『天気の子』とミレニアル世代のオタクの文化史・補論:現代日本批評の裏面史

 柄谷行人渡部直己の対談によれば、現在、日本において《批評》というものは消えかかっており、一方で東浩紀が《ゲンロン》で、一方で山城むつみが『すばる』で、その傾向に抵抗しているらしい。

渡部:でも、海外はともかく、僕が学生の頃に日本で一番輝いていたのは、批評家でしたよ。そこは小林秀雄の功績を認めざるを得ない。小林のあとに、吉本・江藤、蓮實・柄谷とつづく。僕がおくてだったせいかもしれませんが、七〇年代は、人文系で一番冴えてるのが批評家だと思っていました。最先端の哲学・思想を語ることから、小説の批評や新人の発掘、あるいは、社会批評や文明批評まで、映画・音楽・美術もふくめいろんなことができるのが批評家である、と。もっとも幅が広くて、しかも、それぞれの専門家よりも鋭くないと、その幅を維持できない。そう思ってました。それが、僕自身をふくめ、段々そうじゃなくなってきて、ついには、今や批評自体が消えかけています。
柄谷:近年、東浩紀とかが「批評」についてしきりにいっていますね。僕にはピンと来ないのですが。
渡部:少なくとも、その「批評」の消滅を食い止めようとはしてますね。「ゲンロン」という名の場所と雑誌を作り、ネットもフル活用して、いろいろな書き手を集め、読み手を開拓し、さまざまな企画を作る。その一環として、まさに今いった『近代日本の批評』に倣って、一九七五年から二〇一六年までの日本の批評の総ざらいを、市川真人、大澤聡、福島亮大といった人たちと連続的に討議していました。佐々木敦なども参加している。批評作品個々の重要度を活字の大きさで一目瞭然たらしめるという露骨な年表まで作って(笑)。……
……
渡部:討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。東浩紀一個人にかんしては、こんな言い方は失礼かも知れませんが、『批評空間』でデビューした頃から比べると、ずいぶん「大人」になった感じがしますね。良い傾向だとおもって、僕も時々協力してますが、彼らの議論の中心には柄谷さんがいる。他方に、大澤信亮杉田俊介浜崎洋介という人たちが『すばる』誌を拠点として、この「ゲンロン」に対抗しようとしているようですが、彼らにとっても柄谷さんが淵源。簡単にいうと、かつての小林秀雄の位置に柄谷さんがいるわけです。どちらにも、蓮實重彥の影が薄いのが、個人的には寂しい限りですが、その『すばる』組の言い分を僕なりに敷衍すると、どうやら、柄谷さんがふたりいて、ひとりは理論的な柄谷であり、もうひとりは実存的な柄谷である、と。大きくいえば、「マルクス的柄谷」と「キルケゴール的柄谷」かな。そのマルクス方向は東さんが引き継いで、キルケゴールの方向は山城むつみさんが引き継いでいる、となります。これは、さほど間違った見方ではないとおもいます。東さんは近頃、「観光」といったキーワードで、理論的に批評を構築する。一方の山城さんは、小林秀雄風の実存的な批評をやっている。それで今の若い三十代四十代ぐらいの世代は、東派と山城派にわかれているようですよ。つまり、柄谷さんが持っていたものが枝分れして、表面的に繁茂しているかにみえます(笑)。
柄谷行人・渡部直己対談 起源と成熟、切断をめぐって )

