ニール・スティーヴンスン『クリプトノミコン』あらすじ・要約

○前書

 「読んでいないのに堂々と語られているSFの十大小説」というリストがあり、『クリプトノミコン』『デューン』『重力の虹』『ファウンデーション』『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』『1984』『最後にして最初の人類』『長い明日』『ダールグレン』『インフィニット・ジェスト(未訳)』らしい。
 『1984』は別論として、宜なるかな、というリストだ。

 ニール・スティーヴンスンの『クリプトノミコン』は、SFに限らず著名なピンチョンの『重力の虹』としばしば比較される。
 『重力の虹』は難解なうえにクソ長いことで悪名高い。
 『クリプトノミコン』は『重力の虹』の2倍長い。だが、安心してほしい。『重力の虹』の2倍読みやすい。つまり、普通にクソ長い。

 だが、『クリプトノミコン』の先見性は驚くほどだ。
 90年代の時点で、暗号資産、3Dプリンター銃、匿名化サービス、P2Pネットワークと、現在の社会問題である技術をすべて予見している(ついでに、文化戦争と90年代の東京にも触れている)。
 そもそも、『クリプトノミコン』はローカス賞を受賞しているが、『重力の虹』と異なり、超自然的な事物はまったく登場しない。SF小説というより、テクノロジー小説というべきだ。

 読みやすいと既述したが、小説としても魅力的だ。
 『クリプトノミコン』は第二次世界大戦中の暗号をめぐるスパイ小説であり、不条理と諧謔に満ちた戦争冒険小説であり、3人の天才たちの友情の物語であり、シリコンバレーの変人たちがスタートアップを興す企業小説であり、オタクが愛を見つけるまでの恋愛小説であり、中世から続く自由と平和をめぐる戦いの物語だ。

 だが、それにしてもクソ長い
 作中にまったく関係ないポルノ小説の掌編が挟まったりする

 そのため、自分のためも兼ねて、節ごとの要約を作成した。
 そうした閑話休題もなるべく記録した。
 完全にネタバレしているため、注意してほしい。『クリプトノミコン』は長大な物語だが、最高の伏線回収が2つあるため、なおさらだ。
 クソ長いが、第1巻を読んで魅了されたひとなら、最終巻まで楽しめるはずだ。
 『イミテーション・ゲーム』の、ベネディクト・カンバーバッチ演じるアラン・チューリングが好きなひとは気にいるだろう。

○要約

ローレンス・プリチャード・ウォーターハウス(青)
ランディ・ウォーターハウス(黄)
ボビー・シャフトー(赤)
後藤伝吾(緑)
閑話休題(紫)

第1巻『エニグマ』

・「プロローグ」

〈シャフトー〉
 上海租界に駐在するアメリ海兵隊ボビー・シャフトー
 ある日、上海が陥落。路上に各種銀行券が舞う。

・「バレンズ」

〈ローレンス〉
 変人のローレンス・プリチャード・ウォーターハウスは幼少期、パイプオルガンに魅了される。
 ローレンスは長じてケンブリッジ大学に留学。アラン・チューリング、ドイツからの留学生のルディ・フォン・ハッケルへーバーと友情を築く。

 ローレンス、アラン、ルディの3人はアメリカ、ニュージャージー州に自転車旅行に行く。夜のサイクリングに出る。リーマンのゼータ関数、『プリンキピア・マテマティカ』。ライプニッツ、普遍チューリング機械、判定問題について話しあう。
 アランとルディがイチャつくあいだ、ローレンスは夜歩きをする。パイン・バレンズでヒンデンブルク号の爆発事故を目撃。

 ローレンスは海軍に入隊する。入隊試験の川下りの問題で、これほど簡単な問題が出題されるはずがないと思ったローレンスはナビエ−ストークス方程式の新たな定理を証明。見事、白痴と判定されるのだった。

・「ノブス・オルド・セクロルム」

〈ランディ〉
 ランディ・ウォーターハウスはフィリピンに渡航する。
 ビジネス・パートナーのアビ・ハラビーオルドで通信する。暗号化ソフトのノブス・オルド・セクロルム、通称オルド。

・「海草」

〈シャフトー〉
 「プロローグ」の前。上海でシャフトーは日本軍の後藤伝吾と知りあう。日本料理店に強引に入ったのだ。「何度見ても、料理人は未調理の魚を切り刻んで、弾丸状に押し固めた米にのせているようだった」「シャフトーは虫を食べたり、鶏の首を噛みちぎったりする訓練も受けている」。
 シャフトーは後藤から柔道と俳句を学ぶ。代わりに後藤には野球を教える。やがて、日本軍は上海から移動する。シャフトーは艦上の後藤にヘルメットを投球。代わりに、後藤は手榴弾を重しにして鉢巻を投球する。「それには彗星のような吹流しがついていた」。

 海兵隊はマニラに移動する。上海駐留で堕落した古参兵たちの悲喜交交が語られる。
 シャフトーは恋人である看護師のグローリー・アルタミラを訪問する。シャフトーの叔父がグローリーの大家夫妻の知人だった。「薔薇の花束はドイツ式の柄付き手榴弾のように、木の手摺をのり越え、二階の窓に飛びこんだ」。「グローリーとふたりだけの時間を設けてくれるのではと期待したが、そんなことは欲情したシャフトーの愚かな妄想でしかありえなかった」「社交儀礼のため、シャフトーの感覚では三十六時間ほどおしゃべりした」。
 シャフトーとグローリーは夜中に密会する。グローリーはサンアグスティン教会を見せ、その長い歴史を話す。ふたりは浜辺で交わる。シャフトーは少年時代からの人生を回顧。「いまこの瞬間こそが槍の穂なのだ」。
 その最中、マニラ中にサイレンが響く。何事か尋ねるグローリーに、シャフトーは答える。「戦争だよ」。

・「ビジネス挑戦」

〈ランディ〉
 ランディはカリフォルニアで人文学系のポスドクであるシャーリーンと同棲していた。ランディはシンポジウム「テキスト戦争」でシャーリーンを手伝ったときから悪い予感がしていた。「テキスト戦争」では、第二次世界大戦の兵士の写真を女装したものに加工した画像をポスターに使っていた。その兵士である高齢の退役軍人が訴訟を起こし、ポスターは回収、制作者は多額の損害賠償を負う。制作者の資産は未済の学生ローンくらいのものだった。

 暗号の安全性はキー長による。アビはビジネスで、解読に天文学的な時間のかかるキー長を使っていた。「これを見た人間は次の可能性を考えるだろう。1. アビは暗号の素人。2. アビは偏執狂。3. アビは一世紀以上に渡る計画を立てている」。シャフトーはキー長について、いつまで想定しているのか質問したことがある。アビはこう答えた。「この世に悪があるかぎり、だ」。

 ランディは公共図書館で司書をしていた。「子供のときのランディが、いまの自分を見たら狂喜しただろう。子供時代のランディはホチキス外しが大好きで、それを未来のロボット竜の顎に見立て、オモチャでいっぱいの子供部屋を恐怖に陥れたのだ」。ひたすら小部屋でホチキス外しを使うだけの日々。
 そのなかでランディはシャーリーンと出会い、またアンドリュー・ローブと出会う。アンドリューは歴史学の学生で食糧のエネルギー収支について研究していた。ランディはそれをTRPGに応用することを思いつく。TRPGで移動のエネルギー消費が考慮されないことは、ランディたちには許しがたかった。ランディにはアビ、チェスターというTRPG仲間がいた。ランディたちはRPGのソフトを開発する。その際、シャーリーンのアカウントで大学のUNIXを使用する。ソフトは高額で売れそうだったが、アンドリューが訴訟を起こす。また、大学も提訴する。「権利関係があまりに複雑になり、買手はつかなくなっていた。錆びついたフォルクスワーゲンをバラバラに分解して、世界中の犬小屋に隠して売ろうとしたようなものだった」。初めての起業は失敗に終わるが、ランディはアビというビジネス・パートナーを得る。

・「インディゴ暗号」

〈ローレンス〉
 ローレンスは軍楽隊に配属される。ハワイで真珠湾攻撃に遭遇する。
 軍楽隊は解散。転属先の候補として、暗号学の講習を受ける。ローレンスは講習中に実例を解読し、暗号解読のハイポ施設に配属される。「ハイポ(H)施設ということは、他にA〜G施設があるのだろうとローレンスは推測した」。
 ハイポ施設のシェーン中佐は日本軍のインディゴ暗号を解読。一方、神経衰弱に陥っていた。ローレンスは『暗号書(クリプトノミコン)』を読む。『暗号書』はジョン・ウィルキンズによって創始され、代々、加筆されてきたもので、最近の大部分はシェーン中佐によっていた。原理上、解読不可能なワンタイムパッド暗号
 ローレンスは情報理論について考察する。暗号は解読した事実を知られてはならない。そのため、逆説的に復号文は利用できない。そのことを報告すると、ローレンスはイギリスへの派遣を命令される。

・「オナンの子ら」

〈ランディ〉
 シャーリーンはランディとの同棲中、「髭を解体批評する論文」を発表し、学界の評価を高めていた。論文はとくに「北カリフォルニアのハイテク業界の髭文化」を的にしていた。ポストモダンフェミニズムのパロディで、「性差は社会的に構築されたものにすぎない(ここで大量の脚注)」とか爆笑)
 ランディは天文学の博士課程に進むが、軽率に「UNIXならちょっとできますよ」と言ったために満期退学で終わる。「学部は二千ドル以下の出費で、ランディから二十五万ドル相当の労働を引きだしていた」。

 シャーリーンと学界の仲間たちは、訴訟を起こした退役軍人を貶していた。彼らに囲まれたランディは、自分をホビット庄に滞在するドワーフのように感じていた。ある日、シャーリーンと親密な教授のG・E・B・キビスティクに、ランディは行きがかりから論戦を挑む。キビスティクは「情報スーパーハイウェイ」を提唱する、サイバー文化の論客だった。実際の情報技術については無知なキビスティクを、ランディはあっさり論破。虚しさだけが残る。
 そして家を出て、夜の町をさまよっているとき、アビから起業に誘う電話がかかってきたのだった。

・「炎上」

〈シャフトー〉
 海兵隊はマニラから撤退する。戦争が間近であることを知ってなお、シャフトーの叔父はマニラに留まった。「クリーム色のスーツとパナマ帽でボートの上に直立したすがたを、艦上の海兵隊員たちは感嘆の眼差しで見送った」。
 海兵隊の輸送船が岸壁を離れたとき、マニラは炎上する。シャフトーはグローリーのことを考える。陥落した都市の女たちがどうなるか。「その顔や名前は忘れたほうがいい」。

・「歩行者」

〈ランディ〉
 ランディは起業したエピファイト社にマニラ市街を徒歩通勤する。銀行の上階に間借り。徒歩通勤はGPSでの計測も兼ねる。「人々は鈎をかけて下水溝の蓋を開け、そこに排泄する。歩道とはすなわち蓋をした下水溝だったのだ」「電柱は電気メーターで覆われ、公的なものから私的なものまで、大量の電線が引かれている」。

