神聖かまってちゃんの詩学 - 『Os-宇宙人』、『友達なんていらない死ね』、『ズッ友』 -

 筆者はバンド《神聖かまってちゃん》のよき聴者ではない。公正な観点からも、各アルバムにつき、多大な魅力があるとは言えない。《神聖かまってちゃん》はいわゆる「メンヘラ」と「サブカル」のアイコンと見做されることが多い。その紋切型は、批判的には、具体的に、以下のようになる。生活に卑近な風俗的なものを題材に、自己愛を基底とする、自己憐憫的、自己陶酔的な歌詞を、情緒不安定さを演出意図とする、高音の歌声で歌う。とくに、その皮相さにつき、風俗的なものの題材は悪趣味と少女趣味に偏向している。この紋切型はかならずしも否定できない(無論、あくまでただの紋切型だ。例えば、近しい2018年のアルバム『ツン×デレ』でこの紋切型が当てはまる曲は『犯罪者予備君』だけだ。しかし、本稿ではほぼこの紋切型に当てはまる曲のみについて論じる)。
 だが、この紋切型は表面的なものだ。『Os-宇宙人』、『友達なんていらない死ね』、『ズッ友』の3曲はまったくの名曲だ。
 なお、『友達なんていらない死ね』は音源が3つあり、アルバム『楽しいね』、ベスト盤『ベストかまってちゃん』、そしてYouTubeだ。このうち、YouTubeに投稿されているものは、ノイジーな加工が多分に施されており、CDに収録されているものとは別物だ。筆者はあらゆる作品はアクセスが容易に如くはないと考える。金銭的取引を含め、アクセス可能性が下がることで作品の価値が上がるという考えは明らかにバカげている。しかし、防衛的に、大量の流通による記号化を阻止するため、アクセス可能性を下げることは部分的に賛成する。ともあれ、『Os-宇宙人』につき、『友達なんていらない死ね』を欠くことは、モーツァルトの《レクイエム》につき、《大ミサ曲 ハ短調》を欠くことと同じで、作品鑑賞を不十分なものとする。
 以下、『Os-宇宙人』、『友達なんていらない死ね』、『ズッ友』の3曲を中心に、《神聖かまってちゃん》の曲のコードと歌詞を時系列順に分析し、その作曲と作詞の特徴を指摘する。それを踏まえ、上述の紋切型を修正する。
 作曲と作詞の特徴につき、あらかじめ結論を言う。作曲の特徴は以下の3点だ。①聴きやすい調性 ②分かりやすい、ほぼ三和音のみによる構成 ③大部分を順次進行とする、メロディアスな曲調 作詞の特徴は以下の3点だ。①皮肉、掛詞などの機知に富む地口 ②口語的な造語 ③生活に近く、かつマージナル(限界的、周縁的)な題材

 デビューアルバムの『友だちを殺してまで。』(2010年3月)の劈頭をなす『ロックンロールは鳴り止まないっ』は、明るく印象的な曲調と、普遍性のある歌詞で、幅広い人気をもち、《神聖かまってちゃん》の代表曲だ。すでにここで「駅前TSUTAYAさんで」という風俗的なものの固有名詞を使用しているが、これは時代が変わっても意味と文脈は十分に理解されるだろう(すでに2020年現在、ツタヤはほぼ過去のものになっている)。

 F G     Am F
ロックンロールは鳴り止まないっ

 本曲の調性はきわめて聴きやすいハ長調だ。そして、ほぼ三和音で構成されている。
 しかし、この中心となるフレーズのコードは《神聖かまってちゃん》では例外的だ。SD-D-《T》-SDという、ハ長調平行調であるト短調をもちい、疑似的にドミナント終止を再現し、最後にサブドミナント終止の逆行に開く。それにより、印象的で、かつ掻きたてられるようなコードになっている。以下で見る曲のコードでも、同様に、掻きたてられるような叙情性のため、ドミナント終止の逆行が用いられる。しかし、このように非-旋律的で和声進行的な、印象的な構成はされない。そのため、『ロックンロールは鳴り止まないっ』は《神聖かまってちゃん》ではじつは例外的な曲だ。

