『天気の子』とミレニアル世代のオタクの文化史・補論:現代日本批評の裏面史

 柄谷行人渡部直己の対談によれば、現在、日本において《批評》というものは消えかかっており、一方で東浩紀が《ゲンロン》で、一方で山城むつみが『すばる』で、その傾向に抵抗しているらしい。

渡部:でも、海外はともかく、僕が学生の頃に日本で一番輝いていたのは、批評家でしたよ。そこは小林秀雄の功績を認めざるを得ない。小林のあとに、吉本・江藤、蓮實・柄谷とつづく。僕がおくてだったせいかもしれませんが、七〇年代は、人文系で一番冴えてるのが批評家だと思っていました。最先端の哲学・思想を語ることから、小説の批評や新人の発掘、あるいは、社会批評や文明批評まで、映画・音楽・美術もふくめいろんなことができるのが批評家である、と。もっとも幅が広くて、しかも、それぞれの専門家よりも鋭くないと、その幅を維持できない。そう思ってました。それが、僕自身をふくめ、段々そうじゃなくなってきて、ついには、今や批評自体が消えかけています。
柄谷:近年、東浩紀とかが「批評」についてしきりにいっていますね。僕にはピンと来ないのですが。
渡部:少なくとも、その「批評」の消滅を食い止めようとはしてますね。「ゲンロン」という名の場所と雑誌を作り、ネットもフル活用して、いろいろな書き手を集め、読み手を開拓し、さまざまな企画を作る。その一環として、まさに今いった『近代日本の批評』に倣って、一九七五年から二〇一六年までの日本の批評の総ざらいを、市川真人、大澤聡、福島亮大といった人たちと連続的に討議していました。佐々木敦なども参加している。批評作品個々の重要度を活字の大きさで一目瞭然たらしめるという露骨な年表まで作って(笑)。……
……
渡部:討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。東浩紀一個人にかんしては、こんな言い方は失礼かも知れませんが、『批評空間』でデビューした頃から比べると、ずいぶん「大人」になった感じがしますね。良い傾向だとおもって、僕も時々協力してますが、彼らの議論の中心には柄谷さんがいる。他方に、大澤信亮杉田俊介浜崎洋介という人たちが『すばる』誌を拠点として、この「ゲンロン」に対抗しようとしているようですが、彼らにとっても柄谷さんが淵源。簡単にいうと、かつての小林秀雄の位置に柄谷さんがいるわけです。どちらにも、蓮實重彥の影が薄いのが、個人的には寂しい限りですが、その『すばる』組の言い分を僕なりに敷衍すると、どうやら、柄谷さんがふたりいて、ひとりは理論的な柄谷であり、もうひとりは実存的な柄谷である、と。大きくいえば、「マルクス的柄谷」と「キルケゴール的柄谷」かな。そのマルクス方向は東さんが引き継いで、キルケゴールの方向は山城むつみさんが引き継いでいる、となります。これは、さほど間違った見方ではないとおもいます。東さんは近頃、「観光」といったキーワードで、理論的に批評を構築する。一方の山城さんは、小林秀雄風の実存的な批評をやっている。それで今の若い三十代四十代ぐらいの世代は、東派と山城派にわかれているようですよ。つまり、柄谷さんが持っていたものが枝分れして、表面的に繁茂しているかにみえます(笑)。
柄谷行人・渡部直己対談 起源と成熟、切断をめぐって )

 その意味で、東が《ゲンロン》を創設し、運営してきたことは立派だった。
 しかし、その10年に及ぶ活動の成果は皆無だ。渡部が《討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。》という評価で言外に表しているとおり、志大才疏に終わった。
 それはなぜか。

 ただし、関井光男による柄谷へのインタビューで言及されているとおり、東らの思潮は当初から質の低さが懸念されていた。

 関井:それは現実的に無理ですね。人材、スタッフを含めて『批評空間』のようなハイレベルの雑誌を出すことは、状況的に不可能になっていますね。日本以外の人に普遍的に読まれる雑誌を作るのは、生半可な姿勢ではできないですよ。一九三〇年代に北園克衛が『L'ESPRIT NOUVEAU』というフランスでも販売した国際的な詩の雑誌が刊行されたことがありますが、この雑誌はヨーロッパの勉強には役に立たないです。平成一四年に『批評空間』のやりかたを上辺だけ真似た雑誌が出ましたが、これは読むに耐えないですね。『批評空間』が作ったレベルは、よほどのことが起こらない限り、作ることは不可能です。したがって、今、何を考えなければならないかは、ある意味ではっきりしていると思います。ポピュリズムが横行して大衆の欲望の上に胡座をかいている現状では、雑誌メディアを通して知的刺激を受ける環境を作ることは難しくなっています。

柄谷行人編著『近代文学の終り』「イロニーなき終焉」pp.183-4)

 東の批評家としての経歴はジャック・デリダの批判にはじまった。しかし、それは無意味なものだった。なぜなら、デリダの哲学そのものが無意味だからだ。
 デリダは『マルクスの亡霊たち』において、マルクス主義を憑在論(※1)という修辞的な存在論と名指した。その反論の論文集である『Ghostly Demarcations(幽霊的境界画定)』において、フレドリック・ジェイムソンは『Marx's Purloined Letter(マルクスの盗まれた手紙)』で、マルクス主義は体系的な哲学というより方法論、つまり、精神分析のような《unity-of-theory-and-practice(単一の理論と実践)》だと批判する。言うまでもなく、これはルイ・アルチュセールが『マルクスのために』で定式化し、フーコードゥルーズにも影響を与えた、有名なプロブレマティックの理論であり、このマルクス主義についての教科書的知識を踏まえていないだけで、デリダの晩年の著作である本書が、出版されるや否や、幅広い層から論難に晒されたことは当然だと言える(※2)。
 では、なぜデリダはそのような拙作を著したのか。
 これにつき、ジェイムソンは、デリダの後期資本主義への迎合を知的な欠性に帰す。やや専門的な議論になるが、それはデリダが『グラマトロジーについて』でハイデガー存在論記号論をもって再解釈したとき、自身の記号論がすでに存在論と化していることに無自覚だったときに、すでに萌芽していたと言う。

 There is no ‘proper’ way of relating to the dead and the past. It is as though Derrida, in what some call postmodernity, is in the process of diagnosing and denouncing the opposite excess: that of a present that has already triumphantly exorcized all of its ghosts and believes itself to be without a past and without spectrality, late capitalism itself as ontology, the pure presence of the world-market system freed from all the errors of human history and of previous social formations, including the ghost of Marx himself.

