異聞帯とは何か - ホームズ、クトゥルフ、天才と凡人 -

 『FGO』第1部はマシュの短命さがわかったところで主題がはっきりしたと思う。つまり、人間が愚行の歴史を歩み、生きる意味とは何かということだ。有体にいえば実存主義だ。その点、その主題は終章に先立ち、第6章で決着している。
 さて、第2部も第1章でおおよその主題が推測できたので、ここに記す。

 第2部の主題は虚構(フィクション)だろう。ホームズが異聞帯のことを「テクスト」と言っていたこと、また、それぞれの異聞帯がフィクション的な存在であるからだ。
 さらに、ホームズが狂言回しを務めることからも言える。シャーロック・ホームズと『ホームズ』シリーズはフィクション論の代表だ。三浦俊彦は『虚構世界の存在論』で、その理由として、リアルな物語なので虚構と実在の対象との関係を考えやすいこと、文体が平明なので修辞やナンセンスなどの煩瑣な問題にわずらわされないこと、ワトソンというある程度の次元において信頼できない語り手がいること、続編や外伝が豊富で物語のあいだのキャラクターの同定の問題をふくんでいることを挙げている。
 第2部の前章に当たる1.5部もフィクション論を使用している。新宿編はまさにフィクションが主題だ。セイレムはすべてが偽りの村の物語だった。終盤は駆足だったが… クライマックスでラヴィニアはアビゲイルに「嘘でもよかった」と言う。
 世相においてもフィクション論への注目は高まっている。伊藤計劃円城塔の共著『屍者の帝国』をはじめとし、ホームズ・パスティーシュが盛りあがり、2017年10月発売の『現代存在論講義Ⅱ』は「虚構的対象」に1章を割いた。

 さて、第2部の主題が虚構だとすると、それぞれの異聞帯は存在論とフィクション論における「可能世界」の比喩であるように思う。
 飯田隆言語哲学大全Ⅲ』は、分析哲学に革新をもたらしたクリプキの可能世界意味論は、以下の特徴をもつとしている。
 1.様相論理の式の真理性は、各可能世界で決まる。よって、「真理」とは現実世界における真理である。
 2.各可能世界の間には「到達可能性」がある。つまり、ある可能世界で真であるすべてのことが、他の可能世界で可能である。
 3.様相論理における量化について、多くの理論的選択肢を設定できる。
 飯田は、ルイスの具体的存在としての可能世界を仮定する可能世界意味論と、スタルネイカーの様相的性質としての可能世界を仮定する可能世界意味論の2つを検討している。
 さて、これはあくまで様相論理の課題を解決するためのものだ。しかし、可能世界という理論は虚構的対象の研究に使用されることとなった。ここでは、現実世界も各可能世界と同等であるということだけ確認しておこう。これこそ、第1章で藤原立香が苦悩したことだ。
 無論、プレイヤーからすれば『FGO』における現実世界もまたフィクションなのだが、『FGO』はメタ=フィクションではないので、そこはただの現実世界の比喩と考える。
 三浦俊彦は『虚構世界の存在論』で虚構的対象について、いくつかの可能世界意味論の立場を概説している。やはりルイスとスタルネイカーのものが有力だ。ルイスはホームズを例に、虚構的対象を各可能世界に存在する対象の集合としている。スタルネイカーはやはりホームズを例とする虚構的対象を、各可能世界における対象を指示する関数としている。

 各クリプターが各異聞帯=可能世界を司っているわけだが、それら異聞帯はクトゥルフ神話の宇宙的恐怖によって与えられたものらしい。
 クトゥルフ神話は思弁的実在論の論者がしばしば引用するらしい。わたしは岡和田晃の『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』で概説されたものを読んだだけだが、このブログ記事が詳しい(

哲学のホラー――思弁的実在論とその周辺 - 仲山ひふみの日記

)と思う。
 カンタン・メイヤスーは『有限性の後で』でカントの超越論的な存在論が「物自体は存在する」「物自体は無矛盾である」という2つの仮定をおいていることを批判し、果てなき思考を根拠とする存在論を提唱している。これが思弁的実在論だ。そうした存在論にとって、人間中心主義を否定するラヴクラフトのホラー小説は、超越論的主観性に対するプロパガンダの旗印に好都合なのだろう。
 この思弁的実在論は無限の偶然性を仮定しているため、可能世界意味論と相性がいいだろう。
 宇宙的恐怖の与える思弁的実在論による基盤と、そこから派生した7つの可能世界という構図が第2部の世界観だと推測する。

 と、ここまで可能世界意味論と思弁的実在論について書いてきたが、これはあくまでSF的なギミックであり、『FGO』第2部の主題とは完全に反するものだとわたしは考えている。
 可能世界意味論によるフィクション論への批判は、蓮實重彦が『「ボヴァリー夫人」論』で端的に言っている。
「これは、すでに書いた『フィクションの世界』のトマス・パヴェルなどに代表される「可能世界」論的な視点からフィクションを語る論者に多く見られる視点だが、「現実世界」と「フィクション的世界」といった対立を想像することじたいが、どこかしらすでにフィクションめいた振る舞いだと指摘したい誘惑にかられもする。」(p.535)

