2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

Twitterにおける映画感想がダメなものになりがちな理由』(https://theeigadiary.hatenablog.com/entry/2020/04/27/130621

1. 批判を避ける、また過大評価する傾向。(「合計100兆点」など)
2. レッテルが付いた作品だけは過剰に批判する。(「見る拷問」など)
3. 紋切型・定型句の反復。(「○○はいいぞ」など)
4. マンガ化による水増し。
5. 役者・キャラクターへのフェティシズムの表明。(役者の画像を4枚並べてツイートするなど)
6. ファンダムの自己愛。(「○○の場面があっただけで100点だった」など)
7. 大喜利。(「『すみっこぐらし』は実質『ジョーカー』」など)
8. マイナーへの専門分化。(アルバトロス映画を全作鑑賞するなど。無論、それ自体は良いことのはずだ。だがSNSの場合、1~7までと容易に結びつく)
9. 時事、とくにポリティカルコレクトネスとの当否による安直な評価。
10. 字数が短くなりやすい。

 上掲の記事は映画に限らず、Twitterにおける作品の感想が陳腐化しやすい原因をよくまとめている。

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035
 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916
 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 2017年に個人的な百合マンガの年間傑作選を選定したときは、まさか4年も続けることになるとは思ってもみなかった。
 この3年間は、上掲の記事が指摘する、判断基準の画一化・固定化、評価の偏向に陥ることなく、客観中立的に良作を選出できたと思う。
 ただ、もうやめたい気分も多分にある。3年も続けたため、今年は百合マンガを読むときに次の年間傑作選における位置を考えてしまい、雑念が混ざることになった。私は作品を読むときは全身全霊で楽しみたい。なので、今年はもう来年度の年間傑作選は選定しないことを前提として過ごす。それでも、来年になれば日記帳を読み返して適当に順位付けするかもしれない。

 2020年に読んだ百合マンガのなかでは、模造クリスタルの『ゲーム部』がもっとも素晴らしかった。2020年どころか、この数年間でもっとも心が揺さぶられた作品だった。ただし、2020年に発行されたものではない。というのも、同人誌で商業出版はされていない。しかも、最終巻と後日談の巻はダウンロード販売もされていない。八方手を尽くして探してほしい。
 詳しい感想は別稿で記事を書いたため、そちらに譲る。強いて言えば、『The Red-Headed League(赤毛連盟)』の以下の引用が説明になるだろう。

"“Try the settee,” said Holmes, relapsing into his armchair, and putting his fingertips together, as was his custom when in judicial moods. “I know, my dear Watson, that you share my love of all that is bizarre and outside the conventions and humdrum routine of every-day life. You have shown your relish for it by the enthusiasm which has prompted you to chronicle, and, if you will excuse my saying so, somewhat to embellish so many of my own little adventures.”
“Your cases have indeed been of the greatest interest to me,” I observed.
“You will remember that I remarked the other day, just before we went into the very simple problem presented by Miss Mary Sutherland, that for strange effects and extraordinary combinations we must go to life itself, which is always far more daring than any effort of the imagination.”"
(「かけたまえ」ホームズは彼が厳正な気分のときいつもそうするように、安楽椅子に深く沈みこみ、両手の指を合わせながら言った。「君が毎日の生活の単調なくり返しや決まりごとから外れた奇妙な物事への愛を、僕と同じくすることは知っている、ワトソン君。君を記録へと駆りたてる情熱によってすでに君の関心は見せてもらった、そして、そう言うのを許してもらえれば、細々とした僕のささやかな冒険を物語仕立てにしたものによってね」
「君の事件は実際私にとってもっとも興味深いものだった」私は論駁した。
「君は僕が以前評したことをおぼえていると思う、つい先日僕らがメアリー・サザーランド嬢のごく単純な事件を調査したときのことだ、僕たちは奇妙な結果や超常的な組合せというものを日常それ自体に求めなければならない、それはどのような想像の産物より素晴らしいものなんだ」)

 第2次本格ブームである新本格ブームが日本で起こり、その第2世代、第3世代が「日常の謎」というジャンルを興隆した。だがコナン・ドイルはすでに推理小説の端緒(※)でその本質を言い表わしていた。(※『赤毛連盟』は短編第2作。なお、コナン・ドイル以前の探偵小説が探偵小説であっても推理小説ではないことは、コナン・ドイル自身が当時のインタビューで説明している)

