『俺ガイル』、『私モテ』、青春群像劇 - アンチテーゼとしての西尾維新 -

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』9巻までを読んだ。最新刊は12巻で、他に短編集が2巻あるのだが、ここで一区切りのようなので止める。せっかくなので感想を書く。

○1巻
 基本ギャグで最後に「ちょっといい話」がくるという、ごく普通のライトノベル。厭人家でいわゆる「ぼっち」の高校生、「比企谷八幡」が美少女で同じく友達のいない「雪ノ下雪乃」とともに校内のトラブルを解決していく。
 率直にいって(『僕は友達が少ない』+『化物語』)/2。主人公の「ぼっち」あるあるネタと一人称がわりと生々しく実感がこもっているのが独特。

雪ノ下雪乃:あらためて1巻を読みなおすとめちゃくちゃ多弁でビビる。9巻あたりの台詞なんて、ほとんど「そう…」とかだぞ。お前は沖田圭介か爆岡弾十郎か。正直にいって、1巻の時点では戦場ヶ原ひたぎの影響が濃い。

由比ヶ浜結衣:1~9巻にかけてほとんどブレがないのがすごい。

○2巻
 ライトノベルにありがちなことに2巻で迷走している。雪乃と結衣がものすごく無理のある流れでメイド服を着たり、いかにもライトノベルらしく巻数をあらためるに当たって美少女の新キャラを追加したりしている。

・川崎沙希
 川なんとかさん。空気キャラいじりはけっこう好きなのだが、形式上は2巻の新ヒロインなのに本当にいいところがなくて笑ってしまう。

○3巻
 "「ふむ。由比ヶ浜が部室に来なくなってからもう一週間か……。今の君たちなら自らの力でどうにかすると思っていたのだが……。まさかここまで重症だったとは。さすがだな」"(p.33)
 『俺ガイル』シリーズは主役3人の物語なのだが、1対1対1というより、八幡と雪乃、それに対する結衣という2対1関係だろう。かくして主役たちの物語が動きだし、シリーズとして面白くなってくる。

○4巻
 カースト上位組との合同合宿になり、青春群像劇としての色彩を帯びることになる。今巻はかなり面白いと思った。
 内容の変化に合わせて、イラストも1巻の5頭身から今巻で8頭身くらいになる。6巻では9頭身くらいになる。1巻の表紙では雪乃がお下げを結っていて、2巻でも「ツインテール」と地の文で形容されているのだが、内容に合わなくなってきたためか徐々にサイドテールになり、横髪に吸収されて、最終的にただのロングヘアとしてなかったことになったのが笑える。
 さて、青春群像劇とは何だろうか。蓮實重彦は『映画時評』の一編で「群像劇という退屈な言葉」といっていた。それを踏まえ、定義を正確にするなら「登場人物たちの動機や思想が対立しており、物語の終わりまで対立が解消することなく、かつ、それらにナラティブによる優劣がつけられることのないもの」となるだろうか。
 青春小説といえば、文学史的には数ある教養小説や『若きウェルテルの悩み』などが該当するだろうが、この場合はそぐわないように思う。個人的には、経済的に自立しておらず、かつ管理教育によって密な人間関係を形成していることが、いわゆる「青春小説」の要件であるように思う(ちなみにわたしは青春小説に興味がない)。
 群像劇なら経済小説や警察小説でも一般的だが、かかる理由で登場人物たちの動機がほぼ人間関係に向いていることが、いわゆる「青春群像劇」を独特のものたらしめているのではないだろうか。
 さて、かかる物語において、鶴見留美の救済で八幡が独特の解決をとったことが面白かった。葉山隼人が八幡に「嫌い」だといったのも、そうした理非や良否ではない対立を象徴している。ここで葉山と雪乃が幼馴染だったことが示されて、人間関係の縺れが示唆されるのも青春群像劇らしい。しかし雪乃が国語の学年順位が1位、八幡が3位で、じつは葉山が2位だったというのはさすがに後付けらしすぎると思う。

葉山隼人:1~3巻の気さくな好青年から、4~6巻の、性善説全体主義をとる八幡のアンチテーゼ(八幡は性悪説個人主義をとる)、7~9巻の翳をもつ青年と、キャラクターが変わりすぎだと思う。

