『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』感想 - 毒物を仕込んだリンゴをスケッチし、その後、それを齧って自殺した男 -


 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』について。

 《君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。》(芥川龍之介『或る旧友へ送る手記』)

 まず、前作『スペクトラルウィザード』について確認したい。目次は以下のとおり。

 『スペクトラルウィザード』
 掌編『ダイウラスト』
 『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』
 掌編『ネクロキネティックウィザード』
 『リレントレスオーバータワー』

 本書は各章ごとに頒布された同人誌を編集したものだ。
 よって、主要主題はおおむね表題作『スペクトラルウィザード』で示されている。

 魔術師ギルドがテロ組織と認定され、騎士団により壊滅させられ、魔術師の残党は散りぢりになった。騎士団は7つだけ残存する魔導書を保管し、それを使えば世界を滅ぼすことができる。しかし、魔術師たちはただ見通しのない潜伏生活を続けるのだった…
 スペクトラルウィザードもその1人だ。スペクトラルウィザードは自身をエクトプラズムに変えるゴースト化の魔法を使う。そのため攻撃も拘束もできず、騎士団からもほぼ放任されている。騎士団の職員のミサキには、ほぼ一方的に友人のように接している。
 しかしスペクトラルウィザードが通常の社会生活を送ることができるわけでなく、とうとうある日、騎士団から魔導書を強奪してしまう。しかし、ウサギのぬいぐるみを質草にされ、あっさりと魔導書を返してしまう。

《「昔の私なら奪おうとしたかもしれんが 最近はなんだか疲れててな…」「情けない話だが…」「今の私は魔導書よりカーテンのほうがほしいんだ…」》

 ゴーストの世界はひたすら無。スペクトラルウィザードは無敵だが、同時に、誰にも相手にされない。
 プラトンの『国家』からウェルズの『透明人間』に至る、現代の透明人間の逸話。

 『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』ではカオスウィザードが登場する。カオスウィザードは7人にまで分身することができる。そのためカオスウィザードは魔術師ギルドでも不気味がられ、誰にも相手にされなかったが、自分たちでつるんでいたため気にしなかった。
 スペクトラルウィザードは少しずつ家財を売ることで生活していて、カオスウィザードは犯罪者として日々を気ままに生きている。カオスウィザードは魔導書《長い大きい影の記憶》を強奪し、世界を滅ぼすことを提案する。
 スペクトラルウィザードはカオスウィザードの誘いに乗るが、最後には《長い大きい影の記憶》を騎士団に返す。それを見て、究極の自己完結をしていたはずのカオスウィザードは涙を流すのだった。

 掌編『ネクロキネティックウィザード』は『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』の後日談。念動力という強力な魔法を使うが、要領が悪いため、万引きで食いつないでいるネクロキネティックウィザードをカオスウィザードが仲間に引きいれようとする。

 『リレントレスオーバータワー』は3部作の完結編と言っていい。サハラ砂漠に石造の塔が出現し、どんどん上方に増殖してゆく。魔導書《リレントレスオーバータワー》によるもので、このままでは世界が滅びる。騎士団に協力することで自由を保証されているクリスタルウィザードは、塔の最上階に唯一、ゆくことのできるスペクトラルウィザードに、魔導書を作動させているガーゴイルウィザードの説得を託す。
 スペクトラルウィザードにすれば、世界が滅びるのをとめる理由も、自分が生きつづける理由もない。しかし、ガーゴイルウィザードに会い、短い対話のあと、ガーゴイルウィザードは魔導書をとめるのだった。

《「もし首謀者に会って言うことが何も思いつかなかった時はこう言え」「魔術師はお前の行為を罪とは思っていないと!」》

 魔導書の発動は、自殺、またはローンウルフのテロとほぼ同じ意味だ。
 ガーゴイルウィザードを逮捕したあとも塔は残り、地軸への影響で環境が激変するらしい。問いただすミサキに、クリスタルウィザードは淡々と言うのだった。

《「世界は1秒たりとも同じではない 元に戻るものなんて何もない」》

 しかし、こうした物質主義は、逆説的に超越的な救いがないことの救いとなるだろう。

 連作短編集だった『スペクトラルウィザード』に対し、『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』は1本の長編だ。

 目次は以下のとおりに別れている。

 『モストパワフルスペルオンアース』
 『ファイアーメイジ』
 『ファイアーメイジVSクリスタルウィザード』
 『VSスペクトラルウィザード』
 『サラダウィザード』

