2022年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035

 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 

 去年、まさか4年も続けるとは思わなかったと書いたが、5年も続けるとはなおさら思わなかった。というか、去年、記事を書いたときは本当に終わらせるつもりだったが、せっかく毎日びっしりと手書きの日記をつけているから、要録しておく。

 最初のシリーズ記事を書いてから5年だが、今年から30代になり、暗い気持ちになる。もはや30代になれば、生活に大きな変化はなく、また変化を起こしたくもなく、規則正しい日々が続くだけということが分かる。私の几帳面さが、私の人生のすべてを規定している。が、それほど悲観はしていない。私と同様に几帳面な性格で、人生を楽しんでいるひとも多くいるからだ。アバター動画配信者のリゼ・ヘルエスタ皇女や、《リンカーン・ライム》シリーズの連続殺人犯ウォッチメイカー(※)だ。

(※"知ってたか。”几帳面(メティキュラス)”って言葉は、”おびえる”という意味のラテン語”メティキュロサス”から来てるんだ。”、”ウォッチメイカーの善と悪という言葉の定義は、ほかの人々のそれとは違っていた。善は心理的刺激。悪は退屈。善は優美な計画とその完璧な実行。悪は隙だらけの計画あるいは不注意に実行された計画。”(『ウォッチメイカー』))

 

・マンガ

 去年までの記事で既掲の作品の続刊は、原則として省略。

 2021年度の新刊のベストで、百合要素のあるものに熊倉献『ブランクスペース』があるが、百合マンガというほどには百合要素の比重がないため除外。

 さすがに三十路になって、「ユリ-リリィがあるから『忍者と極道』は百合マンガ!」などと言うのは廉恥心がなさすぎる。しかし、『忍者と極道』のユリ-リリィは素晴らしい百合だ。

 選出した作品の数が例年に比べて少ないが、官僚主義的に数合わせすることはしない。

 

1.藤本タツキルックバック

 想像力についての話。つまり、自由意志と物質性についての話でもある。

 導入部における藤野の回想は、直前の描写とわずかに異なっており、物語が主部に入る以前、すでにここで想像力の主題が予示されている。

 分節化、すなわちモンタージュ理論、「偽なるつなぎ(フォ・ラコール)」を活用したコマ割りは『チェンソーマン』と通底する。また、自由意志と物質性の主題もそうだ。『チェンソーマン』ではデンジが認識を広げ、自由意志の裁量を拡大するたび、それが(あえて内外を区分すれば外的な)環境に規定されていることを知り、逆説的に不自由を感じる。デンジにおけるその連鎖の終端がマキマさんで、またマキマさんはその連環を一身に体現している。

 『ルックバック』ではその主題が想像力、具体的には芸術創造として物語化されている。よって、想像力がもたらすものは、きわめてささやかなものだ。

 そもそも、認知科学神経科学的に、想像力はまったく自由ではない。心理実験で空想上の動物を想像させると、ほぼ必ず動物の身体構造の原則に従ったものになる(Ward『Structured Imagination: The Role of Categoly Structure in Examplar Generation.』)。神話の変身譚は近いカテゴリー間で起こり、生物が無生物に変わったりはしない(Kelly, Keil『The more things change…: Metamorphoses and conceptual structure.』)。人間はカテゴリーからその対象について予期し、神話・伝承ではそれが破られるために記憶に残るものになるが、違反が2つ以上のものは決してない。それは、その時点で対象について予期できなくなるからだ。また、存在のカテゴリーの転化がもっとも長期記憶に残りやすく、そのため神話・伝承は変身譚が多く、ヴァリエーションが豊かだ(ボイヤー『神はなぜいるのか?』)。

 ついでに言えば、「想像力は自由だ」などと広言する人々の想像力はおよそ貧困なものだ。そうした人々のうちアキバ系サブカルチャーを趣味とするものはおおむねKey系列、麻枝准系列の作品が好きで、そうした作品は神話・伝承が大好きだ。要言すれば、それらのものは安易で直観的に受けいれやすいからだろう。

 では、そのささやかなもの、自由意志を物質性から分かつものとは何か。カント『判断力批判』はこれを厳密に定義している。

 哲学はあえて2つに区分できる。自然概念と自由概念、自然哲学と道徳哲学、結果の物理的可能性=必然性と意志によって実践的・可能的・必然的、技巧的・実践的と道徳的・実践的。しかし、人間とその意志さえ、自然の動機によって技巧的・実践的規則に従うかぎり、意志(※)も前者の区分に属する(原佑訳、所収『カント全集』第8巻、p.27)。(※快・不快の感情と欲求能力。これに対するものとして、認識能力(ア・プリオリな諸原理、すなわち判断力、理性、悟性))

 そして、完全性、すなわち形式的な客観的合目的性というものは矛盾であり、人間は形式的な主観的合目的性に快・美感を覚え(p.57)、構想力の絶対的な総括は不可能であり、人間は構想力の総括に崇高を感じる(p.143)。

