一輪の薔薇に変わっていた…
「探偵にちょっと追い詰められたくらいで簡単に自分から死を選ぶようなあなたでは 冷徹な犯罪者にはなりえません」 「あなたはたった今 一度死んだ 生まれ変わる気があるなら 次はもう少し自分のあるべき姿を見つめ直してみる事ですね」
 そしてこの台詞である。カッコよすぎる
 常習的殺人者である高遠が人の命を助ける。しかも、それが高遠が自分と犯人の生立ちを重ねて同情したためだろうと語られる。
 本作の白眉は2段オチで、犯人が暴かれたあとに、その犯行がすべて故人により誘導されたものだったと高遠が推理、暴露する。
 こうして人の悪意と世界の無秩序さを強調する高遠が、審美的、論理的に正当な方法による殺人での復讐は倫理的にも正しいと考えるのは一貫している。そのため、金田一と思想対決するにも相応しい立ち位置を確保していると言える。
 その後はときどき推理が終わったあとに微妙に出演しては詮方ないことを言うシリーズのマンネリズムを象徴するキャラに。ここで出番が終わっていればよかったものを。

 

⑥怪奇サーカスの殺人

 シリーズ屈指の「それでいいの?」というムダに晴れやかなハッピーエンド。

 

金田一少年の決死行

 事実上の最終回。
 最終回だけあってオールスターキャストなのはいいが、そのせいでサスペンス性を欠いてしまっている。同じ『マガジン』連載のサスペンスである『サイコメトラーEIJI』の最終回もオールスターキャストだったが、こちらはレギュラーキャラが割とよく死んだり犯人だったりする作風のため、緊張感が保たれていた。
 剣持警部だけは高遠の変装のため本来の出番は少ないが、明智警視に「叩き上げの刑事である彼は刑事の魂である警察手帳を無造作に地面に投げ出したりしない」と熱い台詞を送られている。
 犯人の意外性はシリーズベスト
 「巌窟王」という犯人の動機の苛烈さ、トリックと舞台装置の大がかりさとも、最終回に相応しいもの。

以下、その他。

・短編集
 普通に長編に使うことはできないという程度の小品を集めただけの感がある。短編集としては『明智少年の華麗なる事件簿』『明智警視の優雅なる事件簿』がいずれも短編としての魅力に富む粒ぞろいの傑作。
 明智警視の「キザで周囲から浮いているが、本人だけのそのことに気付いていない。しかし、決めるところではそのキザなところが最高に決まっている」という二枚目と三枚目を兼ねる名キャラクターぶりが活き活きとしている。

・劇場版
 第2作の『殺戮のディープブルー』はテロリストに占拠された海中施設という変格クローズド・サークル。脚本はテロリストの行動とその裏の連続殺人が噛みあっておらず、微妙な出来なのだが意欲作ではある。オペラ座館の2度目の事件である第1作も良作。

・ノベルス
 『電脳山荘殺人事件』が小説ならではのトリックで良作。

 上述のとおり、第2期以降は絵柄が変わっていて別物。

なぜ『ALTER EGO』はヒットしたか 文学的読解

f:id:snowwhitelilies:20190113200524p:plain

筆者の診断記録

 アプリゲーム『ALTER EGO』をクリアした。
 ノンプロモーションでありながら約1週間で10万インストールという異例のヒット作だ。私自身、名作だと感じた。
 ゲームシステムは単純で、1.『クッキークリッカー』 2.性格診断 3.恋愛シミュレーション の3つを合わせたに過ぎない。ボリュームもない。
 では、なぜ本作が異例のヒットを遂げたのか。ひと言で表わせば企画の成功だ。以下、記述する。

0.企画の成功

(大野真樹)
 コンセプトの徹底だ。コンセプトは主題だ。本作においては実存主義と青年心理学だ。
 この主題が1.デザイン 2.イラスト 3.劇伴 4.シナリオ 5.ゲームシステム の5つに徹底している。重要性は挙げた順番のままだ。
 実存主義は自己と世界の関係への問いだ。青年期はその問いに葛藤する。

1.デザイン

(大野真樹)
 色彩設計だ。モノトーンで蝶の青色だけを着色している。
 ロー・キーかつ部分的なハイ・コントラスト。レオス・カラックスが『ボーイ・ミーツ・ガール』と『汚れた血』で採用した色彩設計だ(『ボーイ・ミーツ・ガール』はモノトーン)。これにより、レオス・カラックスは張りつめた空気感を演出し、若者の孤独感と絶望感を表現することができた。
 壁男や背景美術など、美術はよくない。

2.イラスト

(いとう階)
 線の細い絵柄だ。かつ抽象化の程度が大きい。
 エスは10代後半から20代前半。痩せ気味。神経質な性格を端的に表現している。

3.劇伴

(あみこ)
 エスとその他の場面の2種類。ピアノソロだ。後者はソプラノが加わる。
 前者は旋律的、かつ16分音符の流麗な主題だ。それを反復する。名曲だ。
 後者は16分音符の流麗な主題ながら、狭い音域に留めている。アンビエント音楽に近い。
 どちらもミニマリスト的だ。内省的だ。

4.シナリオ

(大野真樹)

①ストーリー
 第1にエスはカウンセラーだ。カウンセラーは現代の告解師だ。はじめにプレイヤーはエスに依存する。『意識という幻想』で自由連想法のため、膝枕された上にリラックスするように命じられるところが端的だ。かつ、巧妙なことにエスは適切な距離を保つ。ゆえにカウンセラーたりうる。『全滅領域』の《心理学者》というキャラクターを知っているだろうか。『グッド・ウィル・ハンティング』のショーンでもいい。
 第2にエスは患者だ。実存に悩み、こちらの問いに敏感に反応する。すでにプレイヤーはエスに依存している。自己投影の結果、依存か支配かの両極にいく。前者がエスに親としての役割を求めるエゴエンドで、後者がエスの親の役割を担うイドエンドだ。
 イドエンドでエスが自由にふるまうのは、親であるプレイヤーが自由にしていいと許可したからに過ぎない。トゥルーエンドであるエスエンドにゆくには、プレイヤーがカウンセラーになり、エスと適切な距離をとり、本人にひたすら考えさせなければならない。自制心がいる。

②主題
 精神分析だ。エスの名前はフロイト精神分析による。フロイト精神分析は無意識を発見した。これは画期だった。無意識とは自己の快・不快の原因だ。これを言語化することが精神分析だ。よく知られる性器のメタファーはその1つに過ぎない。『精神分析学入門』で有名になったのだろう。これは一般向けの講演録だ。専門向けではない。フロイトは『性欲論三編』で自身の学説のリビドーはセックスとは無関係だと言明している。ただ私もはじめに『精神分析学入門』を読み、フロイトは時代遅れのただの異常者だと思った。『フロイト全集』の付録を読むと、フロイトの神経質さがわかり、共感がもてた。
 当然、無意識の言語化は終わりがない。苦行だ。だが有用だ。私はこの知識があったため、どの選択肢をえらべばトゥルーエンドに到達するかわかった。エスに終わりのない言語化をさせ、またそのことを承知させる。
 サルトルフロイト精神分析を実存的精神分析として完成させた。文学の方法だ。『聖ジュネ』、『家の馬鹿息子』で実践している。

