私はセカイ系が好きだ。
しかし、いわゆる《セカイ系》という定義に内容のないことはすでに周知されている。これは前島賢の『セカイ系とは何か』が詳しい。
そもそも、《セカイ系》の定義である《「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という言説じたい、《中間項》という単語の定義をまちがえており、中学生の作文に過ぎない。
しかし、《セカイ系》らしい作品はたしかに存在する。でなければ、そもそも《セカイ系》という造語が生まれない。そして、私はそれらの作品が大好きなのだ。
《セカイ系》らしい作品の系列が存在するということは、その特徴を定義できるということだ。
『セカイ系とは何か』は、最終的に「《セカイ系》を目指した作品が《セカイ系》である」という循環論法で、定義論を棚上げしている。
ここでは個人的に《セカイ系》らしさというものの定義を試みたい。
しかし、そうした試みは《セカイ系》と呼ばれる作品の広範さに、ほぼ失敗してきた。
そのため、まず逆方面のアプローチで「セカイ系らしくない作品と、そのらしくなさの特徴」によって、消極的な定義をおこないたい。
①『機動戦士ガンダム』シリーズ
少年が巨大ロボットに乗り、戦争の帰趨を決するという筋書き(意味不明だ)の幼稚さは、セカイ系そのものだ。しかし、セカイ系とは真逆のように思える。
『ガンダム』の荒唐無稽さを指摘するのは、ジェームズ・ボンドの荒唐無稽さを指摘するようなものだ。しかし、その幼稚さゆえに大衆に人気を博し、そのなかでも教育水準の低い人々は「『ガンダム』で国際政治を学んだ」などと言う。哀れなことだ。
重要なのは、とくにそうした人々が《セカイ系》という言葉を批判的に言いはじめたということだ。そしてセカイ系の嚆矢である『エヴァ』は、『ガンダム』と巨大ロボットへの皮肉がたっぷり詰まっている。
ここで、ひとつ「大衆性が強いと《セカイ系》らしくない」ということが言えるだろう。
②『少女革命ウテナ』
物語を要約すると、天上ウテナが姫宮アンシーの意識を改革し、それが世界の革命となるというもの。適度な晦渋さもある。また、《世界の果て》という言葉がキーワードになっている。
が、セカイ系らしくない。
セカイ系にしては芸術性が高すぎ、前衛的すぎる。そして、その前衛性はフェミニズムが重要な主題である生硬さによるものだ。同監督の『輪るピングドラム』も、寡少な登場人物に対して壮大な展開という、セカイ系らしさを備えるが、前衛性と、地下鉄サリン事件を作品の背景とする社会性があり、やはりセカイ系らしくない。
ここで、ひとつ「前衛性が強いとセカイ系らしくない」ということが言えるだろう。
③『二重螺旋の悪魔』
《セカイ系》におおむね共通する「寡少な登場人物に対して壮大な展開」という特徴につき、ハリウッドの大作映画がよく反証に挙げられる。往年のベストセラーである本作は、作者がまさにハリウッドの大作映画を参考にしたと自作解題している。
主な登場人物は主人公とヒロイン、そして物語の開始直前で死亡した主人公の恋人のみだ。そして、主人公が世界の命運を握る。まさにセカイ系だ。
が、明らかにセカイ系ではない。
本作は80%がアクションシーン、20%が科学技術の解説で構成される。
ここで、ひとつ「純粋な娯楽作品はセカイ系らしくない」ということが言えるだろう。
④『灰羽連盟』
では、セカイ系には文学性、とくに思弁性が必要なのだろうか。あるいは、そうした文学性の強い作品に特有の暗い雰囲気が必要なのだろうか。
本作は世界から孤絶した片田舎らしい異世界を舞台にして、思春期の少年少女が主人公だ。テーマは骨太で、作品の文学性が強い。
が、セカイ系らしくはない。
本作の物語は淡々と進行する。どうやら「娯楽性が弱いとセカイ系らしくない」らしい。
本作と強い関係にある『Serial experiments lain』も、主人公とヒロインの関係性が世界の命運を決するという文脈においてセカイ系らしいのだが、やはりセカイ系らしくはない。《セカイ系》と呼ぶには『lain』は高踏派すぎる。
これで、セカイ系の特徴をほぼ言えるだろう。
「大衆的でなく、前衛的でなく、適度に娯楽性があり、また文学性がある」。
さらに具体的には、以下のことが言えるだろう。
Ⓐ『STEINS;GATE』
「主人公が大学生だとセカイ系らしくない」。
Ⓑ『魔法少女まどか☆マギカ』