 2020年に訳書が発行されたデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』はGeoff Shullenbergerの『The Rise of the Voluntariat』を引き、以下のように指摘する。企業は支払い労働(ペイレイバー)の代わりに、在野の自発的な成果を刈り集め、大衆的熱狂や創造性の成果を「デジタル小作農(シェアクロッピング)」し、私有化、市場化するようになりつつある(p.285)。
 2020年の訳書で最良の経済書であるグレン・ワイル、エリック・ポズナーの『ラディカル・マーケット』は、第5章『労働としてのデータ』で、このことを「テクノロジー封建主義」として、より包括的・体系的に議論している。
 マンガについてどれだけの作品がデジタル・シェアクロッピングかの統計は、私が知るかぎりない。ただ、ライトノベルについては、すで市場全体の総売上の40%超が単行本だ。そして、単行本のほぼすべて(オリジナル作品があったとして5%未満だろう)がデジタル・シェアクロッピングであることは、周知の通りだ。
 そして、この企画・制作・販売の過程の変化は、作品の内容に強い影響を及ぼしていると私は考える。
 グレーバー曰く、従来の娯楽は、お喋りや政治談議など、1日がかりのものだった。新出の娯楽の特徴は、ジム、ヨガ教室、デリバリー、ショッピング、ストリーミング配信の鑑賞など、分刻みでできることだ(p.322)。また、グレーバーは、「厳格にヒエラルキー的な職場には非-性的なサドマゾヒズムネクロフィリアが蔓延する」というフロムの『The Anatomy of Human Destructiveness』と、フロムの論文を発展させたLynn Chancerの『Sadmasochism in Everyday Life』を引き、これはブルシット・ジョブの職場に特有のものだと指摘する(p.167)。
 創作活動はブルシット・ジョブにはなりにくいが、作品鑑賞は消費の一環として当然にブルシットなものになりうる。そして、そのための作品の物語と形式はブルシット化し、顕著なこととしては、登場人物が動物化・機械化する。つまり、いわゆるツイッター漫画だ。
 以下では人生の1日を捧げるに値する作品を紹介したい。

・マンガ

 去年までの記事で紹介した作品の続刊については、基本的に省略する。
 つばな『惑星クローゼット』は第4巻、毒田ぺパ子著『さよならローズガーデン』は第3巻で完結。

1. つくみず『シメジ シミュレーション』第1巻

 『少女終末旅行』を完結させたつくみずの新作。
 四コマ漫画の形式で、枠外に、廃墟画のような閑散とした地方都市の風景を、無人感のあるロングショットで描くことに成功している。この形式は発明だ。さらに、そうした田畑や団地の風景には奇妙なオブジェクトが散在し、不条理感を強調する。
 チトとユーリが客演する、地階が駐車場になっているため空中楼閣のようになっている、地方特有のファミリーレストランのロケーションが見事だ。

1. なおいまい『ゆりでなる♡えすぽわーる』第2巻

 もともと妄想と現実で前後編に分けて対比するというハイ・コンセプトな作品にもかかわらず、主軸の物語が進展した第2巻ではさらに内容が深化・強化した。
 第7話『最後の一本』で、ついに、駒鳥にとっての諸悪の根源である、花籠総矢が本格的に登場する。その物語上の決定的な分水嶺にもかかわらず、第7話後編で明かされる朝雛先生と花籠の関係は強固で美しいものだ。だが、この朝雛-花籠の関係に、花籠の結婚の当事者である駒鳥は存在しない。その意味でこの関係は(俗語でなく、文芸批評の術語としての)ホモソーシャルだと言えるだろう。しかし、それは花籠における雨海-駒鳥の関係も同じだ(ただし、ここでは花籠と駒鳥の父親が不平等に政治権力を保持している)。
 なぜそれだけの強固さと同時に、無力さが生じてしまうのか。
 イヴ・セジウィックは『男同士の絆』でホモソーシャルについて以下のように指摘する。まず、ありがちな誤解として、家父長制による女性支配はホモフォビアを必要としない。古代ギリシャがその極端な例だ。つまり「男を愛する男」と「男の利益を促進する男」は、古代から近代までに、何らかの原因で分離された(p.4)。明確に両者が分離されるのは近代だ。そして、その決定的な転換点はオスカー・ワイルド裁判だった。オスカー・ワイルド裁判以後、同性愛のイメージは、ホモフォビックにしろ、ホモフィリックにしろ、純粋に性的・想像的なものになった。男性同性愛は「貴族的」なものと見做され、同時に「貴族的」なものは女性化・無力化された。同性愛は、一方はワイルド的=「悲劇的」、もう一方はロレンス的=ホモソーシャルかつホモフォビックなものに分裂した(無論、このことは知的中産階級の勃興に伴う)。そして、それはエロスと政治の分裂を意味した(p.332)。
 第3巻の収録予定作になるが、この先の展開(駒鳥さんがゲロを吐く回)では、かつてないほど心が揺さぶられた。ここで、すでに花籠に悪意がないことは示されている。つまり、ここでは、現実および社会的な次元と、個人の想像的な次元の乖離が描かれている。たとえ、その相手に悪意と社会的な次元における欠点がなくても、どうしても生理的に許容できない人間がいることは、公然たる事実だ。それは内発的な、つまり自然な感情にもかかわらず、内発的であるために、多くの人間は、その感情を社会において不合理・不道徳なもの、つまり不自然なものとして自己否定する。だが、自分がその人間をそれだけ嫌うならば、その人間にはそれだけ嫌われる理由があるはずにちがいない、という考えは、強姦に遭った被害者には、強姦に遭うだけの理由があったにちがいないという考えと変わらない。無論、因果関係はある。だが、その因果関係は個別具体的な、物質的な次元のもので、抽象的な、社会的な次元とは事実上関わりがない。そう、物質的な因果関係はある。
 だからこそ、私たちは想像力で戦わなければならない。それは想像的な次元の王座で、存在しない貢物を得ることではなく、むしろ想像と現実の国境線において、存在しない王権をもって、現実の国土を侵略することなのだ。
 それは、セジウィックが『男同士の絆』で引用する、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』におけるイデオロギーの定義のとおりだ。「イデオロギーは現状に存在する矛盾を通時的な物語に鋳造して隠蔽する。これは古い価値観を一見、理想的に見せるものの、実は新しいシステムに則り、古い価値観の物質的基盤を浸食する」(私は簡単に、フィクションは短期的には現状を固定化するが、長期的にはより大きな影響を及ぼすくらいに解釈している)。
 だから、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の以下の評言には、より注意を払わなければならない。

