アポカリプス・ナウナウ - 終末モノの映画・小説・マンガ案内 -

"本書はみなさんに、世界が崩壊寸前にあることを、証拠をそろえて提示した。これを読んだ読者の大半はおそらく、それまでの考えを一変させ、世界の終わりが近いことを信じるようになったと思う。そうして……それだけだ。この問題に見合う行動は、個人的なものもの政治的なものも何も(ほとんど)起こらないだろう。"
(セルヴィーニュ、スティーヴンス『崩壊学』「あとがき」より)

・前書「COVID-19のパンデミックについて」

・事実確認

 COVID-19の流行は終末論ではない
 2020年4月末の感染者数・死者数は世界で280万人・20万人、日本で1万2000人・340人だ。あくまで公式なものだ。しかし、実質も誤差の範囲だろう。
 おそらく死者数が1000万人以内で流行は収束するだろう。
 感染率が全世界で100%に達したとして、死者数は数千万人だ。20世紀中に虐殺で死亡した人数の、半分にも満たない。

 ここ10Cで自然災害による死者は1500万人超。ここ2、3年では毎年約2万人が洪水で死ぬ。毎日2万人が餓死し、8億/63億人が飢餓と栄養失調で苦しむ。紀元前5Cから20Cまでに1億2千万人超が伝染病で死亡。毎年1000万人超が伝染病で死亡。700万人が悪性新生物で死亡。350万人が事故死(うち交通事故は100万人超)。…20C以前には1億3300万人が、20Cの88年間で1億7千万-3億6千万人が虐殺で死亡。16Cには160万人、17Cには610万人、18Cには700万人、19Cには1500万人、20Cには1億人超が戦争で死亡した。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった』より)

 2008年の『ニュー・サイエンティスト』掲載のDebora MacKenzie『Will a pandemic bring down civilisation?』は、パンデミックの結果につき、悲観的な予測を述べる。
 事例として挙げるのは、2000年のトラック運転手のデモだ。トラック運転手たちは、石油精製所を封鎖し、ガソリンの供給を止めた。この件では、デモが10日間続いただけで都市機能が崩壊した。
 石油メジャー「エクソンモービル」の危機管理部門によれば、1918年のスペイン風邪が再流行すれば、スタッフの25%が欠勤する。この場合は許容範囲だ。問題は、欠勤率が50%を超えた場合だ。これに関する対策は策定していない。
 2006年のWarwick McKibbin『Global macroeconomic consequences of pandemic influenza』(https://cama.crawford.anu.edu.au/pdf/working-papers/2006/262006.pdf)によれば、パンデミックにつき、最悪のシナリオで、死者数は1億4200万人、世界のGDPは-12.6%、4兆4000億ドル減少する。この想定は致死率3%だ。

 IMFは4月度の2020年の世界経済見通しを発表した(https://blogs.imf.org/2020/04/14/the-great-lockdown-worst-economic-downturn-since-the-great-depression/)。
 これによれば、第2四半期がパンデミックのピークとして、世界のGDPは-3%だ(前月比-6.3pt)。
 2021年までに、経済が2009年以前の状態まで回復した場合、2021年は+5.8%だ。2020年、2021年のGDPの損失は合計9兆ドルだ。
 2020年、先進国のGDPは-6.2%だ。発展途上国は-1.0%、中国を除外すれば-2.2%だ。
 以上は楽観的なシナリオに基づく。悲観的なシナリオでは、今年の半ばを過ぎても、パンデミックは拡大する。この場合、世界のGDPは2020年は-6%、2021年は-3.8%だ。

 スティグリッツは名著『世界を不幸にしたグローバリズムの正体(Globalization and Its Disxontents)』でIMFの体質を厳しく批判する。経済学における最高の知性であり、同時に、世銀で辣腕を振るったスティグリッツだけに、その批判は明晰かつ具体的だ。
 IMFは「ワシントン・コンセンサス」をドグマとし、そのため、失策を重ねてきた。
 IMFの体質が変わっていないとすれば、おそらく、現実化するのは悲観的なシナリオだろう。

・分析

 COVID-19による政治不信、景気後退、社会不安とはウイルスというより、免疫反応によるものだ。
 なぜなら、COVID-19と同等のリスクは無数に存在する。例えば、交通事故の年間死者数は世界で130万人、日本で3500人だ。戦争、貧困、犯罪、交通事故、労働災害アルコール依存症ギャンブル依存症。先進国各国において、人命のため、GDP-6%の縮小幅が許容できるなら、諸課題への対策は実施されていたはずだ。
 この経済政策の不備は、ディートン『大脱出』、ウィルキンソン、ピケット『平等社会』が詳しい。
(※COVID-19の対策を実施すべきではなかったという意味ではない)