 その意味で、東が《ゲンロン》を創設し、運営してきたことは立派だった。
 しかし、その10年に及ぶ活動の成果は皆無だ。渡部が《討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。》という評価で言外に表しているとおり、志大才疏に終わった。
 それはなぜか。
 東の批評家としての経歴はジャック・デリダの批判にはじまった。しかし、それは無意味なものだった。なぜなら、デリダの哲学そのものが無意味だからだ。
 デリダは『マルクスの亡霊たち』において、マルクス主義を憑在論(※1)という修辞的な存在論と名指した。その反論の論文集である『Ghostly Demarcations(幽霊的境界画定)』において、フレドリック・ジェイムソンは『Marx's Purloined Letter(マルクスの盗まれた手紙)』で、マルクス主義は体系的な哲学というより方法論、つまり、精神分析のような《unity-of-theory-and-practice(単一の理論と実践)》だと批判する。言うまでもなく、これはルイ・アルチュセールが『マルクスのために』で定式化し、フーコードゥルーズにも影響を与えた、有名なプロブレマティックの理論であり、このマルクス主義についての教科書的知識を踏まえていないだけで、デリダの晩年の著作である本書が、出版されるや否や、幅広い層から論難に晒されたことは当然だと言える(※2)。
 では、なぜデリダはそのような拙作を著したのか。
 これにつき、ジェイムソンは、デリダの後期資本主義への迎合を知的な欠性に帰す。やや専門的な議論になるが、それはデリダが『グラマトロジーについて』でハイデガー存在論記号論をもって再解釈したとき、自身の記号論がすでに存在論と化していることに無自覚だったときに、すでに萌芽していたと言う。

 There is no ‘proper’ way of relating to the dead and the past. It is as though Derrida, in what some call postmodernity, is in the process of diagnosing and denouncing the opposite excess: that of a present that has already triumphantly exorcized all of its ghosts and believes itself to be without a past and without spectrality, late capitalism itself as ontology, the pure presence of the world-market system freed from all the errors of human history and of previous social formations, including the ghost of Marx himself.

 (死者と過去に関係する「正しい」道など存在しない。つまり、まるでデリダポストモダンと呼ばれるもののなかで、対立的で目障りなものを診断し批難しているようだ。すなわち、まさに現在という時代において、あらゆる幽霊と、過去と亡霊は存在しないという信念それ自体、存在論としての後期資本主義それ自体、マルクスの幽霊を含む、人間の歴史の過ちと社会の前駆的形態のもとで形成された世界市場システムの純粋な存在を、誇らしげに厄祓いしたのだ。)
(『Marx's Purloined Letter(マルクスの盗まれた手紙)』)

 東のデリダ記号論への批判も、無限退行のプロセスのように、まったく同じ帰結を迎え、存在論と化した記号論を掲げることとなる。そして、それは後期資本主義の盲信へと展開する。
 東が盲目的に礼賛し、その批評の中心としている概念は《観光》だ。しかし、観光こそ後期資本主義に特有のものに他ならない。
 観光につき、マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルグの銀河系』で《そのためにいわば商業社会の規格製品であるわれわれは、かえってときに観光客として地理的な周辺文化を求めたり、あるいは消費者として芸術のなかに周辺文化を求めたり、いずれにせよ口語的な周辺部へと、ときたま帰還することが可能なのである。》と述べる。
 つまり、観光は近代になってはじめて行われた。そして、マクルーハンが言外に表しているとおり、それは反知性的なものだった。
 蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』でその馬鹿馬鹿しさをこう明晰に表現している。

 人は、捏造された不在と距離に保護され、自分自身と出合うために書く。そこに見出される自分は、つねに変わらぬ自分自身、つまり自己同一性でなければならない。思考し行動する主体を支えるのも、その自己同一性なのだ。旅は、これを崩壊させることがない限りにおいて有効だろう。身近な環境を遠ざかり、異国に暮らしてもなお同じ自分が保たれ、帰郷はその輪郭をなおいっそうきわだたせてもくれよう。だから、完全な異国人へと変容してしまうのでなければ、旅行は、いつでもより確かな自分との遭遇を約束してくれるに違いない。

(『凡庸な芸術家の肖像』)

 無論、しばしば『記号と事件』のエッセイを皮肉っぽく引用されるとおり、ドゥルーズ遊牧民ノマド)の理論を提唱したにもかかわらず、自身は重度の旅行嫌いだ。

 イヴ・K・セジウィックは『男同士の絆』で、『センチメンタル・ジャーニー』を題材に、観光旅行というものの知的劣等をこう指摘している。

 こんなにまで欲望を孕んだ、魅惑的で、一面的な社会地図を、これほど強い説得力をもってこの小説が提示することができるのは、おそらく『センチメンタル・ジャーニー』が定義すれば旅行小説だという事実と関係があろう。イギリス人(今世紀ならアメリカ人)が――特に貧しい地域や国へ――観光旅行するのは、幻想が欲求するままに、社会全体を自分のものにして脚色することができるからである。これは、性的な幻想についてはおそらく特に当てはまるだろう。(『男同士の絆』)

