戦争は黛冬優子の顔をしていない

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「戦争は黛冬優子の顔をしていない」略解


 ソーシャルゲームアイドルマスター シャイニーカラーズ』の黛冬優子の性格分析を行う。また、その人物造形と、ソーシャルゲームというメディアの関係を分析する。

 無論、ここにおける冬優子の性格とは、ただ二面性があるということではない。むしろ、複雑なのは、表面的な人物像を演じる性格のほうだ。
 冬優子の描写は野心家であることを強調しつつ、頻々に不安感や孤独感を表す。
 つまり、非現実的なまでに高い目標を掲げながら、きわめて現実主義的な自己評価をしている。自信家でありながら、つねに小心翼々としている。

 この両義性につき、ファンダムはおおむね2つの解釈をしている。

 第1は、ゲーム『アマガミ』の絢辻詞の人物造形だ。絢辻詞は表面的には仮面優等生で、その裏面を知ると、裏番長として振舞ってくる。しかし、その裏面も半ば演技的で、半面的なものであり、「スキBEST」エンド(恋愛シミュレーションゲーム一般におけるトゥルーエンド)では、自然体を見せる。この3面は「私」「あたし」「わたし」という一人称の区別で明確にされている。
 冬優子の人物造形につき、この構造を援用することはおおむね妥当だろう。なお、これにつき、冬優子が『W.I.N.G編』の敗退と、シーズン3『諦めたくないものはひとつだけ』共通で、例外的に「私」という一人称を使用していることを指摘できる。
 しかし、『アマガミ』では、絢辻詞が「わたし」という自然体を見せたところが結末になっている。従って、『シャイニーカラーズ』のシナリオとは物語構造が大きく異なる。よって、単純な援用はできない。『アマガミ』は、冬優子の性格分析を終えたあと、あらためて比較論として触れる。

 第2は、目標が一般的で、人格に多面性がある、いわゆる「普通の人間」だ。
 一般的な目標とは、富と名声だ。これに関し、他のキャラクターの目標が、ここまで平均一般的でないことを比較する。ただし、冬優子はときに率直に、ときに露悪的に、声価を求めると同時に、アイドルという職業の理想像を追求している。
 行動原理の一般性と、人格の多面性をもって、冬優子の性格を定義することはおおむね妥当だろう。しかし、この定義は範囲が広すぎ、個別具体性を欠く。よって、さらに詳細に性格分析を行わなければならない。

 本論に入る。冬優子の性格分析を行う。まず、『W.I.N.G編』のシナリオを確認する。
 表情差分と背景につき、適宜、補足した。表情差分の定義は筆者による。あくまで便宜的なものだ。
 ノベルゲームでは、スクリプトにおける、背景の種類、キャラクター・グラフィックの有無と差分、効果音と音楽の再生は、基本的に、シナリオライターがシナリオで指定する。少なくとも、表情差分はシナリオで決定していなければならない。よって、シナリオを確認する際は、表情差分への注意が必要だ。

・シーズン1『ワンダフルドリーミィデイズ』

冬優子(笑顔)「そうだ、プロデューサーさん/ふゆからも質問して、大丈夫ですか?」
「ん、なんだ?」
冬優子「プロデューサーさんは……」「ふゆは、どんなアイドルになれると思いますか?」

・色んな可能性がある
・一緒に探していこう
・冬優子が望むアイドルになろう

「冬優子はアイドルとして歩み始めただろう」「だからこれからもいろんな仕事を一緒にして/いろんな可能性を見つけていこう」
冬優子(瞑目)「ふゆの、可能性……」
冬優子(不安)「もし本当に……ふゆに可能性があったとして……/ふゆはまだ、間に合いますか?」

冬優子(平常)「一緒に……ですか?」
「ああ、俺は冬優子のプロデューサーだけど/ただ答えを言うだけが仕事じゃない」「色んな可能性を一緒に探して/冬優子がなりたい自分を見つけたいんだ」
冬優子(不安)「でも、プロデューサーさんに手伝ってもらうなんて……」
「いいや、それを見つけることで/冬優子はアイドルとしてもっと成長できると思うんだ」「だから、これも俺の仕事なんだよ」

「言っただろう、大事なのは冬優子の気持ちだって」
冬優子(瞑目)「ふゆが望む……/でも、それは……」
「どうした? 冬優子」
冬優子(苦笑)「もし、ですよ? もし……」「もしふゆのなりたい姿が/みんなの求めているものじゃなかったら……」
冬優子(不安)「ふゆは、どうすればいいんですか?」