「主人公の意思がはっきりしているとセカイ系らしくない」。ここでは、暁美ほむらを主人公と仮定している。
以下、上記の特徴を参考に、《セカイ系》と呼ばれる作品を検討する。
①『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
個人的に『エヴァ』以前のセカイ系の源流だと思うのだが、どうだろう。
1.芸術性の高い美術。とくに無人の街や廃墟といった背景の題材。
2.思弁性の強い脚本。
3.メタ=フィクション性。これは2とも関係する。
セカイ系らしいではないか。
②『新世紀エヴァンゲリオン』
『エヴァ』に関する百家争鳴の議論の不幸だったことは、そのメッセージ性を問題にしていたことだ。
第1に、放送直後の侃々諤々の議論があり、これは作品鑑賞の延長だった。第2に、時間をおいてまっとうな批評がなされるはずが、放送直後の余熱が伝播して、作品鑑賞の延長がさらに延長された。
『エヴァ』は同時期にいくつか放送されたアニメのうちのひとつに過ぎない。放送中は、緒方恵美が『伊集院光 深夜の馬鹿力』のゲストに招かれ、伊集院光が緒方恵美をイジリ倒していた。それは最終回の直前だった。そうした事実を忘れた批評は馬鹿げている。
第1話の導入を確認する。主人公、碇シンジは無人の街に立つ。避難警報。爆風と車両の横転。シンジは基地に連れてゆかれ、訳のわからないまま巨大ロボットに乗ることを命令される。そして、ここまで設定に関する説明はほとんどない。
面白すぎる。
視聴者に続きを気にならせるために、庵野秀明がどれだけ工夫を重ねたかわかろうというものだ。そして、この設定を小出しにすることでサスペンス性を維持し、視聴者への訴求力を保つストーリーテリングの手法は最終回まで続く。
仮に、『エヴァ』が第1話から前衛的な映像を展開したとすれば、誰もみなかっただろう。『エヴァ』が人気を博した理由は面白かったということをおいて他にない。
しかし、馬鹿げたことに、『エヴァ』に関する批評はそうした脚本や映像、美術、音楽をほとんど問題にしてこなかった。そして、彼らが問題にしてきた『エヴァ』のメッセージ性は幼稚なものだった。『エヴァ』のメッセージ性を問題にするのは、『ダークナイト』の《善と悪の対決》を真剣に捉えるのと同じくらい馬鹿げている。
そして、『エヴァ』についてほとんど問題にされてこなかったことは、「『エヴァ』は娯楽作品として面白い」ということだ。
③『ほしのこえ』
むしろセカイ系らしいのは、同監督の『雲の向こう、約束の場所』だろう。
新海誠の作劇は非常に貧弱だ。そのため、《セカイ系》らしい展開の壮大さに頼った『ほしのこえ』『雲の向こう』以後、新海誠は低迷することになる。他人の脚本家を登用すればいいものを、馬鹿なことだ。
『君の名は。』の許しがたいのは、「男女の精神転移という設定、じつは精神転移に時間差があったというどんでん返しと、それによる救出劇」というプロットがゲーム『Remember11』を完全に盗用したものであることだ。
プロットの転用は法的にも道徳的にも問題ないということは理解している。それでも、『Remember11』のファンである私は、本作の流通における不遇と、『君の名は。』の大ヒットの落差をみるたびに、不平等への怒りをおぼえるのだ。
ともあれ、「『ほしのこえ』『雲の向こう』の《セカイ系》らしさで重要なのは、あくまで展開の壮大さ」だということが言える。
④『最終兵器彼女』
『最終兵器彼女』でもっとも面白いのは、それまで普通のラブコメだったにも拘わらず、第2話の終わりで兵器と化したヒロインが降下してきて《最終兵器彼女》という題名が見開きで表示されるところだ。
残りはクズだ。
しかも、蛇足にも拘わらず、分厚い単行本で全7巻もある。
この「メタ=フィクショナルなジャンルスイッチ」が本作の面白さだ。ある種のメタ=フィクション性は設定と展開の壮大さを担保することができるということが言えるだろう。
ゲーム『ネコっかわいがり!』なども、ジャンルスイッチに力点をおいたセカイ系だ。
⑤『イリヤの空、UFOの夏』
じつのところ、本作では最終巻の最終章まで世界の命運は問題にならない。あくまで物語の筋書きは、主人公と、軍属の超能力者であるイリヤの逃避行だ。しかも、それまでの物語と最終章はほとんど整合性がない。