 なお、セジウィックは『センチメンタル・ジャーニー』につき、主人公が周囲の女性や労働者階級をもって形成する、核家族的な「家族」を、資産を持たない中産階級知識人が、自身の欲望と性的幻想を満たすために現実を偽装する醜悪なものだと分析するが、これは東浩紀自画自賛する「疑似家族」そのものだ。

 さて、観光の馬鹿馬鹿しさの好例は京都だ。
 京都国際観光大使や、政府の諮問委員会を歴任したデービッド・アキンソンは著書で京都の観光政策を激しく批判している。いわく、観光招致の資料やガイドブックのイメージ写真はほぼすべて花見小路の南側のもので、つねに同じ数軒の町家を京都の街並みとして紹介している。だが、京都でそのような景観の場所は他になく、現実は東京と大差ない。アキンソンはこれを「詐欺」とまで呼称している。
 アキンソンが比較対象とするのはヴェネツィアだが、『世界史』の著者であるウィリアム・H・マクニールが『ヴェネツィア』で言うところは《快楽の都としての、そして観光地としての都市の役割は、文化的な中心、灯台としてのかつての機能の残光だった。》だ。カントがその経歴の初期で問題化した《尊厳》とは、こういうものだっただろう。観光地とは、もっとも尊厳を欠いた場所のことだ。
 いわゆるライト文芸において、頻繁に京都が舞台になるのは偶然ではない。京都のイメージこそ、知的な欠性にもとづく資本主義リアリズムの表れの好例だ。
 ただし、法月綸太郎麻耶雄嵩などの京都大学推理小説研究会を出自とする新本格推理小説の第1世代は、有名なロラン・バルトの日本論を踏まえつつ、こうした京都の空疎さを前景化している。不安は現在の若手作家だ。
 大林宣彦は『転校生』であえて広島の観光地ではなく、下町でロケーションをおこなったが、細田守は『時をかける少女』でこの真逆をおこない、その知的劣等は彼の作品の全編を貫いている。

 また、東の執着するドストエフスキーと疑似家族も同様のものだ。
 小森謙一郎は『デリダの政治経済学』で、デリダが『弔鐘』でヘーゲルアンティゴネーへの執着に共感していることを指摘する。それは、アンティゴネーの兄への愛情が、《欲望なき結合》という人倫と家族の同一化を象徴しているからだ。それは単婚および近親相姦の禁止と不可分のものだ。ハーバーマスヘーゲル法哲学を、市民社会における個人の意思の対立を問題とし、その止揚を主観性の国家との一致においてなそうとしたが、それは主観性を超えたものを仮定し、問題を回避しただけに過ぎないと分析する。この構造が、ドゥルーズが『差異と反復』で批判の中心とする悪しきヘーゲル主義だ。上述したデリダ記号論は、悪しきヘーゲル主義の典型だ。同様に、東の記号論も悪しきヘーゲル主義だった。『差異と反復』で、ドゥルーズヘーゲル主義を資本主義の亡霊と等置している。
 東のドストエフスキーと疑似家族は、デリダにおけるアンティゴネーと同じだ(※3)。
 田中ロミオの『家族計画』(※別名義)は疑似家族モノの名作とされるが、じつは、いずれのルートでも疑似家族の試み《相互扶助計画「家族計画」》は挫折する。このことは、エロゲーシナリオライターのなかでもマルクス主義的な傾向の強い田中ロミオの作品として、特筆すべきだ。
 われわれは疑似家族を賛美するより、『腐り姫』の簸川樹里、『鬼哭街』の孔瑞麗といった実妹とのセックスを推奨すべきだろう。この両作は、ソフ倫の規制で近親相姦が禁止条項だった時期に発売された。

