『雪が白いとき、かつそのときに限り』の語りについて 幻滅と幻影 - リウィウス、マキャベリ、陸秋槎 -

(※本稿は『雪が白いとき、かつそのときに限り』の犯人、犯行方法、動機に関する深刻なネタバレを含む。よって、本書を未読のものが読むことを禁ずる。)

 陸秋槎の『雪が白いとき、かつそのときに限り』(稲村文吾訳、2019年、早川書房)は、2017年に中国、新星出版社から出版された『当且僅当雪是白的』の邦訳だ。本書は『元年春之祭』(2018年、早川書房。原書、2016年)に続く陸秋槎の第2長編だ。
 以下、本書を読解し、その問題意識と技法を明らかにしたい。

本格ミステリにおけるゲーデル問題

 記号論理学におけるルフレッド・タルスキの例出した命題を題名に掲げる本作は、新本格推理小説として《本格ミステリにおけるゲーデル問題》を主題においている。これは《後期クイーン的問題》と通称されるものだ。
 作中では主役の1人である馮露葵の思索において、この概念を前景化している(pp.176-8)。ただし、聡明な作者は登場人物においてミステリーファンの姚漱寒を主役の高校生たちから離れた位置におき、作中で《後期クイーン的問題》に関する中学生じみた熱心でいたいけな引用を避けている。
 諸岡卓真の『現代本格ミステリの研究』のまとめによれば、《本格ミステリにおけるゲーデル問題》は1995年に法月綸太郎が『初期クイーン論』で提議し、その後、笠井潔が『本格探偵小説の「第三の波」』で《後期クイーン的問題》と簡潔に称したものだ。結果的に、いわゆる《後期クイーン的問題》が、誤称として定着したことはミステリーファンには言うまでもない。その後、《後期クイーン的問題》は評論では笠井潔の『探偵小説論Ⅱ』、巽昌章の『論理の蜘蛛の巣の中で』、小森健太郎の『探偵小説の論理学』などで論じられた。実作は枚挙に暇がない。
 《後期クイーン的問題》は1925年に発表の、ロナルド・A・ノックスの『陸橋殺人事件』がこの上なく簡潔にまとめている。

《「まず最初にこう言っておく。"この古文書には三つの部分が含まれている。すなわち、真正の部分と偽作の部分、そして第三には、偽作の部分を真正と思わせるための、故意に付け加えた偽の証拠である"とだ。ただそれだけの手間で、きみはこの論戦に必ず勝つ。……」》(宇野利泰訳、1982年。p.259)

 こうしてノックスは当時、勃興していた人類学、精神分析学、文献批判学とともに推理小説を相対化する。
 ミシェル・フーコーは1966年に発表の『言葉と物』で人類学、精神分析学を批判し、これはのちにアメリカを中心に《脱構造主義》と呼ばれることになるが、自身の手法を文献批判学とほぼ同じ意味の考古学(アルケオロジー)と称した。
 つまり、エマニュエル・カントの用語で言えば、われわれは超越論的主体であり、超越的に物自体を認識することはできない。
 この哲学は悲観主義的だ。そのため、『陸橋殺人事件』では終結部に登場人物が皮相的な台詞を言う。

《「将来はゴルフのゲームに専念するよ――ゲーム、ゲーム、ゲームばかり、ゲームのほかには何もなしだ」》(p.260)