苛酷な逃避行において、イリヤの記憶はどんどん退行してゆき、最終的に主人公の出会いのときまで戻る。そこで、イリヤが最後の記憶を失うと同時に、主人公はイリヤの思いを知る。その哀切さがクライマックスになっている。
それが最終章ではなんか記憶が戻っている。そして、なんかイリヤが世界の命運を握ることになっている。
最終章を除く筋書きがミリタリーSFとしてリアリスティックなものであることは、前島賢が『セカイ系とは何か』で指摘するとおりだ。
つまり、本作は「最終章でいきなり《セカイ系》になり、しかも、作者がオチに困った結果でしかない」。その意味で、本作はセカイ系と言いがたい。少なくとも、作者の意図した主題ではない。
⑥『涼宮ハルヒの憂鬱』
いいのか悪いのか、《セカイ系》という言葉が瀰漫した時期の作品で、《「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という定義が完全に当てはまる。
つまるところ、本作は作品の内容からしても、作品の成立した背景からしても、完全な意味で《セカイ系》と言える。
ともあれ、本作の特徴としていえることは、第1に「面白い」ということだ。そのストーリーテリングの巧みさは、新人賞受賞の講評で強調されている。
また、そのセカイ系らしさ、《きみとぼく》が《世界》と直結することを担保しているのは、いわゆる青年心理学の、思春期の問題だ。これが、「思春期の少年少女が主人公だとセカイ系らしい」ことの理由ではないだろうか。この青年期に特有の問題を主題とした作品は、文学史おいて19世紀末の「世紀病」にもみることができる。
⑦『ブギーポップ』シリーズ
じつは題名はミスリーディングで、ブギーポップは物語の終わりに登場して事件を解決するだけだ。そのため、ブギーポップと、そのもうひとつの人格である宮下藤花、その恋人である竹田啓司を主人公ということはできない。つまり、思春期の少年少女が主人公であるということはできない。ただし、ある高校を舞台にした第1巻は、その意味で完全に条件を満たす。
しかし、シリーズを通してじつにセカイ系らしい。
「①舞台と登場人物がミニマリズム的で、②世界の危機が問題になり、③さりげない文学性があり、④暗い雰囲気である」という条件を満たせば、かなりセカイ系らしいということが言えるのではないだろうか。秘密結社や超能力が存在すればなおいい。
思うに、セカイ系とは「設定と展開は壮大であった方が娯楽性においていい」という一方、「壮大さは荒唐無稽さになりやすい」という二律背反に対して、「青年心理学やメタ=フィクション性といった文学性でバランスをとろうとする」ものではないだろうか。そうした文学性は作中の物語に対して外在的なもののため、いきおい、物語は大衆性、通俗性に反して前衛的になりやすい。しかし、純文学的ではない。
また、その二律背反のアンバランスさが目立つとき、よくも悪くも《セカイ系》らしさは際立つだろう。『機動戦艦ナデシコ』がその好例(批判者にとっては悪例)だ。『少女終末旅行』などは、ミニマリズム的な筋書きと、世界観と主題の壮大さは《セカイ系》らしいが、まったくセカイ系らしくない。それは、本作が作品としてバランスがとれているからだ。
最後に、《セカイ系》と呼ばれる次の作品の紹介をもって、本論を終えたい。
⑧『Angel Beats!』
待ってほしい。読者の諸賢が何を言いたいのかはわかっている。
本作は、登場人物は魅力に欠け、ギャグはだだ滑りしており、シリアスな場面は寒く、メッセージ性は幼稚だ。そのメッセージ性すらすべて言葉で説明していて、脚本はクソだ。
だが、私はこの作品が大好きなのだ。
最終回、感動的な劇伴が流れるとともに感動的な台詞で感動的な場面が展開され、もちろん、私はそれを額面どおりに受けとることはできなかったが、制作者の視聴者を感動させようという意気込みには、ささやかな感動をおぼえた。そして、その場面そのものにも、幾分かは心を動かされたのだ。
《セカイ系》と称される作品は、その誇大妄想的な設定と展開のために、失敗は惨憺たるものになる。
しかし、私はウェルメイドな成功作よりは、そうした壮大な失敗作を愛したいのだ。ごめん、嘘。本当は失敗作はみたくない。
だが、いわゆる《空気系》や《なろう系》の、大きな挑戦心はなく、そのため大きな失敗もないが、大きな成功もない作品が大勢を占める現況において、たまには誇大妄想的な蛮勇をもった作品をみたい気持ちにかられるのだ。