 登場人物は前作とほぼ同じで、ファイアーメイジだけが新しく登場する。

 『モストパワフルスペルオンアース』から『VSスペクトラルウィザード』まで、延々と騎士団とクリスタルウィザードの陰謀と内紛が続く。陰謀と内紛は、ほぼ疑心暗鬼と内部分裂によるものであり、その内容はどうでもよい。
 要点は、『ファイアーメイジVSクリスタルウィザード』の後半で、スペクトラルウィザードが騎士団に敵対することだ。『スペクトラルウィザード2 長い大きい影の記憶』ではカオスウィザードを拒んだにもかかわらず、ここでカオスウィザードたちに協力し、破壊活動を行う。カオスウィザードに顔に迫力がないからと言われ、破壊活動を行うときスペクトラルウィザードは仮面を着ける。
 スペクトラルウィザードが仮面の下で葛藤しており、それが最後に暴露されるだろうことは読者には想像がつく。そしてそのとおりになるが、それは予想もしない痛みを伴う。
 『VSスペクトラルウィザード』で、ミサキは『スペクトラルウィザード』の挿話を引き、スペクトラルウィザードに対抗するには彼女の私物を利用するしかないと言う。ファイアーメイジの協力で、ゴースト化の魔法の弱点が分かる。ゴースト化の魔法を使うとき、術者は存在を安定させるために《重し》となる物を所有する。それがなければ、ゴーストの世界から現実に戻ってくることができなくなるかもしれないからだ。
 スペクトラルウィザードは《長い大きい影の記憶》のコピーが保管されている地下1000キロメートルの危険物用の地下倉庫に向かう。じつのところ、それも騎士団のためなのだが、陰謀と内紛のために伝えていない。ミサキたち騎士団は、地下倉庫でスペクトラルウィザードを待ちうける。
 スペクトラルウィザードは地下倉庫に侵入して呆然とする。そこに自宅の家具が並べられていたからだ。ミサキはスペクトラルウィザードと対峙し、家具を1つずつ破壊してゆく。模造クリスタルの『スペクトラルウィザード』以来のコンセプチュアルな画風で、仮面を着けたままのスペクトラルウィザードが、家具を破壊されるたびに傷ついてゆくのがはっきりと分かる。
 最後の家具を破壊したあと、ミサキは捨て台詞をぶつけ、騎士団とともにスペクトラルウィザードを銃撃する。無敵のはずのスペクトラルウィザードの仮面が壊れる。予想外の成果にミサキは驚く。が、すぐに絶句する。スペクトラルウィザードは俯いて泣いていた。
 騎士団は地下倉庫を爆破で埋める。スペクトラルウィザードは泣いたままゴースト化しようともせず、瓦礫に埋まる。
 スペクトラルウィザードと対峙するとき、仮面と対になるようにミサキもガスマスクを着けている。事後、ミサキはガスマスクを外して泣く。
 後日、ミサキの元に生前のスペクトラルウィザードからの手紙が届く。事態が収束したあとに仲直りすることを頼むもので、ミサキはふたたび泣く。
 かくして、半死半生の存在だったスペクトラルウィザードは本当に死んだのだった。

 掌編『サラダウィザード』は、題名からして軽妙なものに思えるが、そうではない。魔術師ギルドが危険視される以前、サラダウィザードはギルドを離れて旅に出た。その別離を描く。

 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』に救いはない。『スペクトラルウィザード』は物語性と、それによる救いの否定により、逆説的に救いを描いたが、それもない。
 いわば『スペクトラルウィザード』は自殺志願者の話だったが、『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』はその自殺の話だ。
 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』の長い説話はほとんど意味をもたず、最後にはスペクトラルウィザードの自死で切断される。
 スペクトラルウィザードが自死を選ぶのはまったく不思議ではない。『スペクトラルウィザード』の表題作において、すでにスペクトラルウィザードは自殺志願者で、最終的に彼女が自殺するのは自然ですらある。『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』の長い説話はほとんどスペクトラルウィザードの自殺には関係ない。ただ、目のまえで自宅の家具を1つずつ破壊されるという陰湿な精神攻撃を受け、しかも、それを唯一の友人にされたという事実が彼女を死に追いやった。上掲の、芥川龍之介の遺書を読んでもらいたい。
 そのことがスペクトラルウィザードの意思を自殺に向かわせたというより、ただ最後のひと押しとして、わずかに残っていた生きる気力を奪った。そのため、泣いているときのスペクトラルウィザードはミサキを見るのではなく、ただ俯いている。

 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』の長い説話はスペクトラルウィザードの自殺から切断されているようだが、主題はしばしば述べられている。『モストパワフルスペルオンアース』では先史時代、1万年前から氷漬けにされている《アイスレディ》を題材に、人間は肉体的には変わらず、形而上的な知識だけが変わることが語られる。クリスタルウィザードがかつて求めていた《最強の魔法》は他者を支配する魔法のことで、『ファイアーメイジVSクリスタルウィザード』の後半で、意識は各人で独立しているため、そのような魔法は存在しないと断言される。『VSスペクトラルウィザード』では、科学は物理的に観測でき、魔法はできないという、初出の設定までが語られることになる。

 フーコーが『言葉と物』で提言した《人間の消滅》ということも、当然、残る客体に対する主体の存在を無視したもので、同様の文学や思想も、同じ問題をもつ。つまり、完全な物質主義はそれが《主義(-ism)》であるかぎり、言葉が矛盾している。
 『スペクトラルウィザード』の救いがないことによる救いというのも、そういうものだ。
 『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』が付きつけるものは、まさにただの物質、人間にとってのただの欠落だ。
 本書を読み、じつはスペクトラルウィザードが生存していることを二次創作じみて夢想したり、自殺志願者のスペクトラルウィザードが他者から攻撃されて本当に自殺してしまうことから、自殺志願者や社会的弱者に残酷に振るまうことの危険性を説くメッセージ性や、対立し、攻撃されるときのスペクトラルウィザードが顔を隠していることから、鷲田清一の『顔の現象学』やレヴィナスの『全体性と無限』を引き、SNSの発達した現代において、顔の見えない相手を攻撃することの危険性を説くメッセージ性を読みとったり、あるいは、単純に本書の存在をなかったことにし、『スペクトラルウィザード』は第1巻のみで完結していると思いこむことはできない。
 『スペクトラルウィザード』の3部作を発表してから、2年の歳月をかけ、模造クリスタルが『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』を描画していたという事実は重すぎる。

 チューリングは青酸カリを仕込んだリンゴをスケッチし、それから、そのリンゴを齧って自殺した。
 わたしたちは同じようにリンゴをスケッチできるかもしれない。でも、それからどうしたらいい?