シャニマスプレイ日記

・ノクチル完全に理解した。

 「○○完全に理解した」というネットスラングの軽薄さをいかがなものかと思っていた。
 だが、「○○完全に理解した」と言うときの客体は、「○○」そのものではなく「○○」のルールらしい。
 「将棋完全に理解した」と言うときは、将棋そのものではなく、将棋のルールを理解したことを意味する。子供がそう呟いたとき、たまたま近くにいたプロ棋士は、前者の意味なら将棋盤で撲殺するだろうが、後者の意味なら優しく応援するだろう。
 とくにSNSにおけるファンコミュニティが重要であるとき、その作品の文脈(コンテクスト)を理解していると宣言することには、特別な必要性がある。
 ノクチル完全に理解した。

・百合について私淑しているひとが「シャニマス」を始めたため、追随した。

・結果的に、大型連休をソシャゲーに費やすことになった。憂鬱だ。

・大型予算のプロジェクト。

 「デレマス」の派生的なコンテンツかと思いきや、まさかのフルボイスだ。さらに高品質の2Dアニメで、SSRのカードに専用のアニメーションを完備する。音楽は「デレマス」のままとして別論としても、ゲームシステムは整備され、美術は高度化し、キャラクターの人物造形およびシナリオは複雑化した。
 もともと「デレマス」が初代「アイドルマスター」に対し、AKB48のブームを意識したものだっただけに、乃木坂・欅坂48のブームを意識しただけのものかと思った(コンセプトがキッチュ、ポップなものから、より洗練されたものになった。ただし、これも程度の問題で、結局のところ、曲は主として秋元康が作詞作曲したキャッチーで簡単なものだ)。

 美術については「西洋美術史オタク、シャニマスのイラストについて考える」というブログ記事が詳解している。
 「デレマス」の単純な一人称視点に対し、「シャニマス」は視点の主体性を前景化し、さまざまな技法を用いているということだ。
 「デレマス」の一人称視点とは、つまりユーザーであり、「シンデレラガールズ総選挙」に代表される「デレマス」の即物性に消費者が閉塞感を覚えてきた… ということを、上掲の記事は、変化の理由にしている。

 だが、資本主義、さらには物質主義とは、強かなものだ。そのような「精神主義」すら、その派生物でしかない。
 上掲の記事はベラスケスの「侍女たち」を、西洋絵画史における「デレマス」-「シャニマス」間の変化の対応物にしている。
 さて、「侍女たち」と言えば、フーコーの「言葉と物」の序論だ。本論とはまったく関係のないこの序論につき、蓮實重彦は「フーコードゥルーズデリダ」の解説で、「言葉と物」の構成の説明だと分析する。無限の自己反射性、自己言及性ということだ。
 蓮實重彦は「ゴダール・マネ・フーコー」で、フーコーの「マネの絵画」の失敗を分析し、フーコーの方法論の限界を指摘する。フーコーの「マネの絵画」の中心的な論点は、「フォリー・ベルジェールのバー」で、この絵画の特性は、写実的に見えて、実は遠近法に則していないことだ。それは、つまり、絵がただの物質的な絵だということだ。しかし、フーコーはそのことを理論化できず、「マネの絵画」は失敗した。
 「精神主義」などというものも、最終的には物質性に還元できる。当然のこととして、これはあらゆるものに言える。このように、資本主義、物質主義とは、これほど強かなものなのだ。

 そもそもソーシャルゲーム全般のイラスト一般が不自然だった。キャラクターを画面の中心に配置したミドルショット。普通、この構図は避ける。配色についても同様で、それこそ「配色デザイン インスピレーションブック」レベルの配色デザインすら制限されていた。
 「三分割法」や「ポイント」で動きと奥行きのある構図にし、ときには手前に物を配置して、さらに奥行きを強調する。
 さらに、「シャニマス」の特徴として、彩度の低いシックな色彩設計をとる。カラーバランスも、補色は避け、色相関で90度くらいの範囲で調整しているようだ(キッチュ、ポップなイラストは例外とする)。なにより、もっとも特徴的なのは、ハイ・コントラストな照明と、浅い被写界深度のようなボカシだ。つまり、これ見よがしに一眼レフを首から下げたり、インスタにひたすら没個性な空の写真を投稿したりしているアホ女が撮りそうな写真の特徴だ。
 構図と題材につき、「シャニマス」のイラストは文脈を重視している。その証拠に、そのカードの主役であるキャラクターは、いかに画面の中心から離れていようが、つねに、最後に視線が向かう左下に配置されている。

