2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013 
 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013
 他薦の年間百合ベストが趣味に合わないため自薦のものを編纂してみたのだが、3年目になり、さすがに資料価値が出てきたように思う(自分の趣味で選んでいるからそれらしく見えるだけかもしれないが)。
 今年は百合アンソロジーが多数、刊行され、また、一迅社(『コミック百合姫』編集部)でない出版社からの《百合》ジャンルの作品の刊行が目立ち、《百合》というジャンルが市場として形成されはじめてきたことを実感した。ともあれ、現代においてゲイネスが記号化して覆面として機能し、かえって商品として流通しやすいことは、2002年に竹村和子が『愛について』ですでに分析したとおりだ。今後、ジャンルとしての《百合》は、ジャンルとしてのBLのように、市場規模が拡大し、同時に定型化、量産化が進むのだろう。それ自体は悪くはないし、そもそも、自然なことだ。しかし、一読者としては固有の印象を与え、記憶に留まる作品を重視する。
 というわけで、以下、記憶に留まるであろう作品を記録する。

・マンガ

 さすがに、特筆すべきことがないかぎり、昨年、一昨年に掲出した作品の続刊は省く。
 あらた伊里『とどのつまりの有頂天』、高野雀『世界は寒い』は第2巻で完結。仲谷鳰やがて君になる』と缶乃『あの娘にキスと白百合を』は以下に別記する。

1.なおいまい『ゆりでなる♡えすぽわーる』第1巻

 2019年度の百合を語るとき、本作を欠かせば半面的な価値しかないだろう。
 本作を語る前に、2010年代中期から後期の、『コミック百合姫』編集部が『ゆるゆり』と『百合男子』の2作を主力商品、重点商品として営業、販売した《百合冬の時代》について確認する必要があるだろう。
 その営業、販売戦略は実際、成功し、2017年には『コミック百合姫』は月刊化を果たす。しかし、じつのところ『ゆるゆり』はかなりいかがわしい作品だ。雑誌掲載時に第1話のオチが主人公のあかりがよく兄にパンツを盗まれているというオチで、単行本化に際してそれを《兄》を《姉》と変え、その後はそのような過去などなかったかのようにそれを《姉妹百合》と称して作品の要素としているという、間テクスト的な事情を挙げるまでもなく、単行本第1巻で一人暮らしの登場人物が"「肉より安いからね」"という奇妙な台詞とともにウインナーでカレーを作る。おそらく、作者は家事をしたことがない。そして、この《肉より安いウインナー》とは魚肉ソーセージ… 一般の男性より小さく、かつイカ臭いペニスのことだ。この「いかもの」らしさが『ゆるゆり』の本質だ。
 が、その価値判断は何か。「いかもの」が「本物」より好まれたなら、真偽、善悪に加えた新しい価値判断が必要になる。現代においてゲイネスが記号化して覆面として機能し、かえって商品として大量に流通しているのなら、その覆面の下の顔は泣いている。
 2017年、読切り『カレーをたべる♥ふぁむふぁたる♥』で、記号の氾濫する現代の、神経過敏にもかかわらず痛覚遮断された、この奇妙な状況を描出した作者は、記号をそのまま《百合》とすることで、作品の精度をさらに上げた。
 口幅ったい物言いをすれば、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』のクィアとか攪乱とかを百合作品にまで高めてるってこと。

1.模造クリスタル『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』

 題名だと続刊とはわかりにくいが『スペクトラルウィザード』の続編。副題を適当に作風に合った児童書らしいものを設定したのだろうと思って本編を読むと、内容をほぼそのまま表していてビックリする。
 自宅が和室のひとは読まないほうがいい。読んだあと、天井の梁に首を吊りたくなるから。同じ理由で、家にぶら下がり健康器をおいているひとは、読む前に粗大ゴミに出しておいたほうがいい。