 (死者と過去に関係する「正しい」道など存在しない。つまり、まるでデリダポストモダンと呼ばれるもののなかで、対立的で目障りなものを診断し批難しているようだ。すなわち、まさに現在という時代において、あらゆる幽霊と、過去と亡霊は存在しないという信念それ自体、存在論としての後期資本主義それ自体、マルクスの幽霊を含む、人間の歴史の過ちと社会の前駆的形態のもとで形成された世界市場システムの純粋な存在を、誇らしげに厄祓いしたのだ。)
(『Marx's Purloined Letter(マルクスの盗まれた手紙)』)

 東のデリダ記号論への批判も、無限退行のプロセスのように、まったく同じ帰結を迎え、存在論と化した記号論を掲げることとなる。そして、それは後期資本主義の盲信へと展開する。
 東が盲目的に礼賛し、その批評の中心としている概念は《観光》だ。しかし、観光こそ後期資本主義に特有のものに他ならない。
 観光につき、マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルグの銀河系』で《そのためにいわば商業社会の規格製品であるわれわれは、かえってときに観光客として地理的な周辺文化を求めたり、あるいは消費者として芸術のなかに周辺文化を求めたり、いずれにせよ口語的な周辺部へと、ときたま帰還することが可能なのである。》と述べる。
 つまり、観光は近代になってはじめて行われた。そして、マクルーハンが言外に表しているとおり、それは反知性的なものだった。
 蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』でその馬鹿馬鹿しさをこう明晰に表現している。

 人は、捏造された不在と距離に保護され、自分自身と出合うために書く。そこに見出される自分は、つねに変わらぬ自分自身、つまり自己同一性でなければならない。思考し行動する主体を支えるのも、その自己同一性なのだ。旅は、これを崩壊させることがない限りにおいて有効だろう。身近な環境を遠ざかり、異国に暮らしてもなお同じ自分が保たれ、帰郷はその輪郭をなおいっそうきわだたせてもくれよう。だから、完全な異国人へと変容してしまうのでなければ、旅行は、いつでもより確かな自分との遭遇を約束してくれるに違いない。

(『凡庸な芸術家の肖像』)

 無論、しばしば『記号と事件』のエッセイを皮肉っぽく引用されるとおり、ドゥルーズ遊牧民ノマド)の理論を提唱したにもかかわらず、自身は重度の旅行嫌いだ。

 イヴ・K・セジウィックは『男同士の絆』で、『センチメンタル・ジャーニー』を題材に、観光旅行というものの知的劣等をこう指摘している。

 こんなにまで欲望を孕んだ、魅惑的で、一面的な社会地図を、これほど強い説得力をもってこの小説が提示することができるのは、おそらく『センチメンタル・ジャーニー』が定義すれば旅行小説だという事実と関係があろう。イギリス人(今世紀ならアメリカ人)が――特に貧しい地域や国へ――観光旅行するのは、幻想が欲求するままに、社会全体を自分のものにして脚色することができるからである。これは、性的な幻想についてはおそらく特に当てはまるだろう。(『男同士の絆』)

 なお、セジウィックは『センチメンタル・ジャーニー』につき、主人公が周囲の女性や労働者階級をもって形成する、核家族的な「家族」を、資産を持たない中産階級知識人が、自身の欲望と性的幻想を満たすために現実を偽装する醜悪なものだと分析するが、これは東浩紀自画自賛する「疑似家族」そのものだ。

 さて、観光の馬鹿馬鹿しさの好例は京都だ。
 京都国際観光大使や、政府の諮問委員会を歴任したデービッド・アキンソンは著書で京都の観光政策を激しく批判している。いわく、観光招致の資料やガイドブックのイメージ写真はほぼすべて花見小路の南側のもので、つねに同じ数軒の町家を京都の街並みとして紹介している。だが、京都でそのような景観の場所は他になく、現実は東京と大差ない。アキンソンはこれを「詐欺」とまで呼称している。
 アキンソンが比較対象とするのはヴェネツィアだが、『世界史』の著者であるウィリアム・H・マクニールが『ヴェネツィア』で言うところは《快楽の都としての、そして観光地としての都市の役割は、文化的な中心、灯台としてのかつての機能の残光だった。》だ。カントがその経歴の初期で問題化した《尊厳》とは、こういうものだっただろう。観光地とは、もっとも尊厳を欠いた場所のことだ。
 いわゆるライト文芸において、頻繁に京都が舞台になるのは偶然ではない。京都のイメージこそ、知的な欠性にもとづく資本主義リアリズムの表れの好例だ。
 ただし、法月綸太郎麻耶雄嵩などの京都大学推理小説研究会を出自とする新本格推理小説の第1世代は、有名なロラン・バルトの日本論を踏まえつつ、こうした京都の空疎さを前景化している。不安は現在の若手作家だ。
 大林宣彦は『転校生』であえて広島の観光地ではなく、下町でロケーションをおこなったが、細田守は『時をかける少女』でこの真逆をおこない、その知的劣等は彼の作品の全編を貫いている。