 クリスタでは、浅い被写界深度はレイヤーを複製、ボカシをかけたものを再結合することで再現できるようだ。私も試したが、解像度300dpiの絵描きには無縁なことだった。

・やはり作家主義はある。

 Pの気持ち悪さがすごい。Pが喋るたびに、私の頭の中の事務職女性が「やッば~! きも~! 見て見て。鳥肌立っちゃった!」と、袖まくりして腕を見せてくる。幸いなことに、283プロの事務職女性ははづきさんなので、そのようなことは言わない。

 公式のコメントによると、アイドル毎にシナリオライターは固定しているらしい。が、さらには、ほぼユニット毎に固定しているだろう。
 ストレイライトのPには、ほぼ不快感はない。プレイヤーキャラクターは没個性な場合、性格は冷静沈着で、行動は合目的的なことが望ましいだろう。それ以外は、夾雑物になる。
 ノクチルのPの不快感はすごい。おそらくアンティーカと共通のシナリオライターだろう。ノクチルはまだそれほどコミュはないが、アンティーカは杜撰なシナリオの割合が明らかに高い。

 エーコは『記号論1・2』という記号論の教科書的著作を著した。そのエーコのフィクションに関する記号論、テクスト論の代表作が『物語における読者』だ。これによれば、作品は作者-作品の二項間で成立するわけではない。作者-作品-読者の三項間で成立するのだ。
 その意識のない作品は、作者の自己完結的、自己満足的な妄想に留まる。
 つまり、つねに読者の反応を予想し、その予想と対比的な展開にし、読者を誘導しなければならないということだ…
 ドゥルーズは『シネマ1・2』で、ヒッチコックを、監督-映画の二項間から、監督-映画-観客の三項間の関係に映画の文法を変えたとして評価する。実は、『サイコ』は現代で言うところのジャンルスイッチ映画だ。犯罪サスペンスが、主役がモーテルに泊まったところで、一転、サイコスリラーにジャンルスイッチする。当時の観客はかなりビックリしたらしい。このことは『定本 映画術 ヒッチコックトリュフォー』で、ヒッチコックが語っている。他の映画についても、ヒッチコックは観客の反応を念頭に置いている。
 逆に言えば、そのようなジャンルスイッチ映画を「ジャンルスイッチ映画」として特別に定義し、予定調和的で退屈な映画を工業的に大量生産している状況が、官僚主義だということになる。

 ストレイライトのシナリオライターは、三項間の関係でシナリオを書いている。
 「Straylight.run()」の「なんで冬優子ちゃんが泣くっすか?」は、不覚にも涙腺が緩んでしまった。見事にシナリオライターに誘導された。
 言わずもがなの説明をすると、冬優子は実際のところ、当然のこととして、建前論のみで押しとおすことに葛藤も抱いていて、建前をまったく使わないあさひを軽蔑するとともに、憧憬してもいた。そのあさひが、まさにその建前をまったく使わない戦略で敗北することで、冬優子はそうした複雑な葛藤を言語化=浄化することができた。だが、そうしてあさひを認めることができたときには、あさひは敗北し、本人にも意識できないところで傷ついていた… ということになる。
 若干、油断していたとは言え、本当にウルっときてしまった。ゲームの性質上、冬優子とあさひはかなり独立的なキャラクターで、ここまで物語で適合的に役割を演じることがあるとは予想していなかった。

 浅倉透のコミュも衝撃的だった。浅倉が人生、さらにはアイドルとしての成長をジャングルジムに喩える。その後、浅倉とは関係なく、Pが昔、ジャングルジムに昇った記憶を話す。そのときの私の心境は、「助けて! パパ! ジャングルジムから下りられないよ!」という3歳児のものだった。