 現在の政治、経済、社会はどのようなものか。
 ゴードン『アメリカ経済 成長の終焉』が、世界がいわゆる「長期停滞」にあることを立証している。
 ネグリ、ハート『マルチチュード』は、その社会の文化を述べる。低成長(本文では「近代以後」)の社会では、文化は原始的、神話的なものを志向する。
 同時に、労働と消費は祭祀的なものになる。労働は、グレーバーが『Bullshit Jobs』で「低能のためのクソ仕事:bullshit job」と呼ぶものが大半になる(https://toyokeizai.net/articles/-/231990)。また、消費も「浪費:誇示的消費」が大半になる。誇示的消費の概念を構築したのは、ヴェブレン『有閑階級の理論』だが、本書の内容は「低能のためのクソ消費」だ。
(※エリート主義ではない。この価値観は普遍的なものだ。『1日外出録ハンチョウ』の第58話『主従』の、「最高の焼肉は、小汚い焼肉店で安い肉を自由に食べること」という内容でさえ、この価値観に則している)

 総合すれば、現在の政治、経済、社会は、生政治的経済に基づくものとなる。ネグリ、ハート『〈帝国〉』、『マルチチュード』。マラッツィ『現代経済の大転換(原題:靴下の経済)』、『資本と言語』が詳しい。
 金融市場の膨張と経済格差の拡大につき、より具体的には、ピケティ『21世紀の資本』、アンソロジー『ピケティ以降』が詳しい。経済問題が政治、とくに労働組合の加盟率の急減に起因することは、ディートン、同前、ゴードン、同前が詳しい。

 ネグリは『マルチチュード』で以下のように指摘する。本来的に、国家は規律権力(規律的な行政権力)、管理権力(政治的な管理権力)、戦争(を起こす権力)の順番で、意思決定が為される。しかし、セキュリティが生産的な性格を帯びるに従い、この順番は逆転する。
 セキュリティとは、つまり生政治的なものだ。
 これが、COVID-19による影響を、ウイルスというより免疫反応だと言う理由だ。

 武漢市でCOVID-19の流行が起き、中国政府が、封鎖による感染拡大の防止を実施しようとしたとき、良識あるひとびとは「現実的に不可能だ」と考えた。しかし、各国政府は中国政府に対応を一任し、拱手傍観した。
 現在、先進国各国で都市封鎖が実施されている。これで感染拡大の防止ができるかと言えば、私たちはふたたび「現実的に不可能だ」と考える。つまり、イギリス政府の当初の対応策が、もっとも現実主義的なものだった。
(※ネットスラングで言えば「ブリカス」だ。しかし、現実主義への批判で使用する「人命尊重」という名目が、きわめて欺瞞的なことは、ここまで詳述したとおりだ)

 …ここまで長々と書いたが、COVID-19の流行に関する政治、経済、社会の概説は、浅田彰『疫病の年の手紙』が、私の知るかぎり、もっとも妥当だhttp://realkyoto.jp/article/asada20200424/)。

(私的なことを述べる。ツイッターについてだ。
 日本政府は「定額給付金」として、全国民への10万円の支給を決定した。財源は8兆円超の赤字国債の発行だ。言うまでもなく、赤字国債の累積は、利率の上昇と、潜在的リスクという、経済への悪影響がある。日銀が国債保有率の46%ほどを占めるという、日本固有の事情を踏まえてもだ。しかも、定額給付金が景気刺激策として、「完全に」無意味であることは、この愚策がリーマンショック後に実施されたことで立証された。しかし、日本政府は生活保障の名目で、この愚策を決定した。だが、生活保障と言うならば、この愚策は、低所得層向けの30万円の支給を改定したものだ。つまり、完全に論理的に破綻している。当然、景気対策と生活保障の財政出動はすべきだ。しかし、この愚策は有害無益でしかない。
 ところが、ツイッターでは、2クリック圏のアカウントでも、この愚策を賛成、少なくとも消極的に肯定するものが多い。だが、当然、朝日新聞日経新聞は、この愚策に批判的だ。つまり、ツイッターの品位はゴシップ紙未満ということだ。ゴシップ紙は精神衛生に悪い。そういう事情で、私はツイッターの利用をやめようかと考えている…)

・予測

 COVID-19のパンデミックで、政治、経済、社会は変わらない
 ここまで詳述したとおり、現在の先進国各国の政府の対応は、むしろ保守的なものだ。
 さらに、資本主義は、むしろ災害で拡大しようとする。これについては、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で例証する。
 パンデミックの収束とともに、生政治的な経済は、前年度以上に加速する。ただし、パンデミックという外圧により、全要素生産性は向上するだろう。これまでも、技術的には導入可能だったテレワークが、ようやく大規模に導入されたことが好例だ(しかし、パンデミックが収束すれば、導入されたテレワークは大半が撤廃されるだろう。低成長の社会では、労働と消費は祭祀的なものになる。ひとびとはふたたび、無意味に出勤させられるだろう。つまり… わざと、生産性を下げる(!)のだ)。
 ちなみに、戦争、災害で社会秩序の崩壊が起こることはない。アルドリッチ『災害復興におけるソーシャル・キャピタル』、ソルニット『災害ユートピア』は、逐次的に、ホッブスの自然状態という神話に反証する。