・「ガダルカナル島

〈シャフトー〉
 ガダルカナル島の戦闘で、シャフトーは唯一の生存者になる。浜辺で神父のイーノック・ルートに救助される。「このラテン語のことかね、暗号での無線通信のことかね」。

・「ガレオン船

〈ランディ〉
 ランディは髭を剃る。
 アビはプレゼンテーションのためのビデオを制作していた。エピファイト社の事業は光ファイバー網の敷設。(このビデオが爆笑もの。三流会社に発注、「パイもあまり薄く切りすぎると崩れるからな」。荒波を進む帆船のイメージ映像、「出資者のひとりはヨット遊びが趣味なんだ」。地元の歴史のナレーション、「出資者のひとりは礼拝堂に寄付しているんだ」。「この俳優は出資者の甥」)

 ランディは探査船のグローリー号に乗船する。船長のエイミー・シャフトー(本名はアメリカ・シャフトー)と会う。
 センペル・マリン・サービス社。じつは海底探査は副業で、本業はサルベージとトレジャーハント。日本軍の埋蔵金伝説。
 エイミーにエピファイト社の事業について説明。起業の事務的なところ、曰くナンバープレートづくり。出資者のひとつはコンビニの24ジャム。なぜコンビニが参加するのか尋ねるエイミーに、コンビニのチェーン店を使った画像データの通信サービス、ピノイグラムの説明をする。じつのところ、すでにランディはエイミーに惹かれていた。

・「悪夢」

〈シャフトー〉
 シャフトーは心的外傷に苦しむ。入院中のシャフトーを、広報部隊のロナルド・レーガン中尉が訪ね、戦功者のインタビューを撮影しようとする。シャフトーは半狂乱で応じる。
 シャフトーは帰郷する。帰還兵であるシャフトーは故郷で疎外感を覚える。「足に食いこんだ戦友の奥歯を銃剣の先でほじくり出した話など、誰も聞きたくないのだ」。シャフトーに戦場の話を聞かなかったのは祖父だけだった。「彼はピーターズバーグの戦いで、バーンサイド将軍の命令によって兵士たちが穴に飛びこまされ、虐殺されたなかにいた」。

・「ロンディニウム

〈ローレンス〉
 歩道の縁石をのり越えるたび、頭が波形を描く。そのパターンを収集すればロンドンの街路図が分かるだろうと、ローレンスは考察。
 ローレンスはイギリスの高官たちの会議に出席。イギリスの社交儀礼、発音。「紹介のときからみんな口々に「ハイスに災いあれ」と唱えていて、さすがにそのハイスに同情しはじめたころ、それがウォーターハウスのイギリス流の発音だと気づいた」。
 イギリスではアランが情報部隊、2701部隊の参謀を務める。ローレンスはその部隊名はアランが名づけたのか尋ねる。「2701は37と73、ふたつの逆順の素数の積ですから」。高官たちは色めきたち、2072部隊に改称することを決める。「ローレンスに期待されているのは、まさにこうしたお座敷芸らしい」。

・「コレヒドール島」

〈ランディ〉
 ランディはエイミーの父親で、社長のダグラス・マッカーサー・シャフトーと会う。ダグラスはベトナム戦争の退役軍人で、スキー場のリフトから政府高官のカムストックを突き落としたことがある。グローリー号は正式にはグローリーⅣ世号。ダグラスは光ファイバー網敷設の大規模事業に参加することを約束させる。
 海上でグローリー号はヨットと接近する。その所有者は歯医者だった。歯医者ことヒューバート・ケプラーは投資会社AVCLAの社長だ。フィリピンの歌姫と結婚して、地元のギャング団のボロボロ団とも関係している。歌姫はボロボロ団が送りこんだ娼婦だったからだ。(「車のヘッドライトみたいにデカい結婚指輪」という比喩が笑える)。

・「地下鉄」

〈ローレンス〉
 「地下鉄駅には美人の女性モデルを起用した、ガスマスクの使用法を説明するポスターが貼られている。美しい顎を突きだし、両手を差しだしている。ガスマスクのマーカーが毒ガスで緑色に変わったら、空に向かって二千万本の親指が立てられ、一千万個の顎が突きだされるのだ」。さまざまな戦時のポスター。「くすんだ黄色い光に満たされた大聖堂に、いくつもの偶像が並ぶ」。
 ブレッチリー・パーク直行便は女性たちの専用車両だ。「戦時下の口紅は代用品の鉱物性、動物性原料の匂いがする。戦争の匂いだ」。「彼女たちは文字や数字の羅列を機械に送りこんで、ナポレオンより多くの敵兵を殺している」。(戦時の幻想的で奇妙に美しい描写)。
 ローレンスはブレッチリー・パークでチャタン大佐、ロブスン中尉と会う。ロブスンは2072部隊への改称で疲弊していた。「ローレンスはハッとした。ロブスンと部下たちは大忙しになるにちがいない」。
 暗号を解読した事実を知られないためには、それによる外れ値がベルカーブに収まるように、逆説的にも、暗号を解読していないことを前提としたイベントがそれだけ大量になければならない。

・「肉」

〈シャフトー〉
 シャフトーは2071部隊、もとい2072部隊に配属される。ルートも2702部隊の従軍司祭に任命されていた。2072部隊は北アフリカに派遣され、食肉用冷蔵庫で凍死した炊事兵の死体を回収する。死体を変装させる。「手袋は心配するな。最初に指から解凍する」。死体の代わりに豚肉を納棺し、伝染病予防の名目で封印する。「この棺を合法的に開けられるのはマーシャル将軍だけで、その場合も軍医総監の許可を得て半径百キロ以内からあらゆる人物、家畜を退去させなければならない」。

・「周期」

〈ローレンス〉
 ローレンスとアランはサイクリングに行く。ドイツ軍はUボートでシャーク暗号を使用。3連式エニグマを4連式に強化。自転車が故障するのは、チェーンの不具合のある鎖と、歯車の不具合のある歯が重なったときだけ。エニグマも同じ原理だ。「C[i]=n mod l」。
 アランは埋めた銀の延棒を掘りおこそうとするが、見失う。
 ある種の星型エンジンは気筒数が奇数であるために、輻輳して怪音が鳴る。バグパイプの低音管も同じ原理。
 軍は復号文の情報を使い、霧のなかで護送船団を撃沈するという失策をする。「どうにかごまかしたけどね。ナポリの波止場でナチスがスパイを探しまわっているよ」。

・「機上」

〈シャフトー〉
 2702部隊は北アフリカからイタリアへ。シャフトーは後遺症で悪夢を見る。輸送機が被弾し、悪夢が現実と混じりあう。ルートが従軍した理由。シャフトーを救助したあと、その無線通信のために援助していた原住民が鏖殺された。それを教訓に、ルートは暗号を学ぶ。「ルートは笑わなかった」「それで分かった。ルートは略奪の冗談に気を悪くしたのだ」。
 潜水服に変装させた死体を海に投下する。

・「秘密保持契約」

〈ランディ〉
 カリフォルニアでエピファイト(2)社のメンバーが顔合わせする。時差ボケを緩和するためのオーバーヘッド・プロジェクターエバハード・フェール、ジョン・カントレル、トム・ハワード、ベリル・ヘイゲン。(フェールとカントレルはブレスレットを着けている。通常、事故に遭遇したときの治療上の諸注意が書かれているブレスレットには、人体冷凍の手順が書かれている、という下りが爆笑。しかも、手順はバージョン6.0になっている)。
 アビの本命はエピファイト(2)社の事業。フィリピンの近海にあるキナクタ・スルタン国データヘブンを築くことだ。

・「ウルトラ」

〈ローレンス〉
 ブレッチリー・パーク。夜は無線技師が活動を始める時間だ。通信は電波を電離層に反射させておこなうが、昼は太陽光がノイズになる。テープを使用した計算機による暗号解読。「煙を吹いているようだ。いや、回転するローターから本当に煙が出ている」。
 復号文はドイツ陸軍担当課の部屋へ。「戦時中に頑健な若い男がこれだけ集まっているのを見ることはほとんどない」。
 機密情報取扱資格の最上級であるウルトラ

・「キナクタ島」

〈ランディ〉
 ランディはキナクタ島に渡航する。奇妙に日本人の団体旅行客が多い。「飛行機が高度を下げると、ビルの窓からオープンキッチンに立つ女性が見えた」。ビルの屋上に柱石の並ぶ庭園がある。ランディはそれが戦没者の墓地だと気づく。「この団体客のお目当ては、あの集団墓地なのだ」。

・「クフルム・ハウス」

〈ローレンス〉
 ローレンスはクフルム島の城主である公爵に会うため、クフルム人協会を訪問する。架空の国であるクフルムの地誌のパロディ。クフルム百科事典。
 公爵は戦時のため軍に城を提供することを快諾する。

・「電動勘定台会社」

閑話休題
 カムストック少佐。ETC(電動勘定台会社)。目当ての物資はかならず最後の箱にあるという与太話。

・「秘匿洞」

〈ランディ〉
 ランディは第二次世界大戦回顧録を読み、キナクタ島について予習する。無名の退役軍人の回顧録を楽しむが、それも回想が終戦に近づくまでだった。「このあたりからマッギーは怒りっぽくなり、ユーモアを失っていく」。
 キナクタ島では日本軍が残したトンネル、秘匿洞を利用し、基地局の建設に当てていた。施工業者の後藤エンジニアリング。ランディは後藤フェルディナンドと会う。

・「大蜥蜴」

〈シャフトー〉
 2702部隊はイタリアでSASと合流。シャフトーはまだ後遺症に苦しむ。「クソ!」「どうかしましたか?」「おれは目が覚めるといつもそう言うんだよ」。
 長期間、潜伏していたように偽装工作をおこなう。「アメリカ軍規格一般支給品百パーセント純正の糞尿」まで埋伏。
 「護送船団の情報だ」「いつのですか」「未来のだよ」。

第2巻『エニグマ』

・「城」

〈ローレンス〉
 ローレンスはクフルム島に派遣される。「列車を降りるなりスコットランドの穀潰し男が水をぶっかけてくる」。水飛沫で跨線橋バグパイプのようになる。
 クフルム島の事物には定冠詞が頻出する。ザ・タウン、ザ・ホテル。「誰かがタクシーの窓拭き(ザ・スクイージー)をなくしたらしい」。
 クフルム人はバイキングを撃退したことをいまだ誇りにしている。公園には銅像。「あのバイキングに捕まっているやつは?」「アウター・クフルムのやつらに決まってまさあ!」。

 城では偽装としてハフダフ(HF/DF)の観測に従事。城内の照明はガルバーニ電燭。
 通信にはワンタイムパット暗号を使用。教区司祭の妻、テニー夫人がビンゴを引いて乱数生成をおこなう。

