2024年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2023年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2023/02/08/225429

 2022年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2022/02/14/221729

 2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035

 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 

 去年は「まさか6年も続けることになるとは」と書いたが、その時点で、翌年からは確実に更新するだろうと予想していた。ただ日記を要録するだけで記録を作成できることが分かったからだ。

 7年も経ちながら、毎年、心の琴線に触れる傑作が現れることに驚く。ジョー・ヒルの『年間ホラー傑作選』(所収『20世紀の幽霊たち』)の百合版だ。

 それより、自分があと1年で33歳になることに失望する。高校生の時分からこのかた、"「私の名は『吉良吉影』 年齢33歳」「自宅は杜王町北東部の別荘地帯にあり……… 結婚はしていない………」「"仕事は『カメユーチェーン店』の会社員で 毎日遅くとも夜8時までには帰宅する」"を人生の目標にしてきたというのに(ただし殺人はNO)。これからは大槻班長を人生の目標にするしかない(ただし搾取はNO)。

 

・マンガ

 

 志村貴子著『おとなになっても』全10巻、雁須磨子著『あした死ぬには、』全4巻、ヤマシタトモコ著『違国日記』全11巻は完結。

 原則として、特筆すべきことがないかぎりシリーズ作品の続刊については記述しないことにしている。なおいまい著『ゆりでなる♥えすぽわーる』既刊4巻は毎年、第1位に挙げていたが、2023年は休載で新刊が刊行されなかった。

 

1.原作:羽流木はない・作画:篠月しのぶ『フツーと化け物』第1巻

 

 2019年に羽流木はないがツイッターで発表した『普通と化け物』が、作画に篠月しのぶが参加して商業出版化された。

 百合ファンにとっては、ONEの『ワンパンマン』が村田雄介の作画で商業出版化されたときくらいの急報だった。

 

 人間と人外という設定で、もともとはツイッター漫画だったが、人間と人外という設定でマンガの大半を、とくにツイッター漫画のほぼすべてを占める話ではない。社会的能力のない人間が、精神的に未熟な人外を相手にして支配欲を満たし、その人外の異能によって社会に対して権力欲を満たすという話だ。

 それどころか、人外の高橋は社会的必要により「普通」に擬態しているため、本心が不明だ。そして、「普通」ということも対象化されることになる。

 じつのところ、「普通」とはたんに集団で平均一般的なことではない。なぜなら、集団が平均一般的な標準を認識することで、この標準はつねに更新されるからだ。そのため、たんに平均一般的なことはしばしば笑いの対象になる。

 例示すれば、オモコロチャンネルの「サーティワンダービー」で、かまどがバニラのシングル、カップを注文してきたときだ。これが「普通」になることは、バスキン・ロビンスの創業以来、一度もなかっただろう。サイコサスペンスの『ニードレス通りの果ての家』でも、サイコパスであることを示す描写が「アイスの店でバニラしか注文しない」だった。

 そして、「普通」という可変的な標準が何度、再帰的に更新されるかは、経験的にしか判断できない。そのため、「普通」ということは、個人がどうするかより、個人がどうすることを社会に許されているかの問題になる。

 ネタバレ感想:とはいえ、連載の宿弊で、原作に相当する第1-9話のあとはよくある人間と人外の漫画に近づく。

 

 商業化で作画が改作されると、原作の訴求力が減殺されるということがよく言われるが、篠月しのぶは原作の魅力を増している。

 

 なお、2023年は良作のクワハリ著『ふつうの軽音部』が発表されたが、本作も新たに作画が参加して改作された。

 技術的な巧拙と訴求力については、有名なゴンブリッチの『美術の物語』が、ピカソの『博物誌』挿絵の写実画と戯画の鶏を比較し、後者のほうが魅力的なことを示している。高名な美術評論家であるゴンブリッチも、『ワンパンマン』のONEと村田雄介のどちらの作画が魅力的か尋ねたら「アニメから入ったから村田雄介のほうが違和感がないんですよね」と答えただろう(外国人だから)。

 

2.空次郎著『雛猫』

 

 リンク(https://comic-days.com/episode/4856001361096893378)。

 たかだか16ページの掌編でありながら、呆然自失する傑作だ。

 2023年、作者は単行本『にゃこと博士』も上梓している。

 一見して、広漠たる『雛猫』と、舞台が小間物の密集した室内である『にゃこと博士』は対極的だが、そうではない。広大な空間の崇高美と、空間恐怖は表裏一体のものだからだ。

 ここで働くのはマニエリスムの原理だ。マニエリスムルネッサンスバロックの中間にあり、ロマン主義の先駆だった。

 エヴァンズ著『魔術の帝国』によれば、マニエリスムの芸術の機能は、遊戯的な外見に隠された、真剣な形而上学的意図。形而上学的に捉えられた全体と、細部のリアリズムの二元性だった(下巻、p.48)。これについて、カウフマン著『綺想の帝国』は、アルチンボルドの「怪奇趣味(グロテスク)」へのビザール(奇怪)、カプリッチョ(奇想)、スケルツォ(冗談)といった通念を否定する。アルチンボルドは書簡で、グロテスクを生んだのは古代人だが、それを名づけたのは近代人だと述べる(p.271)。

 縦長の枠線はそれ自体と同時に、暗示する広大な空間によって、水平性と垂直性を提示する。

 その幾何学的な静性において、変身による肉体への違和感と、現実逃避を希求させる、妹への劣等感が語られる。また、舞台となる建物は木造、木製の肌理が強調され、大道具である怪奇趣味的な「有用性調査」の貼紙も、紙が質感を伴うものだ。

 13ページの、変身が完了する直前において描かれる渦巻く海と、15ページにおけるS字型のコマ割りは、曲線とS字曲線を基本とするロココ、またバロック調のもので、最終ページと対比的だ。

 そのため、最終ページの、変身の完了した主人公が、妹にしっかりと抱きかかえられている安定的な情景が、肉体と自我を失くしたことの寂寥感と、そのことの安堵感という、両義的な感情の衝撃をもたらす。なお、この一枚絵は、情景そのものは安定的ながら、背景は夕景の海中電柱、主人公を抱きかかえる妹は歩いているという、故郷喪失と不穏さをも演出するものだ。

 

2.Heisoku著『春あかね高校定時制夜間部

 

 第7話の『雨森みこの歌』が素晴らしい。

 第4話の『谷原ゆめの幼馴染』で登場する雨森みこと、谷原ゆめの関係性は、凡庸なマンガなら不良と不登校児という類型的なものだが、雨森に関する「友人がいないのに人懐っこい笑顔」「自転車で蛇行しながらついてくる」という具体的な描写が、強い現実感をおぼえさせる。

 第7話で雨森が回想する記憶は、不登校になる前日の谷原が、雨森にハンカチを貸してくれたことだ。連想で、腕にリストカット痕のあるひとが、笑顔で手袋を拾ってくれたことも思いだす。そうした"些細なこと"の記憶に拘泥する自身に、雨森は自己嫌悪をおぼえる。話末で雨森は思う。"(…谷原は早く俺なんかとの些細な出来事なんて よく覚えてないくらいになれたら嬉しいなあ)"(p.126)。