 他のシナリオライターを批判して、ストレイライトのシナリオライターへの個人崇拝のようになるのは望ましくないため、その作家性、つまりシナリオの特性を分析しておこう。キャラクターの性格と行動原理が固定的で、その役割が強調されるように物語を構成する。同時に、細部の埋草にはコメディを多用する。これも、キャラクターの役割を道具にしたものだ。その意味で、方法論に一貫した方針(ポリシー)を見出すこともできる。アリストテレスの「詩学」の第1巻「悲劇」に次ぐ、散失した第2巻「喜劇」… あえてネガティヴに評価するなら、その点で、戯画的すぎるとも言える。実際、名編の「Straylight.run()」でも、冬優子とあさひの思想対立を明確にするために、対立が尖鋭化した場面で、あさひがかなり説明的な論調を展開している。要するに、かわぐちかいじの作風だということだ。「わが意志を達成するために、私は芸術品とも呼べる最高の武器を手に入れた。だから私はこれを縦横に駆使する! そのために必要ならば、何万ガロンの血も油も流す!」「違う!! 海江田! それではただの殺人鬼だ!!」「わたし、やるっすよ。冬優子ちゃん」「あさひィーッ!!」混ぜてしまった。
 まだあまりコミュを解放していないが、放クラ、アルストロメリアのシナリオも同様の方針(ポリシー)に則しているように見える。

 逆に、そういう政策の方針(ポリシー)のないアンティーカのシナリオは、多々、閉口させられる場面がある。延々とくり返される、アイドルがオーバーワークとなる自主トレーニングをしているところを発見して、それを止める展開。とくに展開的でない場面の、ヤマもオチもない、寒すぎるギャグ。本来なら、アイドルのトレーニング不足に対し、うまく操縦して自主性をもたせることが、ゲームとしての合目的性だと思うが… 合理性、合目的性の真逆のプロットをとっている。トップダウンで目標を下達するのは、現場、下請けに負担を転嫁するだけで、組織は腐敗する。ボトムアップで課題をフィードバックし、「カイゼン」を行わなければ、効率化は達成できないって、教わらなかったのか? 本田宗一郎がアンティーカのコミュを読んだら、PのP頭を耕運機でミンチにするぞ。
 もっとも、合理性、合目的性の真逆で、統治者であるPが、被治者であるアイドルに赦しを与えるという情緒性に、満足感を覚えるユーザーもいるのだろう。アンティーカのコミュについて、簡単にググってみたかぎり、多くのユーザーは不満タラタラだが… Yahoo!やBingで検索すれば、称賛されているのかもしれない。
 フォローしておくと、幽谷霧子さんとか、月岡恋鐘さんとかは、たしかにカワイイ。

・「ストライクウィッチーズ」の三段階理論

 複雑なのが、作品にファンダムとファンフィクションが関係してくることだ。私が高校生の時分、「ストライクウィッチーズ」がブームになったが、そのとき、掲示板にエイラが没個性だという書きこみがあった。むしろ、エイラは個性が強いほうのキャラクターだったため、初めは意味がよく分からなかった。よく確かめると、ペリーヌはツンデレ、ルッキーニはロリという萌え属性があるのに対し、エイラは萌え属性がない、いや、本来なら不思議ちゃんという萌え属性があるはずだったという意味だった。ヤバすぎる。社会、文化の識域上には現れないだけで、いわゆるB層が人口の一定のヴォリュームを占めており、キャラ芸人や、いわゆる「邦画」は、そういう顧客を客層として制作されているということを、触知した瞬間だった。サピア=ウォーフがエスキモーにフィールドワークする前に、日本のオタクにフィールドワークしていたら、サピア=ウォーフの仮説は「日本のオタクは萌え属性として語彙化されていない人格を認識することができない」という事例とともに発表されていただろう。
 サピア=ウォーフの仮説は誤りだ。いや、テストでは、中間色の語彙のある言語の人間は、その中間色を識別する割合が有意に高かった。色? 色って、温度の高いところが赤く見えることか? しまった、プレデターだ! どうりで人間用のテストが使えないはずだ。ぎゃーッ!
 高校生当時の私は、ステレオタイプ萌え属性に則したようなペリーヌ、ルッキーニはかえって没個性に思った。これは高校生当時の私だけではなく、ファン一般の感想であり、エイラに突出した人気があり、ペリーヌ、ルッキーニにはあまり人気がなかった。
 しかし、今では、これもステレオタイプ萌え属性にキャラクターの性格分析を支配されていて、かなり偏見のかかった観察だったことを理解している。
 これが「「ストライクウィッチーズ」の三段階理論」だ。