・「理由」

〈ランディ〉
 エピファイト社の事業計画書。
 機密保持のため、専用サーバー、トゥームストーンを設置。
 ランディに不審なメールが届きはじめる。データヘブンを建設する理由を問う。「ネットで論戦を挑んでくるのは暇をもて余した16歳のガキか、それと同じ精神構造のやつだが」。
 アンドリューは群衆精神を提唱するネット上の思想家になっていた。(この分派と内紛のパロディが爆笑もの)。
 アンドリューの派閥はランディたちを非難していた。「走資派であり、麻薬業者や第三世界の収奪政治家に住みよい世界を作っている」と。「理由がようやく見つかった」。

・「転進」

閑話休題
 ニューギニア島で日本軍第二十師団無線小隊が暗号書を放棄する。

・「ハフダフ」

〈ローレンス〉
 ローレンスは城でドイツがハニートラップで送りこんできたメイドとよろしくやる。

・「ページ」

閑話休題
 プリズベーンのアスコット競馬場は兵営に、娼館は兵舎に徴発されていた。いま娼館は洗濯紐が張られ、大量のページが吊るされ、扇風機が稼働していた。日本軍の暗号書を回収したのだ。

・「突入」

〈シャフトー〉
 2072部隊は商船をノルウェー座礁させる。事故を偽装するため、斧を貨物に叩きつけていた指揮官が自分の足を斬る。「これはいい! もっとリアルになるぞ!」。

 そのすこし前。
 ナポリでドイツ軍と交戦する。隊員がビッカース重機関銃を使用。シャフトーは高校の工作室を思いだす。そこには工具でありながら基盤設備をもつ帯鋸があった。ビッカースも同じだ。水冷式でラジエーター、基盤設備をもつ。反動があり、熱、汚れが蓄積し、ついに詰まる。ビッカースの猛攻と敗北。

 連合国商船用暗号書を残すという矛盾した命令で、2072部隊は混乱する。

・「注意義務」

〈ランディ〉
 エピファイト社のミーティング。キナクタ島はシンガポール、台湾、オーストラリアの中心にあって、ルーターを建設するのに最適。「この三つを結ぶと三角形ができる」「どんな三点を結んでも三角形はできるよ」。結果、秘匿洞の建設は合弁事業になる。
 エピファイト社のメンバーにアビが情報を隠していた理由。訴訟に備えるなら、一対一の対話形式を徹底すべき。エブが納得せず、ランディがなだめる。「技術屋は大抵そうだが、エブは相手が論理的でないと思うと徹底して頑固になる」。エブは裁判所が提出命令を出せないよう、暗号化でなく、自己完結的なネットワークを構想する。
 歯医者が訴訟を仕掛けてくるかもしれない。AVCLAと決裂すれば、資金がなくなり、さらに資金繰りのために持株比率を下げればのっとりを仕掛けられる。「訴訟はリスクのない攻撃だ。僕たちは太平洋を渡って証言させられたり、証拠書類を提出させられたりする。弁護士費用もかかる」「それに、裁判に負けるかもしれない(ジョーク)」。

 メール送信者探しその1。アンドリュー。(その後、アビ、エイミーと続く)

・「槍の穂先」

〈ローレンス〉
 クフルム島沿岸にU-553座礁する。ローレンスと2072部隊が急派、いまにも海中に滑落しそうなU-553に侵入させられる。「553は7と79の積ですね」。

・「モルフィウム」

〈シャフトー〉
 承前。シャフトーは戦争後遺症でモルヒネ中毒になっていた。艦長室の金庫が未回収のまま、U-553から退去命令が下されるが、シャフトーがモルヒネともども回収する。「目の前にあったのに気づかなかった。モルフィウム。ドイツ語だったのだ」。艦内には金の延棒が積載されていた。

・「スーツ」

〈ランディ〉
 ハッカーが嫌うのは、スーツを「着ている状態」ではなく「着ること」だ。また、選び、保管し、手入れすることを重荷に感じる。スーツそのものは着心地がいい。そこで、アビはスーツを会議当日にエピファイト社のメンバーに届けることにした。

 ランディは歯医者と接触しないようにアビから忠告されていたが、エレベーターで遭遇する。「一九五九年式キャデラックのフロントガラスと見まちがうほど大きな眼鏡」。3人の歯科衛生士の助手。「運命の三女神とも、復讐の三女神とも、美の三女神とも、北欧神話の運命の三女神であるノルネンとも、女怪物ハルピュイアたちとも呼ばれる」。

・「金庫破り」

〈ローレンス〉
 ローレンスはU-553から回収した金庫を解錠する。2枚の剃刀、膠、爪楊枝、炭素のかけら、電線、ラジオで集音器を自作。
 中身は書類で、文鎮に金の延棒が使われていた。「大したものを見つけたな」「ええ。エニグマでない暗号文です」「その”あらゆる悪の根源”のほうだよ」。

・「スルタン」

〈ランディ〉
 合弁事業のスルタンの御前会議。台湾、ハーバード・コンピューター・カンパニー社のハーバード・リー。歯医者。その他、数社。
 スルタンの開会の演説。「スルタンはスルタンらしくふるまった。構想と方向性を示すだけで、具体的経営という危うい領域には立ちいらなかった」。「「ネットワーク化された世界では、物理的な位置などもはや意味をもたない」出席者は力強くうなずいた。「しかし、それはネットワーク世界を賛美したい連中のたわ言にすぎない!」出席者はうなずきすぎで、多くは頸椎が鞭打ち症寸前になっていた」。プロジェクターでのプレゼンテーション。「しかし、それもたわ言だった!」。
 情報相のモハメド・プラガス。カリフォルニア大を卒業、スタンフォード大で博士号取得。学生時代はTシャツとジーパン姿で、ビールとピザが大好物。そんな男がスルタンの又いとこで、数億ドルの資産をもっているとは誰も思わなかった。
 ランディは会議の末席にギャングが混ざっていることに気づく。

・「跳飛爆撃」

〈後藤〉
 ビスマルク海海戦。後藤は漂流する。後藤は北海道の鉱山技師で、潜水ができた。

・「顔写真」

〈ランディ〉
 承前。ランディは即席で顔写真(マグショット)のプログラムを書き、ラップトップに触れたものの顔写真を撮影する。

・「山本」

閑話休題
 山本五十六の暗殺。死ぬ直前、まさにそのことで山本は日本軍の暗号が破られていることを悟る。

・「アンタイオス」

〈ローレンス〉
 ローレンスはU-553から入手した暗号文に挑む。

 チューリング真空管(バルブ)を研究。『RCA真空管便覧』。古典学者、ドナルド・ミチーとよくチェスを指す。「アランは純粋な観念を物質世界に現出させることに夢中になっている。野原に座れば、松ぼっくりや花の構造に数学的パターンを見出し、床に着けば、真空管のフィラメントや遮蔽格子のあいだを吹く電子の風を夢見る。チューリングは神でも人間でもない。ギリシャ神話に登場する巨人、アンタイオスだ。数学世界と物質世界のあいだに橋をかける巨人だ」。

 ローレンスとチューリングはU-553の暗号文について討論。おそらく疑似乱数を使用しているということで合意する。ボーコードの形式によるフィッシュ暗号。フィッシュ暗号はコロッサスで解読。暗号文の写しを見たチューリングは愕然とする。暗号文についてではない。「これはルディの字だ」。

・「フリーキング」

〈ランディ〉
 バン・エック傍受(フリーキング)の解説。ラスタースキャン、あるいは画素のスクリーンバッファの電磁波のリンギングを探知する。

 群衆精神のオンライン百科事典のパロディ。

 バン・エック傍受が可能か賭けになり、カントレルがハワードのラップトップを傍受する。
 「これをペントハウス誌の読者欄に投稿してみよう!」。(『クリプトノミコン』のクソ長さを指摘するときにかならず挙がる、ポルノ小説の掌編。ストッキングフェチ。ゴーマー・ボルストルード製家具。ストッキングはライフスタイルと分かちがたく結びついている。主人公は自分と同じ知識人の女性と結婚するが、ジーンズとスニーカーにストッキングは合わず、妻への愛情と性的欲求の板挟みになる)。
 「これは賭けの証拠にできないな」。

・「漂流」

〈後藤〉
 後藤は漂着。食人族に遭遇する。

・「靴墨」

〈シャフトー〉
 2072部隊はトリニダード島の不定期貨物船を偽装、靴墨で黒人に変装。補給用Uボート接触する。「こんな偶然がありえるだろうか。N[n]=1キロ四方の黒人の人数 N[m]=補給用Uボートの数 A[A]=大西洋の面積 いや、こんな計算をしている場合ではない。とくにN[n]を減らすことに全力を傾けている今は」。

 貨物船は撃沈され、シャフトーとルートは捕虜になる。艦長のギュンター・ビショフ大尉。

・「敵対行為」

〈ランディ〉
 エピファイト社のメンバーは会議の出席者たちを確認する。中国軍の投資部隊。「人民解放軍は巨大なビジネス帝国でもあるのよ」。
 アビがメンバーを説得する。「ゴールドラッシュの時代、カリフォルニアの金鉱掘りの町には”おたく”がいた。試金屋だ」「おたくの試金屋の相手は男娼売春宿の常連、世界中の脱獄囚、精神異常のガンマン。そうでなくても悪党どもだ」「だが、やがて西部には教会や学校が次々と建ち、荒くれ男どもは同化したか、追放されたか、牢屋に放りこまれた。残ったのはおたくたちだ」「金鉱掘りを怒らせたあと、通りで射殺された試金屋は何人くらいいたんだ?」。

 プラガスと共同企業体で秘匿洞の建設現場へ。「カリフォルニアには皮肉を笑う気分がペストウイルスのように蔓延していて、一度感染すると治らない」。

 良い知らせと悪い知らせ。良い知らせは、歯医者がのっとりを仕掛けるだけエピファイト社が魅力的な存在になったこと。悪い知らせは歯医者がのっとりを仕掛け、戦略的訴訟を起こすこと。訴訟を起こされれば、エピファイト社の企業価値は無意味になる。つまり、歯医者が主導権をもつ。「ビジネスの世界で小さくて金銭的価値のある会社は、ジャングルで木の枝にとまって楽しげな歌を一キロ先まで響かせる、美しくてよく目立つ鳥と同じだ。普通は大蛇が忍びよってくるまで猶予があるが、大蛇の背中にとまっていたらしい」。

・「フンクシュピール

〈ローレンス〉
 U-691によるシャフトーとルートの拿捕のため、ブレッチリー・パークで対策会議が行われる。ウルトラメガの資格者たち。オクスフォード大学監、ユダヤ教律法学者、新聞のクロスワードパズル担当編集者、アメリカ人。
 無線員の打鍵の癖「筆跡」。打楽器奏者、傍受員のアルビノの女。
 対策会議は補給用Uボートの緊急電文、U-691の反乱を偽装する。