・戸部:名脇役。「だべ」の語尾ひとつで成りあがった男。

○5巻
 青春群像劇の色彩をもっていて、ギャグが基調ながら、ところどころで緊張感が出てくるのがいい。わりと個人的なシリーズに求めていたものの理想です。

○6巻
 第1部完。八幡のルサンチマンが悪役を務めるという形で、いわば奴隷道徳から超人への道である君主道徳に転換することで決着する。有体にいえば「弱者の意地」をみせることで解決する。ちなみに、この悪役を買って出ることで自分の弱さを認めるというプロットは、『めだかボックス』の球磨川編を参考にしているのだろうと思います。西尾維新の作者への影響を考えるに、わりと妥当ではないかと。
 今巻で1巻から続く雪乃との思想対立も互いを認めあって決着する。つまり、1巻の「友達になろう」という約束が暗黙裡に果たされます。
 ちなみに、雪ノ下陽乃が雪乃にちょっかいを出すのも「妹を鍛えるため」という説明がされて解決します。まあ、続刊でまた理由が変わるのですが…
 とにもかくにも大団円です。正直、ここで完結していればと思わなくもないです。

〇7巻
 結衣が八幡と恋人になりたがっているのを、戸部の恋愛成就を妨害することで牽制します。ひたすら暗い。
 "「ちゃんと見ているから、いくらでもまちがえたまえ」"(p.174)。タイトルを回収する台詞っていいですよね。

・三浦優美子:我侭で自己中心的なクラスの女王。裏表がないところが数少ない長所。名脇役。ここで三浦の人格的に深いところをみせるのに、コンビニで雑誌の封を外して立読みするというクズ仕草をとらせてバランスをとっているのがプロらしいと思います。
 あと苗字と名前の規則ですが、わかりにくいですが「mi-u」「yu-mi」で回文になっているのではないかと。

 続刊ではパンツをみせてさらなる人気獲得を目指しています。ライトノベルにおいてパンツの登場回数と人気は比例するらしいですから…

・海老名姫菜:"「私、腐ってるから」"の台詞回しは巧いと思いました。「とどのつまり、海老名姫菜は腐っている?」の章題もそうですね。疑問符は要らないのではないかと。ただ、絶対に後付けですが。
 "「私、ヒキタニくんとならうまく付き合えるかもね」"の台詞はときめきました。傷があるとかわいくみえる法則を「電波ゲーのヒロインは魅力的にみえる理論」といいます。

〇7.5巻
 短編集。特筆することもなし。
 ついに三浦が表紙に。かわいい。1巻の時点では誰が予想できたでしょうか。

〇8巻
 かくなる流れで冒頭から主役3人がピリピリしています。そして訪れる奉仕部解散の危機。自己否定感から慰留に動くことができなかった八幡だが、「小町のため」という仮の動機を得て奉仕部存続に奔る。…が、待っていたのは表面上の付きあいという、かつてみずからが忌嫌った人間関係を演じる自分たちだった。
 さすがに2巻続けてのアンハッピー・エンドは予想しておらず気分が沈みました。
 というか、第1部から翻意して虚飾の人間関係を是とする八幡が受けいれがたいです。個人的には『俺ガイル』がテレビシリーズ化されるなど、そこそこのヒット作になったことで作者の渡航が精神的に保守的、微温的になり、第1部の青春を全否定する痛快さをとれなくなったのではないかと思います。第1部の流れだったら、7巻で葉山グループの人間関係を全壊させることで依頼を解決したはずですよね。ただいつものメンツで遊べればそれでいい三浦は別として、グループを存続させるために構成員の心情を封殺するのは本末転倒では。グループが壊れたなら、またはじめればいいじゃないですか…