 間テクスト的な文脈(コンテクスト)によって、作品の意味内容は変わる。しかも、ファンダムとファンフィクションが関係してくると、文脈(コンテクスト)は処理できないほど複雑になる。
 バルトは「作者の死」でテクスト論を提唱したが、言うまでもなく、これは作品が作者から独立したなどという浅薄な主張ではなく、作者の創作が、パフォーマティヴ、つまり、ただの物理的な過程に具象化されたという主張だ。
 テクストを独立した存在と見なすことは、テクストを神秘化することではなく、知的、意識的にテクストの背景を捨象することだ。ナボコフは「ナボコフの文学講義」で、こう講義した。"シェイクスピアの同時代人は亡霊の実在を信じていたから、シェイクスピアがあれらの亡霊たちを実在のもののように舞台に登場させたことは正当である、という評論家の説を信じるかどうか、あるいは、それらの亡霊は何か舞台の小道具に似たようなものだと解釈するかどうかは問題ではない。"
 同様に、ナボコフは講義した。プロットの展開は、芸術家が仕掛けた諸力の組合せと相互作用から、論理的に、自然に生みだされなければならない。つまり、1.創造された世界は読者・観客を納得させるものであること.2.読者・観客はすべてが虚構だと知り、その上でゲームに参加していると弁えること.3.登場人物は全人間的な多様性を備えていること(そうでなければ、読者・観客は関心を失う。精神病患者は登場人物にそぐわない…).が必要だ。
 初見から10年以上経った今ですら、思いだすと涙が出るほど笑ってしまう、2ちゃんねるの書きこみがあるのだが…
 「涼宮ハルヒの憂鬱」の関連スレで、宇宙人である長門が、キョンに人間的に恋をするのはおかしいという流れで投稿された書きこみだ。

551 : 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/22(木) 19:43:41
△宇宙人
○対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース

ていうか宇宙人すらみたことない君が何故長門が地球人に恋をしないと言い切れる?

 このキモすぎる書きこみに、スレの住民は大爆笑。私もコピペしながら、ふたたび笑ってしまった。
 これは、作品に肯定的なために奇態を呈した例だが、作品に否定的なために奇態を呈した例も挙げることができる。ツイッターで「艦これ」の同人作品について、「秘書艦の仕事の描写がお茶汲みやコピー取りなのはおかしい!」とツイートしているアカウントがあり、腹を抱えて笑ってしまった。
 対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースや、秘書艦は、作品を神秘主義的な意味で、独立した存在だと見なしている。それが、彼らの発言が笑いを生む理由だろう。

 しかし、作品は制作者と、制作のための資源からは逃れられない。
 「シャニマス」に隠然とシナリオライターの存在感が表れていることは前述した。ソシャゲーでも「あんスタ」は、日日日の作家色が前面に出ている。「FGO」については言うまでもない。第2部からイベスト、メインストーリーのシナリオライターは秘匿するようになり、また、本編のストーリーはパート毎の分業制に移行した。が、パート毎の品質の高低は明白で、かえってシナリオの平均一般的な品質が低下した。「ガルパ」のイベストでも、ギャグが冴えていたり、構成が明確に理論的だったりして、作家性が表れることがある。「ちぐはぐ!?おかしなお菓子教室」、「Neo Fantasy Online -旅立ち-」、「What a Wonderful World!」などがそうだ。対して、「パスパレ探検隊~無人島を征くアイドル~」では「WWW」で調整役の麻弥が、逆に、場を読めないことになっていて、シナリオライターの個性が逆作用している(イベントの発表順は「パスパレ探検隊」が先だが、とくに、そのあいだに麻弥の人格に変化があったという描写はない)。ここでも個人崇拝を避けておくと、珍作のイベストである「6番目のAfterglow」の担当は、おそらく前者のシナリオライターだ。このイベストは、オチがないことがオチになっていて、個人的には面白いと思うが、一般的には不適当だろう。
(余談だが、「ガルパ」のアフレコは、どれほど感情的な場面でもアナウンサー的な発音を徹底しているのに対し、「シャニマス」では、ときに文面を無視することすらあることが、特徴が出ていて面白い)