・「HEAP」

〈ランディ〉
 アビはホロコーストの資料収集をライフワークにしている。スペイン人はアステカ族を虐殺したが、アステカ族は2万5千人のナワトル族を捕虜にして、テノチティトランに連行し、数日のうちに虐殺した。「一種のお祭りだろう。スーパーボウルの週末みたいな」。
 ホロコーストの追悼は将来のホロコーストの予防には無益だ。だから将来、ホロコーストの加害者になりうる人々でなく、被害者になりうる人々を教育する。HEAP(ホロコースト教育および回避に関する情報集)
 埋蔵金伝説は夢物語のはずが、ダグラスが潜水艦の残骸を発見。シャフトー父子に財宝を回収させれば信義則違反で歯医者に提訴され、シャフトー父子は歯医者とボロボロ団から財宝を隠したがっている。

・「探し癖」

〈シャフトー〉
 U-691艦内。艦長のビショフは拘束帯を着させられている。エニグマは破られていると報告したためだ。政治将校のベックが艦長を代行。シャフトーの持つモルフィウムの通し番号を報告したところ、ベックも捕虜の尋問を禁止される。
 ドイツ海軍にU-691の撃沈命令が出される。ビショフが艦長に復帰。デーニッツに喧嘩別れの電文。海戦、ドーヴァー海峡の突破。2702部隊がノルウェー沿岸で水深測量をしていたため、ノルウェーへ。

・「食人族」

〈後藤〉
 後藤は砂金採りで食人族に取りいる。日本軍が食人族を虐殺。峠越え、オーストラリア軍と交戦。

・「沈没船」

〈ランディ〉
 サルベージ。海洋無人探査機(ROV)。「ランディが気にいっている軍人の特徴は、いつでも教育せずにいられない強迫的な心理だ」。
 ランディの腕時計が鳴ると、エイミーが「それで平方根を計算してくれない?」と頼む。「ランディの腕時計が外れ、エイミーの左手に落ちた。ビニール製のバンド部分がすっぱり切断されている。エイミーの右手にはクリースがあり、その刃にはランディの腕毛が何本かついていた」「肩越しに放り投げられた腕時計は南シナ海に消えた」。
 潜水艦は海中で倒立している。図解入りのドイツUボート史。「「どうして水平に横たわっていないのかな」ダグはまだ水がはいったボトルを舷側の向こうに放り投げた。ボトルは逆さになって浮いた」。
 「「ほとんどの乗員は即死だ。その魂に神のお恵みを」べつの情況であれば、ランディはその宗教的な言葉に苛々しただろうが、ここではむしろいちばんふさわしい台詞に感じられた。無神論者ならどう言うだろう」。
 ハッチの蓋は開いていた。脱出した乗員がいたらしい。
 「一服するのにちょうどいいタイミングだ」。「「一服するのにちょうどいいタイミングとは、どういう意味ですか?」「記憶のなかにしっかり固定し、刻みつけるためだ」「きみは今、人生でもっとも重要な瞬間にいるんだ。今このときをさかいに、すべてが変わる。わたしたちは金持ちになるかもしれない。殺されるかもしれない。ハラハラドキドキするだけで終わるかもしれないし、なにかを学ぶかもしれない。しかしわたしたちは変わるんだ」丸めた手のなかからまるで手品師のように火の点いたマッチを取りだし、ランディの目のまえにかかげた。ランディはそれで葉巻に火を点け、じっと炎を見つめた。「とりあえず、幸運がありますように」「あそこから脱出したやつにもな」」。
 (信じがたいほど美しい一節だ。同じ巻にポルノ掌編があるとなおさら信じがたい)。

・「サンタモニカ」

〈ローレンス〉
 「アメリカ軍の第一で最大の部分はタイピストと事務職員のネットワーク、第二は人員を移動させるメカニズム、最後が戦闘集団としての部分」。
 デーニッツがロケット燃料による次世代艦の完成まで、Uボートをすべて帰港させることを決定。ローレンスの地上の戦争は終わる。帰郷、ロサンジェルスに遠出。
 「はじめてカリフォルニアに来たときのローレンスは、数学と音楽が得意で、すこしだけ頭がいいというほかは、他の兵士となにも変わらなかった。今はちがう。彼らが考えている戦争は、ここからすこし離れたハリウッドで製作されている戦争映画と変わらない、完全なフィクションなのだ」「パットンもマッカーサーもウルトラ情報あるいはマジック情報の消費者でしかない。モンティはバカだ。ウルトラ情報を無視して大損害を与えた」。
 ローレンスの地理的感覚も変わる。地球はひとつの情報網に。
 砂と波のパターン。海がチューリング機械だとしたら、砂はテープ。

・「前哨地」

〈後藤〉
 後藤は日本軍の前哨地に合流。ゴムボートでニューギニアを離島。

・「流れ星」

〈シャフトー〉
 シャフトーたちはフィンランドで密輸業者のオットー・キビスティクと姪のジュリエタのもとに寄食する。「フィンランドは国全体が実存的絶望と、自殺的な鬱状態の明けない夜のなかにある。水に浸した樺の枝鞭で自分を痛めつけることも、辛辣なユーモアも、一週間も続く酒宴もやり尽くした。残っているのはもうコーヒーしかない」。
 ノルスブルックに火の玉が墜落する。

・「ラベンダーローズ」

〈ランディ〉
 サルベージ作業。潜水病の説明。

 メール送信者からポンティフェクス暗号の概念を教えられる。

 ダグが潜水艦内にあったブリーフケースを見せる。判読できる便箋の宛名はルドルフ・フォン・ハッケルへーバー。封筒の走書きを見て、ランディは愕然とする。「ウォーターハウス ラベンダーローズ」。

第3巻『アレトゥサ』

・「ブリズベーン」

〈ローレンス〉
 ローレンスはブリズベーンに配属。事実上の無期限待機命令を受ける。

・「デーニッツ

〈シャフトー〉
 承前。シャフトーとビショフは飛行機の墜落現場に行く。スオミ短機関銃。哭泣するルディがいる。ルートが説明。「ルディは恋人の遺体をまえにして泣いているんだ」「あの飛行機は女が操縦してたんですか?」「きみはルディが同性愛者であるという可能性を考慮していないようだな」。
 「広い意味でいえば、わたしがここにいるのは、教区司祭の妻のテニー夫人がビンゴマシーンからボールを取るときに面倒くさがって目をつぶらなかったせいだよ」。

・「クランチ」

〈ランディ〉
 シリアルへの偏執。キャプテン・クランチ。ダンスレッスンのビデオ。

 マニラ・ホテル。「年中、ロビーは舞踏会用のドレスで着飾った年配のフィリピン人女性が行き来している」「最初に見たときは、大ホールでなにかおこなわれているのかと思った。結婚式か、年配のビューティーコンテスト参加者たちが化繊メーカーに集団訴訟を起こしているのか」。
 ランディの祖母は社交ダンスを習うように言っていた。祖父との出会いはブリズベーンの舞踏会。
 ダグラスの連れの中年のフィリピン人美女、オーロラとダンス。オーロラはランディに経緯度を教える。

・「娘」

〈ローレンス〉
 ローレンスはマクティーグ夫人の家に下宿。同室の兵士ロッドの従妹、メアリー・スミスに惚れる。

・「秘密結社」

〈シャフトー〉
 ルディによるドイツ軍の官僚組織の偏執的な説明。
 ルディはワンタイムパッド暗号を解読していた。カードを使った乱数生成では、担当者は無意識にeをzより引く。機械で統計分析。2072部隊のワンタイムパッドは欽定訳聖書と同じ頻度分布をもっていた。

 回想。ルディはゲシュタポに連行される。「午前四時の来訪はなかなか賢いやりかただった。人間の闇に対する原初的恐怖心を利用するわけだ。だが、今は四二年。もうすぐ四三年だ。みんなゲシュタポを恐れている。闇よりだ。なら昼に活動したらどうだい?」。
 イタリアから招聘されたテストパイロットのアンジェロとの同性愛が露見したらしい。アンジェロともどもゲーリングの特別列車に乗せられ、脅迫される。

 U-553はゲーリングの財宝運搬船だった。
 アンジェロはメッサーシュミットのタービンジェットエンジン搭載の新型試作機に志願。それを使って亡命。
 ルディはライプニッツの資料収集を名目に亡命。知人であるルートを頼る。
 シャフトーたちはマニラの財宝に関する秘密結社を結成。
 ルートはエルディトルム会のメンバー。

・「財宝」

〈ランディ〉
 エピファイト社で唯一の従業員のキアとやりとり。「若いハイテク企業の管理職員はスポーツ体型の二十代で、新型の自動車のような名前だと相場が決まっている」「ハッカーはほとんど白人男性なので、人種的多様性は非ハッカーの一、二名の従業員に頼るしかない」「この種の人々にとっては、いつでも最高の仕事をすることが暗黙の社会契約らしい」。

 カントレルの作成したオルドイマックス。揮発性RAMにのみ保存するうえ、つねにカメラで本人がいるか点検する。

 「「ジャングル旅行記」あるいは「フク団の宣伝」あるいは「聞いて驚け」あるいは」「ルソン島北部の広大な熱帯雨林における冒険と発見の物語 ランドール・ローレンス・ウォーターハウス記」。
 冒険記のパロディ。教えられた経緯度に行くと、ジャングルに巨大な金塊が鎮座している。だが、輸送の困難と国軍とNPAのゲリラのために誰も回収できない。
 経緯度はメッセージ。金は使えなければ意味がない。世の中には使えない大金を抱えている連中がいる。その連中はその金を使えるようにすることを望んでいる。

・「ロケット」

〈シャフトー〉
 ジュリエタがグローリーのことでシャフトーを揶揄する。「密輸業者の娘、無神論者でインテリのゲリラが」「そのときやっと、納得できる理由に思いいたった。ジュリエタは妊娠しているのだ」。
 新型艦のUボートがビショフを迎えに来る。
 新型艦について知ったことで、ナチスがシャフトーを暗殺しようとする。ルートがそれを伝える。「きわめて複雑な事態になっているんだ」「知っていますよ」。「ジュリエタと寝ていることを教えにわざわざ来たんですか?」「ちがう! いや、そのことは話すつもりだったが、それは本題ではない」。「ジュリエタはフィンランド人であることの短所を捨てて、長所だけ楽しもうとしてるんだ」「短所とは?」「フィンランドに住まなくてはいけないことですよ」。「目当てはアメリカかイギリスのパスポートだ。だからギュンターとは寝てなかったでしょう? いや、寝てたかも」。「ここへ来てくれた勇気に感謝しますよ」「ジュリエタは納得してくれるだろう」「ドイツ人のことですよ」。
 ナチスと交戦。ソ連製120ミリ迫撃砲。ルートは致命傷を負い、パスポートのためにジュリエタと結婚する。「あなたはさっきまでジュリエタと寝ているのに寝ていないと言い、だから司祭の地位に留まれると主張していた。ところがジュリエタと結婚し、寝ないのに寝ていると主張すると」。
 ルートはシャフトーを含め、死亡を偽装。シャフトーはマニラを目指す。