 『みんな死ね』(2010年12月)は上述のとおり、名盤とは言いがたい。しかし、以下の3曲が、のちの名曲の準備になっている。『最悪な少女の将来』は、まさに《神聖かまってちゃん》の紋切型の条件をすべて満たす。その意味で、後作の前身的な作品と見ていいかもしれない。しかし、洗練さを欠き、陰々滅々とした、風俗的なものに彩られた歌詞は詩性が足りない。ただし、「休み時間をトイレに流すように」というフレーズの機知には光るものがある。この機知は、『ねこラジ』の歌詞「塔の伝説を信じて 塔にのぼるようなバカになりたいのです トタン屋根の上よりもはるか上でさ 未知の電波受信したいにゃっ」にも表れている。最後に、《神聖かまってちゃん》の全曲中、もっともヘヴィメタルに近い『あるてぃめっとレイザー!』における、「あるてぃめっとレイザー!」のフレーズの連呼は、《神聖かまってちゃん》の、メロディアスな曲調で、叫ぶような歌唱法により、印象的な歌詞を伝えるという詩法の準備になったかもしれない。

 『Os-宇宙人』(2011年4月)は《神聖かまってちゃん》の傑作だ。

 BM7 C# D#m
2年生、バカは一人
 BM7 C# D#m
ここの町の、空見上げる
 BM7 C#  D#m
サボり学生、パジャマ着てる
 BM7      C# D#m
夏休みが、来ずに中退
 BM7 C# D#m   A#7
地球で宇宙人なんてあだ名でも
 BM7 C# D#m   A#7    BM7  C# D#m
宇宙の待ち合わせ室にはもっと変なあなたがいたの
 BM7 C# D#m
受信してるかなと
 BM7 C# D#m
接続してみると
 BM7 C# D#m   G#m7  A#m7   A#7
みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから
 BM7 C# D#m
テレパシる気持ちが、
 BM7 C# D#m
電波が違くても
 BM7 C#  D#m     BM7  C# D#m
きっとね何か掴んでくれてる あなたの事が好き

 調性は聴きやすいロ長調だ。また、大部分が三和音で構成されている。
 コードのほぼ大半は根音のメジャー・セブンス・コードから2回、2度ずつ三和音に下行するもので、きわめて簡単だ。D#mをD#m7の付加音を除したものと見て、コード進行はT-《経過音》-Tとなる。
 その例外は2つのサビの部分だ。「宇宙の待ち合わせ室には」のA#7への一時的な下行と、「ぱちくり見ているあなたがいたから」のG#m7 A#m7 A#7への展開だ。A#7はドミナントで、サビにおいて長いフレーズをT-D-Tで接続するのは無難妥当だ。G#m7 A#m7 A#7はT-D-《D》で、ドミナント終止の逆行で、掻きたてるような叙情性を与える。A#7はロ長調平行調嬰ト短調ドミナントだ。この平行調の使用は効果的だ。
 全体として、ほぼ順次進行で、聴きやすい、メロディアスな曲調だ。かつ、調性は明るい。このため、導入部にコーラスを用い、曲調に厚みを補足的に付加している。これにつき、『ズッ友』でも同様にピアノの伴奏を使用している。しかし、曲そのものの印象は切実だ。それは高音の歌声と、叫ぶような歌唱法、そして歌詞による。
 「夏休みが、来ずに中退」という深刻な内容の簡潔な表現と、そこに対照的に「夏休み」という牧歌的な名詞を使用することは、見事な詩学だ。「地球で宇宙人なんてあだ名でも 宇宙の待ち合わせ室にはもっと変なあなたがいたの」(無論、ここでの「待ち合わせ室」は精神科の待合せ室の含意(コノテーション)がある)、「受信してるかなと 接続してみると みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから」、「テレパシる気持ちが、 電波が違くても」の心療内科の語彙の使用と、孤独感の表現、そしてそれを洗練された文学的なものとする機知は、まったくすばらしい。なお、ここで「テレパシる」という口語的な造語を使用し、その機知を高踏的なものとせず、日常的なものに留めている。
 この詩学を見るかぎり、明るく、メロディアスな曲調は、むしろヴォーカルを強調するためだ。この方法論はJoy Divisionの『The Eternal』や、『Decades』の系譜に位置する(ただし、Joy Divisionの場合は、短調の調性を用い、メロディアスだが、ポップではなくメランコリックな曲調だ。そして、苦悩的で、内省的な歌詞だ)。
 おそらく《神聖かまってちゃん》の代表曲である本曲が、その紋切型の形成に多く加担している。しかし、このとおり歌詞は理知的で、自己憐憫的、自己陶酔的なものではない。

