2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013 
 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013
 他薦の年間百合ベストが趣味に合わないため自薦のものを編纂してみたのだが、3年目になり、さすがに資料価値が出てきたように思う(自分の趣味で選んでいるからそれらしく見えるだけかもしれないが)。
 今年は百合アンソロジーが多数、刊行され、また、一迅社(『コミック百合姫』編集部)でない出版社からの《百合》ジャンルの作品の刊行が目立ち、《百合》というジャンルが市場として形成されはじめてきたことを実感した。ともあれ、現代においてゲイネスが記号化して覆面として機能し、かえって商品として流通しやすいことは、2002年に竹村和子が『愛について』ですでに分析したとおりだ。今後、ジャンルとしての《百合》は、ジャンルとしてのBLのように、市場規模が拡大し、同時に定型化、量産化が進むのだろう。それ自体は悪くはないし、そもそも、自然なことだ。しかし、一読者としては固有の印象を与え、記憶に留まる作品を重視する。
 というわけで、以下、記憶に留まるであろう作品を記録する。

・マンガ

 さすがに、特筆すべきことがないかぎり、昨年、一昨年に掲出した作品の続刊は省く。
 あらた伊里『とどのつまりの有頂天』、高野雀『世界は寒い』は第2巻で完結。仲谷鳰やがて君になる』と缶乃『あの娘にキスと白百合を』は以下に別記する。

1.なおいまい『ゆりでなる♡えすぽわーる』第1巻

 2019年度の百合を語るとき、本作を欠かせば半面的な価値しかないだろう。
 本作を語る前に、2010年代中期から後期の、『コミック百合姫』編集部が『ゆるゆり』と『百合男子』の2作を主力商品、重点商品として営業、販売した《百合冬の時代》について確認する必要があるだろう。
 その営業、販売戦略は実際、成功し、2017年には『コミック百合姫』は月刊化を果たす。しかし、じつのところ『ゆるゆり』はかなりいかがわしい作品だ。雑誌掲載時に第1話のオチが主人公のあかりがよく兄にパンツを盗まれているというオチで、単行本化に際してそれを《兄》を《姉》と変え、その後はそのような過去などなかったかのようにそれを《姉妹百合》と称して作品の要素としているという、間テクスト的な事情を挙げるまでもなく、単行本第1巻で一人暮らしの登場人物が"「肉より安いからね」"という奇妙な台詞とともにウインナーでカレーを作る。おそらく、作者は家事をしたことがない。そして、この《肉より安いウインナー》とは魚肉ソーセージ… 一般の男性より小さく、かつイカ臭いペニスのことだ。この「いかもの」らしさが『ゆるゆり』の本質だ。
 が、その価値判断は何か。「いかもの」が「本物」より好まれたなら、真偽、善悪に加えた新しい価値判断が必要になる。現代においてゲイネスが記号化して覆面として機能し、かえって商品として大量に流通しているのなら、その覆面の下の顔は泣いている。
 2017年、読切り『カレーをたべる♥ふぁむふぁたる♥』で、記号の氾濫する現代の、神経過敏にもかかわらず痛覚遮断された、この奇妙な状況を描出した作者は、記号をそのまま《百合》とすることで、作品の精度をさらに上げた。
 口幅ったい物言いをすれば、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』のクィアとか攪乱とかを百合作品にまで高めてるってこと。

1.模造クリスタル『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』

 題名だと続刊とはわかりにくいが『スペクトラルウィザード』の続編。副題を適当に作風に合った児童書らしいものを設定したのだろうと思って本編を読むと、内容をほぼそのまま表していてビックリする。
 自宅が和室のひとは読まないほうがいい。読んだあと、天井の梁に首を吊りたくなるから。同じ理由で、家にぶら下がり健康器をおいているひとは、読む前に粗大ゴミに出しておいたほうがいい。

1.志村貴子『おとなになっても』第1巻

 黒沢清蓮實重彦が対談『東京から アメリカ映画談義』でイーストウッドの『グラン・トリノ』について、「これまで《愛》について完全に無視していたイーストウッドが、はじめて《愛》を語っていて驚いた」という旨のことを言っていたが、本作について、志村貴子に関し、同様のことを感じた(ただし、『グラン・トリノ』は恋愛映画ではないが)。
 『放浪息子』、『淡島百景』第1巻あたりは完成されたネームが余人を寄せつけないまでの雰囲気を放っていたが、近作ではモノローグに紙幅を割き、登場人物の内省と登場人物間の相互理解を重視しているようだ。多数の研究があるとおり、現代はSNSの浸透でひとびとの情緒的な能力が下落しているそうだから、それに対する懸念があるのかもしれない。
 2019年発売の『淡島百景』第3巻はほとんど第1巻とは別の作者のようだ。しかし、『柏原明穂と田畑若菜』のモノローグと実際の心情の乖離したナラティヴなど、確かな円熟味を感じる(『わがままちえちゃん』の技法の穏当な使用)。柏原明穂ちゃんカワイイ。
 『おとなになっても』第1巻についてだが、普通に悶絶した。というか、私も20代後半に入って数年が過ぎ、人生を消尽しきった感覚があり、「もういい歳なのに…」という主役2人に普通に感情移入してしまった。いや、これはいわゆる《日本型雇用》の転換期にあり、理論上の雇用の流動性の要求と、現実における慣行との対立が、他の先進国との対比で明白な、労働市場の障壁、労働時間の長さ、生産性の低さ、産業構造の歪み、という問題を形成している日本社会に蔓延する社会不安を作品が剔抉しているからだ(バカみたいなのは私で、言っていることはマジ)。

4.毒田ぺパ子『さよならローズガーデン』第1-2巻

 19世紀末のイギリスを舞台とし、ヴィクトリア朝文学の引用が頻々にある。それだけに硬骨なストーリーテリングとネームで、登場人物たちが秘密を抱え、気持ちが擦れちがう、サスペンスフルでページターナーな物語だ。まちがいなく2019年の佳作だ。

5.仲谷鳰やがて君になる』第7-8巻

 全8巻完結。
 じつのところ、昨年、刊行の第6巻では、特質である抑制的なプロットが逆作用し、作品はかなり危機的状況を迎えていた。劇中劇の演劇でメッセージを直接的に書き、まるで中学生がはじめて描いた同人誌のようだった。しかもそれが数話続き、その巻の大部分を占める。完結後のインタビューで作者が「良くも悪くもデビュー作らしく」と言っているのはこの部分のことなのだろうが、とても「良くも」とは言えない。
 しかし、その後は無事にもち直した。ただ第7巻の沙弥加を視点とする部分は、そこだけメロドラマ的なプロットに、縦割りのコマとクローズアップの多用で文法(スタイル)が異なるが、文法(スタイル)の異なる部分を挿入したことの作品における効果は疑問だ。しかも、第6巻からの過剰に説明的な物語を踏まえれば、もはや沙弥加の告白が全体のプロットにおいて燈子の後押しをするためのものでしかないことは、読者にあまりにも明白であり、単体のメロドラマとしても味読することはできない(いや、それは沙弥加が報われる可能性がまったくないわけではないとは考えた。万馬券が当たるくらいの確率で。そして、沙弥加は競走馬というより当馬だ)。
 見開きで距離はミドルショットという抑制性で、その後は最後まで緊密さを保つ。侑の《アセクシャル》としての《セクシュアリティ》が《尊重》されなかったから、期待が裏切られた(彼らは自覚していないが、つまりメッセージ性の次元において)と言うひとびとは、作品そのものを理解していない。『やがて君になる』の主題論は分節化することの残酷さだ。
 作品の英題『Bloom into you』はイヴ・セジウィックが論文『Queer Performativity: Henry James's The Art of the Novel(クィア・パフォーマティヴィティ――ヘンリー・ジェイムズにおける小説の技術)』で《Shame on you》という慣用句について分析した、《自己消去の欲望》という機能で決定されている。
 《The absence of an explicit verb in ‘Shame on you’ records the place in which an I, in conferring shame, has effaced itself and its own agency. Of course the desire for self-effacement is the defining trait of―what else?―shame. So the very grammatical trun-cation of "Shame on you" marks it as a product of which an I, now withdrawn, is projecting shame—toward another I, an I deferred, that has yet and with difficulty to come into being, if at all, in the place of the shamed second person.(「恥を知れ」における明示的な動詞の欠如は恥を与える《私》がそれとその機能を削除する場所を記録する。当然ながら自己消去の欲望は――それ以外の何があろうか?――恥の徴を明らかにする。そのためきわめて文法的な「恥を知れ」の切除はそれがもう1人の私、存在することが難しく、またいまだしていない《遅延された私》に対する恥を、もしそうなら、恥ずかしめられた2人目の場所に投影する《私》、内にこもったこの《私》の産出としてそれを印づける。)》
 《一人称単数・現在・能動態・直説法》の出現は個人の定立におけるすべての問題の前提であり、例えば、結婚式の《I do.》、《誓います》という言葉は、主体を国家、共同体、そして異性愛の代補に結びつける。つまり、《遅延された私》は純粋な私で、いまの《私》は社会との妥協の産物だ。だから恥の感情は個人の内部と外部のとば口だという主旨だ。
 『やがて君になる』のエピゴーネンで、ただ抑制的なプロットと、薄いトーンの多用や、ツヤによる光線の強調だけを模倣しているフォロワー(それらの作品は金太郎飴のごとく、かならず「顔がいい」という文言がある)は、その主題論を理解していない。本来の仲谷鳰ストーリーテラーだ。それは、2019年の『エクレア orange』所収の『ダブルベッド』などに明らかだ。
 最終巻の第8巻で侑と燈子の濡場があり、その場面は近-中距離のショットで、流れるようなカメラワークだ。ここで侑が燈子をガンガン責めていて、「そうそう。《自分はアセクシャルだから》とか自称するヤツほどセックスモンスターなんだよな」と思った。この感想いるか?

 『エクレア orage』では伊藤ハチの『イヴの約束』が問題作だった。「どうして博士はロボットを子供の姿で再現したのかな? お家のひとと一緒に考えてみよう」。お家のひとが目を逸らしたり、話題を変えようとしたら児童相談所に走れ。

6.詩野うた『有害無罪玩具』『偽史山人伝』

 ウィアード、スペキュレイティヴ。全体として、安易な情緒性、教訓性とは距離をとった作風だが『偽史山人伝』所収の『人間のように立つ』はさすがに百合。他に同書の『姉の顔の猫』、『有害無罪玩具』所収の『盆に覆水 盆に帰らず』も是非、百合と言いたい。発売時期は前後するが、『有害無罪玩具』所収の中編『金魚の人魚は人魚の金魚』に『偽史山人伝』所収の短編の登場人物たちが客演するため、こちらを先に読んだほうがいい。

7.『あの娘にキスと白百合を』第10巻

 完結。やはり全10巻できっちり大団円にしてくれたことは大きい。

8.滝島朝香『ラストピースの行方』

 『Avalon Alter -karma-』所収。作者の地力の高さが顕現している。

9.道満晴明メランコリア』上下

 別に百合要素が中心的な作品ではないのだが、2019年を代表する作品で、百合要素が目だってあるので一応。

・その他

・ソウマトウ『シャドーハウス』第1-3巻
 耽美、退廃、叙情、と趣味性が明確な作品。Vtuberの名取さなの紹介で知り(『ゆりでなる♡えすぽわーる』も紹介していてじつに趣味がいい)、単行本で読んだので、じつは第2-3巻で『ハンガー・ゲーム』とか『メイズランナー』みたいなティーンズ向けっぽい庭園での鬼ごっこがはじまったときにけっこう萎えた。

・斉木久美子『かげきしょうじょ!!』-8巻
 本来なら2015年に第1巻が刊行されているのだが、諸般の事情で事実上の第1-2巻である『かげきしょうじょ!! シーズンゼロ』上下巻が刊行、というか再刊され、私もそれでシリーズを知ったため一応。「絶望の中の希望! と見せかけてやっぱり絶望!」みたいな作品。○○○を返して…

A-10『赫のグリモア』第1-3巻
 第1巻が刊行されたときには「そうそう。『寄生獣』とか『うしおととら』みたいな人間と人外のバディものの百合が見たかったんだよ!」と思ったが、2巻で息切れした。

・郷本『夜と海』第1-2巻
 『やが君』のあとに多数出た抑制的なプロットの作品の中では、かなりいいほう。

アサウラ『木根さんの1人でキネマ』第6巻
 なんか、いつの間にかアラサー独身同居ものと言っても差支えない内容になってる…

・小説

1.陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』

 傑作。限りなく透明な世界観と、澄明な感情。そして《後期クイーン的問題》。じつはこの両者は同根のものだ。
 すでに別の記事でネタバレ込みで詳細に解説したため、紹介はこれで終える。
 作者の微博のアカウントによると、早川書房はやはり百合と《後期クイーン的問題》が主題の『文学少女対数学少女』の日本における出版権を契約していて、しかし2020年以内の刊行は難しいらしい。翻訳の進捗、出版市況、経営計画といった事情があるから時期的な問題は仕方ないにしろ、もどかしい。(追記:2月15日開催のイベント「この華文ミステリがアツい!」によると、2020年冬刊行とのこと

