2023年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2022年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2022/02/14/221729

 2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035

 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 

 まさか6年も続けることになるとは…

 

 2021年は残念なことに、文化庁メディア芸術祭が終了した。雁須磨子あした死ぬには、』、高野雀『世界は寒い』、志村貴子淡島百景』など、この年間傑作選で採りあげた作品が入選することもあり、クロスチェックを受けることができていた。

 良かったこととしては、サルトルの『家の馬鹿息子』の最終巻となる第5巻の邦訳が刊行された(『放浪息子』と『家の馬鹿息子』 - 志村貴子論 - (https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2018/02/06/090929))。また、イヴ・セジウィックの『タッチング・フィーリング』の邦訳が刊行され、『男同士の絆』が再版された(2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035))。

 

 

・マンガ

 

1.雁須磨子ややこしい蜜柑たち

 

 本作について語るなら、ホモソーシャルの概念を確認したほうがいいだろう。

 イヴ・セジウィックの『男同士の絆』が提唱するホモソーシャルの概念は、通俗化された上で大きな歪曲が2点ある。第1はホモソーシャルが男性に固有だということ、第2はホモソーシャルが性差別の機能だということだ。

 『男同士の絆』は冒頭(p.4)でハイジ・ハートマンの家父長制の定義「物質的基盤を持つ男同士の関係で、階層的に組織されていてはいても、男性による女性支配を可能にする組織体」を引き、古代ギリシャを男性同性愛と家父長制を同時に実行する例として挙げる

 すなわち、家父長制に異性愛規範とホモフォビアは必要ない。これが冒頭に書かれているにもかかわらず、ホモソーシャルを性差別の機能として挙げることが、大衆の知的怠慢を表している。

 セジウィックは男性同性愛がホモソーシャルに変化する転機として、具体的にはヴィクトリア朝オスカー・ワイルド裁判、より一般的には知的中産階級の勃興を挙げる(p.332)。これにより同性愛のイメージはホモフォビア、ホモフィリアともに純粋に性的、また想像的なものになり、同性愛はホモフォビアによってホモソーシャルへと転化した。

 すなわち、ホモソーシャルホモセクシュアルに起因するのであり、ホモフォビアや性差別に起因するのではない(参考:大橋洋一『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』(名古屋大学出版会)書評 https://allreviews.jp/review/4320)。大衆における、ホモソーシャルホモフォビアや性差別から発生するという理解は、因果関係の錯誤を冒している

 労働階級において、中産階級より強固な性差別が行われつつ、ホモソーシャルがほぼ存在しないことは、ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』やリチャード・ホガートの『読み書き能力の効用』などの生活誌に記述されているし、そもそも、肉体労働の経験があれば知っているはずだ。

 

 ホモソーシャルという抑圧が『ややこしい蜜柑たち』の清見や、『ゆりでなる♥えすぽわーる』の雨海(参考:2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞) https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228)の強さと弱さを表している。

 弱さのために反抗してこなかっただけの人間が感情を爆発させるさまは醜悪だが、知性と自制心によって環境に順応してきた人間が心を折られるさまは美しい。それは環境への順応から解放され、環境そのものを新たに創造する契機だからだ(『ゆりでなる♥えすぽわーる』第2巻第6話を見よ)。

 

1.なおいまい『ゆりでなる♥えすぽわーる』第4巻

 

 第15話であまりにも心を揺さぶられた。

 ネタバレ感想:しばしば誤解されるように、想像力は消極的なもの、未発達な子供のものではない。子供は自分が想像力を働かせていることを知らない。つまり、それが現実とは異なるということを知って、はじめて想像は想像となる。想像力は積極的なものなのだ。

 しかし、物理的には私たちの認識はつねに想像だ。物理系では私たちの位置はつねに相対的で、物質的には私たちの存在は遺伝子から複製されたものにすぎない。これは物質に生命が宿る、ピグマリオンの創作の神話と同じだ。