 叙情性を排した作品にもかかわらず、心が震えた。

 ここで描かれているのは、社会から疎外されているものほど、無償の親切を施すということだ。こうした些細なことが描かれているマンガはほとんど見かけず、不意に動揺した。

 

 余談だが、あるマンガ書評サイトに雨森について、"人懐っこい笑顔の裏に、人がしてくれたごく些細な親切の幾つかを心の支えにしているという繊細な面を持っています"と書かれていて呆れた。雨森の笑顔は社会の周辺的なひとびとに特有のもので、社会経験があれば記憶にあるだろう。

 その記事によれば、雨森は"本当に良い子"らしい。

 それを読み、名著であるヴァンス著『ヒルビリー・エレジー』の以下の記述を思いだした。

" アイビー・リーグの大学は、学生の多様性にこだわりを持っているため、黒人、白人、ユダヤ人、イスラム教徒など、さまざまな学生がそこに集まっている。しかし、そのほぼ全員が、両親のそろった、経済的にも何ひとつ不自由のない家庭の出身だ。

 1年目が始まったばかりのころ、クラスメートと夜遅くまで飲み会をしたあと、みんなでニューヘイブンのフライドチキンの店に寄ったことがある。しかし、メンバーのほとんどが帰るころには、あたり一面ひどいことになっていた。汚れた皿やチキンの骨がそのまま放置され、ソースや飲みものがテーブルにこぼれたままで、とにかくめちゃくちゃだった。

 後片付けをする人のことを思うと気の毒でならず、とてもそのままにはしておけなかったので、私は店に残った。10人ほどの級友がいたなかで、手伝ってくれたのは親友のジャミルだけだった。ジャミルもまた、貧しい家庭の出身だ。片付けが終わって「誰かの食べ残しを片付けなければいけない環境で育ったのは、たぶん、きみとぼくだけだろうね」と言葉をかけると、ジャミルは静かにうなずいた。"(pp.316-7)

 マルクス主義におけるブルジョワサルトルが説明するところの、自身の愚鈍さに気づかない二重の愚鈍さを持つひとびとは、こうした物質的な現実を人情と通俗道徳で隠蔽する。マルクスエンゲルスが『共産党宣言』でブルジョワの家族、親子、結婚と恋愛について看破したものだ。

 本作でもっとも社会に適応できているのは、凡庸なマンガでは「コミュ障キャラ」である染井つむぎだ。それは「キャラ」がブルジョワ文学の擬制だからだ。

 事物を審美的に抽象化しない作者の視線が、物質的な現実、ひいてはその断片的なもの、些細なことを捉えることは、前作『ご飯は私を裏切らない』から一貫している(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/09/08/180038)。

 

4.スタニング沢村著『佐々田は友達』第1巻

 

 説話が先鋭的で、頭の裏側を引掻かれるような感覚がする。

 内容はやや古典的だが、これについては、マルクス主義者であることを公言するサリー・ルーニーの作品が先鋭的なことと同じだ。

 

4.小峱峱(シャオ・ナオナオ)著『守娘』上下巻

 

 清代台湾。地方官吏の娘である潔娘(ゲリョン)は纏足を拒み、結婚を避ける方途を探していた。そこに若い女性の水死事件が起きる。鎮魂のために招かれた女性の済度師(霊媒師)を見て、潔娘は弟子入りを目論む。道士は試験として、死者を霊媒するための毛髪を取ってくることを課す。潔娘はあえなく課題に失敗。だが、死体の爪に泥が詰まっていたことから、水死が故殺であることに気づく。潔娘はそのことを道士に告げるが、道士はあらかじめ知っていたようだった。なら、鎮魂はただの演技だったのか、そして、なぜそれを潔娘に教えたのか… という導入だけで、充分に魅力的だ。

 ネタバレ感想:この第1話で示される図式が、作品全体を貫徹している。霊異は治世の乱れによるが、治世を改めても霊異は鎮まらないし、霊異を鎮めても治世は改まらない。作中では、天人は現世に干渉してはならないと、台詞でまで明示している。霊異が意味を為すとしたら、それは生きた人間を動かすときだ。それはフィクションも同じだ。

 

 制度的でないコマ割りについては、下掲のブログ記事が詳細に摘示している。

 『コマったさんの台湾怪奇ミステリまんが――シャオナオナオ『守娘』』https://proxia.hateblo.jp/entry/2023/07/26/111318)。

 ただし、分析については過度に理論化して硬直化している。分析は、コマの配置とコマ内の描写が連動していて、とくに三次元的な前後軸についてそうだというものだ。

 だが、第1の例からして、遠景から近景に引く3つのコマが順次上に重なっている。仮に説話と連動しているなら、時間経過に従い、順次下に重なっているはずだ。しかも、空間的な配置についても、遠景のロングショット、人物のフルショット、人物のクローズアップで、雑然としている。

 つまり、実際には、コマの配置とコマ内の描写に強い関連はなく、ただ順番を示すだけということだ。そして、先後のコマ間におけるコマ内の描写は、映画的なモンタージュ理論に従っている。少なくとも、上掲の記事の第1の例については、このほうが理論化として整合的だ。

 同様に、奥行き効果の例として挙げる、第3例、第4例についても、物語は無関係だ。第3例の、奥行き効果を生じさせる、重なった3コマ目の描写は任意だろう。第4例の、4コマ目のぶち抜きについて、浮出し効果を生じさせる3コマ目との関係は、空間的な配置に従ったズームアップだ。だが、空間的な配置に反する切返しのほうが、はるかに効果的だっただろう。そして、その効果はモンタージュ理論の叙述的なものによる。

 では、なぜ制度的でないコマ割りをしているのか。それは、コマ枠を中性化するためでなく、強調するためだ。

 アルンハイム著『中心の力』は、絵画における枠組と中心の効果を分析する。そして、遠近法による消失点を、中心点と競合するものと位置づける。じつのところ、前景の人物は、三次元的な前景の一部ではなく、空間から独立している。遠近法の主要な機能は視覚を再現することでなく、空間に連続的な第3の次元を設けることだ(p.226)。また、消失点が中心点と一致したとき、劇的な効果が生じる。無論、これはルネッサンス以降の西洋絵画の伝統だ。

 つまり、『守娘』におけるコマ枠と奥行きの強調は、東洋画と対立的なものだ。

 ゴンブリッチ著『芸術と幻影』は、『芥子園画伝』を参照し、中国美術の目的は説明や図像の固定化ではなく、詩情の喚起だと述べる(p.218)。そして、知覚と投射は対照的であり、後者のためには余白が必要だと述べ、『芥子園画伝』の「不在」の技法を挙げる(p.284)。

 上掲の記事における第3例、第4例のコマ割りは、絵画についてグリーンバーグが提唱する、モダニズムの手法をそのまま準用できる。イメージによる、伝統的な"空間のイリュージョン"を、平面性と枠によって更新するものだ(グリーンバーグ著『モダニズムの絵画』(所収『グリーンバーグ批評選集』p.70))。そして、グリーンバーグは前者をペルシャの装飾写本や中国の掛軸と対立させる(同著『イーゼル画の危機』(同前p.77))。