1.宮澤伊織『裏世界ピクニック』第3-4巻

 じつのところ第3巻はやや低調だと感じたが、それは助走であり、第4巻は物語におけるシリーズの総決算、つまり百合の最大限の盛りあがりと、主題論における実存的ホラーの最終解答が結着し、見事な読みごたえだった。
 ネタバレ感想(https://privatter.net/p/5335001)。

1.斜線堂有紀『コールミー・バイ・ノーネーム』

 《名前当て》ミステリ。ウィッチダニットと言うべきか、ワットダニットと言うべきか。いずれにせよ、ほぼ前例のない推理小説的な試みだ。作品の中心でないのなら、『戯言』シリーズとか『千葉千波』シリーズとかの例があるが… 世代がバレるな。
 特筆すべきは、この《名前当て》ミステリが推理小説としてしっかりしたフェアネスのもとに行われていることだ。つまり、読者は作品内の手がかりにより一意的に名前を推理することができる。私は推理小説畑の人間なので、これだけで十分に満足できる。しかも、それが百合として物語ときわめて密接に結着している。傑作だ。
 ネタバレ感想(https://privatter.net/p/5253550)。

4.アンソロジー『アステリズムに花束を』

 陸秋槎『色のない緑』が傑作。チョムスキーの有名な《意味なし文》から題名を採用した本作は、二重の意味をもち、劇的で、哀切な余韻を残す最後1行の台詞のために構成されている。これは情報科学における知識を宣言的というより命令的なものとする手続き的認識論の立場をとり、その上で行為遂行(パフォーマンス)を問うものだ(じつはこれも《後期クイーン的問題》には馴染み深い主題だ)。陸秋槎の主題の選択の確かさと構成力の高さには瞠目する。
 じつはもともとSFでもファニッシュ系っぽいノリの小川一水はあまり好きではなかったのだが、『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』で『老ヴォールの惑星』の老ヴォールみたいな生物をコスプレ美女2人が乱獲しまくってて、不覚にもウケてしまった。
 伴名練『彼岸花』は後述。

5.伴名練『なめらかな世界と、その敵』

 じつは伴名練の作品は嫌いだ。べつに本作を読んで嫌いになったわけではなく、高校生のときにアンソロジー『NOVA』所収の『かみ☆ふぁみ!』を読んだときから嫌いだった。その意味では、本作を読んで嫌いつつ、その彼我の変わりなさに、高校生のときの不仲だった同級生に再会したような懐かしさも感じた。
 伴名練の作品は①ライトノベルの文章で(台詞の野暮ったさは普通に酷い)②メロドラマの物語で(大体、恋か愛がテーマ)③モラリストの教訓だ(極端なまでに体制順応主義的、現状肯定主義的で、そのため結末はつねに予定調和的だ。じつのところ、まったくSF的ではない)。
 しかし擬古的な文体模写の作品は好きだ。本書では『ゼロ年代の臨界点』、『ホーリーアイアンメイデン』。そして前掲の『彼岸花』だ(ただし『ホーリーアイアンメイデン』のオチの『サクラダリセット』の露骨なパクリはどうかと思う)。『ゼロ年代の臨界点』は必読。

6.柾木政宗『ネタバレ厳禁症候群』

 シリーズ前作の『NO推理、NO探偵?』から百合度大幅アップ。
 が、推理小説としてあまりにハイブロウになりすぎたため、本格、新本格推理小説のよほどのマニアではない限り楽しめないだろう。だが、個人的には大好きな作品だ。年間ベスト級だ。なんというか、店主が凝りすぎて言容しがたい味のする創作ラーメンのような読み味がする(なら、それを手放しで称賛するマニアもダメじゃん)。

・その他

・草野原々『大進化どうぶつデスゲーム』『大絶滅恐竜タイムウォーズ』
 『大進化どうぶつデスゲーム』は百合。が、その後編の『大絶滅恐竜タイムウォーズ』ですべて覆される。高度ないわゆるメタミステリがアンチ・ミステリとなるのは推理小説のマニアには馴染み深いが、本シリーズは『大絶滅恐竜タイムウォーズ』で高度なメタ百合作品となり、転じてアンチ・百合作品となった。しかも、その射程を百合作品に留まらずフィクション全般に広げたため、実存主義小説のような独特の読後感の作品になった。
 ともあれ『大進化どうぶつデスゲーム』は面白く、『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は濃厚な読味があることは確かだ。

・百合ミステリ
 2019年はいわゆる《百合ミステリ》が多数、刊行されたという世評があり、そう評された作品をすべて読んでいるため、ここまで未出のものは以下に概評しておく。

(五十音順)
・『彼女は死んでも治らない』:百合要素× 百合度× そもそも徹頭徹尾、異性愛が中心で百合ではない。百合詐欺(この言葉は数年ぶりに使ったぞ)。
・『キキ・ホリック』:百合要素○ 百合度○ が、お勧めしない。作者が頑張っているのがすごくよく伝わってくるのだが、端々にオッサン臭さが滲む。
・『紅蓮館の殺人』:百合要素△ 百合度△ 百合要素はあくまでオマケ。後半にはほぼ消滅する。
・『ノワールをまとう女』:百合要素○ 百合度× 江戸川乱歩賞受賞作。女性同性愛が物語の中心だが、「ベタベタの」ハードボイルドのため、あくまで設定上のものにしかなっていない。というか、選評にそう書いてある。

・映画

ヨルゴス・ランティモス女王陛下のお気に入り

 アン女王を題材としたいわゆる歴史映画。が、ここでのアン女王は政治史というより、むしろ文化史のデコラティヴなイメージだろう。
 百合モノの歴史映画の傑作『マリー・アントワネットに別れをつげて』は、不潔で野蛮な前近代という唯物史観に立ち、主題論における《近代》のはじまりと物語における百合を結着させたが、その7年後、同様の主題でさらなる傑作が現れた。
 不潔で野蛮な前近代で明白になるのは、つねに下に立つものが強いという権力の力学だ。女王は暗愚で、女中は饒舌。貴族はガチョウを崇拝する。そして、無知な女王が最大の権力をもつ。策謀を巡らせるのは、あくまでその下の女官たちだ。仰瞰のアングル、魚眼のレンズを多用するショットと、バロック調の劇伴がその雰囲気を増す。
 しかし、終章で合理性、古典経済学的な秩序が浸透する。ウサギは踏みつけにされ、女官は拝跪させられる。それは近代の始まり、前近代の終わりだ。そこには《愛》がない。そこまでシニカルで皮肉な態度をとってきたのに、終章でいきなり直接的、メッセージ的に《愛》を問いただして観客を面喰わせるのは、監督の前作『ロブスター』と同じ。


佐藤卓哉『フラグタイム

 傑作。
 2014-5年、秋田書店はなにかの試みがあったらしく、『フラグタイム』全2巻と『花と嘘とマコト』という2作の百合の良作を発刊した。そのうちの、さとのマンガが原作になっている。
 佐藤卓哉らしい、コンポジションの整った画面構成に、説明を省略したカッティング、効果の計算された音響(ナレーションの有無を含む)で、見事な映画に仕上がっている。何より、佳作だった原作からもうひと押しし、まさかの選曲である、エンディング曲の、いわゆるJ-POPの『fragile』が完璧なタイミングで流れる。これほど完璧なエンディングの入りは、タランティーノや、ダグ・リーマンの監督作品で見られるくらいだ。佐藤卓哉がいかに映画というものを理解しているか、いくら称賛しても、し尽くすことはできない。
 上映期間中に、制作会社が倒産するという珍事がおきた。

・その他

・ソシャゲー
 『ドールズフロントライン』の百合ゲー『Va-11 Hall-A』とのコラボイベントで、コラボイベントにもかかわらず、シナリオの完成度が驚くほど高かった。べつに百合要素はあまりないのだが、一応。

匿名ラジオ・番外編『久川凪について考える』

恐山 「ちょっと聞いてくださいよARuFaさん」
ARuFa「なんだい恐山」
恐山 「半年くらい前に、オモコロで《デレステの久川凪は俺たちのことを知っているかもしれない》っていう企画をやったじゃないですか」
ARuFa「あー。普通、二次元のキャラクターは三次元の俺たちが一方的に認識するものだけど、逆に二次元のキャラクターが三次元の俺たちを認識してたら面白いんじゃないかっていう逆転の発想を楽しむ企画ね」
恐山「ちょっと! 企画の根幹を解説しないでくださいよ。醒めちゃうじゃないですか! …まあ、その企画ですよ」
ARuFa「うん。で、その企画がどうかしたの?」
恐山 「そのことで、私、恐ろしいことに気づいちゃいましてね。その前に、CEDEC 2019で『アイドルマスター シンデレラガールズ』に起こったことを、ARuFaさん、ご存じですか?」
ARuFa「いや。知らない知らない」
恐山「CEDECというのはコンピューターゲームの関係者向けの大規模な集会でですね、そこで『アイドルマスター シンデレラガールズ』の運営会社であるCygamesも講演を行ったんですよ」
ARuFa「うん」
恐山 「その講演の1つがシナリオチームのものだったんですよ。そこでですねえ、『デレマス』のキャラクターの1人である速水奏が例として使われたんですよ。速水奏というのはですね、17歳、女子高生。趣味が映画鑑賞。落着いていて、どちらかというとプレイヤーを翻弄するようなキャラクターなんですよ」
ARuFa「うん」
恐山 「それがですね、その講演で《大人ぶりたいJK》というコンセプトのキャラクターであることが説明されてしまったんですよ!」
ARuFa「あららら。…こっちを翻弄するような、大人びてて、謎めいた言動が、全部演じたものだったっていうことが暴露されちゃったわけね」
恐山 「はい… まあ、速水奏はコミュで《気持ちのいい風… なんだか怖いくらい》とか言いだすようなキャラクターなので、素でそういうことを言ってなかったのはむしろいいくらいなんですが」
ARuFa「そりゃ風が吹いただけで怖がるようなキャラクターは、むしろこっちが怖い… ニャ」
恐山 「あッ! ネコだ! 風が吹けば盲目のひとが増えて、三味線の革を張るためにネコが乱獲されるから、風を怖がってる!」

   ♪♪♪

恐山 「それでですね、《デレステの久川凪は俺たちを知っているかもしれない》で、久川凪は俺たちを知っているって結論づけたじゃないですか」
ARuFa「そうだね。あれから半年くらい経ったけど、どう?」
恐山 「いや。変わらないですね。やっぱり久川凪は俺たちを知っています。それで私のツイッターアカウントをフォローしています」
ARuFa「都合いいなぁ」
恐山 「そもそも久川凪は『デレマス』の7周年で追加された7人のアイドルの1人で、その7人はなんかしらネットウケを意識してるんですよ」
ARuFa「他はどんななの?」
恐山 「配信者とか、語尾が《ンゴ》とか… 自称メンヘラの夢見りあむはかなりバズりましたね。第8回のシンデレラガールズ総選挙でいきなり第3位に入ったので、上位5位以内ということでボイスが実装されました」
ARuFa「それ! それだよ恐山!」
恐山 「なんですかARuFaさん」
ARuFa「前から思ってたんだけどさ、人気投票で上位になったらボイスが実装されるっておかしくない? だって、『デレマス』のアイドルだって作中では声があるわけでしょ? ポポポポ、とか喋ってるわけじゃないんでしょ? それが人気投票で上位になってから、はじめてボイスが実装されるっておかしくない? それアリ?」
恐山 「なんですか、その《ポポポポ》って」
ARuFa「『逆転裁判』のキャラクターの声」
恐山 「効果音じゃないですか!」
ARuFa「え、なに? アイドルだって、設定上はもともと声があるんだよね。じゃあ、悪い魔女に魔法で声を奪われて、《声を返してほしかったら総選挙で上位になるんだよ。ヒッヒッヒ》とか言われてるわけ? だから『シンデレラガールズ』なの?」
恐山 「『シンデレラ』の魔女はいい魔女ですから! まあ、なんですか。魔女にもいろいろあるんですよ。予算とか…」
ARuFa「あー。じゃあ、はじめから『デレマス』のアイドルは無声で、魔女の魔法がかかれば声を出せるようになるんだ。声の出ない女の子との交流、『聲の形』じゃん。《感動しました!》、《人生で大事なものを学びました!》、《もう5回は観ました!》」
恐山 「ちょっと、なんでバカにしてるんですか!」
ARuFa「え? バカにしてないし。いまのは素直な感想だし。恐山こそ『聲の形』のことめちゃめちゃバカにしてるでしょ」
恐山 「してないですよ! じゃあ、ARuFaさんは『聲の形』をバカにしてないってことでいいんですね?」
ARuFa「それは… バカにしてるけど?(笑)」
2人 「(笑)」

