『仮面の少女・櫻井桃華』に寄せて - 文学・経済・アイドル -

 ソーシャルゲームアイドルマスター シンデレラガールズ』(バンダイナムコエンターテインメント)のメディアミックスであるコミックの、廾之著『THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS U149』(以下、『U149』と表記)は高い文芸性を誇る。
 その《櫻井桃華編》である第38-41話『櫻井桃華①-④』には、有志による批評『仮面の少女・櫻井桃華――あなたは『U149』桃華編を誤読していないか?』(以下、『仮面』と表記)が寄せられた。
 本稿では、この批評を確認し、『U149』の《櫻井桃華編》をあらためて読解したい。

 『仮面』では《櫻井桃華編》前話の第37話『特別編』における、桃華の意外な行状を議論の背景においている。それは、桃華が紙飛行機をうまく飛ばしたことであどけない笑みをみせ、それを冷やかされるというものだ。ここには論点が2つあり、第1は、この描写が肯定的であること、第2は、それが《子供らしい》《年齢相応》であることだ。
 『仮面』では、当初は第37話を性格描写の範疇として済ませたとしつつ、《櫻井桃華編》のあとは、人物造型の根本的な変化の予示、もしくはただの表れとして認識を改めたとしている。これは、とくにゲームとの対比による。『仮面』は『U149』における桃華の《レディ》としての振舞いが、自然ではなく、意図的なものだということにつき《仮面説》と命名している。《櫻井桃華編》の読解は以下のとおりだ。本編は《子供らしさ》と《レディ》という2軸があり、かつ、両者は逆相関するものとして設定されている。そこで、《子供らしさ》を要求された桃華が《レディ》としての振舞いを再考する。結果として、桃華は《レディ》としての振舞いをやめ、《素顔》を出す。ここでは、作中で年長のアイドルたちの《素顔》を強調していることが暗示になっている。
 前段の、説話論的な構造の、《子供らしさ》と《レディ》という2軸があり、その相反する要求で、桃華が《レディ》としての振舞いを再考するという分析は正当だろう。しかし、主題論の、桃華が《素顔》を表出するという分析は語弊があるように思える。

 《櫻井桃華編》の構成は複雑だ。これに対し、《橘ありす編》である第4-6話『橘ありす①-③』の構成は明快だ。ありすは完璧主義者で努力家だ。撮影に当たり、ありすは入念な下準備をし、理想とするポーズと表情を演じる。だが、その写真の対案となる表情を要求され、自信喪失してしまう。しかし、プロデューサーの後押しのもと、再度、自身の理想を演じ、それは関係者全員の賛意を得るものとなる。さらに、それはありすの理想と同時に、自然体でもあった。これは典型的なテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの構成だ。
 なお、本編では、そうしてありすが理想と自然体をともに実現するパフォーマンスをみせたあと、あどけない笑みをみせ、それを冷やかされるということが結尾部になる。『U149』がこうした《子供らしさ》をコミックリリーフに使用していることは記憶していい。
 《櫻井桃華編》の構成の複雑さは以下のとおりだ。バラエティ番組のバンジージャンプの企画の撮影につき、桃華は《子供らしさ》を要求されるが、その要求は満たされない。代わりに、《個性》が表れたとされる。しかし、桃華は《レディ》らしい振舞いを貫徹できない。毅然とするものの、わずかに涙を滲ませる。この描写は肯定的だ。台詞では、プロデューサーは《”いつもの櫻井さんらしく飛ぶ”》と《”櫻井さんの思う子供らしさで飛ぶ”》の両者を否定し、《”そういうのを一切考えないで飛ぶ”》ことを提案し、その言に桃華は表面上は諫言しつつ、感銘を受ける。しかし上述のとおり、毅然として飛ぶ。
 『仮面』は、この《個性》と《レディ》の両者の不一致につき、損なわれた《レディ》を《個性》、すなわち《素顔》として名指す。そのため、桃華の《レディ》を仮面として再定義する。
 しかし、本稿はその分析を批判する。説話論的には正しいが、主題論的には問題を含む。