 しかし、これは人生の真実だ。この台詞は1939年に公開のジャン・ルノワールの『ゲームの規則』を連想させる。さらには、陸秋槎の賛美する(『陸秋槎を作った小説・映画・ゲーム・アニメ』)『牯嶺街少年殺人事件』のエドワード・ヤンの『台北ストーリー』をだ。この映画の脚本は決して実現しない理想としてのアメリカと、現実であり、《ゲームの規則》である野球で構成されている。
 クルト・ゲーデルが1931年に第1不完全性定理を証明する論文『『プリンキピア・マテーマティカ』とその関連体系での形式的に決定不可能な命題について』を発表してから、ヒルベルトを代表とする形式主義(※数学の術語)は論理主義、直観主義とともに、純粋に技術的なものに移行する(佐々木力二十世紀数学思想』)。ヒルベルト以前の形式主義者はしばしば数学をゲームに喩えていた。そして、この移行後、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはあらためて形式主義を"「形式主義の正しい点は、いかなるシンタックスをもゲームの規則の体系として把握せしめることである。」"と評価した(『ウィトゲンシュタイン全集5』)。
 一応、記号論理学と《後期クイーン的問題》の関係について明確にしておく。以下、照井一成の『コンピューターは数学者になれるのか?』を参照する。《後期クイーン的問題》に直接的に関係があるのはゲーデル不完全性定理ではなく、ヒルベルト計画だ。ヒルベルト計画は抽象数学を正当化するためのものだ。抽象数学を形式系で表し、その無矛盾性を有限の立場で証明する。ゲーデルの第2不完全性定理は、それが不可能であることを証明する。端的に言えば、自己完結的な無矛盾性の可能性を否定する。よって、ある推理が反論されないことはありえない。これが《後期クイーン的問題》だ。

・青春の全能感と無力感という米澤穂信的なテーマ

 見出しは『陸秋槎を作った小説・映画・ゲーム・アニメ』による。これは『氷菓』にはじまる《古典部》シリーズの主題として、もっとも簡単で的確なものだろう。
 『雪が白いとき、かつそのとき限り』の探偵役の登場には2つの工夫が施されている。
 第1に、序章を除き、本書は顧千千と鄭逢時という探偵役と助手役の登場で開幕する。しかし、実際の探偵役は不羈奔放な顧千千ではなく、冷静沈着で頭脳明晰な馮露葵だ。
 第2に、本書の事件は5年前の事件と、物語の3分の2になってからようやく起こる、現在の事件の2つある。じつは5年前の事件では姚漱寒が探偵役を務めており、その姚漱寒から馮露葵は《名探偵》となることを期待される。

《「これだけ長く推理小説を読んできて、初めて名探偵になるかもしれない人に出会えたんだから、これくらいのお金はなんでもないわ。あなたが図書室でした推理は立派で、こちらは痛いところを突かれてすこし頭には来たけど、あれだけ上等な推理を聞くことができて満足だったの。あなたには才能があると信じてる。私をワトソンにするのはどう?」
「"名探偵"なんて言葉、口にして恥ずかしくないんですか。断じて私に期待しないでください、きっと失望させてしまうので」》(p.88)

 《名探偵》は選ばれた人間だ。《後期クイーン的問題》に適用すれば、《名探偵》はゲーデルの第2不完全性定理による自己言及の問題に対する、対角線論法による不動点定理だ。このことをはじめに提議したのは新本格第2世代の旗手である麻耶雄嵩で、探偵役のメルカトル鮎を《銘探偵》と称し、その推理は不可謬だとメタ=フィクショナルに注釈した。さらに、その後のメフィスト賞の受賞作家は、舞城王太郎が『世界は密室でできている。』、西尾維新が『君と僕の壊れた世界』で、それを主役の実存の問題に展開した。
 《古典部》シリーズでは、第2作の『愚者のエンドロール』が《名探偵》を才能をもつ人間と定義し、青年心理学の自意識の問題に展開した。後書きで作者がアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』を引用し、推理小説そのものを主題としたと述べる本作は、探偵役であり、主役である折木奉太郎の推理が否定され、助手役であり、もう1人の主役である千反田えるの《『私も人が死ぬ話は好きじゃないんです』》という、推理小説批判と《日常の謎》の賛歌の台詞で終わる。ただし、1冊をかけておこなわれる推理小説批判で否定される推理は、綾辻行人の『どんどん橋、落ちた』所収の短編の完全な盗用だ。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』では馮露葵が《日常の謎》を推理することで探偵役に名指される。その推理は見事だが、作中では退屈なものとして語られる。

《「ほんとに、どうでもいいような真相だね」
「こんな感じの謎解きが小説になったら、読みたいと思う?」
「あんまり」顧千千は後ろめたげに言う。「でもそんなに読書するわけでもないから、なにか言う権利はないけど」》(p.70)