 では、なぜ東はフーコードゥルーズの研究から経歴をはじめることもできたにもかかわらず、デリダを選択したのだろうか。
 考えられることは、まず、単位不足で法学部を諦め、教養学部への進学を選択せざるを得なかった劣等生にとって、比較的簡単なデリダの研究が手頃だったということだ。
 そうでなければ、後期資本主義が進展するなかで、それと親和的なデリダの研究が大学卒業後の進路にとって有利だったということだ。
 しかし、初期の東の態度は論争的で、そうした妥協的な動機は考えにくい(※4)。
 選択の理由は意外なところから伺える。初期の著作である『動物化するポストモダン』だ。
 いまではこの著作はアキバ系サブカルチャーの粗略な概括に、安易なポストモダニズム論を接木しただけで、ほぼ内容のないことが知られている。しかし、この著作の末尾における捻転が、東浩紀の思想の始点を明らかにする。
 この著作は末尾において、そこまでの論旨から飛躍して『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』を熱賛して終わる。
 その理由は、東が前段で批判するエロゲーのルート分岐を『YU-NO』が超克しているからというものだ。
 その批判は以下のとおりだ。

 作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾だと感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。

(『動物化するポストモダン』)

 このエロゲーのルート分岐の不真面目さに対する批判は理解できないでもないが、それに対し、『YU-NO』を称賛するのは論旨が一貫していない。これは明確にポストモダニズム論から逸脱している。デリダは『散種』で《テクストの外部はない》という公準を掲げ、これにもとづけば、『YU-NO』と他のエロゲーに差異を見出すことはできない。
 東もそのことに自覚的なのか、その箇所の文章は修辞的で、非論理的なものとなっている。

 ドラマの消費とシステムの消費のこの二層化は、コンピュータ・ゲームの前提となる条件であり、この作品も決してそれを逃れているわけではない。しかしとはいえ、『YU-NO』が、そのような条件のなかにいながら、同時にその条件の自覚を目指したアクロバティックな試みであり、きわめて重要な作品であることは疑いない。

(同上)

