2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)


 昨年、百合マンガの年間ベスト(

2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞) - 白樺日誌

)を自選してみた。先日、見返したところなかなかいい趣味だった。ややサブカル寄りな気もしたが、ある視点からした2018年の年間傑作選としてはかなり参考になるものだった。というわけで、今年も百合マンガと百合小説の年間ベストを選出する。

 

・マンガ部門

1.高野雀『世界は寒い』第1巻

 『あたらしいひふ』の高野雀の描く高校生の女子6人の群像劇。密売品らしい拳銃を拾って、試射で1発を消費し、5発の残弾を1人1発ずつ使えることにして共同所有する話。
 このあらすじで察せられるだろうが、拳銃はあくまで小道具で、主役の6人がこの契機に自分の人生を考えることが本題だ。6人の人物描写と関係性の描出も見事で、百合としてもよい。

 

2.あらた伊里『とどのつまりの有頂天』第1巻

 『総合タワーリシチ』の天才、あらた伊里の新作。完璧に構成されたコマ割りのギャグというのは、笑わずにはいられないものだ。

 

3.るーすぼーい、古屋庵無能なナナ』第4巻

 第1-3巻はまったく百合ではなかったのだが、第4巻で急に百合が主題になった。ベートーヴェン交響曲第9番も第4楽章で急に声楽になるし、そういう構成もいいだろう。冗談事ではなく、交響曲第9番の「歓喜の歌」のように、本作も本巻でとうとう主役の内面に踏みこむことになり、百合が主題になるのもそのためだ。
 るーすぼーいはもともとギャルゲーのシナリオライターで、主役がつねに『罪と罰』のラスコーリニコフらしい人物造型という、独特の作風をしていた。本作でもそれを踏襲しているが、これが百合として最大の効果を発揮する。

 

4.谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第12-13巻

 第8巻の修学旅行編から次第に青春群像劇へと路線変更し、再ブレイクした本作。根暗な主役の黒木智子が高校デビューを果たそうとして、愚行をくり返すというのが前半の流れだ。それが修学旅行編で意にそぐわない団体行動を強制させられたことで、クラスの周縁にいる同級生たちと交流ができ、それがクラスの中心-周縁の構造まで揺るがす大きな流れをつくってゆく。
 第13巻は遠足編。谷川ニコの学校行事の描写は卓抜している。智子がトリックスターの立場になることで、生活と会話のコンテクストがまったく異なるクラスの中心-周縁の生徒たちが、思わぬ接触をすることになる。百合だ。

 

5.模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』第2巻

 解決しない、救われない、癒されない数話完結の物語の第2巻。完結編。

 

6.伊藤ハチ『ご主人様と獣耳の少女メル』第3巻

 獣耳の亜人が存在する世界で、主人と亜人で幼女のメイドがイチャイチャするマンガの完結編。
 これだけ述べると、いわゆるきらら系のヌルい物語を想像しますが… このマンガ、最終巻で主役2人がエクソダスします。
 最終巻で描かれるのは、獣人の権利保護を謳いつつ、獣人を人間の所有物として自由恋愛を制限する社会の独善性だ(なお、私は青少年の健全な育成ための自由恋愛の制限は妥当だと考える。念のため)。つまり、「ご主人様」とメルの恋愛はペドフェリア=ズーフィリアとして迫害の対象になる。
 昨今、LGBT運動は盛んで、思想的背景としてしばしばフーコーが利用される。しかし、そのフーコーは『知への意志』においてホモセクシュアルとともに、ズーフィリア、ペドフィリア、その他、あらゆる性的倒錯を羅列し、それらを性的倒錯として認定する社会の原理を批判している。つまり、ホモセクシュアルを「正常」と認めつつ、ズーフィリアやペドフィリアを「異常」と認定する人々は、フーコーの理論ではホモセクシュアルを「異常」と認定する人々と変わらない。
 『小百合さんの妹は天使』のあたりから抱いていた「もしかしてこの作者はマルクス主義者なのではないか」という疑念が裏づけられた最終巻だった。
 ちなみに、いわゆる「おねロリ」のジャンルでは中村カンコ『うちのメイドがウザすぎる!』、柚木涼太『お姉さんは女子小学生に興味があります。』もマルクス主義を内包している。
 しかし、伊藤ハチほど先鋭な問題意識と高い技術をもっているものは他にいない。『メル』第3巻の37ページで「ご主人様」がメルの恋愛感情に気づいたあと、それまで水平アングルが常態だったのに対し、メルを俯角で(=「ご主人様」の視点で)とらえる。この流れはページ上の視点移動がごく自然で、そこにおいてコマ間の切返しがおこなわれる。
 本年、伊藤ハチは『パルフェ2 おねロリ百合アンソロジー』にも『姉の秘密』という短編を寄稿している。本作はそのままホモセクシュアルペドフィリアに対する社会の視線を主題にしているが、やはり各コマにおける距離とアングルがきわめて適切だ。
 せーの、「《姉さんがしていることは優しい虐待だよ》~!」(「プリキュア、がんばれ~!」のリズムで)。