③文学
(1)『人間失格
 《自分探し》の有名作。『Collectors』という蔵書家のマンガに「ビブリオバトルをみにいったら『人間失格』で参加したイケメンが優勝した」というネタがあった。

(2)『デミアン
 ドイツ教養小説。ビルドゥングス・ロマン。『少女革命ウテナ』が引用した。

(3)『山月記
 とくに言うことなし。

(4)『変身』
 カフカの小説は自己疎外が主題だ。サルトルは『家の馬鹿息子』でたびたびカフカに言及した。『城』は実存主義文学だ。
 現実的に読めば『変身』はサラリーマンが鬱病にかかり出社できなくなる話だという精神医学による読解がある。

(5)『狭き門』
 ライトノベルの『"文学少女"と神に臨む作家』の種本だったため、高校生のときに読んだ。『"文学少女"と神に臨む作家』はおぼえているが(傑作だった)、こちらは忘れた。

(6)『はつ恋』
 ドストエフスキーツルゲーネフを『悪霊』で時代遅れの理想主義の作家として描写。絶縁された。

(7)『草木塔』
 未読。

(8)『坑夫』
 『海辺のカフカ』にカフカの諸作品に並ぶ実存主義文学として登場する。夏目漱石の作品では凡作ということで世評が一致している。よってこれが元ネタだろう。

(9)『地下室の手記
 実存主義文学。現代の国内文芸にも影響する。

(10)『シシューポスの神話
 カミュ実存主義文学の大家だ。
 『シシューポスの神話』の次の評論『反抗的人間』でサルトルと論争になる。サルトルカミュの論争は根本的なものではない。世界と自己の対立について、サルトルは後者を、カミュは前者を優先した。サルトルは倫理観を欠き、アジテーションが巧みだった。そのため共産主義で世界のほうを変えようとした。

(11)『フランケンシュタイン
 本作を読む現代人は、フランケンシュタインの怪物が外見に傷痕があるだけの正常な人間であることに驚く。フランケンシュタインの怪物は、人造人間である自分の実存に悩む。
 創作されたキャラクターであるエスの比喩ととることもできる。

(12)『不思議の国のアリス
 とくに言うことなし。

(13)『星の王子さま
 とくに言うことなし。

(14)『ポー詩集』
 とくに言うことなし。

(15)『ドグラ・マグラ
 いわゆる三大奇書。循環構造のメタ=フィクション。他の2作もメタ=フィクションだ。
 大野真樹氏のツイッターによると精神医学に関する小説として選出したらしい。

5.ゲームシステム

 クッキークリッカーを読書と見なす。ハイ・コンセプトだ。

6.なぜ本作がヒットしたのか

 企画の成功だ。押井守によると、現在の映像業界は企画に関する制度が機能不全をおこしている(《押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか》)。
 映像業界に限らず、コンテンツ産業全般がそうだろう。具体的にはプロデューサーの逆作用とコンサルタント会社の有害無用さだ。ここでデヴィッド・グレーバーの諸作から統計を引用し、関連する職業に就いている私大文系卒を発奮させるつもりはない。話題は本作だ。
 偏見だが、そうした職業に就いている方たちは無教養で(本を読まない。すくなくとも新書とビジネス書しか読まない)、飲み会が好きで(外向的だ)、下品で態度が大きく(内省しない)、バカだ(バカだ)。本作のコンセプトと真逆だ。プロデューサーかコンサルタント会社が介入していれば、本作は失敗していた。
 低予算のノンプロモーションにも関わらず、ではなく低予算のノンプロモーションだから本作は成功した。

『無間氷焔世紀 ゲッテルデメルング』感想

異性愛「反生殖主義に勝ったッ! 第2部2章完!」

 『FGO』第2部2章『無間氷焔世紀 ゲッテルデメルング』を攻略しました。以下、その感想です。

・まさかのメインシナリオでの奈須きのこの続投。というわけで大満足でした(ここで順接は失礼かもしれませんが、みんな内心ではそう思っているでしょう?)。ただ1章ではあきらかにアタランテ周りのシナリオだけ別のライターでしたが、2章でも1-2節あたりは円居挽らしき雰囲気を感じました。奈須きのこが連投していると、『喧嘩稼業』や『HUNTER×HUNTER』や『咲-saki-』が長く休載を挟まずにいるときと同じで、嬉しい反面、不安にもなりますね。

・言峰がカドックを拉致。ホームズたちはラスプーチンの霊基が消滅したことを知らないだけで、ここでの言峰は本人で合っていますよね。言峰、『Fate/stay night』でも遠坂や士郎にやたらとかまっていましたし、けっこう子供好きですよね。遠坂や士郎の扱いもうまいし、案外、教師とか向いているんじゃないでしょうか。

・カドックに続いてクリプターまさかの陰キャ集団。『永久凍土帝国 アナスタシア』はおおむね「チア部を追いだされたあの娘をナードの僕がプロムでクイーンにする!」でしたが、2章はおおむね「陰キャの私の自分改造計画」でしたね。陰キャ・オブ・陰キャのオフェリアがリア充・オブ・リア充のナポレオンに「お前、面白いな」されたりします。陰キャの頂点、スルトがスクール・シューティングしかけるのに巻きこまれたりもします。

・いわゆる毒親… ではないにしろ、親子関係で苦しんでいたオフェリアが選んだのは「大人のいない世界」。結婚の概念がないので恋愛の概念もない。1部6章もそうですが、自分たちのサークラなり反生殖主義なりに領民を巻きこまないでください。ナポレオンやシグルド‐ブリュンヒルデ夫妻の石破ラブラブ天驚拳で倒されます。ワルキューレは死ぬ。

・ナポレオンが召喚されたのはヨーロッパ関係ということだったり、メタ的な妥当性ということだったりもあるでしょうが、北欧神話というとやはりワグナーの『ニーベルングの指輪』なので、それとの対比もあるのではないでしょうか。ポスト近代的な反生殖主義の全体主義社会に対して、古典主義のロマン派がナポレオンなり、シグルド‐ブリュンヒルデ夫妻ということです。陰キャ北欧神話が好きですしね!