 個人的なことだが、私はここで引用される《昔のアニメ》が陸秋槎の愛好する『ココロ図書館』であることを、倫理学者の長門祐介のツイッターの投稿で知った。
 前述のように、馮露葵は顧千千、姚漱寒の2人から《名探偵》として期待されるが、本書における《百合》的な要素も、馮露葵とこの2者とのあいだとのものだ。そのそれぞれとの才能に関する対話は、本書でもっとも美しい場面だ。

《「先生は、人生に失望したせいで酔いつぶれてるんですか? ロマン主義って感じですね」》(p.132)
 ……
《「そういうことは私に聞かせないほうがいいですよ、とりあえず、未成年の私には未来にある程度期待を持たせたほうが」
「でも、期待はあまり大きく持たないことね」姚漱寒は冷静に答える。「ほんとうに失望するから。自分にとっても、周りにとっても、期待が大きすぎるのは失望を招くことになる」
「先生には失望しました」
「そう、それは偶然ね」長いため息をつく。「私も同じ」》(p.134)

《「だから私は普通になるための方法を教えたの。私はだれよりも、"普通"っていうのがどういうことかわかってるから」
「あんなに成績がよくて、しかも生徒会長で、どこも普通じゃないよ。それに自分にあこがれて、慕ってくれる人がたくさんいるのに、そんなことを言ったらその人たちを傷つける」
「なら傷つけておきましょう」
「ほんとうにそれでいいの?」顧千千は苦笑いを浮かべるが、その膝には涙が一滴ずつ落ちてくる。「私も"その人たち"の一人なんだ。ほかのだれよりも……」
「ごめんなさい、私……」》(p.182)
 ……
《「いや、いまより良い結果はないよ。陸上で世界一になったってそれがなんなの、独りぼっちのままじゃないの? それよりも、目のまえの幸せをつかむほうがいいよ」
「あなたの幸福は、ひとの家の椅子に座って涙を流すことなの? ほんとうに安上がりな……」
「自分の膝を抱くより、友達の膝の上で泣くほうがいいに決まってる」顧千千はそう口にしながら、顔を上げて馮露葵のほうを向いたが、視線はいつまでも定まらず、相手の目を直視する覚悟がなかった。「私に力を貸してくれる?」
「かまわないわ。来て」そう言い、馮露葵は太腿の半ばを叩いた。「そう、私に鼻水は付けないでね。こんな時間になって、もう一度お風呂には行きたくないから」》(pp.183-4)

 本書の主要主題である特別性と《才能》について、作者は衒学趣味に乗じて思想を開示する。
 馮露葵は暇潰しにマキャベリの『リウィウス論』(『政略論』)を読む。それを機に、姚漱寒と西洋古代史と作家の職業を論じる。

《「先生にとって、推理小説っていうのはなんになるんですか? 単調な生活のちょっとした暇つぶし?」
「そうね。好きなことがあるならそれを生涯に捧げる先にするものだと信じている人もいるけど、私はもうそんな歳は過ぎた」そう言いながら、馮露葵の膝で開かれていた本に目をやった。「『リウィウス論』を読んでるなら、西洋の古代史にはすこし詳しいんでしょう、プルタルコスは読んでる?」
「『英雄伝』ですか? まだですけど」
「それはほんとうに残念ね。私は〈ペリクレス伝〉の一節が大好きなの――"他の事柄となると、成果に感嘆しても、それを自分でやってみようという気持ちがすぐに伴うわけではない。往々反対にして、われわれは作品を喜んでもその工人を軽蔑するものだ"」
「そうなんでしょうか」
プルタルコスは例を挙げてる。それによると、"香油や紫染の着物の場合、これらの製品を喜んでも、染物師や香油製造人は自由身分にふさわしくない卑しい職人だとみなしている"。アレクサンドロス大王の父親は、息子が琴をうまく弾けるのを知ったときには、"恥とは思わないのか"と訊いたらしい」
「ただの当時の人の偏見でしょう」
「現代の人間にも同じような偏見はない? この言葉を小説家に当てはめてみたらどう――とくに推理小説なんて、まともな扱いを受けない通俗小説を書いている人に。結局のところ、読書の好きな人だって、自分がまともな生活を送っていたら、小説家を相手にするときには軽蔑の視線を向けるものでしょうね」
「崇拝するんじゃないんですか」
「それはあなたぐらいの歳でないと持たない考えかたね」……》(pp.132-3)