   ♪♪♪

恐山 「話を戻すと、久川凪がネット中毒だとすると、あの不条理な言動の意味も変わってくると思うんですよ」
ARuFa「あー。直球の笑いはダサいと思ってるから、ギャグがどんどんシュールでハイコンテクストになっていくヤツね? だんだん自分でもなにが面白いのか分からなくなってくる」
恐山 「そうなんですよ。久川凪があの言動を狙ってやっているとすると、内面はめちゃくちゃ尖りまくってることになるんですよ」
ARuFa「《お前らダサいんだよ!》って」
恐山 「そうそう」
ARuFa「うーん。でもさ、ネットをチラッと見て、それでたまたま感性が合ってたっていうこともありえるじゃん。マンションポエムとか、P Payとかもさ…」
恐山 「いや。それ、ありえます? それなりにネットに浸ってないと、ここまで尖らないんじゃないですか?」
ARuFa「インターネットの神に愛された子」
恐山 「なんですか、そのインターネットの神に愛された子って!」
ARuFa「久川凪」
恐山 「いや、それは分かってるんですよ!」
ARuFa「小説の神に愛された子、音楽の神に愛された子、インターネットの神に愛された子がいるとするでしょ。小説の神に愛された子は最年少で芥川賞をとったりするの。音楽の神に愛された子はピアノをシャラララって弾いて、なにかのコンクールに優勝したりする」
恐山 「それで、インターネットの神に愛された子は?」
ARuFa「2ちゃんで嫌いな小説家のスレを荒らしてる。で、インターネットの神に愛されてるから、1レス投下しただけで、もうスレが荒れるの」
恐山 「嫌な才能だな~。もう2ちゃんねるないですしね。その小説家も、どうせ小説の神に愛された子とかでしょ。他人に与えられた才能を相殺して帳消しにするだけの才能」
ARuFa「それが久川凪」
恐山 「ちがいますよ! 例えば久川凪の代名詞と言えばマンションポエムですよね。マンションポエムっていうのは、現代のスノビズムの象徴なんですよ」
ARuFa「ん? どういうこと?」
恐山 「スノビズムっていうのはスノッブ、知識のひけらかしなんかの傾向のことを言いますよね。でも、もともとは端的に《俗物根性》って意味だったんですよ。ナボコフが50年くらい前にそういうことを言っています」
ARuFa「なるほどね。マンションポエムはスノビズムなわけだ。ナボコフって『ロリータ』の作者でしょ? いま生きてたらツイッターやってそう。それで本質を突くツイートめっちゃしてそう」
恐山 「そしたらARuFaさんはフォローしますか?」
ARuFa「いや、フォローはしない。尖りまくってて相互フォローになったら気を使いそうだし。リストに入れて、フォローしないで監視する」
恐山 「それが久川凪なんですよ」
ARuFa「なるほど」
恐山 「このあいだ武蔵小杉のタワーマンションがウンコまみれになったときもネットで大ウケしてましたけど、それもそういうことでしょう?」
ARuFa「いや、それは関係ないでしょ。だってウンコまみれになってて面白くない場所ってないでしょ。《あ、スラム街がウンコまみれになってる。ギャハハハ!》、《あ、ホワイトハウスがウンコまみれになってる。ギャハハハ!》って。ウンコでいっぱいになってて面白くない場所って肥溜めくらいじゃない? そりゃ、肥溜めを指さして《ウンコ、ウンコー!》とか言ってたら、《小学生かよ》って思うけどね」
恐山 「《ホワイトハウスがウンコまみれになってる!》とか言うのも、十分、小学生ですよ!」

   ♪♪♪

恐山 「つまりですね、久川凪はぶっちゃけた言いかたをすれば、中二病なんじゃないかってことですよ」
ARuFa「でも、14歳なら普通じゃない?」
恐山 「それはそう。でもね、『デレマス』に中二キャラはもう2人いるんですよ。神崎蘭子と二宮飛鳥。しかも2人とも14歳」
ARuFa「うわー」
恐山 「神崎蘭子中二病でも、中二病っていうか、いわゆる邪気眼なんですよ」
ARuFa「《昔、妹は中二病だった。普段の自分が、「影羅」という魔族の人格を抑えている二重人格という設定だった。でもあるとき、夕食のときに「影羅」の人格が出て、「久々の飯だぜ」と言いながら夕食を手掴みで食べはじめた。食べもの関係のジョークを一切許さない母が妹を殴ると、妹はまた普通に食べだした。それ以来、「影羅」の人格が出たことはない》」
恐山 「なんでそんなのがすぐ出てくるんですか… ともかく神崎蘭子中二病でも邪気眼の部類なわけですね。で、二宮飛鳥はわりとそのままの意味の中二病なんですよ」
ARuFa「《レゾンデートル》という言葉をすごくカッコいいと思っちゃうみたいな」
恐山 「そうそれ! でね、二宮飛鳥が出てきたときも、忘れたい記憶が一部、甦ってくるところはあったんですよ。でも、二宮飛鳥が中二病だって言っても、《ああ、中二病ね》と言って、自分とは切りはなして考えられるでしょ。久川凪は《中二病》と言うこともできないんですよ。なぜなら、まだそういう類型が生まれてないから」
ARuFa「いわば現代の、現在進行形の中二病なんだ」
恐山 「そうなんですよ… それが私には恐ろしい」

   ♪♪♪

ARuFa「いやー、にしても久川凪、めちゃくちゃ尖ってるね」
恐山 「めちゃくちゃ尖ってますよ。さっき言った夢見りあむとか、夢見りあむ本人はまだしも、夢見りあむのファンのことはめちゃくちゃ嫌ってそうですもん。夢見りあむのファンの、夢見りあむをネタにした、オタクに特有のちょっと捻った小賢しい《感動する話》みたいなツイートを見て舌打ちしてそうですもん」
ARuFa「尖ってるねー」
恐山 「尖ってるから扱いも難しいですよ。なにがパーフェクトコミュニケーションか分からないですもん」
ARuFa「んー、じゃあ、俺たちでやってみようか。俺がPをやるから、恐山が久川凪をやってよ。パーフェクトコミュニケーションを出してみせるから」
恐山 「いいですよ。そうですねぇ… 《都会に現れた、20坪の凪空間。でも実際の面積は0・5坪ほどです。これは宅建業法違反で処罰されてしまうな。タコ坪ならぬタコ部屋です》」
ARuFa「《うーん、これは半畳を入れられちゃったな。0・5坪だけにね!》」
恐山 「ちょっとARuFaさん!」
ARuFa「え、なに恐山」
恐山 「なにうまいこと言おうとしてるんですか! 乗ってきちゃダメなんですよ! こっちは尖りまくってて、不条理ギャグで煙に巻こうとしてるんですから、乗ってこられたら《シュン》としちゃうじゃないですか! しかもなんですか《0・5坪だけにね!》って! こんなのバッドコミュニケーションですよ!」
ARuFa「えー、じゃあ、なんて言えばいいの」
恐山 「《は…?》とか《え…?》とかですかね。そう考えるとコミュのPはパーフェクトコミュニケーションを達成してますね。とにかく《0・5坪だけにね!》だけは最悪です!」
ARuFa「は…?」
恐山 「パーフェクトコミュニケーション!」
ARuFa「適当に《はは。面白いね》とか言うのは?」
恐山 「うーん。そうやって相手すると、久川凪が大学生くらいになったときに、夜中に中学生だったときのことを思いだして《うわぁー!》ってなっちゃうかもしれないので」
ARuFa「ハハハ。そう考えると、久川凪も美少女だからかわいいけど、外見がオッサンだったら許されないね」
恐山 「そりゃ外見がオッサンだったら大抵のことは許されないでしょうよ。私が《にょわー! はぴはぴにぃ!》とか言ったら変質者でしょ」
ARuFa「それじゃ、俺が《うーん、働きたくないなぁ。働いたら負けだと思ってる》って言ったら?」
恐山 「それはただのニート
ARuFa「は…?」
恐山 「パーフェクトコミュニケーション! …《あ、もしかしてARuFaさん!? ブロガー時代からのファンです!》」
ARuFa「パーフェクトコミュニケーション!」

《えー? もう終わっちゃうの?》
《ご清聴、ありがとうございました》

デヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』要約

本稿の著作権・著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。

 

○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。

●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」

●『反出生主義と出生を促進する偏見』
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。

●『本書の概要』
●『読者への指針』

○第2章『存在してしまうことが害悪である理由』

●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍

・『生きる価値のある人生と生きる価値のない人生』
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。

・『始めるに値する人生と続けるに値する人生』
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。

●『何故存在してしまうことは常に害悪であるのか』

・『快楽と苦痛の非対称性』
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。

・『存在することと決して存在しないことを比較する』
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。

・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。

・『生まれたことを悔いないことに逆らって』
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。

○第3章『存在してしまうことがどれほど悪いのか』

●『人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない理由』
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。

●『何故人生の質の自己判断は信頼できないのか』
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。

●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』

・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。

・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。

・『客観的リスト説』
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。

・『三つの見解についてのまとめ』
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。

●『苦痛の世界』

〇第4章『子供を持つこと:反出生的見解』

●『子作り』

・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。

・『子どもを作ってはいけないという義務はあるのか?』
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。

●『子どもを作る自由』

・『子どもを作る権利とされているものを理解する』
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。

・『子どもを作る権利を自律性に根拠付ける』
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。

・『子どもを作る権利を無益さに根拠付ける』
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。

・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。

・『子どもを生む権利を妥当な意見の相違に根拠付ける』
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制アパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。

●『障碍とロングフルライフ(望まずに生まれた命)』
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。

●『生殖補助と人工生殖』

・『生殖倫理と性倫理』
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。

・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。

●『将来生まれてくる人間を単なる手段として考えること』
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。

○第5章『妊娠中絶:「妊娠中絶反対派」の見解』
(『本書の概要』で述べるとおり専門的すぎるため省略)

○第6章『人口と絶滅』

●『人口過剰』

●『人口に関する道徳理論に潜む問題を解決する』

・『パーフィットの人口問題』
p.176 人格影響説…非同一性問題→非人格的総計説、非人格的平均説…新たな理論Xを求める。

・『反出生主義が理論Xに適合する理由』
p.181 人格影響説は…出生は確実に悪いため解決できる。
p.181 非人格的総計説は…とにかく人間を増やすべきだという「いとわしい結論」と、まだ存在しない人間を対象とする誤った前提を否定できる。ただし、人口のサイズに対するガイドラインはなくなる。非人格的平均説は…人間の出生に条件を付ける「単純な追加の問題」を否定できる。…非人格説は幸福の最大の総量/平均値ではなく、不幸の最小の総量/平均値を目指すべきだ。よって、理想的な人口はゼロだ。

・『契約主義』

●『段階的絶滅』

・『人口減少がQOLを低下させる場合』
p.191 高齢化。とくに一部が「最後の人類」となることはQOLを大幅に低下させる。

・『人口をゼロまで減らす』
p.194 現存の人々のQOLを良くするために新たに生命を作ってもよいか。また、その条件は。
p.195 総計的人格影響説、平均的人格影響説…不幸から見た場合、平均説は明らかに誤り(QOLが悪い人生が60億あるより、120億ある方が悪い)。総計説なら部分的に許される。
p.198 平均説・総計説とも功利主義に対するのと同じ批判を受けうる。→権利・義務論:厳格な説ならすべての子作りは許されない。厳格でない説なら部分的に許される。

●『絶滅』
p.202 小惑星の衝突といった外的な脅威、持続不可能な消費、環境破壊、疫病、核兵器生物兵器

・『絶滅への二つの手段』
p.203 皆殺しか、段階的絶滅か。

・『絶滅に関する三つの問題』
p.204 ①皆殺し②「最後の人類」への害悪③人間がいないという状態…①は明らかに悪い。②は最後の世代の方が、最後から2番目の世代より、未来への願望・欲望が絶たれるという点で害悪が大きい。ただし、これは絶滅が早いほどにいいという議論と矛盾しない。③道徳的主体や理性的思考者がいなくなり、多様性もなくなる。それらの受益者はいないし、「永遠の相のもとで」価値があるか不明だ。

○第7章『結論』

●『反直観的であるという反論に反論する』
p.210 「道徳台帳」という功利主義の理論を退けるピーター・シンガー。「失望主義(反失望主義」を退けるニルス・ホルタッグ。
p.211 そもそも反直観的だというのは判断材料として有力ではない。…この結論(反出生主義)が反直観的という理由で否定し、背理法的に非対称性を退ける。…快楽の不在は悪で、苦痛の不在は「悪くはない」と見做すことはできない。さらに、支配的な直観は①他人に害悪を与えることを子作りに限って度外視している、②出産を奨励する直観は心理学的に歪められている、という問題がある。
p.214 背理法的に非対称性を論じることができると見做せば、我々より悪い人生を送る人々に、我々の直観を同様に反直観的と非難されることになる。