 

7.『Avalon bitter』


 アンソロジー。姉妹編の『Avalon』とも、わりと玉石混交だが、本編のいとう『良い旅を』が傑作。
 2人しかいない衛星軌道上の宇宙ステーションが舞台で、その意味で『たったひとつの冴えたやりかた』と『冷たい方程式』に似ている。が、本作の主題は「愛」。ネタバレになるため詳述できないが、愛の利己性と利他性の両義性を、惑星と衛星間の引力を隠喩とし、画面において完全に同致させた。ここにおける愛はシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』で重力と喩えたものだ。しかし… 構成も冗長がなく完璧。

 

8.平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』第4-5巻

 シリーズの最新刊。昨年と重複するため感想は省略。

 

9.くずしろ『兄の嫁と暮らしています。』第5巻

 シリーズの最新刊。同上。

 

10.吐兎モノロブ『少女境界線』

 百合SFアクションの連作短編集。作風がクールでいい。

 

・選外

 強引に下位を決めてもいいが、不実なのでそういうことはしない。きっちり10位で収まったのも偶然だ。
 冬目景『空電ノイズの姫君』第2巻。
 缶乃『あの娘にキスと白百合を』第9巻。
 ヤマシタトモコ『違国日記』第3巻。

 

・余談

 『木根さんの1人でキネマ』第5巻で木根の同居人の佐藤が友人たちに「嫁」呼ばわりされるようになっていた。ただしこれはギャグの前振り。『22ジャンプストリート』の冒頭で男2人が意味もなく『アニー・ホール』のパロディをしていたのと同じだ。しかし、その後も「嫁」呼ばわりは続いている。
 『アフターアワーズ』の完結編となる第3巻が刊行。クラブの熱狂でもっとも恐るべきことは何か? 翌日の虚無感と自己否定感だ。というわけで、日常にもどった主役2人の生活が詳しく描かれる。本巻は第1-2巻に対する後日譚だ。

 

・小説部門

1.草野原々『最後にして最初のアイドル』

 短編3作を収める。
 『最後にして最初のアイドル』は言わずと知れた星雲賞受賞作。ハードSFにしてメタ=フィクションの傑作。
 個人的に推薦したいのは第3作の『暗黒声優』。本作だけメタ=フィクションの構造でないが、それについて一言したい。本作はアルフレッド・べスターのような活劇だ。理論上の仮説だったエーテルが実在するという外挿がSF的な設定になる。さて、活劇は本当にメタ=フィクションではないのだろうか。映画の話になるが、ゴダールら『カイエ・デュ・シネマ』の面々はハワード・ホークスジョン・フォードらの活劇を高く評価し、手本とした。それは彼らが映画という表現を理解していたからだ。ゴダールトリュフォーのメタ=フィクショナルな映画はあくまでホークス、フォードらの活劇に依拠している。そして、それは政治にも通じている。ゴダールは映画監督の最左翼だ。これを踏まえれば、ジョン・フォードを右翼と誹ることがいかに半面的かわかるというものだ。それは蓮實重彦が『ハリウッド映画史講義』で「ハリウッドの映画で真に左翼的なものは『怒りの葡萄』だけだ。しかし、その監督のフォードは左翼とはまったく無関係の人物だ」という引用で、静かに怒りを表わしているとおりだ。というわけで、活劇の本作は第1作に続く「実存主義ワイドスクリーン百合バロックプロレタリアートアイドルハードSF」の系譜を継ぐものだ。

 

1.陸秋槎『元年春之祭』

 新本格推理小説にして百合の傑作。百合ミステリのベストが編纂されるとき、本作が筆頭にくることはまちがいないだろう。
 「読者への挑戦状」が2回挿入される新本格推理小説の意欲作。また、探偵役の於陵葵、関係者の観露申、葵の侍女である小休の3人の少女が主役の百合でもある。この3人の関係性は伊藤計劃の『ハーモニー』に似ている。『ハーモニー』もまた、メタ=フィクショナルな構造をもっていた。そして、新本格推理小説でも京都大学推理小説研究会の出身者を中心とする一派は、いわゆる「後期クイーン問題」というメタ=フィクショナルな課題を掲げていた。なお、いわゆる「後期クイーン問題」が登場するのは初期作品の『ギリシア棺の謎』であり、このような誤称が広まっているところが、クイーンの国名シリーズ全作を読むこともなくミステリを論じるものの跋扈していることを示している。それはともかく、ここに新本格推理小説にして百合である必然がある。

 前漢時代を舞台にしており、四書五経が博引傍証される衒学性もすばらしい。作者は本職の研究者でもある。
 作者曰く、麻耶雄嵩の『隻眼の少女』と三津田信三の『厭魅の如き憑くもの』が源流としてあるそうだ。

 