1.志村貴子『おとなになっても』第1巻

 黒沢清蓮實重彦が対談『東京から アメリカ映画談義』でイーストウッドの『グラン・トリノ』について、「これまで《愛》について完全に無視していたイーストウッドが、はじめて《愛》を語っていて驚いた」という旨のことを言っていたが、本作について、志村貴子に関し、同様のことを感じた(ただし、『グラン・トリノ』は恋愛映画ではないが)。
 『放浪息子』、『淡島百景』第1巻あたりは完成されたネームが余人を寄せつけないまでの雰囲気を放っていたが、近作ではモノローグに紙幅を割き、登場人物の内省と登場人物間の相互理解を重視しているようだ。多数の研究があるとおり、現代はSNSの浸透でひとびとの情緒的な能力が下落しているそうだから、それに対する懸念があるのかもしれない。
 2019年発売の『淡島百景』第3巻はほとんど第1巻とは別の作者のようだ。しかし、『柏原明穂と田畑若菜』のモノローグと実際の心情の乖離したナラティヴなど、確かな円熟味を感じる(『わがままちえちゃん』の技法の穏当な使用)。柏原明穂ちゃんカワイイ。
 『おとなになっても』第1巻についてだが、普通に悶絶した。というか、私も20代後半に入って数年が過ぎ、人生を消尽しきった感覚があり、「もういい歳なのに…」という主役2人に普通に感情移入してしまった。いや、これはいわゆる《日本型雇用》の転換期にあり、理論上の雇用の流動性の要求と、現実における慣行との対立が、他の先進国との対比で明白な、労働市場の障壁、労働時間の長さ、生産性の低さ、産業構造の歪み、という問題を形成している日本社会に蔓延する社会不安を作品が剔抉しているからだ(バカみたいなのは私で、言っていることはマジ)。

4.毒田ぺパ子『さよならローズガーデン』第1-2巻

 19世紀末のイギリスを舞台とし、ヴィクトリア朝文学の引用が頻々にある。それだけに硬骨なストーリーテリングとネームで、登場人物たちが秘密を抱え、気持ちが擦れちがう、サスペンスフルでページターナーな物語だ。まちがいなく2019年の佳作だ。

5.仲谷鳰やがて君になる』第7-8巻

 全8巻完結。
 じつのところ、昨年、刊行の第6巻では、特質である抑制的なプロットが逆作用し、作品はかなり危機的状況を迎えていた。劇中劇の演劇でメッセージを直接的に書き、まるで中学生がはじめて描いた同人誌のようだった。しかもそれが数話続き、その巻の大部分を占める。完結後のインタビューで作者が「良くも悪くもデビュー作らしく」と言っているのはこの部分のことなのだろうが、とても「良くも」とは言えない。
 しかし、その後は無事にもち直した。ただ第7巻の沙弥加を視点とする部分は、そこだけメロドラマ的なプロットに、縦割りのコマとクローズアップの多用で文法(スタイル)が異なるが、文法(スタイル)の異なる部分を挿入したことの作品における効果は疑問だ。しかも、第6巻からの過剰に説明的な物語を踏まえれば、もはや沙弥加の告白が全体のプロットにおいて燈子の後押しをするためのものでしかないことは、読者にあまりにも明白であり、単体のメロドラマとしても味読することはできない(いや、それは沙弥加が報われる可能性がまったくないわけではないとは考えた。万馬券が当たるくらいの確率で。そして、沙弥加は競走馬というより当馬だ)。
 見開きで距離はミドルショットという抑制性で、その後は最後まで緊密さを保つ。侑の《アセクシャル》としての《セクシュアリティ》が《尊重》されなかったから、期待が裏切られた(彼らは自覚していないが、つまりメッセージ性の次元において)と言うひとびとは、作品そのものを理解していない。『やがて君になる』の主題論は分節化することの残酷さだ。
 作品の英題『Bloom into you』はイヴ・セジウィックが論文『Queer Performativity: Henry James's The Art of the Novel(クィア・パフォーマティヴィティ――ヘンリー・ジェイムズにおける小説の技術)』で《Shame on you》という慣用句について分析した、《自己消去の欲望》という機能で決定されている。
 《The absence of an explicit verb in ‘Shame on you’ records the place in which an I, in conferring shame, has effaced itself and its own agency. Of course the desire for self-effacement is the defining trait of―what else?―shame. So the very grammatical trun-cation of "Shame on you" marks it as a product of which an I, now withdrawn, is projecting shame—toward another I, an I deferred, that has yet and with difficulty to come into being, if at all, in the place of the shamed second person.(「恥を知れ」における明示的な動詞の欠如は恥を与える《私》がそれとその機能を削除する場所を記録する。当然ながら自己消去の欲望は――それ以外の何があろうか?――恥の徴を明らかにする。そのためきわめて文法的な「恥を知れ」の切除はそれがもう1人の私、存在することが難しく、またいまだしていない《遅延された私》に対する恥を、もしそうなら、恥ずかしめられた2人目の場所に投影する《私》、内にこもったこの《私》の産出としてそれを印づける。)》
 《一人称単数・現在・能動態・直説法》の出現は個人の定立におけるすべての問題の前提であり、例えば、結婚式の《I do.》、《誓います》という言葉は、主体を国家、共同体、そして異性愛の代補に結びつける。つまり、《遅延された私》は純粋な私で、いまの《私》は社会との妥協の産物だ。だから恥の感情は個人の内部と外部のとば口だという主旨だ。
 『やがて君になる』のエピゴーネンで、ただ抑制的なプロットと、薄いトーンの多用や、ツヤによる光線の強調だけを模倣しているフォロワー(それらの作品は金太郎飴のごとく、かならず「顔がいい」という文言がある)は、その主題論を理解していない。本来の仲谷鳰ストーリーテラーだ。それは、2019年の『エクレア orange』所収の『ダブルベッド』などに明らかだ。
 最終巻の第8巻で侑と燈子の濡場があり、その場面は近-中距離のショットで、流れるようなカメラワークだ。ここで侑が燈子をガンガン責めていて、「そうそう。《自分はアセクシャルだから》とか自称するヤツほどセックスモンスターなんだよな」と思った。この感想いるか?