 後、雑感。

ワルキューレ三姉妹:死にざまできっちり見せ場があって、よかったのではないでしょうか。

・ナポレオン:本当に快男児でビビる。作中でも明言していますが、史実とはやや独立していますね。上述のこととも関連しますが、「人々の想い」とは第二帝政以降の全体主義的な大衆の総意、万民の意思ではなく、本当に個人個人のことですね。

・シグルド‐ブリュンヒルデ夫妻:かなり夫婦感が漂います(主にシグルドの眼鏡によって)。終盤、こいつら夫婦漫才しかしていなかったな…

・オフェリア:カドックが序盤で生存が確定したので、まさか死ぬとは。ただ目立った外傷がないし、型月なので3章になったらあっさり生きていたということになってもおかしくないと思います。

・スカサハ=スカディ:全身タイツハイレグおばさんと同じ顔。終章で世界の王らしさをみせて、なかなかよかったのではないかと思います。

ゲルダ:辛い… 終結部では他の世界を消去することについて念押ししてきましたね。

 というわけで『無間氷焔世紀 ゲッテルデメルング』、重くて熱くて面白かったです。3章のクリプターは芥ヒナコ。これではクリプターの陰キャ集団疑惑が固まってしまうではないですか

『俺ガイル』、『私モテ』、青春群像劇 - アンチテーゼとしての西尾維新 -

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』9巻までを読んだ。最新刊は12巻で、他に短編集が2巻あるのだが、ここで一区切りのようなので止める。せっかくなので感想を書く。

○1巻
 基本ギャグで最後に「ちょっといい話」がくるという、ごく普通のライトノベル。厭人家でいわゆる「ぼっち」の高校生、「比企谷八幡」が美少女で同じく友達のいない「雪ノ下雪乃」とともに校内のトラブルを解決していく。
 率直にいって(『僕は友達が少ない』+『化物語』)/2。主人公の「ぼっち」あるあるネタと一人称がわりと生々しく実感がこもっているのが独特。

雪ノ下雪乃:あらためて1巻を読みなおすとめちゃくちゃ多弁でビビる。9巻あたりの台詞なんて、ほとんど「そう…」とかだぞ。お前は沖田圭介か爆岡弾十郎か。正直にいって、1巻の時点では戦場ヶ原ひたぎの影響が濃い。

由比ヶ浜結衣:1~9巻にかけてほとんどブレがないのがすごい。

○2巻
 ライトノベルにありがちなことに2巻で迷走している。雪乃と結衣がものすごく無理のある流れでメイド服を着たり、いかにもライトノベルらしく巻数をあらためるに当たって美少女の新キャラを追加したりしている。

・川崎沙希
 川なんとかさん。空気キャラいじりはけっこう好きなのだが、形式上は2巻の新ヒロインなのに本当にいいところがなくて笑ってしまう。

○3巻
 "「ふむ。由比ヶ浜が部室に来なくなってからもう一週間か……。今の君たちなら自らの力でどうにかすると思っていたのだが……。まさかここまで重症だったとは。さすがだな」"(p.33)
 『俺ガイル』シリーズは主役3人の物語なのだが、1対1対1というより、八幡と雪乃、それに対する結衣という2対1関係だろう。かくして主役たちの物語が動きだし、シリーズとして面白くなってくる。

○4巻
 カースト上位組との合同合宿になり、青春群像劇としての色彩を帯びることになる。今巻はかなり面白いと思った。
 内容の変化に合わせて、イラストも1巻の5頭身から今巻で8頭身くらいになる。6巻では9頭身くらいになる。1巻の表紙では雪乃がお下げを結っていて、2巻でも「ツインテール」と地の文で形容されているのだが、内容に合わなくなってきたためか徐々にサイドテールになり、横髪に吸収されて、最終的にただのロングヘアとしてなかったことになったのが笑える。
 さて、青春群像劇とは何だろうか。蓮實重彦は『映画時評』の一編で「群像劇という退屈な言葉」といっていた。それを踏まえ、定義を正確にするなら「登場人物たちの動機や思想が対立しており、物語の終わりまで対立が解消することなく、かつ、それらにナラティブによる優劣がつけられることのないもの」となるだろうか。
 青春小説といえば、文学史的には数ある教養小説や『若きウェルテルの悩み』などが該当するだろうが、この場合はそぐわないように思う。個人的には、経済的に自立しておらず、かつ管理教育によって密な人間関係を形成していることが、いわゆる「青春小説」の要件であるように思う(ちなみにわたしは青春小説に興味がない)。
 群像劇なら経済小説や警察小説でも一般的だが、かかる理由で登場人物たちの動機がほぼ人間関係に向いていることが、いわゆる「青春群像劇」を独特のものたらしめているのではないだろうか。
 さて、かかる物語において、鶴見留美の救済で八幡が独特の解決をとったことが面白かった。葉山隼人が八幡に「嫌い」だといったのも、そうした理非や良否ではない対立を象徴している。ここで葉山と雪乃が幼馴染だったことが示されて、人間関係の縺れが示唆されるのも青春群像劇らしい。しかし雪乃が国語の学年順位が1位、八幡が3位で、じつは葉山が2位だったというのはさすがに後付けらしすぎると思う。

葉山隼人:1~3巻の気さくな好青年から、4~6巻の、性善説全体主義をとる八幡のアンチテーゼ(八幡は性悪説個人主義をとる)、7~9巻の翳をもつ青年と、キャラクターが変わりすぎだと思う。

・戸部:名脇役。「だべ」の語尾ひとつで成りあがった男。

○5巻
 青春群像劇の色彩をもっていて、ギャグが基調ながら、ところどころで緊張感が出てくるのがいい。わりと個人的なシリーズに求めていたものの理想です。

○6巻
 第1部完。八幡のルサンチマンが悪役を務めるという形で、いわば奴隷道徳から超人への道である君主道徳に転換することで決着する。有体にいえば「弱者の意地」をみせることで解決する。ちなみに、この悪役を買って出ることで自分の弱さを認めるというプロットは、『めだかボックス』の球磨川編を参考にしているのだろうと思います。西尾維新の作者への影響を考えるに、わりと妥当ではないかと。
 今巻で1巻から続く雪乃との思想対立も互いを認めあって決着する。つまり、1巻の「友達になろう」という約束が暗黙裡に果たされます。
 ちなみに、雪ノ下陽乃が雪乃にちょっかいを出すのも「妹を鍛えるため」という説明がされて解決します。まあ、続刊でまた理由が変わるのですが…
 とにもかくにも大団円です。正直、ここで完結していればと思わなくもないです。

〇7巻
 結衣が八幡と恋人になりたがっているのを、戸部の恋愛成就を妨害することで牽制します。ひたすら暗い。
 "「ちゃんと見ているから、いくらでもまちがえたまえ」"(p.174)。タイトルを回収する台詞っていいですよね。

・三浦優美子:我侭で自己中心的なクラスの女王。裏表がないところが数少ない長所。名脇役。ここで三浦の人格的に深いところをみせるのに、コンビニで雑誌の封を外して立読みするというクズ仕草をとらせてバランスをとっているのがプロらしいと思います。
 あと苗字と名前の規則ですが、わかりにくいですが「mi-u」「yu-mi」で回文になっているのではないかと。

 続刊ではパンツをみせてさらなる人気獲得を目指しています。ライトノベルにおいてパンツの登場回数と人気は比例するらしいですから…

・海老名姫菜:"「私、腐ってるから」"の台詞回しは巧いと思いました。「とどのつまり、海老名姫菜は腐っている?」の章題もそうですね。疑問符は要らないのではないかと。ただ、絶対に後付けですが。
 "「私、ヒキタニくんとならうまく付き合えるかもね」"の台詞はときめきました。傷があるとかわいくみえる法則を「電波ゲーのヒロインは魅力的にみえる理論」といいます。