 カントの美学論を、非-実用的な象牙の塔の論考だと思っているひともいるかもしれないが、それは誤解だ。カントはジャンル・フィクションのマニアだ。

 "しかし他方、二つないしはそれ以上の経験的な異質な諸自然法則がそれらの諸自然法則を包括する一つの原理のもとで合一することが発見されると、それはきわめていちじるしい快の、しばしばそのうえ讃嘆の、たとえその対象が十分熟知されていても、やむことのない讃嘆の根拠となる。"(p.49)

 つまり、カントは推理小説のマニアだ。また、ただの諸知覚と普遍的な自然概念=カテゴリーに従う法則との合致は無味乾燥なものだと言い(p.49)、純粋な知性に美感的表象様式はないと言っている(p.165)ことから、推理小説サブジャンルであるパズラーについても造詣が深く、優れたフーダニットについて一家言あることが分かる(ただロジックの手順を増やしただけのフーダニットは、煩雑なばかりでむしろ退屈だ)。

 驚嘆は表象とそれによって与えられた規則と、すでに心にある諸原理が合一しないことの衝撃であり、讃嘆はその疑惑が消滅したにもかかわらず、つねに回帰する驚嘆だ(p.258)。無論、これは幻想的な謎とハウダニット、謎解きのどんでん返しのことだ。

 いわゆる後期クイーン的問題や「操り」問題は、芸術家そのものの問題(芸術によって他人の自由意志を操ることは正当化できるか)にも通じるが、謎解きや芸術による影響がカント主義的なものだということは、その解決になるだろう。

 また、カントは崇高として、大きな数概念というより、大なる単位が尺度として、つまり数系列が短縮されて、構想力に与えられるときのことを例挙する。具体的には、男性の背丈を単位として樹木、樹木を単位として山岳、山岳を単位として地球、地球を単位として太陽系、太陽系を単位として銀河系、銀河系を単位として星雲、星雲を単位としてそれ以上の何か、というものだ(p.144)。つまり、カントはハードSFのマニアでもある。

 さらに、カントは力学的に崇高は恐怖とほぼ等しく、崇高は恐怖と(畏敬ではない)尊敬の合成だと言う。より詳細には、この卓越は人間性を卑下せず、私たちが気遣うもの、すなわち財産、健康、生命などを卑小にし、構想力を高揚させる(p.150)。つまり、カントはホラーのマニアでもある。

 この通り、カントの美学論は学術的に見えて実用的だ。一方、想像力を云々したり、オカルトや神話・伝承を引用したり、一般的には避ける性、暴力、違法薬物を採材したりして粉飾した作品は、難解に見せて安直だ。ナボコフの言う「クズ(トラッシュ)」。

 カントによれば、没情動性、すなわち無感動、粘液質は崇高であり、しばしば理性の適意を伴うために、より崇高、高貴だ。また、情動にも心を活化させるものがあり、絶望や怒りさえ、美感的に崇高だ。対照的に、心を不活化させるものは、高貴ではないが美しい。しかし、以下の通り。

 "後者(の感動)は、それが情動にまで高まるときには、全然何物にも役立ちえない。そうした感動への性癖は感傷癖と呼ばれる。"(p.165)

 つまり、ゴミの情動だ。

 "すべての美的芸術における本質的なものは感覚の実質(魅力ないし感動)にあるのではないのであって、この場合にはたんに享受がめざされており、この享受は何ものをも理念というかたちでは残さず、精神を鈍らせ、その対象に対してしだいに嘔吐をもよおさせ、理性の判断において反目的的なその気分を意識することによって、心をおのれ自身に対して不満ならしめ不機嫌ならしめる。”、”そうした美的芸術を利用するほど、ますますこの気散じを必要とし、かくして、人はおのれをますます無益な、おのれ自身に対してますます不満なものにならしめることになる。”(p.242)

 『ルックバック』の抑制的な筆致も、この美学に即したものだ。

1.町田とし子『交換漫画日記』全2巻

 メタ-フィクション百合マンガ。

 高校生のアイコとユーカがリレー形式でマンガを描いていて、その作中作が作品の合間に挟まるメタ-フィクショナルな形式をとる。第三者の存在によって2人の関係は変わってゆき、それは楽園だった作中作の世界に悪魔が侵入することも意味したのだった…

 アイコはユーカより現実的に物事を見ているが、それはかならずしも有用ではなく、思考は暴力的な方向に行きがちで、また人間の欠点や誤ちを良いものとして捉えることができない。それは作風にも表れ、アイコが担当する部分は物語が暴力的なものになりがちだ。