 また、東の執着するドストエフスキーと疑似家族も同様のものだ。
 小森謙一郎は『デリダの政治経済学』で、デリダが『弔鐘』でヘーゲルアンティゴネーへの執着に共感していることを指摘する。それは、アンティゴネーの兄への愛情が、《欲望なき結合》という人倫と家族の同一化を象徴しているからだ。それは単婚および近親相姦の禁止と不可分のものだ。ハーバーマスヘーゲル法哲学を、市民社会における個人の意思の対立を問題とし、その止揚を主観性の国家との一致においてなそうとしたが、それは主観性を超えたものを仮定し、問題を回避しただけに過ぎないと分析する。この構造が、ドゥルーズが『差異と反復』で批判の中心とする悪しきヘーゲル主義だ。上述したデリダ記号論は、悪しきヘーゲル主義の典型だ。同様に、東の記号論も悪しきヘーゲル主義だった。『差異と反復』で、ドゥルーズヘーゲル主義を資本主義の亡霊と等置している。
 東のドストエフスキーと疑似家族は、デリダにおけるアンティゴネーと同じだ(※3)。
 田中ロミオの『家族計画』(※別名義)は疑似家族モノの名作とされるが、じつは、いずれのルートでも疑似家族の試み《相互扶助計画「家族計画」》は挫折する。このことは、エロゲーシナリオライターのなかでもマルクス主義的な傾向の強い田中ロミオの作品として、特筆すべきだ。
 われわれは疑似家族を賛美するより、『腐り姫』の簸川樹里、『鬼哭街』の孔瑞麗といった実妹とのセックスを推奨すべきだろう。この両作は、ソフ倫の規制で近親相姦が禁止条項だった時期に発売された。

 蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』は、デリダに関する解説がフーコードゥルーズに対して紙幅が多いが、その余分はすべてデリダの『グラマトロジーについて』とデリダの追従者への批判に割かれている。そして東の言説は、蓮實重彦が蒙昧主義として予見したまさにその通りのものだった。

”しかし、一つの危惧が、ある確信とともに語り終ろうとするものの筆を重くする。ある確信、それは、『グラマトロジーについて』が、しばしばそう考えられているように、断じて「現前」の「形而上学」批判の書物ではないという確信である。「ルソーの時代」が「書物の時代」と入れ子状に嵌入しあい、そこに浮きあがる言葉の模様へと二重化された「レクチュール」が投げかけられるとき、そのつど、内部の言葉はかつてない鮮明な輪郭におさまり、豊かな語らいの場を獲得してゆく。「現前」の「形而上学」は、崩壊に瀕するどころか、自分とは無縁と思われていた領域に願ってもない支えを発見する。そこでソシュールの(、)「差異」はルソーの(、)「代補」と手をたずさえることによって、より強固に内部の叙事詩を組織することができる。たしかに、そこには錯覚と、誤謬と、捏造とが指摘されているし、叙事詩がその説話的饒舌をかすめとられるはずの条件までが標定されてはいる。しかし、そうした危険の予告によって、叙事詩は、そっくりそのまま救われてしまったのではないか。というより、さらに確実な地盤へと向けて、欲望の磁場を移動させることになりはしないか。「ディフェランス」を語り「代補」を語りながら、デリダは「現前」の「形而上学」なるものを、それなりにそして誰にもましてみごとなやり方で顕揚することになりはしまいか。「書物の時代」はフェルディナン・ド・ソシュールの思考を、より刺激的なものに再編成してはいないか。「ルソーの時代」はジャン=ジャックの思考を、より広大な展望へと向けて解放していはしまいか。そして、「代補」の「代補」的連鎖が豊かなものとなればなるほど、叙事詩はそれじたいとして刺激的な言葉を生きはじめはしないか。その未来が確かな展望のもとに開かれたというのではないにしても、本来が過去の物語であったはずの叙事詩は、みずから内部の閉域での出来事へと注ぐべき視線を、かつてなく透明なものとしてしまったことにならないか。これまで見えてはいなかった細部が、未知の鮮明な輪郭を獲得して視界に浮上し、人を抗いがたい魅力によって閉域へとつなぎとめ、二重化さるべき「レクチュール」をいたるところで崩壊させはしまいか。通俗化こそが、透明性にいたる唯一のみちだとする叙事詩的錯覚が、戦略を一つの自然として改めて制度化しはしまいか。そして、その結果、内部の言葉が、ある瞬間から、叙事詩的ファシスムといったものに転化することはないか。「代補」の連鎖がその狂暴な死への傾斜をちょっとでも弱めるとき、叙事詩は誇らしげに蘇生するのではないか。
そして、「現前」の「形而上学」批判などと口にする人に限って、「代補」の「代補」的連鎖をあっさり虚構化して叙事詩的ファシスムに加担してしまうのだ。”(太字は引用者)

 では、なぜ東はフーコードゥルーズの研究から経歴をはじめることもできたにもかかわらず、デリダを選択したのだろうか。
 考えられることは、まず、単位不足で法学部を諦め、教養学部への進学を選択せざるを得なかった劣等生にとって、比較的簡単なデリダの研究が手頃だったということだ。
 そうでなければ、後期資本主義が進展するなかで、それと親和的なデリダの研究が大学卒業後の進路にとって有利だったということだ。
 しかし、初期の東の態度は論争的で、そうした妥協的な動機は考えにくい(※4)。
 選択の理由は意外なところから伺える。初期の著作である『動物化するポストモダン』だ。
 いまではこの著作はアキバ系サブカルチャーの粗略な概括に、安易なポストモダニズム論を接木しただけで、ほぼ内容のないことが知られている。しかし、この著作の末尾における捻転が、東浩紀の思想の始点を明らかにする。
 この著作は末尾において、そこまでの論旨から飛躍して『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』を熱賛して終わる。
 その理由は、東が前段で批判するエロゲーのルート分岐を『YU-NO』が超克しているからというものだ。
 その批判は以下のとおりだ。