 『守娘』はコマ割りを重用するが、終盤、潔娘が嫁いでからは例外的に見開きを利用する。これにより、総理の屋敷での日常は幻惑的なものとなり、潔娘の惑乱が示される(下巻、pp.146-9)。また、婚礼の場面では東洋装飾が用いられ、秘洞と、そこからの脱出における花火の情景は墨絵で描かれる。

 一方、革命(同、pp.200-1)、陳の祭祀(同、pp.206-7)、そして結尾である潔娘の奔走(同、pp.214-5)もまた、見開きで空白の背景を用い、水墨画のような描写をしている。言うまでもなく、見開きと空白の背景はどちらもマンガで一般的なものだ。だが、本作はここまでで非制度的なコマ割りにより、コマ枠を意識させている。そのため、最終ページの情景は、単純な不易でも革命でもない、深い余韻をもたらす。

 

 なお、上掲の記事で関連作として挙げられている作品はゴミだ。

 

6.ほそやゆきの著『夏・ユートピアノ

 

・『夏・ユートピアノ』

 冒頭でピアノを演奏する手と、ピアノの機構がクローズアップされ、それが試弾であることと、そこがピアノ調律の楽器店であることを説示する2ページのあと、ピアニストの目のクローズアップと、ピアノ調律師とピアニストの対峙が交互に描かれる。ピアニストは無言で店を出る。その後、ピアノ調律師は出張修理に赴き、そこでピアニストに再会する。両開きの扉による枠効果とともに、ピアニストは画面の中心に立ち、そのままドリーで室内に進む。このとき、ピアニストは無言で、またしても目のクローズアップがカットインする。そして、グランドピアノが2つ並置された、奇妙な部屋に到着する。

 この尋常でない緊張感の導入部だけで、充分に魅力的だ。

 このとおり、構図主義的だが、四コマ漫画のような諧謔スケルツォ)の楽章を挿入する聡明さもある。

 ネタバレ感想:もっとも、この表現の緊張感は、響子の視覚障害という説話論的な理由が与えられ、解消されるべきものとしてある。それは新の調律がクローズアップであるのに対し、父親のものはミドルショットで、緊張(テンション)の解除されたもの(p.111、pp.120-1)であることを見れば明らかだ。ここではその説話の成否は問わない。

 

・『あさがくる』

 

 見事な傑作だ。

 導入部の、感情の整理がついているがゆえに感情的に振舞える母親と、無感情(アパシー)の主人公という描写から卓出している。

 こうして導入部が予示するとおり、主題の1つはカウンセリングすることでカウンセリングされるということになる。そのため、くるみが寡黙なのは性格によるものだと思っていたら、自分を「先生」だと思っていたからだと分かったり、音楽教師に共感を求めると、かえって責任感を知らされたり、という予想の範疇外の出来事に朝顔は出会う。

 ネタバレ感想:合格発表の場面の感情の昇華はあまりにも見事だ。冒頭で予示されたお守りを握る手を通じ、空手から拳へ、拳から空手へと、朝顔とくるみが連続する(pp.191-2、194-5)。そして、実際の朝顔は泣いているにもかかわらず、くるみの想像上の朝顔は冷酷でいる。ページをまたぎ、正確に配置された対比はあまりに劇的だ。同情と、分離による罪責感の両義的な感情の同致を完璧に示している(pp.197-8)。

 そして、空間を強調した静的なエスタブリッシュ・ショットを挟み、鏡を介して朝顔とくるみの視線が正対するとともに、平行になる。そして最終ページで、「ないものになる」という台詞で、くるみがはじめての笑顔を浮かべる。

 あまりに見事な構成だ。

 

 それだけに、「自分が辿ってきた道にもっと自信をもっていい」云々の説明的な台詞と、ビー玉転がしのオモチャのイメージ図は悪目立ちしていた。

 どのみち、そうした分かりやすさを求める読者は、説明的な台詞と記号的な感情表現で構成されたジュニア・フィギュアスケートが題材のマンガを読んで、作品の話をすると言いながら自分の話をし、才能もなく、努力もしてこなかったのに「才能の残酷さ」と言ったり、結婚もしていなく、親の世話もしていないのに「子供の搾取」と言ったりするだけだ。

 

7.ティリー・ウォルデン著、三辺律子訳『are you listening?

 

 じつはティリー・ウォルデンの名前は、2021年にテキサス州議会議員がLGBTQ関連のコミックを学校と図書館から禁書にすることを提案し、そのなかに志村貴子の『放浪息子』があることで話題になったときに知った。世界的に有名で、作品を読むと名作であり、自分の不明を恥じた。

 「テキサス州議会議員が規制を求めたLGBTQ関連コミックス10選」(

Shaenon K. Garrity @shaenongarrity 2:31 PM · Oct 30, 2021)(https://x.com/shaenongarrity/status/1454320145858383877?s=20)を読んだところ、すべて感嘆する名作だった。ありがとう、共和党公認テキサス州第93区選出、マシュー・ハストン・クラウス州議会議員。

 ついでに、同10選の百合マンガについては後記しておく。どのみち、話す友人知人もいない。仮に、「テキサス州議会議員が規制したLGBTQのコミックスを読んだんだけど、感想を話していい?」と尋ねて絶縁しない人間がいればだが。

 

 ネタバレ感想:本作はロードムービーだ。ビーとルーは同乗してすぐ険悪になるが、トンネルに入ることで雰囲気が和らぐ(pp.33-4、pp.36-7)。ひとの行動が環境を変化させるのではなく、環境の変化がひとの行動を変える。

 一方、拾った子猫の仮名はダイヤモンドで、その故郷である「ウエスト」を目指すとなれば、『オズの魔法使い』を連想する。また、ビーとルーの道中はしばしば騎士道小説じみたものになる。

 だが、そうではない。『オズの魔法使い』の結尾は"「やっぱりお家が一番!」"。そして、バフチンの『小説の時空間』によれば、騎士道小説の冒険は、主人公のアイデンティに試練を課すためのものだ。

 だがしかし、本作は主人公に変容を促す。"「あの男たちは動くものはなにひとつコントロールできない そのせいでますますやっきになるんだけどね」(p.259)"

 導入でビーはバスに乗り損ない、そこから物語が始まる。だが、結尾でバスに乗るのはルーだ。そして、ビーは自身の車を得る。

 ビーがルーにゲイであることを告白する場面では、切返しやクローズアップといった、性的に親密な表現は排除されている(pp.115-6)。つまり、ビーとルーの関係は大人と子供であり、本作は教養小説なのだ。その関係から性的さが除かれていることは、セジウィックが『男同士の絆』で、ディケンズの『大いなる遺産』について指摘するとおりだ。

 ちなみに、本作のロードムービーという設定、主役2人の関係の変化に伴う、運転の代行、バイクの2人乗りという展開は、ジェームズ・マンゴールド監督、トム・クルーズ主演のスパイ映画『ナイト&デイ』に着想を得たのだろう。

 

8.三島芳治著『衒学始終相談』第1巻

 

 同作者の『児玉まりあ文学集成』は衒学、竹本健治の名づけるところの汎虚学を皮相とするラブコメだったが、そうした実相がなくなり、結果的により純化されている。

 

8.紫のあ著『この恋を星に願わない』第1巻

 