〇7.5巻
 短編集。特筆することもなし。
 ついに三浦が表紙に。かわいい。1巻の時点では誰が予想できたでしょうか。

〇8巻
 かくなる流れで冒頭から主役3人がピリピリしています。そして訪れる奉仕部解散の危機。自己否定感から慰留に動くことができなかった八幡だが、「小町のため」という仮の動機を得て奉仕部存続に奔る。…が、待っていたのは表面上の付きあいという、かつてみずからが忌嫌った人間関係を演じる自分たちだった。
 さすがに2巻続けてのアンハッピー・エンドは予想しておらず気分が沈みました。
 というか、第1部から翻意して虚飾の人間関係を是とする八幡が受けいれがたいです。個人的には『俺ガイル』がテレビシリーズ化されるなど、そこそこのヒット作になったことで作者の渡航が精神的に保守的、微温的になり、第1部の青春を全否定する痛快さをとれなくなったのではないかと思います。第1部の流れだったら、7巻で葉山グループの人間関係を全壊させることで依頼を解決したはずですよね。ただいつものメンツで遊べればそれでいい三浦は別として、グループを存続させるために構成員の心情を封殺するのは本末転倒では。グループが壊れたなら、またはじめればいいじゃないですか…

〇9巻
 第2部完。総武高校と海浜幕張総合高校主催の地域の合同クリスマスイベントが企画される。生徒会長、一色いろはに依頼されて八幡は一人でその手伝いをする。そのことでただでさえ脆くなっていた奉仕部の人間関係は完全に瓦解する。しかし、八幡が心情を率直に話し、「本物がほしい」という依頼をしたことで奉仕部は復活。時間と予算のなかったクリスマスイベントも、キャンドルサービスという奇策で成功するのだった。
 すべての人間関係は偽物で本物などありはしないが、しかし本物を求める気持ちはまちがっていない、というありがちで無難妥当な心理主義の決着です。無難妥当ではありますが、個人的には偽物でもいいという微温主義が好きではないので微妙。本物が存在しないという否定と、だからといって偽物をよしとする妥協はまったく違うものでしょう。

一色いろはジェネリック奉仕部。雪乃の毒舌と結衣の調子のよさを併せもつ。しかも雪乃の毒舌と小気味のいい掛合いはすっかり遠のいていますしね… だから八幡が9巻で生徒会に軸足を移したとき「こいつマジでクズだな」と思いました。
 いいですね、いろは。八幡がまったく眼中にないので余計な心理的負担もなく軽快な掛合いもできます。
 "「責任、とってくださいね」"(p.365)。超かわいい。というか、これ『ビューティフル・ドリーマー』のラムちゃんの決めゼリフですよね…

雪ノ下陽乃:6巻で雪乃とその恋人未満である八幡にちょっかいを出すのは、妹である雪乃を鍛えるためという説明がされましたが、今巻ではたんに快楽原則に則っているだけということになっています。普通に怖い。その影響か、葉山の性格も変わっています。

 さて、以上で9巻までの感想です。
 ここで思い出すのが『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』です。本作も『俺ガイル』と同じく「ぼっち」を主役にしたギャグから10~12巻にかけて青春群像劇へと移行していきます。絵柄の変化もさほどではありませんが、ゆりの作画の変化や加藤さんのキャラクターデザインにやや表れています。
 いわゆる「陰キャ」のゆりの「黒木さんといると無理して喋らなくていいから楽でいいけど」という台詞や、いわゆる「パリピ」のネモのエピソードが青春群像劇らしいです。ついでに、もこっちの「ぼっち生活で鍛えたメンタルを舐めるなよ」という奮起も同じルサンチマンからの超人ですね。

 ただ、『私モテ』は現在、クレイジーサイコレズをギャグの基本にしたレズハーレムギャグ漫画になっています。それも悪くはありませんが、ただ12巻の青春群像劇の色調がなくなったことを惜しくも思います。
 ここで思い出すのが西尾維新の隠然たる影響力です。『俺ガイル』への影響は明らかですが、『私モテ』にも「人間強度」という言葉が出てきて、多少は影響しているのではないかと思います。
 西尾維新の青春群像劇らしい作品は『クビシメロマンチスト』と『君と僕の壊れた世界』、『化物語』でしょうか。『化物語』はSS形式で物語が進むという、当時においては実験的な作品だったのでさておきます。『君と僕の壊れた世界』は「セカイ系」「キミボク系」が揶揄されていた時期に書かれたもので、その流れで「キミ」「ボク」「セカイ」を題名にすべて入れたという皮肉な作品なのですが、困ったことに傑作です。おおむね主人公が逆説的な形で自分の世界に自閉して終わります。『クビシメロマンチスト』も同様です。
 西尾維新に影響を与えた上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』も青春群像劇ですが、『ブギーポップ』が各媒体でメディアミックスされているのに対し、西尾維新の『戯言』シリーズが長らくメディアミックスされなかったのも、この自己完結的な姿勢によるところが大きいでしょう。『ブギーポップ』は小説としての体裁がかなり整えられていて、そこも自己耽溺的な文体で進む『クビシメロマンチスト』とはちがいます。
 さて、こうした西尾維新ドストエフスキーめいた自意識過剰な主人公に対し、『俺ガイル』『私モテ』の主人公はその影響を受けています。しかし、自意識過剰による抑圧をふり払い、他人へと関りあいます。これが青春群像劇への移行です。
 それは大変なカタルシスをもたらします。…しかし、そのカタルシスのあとに訪れるのはただの複数名が同居する日常です。フィクションで閉じた人間関係をシリーズ化すると、内容はないのにひたすら筋書きが複雑化するだけだということは、エリック・ロメール監督作品とアメコミ映画がいい手本です。一面においては、それが青春群像劇の限界なのかもしれません。

異聞帯とは何か - ホームズ、クトゥルフ、天才と凡人 -

 『FGO』第1部はマシュの短命さがわかったところで主題がはっきりしたと思う。つまり、人間が愚行の歴史を歩み、生きる意味とは何かということだ。有体にいえば実存主義だ。その点、その主題は終章に先立ち、第6章で決着している。
 さて、第2部も第1章でおおよその主題が推測できたので、ここに記す。

 第2部の主題は虚構(フィクション)だろう。ホームズが異聞帯のことを「テクスト」と言っていたこと、また、それぞれの異聞帯がフィクション的な存在であるからだ。
 さらに、ホームズが狂言回しを務めることからも言える。シャーロック・ホームズと『ホームズ』シリーズはフィクション論の代表だ。三浦俊彦は『虚構世界の存在論』で、その理由として、リアルな物語なので虚構と実在の対象との関係を考えやすいこと、文体が平明なので修辞やナンセンスなどの煩瑣な問題にわずらわされないこと、ワトソンというある程度の次元において信頼できない語り手がいること、続編や外伝が豊富で物語のあいだのキャラクターの同定の問題をふくんでいることを挙げている。
 第2部の前章に当たる1.5部もフィクション論を使用している。新宿編はまさにフィクションが主題だ。セイレムはすべてが偽りの村の物語だった。終盤は駆足だったが… クライマックスでラヴィニアはアビゲイルに「嘘でもよかった」と言う。
 世相においてもフィクション論への注目は高まっている。伊藤計劃円城塔の共著『屍者の帝国』をはじめとし、ホームズ・パスティーシュが盛りあがり、2017年10月発売の『現代存在論講義Ⅱ』は「虚構的対象」に1章を割いた。