 作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾だと感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。

(『動物化するポストモダン』)

 このエロゲーのルート分岐の不真面目さに対する批判は理解できないでもないが、それに対し、『YU-NO』を称賛するのは論旨が一貫していない。これは明確にポストモダニズム論から逸脱している。デリダは『散種』で《テクストの外部はない》という公準を掲げ、これにもとづけば、『YU-NO』と他のエロゲーに差異を見出すことはできない。
 東もそのことに自覚的なのか、その箇所の文章は修辞的で、非論理的なものとなっている。

 ドラマの消費とシステムの消費のこの二層化は、コンピュータ・ゲームの前提となる条件であり、この作品も決してそれを逃れているわけではない。しかしとはいえ、『YU-NO』が、そのような条件のなかにいながら、同時にその条件の自覚を目指したアクロバティックな試みであり、きわめて重要な作品であることは疑いない。

(同上)

 この文章を論理的なものに修正すれば、《…その条件に自覚的であり、その意味で歴史的な意義をもつことは疑いない。》となるだろうか。
 さて、東の前段の批判は、当時のアキバ系サブカルチャーにおいて流行していた言説を、そうした俗語を使わずに解説したものだ。つまり、《kanon問題》だ。
 本書における東のエロゲーに関する文章には、哲学の素養を身につけ、自負心を得たオタク青年の、他のオタクたちに対する「なぜお前たちは《kanon問題》に無自覚なのか」という義憤が充溢している。つまり、『YU-NO』への異様なまでの熱賛の理由は、「本作は《kanon問題》を解決している」ということに尽きる。東は『kanon』におけるあるヒロインが、他のルートでは救済されないことに苦悩と義憤をおぼえていたのだ。それが、あゆか、名雪か、真琴か、舞か、栞かは知らないが。
 そもそも《kanon問題》はそこまで論争的なものではない。『kanon』はいわゆる泣きゲーの元祖と呼ばれる。しかし、各ヒロインのルートでは後半に悲劇が起きるが、幼なじみである名雪だけは特別な背景がないため、母親の秋子が何の脈絡もなく、いきなり交通事故に遭って意識不明に陥る。これはもう泣けるというより、ギャグだ。『kanon』の中心となるヒロインは明確にあゆであり、あゆのルートと他のヒロインのルートが衝突するのは、ただ制作スタッフが深く考えていなかったからでしかない。例えば、栞は死病に冒されていて、余命の期限を目前にしている。せめて思い出がほしいとして、病気のことは意識せず、主人公と恋人として振舞う。そして、余命の期限を迎えるが、「やっぱり死にたくない。こんな思いをするなら、思い出なんかいらなかった」と悲痛な叫びをあげる。たしかに泣けるが、とても文芸的に優れているとは言えない。
 『kanon』において世評となった《感動》はkeyの商業主義と結合し、『CLANNAD』で頂点に達する。ヒロインが娘を残して死ぬ。ギャグだ(※5)。
 『kannon』を構成するのは、ヌルいギャグ、幼稚なヒロイン、見透いた構成であり、これは商業主義ときわめて親和的だった。とくにkeyの作品に特有の幼稚なヒロインはたびたび批判されてきて、いまさらくり返すまでもないが、特筆すべきはシナリオライターが年齢相応な少女を書くこともできたということだろう。じつは、ヒロインの5人中3人は、特殊な事情で精神年齢が小学校低学年でとまっている。有名なあゆの「ボク」という一人称もそのためのものだ。にもかかわらず、言うまでもなく、もともとの製品では主人公とセックスしている。ヤバい。そうしたヤバさが注目されることもなく等閑視されるのも、商業主義に特有のことだ。しかし、特別な背景のない名雪は、ときおり年齢相応な言動をみせる。つまり、シナリオライターがそうした幼稚な性格のヒロインの方が、販売戦略の上で有利だと判断したということだ。実際に、その目論見は成功した。
 また、《kannon問題》は作中で解決できる。エキノコックスだ。
 沢渡真琴はキタキツネが変身した少女だ。肉体は人間のものになっても、キタキツネのままエキノコックスを保菌していることは想像に難くない。水瀬一家がエキノコックスに感染すれば、秋子の交通事故という名雪の悲劇は防ぐことができる。ただし、キツネやイヌの糞便から経口感染するエキノコックスは、潜伏期間が長い。急性で発症するには、糞便を多量に摂取する必要がある。つまり、祐一が真琴のウンコを食いまくればいい。さらに、居候先の水瀬秋子名雪の母子をあらかじめSM調教し、スカトロ趣味で自身のウンコを食わせれば、両者を入院させることができる。無論、そのときは祐一も入院している。『kanon』の舞台は北陸-北海道地方の小都市だが、エキノコックスの治療をおこなうことができるほどの設備を有する医療機関は地方にほとんどないだろう。必然的に、長期の植物状態であるあゆの治療をおこなう医療機関と同じということになる。入院していれば、水瀬一家か祐一が、院内に長期の植物状態である同年代の少女がいることを知ることになる。長期の入院生活で暇をもてあまし、好奇心にかられた祐一がその病室を覗けば、そこにあゆがいる。当然、祐一はそれが町で出会った少女と同一人物であることに気づき、あゆとの記憶が復活する。祐一があゆの名前を呼び、その声があゆの脳に刺激を与えれば、昏睡から回復することも可能だ。これであゆの悲劇は回避することができる。さらに、そうした先端的な医療設備を有する総合病院に、難病にかかった舞の母親が入院していることは自然だ。舞と病気の母親と合わせて会えば、祐一も、それが幼少期に出会った孤独な少女であることに気づくだろう。そして、舞と時間をかけて対話すれば、自身の創造した幻想である怪物との対決により死亡するという、舞の悲劇は防ぐことができる。また、死病にかかっている栞も同じ病院に入院しているはずだ。偶然が重なっているのではなく、そもそも『kanon』は難病にかかったり、交通事故に遭ったり、そうでなければ、そうした縁者をもつ登場人物の割合が高すぎるのだ。香織は名雪の見舞いに訪れざるを得ず、そこで栞と対面することを強いられるだろう。栞の死病は解決が難しいと思われるかもしれないが、その病名につき、栞は「病名をおぼえたところで意味がない」と言って明かすことを拒否している。これは作劇の都合でもあるが、きわめて奇妙な台詞だ。病気は治るものと治らないものがあり、後者だから栞は苦しんでいる。病気を区別する必要がないとしたら、時間がないか、金がないかだ。時間は闘病生活が長期に及ぶことの描写から考えにくい。つまり、費用がないと考えるべきだ。この仮説は、香織の冷めた性格と、妹への頑なな態度とも適合的だ。ここで、祐一はすでに舞を通じて佐佑理と縁故ができており、資金援助をしてもらうことが可能だ。その蓋然性に疑問があるなら、もう佐佑理にもウンコを食わせるなり何なりすればいい。これで、舞の病死という悲劇は防ぐことができる(※6)。なお、エキノコックスの感染により、真琴の正体がキタキツネであることは早々に判明している。エキノコックスの伝染により、大規模な害獣駆除の行われる公算の高いことから、真琴はキツネに戻ったあとも水瀬家で引きとることが無難だろう。これで、祐一と真琴の別離という、真琴の悲劇は回避することができる。まだ《あゆの奇跡》が残っているため、真琴をふたたび人間にするために使ってもよい。しかし、SM調教した水瀬秋子名雪の母子、その他の少女たちとの痴情の縺れを解決するために使った方が無難だろう。
 これは頓智ではない。科学だ。
 しかし、当時、オタク青年だった東はこの《kanon問題》に深刻な葛藤をおぼえた。
 もうお分かりだろう。
 東浩紀と《ゲンロン》の活動のすべては、月宮あゆの亡霊を厄祓いするためのものであり、それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

