『恋に至る病』の解釈を確定できる4つの理由

 斜線堂有紀の「からかい上手の高木さんシリアルキラー)」こと『恋に至る病』の劇場版が公開されます。

 作中でも検索エンジン最適化(SEO)の話題が出てきますが、いまさら新しい記事を書いても、「恋に至る病 考察」などの検索ワードで上位に表示されることはないでしょう。ですので、結論だけ書きます。

 『恋に至る病』のラスト4行の解釈は大きく二分されていて、消しゴムは ①寄河が宮嶺のイジメの首謀者だった=寄河がサイコパスだった証拠 ②寄河が宮嶺を愛していた証拠 の2つです。

 数えてみたところ、検索の上位10位の記事は見事に五分五分に分かれていました。

 ですが、作者が意図した解釈は明確に②です。しかも困ったことに、②の記事も恣意的に本文を無視しています。結論でなく手続きについては、①の記事のほうが正しいのです。

 9月25日に『恋に至る病』の番外編である『病に至る恋』が出版されます。あらかじめ本稿を発表しておくことで、解釈の正確さの保証にします。

 

 なお、本稿はがんがんメタ読みをします。

 その意味で、本文のみから解釈を導く「考察」ではなく、むしろ「批評」です。作品をあくまで創作として扱うという意味で、無粋ではありますので、ご了承ください。

 あと、パク・チャヌク監督『渇き』と、『クリミナル・マインド』シーズン2の第13話「史上最強の敵」、最終23話「史上最強の敵 再び」のネタバレをがっつりしていますので、ご承知おきください。

 

1.技術論

 

 ラスト1行で真相を明かすのは、推理小説で「フィニッシング・ストローク(最後の一撃)」と呼ばれる技法です。

 『恋に至る病』のラスト4行までは、入見刑事の推理により、寄河がサイコパスだったということで話が進んでいます。これで寄河がサイコパスだったことを明かしても、最後の一撃にはなりません。

 そのため、①の記事では、1. 寄河はサイコパスで 2. サイコパスとして宮嶺を愛していた という二重の真相を明かすものだと解釈しています。

 たしかに魅力的な解釈ではあります。乙一の『GOTH』*の"愛情ではありません、これは執着というのですよ、先輩……。"ですね。(*文庫版の編集はクソなので合本版で読んでください)

 ですが、最後の一撃としては段取りが悪すぎます。しかも、第1章において、伏線となるべき、寄河の宮嶺への支配欲や嗜虐心を示す描写はありません。

 技術論として、①なら最後の一撃は的を外しています。

 同作者の『私が大好きな小説家を殺すまで』では、最後の一撃が完璧に決まっていることもあわせてお考えください。

 

2.文法論

 

"「私は、宮嶺を傷つけられた時から、……私の中に、ずっと消えない炎があるの……私が、もし、普通の女の子だったら、」"(pp.270-1)

 

 もし寄河がイジメの首謀者なら、受動態でなく能動態のはずです。

 しかも、日本語がよく受動態を取ることを考えても、自然な表現なら「宮嶺が傷つけられた時」になります。「宮嶺を傷つけられた時」という構文は、明らかに寄河の意思、あるいは作者の意図があります。

 ①か②かの解釈は、合理的な文法論だけでほとんど確定すると言っていいです。

 

3.主題論

 

 『恋に至る病』では宮嶺と寄河の「地獄でまた会おう」という思いが主題になっています。ですが、その思いは入見刑事の"「生憎私は死後の世界を信じていないんだ」"(p.292)という一言で完膚なきまでに粉砕されます。もちろん、これは自殺ゲームの洗脳が死後の世界という「物語」を利用していたことも意味しています。作者はあとがきでこれを"希望"(p.294)だと宣言しています。

 

 さて、「地獄でまた会おう」という決め台詞はお約束ではありますが、その否定となると、具体的な先例があります。

 パク・チャヌクの『渇き』です。

 

"「地獄で会おう」

「死んだらおしまい」「今まで楽しかったわ 神父様」"

 

 映画はこの台詞とともに、主人公2人が無情に死んで終わります。『渇き』はゾラの『テレーズ・ラカン』の翻案ではありますが、作品を象徴するこの台詞は、映画のオリジナルです。

 『渇き』における主人公2人の対話を、『恋に至る病』では主人公2人と入見刑事に分けているわけです。

 

 自殺ゲームのブルーモルフォは蝶をモチーフにしていますが、古代ギリシャ語で「魂(プシュケー)」は蝶を意味し、それが英語の「サイコ(psycho)」の語源にもなっています。

 ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙』は、古代ギリシャで人間に物語る能力が生まれ、そのときはじめて「魂(プシュケー)」の概念が誕生したと言います。まあ、トンデモ説ですが。

 ともかく、蝶には物語の意味があるわけです。

 ですが、物語はあくまで仮構にすぎません。それは入見刑事が全否定したとおりです。洗脳されて自殺した犠牲者たちは、どんな物語をもっていようと、洗脳されて自殺したことに変わりありません。

 そして、それは主人公たちにも言えます。作中で何度も述べられるとおり、どんな物語をかたろうが、寄河が大量殺人犯であることは変わりません。

 平山夢明シリアルキラー(連続殺人犯)のドキュメンタリーである『異常快楽殺人』で、連続殺人犯はどれだけ超人的な能力をもっているように見えても、不安と強迫に囚われた憐れな人々でしかないと言います。

 その意味で、寄河もまた憐れな人間でしかありません。

 ですが逆に、そうして連続殺人犯になるということは、運命を受けいれ、自分の物語をつくることだとも言えます。ここでどのような物語もかたることができるとすると、物語に意味がなくなってしまうので、あくまで真実は本人の外にあります。