 アイコが泣きながらページに消しゴムをかけて、「どうして私はこんなものしか描けないんだろう」と独白するところは、不覚にも心が震えてしまった。

 というわけで、こんなひとにオススメ。

①暴力や権謀術数を第一に考えるため、人間関係の葛藤や、いわゆる等身大の苦悩を描いたマンガを読んでもポカンとしてしまう。

カップルの形成や儀礼はセックスのための手続きであり省略できると思っている。

③日常を描いたコメディ漫画やラブコメ漫画より、スラップスティックなギャグ漫画やバトル漫画、ミステリー・ホラー漫画が好き。とくに、ラブコメ漫画を読むと居たたまれなくなる。(もっとも、SNSで「ラブコメ漫画」と呼ばれる作品、「○○さんは○○するようです」といった題名の作品は、ラブロマンスを描いてはいないし、コメディとして笑えもしないし、マンガというよりツイッター漫画だ)

1.なおいまい『ゆりでなる♡えすぽわーる』第3巻

 今年、記事を書くつもりがなかったため、第3巻収録分についても去年の記事で書いてしまっている。

 なおいまいは『コミックビーム』2022年2月号にも読切『乙女ゲームの悪役ライバル女子に転生したので、陰から推し(ヒロイン)を支えたいと思います!(仮)』を掲載。なおいまい先生が商業主義に魂を売ったわけではないので安心してください。

4.谷口菜津子『今夜すきやきだよ

 同居する独身都市生活者たち、いわゆるシェアハウスを通じて現代の文化・風俗を諷刺的に描くエッセイ漫画・エッセイ調のマンガは濫作のきらいがあるが、本作は語りが機知に富んでいて面白かった。

 ネタバレ感想:第1話のオチが「原始時代に生まれたかったな」(大意)で、最終的に問題の解決が「現代人だろ! 話し合え!」という発破で行われるのが、漫画賞の脚本賞ものだ。

5.U-temo『今日はまだフツーになれない

 オフビートなコメディが持味の作者の新作だが、作者がすでに中堅にもかかわらず、圧倒的に瑞々しい。

6.マシーナリーとも子『スシシスターハンター』(パイロット版)

 〈『スリーピー・ホロウ』(ドラマ版)のようなホラー・サスペンス×刑事ドラマ〉+〈『コンスタンティン』や『死霊館』シリーズのようなホラー×肉弾戦アクション〉+百合バディもの+寿司、というオタクが好きなものを全部盛った海鮮丼の「ばくだん」のような作品。ただ具の品数を足しただけでなく、それぞれのネタも一級品(刑事ドラマのキレのいい会話劇、ホラー・アクションの聖別された銃火器、寿司職人シスターと女刑事の凸凹コンビ)。

スシシスターハンター - ジャンプルーキー!

 

・小説

 

 年末にハヤカワ関係で騒動が起きたが、「だから言ったのに」(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/?page=1565437141)としか思えない。だいたい、「ソリューション」や「現実での利用」など、ギボンズが学術的なモード1に対するモード2として定義したもので、伝統的な反知性主義だ。予想通りでしかない。

 

1.新名智『虚魚

 精巧な懐中時計のような作品。

 知性派のホラーで実話怪談を題材にしている。

 ただ知的でプロットが巧妙だというだけでなく、怪異に川を紐づける、ホラーに関する底堅さもある(黒沢清だ)。

 実話怪談を主題にしているため、文章は淡白。

 

 ネタバレ感想:「本当は怪異なんてなかった」という知性派のホラーの定番オチを前提にして、そうして怪談を生みだす何物かを発見させる二段オチが見事。除霊シーンの伏線回収も熱い。「カナちゃん」という名前は偽名、創作された名前だが、それが真実になるということで、主題が通奏している。

1.アリスン・モントクレア(訳:山田久美子)『ロンドン謎解き結婚相談所』『王女に捧ぐ身辺調査

 会話文が8割だからコージー・ミステリーと言っていいのだろうが、終戦直後の結婚相談所に関する取材は入念で、堅固な内容がある。機知に富んだ会話も良い。

1.サリー・ルーニー(訳:山崎まどか)『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ

 言葉の持つ支配的な力に抗しつつ、それを操る試み。言葉を剣に置きかえれば、話者のおかれた状況はよく理解できるだろう。通俗的なことを言えば、ミレニアル世代、Z世代を、野次馬根性としか言いようのない風俗的なものへの興味ではなく、総体的に、真に記述している小説だ。

4.劉慈欣『三体Ⅲ 死神永生』上下

 まさか第三部で百合になるとは思わなかった。

 程心と艾AAのことは、はじめ他の登場人物と同じく、大河ドラマ狂言回しとだけ見ていたが、駐機場の場面で痺れた。『三体』で史強が「スパスパ作戦です!」と言いだしたときくらい痺れた。

 ちなみに、劉慈欣は短編『郷村教師』(所収『』)でもこの3つの課題というシチュエーションを使っていて、気に入っているらしい(『郷村教師』について野蛮すぎるという批判をするひともいるかもしれないが("「特異点爆弾、発射!」")、しかし傑作だ)。