●『楽観主義者への応答』
p.215 楽観/悲観主義には事実、価値判断の2つについてがある。無論、反出生主義はどちらも悲観主義だ。
p.216 反出生主義の楽観主義的転回=避けられない絶滅を良いことだと考える。他の人々にとっては悲観主義的だ。
p.217 楽観主義者は悲観主義を苛立たしく思い、非難する。出生は「覆水盆に返らず」で、自分を憐れまず、いかに自分が恵まれているか考え、人生をフル活用し、喜びを感じ、前向きに考えなければならない…①人を元気付けるというだけでは正当とは言えない。②自己を憐れむことなく自らの存在を悔やむことはできる。何より、反出生主義はまだ生まれてこない子供のためのもので利他的だ。盆からこぼれてもいなければ、こぼれる必要もない。③自分の人生に満足すべきだという意味を読みとって「いかに自分が恵まれているか考える」ことは、自分に都合のいいように解釈することを必然的に伴い、そうしろという命令には全く説得力がない。反出生主義は苦痛の拡散をせず、なおかつ自分の人生をより悪くなくすことができる。④楽観主義は苦痛に対する妥当な否定ではなく、ただの無関心でしかない。明るい方向がつねに正しいというのは、ただの無根拠なイデオロギーだ。自己欺瞞を回避できれば、集中して取り組まなければならないのは、おおむね希望より逆境だ。彼らは幸せかもしれないが、だからといって正しいわけではない。

●『死と自殺』
p.220 存在してしまうということはつねに害悪だという見解は、死が存在しつづけるより良いということや、自殺がつねに望ましいということを意味しない。存在するものは存在しつづけることに様々な利害関心を持ちえて、人生を続けるに値しないほどの害悪は、それらの利害関心を無効化するほどでなければならない。
p.221 実際、存在することの害悪の大きな1つは死ぬこと(不死ではないこと)だ。
p.221 エピキュリアン:死は死ぬものにとって悪くない。死が来た時点でその主体は存在せず、よって死は経験できない。…①すべての条件が同じなら、長い人生は短い人生よりいい。②死んだ人間の願いは尊重すべきだ(もし死は害悪でないのなら、死後生じることで害悪ないことはない)。何より、③殺人はその犠牲者を害するという直観に反する。
p.222 ①存在することが害悪だと考えるひとさえ、同意なくその人を殺すのはその人を不当に扱っていると考える。②予防原則:エピキュリアンの見解が間違っていた場合、深刻な害悪がもたらされるが、反出生主義が間違っていても、害悪がもたらされることはない。
p.223 生前の非存在と死後の非存在は非対称的だ。人に歴史は個人の歴史から構成される。
p.223 「生前の」人物から奪うというのは…害されるのが「生前の」人物なら過去への因果関係が生じているという議論…死が害する瞬間は「つねに」または「永遠に」だ(例:「最後から2番目の大統領」は「つねに」、「永遠に」そうだ)。…デイヴィッド・スーツ「それは「純粋に関係的な」点において惨めであるということで、彼が害されているということは言えない」。
p.225 ともあれ、反出生主義はエピキュリアンを意味しない。エピキュリアン:死は害でも益でもない。→エピキュリアンの見解を退けるとすれば①死はつねに害悪である。②つねに利益である。③害悪である場合も利益である場合もある。…①②は明らかに間違い。反出生主義は③で、QOLの評価と、それが存在しつづけるのをやめるべきときの基準は、自己決定の原理によるべきだ。しかし、一般的な見解より合理的な自殺に寛容なことは確かだ。実際、西洋の文化のほとんどを含む多くの文化に合理的な自殺への大きな偏見がある。
p.228 一旦、誰かが存在してしまい、その人への愛着が形成されると、自殺は苦痛を引き起こす。せいぜい子供のいない人生の苦痛を比較することで和らげるだけだ。さらに、周辺の人への害が増えることがあり得る。

●『宗教的見解』
p.229 旧約聖書でヨブは生れてきたことを悔い、エレミヤはさらに堕胎してくれなかったことを恨んでいる。タルムードはヒレル主義とシャマイ主義の論争で、人類は作られない方が良かったという後者に軍配を上げている。

●『人間嫌いと人間好き』
p.231 反出生主義は人間好きによるものだ。しかし、人類は自分からは絶滅せず、多数の苦痛が生まれつづけるだろう。これこそ、人間嫌いが反出生主義に達しない理由だ。…人々は反出生主義も子作りをやめることも受けいれないだろう。それが人間好きに由来するとは考えにくい。それは人間に対する悪意ではなくとも、存在してしまうことへの害悪への、自己欺瞞的な無関心によって行われている。

『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』感想 - 毒物を仕込んだリンゴをスケッチし、その後、それを齧って自殺した男 -


 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』について。

 《君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。》(芥川龍之介『或る旧友へ送る手記』)

 まず、前作『スペクトラルウィザード』について確認したい。目次は以下のとおり。

 『スペクトラルウィザード』
 掌編『ダイウラスト』
 『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』
 掌編『ネクロキネティックウィザード』
 『リレントレスオーバータワー』

 本書は各章ごとに頒布された同人誌を編集したものだ。
 よって、主要主題はおおむね表題作『スペクトラルウィザード』で示されている。

 魔術師ギルドがテロ組織と認定され、騎士団により壊滅させられ、魔術師の残党は散りぢりになった。騎士団は7つだけ残存する魔導書を保管し、それを使えば世界を滅ぼすことができる。しかし、魔術師たちはただ見通しのない潜伏生活を続けるのだった…
 スペクトラルウィザードもその1人だ。スペクトラルウィザードは自身をエクトプラズムに変えるゴースト化の魔法を使う。そのため攻撃も拘束もできず、騎士団からもほぼ放任されている。騎士団の職員のミサキには、ほぼ一方的に友人のように接している。
 しかしスペクトラルウィザードが通常の社会生活を送ることができるわけでなく、とうとうある日、騎士団から魔導書を強奪してしまう。しかし、ウサギのぬいぐるみを質草にされ、あっさりと魔導書を返してしまう。

《「昔の私なら奪おうとしたかもしれんが 最近はなんだか疲れててな…」「情けない話だが…」「今の私は魔導書よりカーテンのほうがほしいんだ…」》

 ゴーストの世界はひたすら無。スペクトラルウィザードは無敵だが、同時に、誰にも相手にされない。
 プラトンの『国家』からウェルズの『透明人間』に至る、現代の透明人間の逸話。

 『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』ではカオスウィザードが登場する。カオスウィザードは7人にまで分身することができる。そのためカオスウィザードは魔術師ギルドでも不気味がられ、誰にも相手にされなかったが、自分たちでつるんでいたため気にしなかった。
 スペクトラルウィザードは少しずつ家財を売ることで生活していて、カオスウィザードは犯罪者として日々を気ままに生きている。カオスウィザードは魔導書《長い大きい影の記憶》を強奪し、世界を滅ぼすことを提案する。
 スペクトラルウィザードはカオスウィザードの誘いに乗るが、最後には《長い大きい影の記憶》を騎士団に返す。それを見て、究極の自己完結をしていたはずのカオスウィザードは涙を流すのだった。

 掌編『ネクロキネティックウィザード』は『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』の後日談。念動力という強力な魔法を使うが、要領が悪いため、万引きで食いつないでいるネクロキネティックウィザードをカオスウィザードが仲間に引きいれようとする。

 『リレントレスオーバータワー』は3部作の完結編と言っていい。サハラ砂漠に石造の塔が出現し、どんどん上方に増殖してゆく。魔導書《リレントレスオーバータワー》によるもので、このままでは世界が滅びる。騎士団に協力することで自由を保証されているクリスタルウィザードは、塔の最上階に唯一、ゆくことのできるスペクトラルウィザードに、魔導書を作動させているガーゴイルウィザードの説得を託す。
 スペクトラルウィザードにすれば、世界が滅びるのをとめる理由も、自分が生きつづける理由もない。しかし、ガーゴイルウィザードに会い、短い対話のあと、ガーゴイルウィザードは魔導書をとめるのだった。

《「もし首謀者に会って言うことが何も思いつかなかった時はこう言え」「魔術師はお前の行為を罪とは思っていないと!」》

 魔導書の発動は、自殺、またはローンウルフのテロとほぼ同じ意味だ。
 ガーゴイルウィザードを逮捕したあとも塔は残り、地軸への影響で環境が激変するらしい。問いただすミサキに、クリスタルウィザードは淡々と言うのだった。

《「世界は1秒たりとも同じではない 元に戻るものなんて何もない」》

 しかし、こうした物質主義は、逆説的に超越的な救いがないことの救いとなるだろう。

 連作短編集だった『スペクトラルウィザード』に対し、『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』は1本の長編だ。

 目次は以下のとおりに別れている。

 『モストパワフルスペルオンアース』
 『ファイアーメイジ』
 『ファイアーメイジVSクリスタルウィザード』
 『VSスペクトラルウィザード』
 『サラダウィザード』

 登場人物は前作とほぼ同じで、ファイアーメイジだけが新しく登場する。

 『モストパワフルスペルオンアース』から『VSスペクトラルウィザード』まで、延々と騎士団とクリスタルウィザードの陰謀と内紛が続く。陰謀と内紛は、ほぼ疑心暗鬼と内部分裂によるものであり、その内容はどうでもよい。
 要点は、『ファイアーメイジVSクリスタルウィザード』の後半で、スペクトラルウィザードが騎士団に敵対することだ。『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』ではカオスウィザードを拒んだにもかかわらず、ここでカオスウィザードたちに協力し、破壊活動を行う。カオスウィザードに顔に迫力がないからと言われ、破壊活動を行うときスペクトラルウィザードは仮面を着ける。
 スペクトラルウィザードが仮面の下で葛藤しており、それが最後に暴露されるだろうことは読者には想像がつく。そしてそのとおりになるが、それは予想もしない痛みを伴う。
 『VSスペクトラルウィザード』で、ミサキは『スペクトラルウィザード』の挿話を引き、スペクトラルウィザードに対抗するには彼女の私物を利用するしかないと言う。ファイアーメイジの協力で、ゴースト化の魔法の弱点が分かる。ゴースト化の魔法を使うとき、術者は存在を安定させるために《重し》となる物を所有する。それがなければ、ゴーストの世界から現実に戻ってくることができなくなるかもしれないからだ。
 スペクトラルウィザードは《長い大きい影の記憶》のコピーが保管されている地下1000キロメートルの危険物用の地下倉庫に向かう。じつのところ、それも騎士団のためなのだが、陰謀と内紛のために伝えていない。ミサキたち騎士団は、地下倉庫でスペクトラルウィザードを待ちうける。
 スペクトラルウィザードは地下倉庫に侵入して呆然とする。そこに自宅の家具が並べられていたからだ。ミサキはスペクトラルウィザードと対峙し、家具を1つずつ破壊してゆく。模造クリスタルの『スペクトラルウィザード』以来のコンセプチュアルな画風で、仮面を着けたままのスペクトラルウィザードが、家具を破壊されるたびに傷ついてゆくのがはっきりと分かる。
 最後の家具を破壊したあと、ミサキは捨て台詞をぶつけ、騎士団とともにスペクトラルウィザードを銃撃する。無敵のはずのスペクトラルウィザードの仮面が壊れる。予想外の成果にミサキは驚く。が、すぐに絶句する。スペクトラルウィザードは俯いて泣いていた。
 騎士団は地下倉庫を爆破で埋める。スペクトラルウィザードは泣いたままゴースト化しようともせず、瓦礫に埋まる。
 スペクトラルウィザードと対峙するとき、仮面と対になるようにミサキもガスマスクを着けている。事後、ミサキはガスマスクを外して泣く。
 後日、ミサキの元に生前のスペクトラルウィザードからの手紙が届く。事態が収束したあとに仲直りすることを頼むもので、ミサキはふたたび泣く。
 かくして、半死半生の存在だったスペクトラルウィザードは本当に死んだのだった。

 掌編『サラダウィザード』は、題名からして軽妙なものに思えるが、そうではない。魔術師ギルドが危険視される以前、サラダウィザードはギルドを離れて旅に出た。その別離を描く。