"不信心はそもそも、これらの英雄と思われた人物たち、これらの本当の聖人たちの致命的な敵である。だから彼らは冷静な悪ふざけ好きや皮肉屋に対して、もったいぶり道義家ぶって激怒するのだ。"

 ゲストの物語も第7話まで来て、マンネリ化するどころかますます先鋭化する。第7話に至っては、駒鳥さんの妄想も行くところまで行った。
 第2巻は短編の傑作『カレーをたべる♥ふぁむふぁたる♥』も収録。

3. 久保帯人BURN THE WITCH』第1巻

 モノトーンの画調に、ジャンプ・カット、ストップ・モーション風の、明晰で迫真のコマ割りと、『BLEACH』から久保帯人の演出がさらに研ぎ澄まされている。美術のスタイリッシュなセンスもいい。
 物語のスタイリッシュな台詞回しもますます冴えている。「シンデレラの魔法が零時で解ける本当の理由を知ってる?」。
 7体の童話竜(メルヒェンズ)、「シンデレラ」「スノーホワイト」「レッドドレス」「ゴールデンアックス」「バブルズ」「シュガーハウス」「バンド・オブ・アニマルズ」とかの、やりすぎのきらいがあるそういうセンスも健在。

4. 西尾雄太水野と茶山』上下

 物語はそのまま『ロミオとジュリエット』だが、主題はその古典を反転させている。
 効果音による生活環境音の強調と時間経過の処理で直写性を挿入している。しかし同時に、モノローグと単ページ、見開きで、説話を粒だったものにしている。
 つまり、『ロミオとジュリエット』は教科書的知識として、近代的自我の誕生による名前と自己の乖離が主題にあるが、本作では逆に自己同一性を確立することで、『ロミオとジュリエット』的な悲劇を回避する。そのため、最終話では茶山が自分の名前を受容する。また、それは市民社会市場経済にコミットメントすることでもある。
 クライマックスの見開きのスプリンクラーの場面は見事。
 會川はティボルトの役回りだが、最終話での水野の"そう声をかけようと思ったけどそれは私が言うべきことじゃない気がしてそのまま別れた"というモノローグも素晴らしい。ここにおける、外面的には独立しているが心理的には共感しているという、個人主義的な態度に作品の主題が通底していることは言うまでもない。

5. 缶乃『合格のための! やさしい三角関係入門』第1巻

 真幸が悪い
 が、真幸を中学生にし、表現においても童顔を強調することで、その責任を阻却させている。これで真幸が中学3年生でなく高校3年生ならば、読者の理解と、少なくとも部分的な共感は得られないだろう。
 三角関係であるのみならず、三角関係に対する姿勢も、凛が賛成、あきらが反対、真幸が思想としては反対だが感情としては賛成と、三者で分かれていて、そのことが三角関係というか、3人の関係性を動的なものにしている。筆運び(ストーリーテリング)も達者で、作者の円熟味を感じる。

6. 須藤佑実夢の端々』上下

 シナリオが巧みだった。
 ネタバレ解説:(上巻では女同士の同居という理想的な仮想の結末を提示し、各話でその可能性が潰えるさまを1話ずつ描いていく。その可能性の焼尽が訴求力の燃料になっている。
 下巻では心中未遂と小指の欠損に関する真相が明かされる。だが、心中未遂の前は貴代子とミツの性格が真逆だったという新たな謎が提示される。そして、性格が真逆になったのは、ともに死ぬのではなくともに生きると決意したためだと明かされる。そして、死ぬのではなく生きるのを決意した理由は、ただ相手が生きているという事実だけで生きていけると理解したからだと語られる。こうして、可能性が焼尽していった半生の意味が逆転し、読者に感銘を与える。ラストは美しい。
 まあ、ぶっちゃけこのプロットのアイディアは東野圭吾の『白夜行』のパクリなんだけど。

7. 真田つづる『私のジャンルに「神」がいます

 デジタル・シェアクロッピングで商業出版された。SNSに過度に依存することは良くない。後編の柚木さんみたいになるぞ。後編の柚木さんは、即売会で綾城さんを見かけたら「かーっ///」と顔を赤くするだろう。ツイッター漫画のように。ツイッター漫画が洗練されるのではなく、私たちの人生がツイッター漫画のようなものに幼稚化する。それが嫌ならSNSの過剰な使用は控えるべきだ。
 ただ、これは本作の内容とは関係のない話だ。
 実際は、作者がキャラクターを客観的に見て、ストーリーを制御することができなくなっただけだ。おかげで、綾城さんとそのコミュニティが、作品よりその二次創作を重視する珍集団になった。
 単行本の描きおろしも、その延長線上にあるために微妙な反応をしてしまう。おまけページの長文マシュマロとかのほうが面白かった。