 マシーナリーとも子・しげる・池谷の『三体』についての鼎談が面白い(『『三体』三部作が完結したのでマシーナリーとも子と「三体面白かったよね会」をやりました』)(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/05/news163.html)。

 時間の超-人間的なスケールに対し、そのものに一体感を抱くことで個人の卑小さを克服するという結末は、古典作品からハードSFまで伝統的なものだ。

 程心-艾AAの2人で結末を迎えることにならず残念だが、AAや史強はバイプレイヤーとしては活躍しても、人類の代表として生きのこることは一般読者にとって受けいれがたいという作者の計算によるものだろう。無論、明らかに好感の持てない雲天明は、序盤から再登場を予示しつつ、陰の立役者に留まる。代わりに、結末までに生きのこっている人類のうち、辛うじて好感の持てそうな関一帆が男性の代表になる。しかも、宇宙船の隠修士のような科学者だったはずの関が、なんかマッチョな農夫になっている。似たことは国連事務総長のセイについても言え、『三体Ⅱ』では加盟国の順送りで国連事務総長になっただけの冴えないオバサンで、そう見えてキレ者だったセイが、なんか美人だったことになっている。

 三部作を通して性的偏見がときどき悪目立ちするが、これは作風そのものが素朴で野蛮なためだ。現に、結末の手前でも程心-雲天明、AA-関一帆の恋愛関係が明記され、しかし人類の代表として生きのこるのは程と関で、人類と恋愛は明確に分けられている。

5.陸秋槎(訳:稲村文吾)『盟約の少女騎士

 人文主義的な抑制的な筆致。中世ファンタジーを謳っているが、作中の時代設定も近世だ。1400年頃、カロリング風の小文字体が変化したゴート風(ゴシック)書体に対し、印刷術の普及により、人文主義の書体が開発され、この楷書体がローマン体、草書体がイタリック体になった(レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』)。

 というわけで、「剣と魔法のファンタジー」らしくはない。それを期待すれば、『ロード・オブ・ザ・リング』を見にいったつもりで、ロベール・ブレッソンの『湖のランスロ』を見るようなことになるだろう。

 しかし、『湖のランスロ』は傑作だ。

 陸秋槎の長編は『元年春之祭』も『雪が白いとき、かつそのときに限り』も読後感が素晴らしかったが、本作も読後感が圧巻だった。

 

 ネタバレ感想:本作のトリック、結尾部で明かされる真実は『黙示録3174年』のものであり、そのため『黙示録3174年』を読んでいれば比較的容易に推理できるが、『黙示録3174年』ではそれが冒頭部で語られ、修道士の神学的懐疑、実存的不安に繋がるのに対し、本作では結尾部で明かされ、主人公である騎士の運命を運命論的に肯定するものになっていて、圧倒的な読後感をもたらしている。具体的には、終盤でのロータの命運と、その上でサラがひとりの騎士としてあることを再確認するところだ。まさに、個人が土地と血の宿命に束縛された封建制の騎士の物語として素晴らしかった。

6.林千早(訳:稲村文吾)『杣径』(所収『日華ミステリーアンソロジー』)

 傑作。逆-『ずっとお城で暮らしてる』というべき物語だが、「黒い森」を舞台にした正統なるゴシックな筆致、「黒い森の小さい家」というハイデガー哲学とその批判による主題、唖然とする大トリックと、かなり印象深い作品だ。

 

7.陸秋槎(訳:稲村文吾)『森とユートピア』(所収『日華ミステリーアンソロジー』)

 ネタバレ感想:ズバリ、叙述トリックなのだが、作中に横溢する近代文学への偏愛(作中で触れられる”あるアメリカ人の書いた小説“は『白鯨』ですね)とその植民地主義批判が、物語およびトリックと融合していて、完成されたものになっている。

 

 公正のために書いておくと、アンソロジーそのものは微妙。

 

・選外

 

・桃野雑派『老虎残夢』:

 中国の通俗小説である武侠小説とのジャンルミックスと言われているが、正確には、それをさらに通俗化した日本の伝奇小説とのジャンルミックス

 功夫の軽功(けいくん)を極めた武侠は、雪面に足跡を残すこともなく、それは「踏雪無痕」と呼ばれる――というナレーションのあとで、雪密室を展開する。アホすぎる(絶賛)。

 とはいえ、竜頭蛇尾で全体としては微妙。月村了衛が選評で主役2人が女性同性愛である意味がないと暴言を放ったが、本作が武侠小説というより、伝奇小説のパロディだということを鑑みれば、実際には、主人公が男性のほうが伝奇小説のパロディとして自然で効果的だったと言いたかったことは明らかだ。さすがに主人公の性別を変えろと言うのは横暴すぎるため迂言したら、意味不明な文言になったのだろう。

 

・逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』:

 良くも悪くもゼロ年代ラノベラノベへの戦記小説の埋込はゼロ年代ラノベの定石で(とくに『飛空士』シリーズ)、ラノベらしくなくして、ラノベ的な日常描写との対比で残虐性を強調するのも、対比的に主題性を強調するのもゼロ年代ラノベの定石。

 

・アニメ

 

 『ゾンビランドサガ』の第2期である『ゾンビランドサガ リベンジ』は残念だった。しかし、『ゾンビランド』に対する『ゾンビランド ダブルタップ』ほどは悪化していなかったと思えば諦めがつく。

 

京極尚彦監督『ラブライブ! スーパースター!!