 さて、第2部の主題が虚構だとすると、それぞれの異聞帯は存在論とフィクション論における「可能世界」の比喩であるように思う。
 飯田隆言語哲学大全Ⅲ』は、分析哲学に革新をもたらしたクリプキの可能世界意味論は、以下の特徴をもつとしている。
 1.様相論理の式の真理性は、各可能世界で決まる。よって、「真理」とは現実世界における真理である。
 2.各可能世界の間には「到達可能性」がある。つまり、ある可能世界で真であるすべてのことが、他の可能世界で可能である。
 3.様相論理における量化について、多くの理論的選択肢を設定できる。
 飯田は、ルイスの具体的存在としての可能世界を仮定する可能世界意味論と、スタルネイカーの様相的性質としての可能世界を仮定する可能世界意味論の2つを検討している。
 さて、これはあくまで様相論理の課題を解決するためのものだ。しかし、可能世界という理論は虚構的対象の研究に使用されることとなった。ここでは、現実世界も各可能世界と同等であるということだけ確認しておこう。これこそ、第1章で藤原立香が苦悩したことだ。
 無論、プレイヤーからすれば『FGO』における現実世界もまたフィクションなのだが、『FGO』はメタ=フィクションではないので、そこはただの現実世界の比喩と考える。
 三浦俊彦は『虚構世界の存在論』で虚構的対象について、いくつかの可能世界意味論の立場を概説している。やはりルイスとスタルネイカーのものが有力だ。ルイスはホームズを例に、虚構的対象を各可能世界に存在する対象の集合としている。スタルネイカーはやはりホームズを例とする虚構的対象を、各可能世界における対象を指示する関数としている。

 各クリプターが各異聞帯=可能世界を司っているわけだが、それら異聞帯はクトゥルフ神話の宇宙的恐怖によって与えられたものらしい。
 クトゥルフ神話は思弁的実在論の論者がしばしば引用するらしい。わたしは岡和田晃の『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』で概説されたものを読んだだけだが、このブログ記事が詳しい(

哲学のホラー――思弁的実在論とその周辺 - 仲山ひふみの日記

)と思う。
 カンタン・メイヤスーは『有限性の後で』でカントの超越論的な存在論が「物自体は存在する」「物自体は無矛盾である」という2つの仮定をおいていることを批判し、果てなき思考を根拠とする存在論を提唱している。これが思弁的実在論だ。そうした存在論にとって、人間中心主義を否定するラヴクラフトのホラー小説は、超越論的主観性に対するプロパガンダの旗印に好都合なのだろう。
 この思弁的実在論は無限の偶然性を仮定しているため、可能世界意味論と相性がいいだろう。
 宇宙的恐怖の与える思弁的実在論による基盤と、そこから派生した7つの可能世界という構図が第2部の世界観だと推測する。

 と、ここまで可能世界意味論と思弁的実在論について書いてきたが、これはあくまでSF的なギミックであり、『FGO』第2部の主題とは完全に反するものだとわたしは考えている。
 可能世界意味論によるフィクション論への批判は、蓮實重彦が『「ボヴァリー夫人」論』で端的に言っている。
「これは、すでに書いた『フィクションの世界』のトマス・パヴェルなどに代表される「可能世界」論的な視点からフィクションを語る論者に多く見られる視点だが、「現実世界」と「フィクション的世界」といった対立を想像することじたいが、どこかしらすでにフィクションめいた振る舞いだと指摘したい誘惑にかられもする。」(p.535)

 そう、そもそも『FGO』自体がフィクションなのだ。

 可能世界意味論はそもそも唯名論に対する実在論(以下、思弁的実在論と紛らわしいので概念論とする)だが、奈須きのこは完全に唯名論者だろう。
 記号について、ただの記号だとするのが唯名論、それに対応する概念が伴なうとするのが概念論だ。
 『Fate/stay night』と『FGO』で奈須きのこがたびたび使用している贋物が本物になることもあるという言説は、概念論では成立しない。概念論では、贋物はどれほど優れていたところで贋物だ。そして、フィクションもまた贋物である。奈須きのこはフィクションの作家だ。
 また、ウンベルト・エーコ蓮實重彦など、記号論者がしばしば遊戯的で洒脱な小説を書くことを思いおこされたい。
 さらに、奈須きのこ新本格推理小説の愛好家だ。『空の境界』と新本格ムーブメントをつくった講談社文芸第三部の関係はいまさら言うまでもないし、『FGO』の新宿編は本格推理小説のマニアらしいところをみせている。新本格は本格推理小説ルネッサンスだ。
 殊能将之は『殊能将之読書日記』でジョン・ディクスン・カーを模作したフランスの推理小説家、ポール・アルテの小説を通じて、その「ニセモノ性」こそが推理小説の根底だと言っている。たとえエラリー・クイーンのマニアが小説を書いても、20世紀のニューヨークを舞台にしようなどとは考えない、しかし、カーのマニアが小説を書くと、フランス人でも19世紀のイギリスを舞台にしたくなる。それが「ニセモノ性」だ。なお、殊能将之はこの洞察を『キマイラの新しい城』で推理小説に昇華している。
 『FGO』を例にいえば、メソポタミア文明や90年代新宿、江戸時代の下総や、元日の江戸、こうした舞台を洒脱に装ってみせること。これこそ「ニセモノ性」なのだ。
 また「ニセモノ性」は衒学でもある。『空の境界』の『痛覚残留』で浅上藤乃の病状について話しているとき、橙子さんが文脈に関係なく鎮静剤について辞書的な引用をするところを思いおこされたい。
 また、そもそも推理小説はカント主義の合理性がなければ成立しない。カント主義を否定する概念論とは対立する。