 ハンナ・アーレントは『人間の条件』で、《天才》は近代の産物だと述べる。ルネサンスから19世紀末期まで、近代は創造的な天才を理想としたが、同様の概念は古代と中世にはない。芸術家の生産物には職人とは異なり、唯一性と差異性があり、それが崇拝された。しかし、それは古代の言論と活動には一般的なものだった。また、古代では芸術家が特別視されることはなく、職人の製作(ポイエーシス)は軽蔑された。さらに、活動者にとって活動の意味は物語になく、物語は活動に立脚しているが、物語を《製作》するのは活動者ではなく物語作者だった。近代になり、私有財産私有財産は富と真逆のものだ。致富は古代には軽蔑された)と公的領域が崩壊したことで、価値観は転変した。
 また、『人間の条件』は古代は私的領域と公的領域を区分し、近代は両者を混同し、中世の政治思想は世俗的領域、すなわち前者だけを対象とし、マキャベリだけが後者をも理解していたと述べる。『君主論』における傭兵隊長の地位の上昇は、前者と後者を統合する説明だ。
 木庭顕の『デモクラシーの古典的基礎』は以下のように述べる。鋭い知性をもつマキャベリは、イタリア都市共和国におけるデモクラシーの度重なる失敗をもって、デモクラシーの基礎となる意識と社会構造を分析した。これにより、近代の政治言語は確立した。それを知らず、マキャベリ、さらに人文主義とデモクラシーを理解することはできない。
 これが本書がマキャベリを衒学趣味の契機とした理由だ。これはあくまで契機であり、ふたたび特別性の主題の分析に戻る。
 この理由により、馮露葵が姚漱寒を謗るときは《ロマン主義者》という形容を用いる。この誹謗中傷は近代的なものだ。
 陸秋槎近代文学を重視しており、『1797年のザナドゥ』ではそれを主題としている。ただの近代文学および自然主義リアリズムの系譜ではなく、ポストモダニズムを経ている。本作は近代性と文学性、異種混交性の主題と新本格の問題意識を統合したものだ。本作の終結部は文学と書記(エクリチュール)が一致することで終わる。これはフーコーが『言葉と物』で述べる、ポストモダンにおける文学の有りようだ。これによれば、もはや文学は、言説(ディスクール)と対立し、書く主観性に向かうか、文学を生みだす運動のなかで、文学という本質を奪回しようとすることしかできない。つまり、書くという単純な行為になる。
 つまり、才能も物語も近代の産物で、仮構でしかない。さらに言えば、そのことはすでに近代には自覚されていた。つまり、われわれは超越論的主体でしかない。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』に付した序文に《十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。十九世紀におけるロマンティシズムに対する嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。》(福田恆存訳)と書き、純粋な技巧の追求を提言した。さらに言えば、『四つの署名』を脱稿したばかりのコナン・ドイルは、『ドリアン・グレイの肖像』を出版したばかりのワイルドと会い、その作品を当時の物質主義に対する批判として称賛し、たがいに意気投合した。また、フーコーは『監獄の歴史』で探偵小説は近代の産物だと述べた。
 なお、ロマン主義への言及は馮露葵の音楽の趣味にも表れている。馮露葵の所蔵するCDは、いくらかの洋楽とアニメソングを除き、後期ロマン派とショスタコーヴィチだ(p.156)。ただし、これは友達のあまりいない秀才としては自然なものだ。私も同じだ。各章の章題はブラームスの《四つの厳粛な歌》から採用されている。記号論理学との関係で言えば、ブラームスウィトゲンシュタインは家族ぐるみの付きあいがあった。なお、クラシックの新古典派への傾倒は、麻耶雄嵩も公然としている。笠井潔の《矢吹駆》シリーズではマーラーの《大地の歌》が頻々に引用される。
 特別性について、青年期にはそのことを誤解する。現実を悟りつつ、生命や宇宙について哲学的な思考を巡らせ、特別であろうとする。これが《青春の全能感と無力感という米澤穂信的なテーマ》だ。
 第2章は、その全編を通して5年前の事件の関係者に事情聴取し、全員が青春に幻滅していることを明らかにする。また、事件の捜査という推理小説の説話論的な要請からほぼ切断されて行われる晏茂林との対話は、才能に関する話題に終わる。