 これほどまでに作画が脚本を高めている作品は稀だ。

 プロローグが結婚式場で、幸福そうな礼服を着た京、そして新婦が冬葵と絵莉のどちらかが不明ということで、最終回がじつは冬葵と絵莉の結婚式だったと分かるプロローグにつながるだろうことが自明だ。そのため、脚本については、連載が長引くだけオチを知っているジョークを聞いているときのような気まずい間が続くことになる。

 だが作画については、なぜ雨宿りする軒下の天井が、丸天井(ヴォールト)なのかということに尽きる(p.38)。それは濃淡の連続的な変移を表現するためだ。この調和が作品の静謐な雰囲気をもたらしている。

 つまり、惹句の「淡い」は誤りで、正しくは濃淡がある。実際、本作は一般より黒ベタの使用が多い。

 

8.郷本著『破滅の恋人』第1巻

 

 『夜と海』の郷本の新作。

 『夜と海』同様にバロキッシュな演出が巧みだ。さらに、そうした子供の幻想的で非晶質(アモルファス)な世界観に、大人の物質的で固定的(スタティック)な世界観を交錯させ、緊張感をもたらしていることが冴えている。

 

11.佐悠著『爛漫ドレスコードレス』第1-3巻

 

 かなり面白いし、百合度が高い。

 

・その他

 

トマトスープ著『天幕のジャードゥーガル』第2-3巻

 

 第2巻で急に百合度が上昇した。

 "「勉強ってこういうことなんじゃないかな」「君は今 自分の身がどこにあるかも 何が起こっているかも」「この先どんなことが起きるのかも まるでわからないでいる 言ってみれば叔父様たちと同じ状況だ」「でも勉強して賢くなれば」「どんなに困ったことが起きたって 何をすれば一番いいかわかるんだ」「それは絶対に悪いことじゃない」"(第1巻、pp.25-6)

 2022年、地動説を題材にしたマンガについて、エスタブリッシュメントである科学史、科学哲学の専門家が批判し、ポピュリストである読者たちが反発したが、エスタブリッシュメントがポピュリストたちに教育したかったのは、そもそも、こうした教育そのものについてだっただろう。

 岩明均の『ヒストリエ』ならば、"「図書室で読むのは学校の授業とは直接係わらないモノが多いんだけど……」「でも考えを組み立てたり」「少し角度を変えて物事を見たりするのに役立ってると思う…… それが学校の成績に出たんなら良かったよ」"(第1巻、p.158)だ。

(なお、トマ・ピケティは『資本とイデオロギー』で、ポピュリストという語について「政治とイデオロギーの多元的な亀裂、とくに資本の亀裂について隠蔽し、自身の反対者をすべてスティグマ化し、自身への批判を拒絶するものだ。よって使用すべきではない」と批判している(p.866)。だから、いまはピケティのことは忘れて、新NISAの非課税枠を最大限まで使いきることを考えよう)

 

・原作:マリコ・タマキ、作画:ローズマリー・ヴァレロ・オコーネル、三辺律子訳『ローラ・ディーンにふりまわされてる

 

 いわゆる『ブリジット・ジョーンズの日記エピゴーネンの作品だ。主人公が恋愛コラムニストに送るメールがナレーションになっている。序盤、主人公が恋人にフられ、落ちこんでいるところを占い師に相談すると「その問題を解決するには、あなたのほうから彼女をフることよ」と託宣される。ベタすぎる。

 ドゥードルはこのジャンルでストックキャラクターとなる、相談役の女友達と都合のいい男友達の役を兼ねる。1人で負うには重荷すぎる。

 

・ひの宙子著『最果てのセレナード』第1巻

 

 脚本はベタだが、演出はサスペンスフルで良い。

 だいたいフィクションの世界は事件、事故、病気の犠牲者のピアニストが多すぎる。フィクションの世界の国際ピアノコンクールは、障碍者部門と被害者遺族部門、ジュニア部門(出場要件:18歳未満・両親なし・余命半年)が設けられるだろう。

 

・原作:マシーナリーとも子、作画:もつ『社長の夢』

 

 リンク(https://shonenjumpplus.com/episode/4856001361532661097

 ネタバレ感想:読後、題名を見直すと爆笑する。

 

 つのさめ著『一二三四キョンシーちゃん』第1巻はオフビートなコメディで良い。

 熊倉隆敏著『つらねこ』第1-2巻はさすがに安定して面白い。

 田口祥太朗著『裏バイト』の最新第10巻は「スーパーマーケット」編があまりにも名作だった。いわゆる思弁的実在論の論客がよく嘆賞する唯物論的ホラーを完全に表現している。

 

・「テキサス州議会議員が規制を求めたLGBTQ関連コミックス10選」

 

②ティリー・ウォルデン著、有澤真庭訳『スピン

 

 百合マンガ界の『牯嶺街少年殺人事件』。必読

 

③原作:Suzanne Walker、作画:Wendy Xu『Mooncakes

 

 冒頭で、人狼の少女が故郷である秋の町にきて「ひとつの場所に長くいたことはなかった」と独白する。そして、幼馴染の魔女の少女と、町を震撼させる悪魔騒動を解決するという、スティーヴン・キングのスモールタウンものらしいベタなヤングアダルト小説だ。

 だが、ジェンダーについては10選でもっとも破壊的かもしれない。

 ジェンダーについて外生的なのは、人狼のTamが二人称を「they」に訂正する2コマだけだ。あとは自然に、TamとNovaのヤングアダルト的なラブロマンスになる。まさに、ゴダールブレッソンを引用して述べた"「何も変えるな。すべてが変わるために」"だ。無論、その自然さにはTamが変身する人狼であることと、Novaが秘密を持つ魔女であることも理由しているだろう。

 Tamは町から町へ渡る生活をしているが、Novaもまた両親(節句にだけ幽霊として帰省する)から、生家を出て自立するように促されている。ネタバレ感想:この物語で、「外に出るための居心地のいい場所、自分の道を見つける場所が必要なんだと思う。それが家」「家はあなたのいる場所」で、2人で故郷の町を出立する結末なのが巧みだ。

 

⑤『ローラ・ディーンにふりまわされてる

 

 上述。

 

 ① Trung Le Nguyen著『The Magic Fish』は傑作。物語を読むことと自己を語ることの物語。

 ④Liz Prince著『Tomboy』はノンバイナリーのエッセー。セリーヌ・シアマ監督『トムボーイ』とは同名だが無関係。

 ⑥志村貴子著『放浪息子』。個人的な感想は『『放浪息子』と『家の馬鹿息子』 - 志村貴子論 -』(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2018/02/06/090929)。

 ⑦Maia Kobabe著『Gender Queer』はノンバイナリーのエッセー。

 ⑧ちぃ著『花嫁は元男子。』。

 ⑨原作:マリコ・タマキ、作画:ジリアン・タマキ、三辺律子訳『THIS ONE SUMMER』は傑作。湖畔でのひと夏の物語、といっても、湖はアバンチュールが演じられるのでなく、ジェイソンが惨劇を演じるほうだ。全編にホラー映画の名作の引用が充溢し、うだつの上がらないもの同士の悪友、地元の不良たち、バラック街、先住民の歴史民族博物館と、ホラー映画のような避暑地で夏休みを過ごす。導入部もヒッチコック的なミドルショットで、戯画的な構図と、ぎこちない編集、クロッキー調の稠密な筆触で描写される。