 世界の悪は、善悪二元論という虚構ではなく、世界が無であるという事実に根ざす。本作で描かれる悪はつねに現実的だが、第15話における、朝海心花の視点を通じたものはとくにそうだ。つまり、心花の認識は想像的でなくなり、本人は世界という無に漸近している。そして、実際に心花は幽霊となる。

 幽霊はすべての場所に存在している。だから、本話における驚異は幽霊ではない。幽霊と人間が対話するという、本来ありえない奇跡が起きているから、本話は感動的なのだ。

 

1.模造クリスタル『スターイーター

 

 短編4作を収める。

 ・『カウルドロンバブル毒物店』:凄すぎる。アヴラム・デイヴィッドスンの『ゴーレム』を思わせる人造人間のゴーレムの話。ささやかな変化と喪失をここまで克明に描けるのは凄すぎる。

 ・『スターイーター』:『ミッションちゃんの大冒険』風の、奇妙に思弁的な会話とスラップスティックな展開で、『金魚王国の崩壊』のファンは楽しめるだろう。

 ・『ザークのダンジョン』:"もしもある人が夢の中で楽園を横切り、そこにいたことの証しとして花を一輪もらい、もしも目覚めた時手にその花があったとしたら……それからどうなるのだろうか?"の問いへの答えがようやく分かった。ネタバレ感想:価値判断を読者に委ねる結末だが、私は悲しみのほうを強く感じた。物語と現実、および世界の象徴としての地下迷宮という道具立ては古典的なものだが、読者にそのことを気づかせず、鮮烈な印象を与える(ここでは秩序と混沌を象徴化したものとしての迷宮、精神を世界化したものとしての地下は、物語と同等の役割を担っている。つまり、物語に対する現実と同様に、地下迷宮からの脱出は、自由の牢獄への放擲を意味する)。結末を読んだとき、まさにボルヘスの『伝奇集』を初読したときのような衝撃を加えられた。

 ・『ネムルテインの冒険』:ネタバレ感想:既刊の読後感が「死」「死」「死」「死」「お前を殺す」というもので、本作は救いがあって良かった。

 

4.大白小蟹『うみべのストーブ

 

 『雪を抱く』はシスターフッドで、『雪子の夏』はさすがに百合。

 『うみべのストーブ』における色の添加は、モノクロの画面を対比的に冷酷なものとして強調するために行われている。その上で、最終的に熱情が冷静さに統合される。このように、『うみべのストーブ』の連載作品は象徴主義の文法をとっていて、「日常の」や「ささやかな」といった形容は誤解を生む。

 実際、『雪を抱く』ではアジールという通俗的な概念に依拠するため、銭湯の温かさと雪原の冷たさとの象徴性の結合が性急なものになっている。

 また、象徴主義に対し、話末の短歌は屋上屋を架すように思える。ただし、より自然主義的な同人出版の時代からの惰性かもしれない。

 『雪子の夏』は話の構成が「雪女に一目で魅入られる」という雪女譚の転倒であることを考えれば、紛れもなく百合だ。

 

5.眞藤雅興『ルリドラゴン

 

 スタイリッシュでドラマティックな『週刊少年ジャンプ』掲載作品の百合(つまり、夜一-砕蜂など)に対し、ホリスティックでエロティックな百合の分析は、このブログ記事(聖なるマンガ――『ルリドラゴン』『チェンソーマン』

https://note.com/rabbitsecuhole/n/n4d841f277dfd)がよくまとまっている。

 

6.鯨庭『言葉の獣

 

 『文字禍』の作者である中島敦の『山月記』もまた、言語への偏愛を主題にしている。李徴は詩を為すため、あるいは詩人になるため、人身を捨てる。それはいわば知行合一の境地だ。そして実際、漢詩を著すことができる。

 しかし、詩が形象化されれば、ふたたび知行は背馳していく。李徴は口語で漢詩を自註しはじめる。それが安易に引用される"臆病な…"の部分で、これはあらかじめ詩美性を欠くことが定まっている。

 この本歌取りを鑑みれば、薬研が東雲に導かれて言葉の獣である虎になりながら、さらに言葉を話すのは自然なことだ。

 