・「求愛」

〈ローレンス〉
 頭脳の明晰さは性欲の影響による。「0≦C[m]<1 σa(t-t[0]) C[m]a・∫(1/(σ-σ[c])^n)」。「頭脳の明晰さ、C[m]はこうなる。性欲は解剖学的な理由によりσで表す。閾値はσ[c]だ」。「ところが、ここにメアリー・スミス近接性(プロクシミティ)という因子(ファクター)、F[MSP]が現れた。F[MSP]とσは直交どころか、空中線を延々と演じる二機の戦闘機の軌跡のように複雑に絡みあっている。かつて一次関数だったローレンスの方程式はいきなり複雑になってしまった」「ローレンスは膨大な数の制御不能な因子にもてあそばれるようになってしまった。そして普通の人間社会とつきあっていく必要に迫られた。社交ダンスに出かけるはめになったのだ」。

 「ローレンスは会話のきっかけを探した。候補はいくつか見つかった。”知ってるかい? 日本の工業生産能力はブルドーザーを年に四十台つくるくらいしかないんだよ” そして、こう続く。”だから防壁を築くのに奴隷労働力を使うのも仕方ないのさ!” あるいは、”日本海軍のレーダーシステムは、その設計からアンテナ配列に制約があって、後方が死角になる。だから真後ろから近づけば安全なんだ”」「あるいは、”ケンブリッジ大学チューリング博士は、魂は幻想であり、人間の定義と思われているものはすべて一連の機械的処理に還元できると主張しているんだ”」。
 「正装して、実際より頭よさそうに見える男たち。じつのところ、ローレンスより頭よさそうに見える」。「ローレンスは遅れて到着した。ガソリンはすべて、日本に高性能爆薬の雨を降らせる巨大爆撃機を空気中に押しあげるために使われている。乙女の陵辱をもくろむローレンスという肉塊をプリズベーンの反対側に運ぶことなど、優先順位がはるかに低いのだ」。

 ローレンスはメアリーたちの一団に近づき、会話が英語でないことに気づく。「しばらくして、その聞き覚えのあるアクセントがなにか分かった。それどころか、マクティーグ夫人の下宿屋に届けられた郵便物のなかに見たスムンドゥフという奇怪な宛名の謎も、いま解けた」。「つまり、ロッドとメアリーはクフルム人なのだ!」
 「これをチューリングはどう説明するだろうか! ここで証明されているのは、まちがいなく神は存在するということだ」。
 「ローレンスはメアリー・スムンドゥフに意気揚々と挨拶した。「ギュンヌ・ブルドゥ・スクルドゥ・ム!」」。「「おい、きみ!」メアリーの連れが言い、ローレンスがその声のほうを向くと、だらしないニヤニヤ笑いに拳が狙いたがわず叩きこまれた」。
 「「どこでその言葉をおぼえたんだ?」「アウター・クフルム島か?」ローレンスはうなずいた。まわりの顔がいっせいに能面のように無表情になった」。「そうか! この連中はインナー・クフルム人なのだ!」。
 (モンティ・パイソンばりの伏線回収で、ここで死ぬほど笑った)。

 ロッドはローレンスを慰める。アメリ海兵隊は無線員にナバホ族を採用。イギリスでは海軍がアウター・クフルム人を、陸軍と空軍がインナー・クフルム人を採用。「クフルム語は簡潔で含蓄の多い言語だからな」「冗長性が少ないほど暗号は破りにくくなる」。ピグミー族のクンド語、アリュート語に近似。
 「ぼくはメアリーに、きれいだねって言おうとしただけだよ」「だったら、”ギュンヌ・ブルドゥ・スクルドゥ・ム!”と言わないと」「だからそう言ったじゃないか!」「きみは中間声門音と前部声門音を混同しているよ」。
 「「大丈夫だ。クフルム人は言葉を使わないコミュニケーションに長けているから」ローレンスは”そ、そうなのかい?”と言いそうになったが、また顔を殴られると思ってやめた」。

・「INRI」

〈後藤〉
 後藤はカトリックの慈善病院で治療を受ける。

 後藤はマニラに派遣される。さらにジャングルへ。現地住民の運転手が尋ねる。「「あんた、兵隊さん?」「いや、兵隊とは言えないな」詩人だと言おうかと思ったが、その肩書にも値しないと考えなおした。「おれは穴掘りだ」」。
 そのことを聞いた将校が運転手を射殺。後藤の任務は鉱山技師としてのものだった。

・「カリフォルニア」

〈ランディ〉
 ランディはシャーリーンとの財産分割のため帰国する。サンフランシスコ国際空港。そこの「床がすべりやすいので注意」と同じくらい「麻薬密輸者は死刑」というポスターが貼られたニノイ・アキノ国際空港。
 アビはジャングルの金塊から電子通貨の発行を構想する。「新聞を読んでないのか?」。
 アジア通貨危機。「「わけがわからなくて逃げ出したくなる話だな」「この娘はわけがわかっているみたいだぞ」三紙とも通信社配信の同じ写真を採用している。銀行のまえから延々と続く行列に並んだひとりのタイ美人が、アメリカのドル札を一枚掲げている」。
 「まるで”第二十三回党大会の目標を達成するために奮闘努力します”と連呼するように、くりかえし唱えないと自分の言っていることが信じられなかった。銀行家になるんだ、銀行家になるんだ…」。
 「かつて銀行はそれぞれ通貨を発行していた。スミソニアン博物館にはそういう古い銀行券が展示してある。”サウスなんとかの第一国立銀行は本券持参人に豚肉十切れを進呈します”とかなんとか書いてあるわけだ」。

 キアはランディについて、エイミーと統一戦線を組む。
 伝染病でカイユース族を全滅させたホイットマン夫妻。

・「オルガン」

〈ローレンス〉
 ローレンスはインナー・クフルム人の教会に行く。「教会はメアリーをファックしたいと考えるのを正当化する文脈を与えてくれる。教会に通ってさえいれば、メアリーをファックしたいと考えてもいいし、教会の内でも外でもメアリーをファックすることを想像してもいい。間接的な言い回しさえすれば、きみをファックしたいと本人に言ってもかまわないのだ。金の関門をくぐり抜ければ、現実にメアリーをファックすることもできる」。
 「ローレンスはさっとベッドから下りて、ロッドを驚かせた(ジャングル戦をたたかう特殊部隊員のロッドは、ちょっとしたことでも驚きやすいのだ)。そして、「きみの従妹をベッドが潰れて粉々になるまでファックしたい」と言った」。「実際には、「きみといっしょに教会へ行きたい」と言ったのだが、ローレンスは暗号の専門家だった」。

 「メアリーをファックする作戦」のために、ローレンスは教会のオルガンを演奏する。そのとき天啓が訪れる。「電子の記憶のつくり方がわかった! 急いでアランに手紙を書かなくては!」「数ブロック歩いたところで、ローレンスは二つのことに気づいた。裸足で通りに出てきてしまったことと、その若い女がメアリー・スムンドゥフだったことだ。あとで靴をとりに戻って、できればメアリーをファックしよう。でもそのまえにやらなくてはいけないことがある!」。

・「家」

〈ランディ〉
 ランディとシャーリーンの家は地震で全壊していた。シャーリーンはキビスティクと同棲。エイミーとアメリカ在住の親類の青年2人もいる。「「廃屋ですね」ロビン・シャフトーはテネシー州の山村の生まれで、トレーラーハウスや丸太小屋に住んでいるが、その不動産評価でもそういう結論になるらしい」。

 エイミーはランディに謝罪。「わざと追突したりして、ごめんなさい」「家がこんなことになってるなんて、知らなかったのよ」。
 「あなたの車を目のまえに見つけたときに、神はわたしとともにあると思ったわ。あるいはあなたとともに」。エイミーはランディに好意をもっているわけではないが、ランディが自分に好意を見せながらシャーリーンと復縁するらしいと誤解し、怒りのままカリフォルニアまで追ってきた。「自分が気にしているだれかがひどくバカげたことをやろうとしているのに、車の外っ面を傷つけたくないというだけの理由で、力づくで止めるのをためらう連中もたくさんいるわね。ピカピカの車に乗って、感情的にもつれた最低の未来に走っていけばいいのよ」。
 「とにかく、車を降りてからきみに怒鳴り散らしたりして悪かったよ」「どうして? 追突してきたトラックの運転手に怒鳴るのは当たりまえじゃないの」「きみだとわからなかったんだよ」。「シャーリーンには一度も怒鳴り散らしたことがないんじゃないの?」「いい人間関係を築くには、おたがいの問題を解決する手段がいくつか必要じゃないか」「車をぶつけるのはいい手段のうちにはいらないというわけね」「あまりよくないだろうね」「声を荒げることも、口論することも」「さぞかしうまくいったでしょうね」。

 シャーリーンが悪評を流布したらしく、ランディは地元で冷遇される。「もっとも頑迷な旧約聖書的倫理観をふりかざしたのは、すべての物事は相対的であって、複婚も単婚と同じように正当であると考える連中だった」。敬虔なキリスト教徒で、化学教授のスコットと小児科医のローラの夫妻だけがランディを歓待する。「UNIXシステム管理に即していえば、現代的で政治的に正しい無神論者たちとは、資料もマニュアル類もないまま、おそろしく複雑なコンピューターシステム(つまり社会)にかかわらざるをえなくなった人々に似ている。なにもわからないままシステムを運用するには、とにかく厳格なルールをつくって強制するしかない。教会に通う人々は、UNIXシステムについてすべてを理解しているわけではないにせよ、基本的なマニュアル類やFAQやハウツーやリードミーなどはもっている管理者だといえる」。
 ランディは地元と永別する。

・「ブンドク」

〈後藤〉
 後藤は地下貯蔵施設の建設を進める。

・「コンピュータ」

〈ローレンス〉
 ETC社からの出向のアメリカ陸軍中佐、アール・カムストック。(スティーヴンスンのお約束の)企業の官僚主義のパロディ。
 Uボートアレトゥサ暗号。日本のアジュア暗号、ドイツのパファーフィッシュ暗号も同じ原理。3つの暗号はすべて金に関係。
 開戦以来の傍受電信をすべて統計分析したことで解明した。

 ETC社のカード機械で入出力。必要なのは、論理回路に機械記憶を付加することだった。
 オルガンの原理。RAM(ランダム・アクセス・メモリー)。水銀入りのU字管で、一連の二進数を再生する。
 「機械全体の名前は?」「コンピュータとか」「計算者(コンピュータ)は人間のことだぞ」「この機械は計算するのに二進数を使いますから、デジタル・コンピュータとか」。
 ローレンスのコンピュータは報告書には記載されずに終わる。
 「もうひとつ。この会議にふさわしい話題ではないかもしれないのですが、わたしは婚約しました!」。