 ⑩Jerry Craft著『The New Kid』はニューヨークの黒人少年の学校生活を描く、コメディの子供向けコミックス。

 

・小説

 

1.陸秋槎著、稲村文吾他訳『ガーンズバック変換

 

 『色のない緑』がついに単行本化した。感想はこのブログで2度も書いているため省略する。

 じつは、表題作は『ニューヨーカー』風の時事問題を題材にした軽妙な小品だ。著者曰く「コニー・ウィリス風」だ。

 『物語の歌い手』が秀逸だった。年代と地理はカルカソンヌ落城が100年前と、14世紀初めのフランスであることが明確にされている。無論、これはルネサンス、宮廷と市(まち)の時代の端緒だ。

 名高いアウエルバッハ著『ミメーシス』によれば、宮廷叙事詩の題材、騎士の目標は武勲と恋愛の2つだ。だが、恋愛は献身などではなく、官能的な愛だ。トリスタンとイゾルデ、エーレクとエニード、アレクサンドルとソルダモール、ペルスヴァルとブランシュフルール、オーカッサンとニコレット。いわゆる慇懃(ガランデリー)というプラトニズムは、プロヴァンスの抒情詩、イタリアの清新体を経て、その後に定着した(上巻、p.154)。

 ネタバレ感想:誤導が哲人政治をもじった詩人政治ともいうべき、新プラトン主義であることが巧みだ。そして、リアリズム、実在論の終わりと、ミメーシス、ただ模倣のみの、無限の自己言及性へと行きつく結末が圧巻だ。

 

1.エリー・ウィリアムズ著、三辺律子訳『嘘つきのための辞書』(※「嘘」は異字)

 

 カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』以来の知的興奮を起こす。

 物質としての言語を直写する名作だ。当然、「マウントウィーゼル」や「ドードー」を初めとする辞書と言葉に関する逸話も充実している。

 こうした奇作の訳業は偉大だ。いくつか上掲しているが、訳者の三辺律子は百合作品を多数翻訳していて、百合界の柴田元幸だ。

 マルクス主義者であることを公言するチャイナ・ミエヴィルも、『ウシャギ』(所収『爆発の三つの欠片』)で稀語の蒐集を主題にしている。

 

 言語の物質性については、マルクス主義文芸批評家のフレドリック・ジェイムソンが『言語の牢獄』で概説している。シニフェについて語るときは、シニフィアンの組織を見ることができるが、シニフィアンを語ろうとすると、無限後退に陥る(p.155)。そして、サルトルの『存在と無』を参照する。曰く、このために話者は忍耐しなければならない。そうしないものを、サルトルは卑劣漢(サロー)と呼ぶ。卑劣漢はシニフィアンからシニフェへの無限の意味の受け渡しを拒絶する。そして、特定のシニフェを特権化する(p.190)。

 『存在と無』では、その説明に同性愛を例挙する。"一連の行為が男色漢の行為であると規定されるかぎりにおいて、私は男色漢である。しかし人間存在が行為によってあらゆる限定から逸脱するかぎりにおいて、私は男色漢ではない。"(第1巻、p.212)。つまり、誠実と、同性愛者の代表者を自認するものは、同性愛者であることを自称するが、そのじつ、その定義を非難者に委譲している(同、p.216)。

 こうした古典的な議論は講壇的(ディダクティック)に見えるが、状況は変わっていない。というより、愚かなひとびとの行動はつねに変わらない。

 セジウィックは遺著の『タッチング・フィーリング』で、そうした自然主義本質主義に立つひとびとを、消費主義的だと痛烈に批判している。"こうした概念はうわべには倫理的な切実さがあるので、その内実がじょじょに空疎になっていることはおおい隠されている。"(p.30)。そうしたひとびとは「買うか、買わないか」に二分化された消費者に等しい(同前)。

 

1.斜線堂有紀著『選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい』

 

 理想的な恋愛映画では、行動的な恋人が奥手な主人公を振りまわし、しばしば政治に目覚めさせ、そして、主人公はありのままの自分でいられるようになる。例えば、心に残る恋愛映画であるアンドリュー・ヘイ監督『ウィークエンド』がそうだ。

 だが、現実は恋愛映画ではない。

 現実には、雑談で政治談義をしだすようなひとびとは非常識であり、社会から忌避されている。より社会的能力の高いひとびとは、それを愛想笑いで聞き流すだけだ。

 だがしかし、社会の多数派でいることと、中心にいることとは、ただの偶然の結果だ。だから、実際には社会的能力は、ただ社会に合わせることしか可能にしない。

 だから、同性愛者は社会の物質的な利益のために認識的な暴力を受けるが、そうした同性愛者がカミングアウトすると、今度は自身の物質的な利益のために、まだカミングアウトしていない同性愛者に認識的な暴力を振るうことになる。

 だから、社会的能力の高いひと、他人に対して操作的なひとは、本当は弱いのだ。そもそも、社会的に恵まれていたり、他人から愛されたりしていれば、社会的能力や、他人に操作的であることは必要ない。

 松本那由他は人生でもっとも記憶に残る登場人物のひとりになった。

 ネタバレ感想:でも恵恋は那由他と別れたほうが幸せになれると思う。

 

 断っておかなければならないが、個人的に投票することとは別論として、投票率が上昇することはかならずしも社会にとって良いことではない。

 2023年に『民主主義を装う権威主義』でサントリー学芸賞、日経・経済図書文化賞、アジア・太平洋賞大賞を受賞した東島雅昌は、もはや選挙はかならずしも民主主義に有用でないと言う。選挙が民主主義に有用という言説が主流だったのは、90年代のアフリカ諸国の民主化が起きたときまでだ。2000年代半ばから政治不信とポピュリスト政治家の台頭、そして権威主義諸国による選挙操作が発生した。V-Dem研究所によれば、前者について「政治的分極化」指数は過去120年間で最悪、後者について「公正な選挙」指数は2000年代半ばから悪化している(日経新聞2024年1月16日)。

 『民主主義を装う権威主義』が実証するのは、破綻した独裁体制と権威主義体制は選挙に失敗するが、選挙に成功していることは、独裁体制と権威主義体制でないことをなんら保証しないということだ。

 政治哲学者のジェイソン・ブレナンは、『アゲインスト・デモクラシー』で、「投票を呼びかけることは、ゴミのポイ捨てを呼びかけるようなこと」とまで述べる。

 『アゲインスト・デモクラシー』はブレグジットとトランプの大統領当選の以前に出版されている。そのことについて、ブレナンは「本書の内容には影響しない。変わったのは、読者が真剣になったことだけだ」と述べる。そして、投票率の上昇を訴えるひとびとは、実際には、自分が望む選挙結果になるときだけ、投票率の上昇を支持していることを、厳しく指摘している。

 本書によれば、アメリカの貧困層民主党支持層は、イラク侵攻、拷問、市民的自由の侵害、保護主義産児制限手段の規制を強く支持。中絶の権利、同性愛者の権利に反対している。