 ついでながら、奈須きのこの性格は唯名論者らしいと思う。唯名論者らしい性格とは何かというと、言峰綺礼のような性格のことだ。
 言峰は作者が明言するとおり悪人ではない。『Fate/zero』では他人の苦痛に愉悦を感じているが、作者が異なることに注意されたい。ただ無感動なだけなのだ。利己心がなく、理性によってのみ行動するという意味で、まさに聖職者でもある。
 さて、サルトルの『家の馬鹿息子』によると、愚鈍にも2種類ある。ただの愚鈍と、愚鈍であることを自覚し、それでも行動する愚鈍だ。『家の馬鹿息子』は『ボヴァリー夫人』の作者としてのフローベールを論じたものだが、この場合、愚鈍とは紋切型を内面化していることだ。サルトルフローベールの生きた当時の紋切型を色々と挙げているが、いまでいうなら「尊い」や「そういうとこだぞ」などだろうか。こうした紋切型に嫌悪感を抱いていたとしても、人が行動するときにはかならず紋切型を基準にしている。このことに耐えた上で行動するのが後者の愚鈍であり、フローベールは『ボヴァリー夫人』が紋切型を連ねていることを自覚しつつ、それに耐えてテクストを書いていったということだ。
 それは紋切型を記号として知覚していなければできないことであり、そうでないとき、だいたいその紋切型はその個人の価値判断と直結している。これをサルトルは『存在と無』で「卑劣漢(サロー)」といい、批評家は通俗といい、日常的にはバカという。
 こうした紋切型を自覚している作家としてわかりやすい例が木多泰昭だろう。『喧嘩稼業』の「『よく頑張った』『勇気を貰いました』『私たちのためにありがとう』――と頭のおかしいヤツらに言わせてあげられるような」という台詞を思いおこしてもらいたい。
 木多泰昭は不謹慎でブラックなギャグを多々かますが、同時に紋切型の危険を冒し、感動的な場面をも描写する。有体にいえば皮肉屋なのだ。
 やや長くなったが、言峰綺礼の人格を理解する一助となれば幸いだ。無感動だがけっして悪人ではなく、生来の性格と、理性的なために物事が平板にみえているだけだ。そして、できれば善行をしたいと思っている。
 そして、これが唯名論者らしい性格で、奈須きのこの性格だと考える。皮肉は推理小説のつねだ。エーコ推理小説好きは有名だろう。
 ちなみに、バカと言ったが、かならずしも悪い意味ではない。
 『Fate/stay night』では図らずも唯名論者らしい性格の2人が対決するラストになったが、言峰綺礼と真逆の性格は藤原立香だ。『FGO』第2部では言峰綺礼と藤原立香が対決することもあるかもしれない。

 第2部第1章の主題の1つは天才と凡人だ。サリエリとカドックがその象徴だ。ついでながら、クリプターで藤原立香に対し対抗意識をもっていて、いわば救世主願望をもっていたのはカドックだけだ。この点は誤解されがちだと思う。クリプターたちは埋葬機関のような人格破綻者の集まりだ。人類救済の栄誉などという通俗的な名誉欲は薄いだろう。さらについでながら、わたしはクリプターたちに死産となった埋葬機関の設定を流用していると思っている。
 さて、蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で、あらゆる人間は凡人だと断言している。
 なお、ホームズとダ・ヴィンチは天才だが、あくまでフィクションとしての存在であり、また傍に凡人がいなければ天才としてのアイデンティティは成立しない。ただし、奈須きのこの世界では蒼崎橙子といい、天才は推理小説における名探偵と同様の、超越論的主観性に対する超越的な存在であることは付言しておく。
 凡人とは愚鈍だ。だが、愚鈍にもただの愚鈍と、愚鈍であることを自覚し、なお行動する愚鈍がいる。サリエリとカドックは後者でいることを選択した。そしてこれは、フィクションとしてのテクストを書くことの営為でもある。
 このことからも、第2部の主題が唯名論的な立場によるフィクション論となることが予想できるだろう。

劇場版『名探偵コナン』全21作レビュー

 いまさら劇場版『名探偵コナン』をみようと思う人間に、どの作品が好適か教えることなどできないし、そもそも自分は他人に合わせるのが苦手だ。だから、このブログ記事では未視聴者に配慮して物語の核心を伏せることなどはしないが、要約したプロットを併記したりもしない。劇場版『名探偵コナン』全21作をみている人間のための暇潰しだ。
 ちなみに、気紛れか話題合わせか、いまさら劇場版『名探偵コナン』をみようなどと思う人間にあえて数本を薦めるとしたら、「第1作から第7作まで」と言うだろう。いまさら『007』シリーズをみようとする人間のために数本を選ぶとしたら、あれこれ抜粋するより、ショーン・コネリーの初代ジェームズ・ボンドのシリーズを丸ごとみせるようなものだ。人気のシリーズというものは、オリジナルが完成した時点で、もうだいたい要素が出尽くしている。あとは細部での差異化と、無限の自己言及があるだけだ。そういう差異化と自己言及を喜ぶ集団をファンダムと言う。わたしにとっては退屈だ。なぜ第7作までなのかは、後述を参考されたい。

 

・第1作『時計じかけの摩天楼』

 初代にして傑作。このことも後述するが、今作がこれほど成功しなければ、劇場版のこれほどのシリーズ化も、おそらくは原作の長期化もなかっただろうと思うと罪深い。
 白眉は犯人の異常な動機。「森谷帝二」という名前が「モリアーティー」とかけつつ伏線になっているのがうまい。しかも、爆破で死者がでていると仮定すると、黒の組織の構成員をふくめても単独犯としては『名探偵コナン』史上、最大の殺人犯ではないだろうか。
 『スピード』… というより、その原典の『新幹線大爆発』をオマージュした山手線(東都環状線)のシークエンスが迫力あっていい。しかし、一本あたり数百人の乗客の命がかかっている推理が、「××の×」が「線路の間」だというのは不確かすぎる。
 今作から劇場版『名探偵コナン』では爆発シーンが恒例化して、爆発したあとはとくに説明もなく遣りすごされるが、今作はきちんとあらかじめプラスチック爆薬200kgが盗まれたという説明がされている。犯人は建築士だし。
 今作から第7作までこだま兼嗣が監督を務めるが、きっちり演出されたライティングなど、いい意味でフィルム時代の映画らしくてよい。

・「俺は高校生探偵、工藤新一」
・連続殺人犯(今作では連続爆破犯)との対決
・クライマックスの爆破シーン
・「新一ィー!」「らァーん!」
・異常な動機
・犯人を追いつめたあとの「うつむーくー そのせーなーかに」
・実写ED

 というテンプレート(第1作である今作においてはテンプレートではないのだが)ができる。

 

・第2作『14番目の標的

 あまり面白くない… コナンの関係者が名前にはいっている数字の順番どおりに次々と狙われ、最後の標的が「工藤新一」だというのがコンセプトだが、英理、阿笠博士、目暮警部と次々に襲撃されているわりに緊迫感がない。このサスペンス性の問題は『瞳の中の暗殺者』で解決されている。脚本の都合で目暮警部の名前が「十三」になった。阿笠博士の「士」を分解すれば「十一」になるというのも強引だが。海中施設崩壊まで、面白い場面がヘリコプター墜落くらいしかない。
 しかし、海中施設崩壊からは海洋アドベンチャーの性格を帯びてそれなりにみれる。上述のとおり、第2作でいきなりただのソムリエが何の説明もなく海中施設を崩壊させるだけの爆弾を設置したことになっている。小学生のときみていて、面倒で不確実な連続殺人への偽装より、直接、目的の人物を爆殺した方がはやくないかと思った。
 第1作に輪をかけて異常な動機で、もはや伝説。
 しかし、今作の最大の見場はクライマックスの360度連続ショットで、セル画時代にこの映像をつくっただけで素晴らしい。シナリオとの一体性としても、なぜ小五郎が刑事を辞職したのか、なぜ英理と離婚したのかという本編未出の謎に、刑事時代、小五郎が英理を誤射したからという事実を与え、その理由を解明するというもので申分ない。
 第1作の「赤い糸」といい、今作の「A(キス)」といい、古内一成が劇場版にあたって映画らしくトレンディドラマのクリシェを使っていることが面白い。