 『エクレア orage』では伊藤ハチの『イヴの約束』が問題作だった。「どうして博士はロボットを子供の姿で再現したのかな? お家のひとと一緒に考えてみよう」。お家のひとが目を逸らしたり、話題を変えようとしたら児童相談所に走れ。

6.詩野うた『有害無罪玩具』『偽史山人伝』

 ウィアード、スペキュレイティヴ。全体として、安易な情緒性、教訓性とは距離をとった作風だが『偽史山人伝』所収の『人間のように立つ』はさすがに百合。他に同書の『姉の顔の猫』、『有害無罪玩具』所収の『盆に覆水 盆に帰らず』も是非、百合と言いたい。発売時期は前後するが、『有害無罪玩具』所収の中編『金魚の人魚は人魚の金魚』に『偽史山人伝』所収の短編の登場人物たちが客演するため、こちらを先に読んだほうがいい。

7.『あの娘にキスと白百合を』第10巻

 完結。やはり全10巻できっちり大団円にしてくれたことは大きい。

8.滝島朝香『ラストピースの行方』

 『Avalon Alter -karma-』所収。作者の地力の高さが顕現している。

9.道満晴明メランコリア』上下

 別に百合要素が中心的な作品ではないのだが、2019年を代表する作品で、百合要素が目だってあるので一応。

・その他

・ソウマトウ『シャドーハウス』第1-3巻
 耽美、退廃、叙情、と趣味性が明確な作品。Vtuberの名取さなの紹介で知り(『ゆりでなる♡えすぽわーる』も紹介していてじつに趣味がいい)、単行本で読んだので、じつは第2-3巻で『ハンガー・ゲーム』とか『メイズランナー』みたいなティーンズ向けっぽい庭園での鬼ごっこがはじまったときにけっこう萎えた。

・斉木久美子『かげきしょうじょ!!』-8巻
 本来なら2015年に第1巻が刊行されているのだが、諸般の事情で事実上の第1-2巻である『かげきしょうじょ!! シーズンゼロ』上下巻が刊行、というか再刊され、私もそれでシリーズを知ったため一応。「絶望の中の希望! と見せかけてやっぱり絶望!」みたいな作品。○○○を返して…

A-10『赫のグリモア』第1-3巻
 第1巻が刊行されたときには「そうそう。『寄生獣』とか『うしおととら』みたいな人間と人外のバディものの百合が見たかったんだよ!」と思ったが、2巻で息切れした。