 そもそも、脱産業社会を提唱した社会学者のダニエル・ベルが、すでに70年代に『資本主義の文化的矛盾』で現状を予測している。社会が発展するほど、租税への反対が高まり、多党化と政治不信が起こり、ポピュリスト政党が台頭する。ベルは73年の「反税」を掲げるデンマークの進歩党と、ノルウェーの「税金と公的介入を強力に縮小するためのアンネシュ・ランゲの党」を例挙する(下巻、p.130)。

 

 なお、掲載誌のアンソロジーは低質だ。

 周知のとおり、紙の出版市場は2018年にピークである1996年の半額を割った。その一方で、書籍出版点数は増加した。当然、類書と悪書が増加しているだろう。悪書かは悪徳商法と同じ、対象顧客、すなわち対象読者の特性が経済的困難や、孤独感の高さ、不安性の高さ、衝動性の高さ、自尊心の低さかで判断すべきだ。

 ベルの『資本主義の文化的矛盾』によれば、現代は「文化的大衆」と呼ぶべき集団が形成されている。"かれら自体が、書籍や、印刷物や、まじめな音楽のレコード等を買うので、一つの市場(、、)となるに十分な大きさを有している。"(上巻、p.199)。

 一般公募の作品が陰惨なのも、さもありなんというところだ。

 他方、名誉賞の「カクヨム公式自主企画「百合小説」斜線堂有紀賞」https://kakuyomu.jp/features/16817330668950038092)受賞のさちはら一紗著『天国のエンドクレジット』は傑作だった。

 

1.チョ・ウリ著、カン・バンファ訳『私の彼女と女友達』(所収『私の彼女と女友達』)

 

 あらすじと帯文はネタバレだから読むな。

 あらかじめ予想したものしか受けとることのできない、資本主義の常同反復症の病弊だ。

 

 同性愛について叙述した名作は多々あるが、同性愛と政治について、これほど明晰に叙述した作品は稀だ。

 ネタバレ感想:まず彼女のジョンユンとのカミングアウトをめぐる鞘当てがあり、ウンジュはその政治性について不信感をもつ。そして回想し、女友達のスジと恋愛関係になりかけるが、その政治性について自意識過剰になり、友人関係も破綻したことを思いだす。

 結局、ウンジュがカミングアウトを拒んだことで、ジョンユンが女友達たちから代償を受ける。ウンジュは後悔にかられる。だが、スジから届いた「非婚式」の招待状、そこにはウンジュとジョンユンをパートナーとして記していた。

 つまり、私的領域は公的領域と対立するが、私的領域のためには公的領域が必要で、私的領域を目的とすれば、公的領域もまた良いものだということだ。

 同性愛と政治についてこれほど明晰に書くには、「私と彼女と女友達」というただの並称ではなく、「私の彼女と女友達」と階層構造を持つものでなければならなかっただろう。

 

4.斜線堂有紀著『回樹

 

・『回樹』

 

 ネタバレ感想:愛のない人間が他人を愛することができるのか。ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』によれば、ナボコフは文学の不死を示した。それは感覚的な内容がなくとも、形式的な構造だけで文学が成り立つのを示すことだった。蝶の羽から鱗粉が落ちれば、残るのは「美しい羽(ビューティー)」ではなく「透明な羽(トランスパレンシー)」だ(p.308)。斜線堂有紀は蝶の羽ではなく、木の葉を薬液に浸し、葉脈標本を作った… と、ナボコフを引用するには文章が粗すぎることが難だ。

 

・『回祭』

 

 ネタバレ感想:『回樹』が愛のない人間の話だったため、対になる本話は愛のある人間の話で、金と愛の対立で後者が勝つのだろう、ということは予想がつく。それは自明のこととして、愛と信念、つまり、愛した相手の尊厳との対立になる。そして、回樹という愛した相手を外在化させる審判により、やはり愛が勝つ。それは救いでもあるため、離別のために公権力が介入する。

 

4.宮澤伊織著『ときときチャンネル 宇宙飲んでみた

 

 快作。

 全編が動画配信の台詞だけで構成されていて、良い意味でのライトノベルだ。

 シリーズ化でき、『裏世界ピクニック』くらいの潜在性があるが、単行本でやや敷居が高いことが残念だ。

 

・その他

 

・シャーリー・アン・ウィリアムズ著、藤平育子訳『デッサ・ローズ

 

 原著はトニ・モリスン著『ビラヴド』の前年に出版されている。

 歴史二次創作百合が政治的、学内政治的に後援されることがあるんだ。

 

・キム・ボヨン著、斎藤真理子訳『鍾路のログズギャラリー』(所収『どれほど似ているか』)

 

 高校生女子3人組の超能力バトルでウケた。もっとも、これは『僕のヒーローアカデミア』が英語圏でウケていることと同じく、文化による偏好だが。

 なお、本国で「もっともSFらしいSF」と評されているらしいが、内容は86世代的、英語圏における68年的で、カウンターカルチャー的なもののため、いわゆるSFである古典SFでなく、ニューウェーブSFのほうの意味らしい。

 表題作は百合か以前に低質だ。叙述トリックが自明で、「緊急脱出装置」と書かれた赤いボタンを前にして「たった冴えたひとつのやりかた… くそッ、わからない!」と右往左往するコントのようだ。そもそも、ひとは心の理論をもっているため、他者を自己と同一視したりしない。そのため、自閉症を主題にした美しい短編である『同じ重さ』に対し、本作は作品そのものが自閉症だ。

 

・青崎有吾著『地雷グリコ

 

 『嘘喰い』ファンであることを公言する青崎有吾の学園ギャンブル小説。

 『嘘喰い』でもっとも優れた勝負は何か? 展開がもっとも驚異なハングマンか? 相手がもっとも梟雄なラビリンスか? 舞台がもっとも絢爛なボールの数当てか? 勝負がもっとも巧緻なポーカーか? 計略がもっとも壮大なハンカチ落としか?

 ファミレスのコインゲームに決まっているだろ!

 

 じつのところ、読むまではあまり期待していなかった。山口雅也の「アーティスト・ドミノ倒し理論」を知っていたからだ。

"山口「「アーティスト・ドミノ倒し理論」というのが、僕にありまして(笑)。」

綾辻「何ですか、それ。」

山口「僕は最初マンガ家になりたかったんですよ。描いたマンガを友達に見せたりして。ところが、僕よりマンガのうまいやつが現れて、マンガ家は挫折。」

綾辻「よくある話ですね。」

山口「その次が、円谷英二に心酔するんですよ。ウルトラマンとかのヒーローに憧れるというんじゃなくて、特撮自体にすごく魅かれて。」

綾辻「いつ頃ですか。」

山口「小学校五年ぐらい。それで、友だちが読んでいる本の挿絵に怪獣みたいなのが描かれてて、それで読んだのが江戸川乱歩の『暗黒星』。これですっぽりミステリにハマりまして。」

綾辻「それと「アーティスト・ドミノ倒し理論」がどうつながるわけですか。」

山口「まあ、待ってください。そのあと中学に入ると、今度は音楽に目が向くんですよ。ここでドミノ理論の本題に入れるんだけど(笑)、作家って、まずヴィジュアルから入って、次に音楽へ行って、そのどれもに挫折して、しょうがないから作家になったという人が多いんじゃないかって気がするんですよ、ドミノ倒し的に(笑)。」