《「嘲笑されたってどうでもいい。いまのあなたには当然わからないから。これは一つのepiphanyなの――」呉筱琴はためらったあと、中国語に変えて言いなおした。「悟ってしまうこと。幻滅と言ってもいい。なにかのきっかけで、自分の人生は終わりを迎えたと気づいてしまうこと」》(p.101)

《「重いのは音楽じゃなく」馮露葵が言う。「恋ですよ」
「いいや」晏茂林は首を振った。「それぐらいの歳であこがれて、褒めたたえて、信奉するようなものは、きらきら輝いて見える言葉は、ぜんぶ重すぎるんだ。音楽も、文学も、美術も、哲学も、夢も、恋も、ぜんぶ重すぎる。人はもろいもので、そんなものに押しつぶされてしまうから」
「才能」馮露葵はその輝かしい一覧に、なによりもきらびやかな言葉をつけくわえた。「才能っていう言葉も、重すぎます。ふだんから口に出さないのがいちばん、自分が潰れてしまうから。……」》(pp.250-1)

 現代の事件の真相については、ほぼ作中で述べられ、多言を要しない。
 ただ、その結尾部において、詳細な記述を予期させるところであえて筆をおき、鮮やかに物語を切断するところが見事だ。これは小説よりフィルム・ノワールアメリカン・ニューシネマ、その他、犯罪映画で用いられる技法だろう。さらにはハードボイルド小説で、より具体的には法月綸太郎の『密閉教室』だ。そしてまた、法月綸太郎がベスト5に挙げる、ロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』だ。本作の主題もまた《幻滅》だ。本書は馮露葵と顧千千がおそろしく膨大な時間をともに過ごしたことを示しつつ、馮露葵から顧千千への感情は明らかにしない。作者は周到にもバスタオルに関する挿話(p.178)で、馮露葵から顧千千への感情が、少なくとも、ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で語るような、超越的なものである、陶酔的な《愛》ではないことを明示している。その皮相な雰囲気と馮露葵の孤独感を前景化したまま、人生の寄るべとするには儚すぎる友情に頼り、2人は心中する。
 おそらく、馮露葵は《日常の謎》の探偵役として、陳腐で退屈な真相を解明していればよかったのだ。失われたあとだからこそ、馮露葵、顧千千、薛采君、鄭逢時の4人のいる生徒会室という、《日常の謎》の舞台らしい小景(p.32)は、かけがえのなく惜しいものだと悼まれる。
 この沈痛な読後感は『元年春之祭』でももたらされ、本書の結尾部の、喪失感として分節化することも許さない喪失感の哀調は見事だった。ノーム・チョムスキーの意味のない文を題名に掲げる短編『色のない緑』の結尾部も、記号と意味論の無関係であることが意味となる台詞の哀感がすばらしかった。

推理小説家という職業

 『雪が白いとき、かつそのときに限り』では第4章ののちに終章が付き、前述の、アメリカン・ニューシネマのような悲愴美をも否定する。ここまで三人称が用いられてきたものが、作者である《陸秋槎》の一人称になる。そして、すべては筆者の記述に帰結する。ここで、序章が三人称による伝聞するもののいないはずの情景だったことの意味が明らかになる。ただし、この《陸秋槎》はメイド服で南京の都心を闊歩する27歳の美少女だ。
 なぜなら、そうした皮相さによる自己否定ですら、皮相なものでしかないからだ。

《「そうね、信じたくはないし、思いだしたくもないけど、ただ否定はできないな。あのくらいの歳の私たちは、現在に生きてるわけじゃなく、思いだすような過去もなくて、あのころはいつも将来に生きてたの。結局、学校で勉強するのだって将来のために試験でいい成績を取って、いい進路に進むためでしょう。あのときは、私たちみんながまもなく訪れるほんとうの人生(、、、、、、、)のために準備をしていた、だからいつも不安に駆られて、ほんとうの人生(、、、、、、、)は永遠に来ないんじゃないかと恐れてた。それが、私たちぐらいの歳になるとわかるんだ、人生は人生で、ほんとうと偽の違いなんかないんだって……」》(p.305)