 『ラブライブ!』シリーズも、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』を除いても5期目で、漫然と見ていたが(しかし撮影はやはり素晴らしい)、第4話の後半で急速に引きこまれた。すみれがセンターの座をめぐり既存のメンバーと衝突、そしてショービジネス云々という建前が崩れ、失意のもと彷徨するすみれに、かのんが名刺を差しだして「あなたをスカウトします」と言い、さらに「センターの座を奪いにきてよ」と言う。正直なところ、花田十輝の脚本でこうした重厚なシナリオが展開するとは思っていなかった。さらに第5-6話で、千砂都の依存と自立というかのんとの対立と緊張を高め、さらにダンス大会という明確な障害を提示したのちに、千砂都があえてダンス大会に出場し、優勝して、かのんと対等の関係を結ぶ。このころにはもう本作に完全に引きこまれていた。

 第7-9話ではなんか急にいつもの花田十輝のガバガバ脚本に戻る。

 

 第10話は圧巻だった。本話で本作の主題がはっきりと前景化される。しかも、予告ではギャグ回に見せるという周到さだ。本話の中核は、ここまででかのん-可可という組合せを強調していたのが、可可-すみれに変わる、いわば可可が「推し変」するというものだ。

 可可は中国人の学歴エリート(中華料理が作れないという下りで、現実的な留学生らしさはとくに明示している)らしい人物造形だが、それなら上海出身より北京出身というほうが自然だ。では、なぜ上海出身なのか。ただ首都を避けたと考えることもできる。だが、可可がオタクであることを考えると、むしろコスモポリタンであり、異邦人(アウトサイダー)という属性として中国人留学生という立場は働いていると言える。顧みれば、それは第1-3話で顕著だ。オタクは個人主義者で、さながら敬虔なキリスト教徒のように、信仰によって逆説的に中間団体を経由せず個我を保つ。

 かのんは穂乃果、千歌に続くオレンジ髪の主人公だ。『ラブライブ』シリーズでは他のキャラクターは志向性(目的と性格)を持ち、そのため目的達成に対する障害が生じ、それを克服する。一方、オレンジ髪の主人公はそれらの登場人物のオーガナイザー、総意の器であり、そのためオレンジ髪の主人公の目的は「ラブライブ優勝」など、つねに高度に観念的なものになる。すなわち、世界が主人公の障害となるのではなく、主人公の動機付けと一体的に世界が構築される。

 オレンジ髪でない主人公である侑は、ソシャゲーの無個性のプレイヤーキャラクター(「あなた」)から作中の登場人物に具体化した時点で、キャラクター性が独立し、音楽の才能を獲得し、自己実現を果たすという志向性を持つ。

 さて、かのんは一見してネガティブ、受身、常識的(やや外ハネのストレートヘアと、上瞼が水平のツリ目というキャラクターデザインに、とくにその人物造形は表れている)と、そうした自己確立の未達成と承認欲求を題材にしているようだが、その主題は第10話ですみれにおいて前景化する。そして、可可がいわばすみれに「推し変」すること、すみれを「推す」ことで、その葛藤は解消する。ここでの可可からすみれへの認知は、単純な好意ではなく、むしろ立場論を離れた、純粋な個人から個人への承認であり、それはオタク的な「推し」と呼べ、前述のアナロジーを敷衍すれば神義論的なものと呼べる。そのため、すみれの名前呼びに対して可可は「そんなことはどうでもいい」と返す。

 では、かのんについてはどうかと言えば、じつは作曲家として不安な自己確立をすでにアイデンティティにしている。付言すれば、その不安な自己確立というアイデンティティは、ジェフリー・アーネットが提起する成人形成期(emerging adulthood)に呼応し、同時代的なものだろう。アーネットによれば、18歳-20代後半の成人形成期は、寿命の伸長と知識集約型社会への移行による新しいライフステージで、21世紀の成人形成期は20世紀の思春期に相当する。成人形成期には自己確立、ナラティヴにより、いわば自分の人生の著者になることが課題となる。