8. くわばらたもつ『あなたと私の周波数

 『お前に聴かせたい歌がある』が、プロットが気が利いていて良かった。

9. いとう階『函・電網・乙女』(『Z』)、『体験しよう! 好感異常現象』(『S-Fマガジン』)

 読み切り2作品だが、どちらも百合SFで年末に発表されたため併せて。

 『函・電網・乙女』は素晴らしかった。『ヴィクトリア朝のインターネット』×『ファイト・クラブ』×『リヴァイアサン』(伊藤計劃三部作だ)。ヴィクトリア朝タイピスト、電信の交換手といった新技術の労働需要が、女性の経済的自立を促し、「新しい女」という新語を要請する社会・文化をも形成した(余談だが、キム・ニューマンの『ドラキュラ紀元』の新版の後書きに、「新しい女」という言葉が作られたのは1892年のため、その言葉が登場する『吸血鬼ドラキュラ』の年代はじつはそれ以降なのだと書かれていた)。『ヴィクトリア朝のインターネット』には、サイバーパンクの世界がヴィクトリア朝後期に出現したかのような、電信と電信交換手のさまざまな挿話が紹介されている。本作ではその電信網におけるハッカー文化が基盤としてある。吉野先生とはるさんはそうしたパンク(擾乱)精神で「プロジェクト・メイヘム(騒乱計画)」じみた電信網へのハッキングを仕掛けていく。その根底にあるのは、『リヴァイアサン』がその政治哲学である、既存の社会体制の正当性への疑義だ。吉野先生が本格的に犯罪に加担することの説明である、短く鮮明な回想も見事。結末もオープンエンドで明るい。
 個人的には、吉野先生とはるさんで笑いのツボが微妙に異なるのが良かった。
 『Z』でいとう階が作画を務める『サバ―キ』も、第6話が、発展する物語と粒だったコマ割りとで、急に面白くなって驚いたが、驚いたという以上の感想は言いようがない。

 『体験しよう! 好感異常現象』は仮想現実が舞台の掌編。『ディアスポラ』(仮想現実における脱-人間化の進行の度合いでいえば、イーガンでも『順列都市』より『ディアスポラ』が近いだろう)のような世界で人工生命、おそらくはアップロードされた人格が「恋愛」の事象を体験する。森岡浩之の『優しい煉獄』は、仮想世界に意識をアップロードしたあとも、自分の人格を走らせる(演算処理させる)ために働かなければならないという世界観のアイディアが冴えていたが、本作では、通貨として計算資源(リソース)を秒単位で取引きしている描写がスペキュレイティヴで良かった。主役の人工生命は「恋愛」の事象を体験するが、それがナメクジの交尾のようにヌルヌルしたものでなかったことに当惑する。
 掲載の『S-Fマガジン』2021年2月号は2度目の百合特集ということだったが、じつのところ、この特集でもっともSF的・百合SF的だったのは本作だったのではないだろうか。

10. 『終末世界百合アンソロジー

 一迅社の百合アンソロジーというと、おおむね毒にも薬にもならないものが一般的だが、本誌は全体的に手堅くまとまっていて良かった。後書きによれば、寄稿者のしろしが全体の編集にも携わったらしい。

・その他

 アサイ木根さんの1人でキネマ』の第7巻で、映画ネタの作品らしく、初回からの怒涛の伏線回収があって笑った。
 道満晴明オッドマン11』第2巻刊行。第1巻刊行時の、2018年度の記事に「第2巻が出るころには年号が変わっているだろう」と書いたが、意外と早かった。
 志村貴子おとなになっても』第3巻の展開にひっくり返った。パンダの繁殖をするわけじゃないんだぞ。

 雁須磨子あした死ぬには、』第2巻。第1巻に続き、やはり素晴らしい。このマンガの多幸感は何に起因するのだろう。思うに、これが顕著なのは第9話の野球観戦ではないだろうか。サメ型の弁当箱(無論、『シャークス』という球団は架空のもののため、この小道具の出現は現実の因果関係の埒外にある)、そしてページをまたいでのパックのビールという、さりげなく、かつ明瞭な、描くべきものを描くことのできる、余裕のある腰の定まった姿勢が、読中の多幸感の源泉なのではないだろうか。
 第2巻では、ついに鳴神さんが登場。第1巻では、中盤で視点の登場人物がいきなり変わり、あらすじにも書かれ、回想に登場する3人のうち、鳴神さんは最後まで登場しない。この息の長い語りは素晴らしい。さて、第2巻でついにその鳴神さんが登場するが、その乾いた生活が実感をもって語られる。おおむね静的な鳴神さんの生活で、潜在的な憂鬱が顕在化するときというのは、友人の子供に子供ができたり、バイトで働くことはできるが40歳を過ぎると暗黙の年齢制限で雇われなくなるといった、どうにもならないことを意識したときだ。しかも、付録の対談によれば、先々の展開は決めていなく、鳴神の物語はこれでなかば完結しており、続きがあるかも定かではないらしい。だが、それはまったく妥当なことだ。
 SF作家の草野原々が『放浪息子』の感想に簡潔に「はやく技術の進歩で人類が自由に性別を選べる時代がくればいいと思いました」と書いていて感動したが(『放浪息子』に対して、これ以上、美しく倫理的な感想は存在しない。私のもっと一般平均的な感想はこの記事(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2018/02/06/090929)に書いた)、その顰に倣えば、「はやくUBI(ユニバーサル・ベーシックインカム)が導入されればいいと思いました」だ。
 第2巻では三月ちゃんが希死念慮に悩まされていて、私の年齢では多子より三月に近いにもかかわらず、「頼むから三月ちゃんには憂いのない人生を送ってほしい」と思ってしまった。