・なぜ、ここまで長い前置をしたのか。

 ドゥルーズは書斎派で旅行嫌いだった。旅行という文化を嫌悪してすらいた。(『記号と事件』所収の『口さがない批評家への手紙』より)
 つまり、ドゥルーズは、都市封鎖における模範市民だ。
 しかし、都市封鎖が代表する、生政治的な経済と権力をもっとも先鋭に批判し、その概念を構築したのが、他ならないドゥルーズだった。
 ドゥルーズは『黙示録』を嫌悪した。まさに、『黙示録』こそが、そうした経済と権力の構造を支える、暗愚さの象徴だからだ。(『批評と臨床』所収の『裁きと訣別するために』より。本論でドゥルーズは『黙示録』を批判した作家として、ニーチェ、ロレンス、カフカアルトーを挙げる。彼らの作品は、終末モノに直接、間接の影響を及ぼす)
 そして、COVID-19の流行を黙示録めいて考えているひとびとは、どうにも、読書嫌いで旅行好きのようだ。

 そもそも、アポカリプスというなら、私たちはすでにその中にいる。上掲の『崩壊学』によれば、エネルギー収支比率(ERoEI)は、アメリカで、20世紀初頭に100:1、1990年代に35:1、2010年代に11:1だ。世界平均は10-20:1。都市生活を経営するのに必要なのは12-13:1だ。
 地球資源に関する「ローマ・クラブ・レポート」は1960年代末から、2004年の改訂版まで、一貫して正確だ。2004年の勧告では、①人口を2040年までに75億人で安定させること。②工業生産を2000年度の20%以下で安定させること。③農業収穫高を向上させること。の3点を、持続可能性の条件とした。しかし、プロジェクトの主任のメドウズは、2013年に、もはや条件は存在しないと声明した。曰く「70年代、限界は誤りだと言われた。80年代、限界はまだ先だと言われた。90年代、市場とテクノロジーが、限界を克服すると言われた。2000年代、それでも成長以外に、限界を克服する方法はないと言われた」だ。

 念のために言えば、「スウェーデン国籍」「10代」「女性」の3つの属性で指示される、ある有名人はクソだ。ウェルベックの『セロトニン』では、話者の恋人が富裕層出身のエコロジストで、話者は恋人を「甘やかされた我がままなクソ女」と言って、環境破壊に与する(つまり、ゴミの分別をやめる)。もちろん、ウェルベックが正しい。人類に存続する価値があるというのは、増長した、自己中心的な考えだ。
 というより、専門機関の調査報告は無視するにもかかわらず、有名人の発言には一喜一憂するほどに人類が暗愚だから、環境問題はここまで深刻化したのだ。
 人類が絶滅しても、誰も困らない。人類とは、スピード狂の友人のようなものだ。死んでほしいとは誰も思わないが、死んだとしても、誰も同情しない。

 以下、終末モノを渉猟するが、それらは決して黙示録ではない。
 むしろ、私たちの日常と、黙示録の中間にあるものなのだ。

・本文

 各作品のネタバレをしている。適宜、注意してほしい。

・映画

 終末モノといえば、視覚的なものだ。従って、まず映画を紹介する。次いで、小説、漫画を紹介する。

スタンリー・クレイマー監督『渚にて』(1959)

 終末モノの古典。
 きわめてペシミスティックだ。なにせ、終末を目前にして、市民には安楽死用の睡眠薬が配布される(YouTubeの『Local 58』シリーズの元ネタ)。
 クレイマーの監督作は他に、『手錠のまゝの脱獄』、『ニュールンベルグ裁判』、『招かれざる客』(とくに後二者は傑作)とあり、きわめてヒューマニスティックなのが面白い。

・ジョージ・A・ロメロ監督『ゾンビ』(1978)

 いわゆるゾンビ映画の原点。同時に、到達点でもある。
 導入はテレビ局の報道番組のスタジオだ。緊迫した会話で、すでに社会が崩壊の瀬戸際にあることが分かる。そして、テレビ局のヘリで脱出する…
 きわめて小規模の予算で、簡単的確に、世界の終末を表現している。
 付言すれば、郊外で、いかにも予備役らしい、軍服を着た若者たちが佇立しているシークエンスも見事だ。無人のショッピングモールというロケーションについては、言うまでもない。
 終末という主題性と映像が、完璧に合致している。
 ヘリでの脱出をエンディングとするシノプシスは、あまりに見事で、諸作品の範例になった。

・『アイ・アム・レジェンド』(2007)

 …『ゾンビ』が原点にして、到達点に達してしまったのではないかという疑念をもたせる1例。
 大予算で、廃墟と化したニューヨークを見事に撮影している。…が、映画としては、それだけ。映像としては、見る価値がある。

ダニー・ボイル監督『28日後…』(2002)

 終末モノとして『ゾンビ』に比肩する、数少ないゾンビ映画
 クライマックスで、あからさまに宗教的なモチーフを引用する。ただの終末というより、「最後の審判」に近い。

白石晃士監督『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!最終章』(2015)

 映画の冒頭で、何者かが作った人形が、各所に大量に放置されていることが語られる。人形はゴミ袋で作ったもので、人間の大きさがある。意図が不明で、不吉な兆候だ。黙示録的だ。そして、クライマックスで、町全体に警報が響く。防災無線の警報だと推測できるが、状況は不明なままだ。慌てて外に出ると、人形が人間を襲っている。人形に触れられると、人間は灰になるらしい。
 いわゆるフッテージで、ごくごく小規模の予算ながら、世界の終末を的確に表現している。
 終末モノとしては、同監督の『ある優しき殺人者の記録』の台詞が、主題を端的に表現している。「信じてくれてありがとう」。妄想と区別できない啓示を他者が信じたとき、世界の秩序は回復する。