 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』に救いはない。『スペクトラルウィザード』は物語性と、それによる救いの否定により、逆説的に救いを描いたが、それもない。
 いわば『スペクトラルウィザード』は自殺志願者の話だったが、『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』はその自殺の話だ。
 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』の長い説話はほとんど意味をもたず、最後にはスペクトラルウィザードの自死で切断される。
 スペクトラルウィザードが自死を選ぶのはまったく不思議ではない。『スペクトラルウィザード』の表題作において、すでにスペクトラルウィザードは自殺志願者で、最終的に彼女が自殺するのは自然ですらある。『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』の長い説話はほとんどスペクトラルウィザードの自殺には関係ない。ただ、目のまえで自宅の家具を1つずつ破壊されるという陰湿な精神攻撃を受け、しかも、それを唯一の友人にされたという事実が彼女を死に追いやった。上掲の、芥川龍之介の遺書を読んでもらいたい。
 そのことがスペクトラルウィザードの意思を自殺に向かわせたというより、ただ最後のひと押しとして、わずかに残っていた生きる気力を奪った。そのため、泣いているときのスペクトラルウィザードはミサキを見るのではなく、ただ俯いている。

 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』の長い説話はスペクトラルウィザードの自殺から切断されているようだが、主題はしばしば述べられている。『モストパワフルスペルオンアース』では先史時代、1万年前から氷漬けにされている《アイスレディ》を題材に、人間は肉体的には変わらず、形而上的な知識だけが変わることが語られる。クリスタルウィザードがかつて求めていた《最強の魔法》は他者を支配する魔法のことで、『ファイアーメイジVSクリスタルウィザード』の後半で、意識は各人で独立しているため、そのような魔法は存在しないと断言される。『VSスペクトラルウィザード』では、科学は物理的に観測でき、魔法はできないという、初出の設定までが語られることになる。

 フーコーが『言葉と物』で提言した《人間の消滅》ということも、当然、残る客体に対する主体の存在を無視したもので、同様の文学や思想も、同じ問題をもつ。つまり、完全な物質主義はそれが《主義(-ism)》であるかぎり、言葉が矛盾している。
 『スペクトラルウィザード』の救いがないことによる救いというのも、そういうものだ。
 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』が付きつけるものは、まさにただの物質、人間にとってのただの欠落だ。
 本書を読み、じつはスペクトラルウィザードが生存していることを二次創作じみて夢想したり、自殺志願者のスペクトラルウィザードが他者から攻撃されて本当に自殺してしまうことから、自殺志願者や社会的弱者に残酷に振るまうことの危険性を説くメッセージ性や、対立し、攻撃されるときのスペクトラルウィザードが顔を隠していることから、鷲田清一の『顔の現象学』やレヴィナスの『全体性と無限』を引き、SNSの発達した現代において、顔の見えない相手を攻撃することの危険性を説くメッセージ性を読みとったり、あるいは、単純に本書の存在をなかったことにし、『スペクトラルウィザード』は第1巻のみで完結していると思いこむことはできない。
 『スペクトラルウィザード』の3部作を発表してから、2年の歳月をかけ、模造クリスタルが『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』を描画していたという事実は重すぎる。

 チューリングは青酸カリを仕込んだリンゴをスケッチし、それから、そのリンゴを齧って自殺した。
 わたしたちは同じようにリンゴをスケッチできるかもしれない。でも、それからどうしたらいい?

『雪が白いとき、かつそのときに限り』の語りについて 幻滅と幻影 - リウィウス、マキャベリ、陸秋槎 -

(※本稿は『雪が白いとき、かつそのときに限り』の犯人、犯行方法、動機に関する深刻なネタバレを含む。よって、本書を未読のものが読むことを禁ずる。)

 陸秋槎の『雪が白いとき、かつそのときに限り』(稲村文吾訳、2019年、早川書房)は、2017年に中国、新星出版社から出版された『当且僅当雪是白的』の邦訳だ。本書は『元年春之祭』(2018年、早川書房。原書、2016年)に続く陸秋槎の第2長編だ。
 以下、本書を読解し、その問題意識と技法を明らかにしたい。

本格ミステリにおけるゲーデル問題

 記号論理学におけるルフレッド・タルスキの例出した命題を題名に掲げる本作は、新本格推理小説として《本格ミステリにおけるゲーデル問題》を主題においている。これは《後期クイーン的問題》と通称されるものだ。
 作中では主役の1人である馮露葵の思索において、この概念を前景化している(pp.176-8)。ただし、聡明な作者は登場人物においてミステリーファンの姚漱寒を主役の高校生たちから離れた位置におき、作中で《後期クイーン的問題》に関する中学生じみた熱心でいたいけな引用を避けている。
 諸岡卓真の『現代本格ミステリの研究』のまとめによれば、《本格ミステリにおけるゲーデル問題》は1995年に法月綸太郎が『初期クイーン論』で提議し、その後、笠井潔が『本格探偵小説の「第三の波」』で《後期クイーン的問題》と簡潔に称したものだ。結果的に、いわゆる《後期クイーン的問題》が、誤称として定着したことはミステリーファンには言うまでもない。その後、《後期クイーン的問題》は評論では笠井潔の『探偵小説論Ⅱ』、巽昌章の『論理の蜘蛛の巣の中で』、小森健太郎の『探偵小説の論理学』などで論じられた。実作は枚挙に暇がない。
 《後期クイーン的問題》は1925年に発表の、ロナルド・A・ノックスの『陸橋殺人事件』がこの上なく簡潔にまとめている。

《「まず最初にこう言っておく。"この古文書には三つの部分が含まれている。すなわち、真正の部分と偽作の部分、そして第三には、偽作の部分を真正と思わせるための、故意に付け加えた偽の証拠である"とだ。ただそれだけの手間で、きみはこの論戦に必ず勝つ。……」》(宇野利泰訳、1982年。p.259)

 こうしてノックスは当時、勃興していた人類学、精神分析学、文献批判学とともに推理小説を相対化する。
 ミシェル・フーコーは1966年に発表の『言葉と物』で人類学、精神分析学を批判し、これはのちにアメリカを中心に《脱構造主義》と呼ばれることになるが、自身の手法を文献批判学とほぼ同じ意味の考古学(アルケオロジー)と称した。
 つまり、エマニュエル・カントの用語で言えば、われわれは超越論的主体であり、超越的に物自体を認識することはできない。
 この哲学は悲観主義的だ。そのため、『陸橋殺人事件』では終結部に登場人物が皮相的な台詞を言う。

《「将来はゴルフのゲームに専念するよ――ゲーム、ゲーム、ゲームばかり、ゲームのほかには何もなしだ」》(p.260)

 しかし、これは人生の真実だ。この台詞は1939年に公開のジャン・ルノワールの『ゲームの規則』を連想させる。さらには、陸秋槎の賛美する(『陸秋槎を作った小説・映画・ゲーム・アニメ』)『牯嶺街少年殺人事件』のエドワード・ヤンの『台北ストーリー』をだ。この映画の脚本は決して実現しない理想としてのアメリカと、現実であり、《ゲームの規則》である野球で構成されている。
 クルト・ゲーデルが1931年に第1不完全性定理を証明する論文『『プリンキピア・マテーマティカ』とその関連体系での形式的に決定不可能な命題について』を発表してから、ヒルベルトを代表とする形式主義(※数学の術語)は論理主義、直観主義とともに、純粋に技術的なものに移行する(佐々木力二十世紀数学思想』)。ヒルベルト以前の形式主義者はしばしば数学をゲームに喩えていた。そして、この移行後、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはあらためて形式主義を"「形式主義の正しい点は、いかなるシンタックスをもゲームの規則の体系として把握せしめることである。」"と評価した(『ウィトゲンシュタイン全集5』)。
 一応、記号論理学と《後期クイーン的問題》の関係について明確にしておく。以下、照井一成の『コンピューターは数学者になれるのか?』を参照する。《後期クイーン的問題》に直接的に関係があるのはゲーデル不完全性定理ではなく、ヒルベルト計画だ。ヒルベルト計画は抽象数学を正当化するためのものだ。抽象数学を形式系で表し、その無矛盾性を有限の立場で証明する。ゲーデルの第2不完全性定理は、それが不可能であることを証明する。端的に言えば、自己完結的な無矛盾性の可能性を否定する。よって、ある推理が反論されないことはありえない。これが《後期クイーン的問題》だ。

・青春の全能感と無力感という米澤穂信的なテーマ

 見出しは『陸秋槎を作った小説・映画・ゲーム・アニメ』による。これは『氷菓』にはじまる《古典部》シリーズの主題として、もっとも簡単で的確なものだろう。
 『雪が白いとき、かつそのとき限り』の探偵役の登場には2つの工夫が施されている。
 第1に、序章を除き、本書は顧千千と鄭逢時という探偵役と助手役の登場で開幕する。しかし、実際の探偵役は不羈奔放な顧千千ではなく、冷静沈着で頭脳明晰な馮露葵だ。
 第2に、本書の事件は5年前の事件と、物語の3分の2になってからようやく起こる、現在の事件の2つある。じつは5年前の事件では姚漱寒が探偵役を務めており、その姚漱寒から馮露葵は《名探偵》となることを期待される。

《「これだけ長く推理小説を読んできて、初めて名探偵になるかもしれない人に出会えたんだから、これくらいのお金はなんでもないわ。あなたが図書室でした推理は立派で、こちらは痛いところを突かれてすこし頭には来たけど、あれだけ上等な推理を聞くことができて満足だったの。あなたには才能があると信じてる。私をワトソンにするのはどう?」
「"名探偵"なんて言葉、口にして恥ずかしくないんですか。断じて私に期待しないでください、きっと失望させてしまうので」》(p.88)

 《名探偵》は選ばれた人間だ。《後期クイーン的問題》に適用すれば、《名探偵》はゲーデルの第2不完全性定理による自己言及の問題に対する、対角線論法による不動点定理だ。このことをはじめに提議したのは新本格第2世代の旗手である麻耶雄嵩で、探偵役のメルカトル鮎を《銘探偵》と称し、その推理は不可謬だとメタ=フィクショナルに注釈した。さらに、その後のメフィスト賞の受賞作家は、舞城王太郎が『世界は密室でできている。』、西尾維新が『君と僕の壊れた世界』で、それを主役の実存の問題に展開した。
 《古典部》シリーズでは、第2作の『愚者のエンドロール』が《名探偵》を才能をもつ人間と定義し、青年心理学の自意識の問題に展開した。後書きで作者がアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』を引用し、推理小説そのものを主題としたと述べる本作は、探偵役であり、主役である折木奉太郎の推理が否定され、助手役であり、もう1人の主役である千反田えるの《『私も人が死ぬ話は好きじゃないんです』》という、推理小説批判と《日常の謎》の賛歌の台詞で終わる。ただし、1冊をかけておこなわれる推理小説批判で否定される推理は、綾辻行人の『どんどん橋、落ちた』所収の短編の完全な盗用だ。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』では馮露葵が《日常の謎》を推理することで探偵役に名指される。その推理は見事だが、作中では退屈なものとして語られる。

《「ほんとに、どうでもいいような真相だね」
「こんな感じの謎解きが小説になったら、読みたいと思う?」
「あんまり」顧千千は後ろめたげに言う。「でもそんなに読書するわけでもないから、なにか言う権利はないけど」》(p.70)

 個人的なことだが、私はここで引用される《昔のアニメ》が陸秋槎の愛好する『ココロ図書館』であることを、倫理学者の長門祐介のツイッターの投稿で知った。
 前述のように、馮露葵は顧千千、姚漱寒の2人から《名探偵》として期待されるが、本書における《百合》的な要素も、馮露葵とこの2者とのあいだとのものだ。そのそれぞれとの才能に関する対話は、本書でもっとも美しい場面だ。

《「先生は、人生に失望したせいで酔いつぶれてるんですか? ロマン主義って感じですね」》(p.132)
 ……
《「そういうことは私に聞かせないほうがいいですよ、とりあえず、未成年の私には未来にある程度期待を持たせたほうが」
「でも、期待はあまり大きく持たないことね」姚漱寒は冷静に答える。「ほんとうに失望するから。自分にとっても、周りにとっても、期待が大きすぎるのは失望を招くことになる」
「先生には失望しました」
「そう、それは偶然ね」長いため息をつく。「私も同じ」》(p.134)

《「だから私は普通になるための方法を教えたの。私はだれよりも、"普通"っていうのがどういうことかわかってるから」
「あんなに成績がよくて、しかも生徒会長で、どこも普通じゃないよ。それに自分にあこがれて、慕ってくれる人がたくさんいるのに、そんなことを言ったらその人たちを傷つける」
「なら傷つけておきましょう」
「ほんとうにそれでいいの?」顧千千は苦笑いを浮かべるが、その膝には涙が一滴ずつ落ちてくる。「私も"その人たち"の一人なんだ。ほかのだれよりも……」
「ごめんなさい、私……」》(p.182)
 ……
《「いや、いまより良い結果はないよ。陸上で世界一になったってそれがなんなの、独りぼっちのままじゃないの? それよりも、目のまえの幸せをつかむほうがいいよ」
「あなたの幸福は、ひとの家の椅子に座って涙を流すことなの? ほんとうに安上がりな……」
「自分の膝を抱くより、友達の膝の上で泣くほうがいいに決まってる」顧千千はそう口にしながら、顔を上げて馮露葵のほうを向いたが、視線はいつまでも定まらず、相手の目を直視する覚悟がなかった。「私に力を貸してくれる?」
「かまわないわ。来て」そう言い、馮露葵は太腿の半ばを叩いた。「そう、私に鼻水は付けないでね。こんな時間になって、もう一度お風呂には行きたくないから」》(pp.183-4)

