グレゴール・ザムザ焼き - 『ご飯は私を裏切らない』 -

 ヤングエースUPで連載されているheisoku著『ご飯は私を裏切らない』が面白い。主役は29歳、フリーター、独身、独居、中卒、職歴なし(※正規雇用について)、交友関係なしの《私》だ。《私》が短期のバイトと日雇い派遣労働で日々を過ごしつつ、食事で人生の苦悩を紛らわせたり、生態系に思いを馳せたりする。
 ジャンルとしてはいわゆる《グルメマンガ》になるのだろうが、じつは毎話に、生態系に関する蘊蓄と思索がある。
 "いくらが私に囁いてくれる… 生き物の実態はむしろ死に物じゃないかなと… 殆どの生き物にとって死ぬほうがメインストリームじゃん…"(第1話。10万の卵を産卵し、そのうち数匹だけが成魚になるゴマンモンガラについて)。
 そうした思索は生計を立てるために強いられる労働を相対化することになる。第3話では、人類社会が生態系に組まれていれば、いまごろ社会の落伍者である自分も、捕食されて資源として役立っていたのにと考える。これはマルクス主義ではないか。
 マルクスの生前に出版されたのは『資本論』のシリーズ中、第1巻だけだ。その結論で引用されるのが有名な《ここがロドスだ、ここで跳べ!》という成句だ。意外に思われるかもしれないが、『資本論』は市場経済に対し、奴隷制農奴制を《自然経済》として批判の対象外にしている(岩波文庫、第5巻、pp.212-3)。つまり、『資本論』の批判の眼目は《労働と労働の価値の二重性》による《社会的総労働と私的労働の倒錯》であり、われわれの生命活動であるはずの労働が、社会規範によって無意識のうちに所与のものに変形されていることだ(『逆転裁判2』の名言"「お盆を運んでサツタバがもらえるのならば……ダレが検事などやるものかッ!」")。これが『資本論』第1巻の主な内容で、これは岩波文庫の第1巻なので、『資本論』に興味がありつつも、全8巻の分量で敬遠しているひとは第1巻だけ読んでもいいかもしれない。エンゲルスマルクスの死後に編纂、出版した残りの7巻はあまり面白くない。
 そして、そうした自然観はニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』の要約するものがもっとも近いだろう。レーンは、シュレディンガーが『生命とは何か?(What is Life?)』で、生命はエントロピー増大に逆らうというドグマを述べたことについて、物理学者を読者層としていたら、エントロピーではなく自由エネルギーを議論の観点にしていただろうと語ったことを引く。つまり、シュレディンガーは『生命とは何か?』ではなく『生とは何か?(What is Living?)』を書くべきだったというのだ(pp.60-1)。本書が明かすのは、生命は、海底のアルカリ流体の熱水孔によるプロトン勾配と変わらないということだ。
 こうした自然観は実存主義をもたらす。トルストイはこうした観点の先鞭をつけていた。"どのようにして無機物から有機物が順応を通じて生れてくるかも明らかなら、どのようにして物理的エネルギーが感情や意志や思考に移行してゆくかも明らかであり、そうしたことがすべて、中学生といわず、田舎の小学生にさえわかっているとしよう。これこれの考えや感情はこれこれの運動から生ずるということが、わたしにもわかっているとしよう。で、それがどうだというのか?"(p.22)。これはアルチュセールによるマルクス主義の分析であるプロブレマティック論だ。
 『ご飯は私を裏切らない』の第5話はもっとも説明的だ。"「そんな場所なかった! この地はどこだって誰かの土地なんだ!!」"など、ほぼ直接的なマルクス主義だ。
 "「それに一品ずつ覚えるにつれ応用出来るようになって全体的に料理上達しそうなものなのに」「覚えたもの以外全くわからないし”」"、"それはそれ これはこれとしかわからない 目の前のこと以外脳に浮かばない 思考が広がったり繋がったりすることがない"。これはまるでサルトルの『嘔吐』に登場する、図書館の蔵書をアルファベット順に読破する独学者そのものだ。
 そもそも、食欲とは躁鬱の気分の反映だ。DSM-5の鬱病の分類では、症状に食欲不振がある。
 カフカは、そうした鬱病と食欲との関係を文章化した初期の作家だ。カフカの『変身』は鬱病により出社できなくなった会社員の寓話として読むことができる。サルトルカフカに影響を受け、フローベール論である『家の馬鹿息子』で、カフカに大きく紙幅を割いている。
 ただ、個人的なこととして『ご飯は私を裏切らない』の第5話には承知できないところがある。登場する《キャベツとチーズのホイル焼き》がどうしても美味そうに思えないのだ。これはキャベツにバターと溶き卵、とろけるチーズとピザ用チーズをのせ、トースターで20分ほど加熱したものだ。

 "半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、グレゴールが二日前にまずくて食えないといったチーズ、何もぬってはないパン、バターをぬったパン、バターをぬり、塩味をつけたパン。なおそのほかに、おそらく永久にグレゴール専用ときめたらしい鉢を置いた。それには水がつがれてあった。そして、グレゴールが自分の前では食べないだろうということを妹は知っているので、思いやりから急いで部屋を出ていき、さらに鍵さえかけてしまった。それというのも、好きなように気楽にして食べてもいいのだ、とグレゴールにわからせるためなのだ。そこで食事に取りかかると、グレゴールのたくさんの小さな脚はがさがさいった。どうも傷はみなすでに完全に癒ったにちがいなかった。もう支障は感じなかった。彼はそのことに驚き、一月以上も前にナイフでほんの少しばかり指を切ったが、その傷がおとといもまだかなり痛んだ、ということを考えた。「今では敏感さが減ったのかな」と、彼は思い、早くもチーズをがつがつ食べ始めた。ほかのどの食べものよりも、このチーズが、たちまち、彼を強くひきつけたのだった。つぎつぎと勢いきって、また満足のあまり眼に涙を浮かべながら、彼はチーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べものはうまくなかった。その匂いがまったく我慢できず、そのために食べようと思う品を少しばかりわきへ引きずっていったほどだった。"(フランツ・カフカ著『変身』)

 私はこの料理を《グレゴール・ザムザ焼き》と呼ぶことにした。