ジョン・ヒルコート監督『ザ・ロード』(2009)

 コーマック・マッカーシー原作なら、『ノーカントリー』のほうが虚無的にも思える。

ジョン・カーペンター監督『マウス・オブ・マッドネス』(1994)

 メタ=フィクション的に、作品の終わりと、作中における世界の終わりが同致している。このフィクションへの感覚の鋭敏さは、後述の『キャビン』と『カリスマ』も同じだ。
 その鋭敏な感覚により、初期作の『ダーク・スター』『要塞警察』、ポスト・アポカリプスの『ニューヨーク1997』、『エスケープ・フロム・L.A.』、明確に社会批判的な『ゼイリブ』、など、数々の名作を制作した。

ドリュー・ゴダード監督『キャビン』(2012)

 エレベーターの「チン!」。
 …終末モノとしては、メタ=フィクション的な外部の含意もある巨腕で、すべてが破壊されるエンディングだ。ここには、ラヴクラフト的な宇宙的恐怖の文脈もある(「クトゥルー神話」というジャーゴンは避ける)。

・同監督『クローバーフィールド』(2008)

 同監督の名前を出したため、一応。「等身大」の登場人物に感情移入させる「リアリティ」のためとはいえ、冗長が大部分で、とても勧められない。
 しかし、エンディングの、なにか巨大なもの(「KAIJU」)にアリのように踏みつぶされる感覚は迫真だ。

フランク・ダラボン監督『ミスト』(2007)

 人間が遭遇したくない状況がだいたい出てくる。
 終末モノとしては、ファイナル・シークエンスの巨大な怪物が白眉だろう。ここまで無限にアポカリプス的な状況に遭遇していても、諦めがつく。カントは『判断力批判』で、この感覚を「崇高」と定義した。
 映画版の『ミスト』で正しい選択についてはよく話題になるが、主人公、弁護士、宗教オバサンが、それぞれヴェーバーの「伝統的支配」「合法的支配」「カリスマ的支配」を代表していて、すべて、その悪い側面が表れただけだ。つまり、正解はない。なお、ヴェーバーは『職業としての政治』で、いわゆるこの「三類型」について、ごく簡単にしか触れていない。

スティーブン・スピルバーグ監督『宇宙戦争』(2005)

 傑作
 本作の360度連続ショットは映画史の画期とされる。
 他に、避難民たちに襲撃されるシークエンスが白眉。
 アメリカ人は銃と車があればなんとかなると思っているらしいが、本作では、銃と車が悪い方向にしか作用しない。

黒沢清監督『CURE』(1997)
・同監督『カリスマ』(1999)
・同監督『回路』(2000)
・同監督『叫』(2007)

 …黒沢清は『カイエ・デュ・シネマ』の「2000年代の映画ベスト10」の企画で『宇宙戦争』を第1位に挙げ、その声望を増した(その黒沢自身、鼎談で、こうしたランキングは本人のセンスが問われるため、不正確になりがちだという意見に賛成している)。

 『CURE』の、よく知られたプロットは以下のとおりだ。役所広司演じる刑事が、他人を催眠術で殺人衝動に追いやる記憶喪失の男を追跡する。が、実は、エンディングで、刑事がその能力を継承したことが示唆されている。そして、映画の全編に渡り、刑事を通じ、個人と世界の齟齬を描写していた。作品の終わりから数ヶ月後には、作中の世界が滅んでいることは、想像に難くない。そして、その世界の終末こそが、個人と世界の齟齬に関する、個人の精神病の「CURE:治癒」なのだ。

 『カリスマ』については上述した。《世界の法則を回復せよ》。「お前… なにしたんだ」。本作のロケーションは、ほぼ山中だ。スタッフロールが始まると同時に、それまでのシナリオとはまったく無関係に、崩壊する都市が山腹からロングショットで撮影される。そして、上空を高速でヘリが去ってゆく。
 あらゆる映画で随一のエンディングだ。

 『回路』はクライマックスの無人の銀座が白眉。
 その後、旅客機が低空を滑空して墜落するカット(当然、1カットだ)が終末の「崇高」の感覚をもたらす。
 エンディングの、洋上のほぼ無人の客船は、こうして見ると『渚にて』と『ゾンビ』の合わせ技だ。

 『』は黒沢清の終末モノの集大成だ。ここにおける「赤いドレスの女」のイメージは、そのまま『デス・ストランディング』に借用された。

 近作の『散歩する侵略者』もエイリアン映画で終末モノなのだが、『トウキョウソナタ』以降の作風の変化と、フジテレビの協賛で、以上の作品とは主題が真逆だ。

テリー・ギリアム監督『未来世紀ブラジル』(1985)