・シーズン2『台本通りの茶番劇』

背景:楽屋
冬優子(瞑目・不安)「…………」
「冬優子、落ち込むことはない/緊張してただろうし、まだ仕事に不慣れなだけで――」
冬優子「……不慣れだから、本物の笑顔が作れないって?」
「え?」
冬優子(怒り)「何が本物の笑顔よ!/んなもん知らないわよ!」「こっちはちゃんと仕事してんのに/ワケわかんないこと言うなっての!」
「……ど、どうした?/いつもの冬優子らしくないぞ」
冬優子「何よ。いつものふゆって!/あんたがふゆの何を知ってんの!?」「ほんとの顔……ほんとの笑顔……/それのどこがいいの!」「ほんとのふゆを知ったら/みんな嫌いになるくせに!!」
「冬優子、落ち着け!」
冬優子(平常)「……あ……」
冬優子(挑発)「……はっ、どうしたの?/これがほんとのふゆ……だけど? お望みのね」
「冬優子……」
冬優子(悲しみ)「ほら、やっぱりそーゆー顔する/ほんとの顔なんて見せたら、みんなふゆを嫌いになるんだ」「……笑っちゃうわ」「ほら、/あんたも、ふゆに幻滅したでしょ?」

・今見せてるのは本当の冬優子か?
・アイドルの仕事はつまらなかったか?
・そうじゃないかと思ってた

冬優子(怒り)「そうだっつってんでしょ!/アイドルだって、ほんとはたいして興味ないの!」
「……そうか」「でも、アイドルに興味ないってその言葉、/冬優子が心から思っているものだとは思えないよ」
冬優子(不安)「っ……」
冬優子(怒り)「……とにかく! これがほんとのふゆだから!/ふゆがアイドルになるなんて、無理なのよ」
「……俺はそうは思わない」
冬優子(悲しみ)「……ふん/口だけならどうとでも言えるわよ」
背景:暗転
冬優子(名前のみ)「…………期待しちゃったの、バカみたい」

冬優子(怒り)「はあ? 何か関係あるわけ?」
冬優子(瞑目・不安)「…………/私は、別に……」
「冬優子は仕事の時、/いつも楽しそうにしているように見えた」
冬優子(怒り)「そりゃそうよ!/そういうふうにお芝居してたんだから」
冬優子(瞑目・不安)「あ~あ/アイドルなんて適当に笑ってればいいと思ったら」
冬優子(平常)「意外と面倒なのね/……もう、飽きちゃった」
「冬優子……」
冬優子(怒り)「な、なんなの、その眼は!」
「…………」
冬優子(名前のみ)「……もういい!/あんたなんて知らない!」

冬優子(悲しみ)「はっ……/何それ、負け惜しみのつもり?」
「……冬優子はいつも、/何を言われてもにこにこ笑ってるだけだっただろ」「でも、本当はもっと熱いものを内に秘めているんじゃないかって感じてたんだ」
冬優子(平常)「っ!」
「今の冬優子を見て……/冬優子の魅力に気づいたよ」「まっすぐに気持ちをぶつける姿勢とその目……/きっと冬優子の武器になる」
冬優子(困惑)「……はあ? 何それ/適当なことばっか並べないでよ!」
「適当なんかじゃない/俺は、本当に――」
冬優子(怒り)「うっさい!/ほんとのふゆに魅力なんてないんだから!」
冬優子(瞑目・不安)「だって……/こうでもしなかったら……ふゆは……」

・シーズン3『諦めたくないものはひとつだけ』

冬優子(平常)「ふゆは、さ。まぁ、今まで他人からどう見えるかを/ずーっと意識してたわけ」
冬優子(瞑目)「どうやったらもっと可愛いって思ってくれるか/もっとふゆをすごいって思ってもらえるかって」
冬優子(笑顔)「でも、アイドル始めてから……/他人から評価されることより、仕事をするのが楽しかった」
冬優子(瞑目・笑顔)「少しずつ仕事が大きくなっていって……/ちょっとずつ成長できてるって、実感みたいなのもあって」
冬優子(苦笑)「もしかしたら……/ふゆもキラキラできるかもしれないって、期待しちゃった」
冬優子(不安)「でも、本当のふゆは……/…………っ」
「冬優子、無理に話す必要はないんだ」
冬優子(瞑目)「……うっさい/お願いだから……今は黙って聞いて」
「……わかった」
冬優子(不安)「ふゆはね、/ほんとはいい子じゃないし……」
冬優子(瞑目・不安)「そんなの、隠そうとしても隠しきれるもんじゃない」
冬優子(苦笑)「結局あんたにもバレちゃった訳だし/じゃあいつもみたいに逃げようって」
冬優子(挑発)「でも、あんたに言われた言葉を思い出して/……逃げるのはやめた」
冬優子(瞑目)「そんで……考えた/ふゆはどんなアイドルになりたいのかって」
(冬優子(笑顔))「……そういえば、冬優子に聞いたっきりだったな」
冬優子(平常)「あの時ちゃんと答えられなかったけど/ふゆが本当になりたかったのはね……」
冬優子(真剣)「『これがふゆ』って、胸を張れるアイドル」
冬優子(不安)「だから……」
「…………」
冬優子(真剣)「あの……さ、プロデューサー」
「ああ……」
冬優子(不安)「私…………」「もう一回……アイドル、やりたい……!」