 補論として、他のオレンジ髪の主人公についても確認しておく。穂乃果については論じるまでもないが、千歌については継承を志向している。劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』で、鞠莉は母親からスクールアイドルに何の意味があるのか尋ねられ、当然、観念上のものであるスクールアイドルに本質的な意味はなく、その暫定的な答えは他人が意味を感じていることだ。そして、中盤では千歌たち2年生ではなく1年生が立役者となり、自発的に継承を行う。千歌たち2年生は1年生と3年生の紐帯だ。そのため、千歌は「ゼロから始まった」と言う。これは神義論だ。無論、そのスクールアイドルはいわばホビーアニメにおける〈任意のホビー〉(「政界、財界、〈任意のホビー〉界を支配する巨悪」、「〈任意のホビー〉は人を傷つけるためのものじゃない!」)と同じで、観念的なものだが、そうして無から始まった物語の終わりとして、廃校の門が開いているところを見つけ、校内に侵入することを予期させつつ、その門を閉じる場面は見事だった。

 かのんは第11話で、いかにもナラティヴの手法らしく個人史を再構築する。そして、第12話で不安な自己確立というアイデンティティの根幹に、「ラブライブ優勝」という観念論を据える。これは神義論的なもののため不可謬だ。つまり、第12話でのラブライブ敗退とかのんの目標設定は、ヒトラーの挫折と再起と同じく、独裁者の誕生を描いたものなのだ(ヒトラーは再来ならぬ、高坂穂乃果の再来だ)。

佐藤卓哉監督『裏世界ピクニック

 全体的には原作を1話完結の形式に再構成し、予算規模に見合った手堅いものだった。だが、最終回としてアニメオリジナルで制作された第12話が素晴らしかった。ロングショットを多用し、また穏やかな場面では空魚と鳥子が並ぶバストショットを多く挟み(正座で小桜に叱られているカットが好例だ)、独特の静謐な雰囲気を形成している。そして、後半部を空魚と鳥子の対話に当てる。ここで流れる、ヴォーカルが際立つ挿入歌の『街を抜けて』が素晴らしい。やや彩度を暗くし、いままでの冒険の舞台の空撮を挟むのも終わりの寂寥感を演出している。過度に叙情的でもなく、やや哀愁を滲ませたセンチメンタルな情感が終わりとしてとても良かった。テレビシリーズの最終回というより、テレビゲームのクリア後のような雰囲気だ。『サイレントヒル』シリーズの1作をクリアしたような満足感があった。『街を抜けて』の劇伴には、『サイレントヒル2』のエンディングでサントラ『Promise』が流れたときのような余韻を感じた。

川面真也監督『のんのんびより のんすとっぷ』(第3期)

・京極義昭監督『ゆるキャンΔ SEASON2』(第2期)

 『日経トレンディ』2020年ヒット商品の第1位は『鬼滅の刃』だが、2021年ヒット商品予測の第17位は「『ゆるキャンΔ』第2次ブーム」だ。これはもう『ゆるキャンΔ』が百合アニメの『鬼滅の刃』だと言っていいだろう(ちなみに第5位はコオロギフード)。

・上田繁監督、大知慶一郎脚本『ゲキドル

 久しぶりに謎が謎を呼ぶ展開のアニメを見て、ドーパミンを分泌させることができた。やはりこうしたテレビシリーズ作品は年間1、2本は見たい。適宜、ドーパミンを分泌させることは精神衛生上、重要だし、シャブをやるよりは謎が謎を呼ぶ展開のアニメを見るほうが明らかに健康にいい。

 コメント欄で完全に反証されているが、『結局ゲキドルはどういう作品だったのか』というnote記事は分析が誤っているので参考にしてはならない。『『ゲキドル』全12話解説【伏線・考察】』(https://note.com/rabbitsecuhole/n/nbbbb60ad00c7)というnote記事の分析が、既出のものではもっとも整合性が高い。

・古川知宏監督『劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト

 評価が両義的だ。

 本作の演出は紛れもなくマニエリスティックなものだ。エヴァンズ『魔術の帝国』によれば、マニエリスム芸術は二元的な役割を持ち、それは遊戯的な外見に隠された真剣な形而上学的意図だ(下巻、p.48)。例として、ブリューゲルの特徴は知性優位のマニエリスムで、霊的、形而上学的に捉えられた全体と、細部のリアリズムの結合だ(p.64)。ルドルフ2世の寵を受けたアルチンボルドについては、カウフマン『綺想の帝国』が詳しい。さらに、ボヘミアでは1620年以降、マニエリスムからバロック(※ワイルドスクリ――ンバロックとは無関係)へと移行するが、これは貴族的カトリシズムと社会的リアリズムのイデオロギーというより、霊的・神秘的な要請で知が整序されることによることも付言していいだろう(p.81)。本作では、アルチンボルドの直接的な引用さえある。

 つまり、草野原々と難波優輝との対談で、テレビシリーズ『少女歌劇レヴュースタァライト』について草野原々が資本主義的だと評したが、劇場版についても、マニエリスティックな表現の半面は象徴主義的であり、資本主義的だ。その象徴はキャラクターの役割演技だ。