 情報省ビルと、ファイナル・シークエンスのロケーションが見事だ。ファイナル・シークエンスの「崇高」な空間は、ロンドンの南クロイドン発電所の冷却塔らしい。情報省ビルは、ポストモダン建築家の設計した、パリ郊外の公共住宅「アブラクサス」だそうだ。

・同監督『12モンキーズ』(1996)

 終末モノで、主演がまさかのブルース・ウィリスだ。
 だが、傑作だ。短編映画の『ラ・ジュテ』が原案になっている。
 メタ=フィクショナルな構造をもち、『ラ・ジュテ』と同様、ヒッチコックの『めまい』を引用する。『めまい』もまた、映画そのものの存立を揺るがす、メタ=フィクショナルな作品だ。

リチャード・ケリー監督『ドニー・ダーコ』(2001)

 …本作もまた、ループものの構造をとる。
 鬱屈した青春を過ごしたひとびとにとっての記念碑的な映画だ。
 世評で「難解」と言われることが多いが、そうしたひとびとにとっては、この上なく明快なシナリオだ(あえて通俗的に要約すれば、こうなる。10代にして限界を覚えた少年が、社会のことを分かっているクールな教師に認められたり、自己啓発セミナーのクソ講師を論破して喝采されたりして、最後には、かわいい彼女と妹を助けて死ぬ)。
 主題歌の『Mad World』の歌詞が、すべて言明している。

 "The dreams in which I'm dying are the best I've ever had."(人生でいちばんいい夢を見たんだ。僕が死んでいる夢だ)

 "Went to school and I was very nervous. No one knew me, no one knew me. Hello teacher, tell me what's my lesson. Look right through me, look right through me."(緊張して学校に行ったら、誰も僕のことを知らないみたいだった。先生に挨拶して、僕のクラスはどこか尋ねたんだ。でも、誰も僕のことが見えないみたいだった)

ヴィム・ヴェンダース監督『夢の涯てまでも』(1991)

 SFだが、ヴィム・ヴェンダースなら、終末モノの雰囲気は『さすらい』と『ベルリン・天使の詩』のほうが強い。

リドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982)

 やたらと版(ヴァージョン)があるが、単純に、ディレクターズ・カット版を推奨する。劇場公開版だけは論外で、クライマックスの、腐朽した公共住宅を舞台にしたシークエンスが大幅に除去され、ゴシック・ホラーの雰囲気が毀損されている。
 展開そのものは原作と同じだが、この雰囲気は映画固有のものだ。
 一方、原作はディックが得意とするミステリー・サスペンス的なシノプシスで、より直接的に主題を述べている。放射性物質の降下で火星への移住が進み、地上の動物は模造品で代替されている。また、人間も「情調オルガン」で自己の感情を制御する。賞金稼ぎのデッカードは、偽警察官、警察署分署の偽装など、さまざまな罠に遭遇する。まず疑うべきは、自分がアンドロイドかということだ。しかも、懸賞金のかかったアンドロイドは、人間より人間らしかった…
 映画、原作のどちらも終末モノに通ずる。ディックが『高い城の男』の田上について、"わたしにとって小説を書く上での大きな喜びは、ごく平凡な人物が、ある瞬間に非常な勇気を発揮しなにかの行動をするところを描くことだ。"と述べたことに注目しよう。

ルチオ・フルチ監督『ビヨンド』(1981)

 傑作
 "「汝は暗き海に向かい、とこしえにさまよわん」"。
 終盤で展開が混迷することについて、疑問を持つひとが多いようだが、世界の終末、秩序の崩壊としては、非常に納得がゆく。コーラスのある劇伴『Voci dal Nulla』とともに、上掲の『エイボンの書』の1節がナレーションされ、主役2人が荒涼とした冥界に放置されるエンディング・シーンは、死後の世界の表現として、もっとも説得力がある。
 序-中盤の、主役が老朽化したホテルの再建に苦慮したり、主役2人が「中年の恋愛」に躊躇したりという、ささやかでちっぽけな日常の情景が、主題性を支えている。

アンドレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』(1979)
・同監督『サクリファイス』(1986)

 タルコフスキーの『ストーカー』は終末モノの代表作とされる。いわゆる芸術映画からサブカルチャーまで、影響は大きい。
 さて、ここである逸話を引こう。カンヌ国際映画祭に関するシンポジウムで、若手の映画監督や批評家がデ・パルマのことをクソミソに貶していた。彼らの1人が「自分はタルコフスキーが好きだ」と言うと、脇で聞いていた蓮實重彦がスッとはいり、「タルコフスキーよりはデ・パルマのほうが映画を分かっている。タルコフスキー映画作家ではあるが、映画人ではない。デ・パルマは映画人だ」と言って、彼らを黙らせたらしい。感動的な話だ。
 タルコフスキーは著書でブレッソンについて、「ブレッソンがはじめて映画を芸術にした」と熱賛している。ブレッソンは『シネマトグラフ覚書』で、"演劇というどうにも始末に負えない因習"を厳しく批判している。ところが、タルコフスキーの映画は演劇的だ。
 無論、タルコフスキーの映画は傑作だ。しかし、この程度のことは弁えておかなければ、タルコフスキーの映画に感銘を受けたと言っても、インドのガンジス川や、オーストラリアのエアーズロックを見て「人生観が変わった」と言う、マジでしょうもないカスと同等だろう。