 言葉が心理を裏切ることは心理学でも実証されている。例えば、大学生にゴッホとモネのポスターと、キャプション付きの漫画のポスター3種を選ばせる実験では、理由を書かせることで、心理と選択が変化した。すなわち、キャプション付きの漫画のポスターの好感度が上がり、選択率が上がり、そして、満足度は下がった。数週間後に追跡調査すると、キャプション付きの漫画のポスターのほうが捨てられていて、また、捨てたい、売りたいという回答率が高かった。

 もっとも、言語化が認知の歪みを生じさせるということは、作品の感想を高頻度でツイッターに投稿するひとびとを見れば明らかだ。

 東雲と薬研は、もっとも美しい言葉の獣を見つけるため、ツイッターという言葉の森を探検する。探検するよりナパーム弾で焼き払ったほうがいい。漫画版『風の谷のナウシカ』も、腐海ツイッターの森なら全1話で終わっていた。「ナウシカ! 渡しなさい!」「何もないわ、何もないったら! ガソリン缶なんて隠していないの!」

 

7.平尾アウリ女子には歴史がありまして

 

 最高。

 

8.シマ・シンヤ『Gutsy Gritty Girl

 

 収録作2編が百合。

 

 私の考えでは藤本タツキチェンソーマン』の第2部は百合ではない。ただ、第2部の2-3話は構図が入念に設計されていて、藤本が時間を費やして準備したことが分かる。黒沢清青山真治蓮實重彦との鼎談『映画長話』で語るとおり、ドッペルゲンガー、双子、鏡は映画に本質的なものだ(なお、ホラー映画については、単著より「幻想映画から怪奇映画、さらに恐怖映画まで」という篠崎誠との対談、『黒沢清の恐怖の映画史』のほうが通史的で詳しい)。

 『好奇心は女子高生を殺す』の高橋聖一の新作『われわれは地球人だ!』は安定して面白い。

 一応、言及しておくと、冬虫カイコの作品はあざとすぎるように思った。

 

・小説

 

1.ケヴィン・ウィルソン(芹澤恵訳)『リリアンと燃える双子の終わらない夏

 

 大幅に要約すれば、人生を諦めて空虚な生活を送る28歳の人間が、15年来の親友の頼みを聞くことで、自分の生きかたを考えなおす… というだけの話だが、素晴らしい。

 『地球の中心までトンネルを掘る』はやはり奇想を隠喩として用いつつ、モチーフが見透いていて洗練されていなかったが(ただし、『代理祖父母派遣会社』は揺るぎない傑作だ)、本作ははるかに入念に構成されている。

 

1.松浦理英子ヒカリ文集

 

 文体実験や、話者が交代する推理小説のような知的な遊戯性を言える。また、ポリフォニー(多声)論や、モラリズム(性格描写)も言える。

 だが、本作はそれに留まらない。『裏ヴァージョン』、『奇貨』、そして本作で松浦理英子が問題として提起しているものはひと言で表せる。人間性だ。

 説得は文学の本来の機能ではない。だが、同様の手法を用いた『裏ヴァージョン』とは異なり、本作はそれを試みている。

 『裏ヴァージョン』では透明な高温の炎で読者を焼きつくしたが、本作では火災のあとに残る焼きつけで、陰画のようにひとりの人影を浮かびあがらせている。

 

3.斜線堂有紀『一一六二年のLovin'g Life』(載録『小説現代』2022年10月号

 

 斜線堂有紀の直球の愛の物語は素晴らしい。

 英訳がナボコフのような美文で驚く。

 ネタバレ感想:原文というものはない。すべての文は翻訳文だ。したがって、内心がそのまま言表されつくすことはない。それが人間の孤独ということでもある。「詠訳」というSF的なガジェットはそのことを異化している。

 帥との二度目の死別を経て、帥を内化した表現へ発展すると思わせ、怨嗟とともに、まったく内化されていない無骨な翻訳文で、あらためて孤独を強調する展開が見事だ。しかも、それが名高い「玉の緒」を原典としている。ここでは、読者に自らが解釈=翻訳(interpret)していることを意識させる重奏も行われている。無論、その孤独は愛の裏面だ。