 しかも、それは遡及的にテレビシリーズでやっておくべきだったという感慨を抱かせるものだ。本作のクライマックスである華恋-ひかりのレヴューも、運命的な運命論という時間SFの自己言及的構造(ループ)による悲劇の形式化、そして、それによる時間SF的改変という、なかなか凝ったプロットだが、それもテレビシリーズで中盤に時間SFの話を挿入して、あとは放置したことの結構性の欠陥を強調してしまっている。

 しかし、そうした象徴主義との乖離が本作の面白さを構成している。

 皆殺しのレヴューでは、ロングショットで地下鉄が変形したのち、銀座の空撮と特殊効果、キリンのナレーションが挟まり、ふたたび地下鉄のシーンにカッティングし、香子ら7人を俯瞰のロングショットで捉え、そののちに劇中の大道具として具象化した照明の逆光のもと、ロングショットで大場ななを写す。さらに、大場ななのクローズアップを挟みつつ、香子ら7人と切返しのカッティングを行う。そして、アクション・シーンの開始とともに、主としてロングショットでドリーによる撮影を行う。そうして大場ななが地下鉄の車両の前部から後部に移動したのち、大場ななと香子が対話し、再度のアクション・シーンで大場ななが車両の前部へと戻る。ここでは2度の超-ロングショットの固定ショット(!)まで挟まるのだ。無論、これには一対多の殺陣を見せる意味合いもある。そして、大場ななが真矢とクロディーヌ以外のあらかたを始末し、本作のアスペクト比シネマスコープであることを利用し、フルショットによる固定ショットで、流れる背景に逆行して大場ななが左方向に歩き、道すがら淳那を屠るさまを映したのち、地下鉄が地上に露出した線路に乗りいれる。舞台背景の転換に加味して、ここで劇伴の『wi(l)d-screen baroque』に大場ななの口の動きが重なる盛りあげの演出も行われる。そして対話のシークエンスのち、地下鉄はふたたび地下に乗りいれ、大場ななは真矢とクロディーヌも始末する。

 さて、その後、淳那は「私たちは未成年」云々と言うが、これは大場なな(と真矢)への不理解を表したものではない。その場合、台詞はただ「何を言っているの」というものになるはずであり、「私たちは未成年」という徹底してズレた応答は、理解していないことを理解していないという二重の不理解を表している。

 そして、こうしたズレが本作のマニエリスティックな演出の面白さを形成している。事実、本作で印象的なシークエンスは、第1は断トツで皆殺しのレヴューであり、第2は怨みのレヴューのデコトラであり、第3は狩りのレヴューの後半で背景の大道具として具象化したバナナが分割しているところのはずだ。

・映画

・ザイダ・バリルート監督『TOVE トーベ

 いじめられっ子顔(マーティン・フリーマンとか)のアルマ・ポウスティが道徳と社会常識が欠如していて、自分にだけ通じる造語で話し、ときおり瞬間的に理性的になるトーベ・ヤンソンを好演している。
 本編を見ると、コンセプトアートの自由奔放といったダンスが劇中ではメチャクチャ悲壮なシーンで笑う。

・ゲーム

・『Fate/Grand Order』2部6章『円卓妖精領域 アヴァロン・ル・フェ 星の生まれる刻』

 "私の國はどうですか? 美しい國でしょうか。夢のような國でしょうか。そうであれば、これに勝る喜びはありません。妖精國ブリテンにようこそ、お客様。どうかこの風景が、いつまでも貴方の記憶に残りますように。"

 文庫本4冊分の分量があり、奈須きのこの完全な新作だと言える。サントラも名曲揃いで、とくに『予言の旅〜妖精円卓領域:巡礼』『トネリコ〜女王モルガン戦〜』が素晴らしい。

 大作化の原因はおそらく主題が反出生主義的なもののためだ。『進撃の巨人』と言い、『デス・ストランディング』と言い、この主題を扱うとストーリーにループものの要素を導入したりして、物語が叙事詩じみてくる傾向があるらしい。

 中心的な概念としては、妖精國がおとぎ話=童話(メルヘン)の国だということだ(奈須きのこは「竹箒日記」で妖精國を"童話世界"と言明)。具体的には、それは子供の国だということになる。

 ピアジェは子供の発達段階を感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期の4つに区分した。これは物理的環境に対する認知機能の発達だ。コールバーグはこれを発展させ、子供の道徳判断の発達段階を6つに区分した。

 前慣習的水準、慣習的水準、後慣習的水準の3つに大別し、それぞれ2段階に区分する。まずは前慣習的水準で、①罰と服従志向:「叱られなければ悪いことをしても良い」 ②道徳的相対主義:「彼は悪人だから彼から盗んでもいい」 次に慣習的水準に進み、③対人的同調・「よい子」志向:「両親や先生に褒められたいから良いことをする」 ④法と秩序の維持:「法律で決まっているからダメなものはダメ」 最後に後慣習的水準に至り、⑤社会契約的遵法:「その規則には合理性がある。だから守る」 ⑥普遍的な倫理的基準:メタ-規則を含め、すべての規則をつねに吟味する。