 

 説話論としては、冬優子が表面的な演技をやめ、プロデューサーに対し、高慢に接しつつ、ときに甘えてくることにより、ゲームとしての相互作用性(インタラクティヴィティ)と相俟み、冬優子を魅力的なものとすることが中心となる。
 では、強気でありつつ、ときに弱みを見せる、この冬優子の性格をどのように把握すればいいだろうか。
 無論、これはアキバ系サブカルチャーにおける遺制である、人物描写の記号の「ツンデレ」とは異なる。2020年現在における30代以上のひとびとに愛好された、「ツンデレ」という遺制は、物語における展開と、短気で情緒不安定な人物造形が合わさったものだ。なお、冬優子に関する物語と人物造形も、その定義に部分的に一致する。しかし、その遺制も、その遺制を愛好した、あるいは現在も愛好している30代以上のひとびとも、完全に無価値でどうでもいい。

 冬優子の性格を特徴づける構造は、自信家でありながら、自分を客観的に評価していることだ。
 冬優子はアイドルとして大成することを大言壮語していながら、自身と状況を正確に分析している。ゲームシステムと物語の要請で、冬優子は成功するため、自己評価は過小評価となる。事実、冬優子はアイドルという職業に高い理想があり、その理想を実現するために努力しているが、オーディション組ではなくスカウト組だ。つまり、プロデューサーにスカウトされるまで、アイドルになる意思決定はしなかった。
 とくにこの特徴が前景化するのは、シナリオイベント『Straylight.run()』と『ファン感謝祭編』だ。実力が優れ、また性格に表裏のない芹沢あさひに冬優子は遅れをとる。いわば「本物」であるあさひに羨望心と劣等感を覚えつつ、冬優子は事実関係を明確に認める。
 つまり、冬優子は苦悩する近代人、近代的自我の所有者だ。歴史上の人物の典型は「コルシカのチビ」だ。
 この意味で、冬優子は情緒不安定、つまり未熟どころか、老成している(直接的な関係はないが、ストレイライトのサポートイベントではときどきババ臭い)。

 この客観的な自己評価は、行動において、社会性として表れる。
 シーズン2『台本通りの茶番劇』の決定的な対立のあと、冬優子はプロデューサーが働きかけることなく、自ら復帰する。そのときの、理由の説明は"「仕事なんだから……当たり前でしょ」"だ。このとき、冬優子は自発的にアイドルという職業を続け、その理想像を追求することを決めている。そのため、半ば建前論だが、同時に、この説明は冬優子の価値観が表れている。
 この感情性と、それに由来する筋書きの、社会性による切断という物語は、SR『【ザ・冬優子イムズ】黛冬優子』のアイドルイベント『やる気の在庫には限りがあります』で、より簡単的確に展開している。
 なお、この物語はソーシャルゲームとして特異なものだ。このことは、冬優子の性格分析を終えたあと、作品論として分析する。
 言うまでもなく、冬優子の社会性はシナリオの事々で表れている。とくに、『ファン感謝祭編』では、台詞で明確に示される。次の台詞だ。
 "「文句じゃなくて常識って言いなさい/あんたたちに任せてたらとんでもないことになるんだから」"、"「……プロデューサーに確認してくるから/ふたりは先に進めてて、常識と良識の範囲内でね」"。
 プロデューサーに対し、冬優子が暴君として振舞うのは、公私の区別を付けているからだ。つまり、冬優子の暴君としての振舞いと社会性は、対立するどころか、むしろ調和している。
 実際、冬優子は暴君として振舞いながら、しばしばプロデューサーの反応を先読みする。これは、自分を客観的に評価していなければできないことだ。

 この性格をさらに分析するため、哲学を参照する。
 衒学趣味も修辞的な虚飾も避けたい。しかし、冬優子の性格は複雑で、また、その問題は現代的だ。従って、哲学を参照する必要がある。実際、noteには冬優子に関する多数の論評が投稿されていて、その多くが妥当だが、すべて完全ではない。

 表面的な振舞いをやめても、冬優子は半ば演技的に暴君を演じている。このことは、"「ほら、やっぱりそーゆー顔する/ほんとの顔なんて見せたら、みんなふゆを嫌いになるんだ」「……笑っちゃうわ」「ほら、/あんたも、ふゆに幻滅したでしょ?」"に対する"「今見せてるのは本当の冬優子か?」"という選択肢の台詞が、端的に示す。これは、図星を突くことで、もっとも冬優子を怒らせる選択肢だ。