 

 ここで、"「やっぱりそうか」"(p.269)の意味を確認しておいていいでしょう。

 この直前で、寄河は宮嶺と善名を助けられるか賭けをします。それは寄河が善人か悪人かを明かす審判でもあります。それで賭けに負けたのですから、一義的には、寄河が悪人だったという意味でしょう。

 ですが、ここで寄河が瀕死の重症を負っているため、いろいろと二義的な解釈が生まれているようです。

 しかも、賭けの約束は寄河の自首か(もっとも、宮嶺はこの約束は反故にさせるはずですが)、宮嶺が寄河と添い遂げることかで、入見刑事の推理によれば、このとき寄河は宮嶺を犠牲にすることを決断していたはずなので、なおさらです。とはいえ、入見刑事の推理は逆洗脳、洗脳を解くための物語という意味が強いです。寄河があらかじめ日室に宮嶺を確保するように指示していたことを鑑みると、緒野の殺害と同じく、宮嶺に寄河が殺人を続けることを納得させるための芝居だったと考えるべきです。

 とはいえ、二義的な意味も考えてみていいでしょう。まず、因果応報への自嘲の意味合いがあることはまちがいありません。次に、洗脳していた善名に予期せずして逆襲されたことについてです。これがなぜ「やっぱり」になるのでしょう。それは当然、洗脳に限界があることへの自嘲の意味合いでしょう。

 これは、かたられた物語はすでに話者のものでなくなり、個々人の思いになっていることでもあります。個々人の思いはもはや物語の話者が操作できるものではありません。

 

 じつのところ、『恋に至る病』の最大の問題は「寄河はサイコパスだったか否か」ではありません。「宮嶺の寄河への愛は洗脳か否か」です。その答えがここにあります。宮嶺の寄河への愛情に、寄河の関与があったかは問題でなくなります。

 とは言うものの、宮嶺の寄河への愛に、まったく寄河による関与がなかったこと、そして、そのときに寄河の宮嶺への愛が始まったことは、本文に明記されているのですが(p.30、p.266)。まあ、このあたりは寄河の計画の全容とあわせて、②の記事にさんざん書かれているからいいでしょう。

 ちなみに、ですから①の記事でも、寄河の動機が宮嶺を洗脳するためだったとしているものは単純に誤っています。

 ②の記事は勢いあまって、寄河がサイコパスだったということまで否定しまうから困るのですが。再掲しますが、

 

"「私は、宮嶺を傷つけられた時から、……私の中に、ずっと消えない炎があるの……私が、もし、普通の女の子だったら、」"(pp.270-1)

 

 の言葉の続きは、「普通の恋人同士になれたのかな」です。再言になりますが、この意味で、寄河は大量殺人犯ですが憐れな人間でもあります。

 おおむね、①の記事の要点は寄河が「理由のない殺人者」だったということです。②だと寄河もまた幼少期の事件でトラウマ(心的外傷)を負い、性癖を歪ませられた犠牲者だったということになってしまうからです。

 「理由がない」という理由は、いついかなるときにも言えるので、ほとんど意味がありません。あるとすれば、他の理由を否定するという消極的な意味だけです。ただ、ほとんど意味がないとはいえ、つねに可能な主張ではあります。

 ですが、本作では問題になりません。本作は宮嶺の一人称だからです。よって、問題は宮嶺が寄河をどう解釈するかということになります。

 そして、ラスト4行の最後の一撃となる証拠を、宮嶺はあらかじめ得ています。そのために寄河を見殺しにしています。その後、エピローグで入見刑事の推理を聞き、宮嶺は動揺しています。宮嶺の解釈する消しゴムの意味が、寄河がサイコパスだったことなら、動揺するはずがありません。

 ですので、ラスト4行の解釈に関する①の記事は、主題論としては誤っています。

 

 なお、連続殺人犯が憐れな人々だということについては、サイコパスの一人称として、ジャック・ケッチャムブレット・イーストン・エリスよりさきに、すでにデヴィッド・フォスター・ウォレスが『奇妙な髪の少女』(表題作)で書いています。

 

4.作品論

 

 理屈っぽい話を長々としましたが、最後の理由は単純です。

 『恋に至る病』が「美女と野獣(Beuty and the Beast)」のジャンルの物語だからです。

 

 『クリミナル・マインド』第2シーズンの第13話「史上最強の敵」、最終23話「史上最強の敵 再び」の犯人は、『黄金州の殺人鬼』を思わせる、10年以上も犯行を重ねている大量殺人犯です。

 名実ともに史上最強にふさわしい大量殺人犯のフランクですが、唯一の弱点がありました。誘拐しておいて解放した、精神薄弱の女性のジェーンです。フランクはジェーンに恋しているようでした。最終23話で、FBI行動分析課は、ジェーンを餌にしてフランクをおびき出すことに成功します。

 駅でフランクは包囲されますが、いつでも逃げられるという余裕の態度を崩しません。そして、行動分析課が連れていたジェーンに話しかけます。

 

"「この世界は僕らには合わない 理解されないんだ」「僕といたとき以上の幸せは?」

「ないわ」

「楽しかっただろう」

「フランク」

「一緒に行こう ここで終わる必要はない」"

 

 ジェーンは行動分析課のもとを離れ、フランクのところに行きます。

 

"「愛している」

「私も」"

 

 急行列車が駅に入構したとき、2人は線路に飛びこみます。

 

 いかがだったでしょうか?

 これで、『渇き』の対話が、主人公2人と入見刑事に分けられた理由もおわかりいただけたと思います。