 そして、ソシャゲーはファンダムとファンフィクションが密接に関係している。ソシャゲーはプラットフォームだ。名著「プラットフォーマー」は、プラットフォームの主要な価格モデルを以下のとおり紹介する。そもそも(少なくとも当面は)課金しない、試用期間後の課金(無料トライアル)、第三者的なプレイヤーと取引する(広告出稿者など)、一部に「プレミアム」サービスを課金する(フリーミアム)、手数料、入会金・会費、これらの併用。無論、ソシャゲーはフリーミアムだ。
 プラットフォームの基礎理論はロシェ=ティロールが競合プラットフォームの市場均衡として立論した。①ネットワーク効果 ②価格差別 ③製品差別化 による「ツー・サイド・ネットワーク外部性」だ。つまり、2者以上の顧客グループを媒介することで価値創造するということだ。この経済数学的な特性は、ネットワーク効果とクリティカルマスだ。つまり、関係数は利用者数に対し、指数的に増加する。そして、ネットワークが自立するだけの利用者数を達成すれば(変曲点(ティッピング・ポイント))、圧倒的な優位性を獲得するということだ。ソシャゲーでも、質的には変わらないブランドの明暗が大きく分かれるのはこのためだ。
 「メギド72」などは、このクリティカルマスを突破するため、「号泣」と「メギド言えるかな」という大きな釣針(フック)を用意していた。
 「ソーシャルゲームのビジネスモデル」では、ソシャゲーをはっきりフリーミアムとして定義している。社会調査「ソーシャルゲーム・ユーザー調査」では、「無課金」「1万円未満課金」「1万円以上課金」の分類で、平均値に明確な差異があったのは「当該ゲームで交流があり、かつ、他のSNSで交流のある友人数」と「当該ゲームで交流があり、かつ、実際に会ったことのある友人数」の2項だけだ。そして、「1万円以上課金」になると、この2項の平均値が爆発的に増加する(前2者が2-3人なのに対し、10人以上に増加する)。さらに、多変量解析でも、交流友人数(対数)が最大の要因だ。課金額について、p値0.01、相関係数1.28だ。課金-無課金の二値についても、p値0.01、相関係数1.11だ。こうして、「ソーシャルゲームのビジネスモデル」は、ネットワーク効果をソシャゲーの最重要の要素だと分析する。
 私はソシャゲーへの課金をバカげているようにしか感じないが、それは(SNSですら)友人がいないからだと納得した。
 「ファンダム・レボリューション」はファンダムを「(クリティカル・マス×情熱)+プラットフォーム」、つまり"オブジェクトへの情熱を表現しあえる場所を見つけた、大勢の人たちによる自発的活動"だと定義する。ファンダムは人ではなく行動であり、参加体験の有無が、消費者とファンを区別する。
 よって、もはやファンダムとファンフィクションは、ソシャゲーのシステムの一環だと言える。制作スタッフのインタビューは、ほぼ必ずSNSの反応に触れている…

・逸見エリカの人造人間

 つまり、作品の文脈(コンテクスト)は、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースや、秘書艦のようなひとびとも参加するファンダムが部分的に決定することになる。
 「シャニマス」について、Pがアイドルという営利活動の主体にキャラクターを誘導することは、ゲームのシステム上、当然だが、そうした一元的な見方をするひとびとにとってはパターナリズムということになるだろう。というか、ツイッターに何枚かのスクショを貼って、「これはパターナリズムだ」という説明を付ければ、大量の「いいね!」が獲得できるのだろう。しかし、私にそのゲームはプレイできない。

 「シャニマス」は作品を高尚化、複雑化しているため、Pのそうした行動が悪目立ちする。しかし、初めからシナリオが酷い「デレマス」の財前時子や、篠原礼のコミュなどは、一周して逆に面白い。篠原礼のコミュでは、篠原さんが、テレビ番組の食レポの収録で、成果を出せずに悩む。例によって、Pがありのままの自分を出せばいいとアドバイスする。結果、篠原さんは下ネタなぞなぞを連発。撮影クルーも店主も大盛り上がり。篠原さんも素の自分に自信を持つことができた、という結末だ。お前ら全員病院行け。

 一元的な見方をするひとびとのファンフィクションはと言えば、オリジナルP、オリジナル提督。私、私、私… お前ら、そんなに自分が好きか? と尋ねたくなる。
 「シャニマス」は、キャラクターの人物造形を二重構造にすることで、複雑化した。「一見、明るいが、実は…」という構造だ。
 ここで思いだすのが、逸見エリカの突発的な人気だ。テレビシリーズの『ガールズ&パンツァー』で、逸見エリカは噛ませ犬であり、噛ませ犬以外の何物でもなかったにも関わらず、ファンダムで爆発的な人気を獲得した。というか、私も逸見エリカが『ガールズ&パンツァー』で、いちばん好きなキャラクターだ。その要因は、エリカが対人関係に不得手で、その点、内面に不安を抱えているように《見える》からだろう。ヴィルノの「マルチチュードの文法」によれば、現代のマルチチュードの特徴は、「自分の家にいない」と感じることだ。逸見エリカは、こうした心性を的確に捉えた。おそらく、今後は逸見エリカの人造人間、つまり、記号的な人格(キャラクター)に見えて、内面に不安を抱えているというキャラクターが量産されるのではないだろうか…
 とくに、ソシャゲーの大量のキャラクターが性格診断の図表のように、経済資本・文化資本社会関係資本による階級で決定されたアイデンティティ・ポリティクスと結合し、階級闘争どころか、階級の再生産を行うところを想像すると暗然とした気分になる。「推し」、「◯◯の人生」。つまり、サルトルの「文学とは何か」が逆転した形だ。歴史という一時期において永遠の人間を反映するのではなく、人間の一瞬を正当化するために、現在の社会状況を永遠のもののように神秘化する。