 では、冬優子の自己同一性はなにをもって定義すればいいのか。ここにおける問題は、むしろ、自己同一性というものの不確実性だ。
 ジャン=ポール・サルトルは『存在と無』で、自己同一性というものは不確実だと指摘した。私たちの自己同一性の自認は、むしろ《私は私があるところのものであらぬ》というものだ(『存在と無』第1巻、p.212)。《私は私があるところのものである》と、即自存在として自己を構成しようとすることは、自己欺瞞に他ならない。同様に、《即自的にあらぬ》と言うなら、これも自己欺瞞だ。
 私たちは対自的に、自己を「私」として構成、認識する(同第2巻、p.178)。これはおおむね言語的なものだ(同前、p.289)。

 なお、このことに関し、サルトルは「実存的精神分析」を提唱する。ただ還元主義的に自己を分析すれば、無気力に陥る。"人間は一つの全体であって、一つの集合ではない。"(同第3巻、p.348)。「実存的精神分析」とは、性欲や権力意志といったものに心理を還元することではなく、より根本的に自己を考察することだ。"各々の人格が自己の何であるかを自己自身に告げ知らせるときの、主観的な選択を、厳密に客観的な形のもとで、明るみに出すための一つの方法"だ(同前、p.362)。
 これは、プロデューサーが、ビジネスにおける目標設定として、各キャラクターと行っていることだ。
 逆に、プロデューサーがこのことをキャラクターと相談せず、キャラクターが無断でアイドルの仕事を実行しようとする、あるいはプロデューサーがキャラクターにアイドルの仕事を強制しようとするシナリオは低質だ。この傾向はユニット毎に顕著で、電撃オンラインとファミ通のアンケートで、アンティーカのコミュは全体的に不人気だ。

 ジル・ドゥルーズは、この不確実な自己同一性について、『カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について』で、より詳細に分析した。
 4つの引用は、以下のとおりだ。

 "「〈時間〉の蝶番がはずれている……」──シェイクスピアハムレット』第一幕第五場"。
 "「〈私〉とは他者である……」──ランボー、一八七一年五月イザンバール宛て書簡、一八七一年五月十五日ドゥムニー宛て書簡。"
 "「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!……というのも、それらの法の性質はかくしてその内容について秘密を要求するからである」──カフカ万里の長城』"。
 "「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、あらゆる感覚の錯乱によって」──ランボー、前掲書簡。"。

 まず、ドゥルーズは、『ハムレット』の有名な台詞について、カント哲学以降の認識の転回を表現していると指摘する。つまり、人間が主観的な存在ではなくなったということだ。"Out of jointな時間、つまり蝶番のはずれた扉が意味しているのは、第一の偉大なカント的逆転である。すなわち、運動こそが時間に従属するのだ。時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうが運動を条件づけるのである。"(『批評と臨床』所収)。
 なお、この有名な台詞は、ハムレットが父親の亡霊から、叔父の謀殺と近親相姦の事実を知らされ、復讐を行わざるを得なくなったことを嘆くものだ。"The time is out of joint: O cursed spite,/That ever I was born to set it right!/Nay, come, let's go together.(この世の関節がはずれてしまった。ああ、何の因果だ。/それを正すために生まれてきたのか。/どうした、さあ、一緒に行こう。)"。
 次の、ランボーの有名な文句が、この評論の中心だ。日本語訳では分からないが、原文の"Je est un autre."における、英語におけるbe動詞の「est」は、三人称の活用だ。その修辞が、この文句を詩美的にし、有名にした。
 この文句を引用し、ドゥルーズはカント哲学以降の人間の主体性を説明する。

 "カントにとっては、反対に、〈私〉とは概念ではなく、すべての概念を伴う表象である。そして〈自我〉とは対象ではなく、すべての対象がまるでそれ自身の継起的諸状態の持続的変動に、そして瞬間におけるそのさまざまな度合いの無限の変調にそうするようにしてみずからを関係づけるところのものである。概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]ではなく変調[modulation]を構成するような〈私―自我〉関係によって二重化されているのである。"(同前)。
 "〈私〉がわれわれの実存を受動的で時間の中で変化する自己の実存として規定するとすれば、時間とは、精神がそれにしたがってみずからを触発するこの形式的関係、あるいはわれわれがその内部においてわれわれ自身によって触発される仕方のことである。時間とは、したがって、自己による自己の〈触発〉、あるいは少なくとも自己によって触発されることの形式的可能性として定義され得るだろう。"(同前)。