・「俺は高校生探偵、工藤新一」
・博士の新発明(伏線)
・博士のクイズ
・連続殺人犯との対決
・クライマックスの爆破シーン
・「しん… いち…?」(「新一ィー!」「らァーん!」)
・「ハワイで親父に習ったんだ」
・異常な動機
・犯人を追いつめたあとの「うつむーくー そのせーなーかに」
・実写ED

 のテンプレートが完成。

 

・第3作『世紀末の魔術師』

 面白い。劇場版第3作にして、初の怪盗キッド編で、劇場版スタッフがマンネリズム防止に気を遣っていたことがわかる。怪盗キッドとの対決、ロマノフ王朝の謎、連続殺人のコンセプトがあり、後半が冒険アドベンチャーのジャンル性をもつことで構成も十分。ヒロイン役の香坂夏美がなかなかかわいい。後の『戦慄の楽譜』ではボンドガールめいたわかりやすいヒロイン役がいたが、それよりはるかに成功している。
 犯人が国際手配中のロマノフ王朝の財宝を狙う暗殺者、スコーピオンということで、異常な動機の要素は一時休止したかにみえるが、未遂に終わったとはいえ「ラスプーチンの悪口を言ったから」というしょうもない理由で小五郎を殺そうとしている。というか、それが動機だとわかったコナンもすごい。
 「犯人がかならず右目を撃つ暗殺者だからメガネのレンズを防弾ガラスに換えておいた」というのは、劇場版『名探偵コナン』の阿笠博士の発明でも傑出している。そこに至るあらかじめ装填しておけば弾倉に加えてもう1発、装弾できるという流れも素晴らしい。まあ、仮に防弾だったとして入射角45度でもベクトル分解で力は1/2、弾が当たらなくても無事ではすまないだろうが… しかも弾を正面から受けてたし。

 ラストの新一に変装したキッドが現れるシークエンスが素晴らしい。

 

・第4作『瞳の中の暗殺者』

 面白い。警視庁の刑事が次々に殺されて、全員が実は過去の捜査チームの構成員だった、そしてその1人である佐藤刑事もまた凶弾に倒れ… という物語。レギュラーメンバーである警視庁の刑事たちが口々に「Need not to know」と言い、部内での解決を目論み、犯人を目撃したはずの蘭は佐藤刑事が撃たれる原因をつくってしまったことから記憶喪失に陥る、という劇場版『名探偵コナン』随一の重い雰囲気。
 犯人も意外性がありいいのだが、「犯人は左利き」という話が出たあとで左手で電話をかけはじめるものだから、小学生の時分、みていて呆然とした。
 秀作だが構成に難があり、このようなコンセプトでアクションを入れようとしたために、後半でコナンと蘭が犯人と遊園地で逃走劇をするという、やや無理のあるものになっている。このため、この後半に「ジェットコースターをスケボーで滑るコナン」や、「モーターボートで逃げるとモーターボートで追ってくる犯人」「その犯人から逃れるため、決死で滝を飛びおりるとまた滝を飛びおりる犯人」などの無茶な場面が多々ある。犯人もハワイにいっていたのだろうか。
 しかし、噴水で記憶を取りもどさせるコンセプトはいい。

 

・第5作『天国へのカウントダウン

 傑作です。傑作。劇場版『名探偵コナン』の最高傑作。
 封切のときはついに黒の組織の謎が明らかになるという宣伝文句だった。予想されていたとおり、たいして明らかにはならなかったのだが。
 今作が傑出しているのは「高層ビル火災」というジャンル映画と推理映画が見事な形で合体したこと。いわば劇場版『名探偵コナン』の理想だ。ジャンル映画と推理映画という劇場版『名探偵コナン』の両面が、これほど高い結構性をもったのは今作だけだ。
 例によってというか、5作連続で異常な動機なのだが、今作ではワイダニットとして高い完成度をもつ。そして、それが高層ビル火災というジャンル性に合体している。ついでにいえば、爆発シーンも、黒の組織が爆弾をしかけたということになっているので、さほど無理はない。
 メインテーマの編曲も、金管の吹鳴するシンフォニックなもので、今作が一番かっこいいと思う。鐘が鳴ってタイトルの現れる3Dのオープニングも素晴らしい。
 爆風で飛距離を伸ばすというハイ・コンセプトは出来がよすぎてさまざまなエピゴーネンを生んだ。そこを中心とした、正確なカウントダウンが必要で、灰原が自己犠牲しようとするという一連の流れも見事。
 ただ難をいえば、蘭との脱出に加えて、少年探偵団との脱出をするために、一度降りたビルをふたたび昇るというやや無駄のある構成になっている。この昇るときのエレベーターの階数表示が「天国へのカウントダウン」になっているのだが、それでもだ。

 

・第6作『ベイカー街の亡霊』

 面白い。脚本が野沢尚。親子の呪縛と日本論および体制批判という、野沢尚好きなら明らかな本人の常例なのだが、完璧に劇場版『名探偵コナン』になっている。ホームズとワトソンがロンドンに不在なのも『バスカヴィル家の犬』事件の最中だからだったり、モリアーティー教授がカメオ出演したり、シャーロキアン要素も十分。ホームズ・パスティーシュとしての切り裂きジャック事件と、現実の切り裂きジャック事件の調査が平行する構成もしっかりしている。
 「切り裂きジャックに血まみれに……」という伏線も見事。

 

・第7作『迷宮の十字路』

 京都編。爆発しない義経記の登場人物の名前を暗号名にする古美術窃盗団の構成員が次々と殺されているという筋書き。そこに平次と和葉のラブコメも絡んでくる。今作以後、劇場版の準レギュラーメンバーとなる綾小路警部が登場。
 メインテーマの編曲も和風で、オープニングでは小鼓が鳴る。
 地味だが、全体的に風雅でよい。恒例の異常な動機は「おれは義経になりたかったんや!」というもので、(複雑な心理をそう端的に表現したのだろうが)「おっちゃん、小学生じゃないんだから」と言いたくなる。しかし、それを受けての平次のセリフはまさに名ゼリフだ。
 和葉が小石を入れた靴下をブラックジャックにしていたが、映画史をとおしてそんな野蛮なことをしているのは他に『HANA-BI』の北野武くらいだ。
 ラストの綾小路警部に対する歩美の発言が爆笑もの。

 