(※1 どうでもいいが、《hauntology》という現代思想に特有の言葉遊びにつき、《憑在論》という訳語を当てた訳業はすばらしい。)
(※2 ただし、本書はデリダの他の著作がそうであるように、SF的な読みものとしては非常に面白い。)
(※3 余談だが、是枝裕和の『万引き家族』では社会に疎外されたひとびとによる疑似家族が解体して終わる。これは、もともと仮象でしかない近代的な家族制度が無化しただけのことで、何の意味もない。同監督の『誰も知らない』では、育児放棄された兄弟たちと年長の少女が、頓死した末女を空地に埋めて、ふたたび共同生活をはじめるところで終わる。映像では、彼らは画面の外部に去る。唖然とする結末だが、ここで彼らは疑似家族を形成したというより、近代的な家族制度を破壊したと見なすべきだろう。おそらく、このときカンヌ国際映画祭の審査委員長だったクエンティン・タランティーノはこのことに気づいていた。その意味で、『万引き家族』は『誰も知らない』よりはるかに大衆迎合的だ。もっとも、タランティーノケイト・ブランシェットでは、映画批評家として比較する方が酷だというものだが。ただし、『そして父になる』以降の、フジテレビ協賛の是枝の監督作品のなかでは『万引き家族』がもっともいいものであることは疑いがない。しかし、是枝の最良の作品のひとつである『奇跡』は、JR九州の協賛で制作された。)
(※4 なお、結果論として後者の理由により東の選択は奏功する。エルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフは『民主主義の革命』において、唯物論的な観点から、階級の物質性と「真のアイデンティティ」を代表=再現前化(プレゼント)する政治的審級が乖離することを分析した。さらに、経済的再配分を重視する階級の政治の社会的左翼と、言説を重視するアイデンティティ・ポリティクスの文化的左翼は背反することとなる。リリアン・フェダマンの『レスビアンの歴史』によれば、ポリティカル・コレクトとは、もともとフェミニズム運動が発展する過程において、難解きわまるフェミニズム理論を理解できない、新たな運動の参加者のために発案されたものだった。同書によれば、ポリティカル・コレクトはやがて教条主義と化し、運動の分裂をもたらした。つまり、ポリティカル・コレクトの論争点とは、もともとイデオロギーの対立ではなく、知性と反知性との対立だった。後期資本主義とは、大衆の台頭のことだ。スマートフォンの普及率は2003年の0%から10年ほどで80%近くまで急増した。もともと人数で圧倒的多数を占めているルンペン・プロレタリアートが発言権を得れば、俺たち知的に優れたエリートは、ただ黙従する他なくなる。そうした潮流でエリートが選択できる政治思想は、完全な個人主義を物質的に実現する、生産の無人化とベーシック・インカムを掲げる左派加速主義だけだ。)
(※5 「288:エロゲじゃなかったらなんなのよ」「300:>>288 人生…かな?」「304:>>300 うわぁ‥‥」「306:>>300 ( ;∀;)‥‥」「311:>>300 (ノ∀`)」)
(※6 栞が助かるのはあゆが死亡し、臓器提供が間に合ったためという仮説は合理的で魅力的だが、あゆは自身を除くすべてのルートで死亡しているために、それでは他のルートで栞が死亡していることと矛盾する。)