 本書の主要主題である特別性と《才能》について、作者は衒学趣味に乗じて思想を開示する。
 馮露葵は暇潰しにマキャベリの『リウィウス論』(『政略論』)を読む。それを機に、姚漱寒と西洋古代史と作家の職業を論じる。

《「先生にとって、推理小説っていうのはなんになるんですか? 単調な生活のちょっとした暇つぶし?」
「そうね。好きなことがあるならそれを生涯に捧げる先にするものだと信じている人もいるけど、私はもうそんな歳は過ぎた」そう言いながら、馮露葵の膝で開かれていた本に目をやった。「『リウィウス論』を読んでるなら、西洋の古代史にはすこし詳しいんでしょう、プルタルコスは読んでる?」
「『英雄伝』ですか? まだですけど」
「それはほんとうに残念ね。私は〈ペリクレス伝〉の一節が大好きなの――"他の事柄となると、成果に感嘆しても、それを自分でやってみようという気持ちがすぐに伴うわけではない。往々反対にして、われわれは作品を喜んでもその工人を軽蔑するものだ"」
「そうなんでしょうか」
プルタルコスは例を挙げてる。それによると、"香油や紫染の着物の場合、これらの製品を喜んでも、染物師や香油製造人は自由身分にふさわしくない卑しい職人だとみなしている"。アレクサンドロス大王の父親は、息子が琴をうまく弾けるのを知ったときには、"恥とは思わないのか"と訊いたらしい」
「ただの当時の人の偏見でしょう」
「現代の人間にも同じような偏見はない? この言葉を小説家に当てはめてみたらどう――とくに推理小説なんて、まともな扱いを受けない通俗小説を書いている人に。結局のところ、読書の好きな人だって、自分がまともな生活を送っていたら、小説家を相手にするときには軽蔑の視線を向けるものでしょうね」
「崇拝するんじゃないんですか」
「それはあなたぐらいの歳でないと持たない考えかたね」……》(pp.132-3)

 ハンナ・アーレントは『人間の条件』で、《天才》は近代の産物だと述べる。ルネサンスから19世紀末期まで、近代は創造的な天才を理想としたが、同様の概念は古代と中世にはない。芸術家の生産物には職人とは異なり、唯一性と差異性があり、それが崇拝された。しかし、それは古代の言論と活動には一般的なものだった。また、古代では芸術家が特別視されることはなく、職人の製作(ポイエーシス)は軽蔑された。さらに、活動者にとって活動の意味は物語になく、物語は活動に立脚しているが、物語を《製作》するのは活動者ではなく物語作者だった。近代になり、私有財産私有財産は富と真逆のものだ。致富は古代には軽蔑された)と公的領域が崩壊したことで、価値観は転変した。
 また、『人間の条件』は古代は私的領域と公的領域を区分し、近代は両者を混同し、中世の政治思想は世俗的領域、すなわち前者だけを対象とし、マキャベリだけが後者をも理解していたと述べる。『君主論』における傭兵隊長の地位の上昇は、前者と後者を統合する説明だ。
 木庭顕の『デモクラシーの古典的基礎』は以下のように述べる。鋭い知性をもつマキャベリは、イタリア都市共和国におけるデモクラシーの度重なる失敗をもって、デモクラシーの基礎となる意識と社会構造を分析した。これにより、近代の政治言語は確立した。それを知らず、マキャベリ、さらに人文主義とデモクラシーを理解することはできない。
 これが本書がマキャベリを衒学趣味の契機とした理由だ。これはあくまで契機であり、ふたたび特別性の主題の分析に戻る。
 この理由により、馮露葵が姚漱寒を謗るときは《ロマン主義者》という形容を用いる。この誹謗中傷は近代的なものだ。
 陸秋槎近代文学を重視しており、『1797年のザナドゥ』ではそれを主題としている。ただの近代文学および自然主義リアリズムの系譜ではなく、ポストモダニズムを経ている。本作は近代性と文学性、異種混交性の主題と新本格の問題意識を統合したものだ。本作の終結部は文学と書記(エクリチュール)が一致することで終わる。これはフーコーが『言葉と物』で述べる、ポストモダンにおける文学の有りようだ。これによれば、もはや文学は、言説(ディスクール)と対立し、書く主観性に向かうか、文学を生みだす運動のなかで、文学という本質を奪回しようとすることしかできない。つまり、書くという単純な行為になる。
 つまり、才能も物語も近代の産物で、仮構でしかない。さらに言えば、そのことはすでに近代には自覚されていた。つまり、われわれは超越論的主体でしかない。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』に付した序文に《十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。十九世紀におけるロマンティシズムに対する嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。》(福田恆存訳)と書き、純粋な技巧の追求を提言した。さらに言えば、『四つの署名』を脱稿したばかりのコナン・ドイルは、『ドリアン・グレイの肖像』を出版したばかりのワイルドと会い、その作品を当時の物質主義に対する批判として称賛し、たがいに意気投合した。また、フーコーは『監獄の歴史』で探偵小説は近代の産物だと述べた。
 なお、ロマン主義への言及は馮露葵の音楽の趣味にも表れている。馮露葵の所蔵するCDは、いくらかの洋楽とアニメソングを除き、後期ロマン派とショスタコーヴィチだ(p.156)。ただし、これは友達のあまりいない秀才としては自然なものだ。私も同じだ。各章の章題はブラームスの《四つの厳粛な歌》から採用されている。記号論理学との関係で言えば、ブラームスウィトゲンシュタインは家族ぐるみの付きあいがあった。なお、クラシックの新古典派への傾倒は、麻耶雄嵩も公然としている。笠井潔の《矢吹駆》シリーズではマーラーの《大地の歌》が頻々に引用される。
 特別性について、青年期にはそのことを誤解する。現実を悟りつつ、生命や宇宙について哲学的な思考を巡らせ、特別であろうとする。これが《青春の全能感と無力感という米澤穂信的なテーマ》だ。
 第2章は、その全編を通して5年前の事件の関係者に事情聴取し、全員が青春に幻滅していることを明らかにする。また、事件の捜査という推理小説の説話論的な要請からほぼ切断されて行われる晏茂林との対話は、才能に関する話題に終わる。

《「嘲笑されたってどうでもいい。いまのあなたには当然わからないから。これは一つのepiphanyなの――」呉筱琴はためらったあと、中国語に変えて言いなおした。「悟ってしまうこと。幻滅と言ってもいい。なにかのきっかけで、自分の人生は終わりを迎えたと気づいてしまうこと」》(p.101)

《「重いのは音楽じゃなく」馮露葵が言う。「恋ですよ」
「いいや」晏茂林は首を振った。「それぐらいの歳であこがれて、褒めたたえて、信奉するようなものは、きらきら輝いて見える言葉は、ぜんぶ重すぎるんだ。音楽も、文学も、美術も、哲学も、夢も、恋も、ぜんぶ重すぎる。人はもろいもので、そんなものに押しつぶされてしまうから」
「才能」馮露葵はその輝かしい一覧に、なによりもきらびやかな言葉をつけくわえた。「才能っていう言葉も、重すぎます。ふだんから口に出さないのがいちばん、自分が潰れてしまうから。……」》(pp.250-1)

 現代の事件の真相については、ほぼ作中で述べられ、多言を要しない。
 ただ、その結尾部において、詳細な記述を予期させるところであえて筆をおき、鮮やかに物語を切断するところが見事だ。これは小説よりフィルム・ノワールアメリカン・ニューシネマ、その他、犯罪映画で用いられる技法だろう。さらにはハードボイルド小説で、より具体的には法月綸太郎の『密閉教室』だ。そしてまた、法月綸太郎がベスト5に挙げる、ロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』だ。本作の主題もまた《幻滅》だ。本書は馮露葵と顧千千がおそろしく膨大な時間をともに過ごしたことを示しつつ、馮露葵から顧千千への感情は明らかにしない。作者は周到にもバスタオルに関する挿話(p.178)で、馮露葵から顧千千への感情が、少なくとも、ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で語るような、超越的なものである、陶酔的な《愛》ではないことを明示している。その皮相な雰囲気と馮露葵の孤独感を前景化したまま、人生の寄るべとするには儚すぎる友情に頼り、2人は心中する。
 おそらく、馮露葵は《日常の謎》の探偵役として、陳腐で退屈な真相を解明していればよかったのだ。失われたあとだからこそ、馮露葵、顧千千、薛采君、鄭逢時の4人のいる生徒会室という、《日常の謎》の舞台らしい小景(p.32)は、かけがえのなく惜しいものだと悼まれる。
 この沈痛な読後感は『元年春之祭』でももたらされ、本書の結尾部の、喪失感として分節化することも許さない喪失感の哀調は見事だった。ノーム・チョムスキーの意味のない文を題名に掲げる短編『色のない緑』の結尾部も、記号と意味論の無関係であることが意味となる台詞の哀感がすばらしかった。

推理小説家という職業

 『雪が白いとき、かつそのときに限り』では第4章ののちに終章が付き、前述の、アメリカン・ニューシネマのような悲愴美をも否定する。ここまで三人称が用いられてきたものが、作者である《陸秋槎》の一人称になる。そして、すべては筆者の記述に帰結する。ここで、序章が三人称による伝聞するもののいないはずの情景だったことの意味が明らかになる。ただし、この《陸秋槎》はメイド服で南京の都心を闊歩する27歳の美少女だ。
 なぜなら、そうした皮相さによる自己否定ですら、皮相なものでしかないからだ。

《「そうね、信じたくはないし、思いだしたくもないけど、ただ否定はできないな。あのくらいの歳の私たちは、現在に生きてるわけじゃなく、思いだすような過去もなくて、あのころはいつも将来に生きてたの。結局、学校で勉強するのだって将来のために試験でいい成績を取って、いい進路に進むためでしょう。あのときは、私たちみんながまもなく訪れるほんとうの人生(、、、、、、、)のために準備をしていた、だからいつも不安に駆られて、ほんとうの人生(、、、、、、、)は永遠に来ないんじゃないかと恐れてた。それが、私たちぐらいの歳になるとわかるんだ、人生は人生で、ほんとうと偽の違いなんかないんだって……」》(p.305)

 そのため、5年前の事件に卑俗な真相が与えられることをもって、本書は閉幕する。
 しかし、その書記(エクリチュール)への回帰は文学の必然だ。これは『1797年のザナドゥ』の主題だった。
 また、『元年春之祭』は前漢時代という特殊な舞台設定、2度の《読者への挑戦状》、推理合戦、四書五経に関する議論が戦わされる衒学趣味、という新本格の意欲作だった。作者は麻耶雄嵩の『隻眼の少女』と三津田信三の『厭魅の如き憑くもの』を源流に掲げ、《後期クイーン的問題》は強く意識されている。本作は於陵葵、観露申、小休の3人の少女を主役とし、於陵葵は自殺の肯定説を提唱する。これは伊藤計劃の『ハーモニー』を想起させ、本書はウィリアム・ギブスンブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』を経由し、フィクションの自己言及の問題を前景化したものだった。
 麻耶雄嵩新本格の意欲作の『翼ある闇』で登場したあと、第2長編の『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ』で《後期クイーン的問題》を中心として扱ったが、陸秋槎の『元年春之祭』と『雪が白いとき、かつそのときに限り』も同様の関係にあるだろう。
 『セッション 綾辻行人対談集』所収の綾辻行人竹本健治の対談で、竹本健治はこの文脈で『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ』を称賛しつつ、第2回メフィスト賞の受賞に際し、推薦文を送った清涼院流水の登場に伴う、ある憂鬱感を語る。もともと本格、新本格推理小説は形式性を要請されたが、《後期クイーン的問題》を踏まえれば、ますますメタフィクション性が強化され、閉塞感が漂うことになる。いわば推理小説という伝言ゲームにおいて、その遺伝子にあらかじめプログラム細胞死(アポトーシス)が組まれているのではないか。そして、それは推理小説だけでなく、小説全般におけるものなのではないかということだ。幻滅を主題にした『不滅』のミラン・クンデラは、『小説の精神』所収のインタビューで、芸術の終焉ということはたびたび言われてきたが、歴史的に見て、小説は本当に終わりつつあると述べる。
 その対談で竹本健治推理小説の根本の魅力は怪奇趣味ではないかと述べる。実際、コナン・ドイルの《シャーロック・ホームズ》シリーズは、じつは前近代的な怪奇趣味が大きく、同時代のエミール・ガボリオウィルキー・コリンズといった作家のより通俗的な作品は、現代まで読み継がれることはなかった。
 殊能将之は『殊能将之読書日記』で、これをより洗練させて《ニセモノ性》と呼ぶ。われわれは本格推理小説を読み、館や孤島という舞台を模作したくなるが、エラリー・クイーンのどれほど熱心なファンでも20世紀のニューヨークという舞台を模作しようとは思わない。これが《ニセモノ性》だ。新本格の第1世代が北村薫の《日常の謎》を歓迎したのは、その文学性と、《人間が描けていない》という推理小説批判のクリシェに対抗できるためだった。しかし、結果的には、すべてのジャンルを記号的なライト文芸が占めることになった。とくに山口雅也の『生ける屍の死』の発表の20年後に、推理小説をほとんど読んだことがないと自称する作家のゾンビものの作品が、日本国内の商業的な推理小説の賞を総獲りする現状では、アポトーシスはほぼ達成されたと言えるだろう。
 つまり、本格、新本格推理小説とは、もともと公然とは読むことのできない、私秘的で、野蛮で、子供じみたものだった。そして、ジル・ドゥルーズが『追伸―管理社会について』で予言したとおり、社会規範がよりプライベートな部分にまで及ぶ現代では、その存在する領域はますます狭まっている。