・第8作『銀翼の奇術師』

 つまらない。劇場版『名探偵コナン』で初の凡作だが、シリーズ全体を通してもつまらない方。

 第1作が原点、第2作がコナンの関係者が被害者の事件、第3作が怪盗キッド編、第4作が警視庁編、第5作が黒の組織(灰原)編、第6作がホームズ・パスティーシュ、第7作が平次(京都)編と、マンネリズム防止につねに新規のコンセプトを使用してきた劇場版『名探偵コナン』だが、ここにきて2度目の怪盗キッド編だ。つまり、オリジナルが完成した。以降は新規性もなく、オリジナルの細部の変化に留まるだろう。もっとも、差異化と自己言及でいえば、わたしはアメコミ映画の自己言及を下らないと思っているので、限界を自覚しつつ、その中で最大のエンターテイメントを目指す差異化の方が好きだ。だって、アメコミ映画とは何なのか? と問われたって、「もろもろの会社の営業」以上に正確な答えはない。

 

・第9作『水平線上の陰謀』

 ご存じのとおり、映像作品ならではのどんでん返しがあるのだが、封切のときに宣伝でミステリー要素を過剰に強調しすぎていたため、引っかからなかったひとが多いのではないか。
 それよりも、小五郎の活躍という特徴が魅力。

 

・第10作『探偵たちの鎮魂歌』

 つまらない。劇場版10周年記念作品ということで視聴者サービスが多いが、劇場版というより雑誌の読者応募全員サービスのOVAのような作品。ただ、本当は探偵なんて必要なかったというメタミステリーっぽいオチは好きだ。

 

・第11作『紺碧の棺』

 つまらない。ファンダムでも『戦慄の楽譜』と今作のどちらかが劇場版『名探偵コナン』史上最低という定評がある。わたしは今作だと思う。

 

・第12作『戦慄の楽譜

 つまらない。上述したとおりボンドガール的なヒロイン役がいるが、べつに成功していない。

 

・第13作『漆黒の追跡者』

 黒の組織編。公開時、第11、12作と凡作が続いたので、黒の組織が出てくるのはテコ入れだろうという観測があった。そこそこ面白い。例によってとくに黒の組織の真相が明らかになるということはない。
 今作で特筆すべきなのは、ついに蘭が銃弾を避けるようになったこと。字義どおりの意味である。
 全国都道府県警察の幹部の中に黒の組織の構成員がいるという脚本上の都合で、山村刑事が警部に昇進している。黒の組織より、よほど日本の危機だと思う。作中においていえば、コナンがたびたび山村刑事を探偵役に仕立てたためだろう。おそらくはコナンの推理がもたらした唯一の弊害だ。

 

・第14作『天空の難破船

 面白い。上述したように、第8作以降はマンネリズムとの戦いを放棄しているのだが、今作は怪盗キッド編と平次編を足すことで、量によって質を補っている。スタッフにも自覚があるらしく、作中にそのまま「そりゃ豪勢やのう。豚イカタコそばのミックスモダン焼きみたいなもんやな」というセリフがある。『銀翼の奇術師』と同じ上空の密室だが、次々に乗員乗客が犯行グループの一員だとわかっていく構成で、サスペンス性も保たれている。
 コナンがスケボー1つで完全に武装した特殊部隊1個小隊を全滅させている。劇場版『名探偵コナン』のオープニングの「頼れるボディガードだ」のところで「おまえにボディガードはいらないだろ」と言いたくなる。

 

・第15作『沈黙の15分

 つまらない。冒頭に数少ない見場で地下鉄の爆破があるが、シナリオ全体には関わらない。あとはどうでもいい田舎の若者たちの内輪揉めが続くだけ。彼らの悩みは東京に出れば半年でなくなると思う。

 

・第16作『11人目のストライカー

 つまらない。現役サッカー選手がアフレコしていて、その棒読みが意図しない面白さを出している。

 

・第17作『絶海の探偵』

 つまらなくはない。ただ大半の観客は、序盤で電波時計が出てきて、それが終盤で活躍したときやはり脱力したのではないかと思う。
 脚本が櫻井武晴らしく社会性がある… というより時事ネタを使っている。
 防衛省全面協力だからか護衛艦が爆発しなかったのは、劇場版『名探偵コナン』ファンとして涙をのんだ。
 蘭が北朝鮮工作員を格闘戦で倒している。

 

・第18作『異次元の狙撃手』

 そこそこ面白い。しかし、推理映画の要素が五芒星の暗号だけなのは物足りない。
 FBI編で、赤井・世良編。

 

・第19作『業火の向日葵』

 つまらない。原作同様、劇場版『名探偵コナン』の怪盗キッド編は外れと言われても仕方ないのではないか。

 

・第20作『純黒の悪夢

 そこそこ面白い。キュラソーというキャラクターの物語の映画としてそこそこ面白いが、推理映画の要素を完全に排除したのは物足りなくもある。
 『漆黒の追跡者』で東京タワーに武装ヘリからガトリング砲を乱射するジンさんも相当バカっぽかったが、今作の、オスプレイでスイッチを連打(カチッ、カチカチカチ)させて爆弾が解体されたことに気づいた挙句、何事もなかったかのようにキメ顔で「浴びせてやれ、弾丸の雨を!」とポエムで指示を出すジンさんは完全にアホだ。武装ヘリに続いてオスプレイも撃墜されてるし… たぶんジンさんはコナンと灰原の手がかりを掴んだメンバーばかり殺すので、業を煮やした「あの人」に「骨格・筋肉・内臓・体毛を除く神経組織の細胞が幼児期のころまで後退する神秘的な毒薬」でも飲まされたのだろう。

 

・第21作『から紅の恋歌

 そこそこ面白い。今作では爆発に裏社会の人間が関わっていたということで、一応の説明がされている。連続殺人とカルタ大会と平次および和葉のラブコメが関係していて、プロットは十分。ワイダニットもそこそこ工夫されている。

 

・第22作 -

 安室編らしい。最近の正義とか真実とかいう言葉の出てくるフィクションは、何となく早慶MARCHっぽいチャラい感じがして好きではないのだが、脚本が櫻井武晴だから大丈夫だろう。

 

 東宝は年間目標として興行収入500億円を掲げており、2016年の854億円は史上初、700億円超は史上6回目となる。その主因は「君の名は。」243億円(当時)と「シン・ゴジラ」82億円で、この2作を除外すれば529億円となる。
 「純黒の悪夢」は63億円で、本作を除けばもちろん年間目標は達成できない(466億円)。
 「君の名は。」「シン・ゴジラ」に続く年間邦画興行収入第3位で、当然、これはそのまま東宝興行収入の順位でもある。
 そもそも、"アニメーション映画が大きな柱である東宝の16年は、「君の名は。」以外にも、「名探偵コナン 純黒の悪夢」(シリーズ新記録)、「映画妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!」、「映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生」、「ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ」、「映画 クレヨンしんちゃん 爆睡! ユメミーワールド大突撃」、「ルドルフとイッパイアッテナ」などが成果を上げている。"(『キネマ旬報』2016年3月下旬号)で、「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「名探偵コナン」「ポケモン」「妖怪ウォッチ」の5シリーズは欠くわけにはいかない。
 ステークホルダーが増えすぎ、もはや作者はおろか、作者と出版社の合意が取れてさえ完結させることはできまい。「あの人」の正体が明らかになって長期休載に入ったのは、そういう事情もあってのことではないかと思う。