 あらた伊里の『とどのつまりの有頂天』(全2巻)の改作である、『雨でも晴れでも』の第1巻は、個人的には残念だった。説明的なモノローグが目に見えて増え、コマ割りも、従来のメリハリの利いたものから、くどく説明的なものになった。ただ、『とどのつまりの有頂天』の第2巻の終盤は、明晰なコマ割りで複雑な心理描写をするために、雰囲気が本当に重く、苦しかったため、(ビジネス戦略や、出版社・編集部の意向だけでなく)作者が表現を模索しているのかもしれない。

 つばな『惑星クローゼット』第4巻。完結編。最後までガチで怖かった。クリーチャーの造形が派手ではないにもかかわらず、強く不安感と嫌悪感を掻きたて、はっきりと印象に残った。
 最終巻の終盤に出た「私たちは幼少期について『物心がつく』という表現を使うが、本当は私たちは外来種の宇宙人のようなもので、人間の肉体に寄生する生命体なのかもしれない」という話は、ホラー的な小話のなかでもかなり鮮烈なものだ。
 まとめかたは○○○モノだが、これは2010年代のアキバ系サブカルチャーの流行りというより、むしろ1990年代のJホラーの流行りの文脈だろう。

・小説

1. シオドラ・ゴス『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち

 ヴィクトリア朝のゴシック小説の愛好家は「シャーロック・ホームズ暦」で生きている。ホームズとワトソンが出会った1881年がA.D.(Anno Detective)1年で、それ以前はB.C.D.(Before Consulting Detective)で数える。「シャーロック・ホームズ暦」の重要な出来事にはホームズに関することの他、『ジキル博士とハイド氏』や『吸血鬼ドラキュラ』、ホワイトチャペルの娼婦連続殺人事件などがある。紀元前の出来事には『フランケンシュタイン』があり、これは洗礼者ヨハネの活動に当たる。本書もまた「シャーロック・ホームズ暦」で記されている。
 面白かった!
 若くして急逝したヘンリー・ジキルの娘、メアリ・ジキルが父親の遺産を整理すると、エドワード・ハイドという謎の人物に財産を信託していたことがわかる。メアリは有名な私立探偵のシャーロック・ホームズに調査を依頼するが、調査が進むにつれ、「錬金術師(マッド・サイエンティスト)」の娘たちが次々と現れ… という話だ。物語がどんどん予想外の方向に展開していって面白いため、実際に読んでほしい。
 原題は『The Strange Case of the Alchemist’s Daughter』だが、「錬金術師」という言葉はレトロフューチャーの響きがあるらしい。『屍者の帝国』でのワトソンの偽装身分(カバー)も「ペシャワール野戦軍第3旅団第81北部ランカシャー連隊第2錬金中隊軍医」だ。
 本作が面白いのは、作品そのものが、登場人物の1人が著した原稿で、執筆中に他の登場人物が勝手にメモ書きしていくメタ=フィクショナルな形式をとっていることだ。そのために作品に、思いこみによる錯誤、冒険活劇にするための意図的な虚偽、当事者を尊重しての省略、意見の対立による訂正、本当に本編とは関わりのないただのメモなどが浮かびあがる。
 分別臭いジキル博士の娘、メアリ・ジキルを初めとして、「錬金術師(マッド・サイエンティスト)」の娘たちも、それぞれ個性的で読んでいて楽しい。ナラティヴが作品の中心にあるため、フェミニズムも主題になる。本作におけるフェミニズムは教科書的知識に則するものだが、登場人物の発話・発想として自然で、物語から遊離していない。
 三部作のため、続刊の早期の翻訳出版を期待する。