 『楽しいね』(2012月11日)の『友達なんていらない死ね』は、上述のとおり、『Os-宇宙人』の姉妹曲だ。

B♭ C F A
午後2時 精神科
B♭ C  F  A
家族連れの君もいる
B♭ C F A
待合室ではね
B♭ C  A
お互いまっ白ね


 B♭
午後2時 精神科
 B♭
家族と車で行く
 B♭
車の窓を開けて
F     C Dm ConE F
「秋の空がとても綺麗だ。」


B♭
淡々と
C      F
タンタンタンタンタンタン
A     B♭   C   Dm  A
タンバリンで首を吊っちゃった君は死んだんだ
B♭   C    Dm 
タンタンタンタンタンタンタン
A      B♭ C
タンバリンを一応鳴らして
Dm A
一応生きてる
B♭
淡々と
C      F
タンタンタンタンタンタン
A     B♭   C   Dm  A     B♭ C
タンバリンで首を吊っちゃった君は死んじゃったんだ

 調性は変ロ長調だ。平行調はもっとも憂愁な調性であるト短調だ。主となるコードのB♭ C F AはT-《経過音》-《D》-《D》だ。FはドミナントであるF7の付加音の省略、Aは平行調ドミナントだ。ドミナント終止の逆行を主要主題に使用している。
 比較的、ポップな『Os-宇宙人』に対し、より秀麗で、きわめて聴きやすい変ロ長調を使用し、焦燥感と不安感を掻きたてるドミナント終止の逆行をはるかに多用している。
 その歌詞は多言を要さない。ただし、「午後二時 精神科」「家族と車で行く」の視覚的なまでの強いイメージの喚起力は特筆すべきものだ。《神聖かまってちゃん》の見事な詩法を示す。
 そして、友人の死と、その喪失感および絶望感を表現する部分の歌詞は、地口を用い、その情緒性への自家撞着を阻止している。上述のとおり、アクセス可能性の高いYouTubeの音源では、ノイジーな加工を施し、さらに距離感を強めている。

 このアルバムに収録されている『花ちゃんはリスかっ!』は《神聖かまってちゃん》の紋切型にもっとも適合的だ。「ジャスコで買っちゃった武器を手に持ち 198円 全員殺せ」「ジャスコで買っちゃった武器を持つ時立ちはだかるのは 非国民的英雄花子」の皮肉と、土着的なものと、風俗的なものの題材の使用は見事だ。しかし、本曲は終盤に三人称から二人称へと変化し、そのことが文学的、政治的な危険をもつ。ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』で三人称は事実と虚構を等価とする人称だと分析した。これに対し、一人称と二人称だけが、つねに主体的なものだ(なお本書は、だから、安直に、主観的な一人称と二人称を使用すべきというのではなく、自身の非-主体性を自覚し、細心の注意を払いつつ、三人称を使用すべきという趣旨だ)。本曲で三人称から二人称へ変化することは、発話者の主体性を隠蔽し、その責任を棚上げし、また、所与の規範を透明化する。こうした発話者の主体性と、その責任と、所与の規範に無自覚であったために、文学的、政治的な危険が発露した例は椎名林檎だ。しかし、《神聖かまってちゃん》はこのあと、同様の危険を冒していない。

 シングル『ズッ友』(2015年6月)は『Os-宇宙人』に並ぶ傑作だ。

D♭M7 E♭
春の日の午後
Cm
雨はちらつき
D♭M7 E♭
涙もろいね
Cm
季節はずれだ
D♭M7 E♭
初恋はまだ
Cm
黙り続ける
D♭M7 E♭
涙が出たと
Fm
勘違うから