『天気の子』とミレニアル世代のオタクの文化史

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ゼロ年代

 『天気の子』を観た。
 100点満点中の100点満点だった。
 が、脚本は酷い。
 ヒロインの陽菜が明日、誕生日だとわかる。主人公の帆高がプレゼントを用意する。「ああ、明日、悲劇的なことが起こるのだな」と予想すると、そのとおりになる。酷い
 その粗漏さは冲方丁が「改善案」という形で穏当に指摘している。「拳銃が物語から浮いている。どうしても登場させるなら、その拳銃で天気の龍を撃つなどして活用すべきでは?」。ホントだよ。「手錠が画面の邪魔だ。どうしてもはめるなら、その手錠で帆高と陽菜を繋ぐべきでは?」。ホントだよ
 以下、物語を確認しよう。
 家出少年の帆高は、東京をさまよった末、フリーの雑誌記者の須賀に拾われる。この過程でフリーターの陽菜と知りあい、また、拳銃を拾う(酷い)。須賀や、その姪の夏美とともに日常を過ごす。チンピラに絡まれていた陽菜を助ける。陽菜の金に困っていることと、天候を操作する能力を知り、2人で《晴れ女》の仕事をはじめる。陽菜の弟の凪とも親しくなる。が、天候を操作する能力には代償があった。このままでは陽菜は消えてしまうらしい。しかも、それは異常気象を正常にするための生贄として社会に必要なことらしい。また、陽菜と凪の家庭には児相が、帆高には警察が迫っていた。帆高、陽菜、凪の3人は逃避行をはじめる。その過程で陽菜は能力を使い、ますます消耗する。そして、陽菜は消失する。帆高は捕まる。陽菜をとり戻すため、帆高は警察から逃走する。ここが山場になっている(陽菜が生贄として犠牲になることと、児相と警察が帆高らを捕まえようとすることの関連性が低いため、盛りあげが不自然なものになっている。酷い)。社会の代弁者だった須賀、夏美もここにきて翻意し、帆高を手助けする。凪も駆けつける(盛りあげのためだが、時間的にありえない。明らかな脚本の矛盾。酷い)。そして、世界を代償に、帆高は陽菜をとり戻す。
 ここまでは微妙だ。だが、このあとのラスト5分が素晴らしい。
 3年後、異常気象は続き、東京は水没していた(いくら雨が降っても海面は上昇しない。平均気温が上昇したことの説明を省略しただけだと思うことはできるが、酷い)。保護観察処分が満了し、帆高はふたたび東京に赴いた。須賀たちは世界の変化を「ただの自然現象で受けいれるしかない」「そもそも、個人が世界を変えられるはずがない。おかしな幻想を抱くな」と言い、罪悪感を抱く帆高を慰める。そして、帆高は陽菜と再会する。そのとき、雲間から日射しが差す。陽菜が能力を使っていた。大事な人と再会するときに晴れていてほしいから。そのためだけに、世界を代償にする能力を。帆高は確信する。「ちがう、やっぱりちがう! あのとき、僕は僕たちはたしかに世界を変えたんだ! 僕は選んだんだ、あの人を、この世界を! ここで生きていくことを!」。暗転、エンドロール。
 スタンディングオベーション拍手喝采
 SNSを見たら、観客の半分くらいはこの結末に憤っていた。ウケる。『おやすみシェヘラザード』のコラボ漫画を読むと、試写会の反応もドン引きだったらしい。
 その反応はもっともなものだ。2011年の死者1万5000人、行方不明者2500人を出した東日本大震災から8年しか経っていない。『天気の子』で異常気象による直接の死者は描かれていないが、少なくとも東京が水没したあとは、罹災者のなかに震災関連死と同じ原因の死者が相当数出ているだろう。
 しかし、私の見るかぎり、いわゆるミレニアル世代は『天気の子』に熱狂している。彼らが中高生のときにプレイした2000年代のエロゲーの経験を呼びおこしたらしい。少なくとも私はそうだ。陽菜が登場したあと、夏美が登場したときに「《攻略可能ヒロイン》だ」と思ったし、前半を「《日常パート》だ」と思ったし(私は当時からエロゲーの《日常パート》の冗長さは問題だと思っていた)、陽菜が消えるときに「いつものこととはいえ、エロシーンの前後に重要なイベントを配置するのはシナリオの温度差が激しいのでやめてほしい」と思ったし、クライマックスで帆高が拳銃を構えたときに「《拳銃を撃つ》《拳銃を撃たない》」という選択肢が見えて「《拳銃を撃つ》を選択すると《陽菜トゥルーエンド》、《拳銃を撃たない》を選択すると《陽菜グッドエンド》だな」と漠然と理解した。「1周目では《陽菜トゥルーエンド》には到達できず、誰かのグッドエンドを開放するとタイトル画面が雨から晴れに変わって、《陽菜トゥルーエンド》を開放するとふたたび雨になり、もう変化しない」という言説も「言葉」でなく「心」で理解できたなんなら原作のエロゲーが「2chベストエロゲー」や「萌えゲーアワード」で下位に入賞していた気すらした
 2000年代前半に、アキバ系サブカルチャーで多種多様な意欲作が発表された。こうした作品はのちに《ゼロ年代》と分類されることになる。また、その一部は《セカイ系》と呼ばれた。2000年代はとくにエロゲーの躍進が目立ち、これはCD-ROMのノベルゲームが比較的、初期費用がかからず、有志が起業しやすかったためだと思われる。そして、新海誠もそうしたエロゲーのメーカーであるminoriの映像作家として、その経歴をはじめることになる。
 その後、新海誠は2002年、自主制作映画の『ほしのこえ』で注目を集め、2004年、初の商業映画である『雲の向こう、約束の場所』を発表する。この2作はまさに《セカイ系》だった。
 『天気の子』につき、脚本の粗漏さを論難したが、じつは新海誠の作劇の貧弱さは初めからのものだ。『きみのこえ』は時間論を重視した実存主義を主題として、批評的に高い評価を得た。が、自主制作映画ということで過大評価されているが、30分未満の小品で、主題は高度に文学的だが、その脚本における具体化は単純だ。『雲の向こう、約束の場所』は青春の喪失感を主題としているが、脚本はやはり単純だ。眠りつづける青春時代の恋人を小型飛行機に乗せて、《塔》まで飛行する。そのおかげで恋人は目覚めるが、代償にかつての思い出は失われる。『星を追う子供』はジブリ映画の模作だし、『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』はさらに酷い。なにが酷いかと言えば、つまらない上に気持ち悪かった。『君の名は。』の「男女間の精神転移、精神転移に時間差があったというどんでん返し、それによる救出劇」という筋書きはゲーム『Remember11』の盗用で、そのことは南極観測隊員すら南極で呆れていた