綾辻「うーむ(苦笑)。」

山口「現役のミステリ作家で確認取ってみたんですけど、そういう人がやたら多い。で、僕は「アーティスト・ドミノ倒し理論」を確信しまして、いろんなところで力説してるんだけど、みんな嫌な顔をするんですよ。それじゃ、小説家は吹き溜りかって(笑)。」

綾辻「さもありなん、かな(笑)。」"(『セッション 綾辻行人対談集』pp.157-8)

 だが、本来、頭脳戦は言語的なものだ。第1話『地雷グリコ』は50ページほどの短さに頭脳戦の魅力が凝縮されていて、他の表現媒体を上回っている。

 第3話で『嘘喰い』に織田信長が登場したときくらいのハンドルの切りかたをする。そこにオマージュを捧げるのかよ。

 ネタバレ感想:最終話の三角関係はさすがに良すぎた。じつは射守矢真兎がオマージュしているのは『嘘喰い』の斑目貘ではなく、矢とダーツの異同はあるものの、『エンバンメイズ』の烏丸徨だ。それが末尾の人間的な逆転劇につながっている。

 

 ついでに、第4話『だるまさんがかぞえた』について解説しておく。つまり、第3戦で、子(真兎)の勝利条件は40の入札であるにもかかわらず、なぜ鬼(巣藤)は50の入札を警戒し、49にしたのか(p.225)ということだ。

 第5戦での巣藤の必要勝利条件は、ノルマが<40であることだ。≧40であれば、真兎が十分勝利条件を達成する。

 そのため、第4戦で、巣藤は必要勝利条件として、>10の入札をしなければならない。だが、このため、真兎は≦10の入札が可能になる。

 お気づきのとおり、鬼はE−1(E:最終戦)の手番でN(N≧11)の入札をしなければならず、よって、子はE−1の手番でN'(N'≦N)の入札が可能になる。そのため、鬼はN''(N''≧11+N')の入札をしなければならない。この再帰性により、最終的に、鬼はつねにノルマの最大値を入札しなければならない。そして、鬼のノルマが子のノルマを上回っている以上、鬼は必敗する。

 そのため、真兎の勝利条件は40の入札であるにもかかわらず、巣藤は真兎がピタリ賞を狙い、理外の50の入札を行うことを懸念したのだ。

 じつのところ、「だるまさんがかぞえた」の本質は、鬼と子のノルマの差となる実数を、鬼が有限の手番にどのように配分し、子がそれをいかに予測するかだ。そして、プレイヤーの合理性を前提にすれば、再帰性により、鬼は初回の手番に最大値を配分しなければならない。これは、経済学における最後通牒ゲームや独裁者ゲームの類例だ。だが、あくまで「だるまさんがころんだ」の工夫という体裁をとるため、そのことを説明できず、上述の下りがやや分かりにい。作者に代わって説明した。リアクション役の『嘘喰い』のガクトや鉱田ちゃんはいないが。

 

 良書であるヘレン・オイェイェミ著、上田麻由子訳『あなたのものじゃないものは、あなたのものじゃない』はレズビアン表象が多々ある。説明が困難と評されているが、要するにデヴィッド・フォスター・ウォレスのような作風だ(ついでに言えば、ウォレス著『奇妙な髪の少女』所収の『無表情な小動物たち』はウィトゲンシュタイン百合だ)。

 

・アニメ

 

・柿本広大監督、彩奈ゆにこ脚本『BanG Dream! It's MyGO!!!!!

 

 金田一耕助シリーズのような、秘密の過去と閉鎖的な人間関係の、骨太な脚本で面白かった。『悪魔の手毬唄』の犯人も、数え歌で連続見立て殺人をするより、歌にのせて村民たちに思いを伝えたほうが良かったかもしれない。

 原作のプレイヤーとしては、月ノ森女子学園のモデルが学習院女子だったことに驚いた。だが、たしかに地理的に整合的だ。

 続編では、豊川祥子が家庭の経済問題を解決するために、バンド活動をするということが動機になるらしい。作中で頭脳明晰とされる祥子がなんらの公的扶助も利用できないなら、よほど豊島区、東京都、日本国の政治が腐敗しているにちがいない。バンド活動をするより、Ave Mujicaのメンバーで、学習院女子から徒歩5分の田中角栄邸を焼き打ちにいったほうがいい。

 

・ゲーム

 

・『The Cosmic Wheel Sisterhood』

 

 ヴァルハライクなゲームに『VA-11 HALL-A』以来の百合ゲーが来た。

 なお、『VA-11 HALL-A』については2023年、ゲーム翻訳家のnicolithが素晴らしいエッセーを発表している。

 『VA-11 Hall-Aとことば』(https://note.com/nicolith/m/m1ba128062e68

 

 ただ、レビューを見るかぎりプレイヤーが一様に困惑していることだが、占いゲームの本作は、後半で突然、選挙ゲームになる。

 それには直接的な文脈がある。マキャベリが『君主論』で力量(ヴィルトゥ)と運命(フォルトゥナ)を対立させていることだ。マキャベリ論であるハンナ・ピトキン著『Fortune Is a Woman』は、マキャベリの政治哲学が男性中心主義と関係していることを論じる。マキャベリは運命(fortune)、すなわち運命の車輪(wheel of fortune)を敵視し、それを女性性に帰した。また、中世イタリアでもフォルトゥナの表象は女神に移行していった。

 "This civic, human world is what is at stake in the battle of the sexes, men's shared struggle not merely against the real woman whom they encounter, but even more against the lager feminine force: nature, fortune, or whatever her name."(p.232)(この都市、人間の世界は男女の闘争の利害得失において、彼らが接する現実の女性に限らず、より広い女の力――自然、運命、その他に彼女の名前で呼ばれるあらゆるもの――に対し、男性たちが組織する構造なのだ。)

 このため、自由意志によって世界を変えると、変えた世界がその自由意志を定めていたことになる、という自由意志の両義性を描くために、政治という題材が用いられる。

 また、本作はメタ=フィクショナルに、ゲームシステムにおいて自由意志の両義性を表現する。

 そのことは、下掲のブログ記事が詳説している。

 『『The Cosmic Wheel Sisterhood』における一回性とゲームにおける変更可能性の衝突 そして自由意志の危機』https://youge.hatenadiary.jp/entry/2023/11/27/195037

 ただ、同記事は本作の自由意志、すなわち"操作可能性・変更可能性"の自己否定、すなわち"自己回帰性"を批判している。そこには誤解がある。ノイマン著『量子力学の数学的基礎』を参照すると、容易に説明できる。

 

 『量子力学の数学的基礎』は、古典力学的な運動方程式であるハミルトン関数と、エネルギー準位の遷移確率を表す行列につき、両者の同等性を数学的に証明したシュレディンガー微分方程式について、関数空間をヒルベルト空間に拡張し、より堅固な数学的証明を与えるものだ。

 シュレディンガー微分方程式:ψ(q[k];t)=-H(q[k],(-2πi/h)(d/dq[k]))ψ(q[k];t) 