 

・李屏瑤(李琴峰訳)『向日性植物

 

 初出が掲示板のSSであり、印象派の点描のような文体ではじめは期待できなかった(印象派の現在の評価が商業主義と大衆の審美眼の欠如によることは、『サザビーズで朝食を』と『印象派はこうして世界を征服した』が詳しい)。また、作中でもしばしば引用されるイー・ツーイェン監督『藍色夏恋』や、ロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』のエピゴーネンがあからさまで、台湾ニューシネマというよりシアオ・ヤーチュアン監督『台北カフェストーリー』のような軽薄さを感じた。だが最終的には、印象派の絵画を全体から眺めたようで悪くなかった。ただ、終盤は上記2点の欠点が目立った。

 「小○○」「学姐」という語彙に、日本語の「○○さん」「センパイ」の翻訳における語感がはじめて分かった。

 訳者あとがきで素朴政治(フォーク・ポリティクス)が展開されていて呆れた。文芸批評としても幼稚だ(岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か 』、具体例としては『アラブ、祈りとしての文学』第11章「越境の夢」の、サーダウィ『0度の女』、メルニーシー『ハーレムの少女ファティマ』評を参照せよ)。

 

・ニタ・ブローズ(村山美雪訳)『メイドの秘密とホテルの死体

 

 百合要素は若干だが、良作だ。

 ルンバとあだ名されるホテルの客室清掃係が主役だ。その一人称の語り(ナラティヴ)で物語が進むが、独特の言葉遣いをするうえ、よく話題が脱線し、他の登場人物の言動を誤解している(観察そのものは具体的で詳細なため、読者にはそのことが分かる)。

 ジャンルはミステリーだが、いわば、いわゆる信頼できない語り手ではなく「めちゃくちゃ信頼できない語り手」だ。

 

・『九段下駅 或いはナインス・ステップ・ステーション

 

 小説というより、架空のドラマの脚本というパロディの色彩が強い。

 「シーズン1」の「エピソード1-10」と題され、各話、40-50分のドラマとして映像で再現できる。タイアップを思わせる固有名詞と、イコンと化したサイバーパンクのガジェットが頻出する。

 バディもののSF-刑事ドラマで、『トゥルー・ディテクティブ』のコールとハートほどに職務上の関係に肉体的な官能性は加わってはいなく、『パーソン・オブ・インタレスト』のリースとフィンチほどに欠けてもいなく、『ホワイトカラー』シーズン1のニールとピーターほどの距離感だ。ただし、その親密性は脚本上のものでなく、役者が演じる肉体的な存在感によるものだ。

 

・鵺野莉紗『君の教室が永遠の眠りにつくまで

 

 エリック・マコーマックの『』を思わせる、32年間、町が雲に覆われているという怪奇現象。小学生の視点で、児童文学らしい雰囲気のもと、頻発する猟奇的な出来事。不穏さと「奇妙な味」が素晴らしい。

 ただし、二部構成で後半部は無用の長物だった。主題について予定調和的な結末も、懐郷心を誘うべく、時代錯誤な要素を出す雰囲気作りも、マコーマックに近しい硬質な文体ではほぼ無意味だった。

 要するに、前半分は人面犬で、後半分はしっぽがベビーカステラに激似の柴犬くらいの怪奇と魅了だった。

 

 横溝正史ミステリ&ホラー大賞は前年の『虚魚』に続き、2年連続で百合作品が受賞。

 江戸川乱歩賞は荒木あかね『此の世の果ての殺人』で3年連続、5年で4回目となるが、これは特筆することのない小品だった。

 

 一応、言及しておくと、好著である青崎有吾『11文字の檻』所収の『恋澤姉妹』は、沢木耕太郎の文章とアクション映画の情景のサラダに、百合萌えのシーザードレッシングをかけてシャカシャカ振った珍作だった。

 

・アニメ

 

斎藤圭一郎監督『ぼっち・ざ・ろっく!