 『天気の子』は個人と社会の対立を主題としているが、児相と警察はつねに無謬で、帆高たちの《子供の理屈》も自明のものとされ、高井刑事の髪型をリーゼントにして深刻さを緩和しているように、その描写はきわめて戯画的だ。帆高たちは一緒にいるために社会と対立するが、べつに陽菜と凪が異なる養親か施設で養育されるとは限らないし、帆高とも会えなくなるわけではない。酷い
 ただ、「妻と死別し、別居する幼い娘のいるフリーの雑誌記者」というステレオタイプなキャラクターである須賀に違和感がなく、夏美が魅力的だったのは意外だった。これは新海誠の過去の監督作品にはないことだった。もっとも、これは演者である小栗旬と本田翼の功績も大きいだろうが。プロの俳優はすごい。しかし、陽菜がじつは年下であることはもっと前倒しで明かした方がよかった。おそらく帆高が自責の念にかられる場面に繋げたかったのだろうが、そうすれば、年上の夏美との対比で、陽菜をはるかに魅力的に描写することができたはずだ。新海誠は処女作から一貫してヒロインを物語の道具立てとしてしか使用していない。おそらく、もともと興味がないのだろう。
 では、なぜミレニアル世代は『天気の子』に熱狂したのか?
 2000年代前半にブームを築いたエロゲーだが、そのために制作コストとユーザーの時間コストは無限に上昇し、2010年代にはシナリオ重視のエロゲーは衰退した。2010年に発売された『WHITE ALBUM2』はエロゲーの代表作だが、プレイ時間が60-80時間ある。おそらく、本作がエロゲーブームの掉尾だった。エロゲーそのものの市場規模も最盛期の2006年の350億円から150億円まで縮小している。2000年代のエロゲーシナリオライターライトノベルやアニメの脚本に転出し、もはや戻らない。また、エロゲーブームはライトノベルや漫画、アニメに類似のジャンルを創造し、それがエロゲーの市場規模の縮小を補填した。そのため、もはや需要は回復しない。
 また、ライトノベルも2000年代の栄華を失った。ライトノベルの市場規模は最盛期の2012年の280億円から160億円まで減少している。書店の売場面積はウェブ小説の書籍化が補填し、こちらは市場規模は増大しつづけ、そのため、もはや需要は回復しない。一方、ウェブ小説は小説投稿サイトの順位制のために、先行作との類似と、短く簡単な構成、半永久的な継続が要求され、2000年代のライトノベルのような挑戦的な作品を書くことはできない。
 つまり、ミレニアル世代における《ゼロ年代》は失われた夢だ。
 また、批評はこれに対して何も応答できなかった。いまでは周知されているとおり、2001年の東浩紀の『動物化するポストモダン』は無内容だった。東浩紀デリダ批判からその経歴をはじめたが、デリダが文学について凡庸なのは蓮實重彦が指摘するとおりだ(『ユリイカ《総特集=蓮實重彦》』)。デリダの『マルクスの亡霊たち』への反論である論文集の『Ghostly Demarcations』において、フレドリック・ジェイムソンはそもそもデリダ記号論は、記号から意味を捨象するだけで無意味なものだったと指摘している。皮肉なことに、そのためにデリダ記号論は後期資本主義ときわめて相性がよかった。東浩紀が《ゲンロン》を創設し、論壇を維持しようと務めたことは立派だった。だが、その成果は皆無だった。デリダ批判にはじまる東浩紀の批評は、デリダ記号論の再演に終わり、無意味だった。60年代の『カイエ・デュ・シネマ』の批評は実作と直結していた。《ゲンロン》の実作がなにかと言えば、『異セカイ系』だ。クソだ。
 木澤佐登志は『ニック・ランドと新反動主義』の末尾で、ポツリとミレニアル世代を主題化している。それは木澤自身がミレニアル世代だからだろう。そして、木澤はミレニアル世代を中心とする新しい思潮のなかで、まるでニーチェが亡霊のように徘徊しているようだと述べる。それは偶然ではなく、加速主義などの新しい思潮が思想的背景とするドゥルーズの思想は、ヘーゲル主義を排撃し、ニーチェを顕揚する『差異と反復』からはじまった。ヘーゲル主義は資本主義の亡霊であり、マルクスニーチェの後継者だ。デリダ記号論は、ただのヘーゲル主義だ。
 『天気の子』のラスト5分の爽快さは、まさにニーチェだ。
 フレドリック・ジェイムソンは『政治的無意識』で、19世紀末のジャック・ロンドンの作品をもって、フィクションが現実から自立したと分析する。『天気の子』のラストに憤る観客は、フィクションと現実の区別がついていない。ドゥルーズガタリとの共著の『アンチ・オイディプス』で、記号から意味を捨象することを《去勢》と呼び、それが人間を資本主義に適合させる方法だと述べた。《去勢》された消費者の群れ、ニーチェの言う畜群。『天気の子』は現実の東京を直写的に描き、それを崩壊させることで、ひとつの世界観を表現した。『天気の子』はフィクションの現実に対する勝利宣言でもある。
 左派加速主義の論者であるマーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』で、マーケティングはリスクを低減させるためのものであり、よって、マーケティングが浸透するとリスクテイカーによる挑戦的な作品はなくなると述べる。『天気の子』の新海誠はまさにリスクテイカーだ(リスクを負ったはいいものの、失敗しそうな気はするが)。挑戦的な作品の代わりにもたらされるのは、鑑賞者に感情を押しつける、扇情的で情緒的な作品だ。ナボコフの言う《クズ(トラッシュ)》。エロゲーのトゥルーエンドは情緒的で単純なグッドエンドではなく、文学性があるからトゥルーエンドと呼ばれる。資本主義リアリズムを相対化する、つまり、資本主義のシステムの外部の想像力をもつこと。フレドリック・ジェイムソンは『未来の考古学』でそのことをSFの特質だと述べた。それこそ文学性だ。また、マーケティングでもっとも重要なのはシリーズ化、IP化であり、物語に見事な結末をつけるトゥルーエンドとは真逆のものだ。丸戸史明は『WHITE ALBUM2』のPS3版の追加シナリオが《かずさグッドエンド》の後日談であることについて、《かずさトゥルーエンド》では物語が完全に決着しているからだと述べている。また、丸戸史明は2012年の『冴えない彼女の育て方』をもってライトノベルに転出し、商業的な成功をおさめたが、本作はいわば《グッドエンド》を所与の結末としてもつものだった。シリーズ作品であることが要求されるライトノベルにおいて、その戦略が最善だと判断したのだろう。数年前から、『ORICON エンタメ・マーケット白書』、『出版指標年俸』、『出版月報』はライトノベルは収益をシリーズ作品の続刊に依存していることを分析している。つまり、エロゲーのトゥルーエンドとは、2つの意味で時代に逆らうものなのだ。