 この文章を論理的なものに修正すれば、《…その条件に自覚的であり、その意味で歴史的な意義をもつことは疑いない。》となるだろうか。
 さて、東の前段の批判は、当時のアキバ系サブカルチャーにおいて流行していた言説を、そうした俗語を使わずに解説したものだ。つまり、《kanon問題》だ。
 本書における東のエロゲーに関する文章には、哲学の素養を身につけ、自負心を得たオタク青年の、他のオタクたちに対する「なぜお前たちは《kanon問題》に無自覚なのか」という義憤が充溢している。つまり、『YU-NO』への異様なまでの熱賛の理由は、「本作は《kanon問題》を解決している」ということに尽きる。東は『kanon』におけるあるヒロインが、他のルートでは救済されないことに苦悩と義憤をおぼえていたのだ。それが、あゆか、名雪か、真琴か、舞か、栞かは知らないが。
 そもそも《kanon問題》はそこまで論争的なものではない。『kanon』はいわゆる泣きゲーの元祖と呼ばれる。しかし、各ヒロインのルートでは後半に悲劇が起きるが、幼なじみである名雪だけは特別な背景がないため、母親の秋子が何の脈絡もなく、いきなり交通事故に遭って意識不明に陥る。これはもう泣けるというより、ギャグだ。『kanon』の中心となるヒロインは明確にあゆであり、あゆのルートと他のヒロインのルートが衝突するのは、ただ制作スタッフが深く考えていなかったからでしかない。例えば、栞は死病に冒されていて、余命の期限を目前にしている。せめて思い出がほしいとして、病気のことは意識せず、主人公と恋人として振舞う。そして、余命の期限を迎えるが、「やっぱり死にたくない。こんな思いをするなら、思い出なんかいらなかった」と悲痛な叫びをあげる。たしかに泣けるが、とても文芸的に優れているとは言えない。
 『kanon』において世評となった《感動》はkeyの商業主義と結合し、『CLANNAD』で頂点に達する。ヒロインが娘を残して死ぬ。ギャグだ(※5)。
 『kannon』を構成するのは、ヌルいギャグ、幼稚なヒロイン、見透いた構成であり、これは商業主義ときわめて親和的だった。とくにkeyの作品に特有の幼稚なヒロインはたびたび批判されてきて、いまさらくり返すまでもないが、特筆すべきはシナリオライターが年齢相応な少女を書くこともできたということだろう。じつは、ヒロインの5人中3人は、特殊な事情で精神年齢が小学校低学年でとまっている。有名なあゆの「ボク」という一人称もそのためのものだ。にもかかわらず、言うまでもなく、もともとの製品では主人公とセックスしている。ヤバい。そうしたヤバさが注目されることもなく等閑視されるのも、商業主義に特有のことだ。しかし、特別な背景のない名雪は、ときおり年齢相応な言動をみせる。つまり、シナリオライターがそうした幼稚な性格のヒロインの方が、販売戦略の上で有利だと判断したということだ。実際に、その目論見は成功した。
 また、《kannon問題》は作中で解決できる。エキノコックスだ。
 沢渡真琴はキタキツネが変身した少女だ。肉体は人間のものになっても、キタキツネのままエキノコックスを保菌していることは想像に難くない。水瀬一家がエキノコックスに感染すれば、秋子の交通事故という名雪の悲劇は防ぐことができる。ただし、キツネやイヌの糞便から経口感染するエキノコックスは、潜伏期間が長い。急性で発症するには、糞便を多量に摂取する必要がある。つまり、祐一が真琴のウンコを食いまくればいい。さらに、居候先の水瀬秋子名雪の母子をあらかじめSM調教し、スカトロ趣味で自身のウンコを食わせれば、両者を入院させることができる。無論、そのときは祐一も入院している。『kanon』の舞台は北陸-北海道地方の小都市だが、エキノコックスの治療をおこなうことができるほどの設備を有する医療機関は地方にほとんどないだろう。必然的に、長期の植物状態であるあゆの治療をおこなう医療機関と同じということになる。入院していれば、水瀬一家か祐一が、院内に長期の植物状態である同年代の少女がいることを知ることになる。長期の入院生活で暇をもてあまし、好奇心にかられた祐一がその病室を覗けば、そこにあゆがいる。当然、祐一はそれが町で出会った少女と同一人物であることに気づき、あゆとの記憶が復活する。祐一があゆの名前を呼び、その声があゆの脳に刺激を与えれば、昏睡から回復することも可能だ。これであゆの悲劇は回避することができる。さらに、そうした先端的な医療設備を有する総合病院に、難病にかかった舞の母親が入院していることは自然だ。舞と病気の母親と合わせて会えば、祐一も、それが幼少期に出会った孤独な少女であることに気づくだろう。そして、舞と時間をかけて対話すれば、自身の創造した幻想である怪物との対決により死亡するという、舞の悲劇は防ぐことができる。また、死病にかかっている栞も同じ病院に入院しているはずだ。偶然が重なっているのではなく、そもそも『kanon』は難病にかかったり、交通事故に遭ったり、そうでなければ、そうした縁者をもつ登場人物の割合が高すぎるのだ。香織は名雪の見舞いに訪れざるを得ず、そこで栞と対面することを強いられるだろう。栞の死病は解決が難しいと思われるかもしれないが、その病名につき、栞は「病名をおぼえたところで意味がない」と言って明かすことを拒否している。これは作劇の都合でもあるが、きわめて奇妙な台詞だ。病気は治るものと治らないものがあり、後者だから栞は苦しんでいる。病気を区別する必要がないとしたら、時間がないか、金がないかだ。時間は闘病生活が長期に及ぶことの描写から考えにくい。つまり、費用がないと考えるべきだ。この仮説は、香織の冷めた性格と、妹への頑なな態度とも適合的だ。ここで、祐一はすでに舞を通じて佐佑理と縁故ができており、資金援助をしてもらうことが可能だ。その蓋然性に疑問があるなら、もう佐佑理にもウンコを食わせるなり何なりすればいい。これで、舞の病死という悲劇は防ぐことができる(※6)。なお、エキノコックスの感染により、真琴の正体がキタキツネであることは早々に判明している。エキノコックスの伝染により、大規模な害獣駆除の行われる公算の高いことから、真琴はキツネに戻ったあとも水瀬家で引きとることが無難だろう。これで、祐一と真琴の別離という、真琴の悲劇は回避することができる。まだ《あゆの奇跡》が残っているため、真琴をふたたび人間にするために使ってもよい。しかし、SM調教した水瀬秋子名雪の母子、その他の少女たちとの痴情の縺れを解決するために使った方が無難だろう。
 これは頓智ではない。科学だ。
 しかし、当時、オタク青年だった東はこの《kanon問題》に深刻な葛藤をおぼえた。
 もうお分かりだろう。
 東浩紀と《ゲンロン》の活動のすべては、月宮あゆの亡霊を厄祓いするためのものであり、それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