・で、結局、「シャニマス」はどうなのか。

 別段、政治性を持ちこむつもりはない。というか、フィクションに明示的に政治性を持ちこむのは、一元的な見方をするひとびとのほうだ。ジェンダー・バイアス、ポリティカル・コレクトネス。つまり、ただの政治的に無力な権威主義者であり、「自由からの逃走」を経たひとびとだ。サルトルですら「文学とは何か」で、「作家は反逆者であって革命家ではない。むしろ、異邦人としての自分を感じるために、社会秩序の維持を望む」とまで言っている。作家が行うのは、結果を伴わない反逆なのだ… この点、サルトルの小説を嫌ったナボコフも、同じことを言っている。"だが本当の芸術家とは、何事についても「言うまでもないこと」とは決して考えない人のことなのだと申し上げておこう。"、"「リアルな人物」や「リアルな犯罪」や「メッセージ」(いかさま改革者たちの隠語から借りてきた、ぞっとするほどいやらしいこの言葉)"…
 要するに、コスる(当てこする)のがメチャクチャうまいということが、文学的に秀逸だということであり、同時に、政治的に尖鋭だということだ。
 ジェンダー・バイアスやポリティカル・コレクトネスを真顔で主張するひとびとのユーモア精神の欠如、そして知的な愚鈍さ、政治的な無能さは、笑えないほどだ。
 私が言いたいのは、せいぜい、「シャニマス」で言えば、ストレイライトの担当のシナリオライターのほうが、アンティーカの担当よりも、コスるのがうまいというくらいのことだ。

 なら、担当が同じシナリオライターであろう、ノクチルも微妙なのか?

 とんでもない。

 「シャニマス」のキャラクターの二重構造につき、ノクチルはおおむね、二層目をノクチルの他のメンバーに対する社会的感情として設定しているようだ。
 例えば、樋口円香は他人に攻撃的だが、浅倉透に執着している、というところだろう。
 この樋口円香が、Pに頻繁に嫌味を言うのだが、これが、まったくうまいことを言えていない。おそらく意図的にではなく、単純にシナリオライターの力量が不足しているためにだ。例えば、あさひの無自覚な煽りは、きちんと煽りになっている。作中、作外の二重の観点において、樋口が的外れな嫌味を言うたびに、羞恥心を覚える。
 だが、17歳とは、こういうものではないか?

 ストレイライトの担当のシナリオライターでは、こうはならなかっただろう。
 ノクチルのサポコミュは、イヴェントを発生させないことで、直写的にすることをコンセプトにしているのだろう。だが、あまりこなれていない。例えば、あさひの「あめ、ゆき、はれ」のサポコミュも日常の素描だが、情景喚起的で、詩美的なものになっている。
 音楽で言えば、アーティキュレーションが際立っていて、オーケストレーションが整合しているということになる。しかし、ノクチルのサポコミュは、雑味がその良さを引立てている。雑味もあながち嫌うものではない。この糖度、口当たりの良さ、なんてフルーティーで美味なワインなんだ…! それはジュースです。

 必死こいて嫌味を言おうとしている、自意識で自縄自縛された17歳の樋口。その樋口が執着する、なにも考えていない浅倉。
 《樋口と浅倉》のことを考えたら、数年来で透明な感情になった。

 ソシャゲーの制作スタッフがSNSの反応を確認して、プラットフォームのエコシステムを循環させているなら、そうして「樋口がうまいこと嫌味を言おうとして、うまく言えていないのがいい」と喧伝することで、本当にうまく嫌味を言うように、修正されてしまうのではないか?
 心配は無用だ。ノクチルの担当のシナリオライターに、その力量はない。