 ヒルベルト空間において…

 ψ(q[k])の系は確率密度|ψ{q[k]}|^[2]で{q[k]}にある。部分空間Iには∫[I]|ψ{q[k]}|^[2]dI。

 固有値λにつき、E[k](λ)(f(q[k]))=f(q[k],0)として、区間q'[k]<q[k]<q''[k]={λ',λ''}のI[k]にq[k]がある確率∫[q''[k]][q'[k]|ψ(q[k])|^[2]dq[k]=∫|E[k](I[k])ψ(q[k])|^[2]。

 これを以下のとおり表記する。:

 E(I)=Σ[λ'≦λ≦λ'']P[ψ,n]

 こうして、量子力学に数学的基礎づけを与えるという本書の目的は果たされる。また、「隠れたパラメーター」仮説が明晰に否定される。「隠れたパラメーター」があるなら、物理量は混合でなく平均になる。そして、他の決定因子が存在するなら、結合関係は矛盾する(p.260)。

 この後、ノイマンシュレディンガー微分方程式について、哲学的洞察を行う。

 系の変化は2通りある。第1に、測定による任意的なもの。U'=Σ[∞][n=1](Uψ[n],ψ[n])P[ψ,n]。第2に、時間経過による自動的なもの。U[t]=e^((-2πi/h)tH)Ue^((-2πi/h)tH)。

 後者は因果的だ。だが、tは独立したパラメーターで、U[t]はUのユニタリー(UU*=U*U=1)、すなわち同型写像だ。よって可逆的だ。

 前者は統計的だ。だが、これのみが不可逆的だといえる。

 こうして因果律に関する直観が否定される。"そして、先入観をもたずに対象に近づくものは、古い考え方に固執するなんの根拠ももたないのである。そのような事情のもとで、合理的な物理学の理論を昔からの考え方のぎせいにするという動機が存在するであろうか?"(p.263)。

 

 測定による変化の不可逆性について、ノイマンは熱力学で説明する。そのため、あくまで証明でなく仮説だ。

 一方的に透過する隔壁が、気体の分子を1/2に集中させる仕事を考える。W、Q/T=Nk(1/2)ln2(ボルツマン定数:k)。

 気体の混合U=Σ[∞][N=1]W[N]P[ψ[N]]とおく(点スペクトル:W[N])。エントロピー:Σ[∞][N=1]W[N]Nk ln W[N]。Spur(U ln U)=Σ[∞][N=1]W[N] ln W[N]より、Uのエントロピー:-Nk Spur(U ln U)。Spur U=1より、U=P[ψ]のみエントロピー=0、その他は>0。

 U=P[ψ[N]]について、U'=Σ[∞][N=1](P[ψ]ψ[N],ψ[N])P[ψ[n]]。よって、測定による変化は不可逆だ。

 そして、ノイマンはシラードを参照し、知識とエントロピー減少が交換されると言う。分子の位置と運動量の知識があれば、エントロピー不変になるからだ。そのため、エントロピーの時間的変化は測定者の無知による。

 なお、ここで測定者に相当する系は任意で、人間は一例に過ぎない。そして、測定はただの系と系の相互作用でしかない(p.333)。反=人間中心主義(アンチ・アントロポセントリズム)は『The Cosmic Wheel Sisterhood』も強調している。

 このエネルギー保存則とエントロピー増大則による宇宙の摂理は、作中でジュンレイシャが説明している。

 

 さて、ブリルアン著『科学と情報理論』は『量子力学の数学的基礎』を発展させ、情報を負のエントロピーの単位にする。

 I=k ln P(情報:I、事象の個数:P)。Iは確率の精度で、0≦I≦1。

 初期状況:I[0]=0、最終状況:I[1]=k ln P[0]-k ln P[1]

 先験的な確率p[j]の情報:i=-kΣ[n][j=1]p[j] ln p[j]

 また、エントロピー増大則を証明する。

 熱源が2つ以上ないかぎり、熱は仕事に変換されない。W-Q[A]-Q[B]=0。熱効率:W/Q[A]=(T[A]-T[B])/T[A]<1。エントロピーの変化が可逆的なら、ΔS[A]+ΔS[B]=0。よって、エントロピーの変化は不可逆だ。

 ブリルアンは情報を物理的な意義をもたない自由情報I[f]と、束縛情報I[b]に分類する。

 I=I[b][1]+I[f]

 I[b]=-ΔS=ΔN(ネゲントロピー:N)

 ΔI[f]≪0、Δ(N[0]+I)≪0

 例えば、自由情報は誰かが所有する情報、束縛情報は音波だ(p.159)。

 

 『The Cosmic Wheel Sisterhood』のゲームシステムによるメタ=フィクショナルな表現について、批判的なひとが誤解しているのは、ゲームについてではない。現実についてだ。

 ゲームと同じく、この世界の「選択肢による分岐」は所与だ。自由意志、すなわち"操作可能性・変更可能性"はあくまで擬制だ。自由意志が両義的、すなわち"自己回帰的"なのは、所与の複数の時系列から擬しただけのものだからだ。本作はあらかじめ、この構造、すなわち、分岐が所与であることと、それはこの世界も同じだということを、ゲーム内ゲームである「インタラクティブ・ブック」で提示している。

 だが、自由意志が擬制でも、意志決定は行わなければならない。そして、情報を得ることは意志決定というより、その前提だ。力量(ヴィルトゥ)と運命(フォルトゥナ)は相対立するのでなく、相即不離なものだ。

 ゲームもまた、そうして伝えられる情報のひとつなのだ。

 

 終盤のグレーテの行動について、さもありなんと思った。いや、「恋愛」の分岐ではない。そもそも、「恋愛」の分岐はあきらかに外挿的だ。ピクセルアートでテキストベースのゲームをプレイするような人間が、"渇望するもの"の選択肢で「恋愛」を選ぶはずがない。陰キャのフォルトゥーナがあえて「恋愛」を選択するとすれば、その相手は同じ陰キャのグレーテがもっとも蓋然的だということだ。

 つまり、『The Cosmic Wheel Sisterhood』のメタ=フィクションに批判的なひとが言いたいことは、この選択肢で『VA-11 HALL-A』のように、テアと交流を深めたり、パトリスと悪魔崇拝のカルトも畏れおののくような近親相姦をしたり、ユーエニアと大角のあいだに鉄板をかければマルガリータピザを何枚も焼けるくらい愛の炎を燃えあがらせたりできるようにして、擬制としての自由意志、すなわち"操作可能性・変更可能性"の価値を示すべきだったということなのだろう。いや、違ったら、マルガリータピザとか言っている私がバカなのだが。

 

・ドラマ

 

ティム・バートン監督『ウェンズデー

 

 最高。

 Netflixオリジナルドラマでスピンオフ作品と、絶対に面白くないはずが、滅茶苦茶面白かった。ティム・バートン監督作品でも最上位に位置する。

 

・その他

 

 アバター動画配信者である名取さなが数年来、勧奨してきた『ブルーアーカイブ』をついにプレイした。

 面白い。推理小説畑の人間だから、ラビット小隊にとくに注目している。

 母校の廃校が決まったときにすることはなにか? アイドル活動で知名度を上げる? なにかの全国大会で優勝する? 公園にピケ張って無期限ストに決まっているだろ!