 つまり、ただの物質的な主体である自我が、「私」を規定する。時間は、その客観性に関係する基準だということだ。

 なお、残る2つの引用は、カントの『純粋理性批判』の他2つである、『実践理性批判』と『判断力批判』に対応するものだ。ドゥルーズは、美学論である『判断力批判』について、こうした強い理性を逆向きに活用するものだと論述し、本論を終える。

 つねに冷静なもう1人の自分が囁きつづけるために、使命に没頭することができない。そのために懊悩する。使命は、ハムレットの場合は復讐で、冬優子の場合はトップアイドルになることだ。しかし、その懊悩が、両者を魅力的な人物にしている。

 この性格分析に関連して、人物評価を行う。
 また、ここでもドゥルーズを参照する。
 ドゥルーズは、こうした性格を正当なものだと考える。『ニーチェ』では、主体性の理想を"意志を二分化し、活動し抑制する能力が要求される、自由意志をもった中立的主体"(『ニーチェ』、p.60)と明確に定義する。

 冬優子の本質的な性格は、悲観的で内向的だ。そのことはSSR『【オ♥フ♥レ♥コ】黛冬優子』のアイドルイベント『静寂の頃はまだ遠く』で示されている。そのため、冬優子の行動はおおむね自己を客観視していて、謙抑的なものになる。しかし、同時に冬優子は無気力に陥ることなく、実力を出そうとする。これこそ、前述の主体性の理想だ。

 また、この性格は理性にも関係する。ドゥルーズは『差異と反復』で、現代における哲学の必要性を述べる。それは、現代の世界は見せかけ(シミュラクル)の世界であるために、現代思想は表象=再現前化(ルプレザンタシオン)の下で作用するすべての威力の発見から生まれるということだ。
 ドゥルーズによれば、愚劣・悪意・狂気は誤謬に還元できない。なぜなら、愚劣=獣並み=馬鹿(ベティール)は、動物の本質ではない。そう罵倒しても、批判は、最終的に普遍的な背景=基底(フォン)に到着するだけだ(『差異と反復』、上巻、p.398)。これはまったく不毛だ。
 蓮實重彦は、『凡庸な芸術家の肖像』で、この議論をより具体化する。

 "凡庸さとは、才能の不在とは根本的に異質の、より積極的な資質でなければならない。不在だの欠如だのといった否定的な言辞によってではなく、肯定的な言辞によって積極的に語られるべき過剰なる何ものか、それこそが凡庸さというものだ。"(『凡庸な芸術家の肖像』、上巻、p.143)

 これに対し、判断の性質としての「常識(サンス・コマン)」と「良識(ポン・サンス)」は、自己を分与する配分として表象=再現前化(ルプレザンタシオン)される(『差異と反復』、上巻、p.73)。自己を分割するのではなく、自己を無批判に当然のものとし、自己の領有する空間を分割しようとすることが愚劣さだ。
 蓮實重彦の前掲書を引用すれば、こうなる。"凡庸さとは……前言語的な距離と方向の計測者的な役割への確信として露呈するもの"(『凡庸な芸術家の肖像』、上巻、p.126)だ。

 この自己を客観視する理性が、冬優子の社会性を構築している。冬優子は女性語で喋るが、まず女性語は文語だ。
 逆に、自己を自明視する愚劣さが、社会との軋轢を発生させ、「個性」と称されることになる。つまり、冬優子の社会性は「個性」の欠如でもある。このことのソーシャルゲームとしての特異さは、前述のとおり、作品論において分析する。

 性格分析の最後に、作中の冬優子における目標設定を確認する。
 冬優子の目標設定は、『W.I.N.G編』で述べられた。"「あの時ちゃんと答えられなかったけど/ふゆが本当になりたかったのはね……」「『これがふゆ』って、胸を張れるアイドル」"だ。
 より具体的には、どういうものか。
 『【オ♥フ♥レ♥コ】黛冬優子』の「True End」『今、ここにある光の色は』を参照する。

