太ったおばさん著『出会って4光年で合体』感想

 高名な批評家であるロラン・バルトは、写真論の『明るい部屋』で「ポルノ写真はエロティックではない」と言った。

 バルトはメイプルソープの作品を指し、「この写真は定型的なイメージではなく、タイツの網目に私の注意を向けさせた。これでようやく、この写真はエロティックになった」と言う。

 そして、SMの愛好家たちを、定型的なイメージを実現しないかぎり満足できない人々として憐れむ。

 なぜ、ポルノはこれほど非難されなければならないのか。

 

 ただし、バルトは偏見でポルノを侮っているわけではない。

 バルトは『恋愛のディスクール・断章』で「今日ではセックスより感傷のほうが社会の禁忌を犯す」と言う。

 これは現代について正しい意見だろう。

 つまり、ポルノについても現代では正しい。

 

 『出会って4光年で合体』で、くえんは文字どおり、傾国の美女として描かれる。

 そして、それは読者にとって説得力をもつ。

 なぜか。

 そもそも絵柄、つまり、様式(スタイル)が他の登場人物と違うからだ。

 

 バルトは小説論の『零度のエクリチュール』で文体(スタイル)を問題にした。

 前近代から近代に移行するにつれ、小説のリアリズムは自明のものでなくなり、小説がリアルかを判断する上で、文体が意識されるようになった。

 逆に、文体が意識されなければ、小説は自明にリアルだということだ。これが「零度の文(エクリチュール)」の意味だ。

 

 文学者のジェラール・ジュネットは、『物語のディスクール』で、これをより明確に定式化する。

 物語内容(イストワール)、物語言説(レシ)、語り(ナラシオン)だ。

 物語内容は内容、物語言説は文章だ。そして、内容と文章が分離すれば、創作活動、つまり語りが問題化される。

 

 現代アメリカ文学のポスト・モダン小説や、ラテンアメリカ文学マジック・リアリズムも、こうしたナラティブの問題意識のもと書かれた。

 作中で引用される、『メイスン&ディクスン』のトマス・ピンチョン、『楽園への道』のバルガス=リョサといった作家もそうだ。

 フランスの実験文学のグループ「ウリポ」は、言葉遊びに傾倒した。作中の『らくゑんの餅』の言葉遊びと同じ意識だ。

 

 そもそも、本作の大量の引用、脱線しがちな語りといった話法は、いわゆるポストモダン文学のものだ。

 

 もちろん、本作でもっとも目立つナラティブはナレーションだろう。

 このことは後述する。

 ただ、コマとフキダシで構成された漫画が、手塚治虫以後の少年漫画における慣習でしかなく、もともとナレーションも一般的だったことは述べておく。

 このことは岩下朋世『少女マンガの表現機構』と、孫引きだが、三輪健太郎マンガと映画』引用のET「絵物語と漫画の違い」が実証している。

 

 さて、橘はやとの出生は村上龍コインロッカー・ベイビーズ』を強く意識させるものだ。

 

 蓮實重彦は『小説から遠く離れて』で、村上龍の作品の特色を、大量の短い描写の印象強さにおく。

 また、福嶋亮太『らせん状想像力』は、村上龍の作品を細分的でピクチャレスク(絵画的)と評する。

 これは本作にもそのまま該当するだろう。

 

 『コインロッカー・ベイビーズ』は捨子の物語だが、『小説から遠く離れて』は、近代で小説が誕生したことを、捨子であることを誇ることになぞらえる。

 そうすることで、前近代の封建社会のくびきを逃れる。

 この図式はマルト・ロベール『起源の小説と小説の起源』による。

 

 エリアーデが『永遠回帰の神話』で示すとおり、前近代の封建社会は不変の秩序を前提にしている。

 

 ところが、近代が進展し、現代になると、ふたたび決定論が優勢になる。

 ナラティブの問題意識も、そのひとつだ。

 すべてを技術的に再現できるのなら、リアルなものなど存在しない。

 

 本作では、『銃・病原菌・鉄』がパロディされたうえで、作者の渡辺麦が長宗我部真男に思想対決で敗北する。

 『銃・病原菌・鉄』の書きぶりでは、アタワルパが鉄を知っていれば、スペインに勝てたようだ。だが、そんなはずはない。

 つまり、『銃・病原菌・鉄』は決定論的で、歴史を軽視している。

 本作が代わりにおくのは、洞窟壁画とフィクションの力を重視する『サピエンス全史』だろう。

 

 ジャック・モノー『偶然と必然』が示すとおり、人間の存在は偶然の積み重ね、つまり歴史による。

 

 なお、長宗我部真男によって崩壊へと導かれるカセドラルも、そうした対比での命名だと思われる。

 エリック・レイモンド『伽藍とバザール』が説明しているが、カテドラルはソフトウェア開発における計画的、バザールは臨機応変な方法の通称だ。

 

 九尾Cは自分たちの食糧が情報であり、人間はその源だと告げる。

 シャノンの定理によれば、情報はネゲントロピーだ。これはブリルアンの『科学と情報理論』が詳しい。

 シュレディンガーが『生命とは何か』で言うとおり、生命はエントロピー増大のために生まれた。

 人間は、熱的死という不可避の結末に向かう、エントロピー増大という決定論の、局所的な逆転だ。

 

 だが、決定論が優勢になれば、人間は目的を見失う。

 創作では、創作の純粋性を高めることか、創作活動への自己言及が目的になる。

 そして、その他の創作は不純だとして否定される。

 かならず挙げられるのは、政治的なプロパガンダ、商業的な広告、そしてポルノだ。

 

 だが、なぜポルノが否定されなければならないのだろう。

 引退したアバター動画配信者である皇牙サキは、アバター動画配信の黎明期、ポルノのファンアートについてこう言った。「問題があるのはわかるんだけどさ。否定はしたくないんだよね。だって、エロい創作って絶対にいいものじゃん!」

 

 本作の終盤における、谷川順の独白は、やや泣かせるものだ。だが、それも本作がピクチャレスクな文体をとっていなければ、ただのフィクションのお涙頂戴で終わっていただろう。

 

 本作のナレーションは、終盤において九尾Cの一人称だったことが明らかにされる。つまり、物語内容(イストワール)から物語言説(レシ)へと分離する。

 だが、それはナラティブを意識させるだけではない。

 ナレーションは言葉どおり消滅し、セックスがはじまる。

 

 長いまわり道を経て、本作はようやくポルノをイメージではなく、リアルだと読者に認めさせた。

 

 だから、本作のラストはこれほどまでに感動的なのだ。

 

 "しまった……、願った後で後悔する橘はやと。

 今のだったら後段だけでいいじゃん……。

 一言一句一致しなきゃいけないんだぞ……。

 天文学的な確率じゃん…。

 ただでさえ至難の難易度だろうに……なぜ二文もの文言を……絶対無理じゃん……。ん?"

 

 文字どおり、信じられない奇跡を信じさせたために。

 フィクションだからではなく、リアルだと思えるからという理由で。