  D♭M7
神は罰するか
 Fm D♭M7 Fm
私の白い部屋で鳴る
  Fm
このワルツ
 D♭M7 Fm
新しい世界が
 D♭M7 E♭ Fm
魅惑な君がいた
   D♭M7 Fm
マリア少々のお許しを
 D♭M7 E♭
私の  本性
  Fm
美しすぎて
 D♭M7 Fm
バイオロジカルを
 D♭M7 E♭ Fm
超えてく君がいた

 調性は変ニ長調でやはり聴きやすいものだ。
 コードもやはりメロディアスなものだ。主な部分は順次進行で、サビの部分はT-T-T-T-…とトニックを連結してゆく、調性のきわめて安定したものだ。上述のとおり、これにつき、ピアノの伴奏で曲の厚みを補足的に付加している。
 反-異性愛規範的な歌詞は多言を要さない。「勘違うから」という口語的な造語に、対照的に、サビの部分で荘厳な語彙を使用することの効果は見事だ。「初恋はまだ 黙るだけです 今日の続きを 信じるだけです」「愛がどーとか いらん茶々です」。注意すべきだが、反-異性愛規範は、異性愛の類例としての同性愛の称賛ではない。これにつき、自己が自己であるために自己像を否定したい、あるいは自己がまったき自己像のままであるために自己を否定したいという、現代的で、普遍的な問題意識がある。また、ここに政治性の契機がある。ビスワンガーの《症例エレン・ウェスト》は自殺願望を「絶望的なまでに自分でありたくなく、〈違って〉いたい」がために「自分自身でありたい」要求だと解釈する。ここにおいて、死は救いだが、それは存在が〈絶望的なまでに自分自身である〉のではなく、自分自身になったからだ(『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』からの孫引き)。フーコーはビスワンガーの『夢と実存』の序論で、この分析への賛意を示す。この問題意識を契機に、フーコーは自分自身を含め、ひとびとに内面化された所与の規範を批判する。そのうち、もっとも有名なものが『知への意志』の異性愛規範の批判だ。そして、これが《神聖かまってちゃん》がマージナル(限界的、周縁的)なものを採材する理由だ。

 ただし、マージナル(限界的、周縁的)なもの(精神病、薬物、不登校、無職、引きこもり、その他、反社会的なもの)の採材は致命的な危険をもつ。反社会的なものを、無自覚にそう認定して採材することは、所与の社会規範を反復し、再強化することに他ならない。上述のとおり、『ズッ友』では韜晦を用い、同性愛的なものを、特権的な地位からそう認定し、所与の異性愛規範を反復し、再強化することを避ける。このように、《神聖かまってちゃん》のマージナル(限界的、周縁的)なものの採材は、つねに理性的で、感情的に距離をおいている。これが、《神聖かまってちゃん》が歌詞で地口を多用する理由だ。
 これにつき、殊能将之フリッツ・ライバーについて述べたことが参考になる。

 "ライバーは、つねに自分の頭のなかの出来事を書いており、幻想に深く取り憑かれている。しかも、その幻想は非常に子供っぽいものだ。……しかしながら、その書き方は、幻想に完全にのめり込むことなく、ある距離をおいている。その距離感がユーモアを生む。書き方は大人なのだ。……ライバーは稀代のファンタシストでありながら、どこかしら醒めている。幻想に幻想を抱いていない、と言ってもいい。……幻想は幻想以上のものであり、自分を救済してくれるに違いない、などと考えるのは最悪である。そんなふうに思い込んでいるバカが幻想に溺れようとすると、ろくなことにならない。バカはクスリやったり酒飲んだりするな!……と、今日、テレビのニュースを見ていて、つくづく思った。……バカは頭がおかしくなるな!"(『殊能将之読書日記』pp.54-6)(太字は原文ママ