《「……きちんとした仕事になんて就けないんだから」》(p.307)

 陸秋槎は『雪が白いとき、かつそのときに限り』の発売に際したツイッターの投稿で、新本格の初期作品の特徴は、館や孤島、吹雪の山荘の印象が強いが、本当の共通点はミステリーファンの青春を描くことだと述べた。
 この現代社会で、高度な教育を受け、自尊心の高い人間で、自分の人生に満足しているものがいるだろうか。永遠の価値があるのは学問と芸術だが、資本主義の経済システムでは重要でなく、これに貢献する職業に就けるものは限られている。さらに新自由主義の経済政策は、こうした職業を必要以上に抑制する傾向にある。官庁や大企業に勤め、出世競争を勝ちぬけば、その重責で自分を納得させることができるかもしれないが、そうした人間は一握りしかいない。われわれはこうした求めるものを得られず、人生に挫折しても、結果的に日常のささやかな幸せに満足すると教えられてきた。そして、いまではそれが嘘だったことを知っている。結果、私たちは抑鬱と社会不安に苛まされ、一敗地に塗れている。
 いまホワイトカラーの職業に就いていて幸福なものは、自分の人生に無関心か、最悪の場合、ただ自己欺瞞で自分の人生を直視することを避けているだけだろう。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』の《陸秋槎》は27歳だ。ここで、ベネズエラ製の百合ゲー『VA-11 Hall-A』の主役の、大学院を卒業したものの自分の人生から逃げ、バーテンダーとして生活するジル・スティングレーが27歳であることを思いだす。個人的なことだが、私も27歳だ。希望はなく、日々、自己憐憫に耽り、自殺のことばかり考えている。
 『雪が白いとき、かつそのときに限り』はこうした精神を描破した。しかし、それはかならずしも暗いことではない。
 『元年春之祭』の訳書と同年、麻耶雄嵩は『友達以上探偵未満』を発表した。これは百合だったが、同時に《後期クイーン的問題》への解答でもある。本作は探偵役を2人おくことで、自己言及的な構造を打破し、《後期クイーン的問題》を回避した。そして、その2人の関係性が百合だ。古代の西洋哲学の用語で表せば、シンタグマに対するパラディグマの記号性の限界を、ディアレクティケーで打破する。超越論的主体において、悟性は主観的なものなので誤りうるが、理性は絶対に正しいと言える。よって、パラディグマを批判する際には、シンタグマに則り、そのパラディグマをもって、そのパラディグマを内破させる。この過程が対話、すなわちディアレクティケーだ。
 じつは麻耶雄嵩古代ギリシャのデモクラシーの援用による《後期クイーン的問題》の解決を、すでに『貴族探偵』で実践していた。『貴族探偵』では《貴族探偵》はただ真相を告げるだけで、推理は使用人が行う。アリストテレスは『政治学』で閑暇のほうが仕事より好ましく、それが目的(テロス)だと述べる。プラトンは『エウテュデモス』でソクラテスにそうした体制を批判させたが、古代ギリシャの貴族制ではソフィストたちが詭弁術を用い、そうしたディアレクティケーがデモクラシーを担保していた。推理は立法や都市建設と同様、奴隷身分のものの製作(ポイエーシス)となり、デモクラシーの埒外におかれる。なお、ドラマ版ではそうした新本格の概念は高度すぎると判断されたのか修正され、《貴族探偵》が使用人たちに推理を示唆している。
 『友達以上探偵未満』はこの概念をよりドラスティックに具体化したと言えるだろう。そして、それは必然的に《百合》を意味した。さらに、麻耶雄嵩はそれを上述の自意識や実存の問題まで展開した。

《「名探偵って世界の中心にいるでしょ。世界の中心を目指さなきゃ」
「世界の中心? 謎の中心にいるのは犯人よ。名探偵がいるのは世界の外」
「そんなわけはない」とももは何度も首を横に振る。「犯人なんて最後に正体を明かすまではひたすら気配を消している日陰者でしょ。関係者は名探偵の一挙手一投足に注目しているんだよ」》(『友達以上探偵未満』、pp.236-7)

 遺伝子の多様性の産物か、新本格推理小説が日本と中国で同時に百合と交差し、その限界を打破したのなら、その方向性は確かなものだろう。いまはただ、その未来を見守りたい。具体的には、早川書房にははやく陸秋槎の未訳である『桜草忌』と『文学少女対数学少女』の邦訳書を出版してもらいたい。

グレゴール・ザムザ焼き - 『ご飯は私を裏切らない』 -

 ヤングエースUPで連載されているheisoku著『ご飯は私を裏切らない』が面白い。主役は29歳、フリーター、独身、独居、中卒、職歴なし(※正規雇用について)、交友関係なしの《私》だ。《私》が短期のバイトと日雇い派遣労働で日々を過ごしつつ、食事で人生の苦悩を紛らわせたり、生態系に思いを馳せたりする。
 ジャンルとしてはいわゆる《グルメマンガ》になるのだろうが、じつは毎話に、生態系に関する蘊蓄と思索がある。
 "いくらが私に囁いてくれる… 生き物の実態はむしろ死に物じゃないかなと… 殆どの生き物にとって死ぬほうがメインストリームじゃん…"(第1話。10万の卵を産卵し、そのうち数匹だけが成魚になるゴマンモンガラについて)。
 そうした思索は生計を立てるために強いられる労働を相対化することになる。第3話では、人類社会が生態系に組まれていれば、いまごろ社会の落伍者である自分も、捕食されて資源として役立っていたのにと考える。これはマルクス主義ではないか。
 マルクスの生前に出版されたのは『資本論』のシリーズ中、第1巻だけだ。その結論で引用されるのが有名な《ここがロドスだ、ここで跳べ!》という成句だ。意外に思われるかもしれないが、『資本論』は市場経済に対し、奴隷制農奴制を《自然経済》として批判の対象外にしている(岩波文庫、第5巻、pp.212-3)。つまり、『資本論』の批判の眼目は《労働と労働の価値の二重性》による《社会的総労働と私的労働の倒錯》であり、われわれの生命活動であるはずの労働が、社会規範によって無意識のうちに所与のものに変形されていることだ(『逆転裁判2』の名言"「お盆を運んでサツタバがもらえるのならば……ダレが検事などやるものかッ!」")。これが『資本論』第1巻の主な内容で、これは岩波文庫の第1巻なので、『資本論』に興味がありつつも、全8巻の分量で敬遠しているひとは第1巻だけ読んでもいいかもしれない。エンゲルスマルクスの死後に編纂、出版した残りの7巻はあまり面白くない。
 そして、そうした自然観はニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』の要約するものがもっとも近いだろう。レーンは、シュレディンガーが『生命とは何か?(What is Life?)』で、生命はエントロピー増大に逆らうというドグマを述べたことについて、物理学者を読者層としていたら、エントロピーではなく自由エネルギーを議論の観点にしていただろうと語ったことを引く。つまり、シュレディンガーは『生命とは何か?』ではなく『生とは何か?(What is Living?)』を書くべきだったというのだ(pp.60-1)。本書が明かすのは、生命は、海底のアルカリ流体の熱水孔によるプロトン勾配と変わらないということだ。
 こうした自然観は実存主義をもたらす。トルストイはこうした観点の先鞭をつけていた。"どのようにして無機物から有機物が順応を通じて生れてくるかも明らかなら、どのようにして物理的エネルギーが感情や意志や思考に移行してゆくかも明らかであり、そうしたことがすべて、中学生といわず、田舎の小学生にさえわかっているとしよう。これこれの考えや感情はこれこれの運動から生ずるということが、わたしにもわかっているとしよう。で、それがどうだというのか?"(p.22)。これはアルチュセールによるマルクス主義の分析であるプロブレマティック論だ。
 『ご飯は私を裏切らない』の第5話はもっとも説明的だ。"「そんな場所なかった! この地はどこだって誰かの土地なんだ!!」"など、ほぼ直接的なマルクス主義だ。
 "「それに一品ずつ覚えるにつれ応用出来るようになって全体的に料理上達しそうなものなのに」「覚えたもの以外全くわからないし”」"、"それはそれ これはこれとしかわからない 目の前のこと以外脳に浮かばない 思考が広がったり繋がったりすることがない"。これはまるでサルトルの『嘔吐』に登場する、図書館の蔵書をアルファベット順に読破する独学者そのものだ。
 そもそも、食欲とは躁鬱の気分の反映だ。DSM-5の鬱病の分類では、症状に食欲不振がある。
 カフカは、そうした鬱病と食欲との関係を文章化した初期の作家だ。カフカの『変身』は鬱病により出社できなくなった会社員の寓話として読むことができる。サルトルカフカに影響を受け、フローベール論である『家の馬鹿息子』で、カフカに大きく紙幅を割いている。
 ただ、個人的なこととして『ご飯は私を裏切らない』の第5話には承知できないところがある。登場する《キャベツとチーズのホイル焼き》がどうしても美味そうに思えないのだ。これはキャベツにバターと溶き卵、とろけるチーズとピザ用チーズをのせ、トースターで20分ほど加熱したものだ。

 "半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、グレゴールが二日前にまずくて食えないといったチーズ、何もぬってはないパン、バターをぬったパン、バターをぬり、塩味をつけたパン。なおそのほかに、おそらく永久にグレゴール専用ときめたらしい鉢を置いた。それには水がつがれてあった。そして、グレゴールが自分の前では食べないだろうということを妹は知っているので、思いやりから急いで部屋を出ていき、さらに鍵さえかけてしまった。それというのも、好きなように気楽にして食べてもいいのだ、とグレゴールにわからせるためなのだ。そこで食事に取りかかると、グレゴールのたくさんの小さな脚はがさがさいった。どうも傷はみなすでに完全に癒ったにちがいなかった。もう支障は感じなかった。彼はそのことに驚き、一月以上も前にナイフでほんの少しばかり指を切ったが、その傷がおとといもまだかなり痛んだ、ということを考えた。「今では敏感さが減ったのかな」と、彼は思い、早くもチーズをがつがつ食べ始めた。ほかのどの食べものよりも、このチーズが、たちまち、彼を強くひきつけたのだった。つぎつぎと勢いきって、また満足のあまり眼に涙を浮かべながら、彼はチーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べものはうまくなかった。その匂いがまったく我慢できず、そのために食べようと思う品を少しばかりわきへ引きずっていったほどだった。"(フランツ・カフカ著『変身』)

 私はこの料理を《グレゴール・ザムザ焼き》と呼ぶことにした。

追記:実際に作ったら美味しかった。

f:id:snowwhitelilies:20200327095327j:plain

『仮面の少女・櫻井桃華』に寄せて - 文学・経済・アイドル -

 ソーシャルゲームアイドルマスター シンデレラガールズ』(バンダイナムコエンターテインメント)のメディアミックスであるコミックの、廾之著『THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS U149』(以下、『U149』と表記)は高い文芸性を誇る。
 その《櫻井桃華編》である第38-41話『櫻井桃華①-④』には、有志による批評『仮面の少女・櫻井桃華――あなたは『U149』桃華編を誤読していないか?』(以下、『仮面』と表記)が寄せられた。
 本稿では、この批評を確認し、『U149』の《櫻井桃華編》をあらためて読解したい。