"冬優子(マスク・平常)「……アニメに漫画、ゲームに映画にドラマに、音楽……」
「?」
冬優子「……今ってさ、/追っかけきれないくらい面白いものがあって……」「しかも、スマホがあれば簡単に見れちゃうじゃない?」
「確かに、スマホでドラマとか観ること増えたな」
冬優子「うん、最新のとかも観られるし便利よね」
「ああ、じわじわ話題になったのも、/後から気軽に観られるからな」
冬優子「…………」「……それに比べて、アイドルの応援って大変よね/現場まで行かないといけないし、お金もかかるし」「あと、グッズが欲しけりゃ朝一番から並んで、/っていうかそもそもチケットも取れなかったりして……」
冬優子(マスク・怒り)「ふゆだって、アニメのイベント、/チケット取れなくてブチ切れたことあるし」「なんなのよほんと/ご用意しなさいよ」
「はは……」
(冬優子(マスク・瞑目))冬優子(マスク・平常)「……でもさ、いざふゆがそうやって、/色んな大変なことをしてもらう側の立場になると……」「――ほんとにふゆに、/そんな価値があるのかなって、思っちゃう」
「冬優子……?」
(冬優子(視線の揺らぎ))冬優子(マスク・平常)「頑張ってチケット取ってもらって、/お金使ってもらって、現場まで来てもらって――」
冬優子(マスク・瞑目)「……それでふゆを見て、/苦労は無駄じゃなかったって、そう思っておもらえてるのかな」
冬優子(マスク・不安)「こんなにいっぱい、楽しいものがある中で……」
冬優子(マスク・瞑目・不安)「…………なんて、考えちゃってた」
「…………」「俺がファンの気持ちを代弁することはできない」冬優子(マスク・平常)「……けど……/きっと、冬優子の気持ちは……」"

 ここで冬優子の述べる社会不安は、ヴァルター・ベンヤミンが20世紀前半に『複製技術時代の芸術』で予測したものだ。
 ベンヤミンは、ある芸術作品が、多人数が称賛することで物神化することを批判し、工業製品のように大量に複製できる芸術を評価した。
 ベンヤミンの予測は妥当だった。アイドルがその批判の代表的なものだ。シャーウィン・ローゼンは論文『スーパースターの経済学』で、録音技術の発達で、需要が激増し、かえってそのことで所得が「スーパースター」に偏ることを分析した(Sherwin Rosen『The Economics of Superstars』)。
 冬優子は理性が強すぎるために、その複雑化した状況に社会不安を覚える。アイドルという職業の理想像を実現し、この社会不安を解消することが、冬優子の目標設定だと言えるだろう。

 以上で冬優子の性格分析を終える。以下、『シャイニーカラーズ』の作品論を行う。

 まず、予告した『アマガミ』の比較論を行う。ここまでの冬優子の性格分析は、おおむね絢辻詞の性格分析に援用できるだろう。ただし、絢辻詞の場合は、暴君的な振舞いをせず、自然体でいられるほどの信頼関係を構築したところで、作品そのものが結末を迎える。そのため、この人間不信の強さに関し、姉の日陰者である家庭環境という物語的、感情的な理由が明示されている(冬優子は家庭環境は良好だ)。

 冬優子の人物造形はソーシャルゲームとして特異なものだ。なぜなら、社会性があり、その意味で「個性」が欠如することは、ソーシャルゲームに必要なキャラクター性が欠如することだからだ。
 その特異さが端的に表れているのが『やる気の在庫には限りがあります』だ。冬優子は感情的な振舞いをするが、責任論をもって、独自に解決する。『シャイニーカラーズ』の通常のイベントでは、この感情的な振舞いに対し、キャラクターの「個性」に合致した選択肢を選ぶことがゲームとしての相互作用性(インタラクティヴィティ)になる。どこまでシナリオライターが意図したかは不明だが、これは『シャイニーカラーズ』、ひいてはアイドル育成シミュレーションゲーム、また恋愛シミュレーションゲーム一般への皮肉になっている。実際、このコミュの力点は、そうした定型からの逸脱で、その意外な展開のために物語が構成され、その点を除けば冬優子の他のコミュより低質だ。
 無論、冬優子の人物造形とシナリオを『シャイニーカラーズ』、またソーシャルゲーム全般の例外だと僭称するつもりはない。例えば、『シャイニーカラーズ』の全キャラクターの中でもっとも依存心の強い大崎甜花でさえ、一定の社会性を持つ。
 しかし、シナリオライターがキャラクターの「個性」を無批判に当然のものだとし、怠慢になるとき、シナリオは大きく低質化するだろう。その結果は、明確に表れている。
 必要なものは、アイロニーだ。ジェルジ・ルカーチの『小説の理論』によれば、散文の文学である小説は、アイロニーによって、叙事詩から分かたれる。

 ストレイライトのユニット名は、そのままウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』から採題している。サイバーパンクというジャンルは定義が広すぎ、また、分派による内部対立がある。そのため、ここではギブスンとブルース・スターリングという2人の作家を、参照元として特定すべきだろう。両者の作品は、後期資本主義と、いわゆるポストモダニズムと密接な関係がある。詳しくは、ラリー・マキャフリー編『フィクションの現況』(『コロンビア大学文学史』所収)、同著『アヴァン・ポップ』、巽孝之著『サイバーパンクアメリカ』による。ちなみに、巽はギブスンの作歴を第1期の電脳空間三部作『ニューロマンサー』、『カウント・ゼロ』、『モナリザ・オーヴァドライヴ』、第2期の『ディファレンス・エンジン』、第3期の『ヴァーチャル・ライト』、『あいどる』に分類する。そして、90年代である第3期の作品が、もっとも世界観が現実に近いが、ギブスンは『あいどる』で日本の「アイドル(IDORU)」を"主観的欲求の集合体、統合された"憧れ"のアーキテクチャー"と指示する。