 ついでに、「シャーロック・ホームズ暦」について一言しておこう。
 円城塔は『屍者の帝国』の後書きで、コンセプトの源流として、『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』、『ドラキュラ紀元』、『ディファレンス・エンジン』、TRPGクトゥルフの呼び声』(原文の順番通り)の4作を挙げている。
 『屍者の帝国』はというと、屍者と生者を分ける心の哲学と、メタ=フィクションの2つの主題が平行しているため、終盤の展開がかなり煩雑になっている。第2部第4章では、ザ・ワンの目的が「全人類の屍者化」だと仮定され、ヴィクターの手記の内容は『屍者の帝国』の作品そのものであることが示唆される。もちろん、後者の自己言及構造は『ディファレンス・エンジン』のエピゴーネンだが、第2部4章とエピローグ第2章で参照関係になっている"〈このわたし、フライデー〉"という文言はインデックスの1項目に留まり、『ディファレンス・エンジン』のメタ=フィクションとしての厳密な自己言及構造とは異なり、『屍者の帝国』は、作品=フィクションというプログラムのパフォーマンスの主体が、作品の上位に指示されている。第2部第5章では、解析機関と完成後の全球通信網が複雑系の働きをすると説明されるが、これは、そのまま心の哲学のアナロジーだ。そして、この心の哲学が、屍者と生者を分ける「魂」であり、フィクションのパフォーマンスの主体として指示されているものだ。この作中におけるヴィクターの手記の効果と、作品そのものの主題の並立のおかげで、終盤の展開は名状しがたくゴチャゴチャしている。"「……そして君の抱く不安を解消しよう。こう言い換えるのでどうかね。『菌株(ストレイン)』ではなく、未知の『X(エックス)』とね。Xには好きな言葉を入れると良い。一番気持ちが安定するものをな。『魂』でも『意識』でも、『欲望』でも構わない。ただの言い換えにすぎないが、理解はしやすくなるはずだ」"(p.428)。円城先生、ぶっちゃけすぎだろ。Xって(おそらく超越論的統覚Xからとったのだろうが)。
 第1部5章からルビ、情景描写、世界情勢・科学技術への言及、キム・ニューマン的引用が急減するため、おそらく、このあたりから円城先生が苦吟しはじめたのだろう。
 なお、映画版『屍者の帝国』で「M」が全人類の屍者化を行おうとするが、上述のとおり、そこは映画オリジナルではない。だからどうしたというわけではないが…

 ちなみに、ヴィクトリア朝を描いたマンガで最良のものは、アラン・ムーアの『フロム・ヘル』だ。「カタブツ警部とインチキ霊能力者の凸凹コンビが世紀の難事件の謎を解明する!」という話だ。ホントホント。『ミリオンダラー・ベイビー』はボクシングを舞台にしたサクセスストーリーで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は盲目の女性と息子の感動物語だし。

2. 陸秋槎『文学少女対数学少女

 面白かった。
 後書きで作者が源流に挙げている、麻耶雄嵩メルカトル鮎かく語りき』は、解説で円居挽が「メルカトル鮎はキャラ人気があり、作者はメルカトルを探偵役にした短編を量産できるはずだが、特殊な構造の作品でなければ、作者がメルカトルを探偵役に据えることを許さないのだろう」と書いている。本作にも同じことが言えるのが惜しまれる。
 全4作の短編集で、各作品とも、構成が内容に直結しているため、これ以上の言及は控える。

 代わりに、アニメ『ストロベリー・パニック』について話しておきたい。
 2000年代には『ストロベリー・パニック』に限らず、さまざまなアクの強い百合アニメが放映された。ならば、そのなかで『ストロベリー・パニック』がいまなお衰えない魅力を放っているのはなぜだろうか。
 それは、涼水玉青の存在によるのではないだろうか。一般的な通念に対し、じつは玉青はCちゃん・菱川、負けヒロインと言うべきキャラクター・立ち位置ではない。なぜなら、玉青は当初から渚砂に明確な好意を向けており、自分の感情を抑圧してはいない。そしてまた、玉青が静馬に渚砂を略奪されたように見えるのは、エトワール戦というきわめて社会的・儀礼的な擬制のために過ぎず、渚砂から玉青への好意が薄れたわけではない。にもかかわらず、私たちは静馬と渚砂の略奪愛が成就したように見てしまう。玉青の渚砂への愛情は、明るく健全だ。だが、そのために、その感情は計ることができない。明るさのなかの陰影、私たちはまだ涼水玉青を語ることができていない。(アニメ『ストロベリー・パニック』を全話見ていて、『文学少女対数学少女』を読了していなければ意味不明な話題の転換)

3. 高殿円シャーリー・ホームズとバスカヴィル家の狗

 『緋色の憂鬱』から待望の続刊。『ミステリマガジン』2020年3月号の掌編では、完結が予示されていて惜しまれる。

 ちなみに、「後期クイーン的問題(偽の手がかり問題)」は、直接的な影響はないにせよ、「20世紀の数学のドラスティックな抽象化」(佐々木力『二十世紀数学思想』)と時期的に完全に一致している。
 ヒルベルトが初めに数学の保守派(抽象数学の反対派)に直面したのは1888年、抽象的(計算でない非-具体的)な証明を行い、パウルゴルダンなどに激しく論難されたときだ(ちなみに、ヒルベルトのこの論文につき、1890年の『Mathematische Annalen』を初出とするものが多いが、正確には1888年末のゲッティンゲン科学協会の『Nachrichten』だ。それを整理したものが1890年の論文だ。そして、有名なゴルダンの「これは数学でなく神学だ」という言葉も、この期間に吐かれたらしい。そして、1890年の論文掲載時には、すでにヒルベルトと和解していたようだ。(リード『ヒルベルト』))この3年後、ホームズはモリアーティとライヘンバッハの滝に転落死する。ホームズ・パスティーシュのうち、もっとも美しい1編である、『ニュー・サイエンティスト』に寄稿されたモリアーティ教授の架空の伝記、John F. Bowers『James Moriarty: a forgotten mathematician』は、モリアーティが64年に急逝したジョージ・ブールのアイルランドのコーク校の数学教授職を継いだことを示唆している(言うまでもなく、「モリアーティ」も「モラン」もアイルランド系の姓だ)。これはモリアーティの「20代で田舎の大学の数学教授に就任した」という経歴と年代的に符号している。そうだとすれば、モリアーティは数学の改革派(抽象数学の推進派)だったと考えるのが自然だ。モリアーティ教授は登場するなり死んだため、余談にしかならないが、面白い話だ。