 そのため、5年前の事件に卑俗な真相が与えられることをもって、本書は閉幕する。
 しかし、その書記(エクリチュール)への回帰は文学の必然だ。これは『1797年のザナドゥ』の主題だった。
 また、『元年春之祭』は前漢時代という特殊な舞台設定、2度の《読者への挑戦状》、推理合戦、四書五経に関する議論が戦わされる衒学趣味、という新本格の意欲作だった。作者は麻耶雄嵩の『隻眼の少女』と三津田信三の『厭魅の如き憑くもの』を源流に掲げ、《後期クイーン的問題》は強く意識されている。本作は於陵葵、観露申、小休の3人の少女を主役とし、於陵葵は自殺の肯定説を提唱する。これは伊藤計劃の『ハーモニー』を想起させ、本書はウィリアム・ギブスンブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』を経由し、フィクションの自己言及の問題を前景化したものだった。
 麻耶雄嵩新本格の意欲作の『翼ある闇』で登場したあと、第2長編の『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ』で《後期クイーン的問題》を中心として扱ったが、陸秋槎の『元年春之祭』と『雪が白いとき、かつそのときに限り』も同様の関係にあるだろう。
 『セッション 綾辻行人対談集』所収の綾辻行人竹本健治の対談で、竹本健治はこの文脈で『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ』を称賛しつつ、第2回メフィスト賞の受賞に際し、推薦文を送った清涼院流水の登場に伴う、ある憂鬱感を語る。もともと本格、新本格推理小説は形式性を要請されたが、《後期クイーン的問題》を踏まえれば、ますますメタフィクション性が強化され、閉塞感が漂うことになる。いわば推理小説という伝言ゲームにおいて、その遺伝子にあらかじめプログラム細胞死(アポトーシス)が組まれているのではないか。そして、それは推理小説だけでなく、小説全般におけるものなのではないかということだ。幻滅を主題にした『不滅』のミラン・クンデラは、『小説の精神』所収のインタビューで、芸術の終焉ということはたびたび言われてきたが、歴史的に見て、小説は本当に終わりつつあると述べる。
 その対談で竹本健治推理小説の根本の魅力は怪奇趣味ではないかと述べる。実際、コナン・ドイルの《シャーロック・ホームズ》シリーズは、じつは前近代的な怪奇趣味が大きく、同時代のエミール・ガボリオウィルキー・コリンズといった作家のより通俗的な作品は、現代まで読み継がれることはなかった。
 殊能将之は『殊能将之読書日記』で、これをより洗練させて《ニセモノ性》と呼ぶ。われわれは本格推理小説を読み、館や孤島という舞台を模作したくなるが、エラリー・クイーンのどれほど熱心なファンでも20世紀のニューヨークという舞台を模作しようとは思わない。これが《ニセモノ性》だ。新本格の第1世代が北村薫の《日常の謎》を歓迎したのは、その文学性と、《人間が描けていない》という推理小説批判のクリシェに対抗できるためだった。しかし、結果的には、すべてのジャンルを記号的なライト文芸が占めることになった。とくに山口雅也の『生ける屍の死』の発表の20年後に、推理小説をほとんど読んだことがないと自称する作家のゾンビものの作品が、日本国内の商業的な推理小説の賞を総獲りする現状では、アポトーシスはほぼ達成されたと言えるだろう。
 つまり、本格、新本格推理小説とは、もともと公然とは読むことのできない、私秘的で、野蛮で、子供じみたものだった。そして、ジル・ドゥルーズが『追伸―管理社会について』で予言したとおり、社会規範がよりプライベートな部分にまで及ぶ現代では、その存在する領域はますます狭まっている。

《「……きちんとした仕事になんて就けないんだから」》(p.307)