(※1 どうでもいいが、《hauntology》という現代思想に特有の言葉遊びにつき、《憑在論》という訳語を当てた訳業はすばらしい。)
(※2 ただし、本書はデリダの他の著作がそうであるように、SF的な読みものとしては非常に面白い。)
(※3 余談だが、是枝裕和の『万引き家族』では社会に疎外されたひとびとによる疑似家族が解体して終わる。これは、もともと仮象でしかない近代的な家族制度が無化しただけのことで、何の意味もない。同監督の『誰も知らない』では、育児放棄された兄弟たちと年長の少女が、頓死した末女を空地に埋めて、ふたたび共同生活をはじめるところで終わる。映像では、彼らは画面の外部に去る。唖然とする結末だが、ここで彼らは疑似家族を形成したというより、近代的な家族制度を破壊したと見なすべきだろう。おそらく、このときカンヌ国際映画祭の審査委員長だったクエンティン・タランティーノはこのことに気づいていた。その意味で、『万引き家族』は『誰も知らない』よりはるかに大衆迎合的だ。もっとも、タランティーノケイト・ブランシェットでは、映画批評家として比較する方が酷だというものだが。ただし、『そして父になる』以降の、フジテレビ協賛の是枝の監督作品のなかでは『万引き家族』がもっともいいものであることは疑いがない。しかし、是枝の最良の作品のひとつである『奇跡』は、JR九州の協賛で制作された。)
(※4 なお、結果論として後者の理由により東の選択は奏功する。エルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフは『民主主義の革命』において、唯物論的な観点から、階級の物質性と「真のアイデンティティ」を代表=再現前化(プレゼント)する政治的審級が乖離することを分析した。さらに、経済的再配分を重視する階級の政治の社会的左翼と、言説を重視するアイデンティティ・ポリティクスの文化的左翼は背反することとなる。リリアン・フェダマンの『レスビアンの歴史』によれば、ポリティカル・コレクトとは、もともとフェミニズム運動が発展する過程において、難解きわまるフェミニズム理論を理解できない、新たな運動の参加者のために発案されたものだった。同書によれば、ポリティカル・コレクトはやがて教条主義と化し、運動の分裂をもたらした。つまり、ポリティカル・コレクトの論争点とは、もともとイデオロギーの対立ではなく、知性と反知性との対立だった。後期資本主義とは、大衆の台頭のことだ。スマートフォンの普及率は2003年の0%から10年ほどで80%近くまで急増した。もともと人数で圧倒的多数を占めているルンペン・プロレタリアートが発言権を得れば、俺たち知的に優れたエリートは、ただ黙従する他なくなる。そうした潮流でエリートが選択できる政治思想は、完全な個人主義を物質的に実現する、生産の無人化とベーシック・インカムを掲げる左派加速主義だけだ。)
(※5 「288:エロゲじゃなかったらなんなのよ」「300:>>288 人生…かな?」「304:>>300 うわぁ‥‥」「306:>>300 ( ;∀;)‥‥」「311:>>300 (ノ∀`)」)
(※6 栞が助かるのはあゆが死亡し、臓器提供が間に合ったためという仮説は合理的で魅力的だが、あゆは自身を除くすべてのルートで死亡しているために、それでは他のルートで栞が死亡していることと矛盾する。)