 『ストーカー』の映像は、とくに《サザーン・リーチ》三部作や、《裏世界ピクニック》シリーズに直接的な影響を与えた。ただし、注意点がある。参照元の重点は、幻想的な建築物の内部ではなく、ひとの手のはいらない自然だ。ティモシー・モートンの《ダーク・エコロジー》論や、『Collapse』掲載の思弁的実在論は、タルコフスキーを参照するが、これも、正確には『ストーカー』の自然だけだろう。
(※なお、これらの論者がタルコフスキーと並び、引用するのがラヴクラフトだ。しかし、実のところ、ラヴクラフトの作品で、プロットに世界の終末が関わるのは『クトゥルフの呼び声』だけだ。無論、宇宙的恐怖そのものは、ラヴクラフトの多くの作品で使用されている。『クトゥルフの呼び声』がセミ・ドキュメンタリー形式であることは、注目すべきだ)
 原作の『路傍のピクニック』の1節は、人間中心主義批判を見事に表現している。

"「ピクニックだよ。こんなふうに想像してみたまえ――森、田舎道、草っ原。車が田舎道から草っ原へ走り下りる。車から若い男女が降りてきて、酒瓶や食料の入った籠、トランジスターラジオ、カメラを車からおろす……テントが張られ、キャンプファイヤーが赤々と燃え、音楽が流れる。だが朝がくると去っていく。一晩中まんじりともせず恐怖で戦きながら目の前で起こっていることを眺めていた獣や鳥や昆虫たちが隠れ家から這いだしてくる。で、そこで何を見るだろう?。草の上にオイルが溜り、ガソリンかこぽれている。役にたたなくなった点火プラグやオイルフィルターがほうり投げてある。切れた電球やぼろ布、だれかが失したモンキーレンチが転がっている。タイヤの跡には、どことも知れない沼でくっつけてきた泥か残っている……そう、きみにも覚えがあるだろう、りんごの芯、キャンデーの包み紙、罐詰の空罐、空の瓶、だれかのハンカチ、ペンナイフ、引き裂いた古新聞、小銭、別の原っぱから摘んできた、しおれた花…」
「わかりますよ。道端のキャンブですね」
「まさにそのとおりだ。どこか宇宙の道端でやるキャンプ、路傍のピクニックというわけだ。きみは、連中が戻ってくるかどうか知りたがっている」"
ストルガツキー兄弟『路傍のピクニック』より)

 バラードは短編で延々と似たようなことを書いている。また、ギブスンも短編『辺境』で同様の表現を使用している。
 『惑星ソラリス』はレムの原作だと、主題は人間中心主義批判だが、タルコフスキーの映画では、単純に、個人の苦悩に回収している。
 『サクリファイス』は宗教的な雰囲気が強い。しかし、着物を着た男が、家に火を点けてバタバタするクライマックスは、まるでドリフの大がかりなセットを使ったコントだが、なぜか説得力がある。

ジャン=リュック・ゴダール監督『アルファビル』(1965)
・同監督『新ドイツ零年』(1991)

 『アルファビル』は文明の終焉を主題とした近未来SFで、間諜のレミー・コーションが管理都市「アルファビル」に潜入する。『新ドイツ零年』は初老のレミー・コーションを主役にした『アルファビル』の続編だが、なぜか崩壊する東ドイツが舞台になっている。しかし、主題は同じく文明の終焉だ。62分の短い作品だが、ゴダールの監督作の白眉だろう。
 ゴダールの監督作では、近作の『愛の世紀』、『アワーミュージック』も終末モノの雰囲気が強い。
 もちろん、『新ドイツ零年』の題名は、ロッセリーニの『ドイツ零年』にオマージュを捧げたものだ。ゴダールは『映画史』シリーズで、イタリアのネオ・レアリズモを熱賛した。驚嘆すべきことに、戦災のあとの廃墟で、稀代の傑作の群れが撮影されたのだ…
 『新ドイツ零年』では、モーツァルトベートーヴェンストラヴィンスキーショスタコヴィッチと、クラシック音楽の古典派、新古典派の楽曲を劇伴に使用している。
 このことは注目すべきだ。いわゆる「人間の終焉」と親縁的なのは、フィリップ・グラスアルヴォ・ペルトなど、現代クラシックのミニマリズムだろう。つまり、終末モノと「人間の終焉」は系譜が異なる

ケヴィン・スミス監督『レッド・ステイト』(2011)

 観ろ
 傑作カルト教団とATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)の銃撃戦が、奇妙にも、黙示録的な光景を招来する。

ラース・フォン・トリアー監督『メランコリア』(2011)

 近年における、終末モノの代表作だろう。小惑星の衝突による人類の滅亡が目前に迫ったひとびとを描く。
 内容はかなり単純だ。前半で、不快なひとびとの「こんな連中は死んだほうがマシ」という様子を描く(鬱病の人間には、不快なひとびとはとくに耐え難い)。後半で、人類の滅亡を目前にして、鬱病の主役がひとり勝ちする様子を描く。鬱病の主役は、小惑星の衝突の当日に、木の棒でテントを作ったりもする。はしゃぎすぎだろ。
 道満晴明が同名、同設定の漫画を描いた。詳しくは後述する。