 陸秋槎は『雪が白いとき、かつそのときに限り』の発売に際したツイッターの投稿で、新本格の初期作品の特徴は、館や孤島、吹雪の山荘の印象が強いが、本当の共通点はミステリーファンの青春を描くことだと述べた。
 この現代社会で、高度な教育を受け、自尊心の高い人間で、自分の人生に満足しているものがいるだろうか。永遠の価値があるのは学問と芸術だが、資本主義の経済システムでは重要でなく、これに貢献する職業に就けるものは限られている。さらに新自由主義の経済政策は、こうした職業を必要以上に抑制する傾向にある。官庁や大企業に勤め、出世競争を勝ちぬけば、その重責で自分を納得させることができるかもしれないが、そうした人間は一握りしかいない。われわれはこうした求めるものを得られず、人生に挫折しても、結果的に日常のささやかな幸せに満足すると教えられてきた。そして、いまではそれが嘘だったことを知っている。結果、私たちは抑鬱と社会不安に苛まされ、一敗地に塗れている。
 いまホワイトカラーの職業に就いていて幸福なものは、自分の人生に無関心か、最悪の場合、ただ自己欺瞞で自分の人生を直視することを避けているだけだろう。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』の《陸秋槎》は27歳だ。ここで、ベネズエラ製の百合ゲー『VA-11 Hall-A』の主役の、大学院を卒業したものの自分の人生から逃げ、バーテンダーとして生活するジル・スティングレーが27歳であることを思いだす。個人的なことだが、私も27歳だ。希望はなく、日々、自己憐憫に耽り、自殺のことばかり考えている。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』はこうした精神を描破した。しかし、それはかならずしも暗いことではない。
 『元年春之祭』の訳書と同年、麻耶雄嵩は『友達以上探偵未満』を発表した。これは百合だったが、同時に《後期クイーン的問題》への解答でもある。本作は探偵役を2人おくことで、自己言及的な構造を打破し、《後期クイーン的問題》を回避した。そして、その2人の関係性が百合だ。古代の西洋哲学の用語で表せば、シンタグマに対するパラディグマの記号性の限界を、ディアレクティケーで打破する。超越論的主体において、悟性は主観的なものなので誤りうるが、理性は絶対に正しいと言える。よって、パラディグマを批判する際には、シンタグマに則り、そのパラディグマをもって、そのパラディグマを内破させる。この過程が対話、すなわちディアレクティケーだ。
 じつは麻耶雄嵩古代ギリシャのデモクラシーの援用による《後期クイーン的問題》の解決を、すでに『貴族探偵』で実践していた。『貴族探偵』では《貴族探偵》はただ真相を告げるだけで、推理は使用人が行う。アリストテレスは『政治学』で閑暇のほうが仕事より好ましく、それが目的(テロス)だと述べる。プラトンは『エウテュデモス』でソクラテスにそうした体制を批判させたが、古代ギリシャの貴族制ではソフィストたちが詭弁術を用い、そうしたディアレクティケーがデモクラシーを担保していた。推理は立法や都市建設と同様、奴隷身分のものの製作(ポイエーシス)となり、デモクラシーの埒外におかれる。なお、ドラマ版ではそうした新本格の概念は高度すぎると判断されたのか修正され、《貴族探偵》が使用人たちに推理を示唆している。
 『友達以上探偵未満』はこの概念をよりドラスティックに具体化したと言えるだろう。そして、それは必然的に《百合》を意味した。さらに、麻耶雄嵩はそれを上述の自意識や実存の問題まで展開した。

《「名探偵って世界の中心にいるでしょ。世界の中心を目指さなきゃ」
「世界の中心? 謎の中心にいるのは犯人よ。名探偵がいるのは世界の外」
「そんなわけはない」とももは何度も首を横に振る。「犯人なんて最後に正体を明かすまではひたすら気配を消している日陰者でしょ。関係者は名探偵の一挙手一投足に注目しているんだよ」》(『友達以上探偵未満』、pp.236-7)

 遺伝子の多様性の産物か、新本格推理小説が日本と中国で同時に百合と交差し、その限界を打破したのなら、その方向性は確かなものだろう。いまはただ、その未来を見守りたい。具体的には、早川書房にははやく陸秋槎の未訳である『桜草忌』と『文学少女対数学少女』の邦訳書を出版してもらいたい。