 主題論の前に、作品論を述べる。『仮面』は《櫻井桃華編》は《橘ありす編》の再話にはならないとする。論拠は、主題論が《レディ》の脱却である《櫻井桃華編》は《橘ありす編》と異なるということだ。しかし、それを《素顔》の表出と名指せば、どちらも《子供らしさ》に対する葛藤を経ての自己実現となる。
 『U149』は高度に文学的だ。『U149』のプロデューサーは大人としての良識を備えているものの、背は低く、性格も子供っぽい。これは子供を主役とする『U149』において、大人-子供間、また子供間における差異を精密に描写するためだ。子供を主役とする作品を創造するとき、凡庸な作家ならどうしただろうか。プロデューサーの人物造型はただの大人で、子供たちとの二項対立をつくり、各話は大人-子供間の対立を主題とし、それを延々と反復していただろう。
 文芸論でもあるジル・ドゥルーズ著『差異と反復』は、マルクスの言葉(※)を敷衍し、ただの反復を批判する。曰く、歴史的反復は歴史的行動の1つの条件だが、変身、すなわち真正な創造が悲劇であるのに対し、そうでなければ退化であり、喜劇だ(『差異と反復』上巻、河出文庫、p.150)。(※ "ヘーゲルはどこかで、世界史的な大事件と大人物はすべて、いわば二度現れると言っている。彼は、一度目は偉大な悲劇として、二度目はみすぼらしい笑劇として、とさらに付け加えるのを忘れたのだ。"(『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』))
 そうした反復の最たるものは、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』(高雄統子監督、A-1 Pictures)第2期だ。毎回、その回の主役が予定調和的に所与の個性を再肯定するのは悪夢的だった。
 続いて、主題論を述べる。《櫻井桃華編》を難解にするのは《子供らしさ》の多義性だ。『櫻井桃華③』で桃華は毅然として飛ぶが、しかし涙を滲ませる。この涙は《子供らしさ》の表れとみることもでき、《櫻井桃華編》の主題論をみえにくくする。しかし、そうではない。これは『仮面』も指摘する。そのことは説話論をもって明示されている。大人であるプロデューサーがバンジージャンプの怖さを告白することで、桃華はその怖さを《子供らしさ》から剔抉する。
 だが、生理的な反応を《子供らしさ》とみるのは当然だ。クロード・レヴィ=ストロース著『構造人類学』は、未開と子供の思考に類推が働くのは、未開の思考が古代的(アルカイック)な性質をもつからではなく、子供の思考の多形性が文化の広がりを包含するからだと述べる(p.202)。よって、生理的な反応は一般的に《子供らしさ》と見なされる。
 さらに、その多形性は《タブラ・ラサ》として理想化される。その代表がジャン・ジャック=ルソーだ。ルソーは国家論の『社会契約論』で、人間の文明以前の本性を《自然状態》として美化し、そうした人間たちは《一般意思》として公共性を構築できると説いた。さらに、教育論の『エミール また教育について』で子供を美化し、教育を与えずに放任すべきと説いた。言うまでもなく、これらは現代の科学では誤りだ。ジャン・スタロバンスキー著『ルソー 透明と障害』とジャック・デリダ著『根源の彼方に』は、それを完全な自己実現の試みとして、文学的に肯定する。
 《櫻井桃華編》も《自然さ》への理想主義的な態度がある。『櫻井桃華③』ではプロデューサーが何も意識せずに飛ぶことを勧める場面と、桃華が着地したあとの場面で青空が強調されている。桃華は自意識をもって飛んだが、そのことは《自然な》こととされている。『U149』全編において《自然さ》は理想とされる。これは主として登場人物の個性と態度において表れる。その他では、節目である第25話『第3芸能課⑦』が顕著だ。本話では、プロデューサーとアイドルたちが、それぞれ立聞きで、たがいの本心を知り、信頼を強める。その後、「花火をしよう」というプロデューサーの提案とアイドルたちの要望が同時に発せられる。しかし、本話はそれに留まらず、そうした幸福に達したのち、ありす、桃華、(的場)梨沙という年長の3人とプロデューサーが決意をあらたにする。
 多形性は現代的な問題を含む。ミシェル・フーコーは『性の歴史』シリーズの『知への意志』で現代の性規範を対象化し、多形倒錯的な、無数の性志向の範列を挙げた。それは小児性愛も含む。しかし、ジュディス・バトラーはその異種混交性を批判的に発展させ、『権力の心的な生』で《主体化=従属化(subjection)》の理論を提唱した。多形性からアイデンティティを確立するとき、それは管理されたものでありうる。これは現代におけるポスト・フォーディズムの経済で、労働力の管理のため、コーチングとして実施されている(村越一夫・山本泰三著『コーチングという装置』(『認知資本主義』))。
 そもそも、アイドル産業はポスト・フォーディズムの産物だ。クリスティアン・マラッツィ著『資本と言語』はポスト・フォーディズムの特徴として、以下のものを挙げる。①フォーディズムの批判 ②労働時間の長時間化 ③ヴァーチャル産業の拡大 ④労働作業の計測の不透明化 ⑤記号と資本の同一化 ⑥生産の属人化(pp.43-7)。言うまでもなくアイドル産業は③ヴァーチャル産業であり、④労働作業の計測はアプリオリにはできず、アポステリオリになされ、契約は関係者間で随時、契約を締結する方法でなされ、⑤知的財産など、本来は公共のものである記号を私的所有の対象とすることでなされ、ネットワーク外部性により、所有者はレントを得る。アイドルは自由業のため①テイラーの科学的管理法の対象外だが、②逆に言えば労働時間と余暇時間の区別がなく、⑥技術進歩によって労働時間が縮小することもない。
 こうした問題に『U149』は自覚的だ。そうした政治経済の問題を具体的に挿入しているのではない。すぐれた文学は、歴史を不在として刻印している(蓮實重彦著『凡庸な芸術家の肖像』上巻、p.280)。『櫻井桃華④』で所与の個性としての記号である《"子供らしく"》の要求に悩む登場人物たち(※)に、桃華は軽やかに笑ってみせる。逆に、歴史を前景化したと自らを誤認するのは、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』第2期の最終話、第25話だ。無数のアイドルが所与の個性を《自分らしさ》と称し、画面に登場するのは夢魔的だった。(※ ここではありすが"「結局 メディアは分かりやすいものが好きなんですかね」"とまで直接的に言明している)
 では、《個性》を対象化する『U149』における《レディ》は何か。多形性からの主体化は管理される危険があるが、アイデンティティをもたずにいることはできない。したがって、アイデンティティは自己統治の問題になる。フーコーは『性の歴史』シリーズで、『知への意志』のあと、《生存の美学》を問題にした『快楽の活用』と『自己への配慮』を著す。審美的な正しさは、自己の正しさを保証する。これはイマニュエル・カントの美学の『判断力批判』より、哲学の『純粋理性批判』を参照するのがいいだろう。
 "だが、こうした主観的必然性(これは感じられざるをえないものである)をみずから承認しない人々にもこと欠かないであろうが、おのれの主観がどのように組織されているのかという様式にだけもとづくようなことに関しては、少なくとも人は何人とも論争することはできないであろう。"(『純粋理性批判』上巻、平凡社、pp.328-9)