4. 青山七恵みがわり

 松浦理英子裏ヴァージョン』以来の百合ミザリーメタフィクションが来た。
 ナラティヴが主題になっているが、この文学史的な意義は、2020年に発行された、平成の日本文学論に関する最良の書である福嶋亮大らせん状想像力』が詳しい。

・その他

 ソローキンでレズビアニズムの要素がある初期作品『マリーナの三十番目の恋』が翻訳出版された。
 今年もっとも楽しかった小説のジャスパー・フォードの『最後の竜殺し』は、シリーズ3作目に百合要素があるらしいため、そこまで翻訳出版されてほしい。
 小川一水の『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』は、『アステリズムに花束を』収録の中編を長編に改作したもの。なので、どちらをさきに読むか選択しなければならない。私は似た内容なら、より短く、SFのアイディアとガジェットはより技術的なほうが(娯楽作品においては尚更そうだ。「技術的」という表現は、「量子○○」みたいなものも含みかねないため、よりシステマティックとでも言ったほうが正確かもしれない)優れていると考えるため、中編のほうをさきに読むことを勧めたい。『裏世界ピクニック』の新作はこれから読む。

・評論

 『「百合映画」完全ガイド』が予想外の傑作だった。映画時評を単行本化したものはわりと読むほうだが、この質と量で新書なのは破格だ。とくに主筆のふぢのやまいの解説は素晴らしい。編集者の石川詩悠の仕事にも頭が上がらない。
 ただ編集段階で追加されたという増補分は、余計だったかもしれない。将○の終わりの解説とかYahoo映画レビュー並みだ(寄稿者の一部の批判するときに「某氏」や「○○した者」などと具体的な名前を避けるのは悪しき慣習だと思う。批判を曖昧にし、いたずらに疑心暗鬼を煽るだけだ。批判するときは、その人間の能力と責任において、きちんと名前を挙げるべきだ。まあ私は同情心があるから、名前の一部を伏せ、誰だかは匂わせるに留めておいたが)。

・映画

1. セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像

 アントニオーニの『欲望』以来、映画におけるshoot(撮る=獲る)の二義性は定型句となっている。本作でも表象化の暴力的な作用が冒頭から顕示され、物語上ではエロイーズの肖像画を完成させることは強制的な結婚に加担することであり、演出上でもエロイーズは執拗に顔を見せることを避ける。主人公とともに画面に現れるときは、切返しでなく、浜辺、刺繍、ピアノといった道具立てによって横並びになり、視線は平行する。

 しかし、それは主人公が真相を告白する序盤までで、中盤におけるソフィーの挿話を経て、両者は対面する。オルフェウスの寓話について、主人公は「オルフェウスは夫であるより詩人であることを選んだ」と語る。エロイーズの結婚は回避しうるものでなく、その意味で死別にも近い。

 海辺のシークエンスにおける、主人公とエロイーズの衝突では、波音の効果音で演出的・付加的に感情を表現する。結尾部の「最初の再会」において、表象化の善の側面を簡単に提示したのち、「最後の再会」でヴィヴァルディの『四季』「冬」の劇伴によって、ふたたび感情を付加する。ここにおける映像は一方的な視線だ。しかし、主人公とエロイーズのあいだには確かな双方向的な知覚が成立している。

 そもそも、『欲望』は映画であるために撮影が中心的な主題となったが、原作であるコルタサルの『悪魔の涎』は鑑賞が主題だ。

 本作はオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』以来の、唯美主義とクイアな愛を説得力をもって表現した傑作だ(ただし、『ドリアン・グレイの肖像』のクイアな愛は同性愛でなく、むしろ自己愛だ(セジウィック著『クローゼットの認識論』より))。

佐藤卓哉どうにかなる日々

 各話で作風が異なり、佐藤卓哉の技巧性が表れている。
 とくに第3-4話は、もともと性にまつわる屈託が多孔質、非晶質的に組みこまれていた原作に対し、第3話の作風を明朗にすることで、屈託を外傷的なものに移行させている。