 殊能将之の顰に倣えば、「バカはメンヘラになるな!」となる。

 その愚かしさは当事者性があるときに限らない。いわゆる「メンヘラ」でなく、いわゆる「メンヘラ」を「メンヘラ」と情緒性をもって名指すひとびとだ。当事者性がなければ、その愚かしさはなお醜悪だ。それは、いわば観光客的なものだ。これを、蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で、"凡庸さとは……前言語的な距離と方向の計測者的な役割への確信として露呈するもの"(上巻、p.126)と述べる。これはヒッチコックが対談で語った観光客の姿そのものだ。こうしたひとびとはトリヴィアルな事物にばかり執着し、それ以外の視野をもたない。この愚かしさを避けるためには"遊戯への余裕ある距離の意識"(上巻、p.33)が必要となる。卑近な例を挙げれば、下ネタは面白いが、下ネタばかり言う人間ほどつまらない人間はいない、性表現、暴力表現は印象的で力強いが、性表現、暴力表現を特別だと思っている人間ほど退屈でつまらない人間はいない。Coccoの『強く儚い者たち』は唐突な下品さの挿入で成功しているが、この手法は1度きりしか使えず、また、発展の見込みもない。

 "H「……彼らはヨーロッパに観光旅行に出かけるのが大好きで、ナポリの貧民街に入りこんで三脚を立てて飢えて痩せ衰えた小さな子供を写真に撮ってよろこんでいる。狭っくるしい路地裏の貧しい長屋アパートにぶらさがっている洗濯物とか、街のまんなかをロバが歩いていく光景とか、そんなトリヴィアルなけばけばしいものにばかり目を惹かれて興にいっているんだよ! いまの若いイギリスの映画作家たちもその種のものを映画のなかに描くことに熱中しはじめた。社会的なヴィジョンというやつがはやりだ。わたしがイギリスにいたころは正直の(ママ)ところ考えもしなかったが、アメリカから帰ってきたときに、はじめてその大きなちがいに気がついたんだよ――つまりイギリス的な視点がいかに島国的なものかということだ。こんなことはあたりまえのことかもしれないけれども、やはりイギリスを一度離れてみないとわからないことだ。イギリスから出てみれば、すぐ、もっと広い世界観に出くわすことになる。ひとびとの話しかたを聞いてみたり、ひとびとと話しあったりするだけで充分だ。」"(『定本  映画術 ヒッチコックトリュフォー』p.112)

 『ツン×デレ』(2018年7月)の『犯罪者予備君』はサビの部分につき、コードが力強くで、歌詞が幻想的だという、上述の《神聖かまってちゃん》の特徴と相違するところはあるが、その詩学は同じだ。コードは主な部分は順次進行のメロディアスなものを、サビの部分は4度下行の力強いものを配置している。歌詞の導入部の「パッキパキにクリーニングした サイゼリアの赤ワイン」の頭韻は印象的で見事だ。無差別殺傷事件を正面から扱った音楽家が国内では他にいないというだけで、《神聖かまってちゃん》と、の子の文学性、政治性は注目すべきだ。
 『負債論』の著者で、ウォール街占拠運動などの運動家の、デヴィッド・グレーバーは『官僚制のユートピア』で、Mark Amesの『Going Postal』の、多発する職場における殺傷事件へのジャーナリズムの言説の分析を引用する。これらのジャーナリストの説明における言葉遣いは、19世紀の奴隷の蜂起への新聞雑誌によるものとほぼ一致する。こうした出来事を原因と思われるシステムに根差す屈辱感から切断し、理解しがたい個人的な怒りや狂気による行動として描写する。これらのことを構造的に説明できると仄めかすだけでも不道徳と見做される。例えば、奴隷制の悪弊について語ることで、1980年代の企業文化改革以前、アメリカ史上、職場における殺傷事件は1例も存在しなかったこと(ただし、奴隷によるものを除く)を指摘することだ。それは暴力を正当化すると見做される。また、具体的で、物質的な現実に即した強靭な知性をもつイタリアン・セオリーの哲学者で、アウトノミア運動の中心的な運動家の、フランコ・ベラルディは2015年に『大量殺人の"ダークヒーロー"』を発表し、そこで、若者世代の高い自殺率と、多発する無差別殺傷事件が社会の金融資本主義を原因とすることを分析した。これにより、ベラルディは若者世代の自殺率と、無差別殺傷事件は増加しつづけることを予測し、これは的中した。
 上述した、《神聖かまってちゃん》の詩学を踏まえれば、サビの部分で特別にコードが力強いものであることの意味も理解できる。歌詞は「深呼吸を深呼吸を深呼吸をしてよ」だ。この、幻想性を緩衝材としておき、一人称から二人称に移行し、呼びかけをおこなう構成はまったく無難妥当だ。