3.麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』

 意図してこの並びにしたわけではない。むしろ、新本格推理小説のいわゆる「後期クイーン問題」(誤称)の解決として百合を用いるのは必然だったのだろう。
 本作ではシンタグマに対するパラディグマの記号性の限界を、ディアクレティケーによって解決している。このような古代ギリシャのデモクラシーによる「後期クイーン問題」へのアプローチは、じつは作者はすでに『貴族探偵』でおこなっている。本作はその成果だろう。
 百合としてもすばらしく、本作を読んでいるあいだ、今年一番ニヤニヤした。『デスノート』で40秒後にニアが死ぬと思いこんでいる夜神月くらいニヤニヤした。

 

4.川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』

 ヴァージニア・ウルフを引用する文学的に正当な百合。

 

・選外

 宮澤伊織『そいねドリーマー』、『裏世界ピクニック』第3巻。
 入間人間やがて君になる』外伝。

 

・映画

 山田尚子監督の『リズと青い鳥』が話題になったが一言しておきたい。山田尚子は政治的に危険だ。私は『けいおん!』の修学旅行の回で、他の演出家がおおむねコメディに努めているにも関わらず、この演出家が旅行先でおこりがちなもめ事を表現しようとしていることに気づき、脳内に危険信号が灯った。しかし、ネット上で他のオタクたちは「あずにゃんペロペロ」などと言うばかりで、この演出家の政治的な危険さに気づくどころか、その演出意図すら理解していなかった(その意味で演出は失敗していた)。8年後、私の懸念は現実のものとなった。
 まず、本作はカメラワークと編集ができていない。つまり、手持ちカメラの撮影なのだ。ならば、ブレッソンやドグマ95の方法論を用いているのだろうか。作中作や演奏のプロモーションビデオの、映画を映画とも思わない無造作な編集による挿入からして、それは断じてちがう。そもそも、アニメでそうしたマラルメ的な偶然性はありえない(当たり前すぎて、書いていて自分でもバカバカしいが)。アスガル・ファルハーディーの初期作品も手持ちカメラを用い、かつ、ブレッソンやドグマ95の方法論とも異なり、臨場感を伴なう心理描写を演出していた。だが、そこには人格描写の文法(スタイル)があった。山田尚子監督にそういう意図はない。登場人物のあいだに差異はなく、みな同じように苛立ち、同じように怒る。いわば人格描写なき心理描写だ。これは政治的に危険なことではないか? カメラワークと編集を用いることがないため、適切な演出をおこなうことができず、象徴表現という映画というものに無自覚な安直な手法に頼る。
 その結果は、作家が映画および映画と自己の関係に無自覚な、拙劣な空間だ。ここではすべての登場人物が均質化されている。全員が個性化しておらず、神経過敏で、まるで中世のようだ。これは現代そのものの問題でもある。つまり、近代性の衰退であり、文学性の欠如だ。『管理される心』の著者であるアーリー・ラッセル・ホックシールドが『壁の向こうの住人たち』を書き、アメリカの二極分化として、右派とともに左派をも批判したのはこのためだ。
 山田尚子のような存在は、映像制作が劇場公開からネットにおけるストリーミング配信へと移行しつつある状況における必然なのかもしれない。しかし、少数の良心的で賢明な視聴者はその政治的な危険性を自覚すべきだ。
 私は中学生のとき細田守監督の『時をかける少女』をみて、この監督は政治的に危険だと直感した。10年後、オタクたちは細田守を大バッシングすることになるが、『時をかける少女』のときからその政治的な危険性を察知できていたのは、ごく少数の慎重な視聴者だけだった。おそらく10年後、山田尚子の政治的な危険性は最悪のかたちで発現することになるだろう。それまでに私たちは冷静さを身につけなければならない。

 

佐藤卓哉監督『あさがおと加瀬さん。

 では、映画というものを自覚し、真摯にカメラワークと編集を施した作品は何か? と尋ねられれば、2018年の成果は本作だろう。だが、視聴は推薦しない。
 ピュアすぎるのだ。佐藤卓哉の優れた才能で演出されたピュアさが、うしろ暗いところのある人間には剥きだしの刃として襲いかかってくる。ここまでの文章を読めばわかるかもしれないが、私には性格の悪い部分がある。竹内涼真の主演する少女マンガ原作映画をヘラヘラと笑いながらみることのできる私が、本作は開始5分で顔を覆い、あとはひたすら上映時間が終わることを祈っていた。人生でもっとも長い1時間だった。「好きな人といるためにバス停でバスを1本見送る」というようなシチュエーションをきいて、顔を赤くして叫びながら走りたくなる人間はみないほうがよい。精神的に消耗して疲労困憊する。

 

Vtuber

 難しい。私はたんにラジオのパーソナリティだと思っているが、それでも女性Vtuber同士が親しくしているとニヤけてしまう。伊集院光がゲストとイチャついていても真顔になるだけだ。

 

・余談

 『百合姫』がエロコメから癒し系へと誌風を変更したらしい。最善ではないが次善だ。とくにみるべき作品はない。