 『崩壊学』は、文明社会の崩壊を認めたひとびとを、以下のとおり分類する。①冷笑:「それはいい。この社会は本当に腐っている。崩壊して当然だ。いっそ、崩壊万歳! と言いたいくらいだ」 ②無関心:「どうでもいい。文明社会が崩壊しようが、そのときどきで最善を尽くすだけだ」 ③サバイバリスト:映画マニア。シェルターを建設したり、サバイバル技術を訓練したりする。 ④エコロジスト:楽天家。トランジションや低成長を陳情したり、啓蒙したりする。
 本作の立場は… 分かるよね?

ウォン・カーウァイ監督『花様年華』(2000)

 ウォン・カーウァイの代表作。傑作。
 不倫の話。イギリス人が好きらしい。好きそう。

 とくにアポカリプスは関係ない。が、このリストに挙げたことには理由がある。
 エンディングのシークエンスが、アンコールワットでの長回しになっている。
 美学者の谷川渥は『形象と時間』と『廃墟の美学』を中心に、西洋絵画における「廃墟画」と、それに関する評論を分析している。おおむね、無人ネクロポリス:死都)荒廃(時間性)が、廃墟の審美的な特性のようだ。
 無論、これは終末モノの特性でもある。
 その意味で、本作は終末モノのジャンルに示唆的だ。

レオス・カラックス監督『汚れた血』(1986)

 パンデミックによる都市封鎖下なので、一応。
 「愛のないセックスをすると死ぬ」という伝染病の蔓延したパリを舞台にしたノワール映画だ。この映画を観て「物語の設定は、いまのソーシャル・ディスタンスを連想させます。主人公の青年は「愛」がなくて死んでしまう。ひととひととの繋がりが大切だということを切実に感じました」というコメントでもフェイスブックに投稿すれば、たくさんの「いいね!」が貰えるだろう。勝手にやってろ。
 実際の映画の主題は、孤独と相互不理解だ。ドニ・ラヴァンジュリエット・ビノシュがベッドに横並びに座って対話するシーンは、映画史に残る。このシーンは、同時に1つの方向しか撮影することができないという、カメラの性質を前景化する。

・小説

 メアリー・シェリーの『最後の人間』は読むな。『フランケンシュタイン』の著者による終末モノということで、近年、引用されることが多いが、内容はただのハーレクイン小説。『終末のハーレム』を読んだほうがマシ。逆に、本作をもっともらしく引用する人間は、それだけで疑わしいと識別できる。
 バラードは、この主題について記述するなら別稿を要するため、省略する

・ベン・H・ウィンタース著『地上最後の刑事』(2012)
・同著『カウントダウン・シティ』(2013)
・同著『世界の終わりの七日間(World of Trouble)』(2014)

 『地上最後の刑事』三部作。
 近日中に小惑星が衝突し、人類が滅亡することが、幾多の検証を経て、疑いなく証明された。ひとびとは諦念とともにその事実を認め、社会は緩やかに崩壊を始めていた… その世界で、ただひとり、警察官としての職務を果たそうとする新人刑事を描く。
 実のところ、この設定と主題は、第1作でほぼ描ききっている。
 いわゆる「喪の作業」に従い、第2作は狂躁的に、第3作は沈痛になる。
 というわけで、パンデミックにかこつけて、フェイスブックで「いいね!」稼ぎがしたいなら、第1作の『地上最後の刑事』がオススメだ。
 それは別論としても、終末を目前にした世界の哀愁や、真面目でひたむきな主役など、非常にいい作品だ。

・ウラジーミル・ソローキン著『氷』(2002)
・同著『ブロの道』(2004)
・同著『23000』(2005)

 『』三部作。
 三部作と題されているが、『ブロの道』と『23000』は『』の前日譚、後日譚で、副次的なものだ。実質的には『』がすべてだ。
 隕石落下現場から採掘された氷塊で胸を叩くと、選ばれた人間が覚醒する。その特徴が金髪碧眼で、覚醒したひとびとで構成されたカルトは、組織的、計画的に金髪碧眼の人間を襲撃していた。
 白眉は第3部だ。規模を拡大したカルトが、大企業の新製品の装置の試供を装い、条件に該当するすべてのひとびとに試験を実施する。その結果、無差別的に、無数のひとびとが覚醒する様子が、多数のインタビューのコラージュで描かれる。まさに黙示録だ。
 この手法はセミ・ドキュメンタリー形式とも言え、終末モノのジャンルに示唆的だ。バラードは終末モノで、写実調の文章を多用した。

・ミシェル・ウェルベック著『素粒子』(1998)
・同著『ある島の可能性』(2005)

 『素粒子』はいわゆる枠物語で、遺伝子工学によって創造された新人類による、旧人類のドキュメンタリーの体裁をもつ。まさに終末モノだ。
 「遺伝子工学で死を克服した新人類」というユートピア主義は、かなり分かりやすく、『Fate/Grand Order』の第1部のラスボスの目的にも借用された。
 『ある島の可能性』は、その過程を描写したSFスリラーだが、ウェルベックの全作と同じく、陰気な話者が延々と社会を愚痴りつづけていて、かなり笑える。