・その他

 青山真治空に住む』。

・アニメ

 2020年度の第3四半期は凄かった。ほぼ毎日百合アニメを観なければ録画が溜まるという未曽有の状況だった。しかも、本数のみならず内容も濃厚だった。

1.『ストライクウィッチーズ ROAD to BEARLIN

 ほぼ10年ぶりの続編にもかかわらず、1作目、2作目に勝るとも劣らない内容だった。
 説話的にはベルリン奪還戦で、戦局の終盤になる。敵にも第2次世界大戦以後の新兵器が惜しげもなく投入される。恒例の上層部にはパットン将軍が配役され、その意味でも負けはない(パットン将軍は映画史的に敗軍の将とはならない。たしか鈴木貴昭の『ストライクウィッチーズ』の同人誌でも、戦局が勝利に傾いたときに登場したはずだ)。
 『ストライクウィッチーズ2』のあとに高村和宏が監督を務めた『ビビッドレッド・オペレーション』、『ブレイブウィッチーズ』は言容しがたい出来だった。少なくとも、『ストライクウィッチーズ』のほうが、はるかに一般に受けいれられたのは確かだ。では、なぜそうした違いが生じたのか。無論、『ストライクウィッチーズ』のほうが洗練されているなどと僭称するつもりはない。『ストライクウィッチーズ』も、物語は人型ネウロイという投げっぱなしのプロットを使用している。思うに、その違いは戦史の背景の使用にあるのではないだろうか。仮にあくまで装飾だったとしても、その装飾は額縁のように物語を規矩準縄することになる。
 戦史的な年代記に物語が規矩準縄されるために、坂本は現役を退き、代わりに新人の服部が配属され、宮藤は先任の立場になる。
 別にいいのだが、『2』が坂本少佐の烈風斬でグダグダしたように(四部承太郎のような2期坂本少佐は見たくなかった)、『RtB』は宮藤の魔法圧でグダグダする。
 第10話で爆撃機があっけなく撃墜されて、戦史映画(無論、戦争映画とは別物だ)の文法で、無味乾燥に、ひとがあっけなく死ぬ作品だったことを思いだした。
 そして、『RtB』のピークである第6話だ。エーリカが撃墜されたときのミーナたちの反応がいい。身近な人間の死という不安が念頭にあるが、同時に、そのことを日常でありうることとして冷静に対処している。そして、エーリカの描写が素晴らしい。エーリカは本当に死にかかっているが、まったく平常心を失っていない。最強の戦闘機パイロットとして要を得た描写だ。エーリカは通信が繋がりかけたとき、一瞬だけ真剣な表情をするが、この描写のさりげなさは見事だ。バルクホルンはエーリカが死んだものと誤認するが… 第6話の結末については、これだけを言っておこう。エーリカ、お前が柏葉剣付鉄十字章だ…!
 第11-12話では、曇天の空という背景、流血描写と、『ストライクウィッチーズ』のシリーズ、また、戦史映画(重言になるが戦争映画ではない)の文法に対し、例外的に雰囲気が暗くなる。それはベルリン奪還という戦史の背景によるものだろう。ベルリン奪還は第2次世界大戦の終わりを意味する(エピローグのナレーションは、ネウロイの残党がいることと残党狩りを示唆していたが)。そのため、戦争の総決算が強制され、雰囲気は暗いものにならざるを得ない。

1. 『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 第10話から第11話は凄かった。それまでも楽しく見ていたが、第10話のクライマックスで俄然、盛りあがった。
 やはり登場人物が予想外の行動をすると、一気に作品に惹きつけられる。無論、その行動は、作品と登場人物の原理に則し、十分に納得のゆくものでなければならない。
 例えば、岡田麿里の脚本では、登場人物がよく予想外の行動をするが、話のネタとして面白いだけで、誰にも話せないとしたらクソ面白くもなんともない。換金できないパチンコの出玉と同じだ。
 侑の小柄でユニセックスという人物造形はあざといものだが、第11話で歩夢との関係が安定的なものになったあとで、あらためて歩夢に明確に好意を伝えるところは、(穿った見方をすれば、視聴者に好かれるための)人物描写として見事だと思った(カスは関係が安定的なものになると身勝手になるし、アホは関係が不安定になってから好意を伝えはじめるが、残念なことにカスとアホが世間の大多数だ)。

1. 『安達としまむら

 予想外の傑作だった。
 第1-2話では、安達としまむらが静かな時間を過ごす場面は、水平と垂直、とくに水平のコンポジションをとり、安達もしくはしまむらの心理が動揺する場面では明確に斜めのコンポジションをとる。きわめてコンセプチュアルな画面構成で、また、この文法が安達としまむらの性格、そして、それによる物語と調和している。
 第3話以降で、安達としまむらが積極的に関わりはじめると、水平と垂直のコンポジションは減少する。安達の内省がこの作品のかなりの部分を占めている。安達の内省と、それによる行動は、自己完結的なもののため、視聴者からの視点では奇行に見える。
 安達の懊悩は、安達としまむらの関係性において、安達が主体的に関係を形成すればいいように思えるが、第11話では、安達がそうして主体性を持った結果、心の容量を超えて情緒不安定になってしまう。外形的には、ただ安達が情緒不安定になってしまうというだけのことなのだが、これほど静かで緊迫したクライマックスもそうそうない。
 第12話ではしまむらが積極的に安達と関わろうと変心したことで、作中の次元では、しまむらの意思と感情がポジティブ(積極的・肯定的)なものになったことで、作外の次元では、安達としまむらの関係性が好転したと分かることで、視聴者はハッピーエンドだと感じる。しかし、じつのところ、こうした安達としまむらの心の動きは相互に独立的だ。二者間の関係を描いた作品として、この結末は稀有で奇跡的だ。

・ソシャゲ

 5月頃にハマっていた『シャニマス』だが、下半期には完全に飽きてスマホの空き容量に変えた。