 いわゆるポストモダニズムの批判に先鞭をつけたのはカール・マルクスだ。市場経済市民社会、資本主義と自由民主主義の効用(ベネフィット)を理論化した代表的な論者がイマヌエル・カントアダム・スミスで、その犠牲(コスト)を理論化した代表的な論者がフリードリヒ・ニーチェカール・マルクスだ。ニーチェの警句はよく知られるところだ。テリー・イーグルトンは『ポストモダニズムの幻想』で、マルクスは修辞技法としてもっとも皮肉を好んだと指摘する(p.89)。

 ウンベルト・エーコは『記号論1』『記号論2』という記号論の教科書的著作を著した。そのエーコのフィクションに関する記号論、テクスト論の代表作が『物語における読者』だ。これによれば、作品は作者-作品の二項間で成立するわけではない。作者-作品-読者の三項間で成立する。また、ドゥルーズは『シネマ1』で、ヒッチコックを、監督-映画の二項間から、監督-映画-観客の三項間の関係に映画の文法を変えたとして評価する。
 冬優子がプロデューサーの反応を先読みするとき、シナリオライターもプレイヤーの反応を先読みしている。こうした意識のないシナリオライターによるコミュは退屈だ。
 サルトルは『文学とは何か』で、以下のように述べた。すべての文学は本を開くことを前提としているために、読者を信頼している。よって、「暗黒の文学」など存在しない。ただ悪い小説(読者に媚びた小説)と良い小説(読者への信頼と要求の小説)があるだけだ(『文学とは何か』、p.88)。

『Straylight.run() 』

・第5話『FALSE』

"あさひ(笑顔)「いつもの愛依ちゃんから何か変えなくても、/すごいパフォーマンスができれば、ファンは増えるっすよ!」「だから愛依ちゃんは大丈夫っす!」
(あさひ・OFF)冬優子(真剣)「――……」
冬優子(瞑目)「……もちろん、/そういうふうに上手くいくのが一番だけど――」
冬優子(苦笑)「アイドルだもん、ファンサも大事にする必要があると思うの/愛される努力は忘れちゃダメっていうか……」
あさひ(平常)「?/そのままの自分を好きになってもらうんじゃダメなんすか?」
冬優子(怒り)「……っ」
(冬優子・OFF)あさひ(平常)「別に、嘘をつかないと好きになってもらえない/ってわけじゃないっすよね?」
あさひ(笑顔)「だったら、好きになってもらえるように無理するんじゃなくて」
あさひ(平常)「無理しなくても好きになってもらえるのが/一番なんじゃないんすか?」
(あさひ・OFF)
冬優子(怒り)「……」
冬優子(苦笑)「……あさひちゃん、すごいな/ちょっとうらやましくなっちゃう」
冬優子(瞑目)「あさひちゃんの考え方は、まっすぐだと思うよ」
冬優子(笑顔)「……でもね/あさひちゃんにはわからないかもしれないけど」
冬優子(真剣)「誰でも、あさひちゃんみたいに振る舞えるわけじゃないの」
冬優子(苦笑)「……みんながあさひちゃんみたいに/強いわけじゃないんだよ」
(冬優子・OFF)あさひ(平常)「……そんなわけないっす」
(あさひ・OFF)冬優子(苦笑)「だから、あさひちゃんには――」
(冬優子・OFF)あさひ(怒り)「そんなわけないっすよ!/だって――」
あさひ(真剣)「たくさん我慢できる人は強い人っす」「……違うっすか?」
(あさひ・OFF)冬優子(真剣)「……」
あさひ(真剣)(台詞なし)
冬優子「……ふゆは違うと思う」」
(冬優子(瞑目・不安))あさひ「……」
あさひ(瞑目)「そうっすか/じゃあ、間違えたっす」
《あさひ&冬優子》「……」"

 