 

 きわめて聡明な斎藤圭一郎という監督は、明確に第8話と第12話に力点を定めている。したがって、この2話を中心として見なければ、本作はまったく異なる印象になるだろう。

 この2話はライブのシークエンスで入念な演出が行われているが、その他のシークエンスでも、画面が緊張感のあるものになっている。

 第8話のライブのシークエンスは、ロー・キーで自然光、かつ暗い照明だ。さらに、ロングショットが主体で、また手持ちカメラらしい演出で、ドキュメンタリー的だ。物語上で観客との緊張を煽りながら、ぼっちが決起したあとも、ファン以外の観客はなかなか映さず、映しても遠景に留める。舞台上を映すときも、後半、すなわちファン以外の観客を映したあとは、他の登場人物を画面の中心に置き、主題における力点であるぼっちは画面の端に留める。そのきわめて抑制的な演出のもと、失うものがなにもないものの反抗という焦燥と熱情が描かれる。失うものがなにもないものは、自身の生命を賭けるしかない。

 虹夏との対話のシークエンスでは、他の登場人物との対比で、逆説的にぼっちがなんらの目標も持たないことが示される。情動が力能を帯びるのは、刹那的な衝動においてだけだ。それを形にするのが音楽であり、だから「ぼっち・ざ・ろっく!」ということになる。

 第10話のライブのシークエンスでも、ぼっちが機転を働かせた手元にズームせず、きわめて抑制的な演出が行われている。そうして、ライブのシークエンスのあとも、ロングショットを主体とした構図と、自然光の照明により、現実性を保ったまま、明るさによって多幸感と非現実感を演出する。この演出はファイナル・シークエンスにおいても行われ、ここでは高架線を見上げるシンメトリーの構図により、主観的な非現実感を表現している。"「今日もバイトかあ…」"という現実性を強調する最後のセリフは、逆説的なロマン主義だ(※)。

 これほど聡明な演出は稀だ。

 『ぼっち・ざ・ろっく!』は、孤独な少女が努力して報われる話ではない。この世界はレベリングをすれば敵が倒せるRPGではない。『ぼっち・ざ・ろっく!』は努力しても報われないことを知りつつ、なかば夢想として夢を追っていた人間が、世界に着地させられ、現実を変える選択肢を与えられたときの、暴力的な契機の話だ。

 上述のとおり、第8話と第10話は、ライブのシークエンス以外も緊張感のあるものになっている。ロングショットとロー・キーが主体になっている。

 ここで前提として、キャラクターデザインについて確認しておくべきだろう。本作に限らず、マンガ等のデフォルメはイメージに依存するものではない。ゴンブリッチの『芸術と幻影』によれば、児童画と原始美術はほぼ象徴(イコン)だ。それは視覚の表現が未熟ということではなく、イメージをそのまま表している。そのため、それらは鮮烈だ。ゴンブリッチは《皇帝ユスティニアヌスとその従者》という高雅な例を挙げているが、フリー素材の「怖い画像」で十分だろう(梨とかがよく使っているやつ)。対して、マンガ等のデフォルメは、あくまで視覚の抽象だ。アルンハイムの『美術と視覚 』はエジプト美術の正面投影図法と透視図法を比較し、後者の特徴として短縮と重複を挙げる。例として、完全な横顔では短縮は無視される。明らかに、マンガ等のデフォルメは後者に近い。

 写実的で、自然光の照明の背景は灰色が基調だ。カンディンスキー抽象芸術論』、クレー『造形思考』が指摘するとおり、混合色である灰色は静的だ。対して、ぼっちのピンクはあくまで明度だけを変えた原色だ。単色、また高い明度により浮出効果が生じる。そして、背景とは主線で区切られ、背景との調和は照明の方向の影で行われている。この自然主義と異化作用が、感情というより理性による情動をもたらす(マネやドガの色調を鑑み、ここでは写実主義でなく自然主義と呼ぶ)。実際、背景の彩度が高く、登場人物との色調が近い第9話は、もっとも牧歌的だ。