 『仮面』では《櫻井桃華編》前話の第37話『特別編』における、桃華の意外な行状を議論の背景においている。それは、桃華が紙飛行機をうまく飛ばしたことであどけない笑みをみせ、それを冷やかされるというものだ。ここには論点が2つあり、第1は、この描写が肯定的であること、第2は、それが《子供らしい》《年齢相応》であることだ。
 『仮面』では、当初は第37話を性格描写の範疇として済ませたとしつつ、《櫻井桃華編》のあとは、人物造型の根本的な変化の予示、もしくはただの表れとして認識を改めたとしている。これは、とくにゲームとの対比による。『仮面』は『U149』における桃華の《レディ》としての振舞いが、自然ではなく、意図的なものだということにつき《仮面説》と命名している。《櫻井桃華編》の読解は以下のとおりだ。本編は《子供らしさ》と《レディ》という2軸があり、かつ、両者は逆相関するものとして設定されている。そこで、《子供らしさ》を要求された桃華が《レディ》としての振舞いを再考する。結果として、桃華は《レディ》としての振舞いをやめ、《素顔》を出す。ここでは、作中で年長のアイドルたちの《素顔》を強調していることが暗示になっている。
 前段の、説話論的な構造の、《子供らしさ》と《レディ》という2軸があり、その相反する要求で、桃華が《レディ》としての振舞いを再考するという分析は正当だろう。しかし、主題論の、桃華が《素顔》を表出するという分析は語弊があるように思える。

 《櫻井桃華編》の構成は複雑だ。これに対し、《橘ありす編》である第4-6話『橘ありす①-③』の構成は明快だ。ありすは完璧主義者で努力家だ。撮影に当たり、ありすは入念な下準備をし、理想とするポーズと表情を演じる。だが、その写真の対案となる表情を要求され、自信喪失してしまう。しかし、プロデューサーの後押しのもと、再度、自身の理想を演じ、それは関係者全員の賛意を得るものとなる。さらに、それはありすの理想と同時に、自然体でもあった。これは典型的なテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの構成だ。
 なお、本編では、そうしてありすが理想と自然体をともに実現するパフォーマンスをみせたあと、あどけない笑みをみせ、それを冷やかされるということが結尾部になる。『U149』がこうした《子供らしさ》をコミックリリーフに使用していることは記憶していい。
 《櫻井桃華編》の構成の複雑さは以下のとおりだ。バラエティ番組のバンジージャンプの企画の撮影につき、桃華は《子供らしさ》を要求されるが、その要求は満たされない。代わりに、《個性》が表れたとされる。しかし、桃華は《レディ》らしい振舞いを貫徹できない。毅然とするものの、わずかに涙を滲ませる。この描写は肯定的だ。台詞では、プロデューサーは《”いつもの櫻井さんらしく飛ぶ”》と《”櫻井さんの思う子供らしさで飛ぶ”》の両者を否定し、《”そういうのを一切考えないで飛ぶ”》ことを提案し、その言に桃華は表面上は諫言しつつ、感銘を受ける。しかし上述のとおり、毅然として飛ぶ。
 『仮面』は、この《個性》と《レディ》の両者の不一致につき、損なわれた《レディ》を《個性》、すなわち《素顔》として名指す。そのため、桃華の《レディ》を仮面として再定義する。
 しかし、本稿はその分析を批判する。説話論的には正しいが、主題論的には問題を含む。

 主題論の前に、作品論を述べる。『仮面』は《櫻井桃華編》は《橘ありす編》の再話にはならないとする。論拠は、主題論が《レディ》の脱却である《櫻井桃華編》は《橘ありす編》と異なるということだ。しかし、それを《素顔》の表出と名指せば、どちらも《子供らしさ》に対する葛藤を経ての自己実現となる。
 『U149』は高度に文学的だ。『U149』のプロデューサーは大人としての良識を備えているものの、背は低く、性格も子供っぽい。これは子供を主役とする『U149』において、大人-子供間、また子供間における差異を精密に描写するためだ。子供を主役とする作品を創造するとき、凡庸な作家ならどうしただろうか。プロデューサーの人物造型はただの大人で、子供たちとの二項対立をつくり、各話は大人-子供間の対立を主題とし、それを延々と反復していただろう。
 文芸論でもあるジル・ドゥルーズ著『差異と反復』は、マルクスの言葉(※)を敷衍し、ただの反復を批判する。曰く、歴史的反復は歴史的行動の1つの条件だが、変身、すなわち真正な創造が悲劇であるのに対し、そうでなければ退化であり、喜劇だ(『差異と反復』上巻、河出文庫、p.150)。(※ "ヘーゲルはどこかで、世界史的な大事件と大人物はすべて、いわば二度現れると言っている。彼は、一度目は偉大な悲劇として、二度目はみすぼらしい笑劇として、とさらに付け加えるのを忘れたのだ。"(『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』))
 そうした反復の最たるものは、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』(高雄統子監督、A-1 Pictures)第2期だ。毎回、その回の主役が予定調和的に所与の個性を再肯定するのは悪夢的だった。
 続いて、主題論を述べる。《櫻井桃華編》を難解にするのは《子供らしさ》の多義性だ。『櫻井桃華③』で桃華は毅然として飛ぶが、しかし涙を滲ませる。この涙は《子供らしさ》の表れとみることもでき、《櫻井桃華編》の主題論をみえにくくする。しかし、そうではない。これは『仮面』も指摘する。そのことは説話論をもって明示されている。大人であるプロデューサーがバンジージャンプの怖さを告白することで、桃華はその怖さを《子供らしさ》から剔抉する。
 だが、生理的な反応を《子供らしさ》とみるのは当然だ。クロード・レヴィ=ストロース著『構造人類学』は、未開と子供の思考に類推が働くのは、未開の思考が古代的(アルカイック)な性質をもつからではなく、子供の思考の多形性が文化の広がりを包含するからだと述べる(p.202)。よって、生理的な反応は一般的に《子供らしさ》と見なされる。
 さらに、その多形性は《タブラ・ラサ》として理想化される。その代表がジャン・ジャック=ルソーだ。ルソーは国家論の『社会契約論』で、人間の文明以前の本性を《自然状態》として美化し、そうした人間たちは《一般意思》として公共性を構築できると説いた。さらに、教育論の『エミール また教育について』で子供を美化し、教育を与えずに放任すべきと説いた。言うまでもなく、これらは現代の科学では誤りだ。ジャン・スタロバンスキー著『ルソー 透明と障害』とジャック・デリダ著『根源の彼方に』は、それを完全な自己実現の試みとして、文学的に肯定する。
 《櫻井桃華編》も《自然さ》への理想主義的な態度がある。『櫻井桃華③』ではプロデューサーが何も意識せずに飛ぶことを勧める場面と、桃華が着地したあとの場面で青空が強調されている。桃華は自意識をもって飛んだが、そのことは《自然な》こととされている。『U149』全編において《自然さ》は理想とされる。これは主として登場人物の個性と態度において表れる。その他では、節目である第25話『第3芸能課⑦』が顕著だ。本話では、プロデューサーとアイドルたちが、それぞれ立聞きで、たがいの本心を知り、信頼を強める。その後、「花火をしよう」というプロデューサーの提案とアイドルたちの要望が同時に発せられる。しかし、本話はそれに留まらず、そうした幸福に達したのち、ありす、桃華、(的場)梨沙という年長の3人とプロデューサーが決意をあらたにする。
 多形性は現代的な問題を含む。ミシェル・フーコーは『性の歴史』シリーズの『知への意志』で現代の性規範を対象化し、多形倒錯的な、無数の性志向の範列を挙げた。それは小児性愛も含む。しかし、ジュディス・バトラーはその異種混交性を批判的に発展させ、『権力の心的な生』で《主体化=従属化(subjection)》の理論を提唱した。多形性からアイデンティティを確立するとき、それは管理されたものでありうる。これは現代におけるポスト・フォーディズムの経済で、労働力の管理のため、コーチングとして実施されている(村越一夫・山本泰三著『コーチングという装置』(『認知資本主義』))。
 そもそも、アイドル産業はポスト・フォーディズムの産物だ。クリスティアン・マラッツィ著『資本と言語』はポスト・フォーディズムの特徴として、以下のものを挙げる。①フォーディズムの批判 ②労働時間の長時間化 ③ヴァーチャル産業の拡大 ④労働作業の計測の不透明化 ⑤記号と資本の同一化 ⑥生産の属人化(pp.43-7)。言うまでもなくアイドル産業は③ヴァーチャル産業であり、④労働作業の計測はアプリオリにはできず、アポステリオリになされ、契約は関係者間で随時、契約を締結する方法でなされ、⑤知的財産など、本来は公共のものである記号を私的所有の対象とすることでなされ、ネットワーク外部性により、所有者はレントを得る。アイドルは自由業のため①テイラーの科学的管理法の対象外だが、②逆に言えば労働時間と余暇時間の区別がなく、⑥技術進歩によって労働時間が縮小することもない。
 こうした問題に『U149』は自覚的だ。そうした政治経済の問題を具体的に挿入しているのではない。すぐれた文学は、歴史を不在として刻印している(蓮實重彦著『凡庸な芸術家の肖像』上巻、p.280)。『櫻井桃華④』で所与の個性としての記号である《"子供らしく"》の要求に悩む登場人物たち(※)に、桃華は軽やかに笑ってみせる。逆に、歴史を前景化したと自らを誤認するのは、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』第2期の最終話、第25話だ。無数のアイドルが所与の個性を《自分らしさ》と称し、画面に登場するのは夢魔的だった。(※ ここではありすが"「結局 メディアは分かりやすいものが好きなんですかね」"とまで直接的に言明している)
 では、《個性》を対象化する『U149』における《レディ》は何か。多形性からの主体化は管理される危険があるが、アイデンティティをもたずにいることはできない。したがって、アイデンティティは自己統治の問題になる。フーコーは『性の歴史』シリーズで、『知への意志』のあと、《生存の美学》を問題にした『快楽の活用』と『自己への配慮』を著す。審美的な正しさは、自己の正しさを保証する。これはイマニュエル・カントの美学の『判断力批判』より、哲学の『純粋理性批判』を参照するのがいいだろう。
 "だが、こうした主観的必然性(これは感じられざるをえないものである)をみずから承認しない人々にもこと欠かないであろうが、おのれの主観がどのように組織されているのかという様式にだけもとづくようなことに関しては、少なくとも人は何人とも論争することはできないであろう。"(『純粋理性批判』上巻、平凡社、pp.328-9)

 ここで『仮面』に戻る。『仮面』はまず《子供らしさ》を説話論により捨象した。それは正当だが、そのため『櫻井桃華③』の《自然さ》への理想主義的な態度を看過し、怖さへの言及を桃華のアイデンティティ論に解消させた。次に、桃華は《レディ》を脱却したとするが、本稿はこの見解には賛同しない。桃華の《レディ》は自己統治の問題であり、はじめからつねにおこなうべき実践だったと考える。
 《櫻井桃華編》の桃華の不安は2つあった。第1が《子供らしさ》の要求で、第2がバンジージャンプの恐怖だ。そして、桃華の否定される解決策においては、恐怖感を露わにし、《子供らしく》振舞うことで、両者は統一されているが、実際にとられる解決策では個別に処理される。《子供らしく》振舞うという演技への自信のなさは、そもそもそれを選ばないことで解決する。恐怖感と《レディ》としての自負の対立は、自己欺瞞をやめ、あえて認めることで解決する。この構成の複雑さが《櫻井桃華編》を難解にする。しかし、全体として《櫻井桃華編》の主要主題は自己統治の問題であり、それが桃華の性格描写の中心として設計されているだろうと言える。具体的には《レディ》たること、品位を保つことだ。
 つまり、桃華が結果的に《レディ》として振舞うことができなかったとしても、それは桃華の《レディ》としての自負を損なうものでなく、今後も桃華は《レディ》として振舞いつづけるだろうと考える。また、作劇の経済として、今後、桃華が《レディ》として振舞うことに失敗する場面はほぼないだろう。よって、ゲームとの大きな差異もない。

 ここまで書き、文芸作品の読解にもかかわらず、主題論のことばかりで説話論や文体論にあまり触れず、悪しき批評になっているのではないかという不安をおぼえる。
 もともと、わたしはあまり《櫻井桃華編》が好きではない。年長組の桃華が主役で、相応の紙幅と主題があるが、構成がいたずらに複雑になっている。なお、好きなのは《橘ありす編》だ。
 『U149』は作劇が理論的で、説話論、主題論ともに文学的だ。
 ウラジーミル・ナボコフ曰く"私たちは「感傷性」と「感受性」を区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりにして進歩的な思想を語ったが、一方的では自分が生ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。"(『ナボコフロシア文学講義』上巻、p.235)。
 『第3芸能課⑦』につき述べたが、『U149』は《自然さ》の理想主義的な美しさを描きつつ、それは一瞬のものとしている。これが感受性であり、文学性だ。
 木澤佐登志が『ダークウェブ・アンダーグラウンド』で述べるとおり、現代はとくに感傷性が権力をもつ。わたしたち感受性の強い人間は、自殺のことを考え、その合間に『U149』にため息をつく。