 冬優子が、自分はあさひのように強くないと言うのに対し、あさひは"「たくさん我慢できる人は強い人っす」"と返す。『シャイニーカラーズ』全編でも、屈指の名台詞だ。
 この皮肉と逆説がアイロニーだ。
 文学の典型であるシェイクスピアの戯曲の台詞も、皮肉と逆説に満ちている。
 サルトルフローベール論である『家の馬鹿息子』で、文学とは何かを述べる。文学が始まるのは、(意味作用を保持しつつ)分節化できないものを現前化させようとするときだ。読者は意味=物語を読むが、芸術家は意味を非-意味に保つ。そのとき、非本質的・直接的な意味作用が総合すると同時に、本質的なさらなる意味が現実化する(『家の馬鹿息子』、第4巻、p.233)。
 これに対し、自身の愚鈍さに気づかない愚鈍さ、この二重の愚鈍さこそが、アイロニーの欠けたものだ(同、第1巻、p.660)。
 ドゥルーズも同様に、愚劣さに対する文学の有用性を指摘する。最悪の文学は、名言集の代わりに愚言集を作るが、最良の文学は、愚劣の問題に取りつき、現実をそのまま再現しようとする(『差異と反復』、上巻、p.402)。その代表例がフローベールだ。

 つまり、問題は「本物」かどうかではなく、偽物が偽物として、いかに「本物」らしくあるかということだ。

 しかし、ソーシャルゲームの場合、シナリオライターは「本物」であればそれでいいという怠慢に陥りやすい。
 ソーシャルゲームフリーミアムのビジネスモデルだ。このプラットフォームビジネスは、ネットワーク効果とクリティカル・マスの2点に依存する。この場合、キャラクターは簡単で記号的なほうがいいとすら言えるかもしれない。田中辰雄・山口真一の『ソーシャルゲームのビジネスモデル』は、社会調査から、やはりネットワーク効果が課金行動に関する多変量解析で最大の因子であることを分析する(p.133)。これに関し、「キャラクター」の因子は、重回帰分析で、課金額に相関係数-0.096(p値0.01)、週当たりプレイ時間に相関係数-0.914(p値0.01)で、むしろ負の相関をしていることを分析した(p.85)。これは、「キャラクター」の説明変数は、全回答者でほぼ変わりがなく、他の説明変数の影響を受けるからだ。

 なお、あさひは冬優子とは真逆で、社会性を欠く本物だが、その場合、社会には居場所がないことを、シナリオライターSSR『【空と青とアイツ】芹沢あさひ』の「True End」『(見つけような)』で暗喩している。また、この問題が『ファン感謝祭編』の主題だ。

"『かっこよかったです』
『すっごく可愛かったです』
(『この子、性格悪そう』)

(冬優子(笑顔))(……これはやめよう、違うのを……)
冬優子(平常)「……あんた今、何見たの?」
「い、いや別に――」
(冬優子(怒り))「……あっ」
冬優子「どれ見てたのよ……/……………………」
「冬優子、意見を必要以上に気にすることは……」
冬優子(挑発)「――はっ/これ書いたやつ、大正解じゃない」
「…………」
冬優子「ふゆはね、こいつの言う通り性格が悪いの/そんなのわかりきってるわよ」
冬優子(怒り)「『性格悪そう』って思われてるなら思わせとけばいいわ/……『性格悪い』とこ、ふゆは絶対見せてやんないから」
冬優子(挑発)「作り物みたいにきらきらで、完璧なアイドル……/ふゆは、最後までそれしか見せてやんないんだからね」「だから、あんたも協力してよね」
「……ああ/一緒に冬優子を、最高のアイドルにしよう」"(『【オ♥フ♥レ♥コ】黛冬優子』、『#EGOIST』)

  ジャン=リュック・ゴダールは『映画とその分身――アルフレッド・ヒッチコック『間違えられた男』』で、ヒッチコックの映画の筋書きは、偽物が本物になるものだと論述した(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』所収)。この見方はまったく正当だろう。

"現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。『はなればなれに』でゴダールはいっていたものだ。「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが、映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ」。引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは、変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。われわれはしばしば、映画的幻覚の性質について問うてきた。世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である(ただし悪質であることをやめるときに)。"(『シネマ2』、pp.239-40)

 

追記:和泉愛依について。その人物造形については多言を要さない。黛冬優子は名前に人物造形が象徴されている。愛依もその例だと仮定する。では、「和泉」という名字はなにを象徴するのか。ロラン・バルトは『恋愛のディスクール』で、恋愛の構造を分析する。恋愛は経済合理性に対する不合理な消費だ。そして、消費が続くとき、そこに豊かさが存在する。いわば、無償だということが、愛の本質だ。同様の指摘はバタイユ以降、多数の論者がしている。さて、バルトはここでウィリアム・ブレイクの詩を引用する。"豊かさとは美である。貯水槽は水を溜めるが、泉は水を溢れさせる。"(『恋愛のディスクール』所収、『消費……豊かさ』)。これが愛依の名字の象徴するものだ。愛依に対し、本論で述べたとおり、冬優子は苦労性で、良く言って客観的、悪く言って打算的な物の見方をする。この対比は、とくにシナリオイベント『WorldEnd:BreakDown』で前景化している。