 こうした基礎のもと、第8話の虹夏との対話のシークエンスにおける例外的な、黒い背景とサイドライトによる明暗法(キアロスクーロ)も、醒めた叙情性(リリシズム)が働いている(ただし、原作第1巻の表紙からして、黒の背景にピンクのぼっちというハイセンスなものだった)。

 本作については、以下の記事が明晰に解説している。とくに劇伴について詳しい。青山真治の『われ映画を発見せり』曰く、「映画にとってロックなどどうでもいいと言うひとは、だいたい、映画すらまともに見ていない」。

 なついたる『2022秋アニメ10月段階感想 う・ゴ・ジョ・チェ・どぅ・B・ぼ・ポ

 同『アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』5〜8話 感想

 同『アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』9〜最終話感想

 同『2022 秋アニメ 11月段階感想 ぼざろ・DIY 二強

 

(※ ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポターの『反逆の神話』は、カート・コバーンの自殺について述べたあと、そうした反体制文化の起源を18世紀のロマン主義に位置づける。曰く、ロマン主義者はオルタナティヴなライフスタイルとしてボヘミアンの生活を送り、ヘロインの過剰摂取の代わりに肺病で死んだ。そして、ロマン主義の始源をルソーの『人間不平等起源論』に据える。「自然に生じるすべては善」だが、人類全体が「労働と、隷属と、貧困とに」服せしめられている。カッシーラーの『ジャン=ジャック・ルソー問題』は、ルソーの問題として、この個人と世界との対立を提起する。スタロバンスキーの『ルソー 透明と障害』によれば、ルソーは「自己自身にかえること」で、孤独のうちに「自由、徳、真理、自然」などの普遍に一致しようとした。なお、ここでルソーはロマン主義者ではなく、その先駆者に位置づけられている。プーレの『人間的時間の研究』によれば、ルソーは自己が「生まれたままの感情」と「自我」に分裂するなかで、現在の瞬間という永遠のなかで、自己自身、そして自然に一致しようとした。もしくは、激しい情念を排し、感情の記憶のうちに安逸しようとした。サルトルの『家の馬鹿息子』によれば、ロマン主義の主人公の特性は、美と善を絶望の眼差しで見ること。排除された者、追放の権利も手段ももたない悲惨な者が読者を呪うために、読者に奇妙な感情を惹きおこすことだ。曰く、「瀕死の人の偉大さがすべてを偉大にする」。"すばらしい夏の夜のさなかに死ぬこと、断末魔の身震いの中で、空について、そこにある星までなにひとつ省かずに語ること、これを考えつくのはロマン派の主人公だけだ。"(『家の馬鹿息子』第5巻 p.127)。)

 

・川崎芳樹監督『処刑少女の生きる道(バージンロード)

 

 B級でしかない異世界転生モノというジャンルを、メタ=フィクショナルに、存在論的に成立させる。メノウの空虚な自己の自己確立という物語も、そうした作風に合っている。原作からの構成としても、世界をB級映画と称する悪役をラスボスに据えたことは妥当だ。

 簡素なキャラクターデザイン、動きでなくカッティングで見せる演出、シンセサイザー系の劇伴は、殺伐とした作風に合っていて、おそらく小規模だろう予算に対し、財政的に賢明に制作されている。

 

 去年、『ラブライブ!スーパースター!!』について「第2期では澁谷かのんは高坂穂乃果化する」とドヤ顔で書きましたが、間違っていました。すみません…

 

・映画

セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう

 時間と空間と記憶の関係を表現した、きわめて明晰な作品だ。

 冒頭の「アレクサンドリア」の語は、当然、アレクサンドリア図書館、すなわち記憶と忘却、情報とその喪失の意味だ。

 導入部では、ドリー撮影により、病院における3世代の空間における配置を的確に示す。空間的な配置は同時的なもので、逆説的に、空間は時間を内包する。壁紙の挿話が、この図式を強調する。