・「キャラバン」

〈ランディ〉
 祖母のメアリーの財産整理のため、ランディは故郷のワシントン州ホイットマンへ。エイミーたちが旅の道連れに。ランディは若者2人の信頼を得る。

 ランディはエイミーに電子銀行券の構想を説明する。「いかにも偽造されやすそうだけど」「優秀な暗号があれば心配ない。ぼくらはもうもっている」。「マニアックな連中との長年のつきあいでね」「どういうふうにマニアックなの?」「優秀な暗号をもてるかどうかが、世界の運命を左右するくらいに重要なことだと信じているという意味でマニアックなんだよ」。
 「「あなたもそう思うの?」エイミーは訊いた。これは、人と人との関係が変化する分水嶺の質問かもしれない。「午前二時にベッドのなかで考えるときは、きっとそうだと思う」「でも翌朝明るくなって考えると、すべて偏執狂の妄想に思える」「まあ、お粗末であるより安全なほうがいいと思う。優秀な暗号ももっていて損はない。役に立つかもしれない」」。
 「「ついでに金儲けもできるかもしれない、というわけね」エイミーはつけ加えた。ランディは笑った。「今の時点では金儲けのことなんかぜんぜん考えてないよ。これは自尊心の問題さ」エイミーは謎めいた笑みを洩らした。「なんだい?」「まるでシャフトー家の人間のような台詞だからよ」」。「ランディはそれから三十分にわたって無言で運転を続けた。思ったとおりだった。あれは、人と人との関係が変化する分水嶺の質問だったのだ。あとはしゃべっても、ろくな結果にならないだろう。だから黙って車を走らせた」。

・「大将軍」

〈シャフトー〉
 シャフトーはニューカレドニア島へ。さらにニューギニア島のホランディアへ。マッカーサーの宮殿に行き、マニラの掃討戦に加えるように直訴する。「息子の名前は……お許しください。息子の名前はダグラスです」
 マッカーサーの直命を受け、マニラへ。

・「原点」

〈ランディ〉
 パルース丘陵のつむじ風。非線形空気力学とカオス理論の実験場。
 物理法則のなかにつむじ風の存在する余地はなかった。科学教育の現場の無言の馴れあい。「優秀でありながら退屈で自信のない教授の講義を聴きにきている学生は、二種類いる。工学専攻の学生は、教授が直観的に理解できない現象を話すと、緊張で手のひらが汗ばみ、不機嫌になる。物理専攻の学生は、自分たちは工学専攻の学生より頭がよくて精神的に純粋だと思って、それを誇りにしているので、わけのわからない話など聞きたくない」。

 学生寮のウォーターハウス・ハウス。祖父ローレンス・プリチャード・ウォーターハウス。「”デジタル・コンピューターの発明者”という基本的に無意味な称号を争っている十数人の一人」。
 クリスマス休暇で車のない駐車場の原点、X軸とY軸の交点に家具が運ばれる。メアリーの5人の子供で財産分割。イリノイ州マコームのオケーリ大学数学科長のレッド叔父、ニーナの夫妻。
 n個のアイテムからなる均質でない集合を、なるべく均等に、m個の部分集合に分ける。疑似-ナップザック問題。「Σ[i=1,n]V[i]=τ」「トムやその他の相対論物理学者のやり方からヒントを得て、τ=1と決めた」。トム叔父はパサデナのジェット推進研究所で小惑星を追跡。だが、経済的価値に感情的価値もある。とくにトム叔父の妻、レイチェルは無遠慮。そこで「ΣV[i]^[e]=τ[e]∧Σ[i]^[s]=τ[s]」。経済的次元をX軸、感情的次元をY軸として、各夫婦が駐車場の四象限に家具を配置する。
 「紙の上に書きこんでいけばいいことじゃないの?」。結果はパルース大学のスパコン、テラで演算。ランディの父はパルース大学の学長。ジュネーブの研究者にプログラムを依頼。おそらく遺伝的アルゴリズムを使うだろう。
 (いい年した大人たちが、駐車場の四象限に家具を動かすバカバカしい絵面が爆笑もの)。
 ゴーマー・ボルストルード製のダイニング家具一式。

 「ランディは自分の家族について話したがるタイプではなかった。特別なところはなにもないと思うからだ。グロテスクな精神病理学的事例とか、性的虐待とか、トラウマとか、裏庭での悪魔崇拝の集会とかがあったわけではない。だから人々が自分の家族について語りはじめると、ランディは黙って聞き役にまわった。ランディの家族のエピソードはありふれていてつまらないので、とりわけだれかが衝撃的な恐怖の事実を告白したあとでは、そんなことを話してもなんの意味もない気がした」。
 「ところが、ここでこうして空気の渦を見ていると、本当はどうなのだろうと考えはじめた。人はよく「今日の[ぼくは/わたしは]、[煙草を吸っている/太っている/落ちこんでいる]。なぜなら、[ママが癌で死んだから/叔父が親指をケツの穴に突っこんだから/パパがベルトでぶったから]」と主張したがる。だが、それは決定論的すぎる。つまらない目的論に身をゆがねてしまっているのではないか」。「学生のだれかが放置した車が小さな渦のパターンを百メートル風下までつくりだすようすを見ていると、世界についてもっと慎重な見方をすべきではないか、この宇宙の奥深い不思議を受けいれるべきではないかと思えた。そして、衝撃的な出来事(悪魔教会への参加など)が一度もなくても、記憶にとどまらないような無数のちょっとした影響にふれる生活を送るだけで、その風下ではそれなりに興味深い結果がうまれてくるのではないかという気がした」。「アメリカ・シャフトーも同じように考えてくれていることを、ありそうにないと思いながら、ランディは期待した」。

 ランディはローレンスの黒いトランクをちらっと見てしまい、ニーナにそれを目撃される。ニーナはトランクをX軸とY軸の果てまで運ばせる。
 「陶器類」の箱。記憶にある食器の底には「ロイヤルアルバート社 ラベンダーローズ」と焼きつけられていた。
 ランディはプログラムに細工することを決意する。

・「ゴルゴダ

〈後藤〉
 建設が進む。地下貯蔵施設はゴルゴダと通称される。日本軍は帰郷する技師、労働者を秘密裏に処刑していた。中国人労働者の

・「シアトル」

〈ランディ〉
 メアリーは完璧な淑女だった。「祖母の家事遂行能力は伝説的というよりむしろ悪名高かった」「理論物理学者の頭のなかは大半を数学が占めているように、祖母の頭のなかは大半がそういうことで占領されていたのだ」。「だから実際的なことがらになると祖母はまったくだめだったし、昔からそうだったにちがいない。祖母のホイットマンでの移動手段は一九六五年型リンカーン・コンチネンタルだった。夫がパターソン・リンカーン−マーキュリー商会から購入した最後の車だ」。「祖父は病で床に臥せてから、パターソン家の生存する男系メンバー全員を病室に呼び集め、フォースタス博士さながらの契約を結ばせた。祖父は、妻がタイヤについてきわめてぼんやりとした認識しかもっていないことを知っていたのだ。タイヤとは、男性たちがときどき英雄的に車から跳びおりて交換作業をおこない、自分は車内に座ってその姿を眺めていればいいもの、なのだ。祖母にとって物質世界とは、まわりの男たちが手を汚してなにかするためのものであり、しかもそのことに実用上の理由などはなく、たんに祖母が男たちを感情的にもてあそぶための仕掛けにすぎなかったのだろう」。「リンカーンが四分の一世紀にわたっていっさい無整備で、それどころかガソリン無給油で、なんの問題もなく走りつづけているという事実は、男性たちはとにかく過剰な性能を求めるものよねという祖母の見解を裏づける証拠としてあつかわれた」。
 ランディはローレンス、チューリング、ルディの自転車旅行の写真を発見。
 エイミーがメアリーから話を聞きだす。ラベンダーローズは1945年9月の結婚祝い。Uボートの沈没は同年5月。

 「ぼくはうちの家族のほかの男たちに比べたら、わずかながらも社交能力をそなえている。いや、社交能力のなさを意識しているというべきかな。だからすくなくとも困惑するときは困惑する」「あなたはそれが得意よね」。「そこがぼくのマシなところだと言いたいんだよ。本物のおたく野郎にみんながいちばんうんざりさせられるのは、その社交性のなさではなくて、本人が自分の社交性のなさについてすこしも困惑しないことなんだ」「みじめという点ではどちらも同じだと思うけど」「高校時代はみじめだったさ」「でも今はちょっとちがうんだ」「なに?」「わからない。それをあらわす言葉がない。そのうちわかるよ」。

 シャフトー家の若者2人は帰宅。ランディとエイミーはシアトル郊外のモールへ。
 MTGのプレイヤーの群れ。チェスターと再会。「チェスターは黙ってうなずきながら話を聞き、若いおたくのようにランディの話を遮ったりはしなかった。若いおたくは、だれかが平叙文で話しているとすぐに、きみの知らないことを教えてやっているんだという裏の意図を勝手に感じて反論してくるものだ。年をとったおたくはもっと落ち着きがあり、人はしばしばしゃべりながら考えるということを理解している。高度に進化したおたくはさらに、その場にいる全員がすでに知っている内容の平叙文をしゃべるのは、会話という社交プロセスの一部だと理解している」。

 チェスターは資産家になっていた。LOHO(ばかげて巨大な住宅を規制する条例)。
 チェスターは自宅を古い技術の博物館にしている。
 フレックススペース。ハイテク企業が産声をあげる場所は、大抵、倉庫のようなところ。チェスターはその天井にTWA機を懸吊、展示している。「このとき初めて、機体が軽く傾いているのに気づいた。垂直に急降下しているほうがそれらしい気がするが、そうしたらこの家は五十階建のビルくらいの高さにしなければならないだろう」。
 「エイミーは疲れた顔をしていた。この旅に出るまえのエイミーは、世の中は多くの物事から成り立っているということを認めたはずだ。今でも認めるだろう。しかしこの数日間にランディは、それがどういうことか具体的に見せた」。
 チェスターの知人である元ETC社の技術者に、ローレンスのトランクのETCカードを預ける。ラベルは「アレクサ傍受電文」。他に「ハーバード−ウォーターハウス素因数難問」の書類。「うまくいけば、ランディの人生をすこしおもしろくしてくれるはずだ。いまがおもしろくないわけではないが、古い問題の解決に苦労するより、新しい問題を導入してしまったほうが楽な場合もあるのだ」。

・「岩」

〈後藤〉
 建設作業。

・「煙草男」

〈ランディ〉
 アンドリューはAVCLAの顧問弁護士に。
 歯医者は沈没船を探している。沈没船は信義則違反の証拠になる。フランスのSPOT(映像望遠写真衛星)をレンタル。
 歯医者はトゥームストーンの提出命令を請求するだろう。トゥームストーンはロスアルトスのノブス・オルド・セクロルム・システムズ社のオフィスにある。オフィスの賃料は少額だが、T1回線の通信料で発覚するだろう。
 オルド社社長のデイブ。
 ランディは対応を決意。