伊藤計劃著『虐殺器官』(2007)
・同著『ハーモニー』(2008)

 クラヴィス・シェパードがアメリカをホッブス的な混沌に導いたのは、当然、諸外国のためではなく、自分のためだ。そもそも、シェパードの行為は、直接的に、アメリカだけでなく、英語圏すべてを犠牲にする。間接的には、全世界を破壊する。実際、『虐殺器官』の未来という設定の『ハーモニー』で、そう説明されている。
 はてな匿名ダイアリーの『伊藤計劃虐殺器官』の"大嘘"について』という投稿は、本書と伊藤計劃のブログを引用して、本当のシェパードの動機を説明する。要は終末願望で、ノベルス版のp.99-100、文庫版のp.140に明記してある。
 その終末願望の背景である厭世観も書かれている。

"これでぼくらは三十だ。ぜんぜん大人になれていない。少なくともこのアメリカで消費サイクルに組みこまれているあいだは。"
伊藤計劃虐殺器官』より)

 そんな理由で世界を滅亡させないでください…
 主題を除いても、ポリティカル・サスペンス、ミリタリーSFとしてのアイディアが全章に充実していて、傑作だ。

 『ハーモニー』は、『素粒子』の枠物語をより洗練し、文体、物語、SF的なアイディアのすべてで、この主題の金字塔となった。
 その衝撃は甚大で、ギブスンの『ニューロマンサー』が英米においてそうだったように、国内のジャンルに決定的な影響を与えた。

 『虐殺器官』の表題、『ハーモニー』の章題は、ナイン・インチ・ネイルズからの引用だ。ナイン・インチ・ネイルズはしばしば社会批判を主題にしていて、とくにアルバム『ザ・フラジャイル』では終末思想が前景化している。このことは指摘しておくべきだろう。

・ジェフ・ヴァンダミア著『全滅領域』(2014)
・同著『監視機構』(同前)
・同著『世界受容』(同前)

 《サザーン・リーチ》三部作。『ストーカー』が影響を与えたサブカルチャー作品の中では、もっとも結実したものだろう。『ストーカー』と直接の参照関係がある『全滅領域』に、カフカ的な官僚機構と近代建築の『監視機構』、そして、いよいよ世界が終焉を迎え、ひとびとが物理的に変容してゆく『世界受容』だ。

 なお、ヴァンダミアと近しい位置にいるチャイナ・ミエヴィルについては、短編『ジェイクをさがして』(1998)で、終末モノについて、すべて表現している。

・漫画

・つくみず著『少女終末旅行』全6巻(2014-8)
・同著『シメジ シミュレーション』第1巻(2020)

 『少女終末旅行』は題名そのままのため、説明は省略。公式アンソロジーによる、作者自身による大学生パロディ(?)で、ユーリが"「私 過去も未来も好きじゃないもん」「今しかほしくない…」"と言って、チトを抱こうとする。しかも、チトの夢オチ。世界が終末で良かったじゃん!(?)

 『シメジ シミュレーション』は傑作だ。
 本稿を記述したのは、新刊である本作のためだと言っていい
 いわゆる「日常系四コマ漫画」の形式だが、むしろ、四コマ漫画の枠線を用い、枠外で無人感のあるロングショットを描写することに重点があるだろう。
 閑散とした地方都市を舞台とし、やはり人影のない田畑や郊外団地に、奇妙なオブジェクトが点在している。

・つばな著『第七女子会彷徨』全10巻(2009-16)
・同著『惑星クローゼット』全4巻(2017-20)

 『第七女子会彷徨』では、作品のキーナンバーである第7巻が終末モノになっている。
 『惑星クローゼット』は夢が不気味な異界に繋がっていて、しかも、夢がどんどん現実を侵食してくるというホラーだ。異界だけではなく、起きているあいだの、地方都市の描写もいい。

・模造クリスタル著『スペクトラルウィザード』(2017)
・同著『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』(2019)

 世界を破壊する魔導書を発明したために、逮捕・処刑されるようになった魔術師たちの物語。むしろ「終末は訪れない。だから絶望している」という作品。

道満晴明著『メランコリア』上下(2018-9)

 道満晴明が『ヴォイニッチホテル』で確立した、『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』方式の無関係のエピソードと伏線回収を活用している。
 同年の『バビロンまでの何光年?』も同様だ。
 どちらも、きわめて高い水準の作品だ。しかし、管見としては、あからさますぎるメッセージ性が没入感を損なっているようだ。
 その点では、怪雨(ファフロツキーズ)でカエルが降ってくる、奇妙で、不思議に晴れやかなエンディングの『ヴォイニッチホテル』に落ちるだろう。

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行』全14巻(1995-2006)

 もはや、内外に知られる終末モノの古典。

・余談

 Sound Hrizonのアルバム『Chronicle 2nd』(2004)Elysion ~楽園幻想物語組曲~』(2005)は終末論の主題が大きいので、気になったかたは、ぜひ!