 そう、そもそも『FGO』自体がフィクションなのだ。

 可能世界意味論はそもそも唯名論に対する実在論(以下、思弁的実在論と紛らわしいので概念論とする)だが、奈須きのこは完全に唯名論者だろう。
 記号について、ただの記号だとするのが唯名論、それに対応する概念が伴なうとするのが概念論だ。
 『Fate/stay night』と『FGO』で奈須きのこがたびたび使用している贋物が本物になることもあるという言説は、概念論では成立しない。概念論では、贋物はどれほど優れていたところで贋物だ。そして、フィクションもまた贋物である。奈須きのこはフィクションの作家だ。
 また、ウンベルト・エーコ蓮實重彦など、記号論者がしばしば遊戯的で洒脱な小説を書くことを思いおこされたい。
 さらに、奈須きのこ新本格推理小説の愛好家だ。『空の境界』と新本格ムーブメントをつくった講談社文芸第三部の関係はいまさら言うまでもないし、『FGO』の新宿編は本格推理小説のマニアらしいところをみせている。新本格は本格推理小説ルネッサンスだ。
 殊能将之は『殊能将之読書日記』でジョン・ディクスン・カーを模作したフランスの推理小説家、ポール・アルテの小説を通じて、その「ニセモノ性」こそが推理小説の根底だと言っている。たとえエラリー・クイーンのマニアが小説を書いても、20世紀のニューヨークを舞台にしようなどとは考えない、しかし、カーのマニアが小説を書くと、フランス人でも19世紀のイギリスを舞台にしたくなる。それが「ニセモノ性」だ。なお、殊能将之はこの洞察を『キマイラの新しい城』で推理小説に昇華している。
 『FGO』を例にいえば、メソポタミア文明や90年代新宿、江戸時代の下総や、元日の江戸、こうした舞台を洒脱に装ってみせること。これこそ「ニセモノ性」なのだ。
 また「ニセモノ性」は衒学でもある。『空の境界』の『痛覚残留』で浅上藤乃の病状について話しているとき、橙子さんが文脈に関係なく鎮静剤について辞書的な引用をするところを思いおこされたい。
 また、そもそも推理小説はカント主義の合理性がなければ成立しない。カント主義を否定する概念論とは対立する。

 ついでながら、奈須きのこの性格は唯名論者らしいと思う。唯名論者らしい性格とは何かというと、言峰綺礼のような性格のことだ。
 言峰は作者が明言するとおり悪人ではない。『Fate/zero』では他人の苦痛に愉悦を感じているが、作者が異なることに注意されたい。ただ無感動なだけなのだ。利己心がなく、理性によってのみ行動するという意味で、まさに聖職者でもある。
 さて、サルトルの『家の馬鹿息子』によると、愚鈍にも2種類ある。ただの愚鈍と、愚鈍であることを自覚し、それでも行動する愚鈍だ。『家の馬鹿息子』は『ボヴァリー夫人』の作者としてのフローベールを論じたものだが、この場合、愚鈍とは紋切型を内面化していることだ。サルトルフローベールの生きた当時の紋切型を色々と挙げているが、いまでいうなら「尊い」や「そういうとこだぞ」などだろうか。こうした紋切型に嫌悪感を抱いていたとしても、人が行動するときにはかならず紋切型を基準にしている。このことに耐えた上で行動するのが後者の愚鈍であり、フローベールは『ボヴァリー夫人』が紋切型を連ねていることを自覚しつつ、それに耐えてテクストを書いていったということだ。
 それは紋切型を記号として知覚していなければできないことであり、そうでないとき、だいたいその紋切型はその個人の価値判断と直結している。これをサルトルは『存在と無』で「卑劣漢(サロー)」といい、批評家は通俗といい、日常的にはバカという。
 こうした紋切型を自覚している作家としてわかりやすい例が木多泰昭だろう。『喧嘩稼業』の「『よく頑張った』『勇気を貰いました』『私たちのためにありがとう』――と頭のおかしいヤツらに言わせてあげられるような」という台詞を思いおこしてもらいたい。
 木多泰昭は不謹慎でブラックなギャグを多々かますが、同時に紋切型の危険を冒し、感動的な場面をも描写する。有体にいえば皮肉屋なのだ。
 やや長くなったが、言峰綺礼の人格を理解する一助となれば幸いだ。無感動だがけっして悪人ではなく、生来の性格と、理性的なために物事が平板にみえているだけだ。そして、できれば善行をしたいと思っている。
 そして、これが唯名論者らしい性格で、奈須きのこの性格だと考える。皮肉は推理小説のつねだ。エーコ推理小説好きは有名だろう。
 ちなみに、バカと言ったが、かならずしも悪い意味ではない。
 『Fate/stay night』では図らずも唯名論者らしい性格の2人が対決するラストになったが、言峰綺礼と真逆の性格は藤原立香だ。『FGO』第2部では言峰綺礼と藤原立香が対決することもあるかもしれない。

 第2部第1章の主題の1つは天才と凡人だ。サリエリとカドックがその象徴だ。ついでながら、クリプターで藤原立香に対し対抗意識をもっていて、いわば救世主願望をもっていたのはカドックだけだ。この点は誤解されがちだと思う。クリプターたちは埋葬機関のような人格破綻者の集まりだ。人類救済の栄誉などという通俗的な名誉欲は薄いだろう。さらについでながら、わたしはクリプターたちに死産となった埋葬機関の設定を流用していると思っている。
 さて、蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で、あらゆる人間は凡人だと断言している。
 なお、ホームズとダ・ヴィンチは天才だが、あくまでフィクションとしての存在であり、また傍に凡人がいなければ天才としてのアイデンティティは成立しない。ただし、奈須きのこの世界では蒼崎橙子といい、天才は推理小説における名探偵と同様の、超越論的主観性に対する超越的な存在であることは付言しておく。
 凡人とは愚鈍だ。だが、愚鈍にもただの愚鈍と、愚鈍であることを自覚し、なお行動する愚鈍がいる。サリエリとカドックは後者でいることを選択した。そしてこれは、フィクションとしてのテクストを書くことの営為でもある。
 このことからも、第2部の主題が唯名論的な立場によるフィクション論となることが予想できるだろう。