・「一九四四年のクリスマス」

〈後藤〉
 後藤は不要な換気坑を建設する。

・「パルス」

〈ランディ〉
 ランディはオルド社の向かいのマクドナルドに駐車。車の屋根でラップトップを使用する。
 オルド社に強制捜査が入る。オルド社が実況中継。人間、ドワーフ、エルフ。人間… 警官隊、テレビクルー、法律事務所のスーツの男たち。ドワーフ… シークレット・アドマイアラーズのおたくたち。山本五十六の意匠のTシャツ。HEAP銃。多くの州法では拳銃の携帯は許可制だが、大型の猟銃を持つのは合法。そのため、大型の銃器を見せびらかす。
 セキュアシェル。パケット通信。秘匿洞の匿名化サービス、crypt.kk。
 FBI。司法長官のポール・カムストックシークレットサービス財務省は電子通貨を敵視している。
 ランディはリスクを承知で、自分のアカウントでトゥームストーンにログイン。再フォーマットは数分かかり、復元の危険も残る。そこで、ファイルを検索、ランダムな数字を7回連続で上書きするコマンド、rm(削除)コマンドを実行。
 さらに、Eメールのアーカイブをランダムに上書きするスクリプトを実行しようとしたとき、シークレット・アドマイアラーズのバンから電気音が鳴る。髪の毛が逆立ち、ラップトップは暗転。付近一帯が停電、車は操縦不能、通信機器は沈黙。
 シークレット・アドマイアラーズがビル全体に強力な電磁パルスを放射、射程距離内の半導体を黒焦げにした。「安心して。HDDは無傷だから」

第4巻『データヘブン』

・「仏陀

〈後藤〉
 金塊が搬入されはじめる。

・「ポンティフェクス」

〈ランディ〉
 沈没船の時価の50%×エピファイト社における歯医者の持株比率10%-諸経費=x、エピファイト社の時価総額×40%=y。x>yなら少数株主訴訟の損害賠償、株式による支払いで歯医者ののっとりが成功する。

 オルド社の強制捜査はCNNが放送。ランディも映る。カムストックは公式には政府の関係を否定する。
 キナクタ航空の機載電話。ランディがダグラスと通話すると、メール送信者、ポンティフェクスから電話がかかってくる。
 ポンティフェクスは古ラテン語で「僧侶」、字義は「橋をかける人」。
 ポンティフェクスによれば、NSAはローレンスの業績を盗んだ。40年代の暗号解読スーパーコンピュータ、ハーベスト。
 アレトゥサ電文は虚妄。カムストック(父)はNSA創設後、アレトゥサ解読にリソースを費やしてきた。59年、ついに解読。実態はただのゼータ関数の出力。しかも、入力の数列は「COMSTOCK」だった。カムストックは46歳でNSAを放逐され、ケネディ政権の国家安全保障会議に入った。

・「グローリー」

〈シャフトー〉
 シャフトーは抗日ゲリラとなったグローリーと再会。グローリーは顔がなかった。

・「第一貯蔵庫」

〈ランディ〉
 ランディはキナクタ国に移動。(「アジアの航空会社が使っている旅客機の後部には、二十八歳になったスチュワーデスを成層圏に射出する特別な装置があるにちがいない」が酷い)。

 ハワードは私邸を建設していた。モスクワのアメリカ大使館はKGBが基礎のコンクリートに盗聴器を混ぜていたために解体された。陸屋根のコンクリート構造、丘に排水溝を立てたようなもの。
 オルド社のコンピュータ室はドア枠が巨大な電磁コイルになっていて、HDDの磁気情報をすべて消去する。
 HEAP銃。海兵隊にM1ライフル銃が配備されたとき、隊員たちは海に放りこんだり砂まみれにしたりした。それで故障したため、1903年モデルのスプリングフィールド銃を使いつづけた。ダグラスはHEAP銃に反対。
 黒い部屋(ブラック・チェンバー)ブリュッセルでのG7の高官級会合。議長はカムストック(子)。NSA国税庁シークレットサービス、副大統領、政府に協力的な数学者。国際データ転送規制機関の準備委員会。暗号、とくに電子通貨の規制が目的。
 ランディは引揚げた金塊をハワード邸に隠匿することを提案。
 魔法使い、エルフ族、ドワーフ族、人間、ゴクリ。
 ダグラスによれば、ベトナム戦争中、カムストック(父)は米軍にルソン島を捜索させた。目的は第一貯蔵庫。
 ランディはハワードのラップトップを借りて、自分のHDDを接続。遺品のアレトゥサ電文がNSAのものでないことを知る。

・「浸水」

〈後藤〉
 予想どおり、日本軍は後藤たちを生埋めに。秘密の換気抗から脱出する。

・「逮捕」

〈ランディ〉
 ランディはマニラへ移動。
 『暗号書』を読みこむ。例文が軍隊の指令で「嘘っぽい(ホーキー)」と思うが、それが実際のものだと気づいて動揺する。暗号の専門家は脆弱性を指摘するだけだが、それは実際の暗号化、復号化ではない。映画評論家が映画監督でないことと同じ。
 ニノイ・アキノ国際空港でランディの荷物から麻薬が見つかる。「麻薬密輸者は死刑」。

・「マニラの戦い」

〈シャフトー〉
 マニラ掃討戦。シャフトーは息子を探す。

・「虜囚」

〈ランディ〉
 アレハンドロ弁護士。「”法律家”の肩書が先生(ドクター)と同じくらいありふれている国」。
 刑務所ではメディアが逆進化。観たビデオの口承文化が発達。「『ランボー3』でスタローンが薬莢から火薬を取りだし、傷口を焼灼する場面を聞くと、全員が畏敬の表情でしばし恍惚となる」。アンリ・シャリエール風の独房ではなく、超過密の都市社会。
 死刑執行場という先端設備の予算はなく、死刑囚は250人以上いる。
 かといって、保釈はありえない。「極刑に値する罪で起訴されているのだぞ! ジョークであることはみんなわかっているとはいえ、法は遵守しなければならない」。
 ランディは個室と私物のラップトップを与えられる。

 エイミーと面会。「ランディは思わず腕時計に目をやりたくなかったが、とうに没収されていた。エイミーはいま男女の会話部門で世界記録を達成したのだ。ランディが感情的に素直に応じないことへの話題の転換だ。こういう場所でそれができるとは、尊敬すべき神経の図太さだ」。
 ランディは一瞬、エイミーが黒幕かと疑う。
 ランディたちは、全壊した家の地下で歴史ロマンス小説を発見していた。「シャーリーンは週一冊くらいのペースでこういうものを読んでいたらしい」。「シャーリーンの業界においてそういう本を読んでいるというのは、一六九二年頃のマサチューセッツ州セーラムの村の通りを、とんがり帽子を頭にかぶって歩いているのと同じ行為だというのに」。「彼女がなにを求めていたかわかったでしょう?」「求められるものを与えていたの、ランディ?」。
 ランディはエイミーに告白。「初めて会ったときからきみにのぼせあがってるんだ」「ぼくが気持ちを表現したり行動に移したりできなかったのは、そもそもきみがレズビアンなのかそうではないのか、よくわからなかったからなんだ」「……でもそのあとは、たんに引っ込み思案のせいだ」。

・「誘惑」

〈シャフトー〉
 承前。野球場で手榴弾が投球される。シャフトーと後藤は再会する。
 後藤は進退に迷っていた。そこにマッカーサーが訪れる。シャフトーは後藤が改宗すると告げる。マッカーサーは感涙、後藤を迎える。
 シャフトーはダグラスと会う。ダグラスにサンアグスティン教会を見せ、来歴を伝える。

・「知恵」

〈ランディ〉
 ランディの親知らずの話。
 ラップトップはバッテリーが抜かれ、電源コードの長さで一箇所に固定。
 隣の独房にルートという老神父が収監される。その声はポンティフェクスのものだった。「どうだね、ランディ。橋をかけて(メイク・ア・ブリッジ)みないか。そんな風に尊大な態度(ポンティフィケイト)で立ちつくしているくらいなら」。

・「降下」

〈シャフトー〉
 コレヒドール島にある日本軍のコンクリート掩体の通信施設。シャフトーは自動開傘策で降下。アンテナが刺さって致命傷を負う。華々しく爆死。

・「メティス」

〈ランディ〉
 ラップトップはバン・エック傍受されている。Xウィンドウズ・システムで画面を読みにくくし、タイトルバーを非表示にする。パール言語でスクリプトを書き、ランダムにウィンドウを表示させる。
 埋蔵金のある土地は教会が所有している。中国共産党長老幹部、袁将軍。
 ポンティフェクス暗号の正体はソリティア暗号

 ルートのメダルには「イグノティ・エト・クアシ・オックルティ(未知にして隠微)」の文字。「オカルト」という言葉に悪魔崇拝のような意味はない。「ぼくは大学で天文学を勉強しました。星蝕(オカルテーション)は知っています。隠蔽(オカルテーション)も」。
 メダルの女性像はアテナ。アテナは生殖によって生まれたのでなく、ゼウスの額から出てきた。好色なオリュンポス神族のなかで、例外的に処女。残酷なギリシャ神話のなかで、例外的に寛大で公正。挑発したアラクネを正当に機織りで敗北させる。アテナは戦争の神、知恵の神、工芸の神。奇妙な組み合わせだ。ギリシャ語の知恵は「ディケ」で、アテネが司るのは「メティス(狡猾さ、巧妙さ)」。工芸は巧妙さの応用。
 「ぼくが工芸という言葉から連想するのは、サマーキャンプでつくらされるへたくそなベルトや灰皿ですね」「それは翻訳がまずいせいだ。現代の言葉でいえば”テクノロジー”に相当すると思ったほうがいい」「だんだんわかってきました」。
 もう一方の戦争の神のアレスは無能、荒淫。アテナが加護するヘラクレスはアレスに痛打。アレスの残虐な息子たちを処刑。アテナはオデュッセウスにも加護、オデュッセウストロイの木馬を発案した。ヘラクレスオデュッセウスはメティスを武器とする。
 「アテネはヘパイストスに押し倒されたことがあると言っただろう」「ぼくの精神にははっきりした表象が生成されていますよ」「それでこそ神話だ」。ヘパイストスは金属、冶金学、火を司る。地面に捨てられた精液からはエリクトニウスが生まれた。エリクトニウスはチャリオットを発明、銀を通貨として使用しはじめた。
 シュメール人のエンキ、古代スカンジナビア人のロキ、アメリカ先住民のトリックスター。だが、先住民はテクノロジーをもたなかった。
 アレスのような人間の行動パターンはいつの時代も存在する。「文明には盾アイギスが必要なのだ。そして悪者を最後に撃退するのは、知性だ。狡猾さだ。メティスなのだ」。戦略的狡猾さ、技術的狡猾さによって。「わたしたちが第二次世界大戦に勝ったのは、ドイツがアレスを崇拝し、わたしたちがアテナを崇拝していたからだ」。
 (『クリプトノミコン』のクライマックスとなる一節だ)。
 ランディはアレトゥサ暗号がゼータ関数を使用していると推測。チェスターにローレンスのトランクを求める。