・郷本『夜と海』第1-2巻
 『やが君』のあとに多数出た抑制的なプロットの作品の中では、かなりいいほう。

アサウラ『木根さんの1人でキネマ』第6巻
 なんか、いつの間にかアラサー独身同居ものと言っても差支えない内容になってる…

・小説

1.陸秋槎『雪が白いとき、かつそのときに限り』

 傑作。限りなく透明な世界観と、澄明な感情。そして《後期クイーン的問題》。じつはこの両者は同根のものだ。
 すでに別の記事でネタバレ込みで詳細に解説したため、紹介はこれで終える。
 作者の微博のアカウントによると、早川書房はやはり百合と《後期クイーン的問題》が主題の『文学少女対数学少女』の日本における出版権を契約していて、しかし2020年以内の刊行は難しいらしい。翻訳の進捗、出版市況、経営計画といった事情があるから時期的な問題は仕方ないにしろ、もどかしい。(追記:2月15日開催のイベント「この華文ミステリがアツい!」によると、2020年冬刊行とのこと

1.宮澤伊織『裏世界ピクニック』第3-4巻

 じつのところ第3巻はやや低調だと感じたが、それは助走であり、第4巻は物語におけるシリーズの総決算、つまり百合の最大限の盛りあがりと、主題論における実存的ホラーの最終解答が結着し、見事な読みごたえだった。
 ネタバレ感想(https://privatter.net/p/5335001)。

1.斜線堂有紀『コールミー・バイ・ノーネーム』

 《名前当て》ミステリ。ウィッチダニットと言うべきか、ワットダニットと言うべきか。いずれにせよ、ほぼ前例のない推理小説的な試みだ。作品の中心でないのなら、『戯言』シリーズとか『千葉千波』シリーズとかの例があるが… 世代がバレるな。
 特筆すべきは、この《名前当て》ミステリが推理小説としてしっかりしたフェアネスのもとに行われていることだ。つまり、読者は作品内の手がかりにより一意的に名前を推理することができる。私は推理小説畑の人間なので、これだけで十分に満足できる。しかも、それが百合として物語ときわめて密接に結着している。傑作だ。
 ネタバレ感想(https://privatter.net/p/5253550)。

4.アンソロジー『アステリズムに花束を』

 陸秋槎『色のない緑』が傑作。チョムスキーの有名な《意味なし文》から題名を採用した本作は、二重の意味をもち、劇的で、哀切な余韻を残す最後1行の台詞のために構成されている。これは情報科学における知識を宣言的というより命令的なものとする手続き的認識論の立場をとり、その上で行為遂行(パフォーマンス)を問うものだ(じつはこれも《後期クイーン的問題》には馴染み深い主題だ)。陸秋槎の主題の選択の確かさと構成力の高さには瞠目する。
 じつはもともとSFでもファニッシュ系っぽいノリの小川一水はあまり好きではなかったのだが、『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』で『老ヴォールの惑星』の老ヴォールみたいな生物をコスプレ美女2人が乱獲しまくってて、不覚にもウケてしまった。
 伴名練『彼岸花』は後述。

5.伴名練『なめらかな世界と、その敵』

 じつは伴名練の作品は嫌いだ。べつに本作を読んで嫌いになったわけではなく、高校生のときにアンソロジー『NOVA』所収の『かみ☆ふぁみ!』を読んだときから嫌いだった。その意味では、本作を読んで嫌いつつ、その彼我の変わりなさに、高校生のときの不仲だった同級生に再会したような懐かしさも感じた。
 伴名練の作品は①ライトノベルの文章で(台詞の野暮ったさは普通に酷い)②メロドラマの物語で(大体、恋か愛がテーマ)③モラリストの教訓だ(極端なまでに体制順応主義的、現状肯定主義的で、そのため結末はつねに予定調和的だ。じつのところ、まったくSF的ではない)。
 しかし擬古的な文体模写の作品は好きだ。本書では『ゼロ年代の臨界点』、『ホーリーアイアンメイデン』。そして前掲の『彼岸花』だ(ただし『ホーリーアイアンメイデン』のオチの『サクラダリセット』の露骨なパクリはどうかと思う)。『ゼロ年代の臨界点』は必読。

6.柾木政宗『ネタバレ厳禁症候群』

 シリーズ前作の『NO推理、NO探偵?』から百合度大幅アップ。
 が、推理小説としてあまりにハイブロウになりすぎたため、本格、新本格推理小説のよほどのマニアではない限り楽しめないだろう。だが、個人的には大好きな作品だ。年間ベスト級だ。なんというか、店主が凝りすぎて言容しがたい味のする創作ラーメンのような読み味がする(なら、それを手放しで称賛するマニアもダメじゃん)。