 この図式が反転するのが、ネリーとマリオンの出会いだ。ネリーが時間を移動したことを知るのは、同じ家を訪れることによる。このとき、時間は空間を内包する。

 クルードのようなゲームで、マリオンは「秘密とは隠すことではなく、言う相手がいないこと」と言う。秘密は情報を保存している。よって、情報の喪失とは忘却のことだ。

 ネリーは父にお泊りの許可を求める。つまり、過去でも現在と同様に時間は進行する。換言すれば、記憶を想起する一瞬の出来事のように、時間が停止したりはしない。さらに言えば、正確には、記憶を想起するあいだも同時的に現在の時間は進行している。プルーストとウルフは、いわゆる意識の流れの技法により、このことに注意を促している。過去でマリオンが誕生日を迎えることで、この時間概念はより明確に表される。

 しかし、プルーストとウルフが技術的な工夫を施さなければならなかったとおり、物理学的な相対時間に対し、主観的な絶対時間という固定観念は根強い。シアマはきわめて知的だ。

 ネリーがマリオンに状況を教える場面では、ネリーが青、マリオンが赤の服という衣装で、明示的な図式化を行っている。

 その後、前述のゲームで、マリオンは子供をもつ演技をする。ここで、客観的な相対時間において、ある世界点の主観的な時間を構築することが示される。

 さて、その後はネリーとマリオンは童心に返り、時間から解放される。

 そして翌日、マリオンが去るとき、マリオンが乗った車が去るときは、過去に向かうにもかかわらず、順行ではなく逆行の右向きだ。過去での時間進行も、また現在と未来での時間進行と同じものだからだ。

 現在で、マリアンヌは空虚な部屋であぐらをかいている。孤立系である世界点を思わせる図式だが、構図はその場合に当然である、中央の配置でなく、右の配置だ。そして、ネリーがマリアンヌに抱きつく。

 このとおり、シアマは『燃ゆる女の肖像』と同じく、戦慄するほど知的だ。

 全編が72分であることも優れている。「映画は90分」という文言は、主として蓮實重彦が映画の凡庸化と冗長化を批判して言ったことを淵源としているが、この文言すら凡庸化して紋切り型になった。ゴダールはしばしば90分未満に収め、とくに代表作の1つである『新ドイツ零年』は62分だ。

 シアマは父にも記憶を語らせ、記憶や複数的な時間把握を安易に女性性やレズビアン連続体に還元することも阻止している。

 シアマは暴力的なまでに知的だ。つまり、いわゆる女性的や女性同性愛的ではなく、クイアだ。いわゆる女性性でレッテル貼りすることは馬鹿げている。

 

・ナヴォット・パブシャド監督『ガンパウダー・ミルクシェイク

 

 『オオカミは嘘をつく』(明るい『プリズナーズ』だ。明るい『プリズナーズ』!?)でタランティーノに熱賛されたパブシャドの新作。前作が『レザボア・ドッグス』なら、新作は『キル・ビル』くらいに振りきった。

 タランティーノらしさは何かといえば、映画史的な記憶の豊饒さだ(文芸批評の用語でいえば間テクスト性だ)。そのため、タランティーノエピゴーネンの多くが本流に近づかなかったのに対し、本作は30年間の間隙を経て、はるかに接近している。

 フェミニズムを物語装置にしているが、『処刑人』の「十戒に反しているからマフィアを殺す」くらいの意味合いだ(ただし、『処刑人』のファイナル・シークエンスの垂訓はすごすぎる)。

・ドラマ

・『アストリッドとラファエル』

 女性バディものの最新作。アストリッドの「名探偵」らしさがとくに良い。
 志賀直哉は「あなたは私の指貫(※フランス語)」を「日本語では《愛している》と訳すのだ」と言った。
 ミステリーの要素が、いわゆるフレンチ・ミステリーなのが残念だ。ただ、推理小説家殺人事件の第5話はさすがにパズラーの趣向が強い。先行作の『リゾーリ&アイルズ』はミステリーの部分も爽快だ。