・「奴隷」

〈ローレンス〉
 承前。ローレンスは通信施設に入る。
 算盤(アバカス)、もとい複数形の算盤(アバシ)と40人弱の奴隷の死体が見つかる。「戦争が始まるまで”奴隷”という言葉は”桶屋”や”蝋燭屋”のような死語だと思っていた」。

・「サブリミナル・チャンネル」

〈ランディ〉
 ランディは『暗号書』のC言語C++言語に変換したり、ルートと雑談したりして過ごす。ナチスユダヤ人科学者を嫌った理由。「ヒルベルトラッセル、ホワイトヘッドゲーデル。彼らは数学を解体し、いちからつくりなおそうとした。しかしナチは、数学とは混沌を秩序に変えていく使命をもった英雄的な科学だと考えていた。それはまさに、国家社会主義が政治の世界でもっている使命でもあったんだ」。
 歯医者と面会。歯医者は黒幕ではないらしい。「ランディはかなり高度なC++のコードを書いている最中に独房から引っぱり出され、歯医者との面会に連れてこられていた。そしてひどく退屈して苛々している自分に気づいて、少々驚いていた。ランディは退化していたのだ。つまり、徹底的なおたく状態に戻っていたのだ」。
 チェスターはデータをCDにコーディングして届ける。シアトル・サウンド。バンド「シェコンダー」、プレイしたTRPGの地下世界の神の名前。
 サブリミナル・チャンネル。スペースバー、LEDでモールス信号を入出力し、スクリーンに表示せずラップトップを操作。スクリーンには第一貯蔵庫の偽の経緯度を表示させる。ランディはアレトゥサ電文を解読。そこには本物の経緯度が書かれていた。

・「地下室」

〈ローレンス〉
 承前。奴隷たちは人力のコンピュータだった。
 アメリカ陸軍通信情報部隊が、マニラにローレンスのデジタル・コンピュータを設置。ローレンスは奴隷計算者によるアジュア暗号=パファーフィッシュ暗号を解読。残るはアレトゥサ電文のみ。

・「秋葉原

〈ランディ〉
 ランディはフィリピンを国外退去処分になる。成田国際空港へ。
 日本人はアメリカ人よりアメリカ的に見える。中産階級は豊かに、人間は丸くなる。若い女の子はかわいく、年配者は立派なのに、野球帽にスニーカー履き。低所得者層は鋲打ちのレザージャケットに手錠で、むしろマニラの貧しい囚人に見える。
 日本ではすべてが女性のか細いアナウンスで始まる。日本人はグラフィック表現の才能がある。あらゆるところに安全標識。天井は各種安全装置でいっぱい。「LEDがつくりだす赤い星座は、古代ギリシア人が観たらガニュメデスあるいはホモ好きのする酌童を連想するだろうが、日本人が見たら大災害とレスキュー隊員を思い浮かべるはずだ」。
 ランディは獄中生活で痩せる。
 アビと秋葉原へ。「パソコンオタク」が集まる「おたく涅槃(ナードバーナ)」。
 世界は海底ケーブルに依存。海底ケーブルを切断する海軍力をもつ国。その集団安全保障体制で生まれたのが、国際データ転送規制機関。
 後藤フェルディナンドの父、日本政財界の大物の後藤伝吾が上京する。

・「プロジェクトX

〈ローレンス〉
 1945年4月。ほぼ終戦
 コロッサス・マークⅡが完成。チューリングはコンピュータの開発に本格的に取組む。ジョン・ウィルキンズの発案した水銀の音波。「きみが埋めた銀の延棒は見つかった?」「消えたのさ。ノイズの海に」「今の質問はぼくのチューリング・テストだ。チューリングだかチャーチルだか、この機械のせいでわからないんだよ」。
 ロンドンの地下司令部にいるチューリングと、マニラのコレヒドール島にいるローレンスが通話。各々でホワイトノイズのレコード盤を同期させることで、通話を暗号化。ニューヨークのベル研究所の「プロジェクトX」と書かれた部屋で、「最新チャート第一位のホワイトノイズ」が作成、世界各地に配送される。
 アレトゥサ電文について、疑似乱数生成がゼータ関数によるという仮説を、チューリングは却下。ゼータ関数はルディ、アラン、ローレンスの共通認識。だが、ローレンスはルディが2人に解読されることを期待していたと推理する。

・「着岸」

〈ビショフ〉
 ルディ、ビショフを新型艦が迎える。Vミリオン号ゲーリングは逃亡、デーニッツが新総統になる。
 ジュリエタに子供が生まれる。「秘密結社に息子が生まれたぞ」「名前はなんて?」「G(ギュンター)・イノック(E)・ボビー(B)・キビスティクだ」。
 マニラの金塊を回収しに出航。
 (文庫4巻に渡る長大な伏線回収で爆笑)。

・「後藤様」

〈ランディ〉
 ランディとアビは後藤父子と面会。
 ランディと後藤は経緯度の秒以下だけを交換。数値が一致する。アビは情報漏洩を疑うが、ランディは後藤が埋蔵金埋伏の当事者だと断言する。
 後藤はランディとアビに金箔コーヒーを出し、本当の金は人々の頭と手だと説教する。
 アビは後藤に白黒写真を見せる。「わたしの大叔父とその家族です」「一九三七年、ワルシャワでの写真です。大叔父の歯があのなかに埋まっているのですよ。あなたが埋めたんですよ!」「わたしは大叔父を知らないし、ホロコーストで死んだほかの親類も知りません。しかしその親類たちを人間らしく埋葬してやれるなら、金塊などひとかけらも残さず海に放り込んでいい。あなたがそれを条件にするなら、そうしますよ。でもわたしの計画はすこしちがう。そういうことが二度と起きないようにするために、その金塊を使いたいのです」。
 袁が採掘を始める。後藤とランディたちとの競争が始まる。

・「墓」

〈後藤〉
 シャフトーの葬儀。後藤はルートと会う。

・「帰還」

〈ランディ〉
 キナクタ国のハワード邸。パムボートで沈没船の金塊をハワード邸に陸揚げ。ダグラスとエピファイト社のメンバーが金塊を目にする。
 パムボートでランディ、ダグラスはフィリピンに密入国。ジャングルでランディはエイミーと再会する。ルート、探検記のメンバーとも再会。
 ランディはついにエイミーと結ばれる。だが、挿入前に果てる。ひとまず無精髭は剃ることに。
 袁は爆破掘削を進める。
 ランディたちは地雷原に迷いこむ。

・「クリブ」

〈ローレンス〉
 ローレンスはシャフトーの葬儀で張込みしていた。

 その1ヶ月後、ローレンスはマニラでルディと再会。「FUNERAL」をクリブにして、ついにアレトゥサ暗号を解読した。
 ルディはローレンスを秘密結社に誘う。ローレンスはワシントン州の大学に数学教授として招かれているとして辞去。「”秘密を守る”という連中にかぎって秘密を守れないものだとは、よくいうだろう?」「秘密は守るから」。

・「カイユース」

〈ランディ〉
 承前。ランディたちは地雷原で身動きがとれない。「「袁が金塊を手にいれるのを阻止するためなら、死んでもいいと思っているのか?」「そこまでは思ってませんね」「だれかを殺す覚悟はあるか?」「だれかが夜中にきみの家に侵入して、きみの家族を脅しているときに、きみの手のなかにショットガンがあったら、それを使うか?」これは倫理的な難問であるばかりでなく、娘の夫として、孫の父親としてふさわしいか調べるテストなのだ。「まあ、使えればいいなと思います」。
 エイミーがカイユース族の矢で射られる。ランディは平石に決死のジャンプをする。「ランディ、それは日本軍の対戦車地雷だ」「きみがそういう無意味でばかげた行動をしばらくやめてくれたら、われわれはおおいに感謝するよ」。
 (この終盤でギャグを挟んでくるのに爆笑)。
 カイユース族の矢を使うのは、絶滅したカイユース族ではなくアンドリュー。
 エイミーがアンドリューを射殺。

・「ブラック・チェンバー」

〈ローレンス〉
 カムストックがローレンスを新設する国家安全保障局NSA)に誘う。戦間期の前身は暗号局(ブラック・チェンバー)。メリーランド州フォートミードに前代未聞の規模の機械室を建設する。

 マニラのアメリカ陸軍本部。アメリカ軍はVミリオン号を追跡していた。
 ローレンスはアレトゥサ電文を「COMSTOCK」の暗号文とすり替える。Vミリオン号は撃沈される。

・「パラワン水道」

〈ビショフ〉
 Vミリオン号は海戦、ついに座礁する。
 艦内の空気は圧縮されていて、火を点けると爆発する。だが、第一貯蔵庫の経緯度を書いた紙が残っている。ルディはビショフを脱出させ、紙を燃やす。

・「流動性

〈ランディ〉
 後日談。スペクトル拡散式パケットラジオで、ランディは全世界に状況を発信。袁は撤収。
 エイミーは回復。
 報道関係者、金掘り、おたくたちが現地に集まる。
 ランディは有名人に。タイム誌とニューズウィーク誌の表紙に載る。
 ランディの発案で、第一貯蔵庫は掘削せず、金を燃料で溶かして流出させることに。後藤エンジニアリングが施工。
 ダグラスが演説し、点火のスイッチを押す。
 川に黄金の河が流れだす。

○後書

 『クリプトノミコン』のクライマックスは、ルートがアレスとアテナの戦いについて語るところだろう。
 じつのところ、『クリプトノミコン』は戦中と現代の物語が繋がり、現代で祖父世代の謎が解けるところで終わる。そうしたプロットについていえば、『重力の虹』などより、名作であるリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』のほうがはるかに類似している。
 スティーヴンスンは事物や人間関係の変化より、ひとの精神が変化することや、理解が深化することのほうをはるかに重視しているのだろう。

 『クリプトノミコン』の中心主題は、オタクこそ決起しなくてはならないということだ。
 現在では、オタクというと一般にアキバ系サブカルチャーのファンだ。そのため、マニアというべきだろう(『げんしけん』を読んで喜んでいるような人々に、理性と良心を期待できるはずがない)。
 エルフ、ドワーフ、人間という区分は分かりやすい(『クリプトノミコン』の発表は『ロード・オブ・ザ・リング』の流行前だ)。人文系の研究者がホビットで、マニアック(偏執狂)になるまで発狂したマニアがゴクリということも、説得力がある。
 私自身の性格類型はまったく人間だ。だが、エルフやドワーフが活躍できる社会になればいいと思う。

 なお、暗号資産や3Dプリンター銃は社会問題を起こすばかりで、むしろアテナよりアレスのものになっている。この予想の失敗は、技術が万人に中立のものであることを、スティーヴンスンが考慮しなかったためだろう。『クリプトノミコン』における青写真は、エルフとドワーフだけの社会を前提としていたように思える。

 しかしまた、現在でもメティスの重要性は変わらない。
 クリストファー・ワイリーの『マインドハッキング』、『スノーデン 独白』はおおいに欣快とした。