〇9巻
 第2部完。総武高校と海浜幕張総合高校主催の地域の合同クリスマスイベントが企画される。生徒会長、一色いろはに依頼されて八幡は一人でその手伝いをする。そのことでただでさえ脆くなっていた奉仕部の人間関係は完全に瓦解する。しかし、八幡が心情を率直に話し、「本物がほしい」という依頼をしたことで奉仕部は復活。時間と予算のなかったクリスマスイベントも、キャンドルサービスという奇策で成功するのだった。
 すべての人間関係は偽物で本物などありはしないが、しかし本物を求める気持ちはまちがっていない、というありがちで無難妥当な心理主義の決着です。無難妥当ではありますが、個人的には偽物でもいいという微温主義が好きではないので微妙。本物が存在しないという否定と、だからといって偽物をよしとする妥協はまったく違うものでしょう。

一色いろはジェネリック奉仕部。雪乃の毒舌と結衣の調子のよさを併せもつ。しかも雪乃の毒舌と小気味のいい掛合いはすっかり遠のいていますしね… だから八幡が9巻で生徒会に軸足を移したとき「こいつマジでクズだな」と思いました。
 いいですね、いろは。八幡がまったく眼中にないので余計な心理的負担もなく軽快な掛合いもできます。
 "「責任、とってくださいね」"(p.365)。超かわいい。というか、これ『ビューティフル・ドリーマー』のラムちゃんの決めゼリフですよね…

雪ノ下陽乃:6巻で雪乃とその恋人未満である八幡にちょっかいを出すのは、妹である雪乃を鍛えるためという説明がされましたが、今巻ではたんに快楽原則に則っているだけということになっています。普通に怖い。その影響か、葉山の性格も変わっています。

 さて、以上で9巻までの感想です。
 ここで思い出すのが『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』です。本作も『俺ガイル』と同じく「ぼっち」を主役にしたギャグから10~12巻にかけて青春群像劇へと移行していきます。絵柄の変化もさほどではありませんが、ゆりの作画の変化や加藤さんのキャラクターデザインにやや表れています。
 いわゆる「陰キャ」のゆりの「黒木さんといると無理して喋らなくていいから楽でいいけど」という台詞や、いわゆる「パリピ」のネモのエピソードが青春群像劇らしいです。ついでに、もこっちの「ぼっち生活で鍛えたメンタルを舐めるなよ」という奮起も同じルサンチマンからの超人ですね。

 ただ、『私モテ』は現在、クレイジーサイコレズをギャグの基本にしたレズハーレムギャグ漫画になっています。それも悪くはありませんが、ただ12巻の青春群像劇の色調がなくなったことを惜しくも思います。
 ここで思い出すのが西尾維新の隠然たる影響力です。『俺ガイル』への影響は明らかですが、『私モテ』にも「人間強度」という言葉が出てきて、多少は影響しているのではないかと思います。
 西尾維新の青春群像劇らしい作品は『クビシメロマンチスト』と『君と僕の壊れた世界』、『化物語』でしょうか。『化物語』はSS形式で物語が進むという、当時においては実験的な作品だったのでさておきます。『君と僕の壊れた世界』は「セカイ系」「キミボク系」が揶揄されていた時期に書かれたもので、その流れで「キミ」「ボク」「セカイ」を題名にすべて入れたという皮肉な作品なのですが、困ったことに傑作です。おおむね主人公が逆説的な形で自分の世界に自閉して終わります。『クビシメロマンチスト』も同様です。
 西尾維新に影響を与えた上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』も青春群像劇ですが、『ブギーポップ』が各媒体でメディアミックスされているのに対し、西尾維新の『戯言』シリーズが長らくメディアミックスされなかったのも、この自己完結的な姿勢によるところが大きいでしょう。『ブギーポップ』は小説としての体裁がかなり整えられていて、そこも自己耽溺的な文体で進む『クビシメロマンチスト』とはちがいます。
 さて、こうした西尾維新ドストエフスキーめいた自意識過剰な主人公に対し、『俺ガイル』『私モテ』の主人公はその影響を受けています。しかし、自意識過剰による抑圧をふり払い、他人へと関りあいます。これが青春群像劇への移行です。
 それは大変なカタルシスをもたらします。…しかし、そのカタルシスのあとに訪れるのはただの複数名が同居する日常です。フィクションで閉じた人間関係をシリーズ化すると、内容はないのにひたすら筋書きが複雑化するだけだということは、エリック・ロメール監督作品とアメコミ映画がいい手本です。一面においては、それが青春群像劇の限界なのかもしれません。