・その他

・草野原々『大進化どうぶつデスゲーム』『大絶滅恐竜タイムウォーズ』
 『大進化どうぶつデスゲーム』は百合。が、その後編の『大絶滅恐竜タイムウォーズ』ですべて覆される。高度ないわゆるメタミステリがアンチ・ミステリとなるのは推理小説のマニアには馴染み深いが、本シリーズは『大絶滅恐竜タイムウォーズ』で高度なメタ百合作品となり、転じてアンチ・百合作品となった。しかも、その射程を百合作品に留まらずフィクション全般に広げたため、実存主義小説のような独特の読後感の作品になった。
 ともあれ『大進化どうぶつデスゲーム』は面白く、『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は濃厚な読味があることは確かだ。

・百合ミステリ
 2019年はいわゆる《百合ミステリ》が多数、刊行されたという世評があり、そう評された作品をすべて読んでいるため、ここまで未出のものは以下に概評しておく。

(五十音順)
・『彼女は死んでも治らない』:百合要素× 百合度× そもそも徹頭徹尾、異性愛が中心で百合ではない。百合詐欺(この言葉は数年ぶりに使ったぞ)。
・『キキ・ホリック』:百合要素○ 百合度○ が、お勧めしない。作者が頑張っているのがすごくよく伝わってくるのだが、端々にオッサン臭さが滲む。
・『紅蓮館の殺人』:百合要素△ 百合度△ 百合要素はあくまでオマケ。後半にはほぼ消滅する。
・『ノワールをまとう女』:百合要素○ 百合度× 江戸川乱歩賞受賞作。女性同性愛が物語の中心だが、「ベタベタの」ハードボイルドのため、あくまで設定上のものにしかなっていない。というか、選評にそう書いてある。

・映画

ヨルゴス・ランティモス女王陛下のお気に入り

 アン女王を題材としたいわゆる歴史映画。が、ここでのアン女王は政治史というより、むしろ文化史のデコラティヴなイメージだろう。
 百合モノの歴史映画の傑作『マリー・アントワネットに別れをつげて』は、不潔で野蛮な前近代という唯物史観に立ち、主題論における《近代》のはじまりと物語における百合を結着させたが、その7年後、同様の主題でさらなる傑作が現れた。
 不潔で野蛮な前近代で明白になるのは、つねに下に立つものが強いという権力の力学だ。女王は暗愚で、女中は饒舌。貴族はガチョウを崇拝する。そして、無知な女王が最大の権力をもつ。策謀を巡らせるのは、あくまでその下の女官たちだ。仰瞰のアングル、魚眼のレンズを多用するショットと、バロック調の劇伴がその雰囲気を増す。
 しかし、終章で合理性、古典経済学的な秩序が浸透する。ウサギは踏みつけにされ、女官は拝跪させられる。それは近代の始まり、前近代の終わりだ。そこには《愛》がない。そこまでシニカルで皮肉な態度をとってきたのに、終章でいきなり直接的、メッセージ的に《愛》を問いただして観客を面喰わせるのは、監督の前作『ロブスター』と同じ。


佐藤卓哉『フラグタイム

 傑作。
 2014-5年、秋田書店はなにかの試みがあったらしく、『フラグタイム』全2巻と『花と嘘とマコト』という2作の百合の良作を発刊した。そのうちの、さとのマンガが原作になっている。
 佐藤卓哉らしい、コンポジションの整った画面構成に、説明を省略したカッティング、効果の計算された音響(ナレーションの有無を含む)で、見事な映画に仕上がっている。何より、佳作だった原作からもうひと押しし、まさかの選曲である、エンディング曲の、いわゆるJ-POPの『fragile』が完璧なタイミングで流れる。これほど完璧なエンディングの入りは、タランティーノや、ダグ・リーマンの監督作品で見られるくらいだ。佐藤卓哉がいかに映画というものを理解しているか、いくら称賛しても、し尽くすことはできない。
 上映期間中に、制作会社が倒産するという珍事がおきた。

・その他

・ソシャゲー
 『ドールズフロントライン』の百合ゲー『Va-11 Hall-A』とのコラボイベントで、コラボイベントにもかかわらず、シナリオの完成度が驚くほど高かった。べつに百合要素はあまりないのだが、一応。