 ここで『仮面』に戻る。『仮面』はまず《子供らしさ》を説話論により捨象した。それは正当だが、そのため『櫻井桃華③』の《自然さ》への理想主義的な態度を看過し、怖さへの言及を桃華のアイデンティティ論に解消させた。次に、桃華は《レディ》を脱却したとするが、本稿はこの見解には賛同しない。桃華の《レディ》は自己統治の問題であり、はじめからつねにおこなうべき実践だったと考える。
 《櫻井桃華編》の桃華の不安は2つあった。第1が《子供らしさ》の要求で、第2がバンジージャンプの恐怖だ。そして、桃華の否定される解決策においては、恐怖感を露わにし、《子供らしく》振舞うことで、両者は統一されているが、実際にとられる解決策では個別に処理される。《子供らしく》振舞うという演技への自信のなさは、そもそもそれを選ばないことで解決する。恐怖感と《レディ》としての自負の対立は、自己欺瞞をやめ、あえて認めることで解決する。この構成の複雑さが《櫻井桃華編》を難解にする。しかし、全体として《櫻井桃華編》の主要主題は自己統治の問題であり、それが桃華の性格描写の中心として設計されているだろうと言える。具体的には《レディ》たること、品位を保つことだ。
 つまり、桃華が結果的に《レディ》として振舞うことができなかったとしても、それは桃華の《レディ》としての自負を損なうものでなく、今後も桃華は《レディ》として振舞いつづけるだろうと考える。また、作劇の経済として、今後、桃華が《レディ》として振舞うことに失敗する場面はほぼないだろう。よって、ゲームとの大きな差異もない。

 ここまで書き、文芸作品の読解にもかかわらず、主題論のことばかりで説話論や文体論にあまり触れず、悪しき批評になっているのではないかという不安をおぼえる。
 もともと、わたしはあまり《櫻井桃華編》が好きではない。年長組の桃華が主役で、相応の紙幅と主題があるが、構成がいたずらに複雑になっている。なお、好きなのは《橘ありす編》だ。
 『U149』は作劇が理論的で、説話論、主題論ともに文学的だ。
 ウラジーミル・ナボコフ曰く"私たちは「感傷性」と「感受性」を区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりにして進歩的な思想を語ったが、一方的では自分が生ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。"(『ナボコフロシア文学講義』上巻、p.235)。
 『第3芸能課⑦』につき述べたが、『U149』は《自然さ》の理想主義的な美しさを描きつつ、それは一瞬のものとしている。これが感受性であり、文学性だ。
 木澤佐登志が『ダークウェブ・アンダーグラウンド』で述べるとおり、現代はとくに感傷性が権力をもつ。わたしたち感受性の強い人間は、自殺のことを考え、その合間に『U149』にため息をつく。