 道徳的、慣習的規則は生得的なものであり、役割取得し、他者視点を獲得することがなければ、後慣習的水準に至ることはできない。子供とは、生得的な能力だけで動物のままの人間のことだ。

 ホルクハイマー-アドルノは『啓蒙の弁証法』所収の『オデュッセウスあるいは神話と啓蒙』で、ルカーチ『小説の理論』の叙事詩から小説へという分析を発展させる。そして、逆説的に、ユートピアとは童話(メルヘン)が実現された状態だという。

 つまり、妖精國は童話(メルヘン)の国であり、それは子供の王国というアンチ-ユートピアだということだ。ファンのあいだでは「滅びろ妖精國」「妖精はクズ」と言われるが、端的に言えば、妖精が文字通りの子供だということだ。

 しかし同時に、人間はそうした子供、あるいは動物から進化した存在でもある。さらにその階梯を遡れば、生命が物質、あるいは無から発生したところまで行着く。そのため、子供の分析はひとを唯物主義、虚無主義に接近させる。

 キャスター・アルトリアにとって家族・社会はネガティヴな存在でしかなく、かつ、自己肯定感も低いために、それらを改革・打倒しようとする向社会性もない。その結果が「予言の子」で、これを通俗化すれば優等生になる。『進撃の巨人』のジークにおいては「エルディア人の王子」だ。そして、喜びがないにもかかわらず、動物的本能、とくに生存本能による苦痛はあるため、これが性格描写・主題論において反出生主義を暗示し、さらにプロットにおける装置により、それがストーリーにおいて、再生産のシステムとしての家族・社会を包含する、世界そのものの絶滅思想を提示する。

 そして、その絶滅思想は、その当事者(キャスター・アルトリア)と同様の独身都市生活者としての気質をもつ他の登場人物との連帯により否定される(春の記憶。逆に言えば、それ以外にはこの世界に価値はまったく存在しない)。より正確には、否定されるというより延期される。

 また、このように家族・社会に根ざさない、いわゆる原子化された存在だから、キャスター・アルトリアは自分が藤丸立香、あるいはプレイヤーと似たものだと言ったのだろう。このアイデンティティと連帯は藤丸立香、あるいはプレイヤーが現世界のために他の可能世界を絶滅させる生存競争という、第2部全体のストーリーの主題にも関係するだろう。

 なお、ここでは再生産のシステムとしての家族・社会は、そうした経済的に自立し、人格的に成熟した他の登場人物との出会いをもたらすシステムとしてのみ評価されるため、より土俗的・本能的な家族・社会そのものは無視される。

 この反出生主義・絶滅思想の遷延策・延命処置はメリュジーヌとオーロラの下りで明確にされる。徹底した自己愛と、利他心という利己心すらない利他心。愛他のために、自己愛しかない相手を殺す。

 不満を言えば、2部6章のラスボスであるモルガンとベリル、とくに『Fate』シリーズで存在を予示されてきたモルガンが、見せ場のないまま途中退場したことが残念だったが、奈須きのこに「『空の境界』で荒耶宗蓮が途中退場するのと同じ」とまで言われれば諦めるしかない。代わりに、メリュジーヌとオーロラが2部6章のクライマックスを担うが、この2人の物語が本章の主要主題を対位法的に表すことは、既述の通りだ。

 デヴィッド・べネターの反出生主義、より中核的な議論として、誕生害悪論は論理的に正しく、価値論が関与する余地はない。誕生害悪論は価値論にとってはコペルニクス的転回と言えるものだが、有名な話として、ガリレオが地動説を発表したとき、教皇庁はその検証を顧問神学者たちに諮問し、地動説が真実であることは認めた。それは地動説の研究が科学的なものであり、その結果が普遍的かつ検証可能だったからだ(その意味で、しばしば主張される地動説の発見における新プラトン主義の影響はトリビアに留まる)。当時、「地球が宇宙の中心でないと認めることは人間の精神に悪影響をもたらす」という論拠で地動説を主張したのは、少数の非-正統的な好事家だけで、当時の水準からも愚かだった(田中一郎『ガリレオ』)。こうした愚かな人々はつねにいて、現代でもアメリカの宗教右派は進化論を否定し、学校教育でインテリジェント・デザインを主張しようとして社会問題になっている。アメリカの宗教右派が進化論を否定するのは、反-べネター主義者が誕生害悪論を否定するのとまったく同じ論拠で、「そう認めることは人間の精神に悪影響をもたらす」というものだ。話にならない愚かさだが、つまり、彼らは子供なのだ。

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