 いまこそ言おうではないか。「フェイスブックに登録し、『テラスハウス』を観ている私大文系卒に、優れた作品を創造できる理由はない」と。
 いま、アキバ系サブカルチャーを1匹の亡霊が徘徊している。《セカイ系》という名の亡霊が。

 以下、2000年代のオタクの文化史を概観する。《ゼロ年代》と深い関係があると思うものは太字に、《セカイ系》と深い関係があると思うものは赤字にした。個人的な直観に依存しているのはご容赦願いたい。言うまでもなく、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という《セカイ系》のよく知られた定義は、《中間項》という言葉の意味すらまちがっており、中学生の作文でしかない。しかし、「《セカイ系》らしさ」というものは明らかに存在する。それを否定するのは、《セカイ系》という定義を自明のものとすることと同様に、反知性的だ。一応、私はこういう傾向を「《セカイ系》らしさ」だと考えている。参考:『《セカイ系》定義論・私論

 

○1979年

・時事:マーガレット・サッチャーがイギリス首相になる。ここから1980年代のサッチャーレーガン、中曽根の新自由主義がはじまる。経済における自由主義と政治における保守主義の融合した新自由主義は、社会を不可逆に変化させた。

・映画:長谷川和彦太陽を盗んだ男…『新世紀エヴァンゲリオン』との直接の影響関係。

○1981年

推理小説島田荘司占星術殺人事件』(1993年までに《御手洗潔》シリーズ全9作を発表)

○1983年

・批評:浅田彰『構造と力』…にはじまる、1980年代前半のニュー・アカデミズムの流行。1990年の『近代日本の批評《昭和篇》』のころには鎮静化していた。

○1984年

・アニメ映画:押井守うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
・SF小説:神林長平戦闘妖精・雪風

○1985年

・小説:村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド…『灰羽連盟』との直接の影響関係。

○1987年

推理小説綾辻行人十角館の殺人』(1992年『黒猫館の殺人』まで《館》シリーズ全6作を発表)

○1988年

推理小説法月綸太郎『密閉教室』

○1989年

推理小説山口雅也『生ける屍の死』
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第3部連載開始(1992年完結)

○1990年

・アニメ映画:押井守機動警察パトレイバー 2 the Movie』
・漫画:藤田和日郎うしおととら』連載開始(1996年完結)
    岩明均寄生獣』連載開始(1995年完結)
・フランス映画:リュック・ベッソンニキータ

○1991年

推理小説麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』
      山口雅也キッド・ピストルズの冒涜』
・映画:北野武あの夏、いちばん静かな海
アメリカ映画:ジョナサン・デミ羊たちの沈黙

○1992年

・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第4部連載開始(1995年完結)
    『金田一少年の事件簿』連載開始(2001年完結)
推理小説有栖川有栖『46番目の密室』(1994年の『ロシア紅茶の謎』から1999年まで《国名》シリーズ全5作を発表)
      法月綸太郎法月綸太郎の冒険』(1999年、2002年に《法月綸太郎》シリーズの短編集を発表)

○1993年

推理小説麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』
      山口雅也『13人目の探偵士』
架空戦記佐藤大輔征途』(1994年完結・全3巻)
・書籍:『完全自殺マニュアル
・映画:北野武ソナチネ

○1994年

推理小説京極夏彦姑獲鳥の夏』(1998年の『塗仏の宴』上下巻まで《百鬼夜行》シリーズ全6作を発表)
      はやみねかおる『そして五人がいなくなる』(2002年の『『ミステリーの館』へ、ようこそ』まで《名探偵夢水清志郎事件ノート》全8作・外伝2作を発表)
      山口雅也『日本殺人事件』…『ニンジャスレイヤー』の元ネタ。
          『ミステリーズ』
・漫画:青山剛昌名探偵コナン』連載開始
アメリカ映画(※):リュック・ベッソン『レオン』

○1995年

・時事:地下鉄サリン事件
    阪神・淡路大震災

・アニメ:庵野秀明新世紀エヴァンゲリオン
・アニメ映画:押井守GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第5部連載開始(1999年完結)
・小説:保坂和志『この人の閾』
アメリカ映画:マイケル・マン『ヒート』
・ラジオ:『伊集院光 深夜の馬鹿力』放送開始

○1996年

・エロゲ:Leaf『雫』『痕』
・アニメ映画:『金田一少年の事件簿
・漫画:福本信行『賭博黙示録カイジ』連載開始(1999年完結)
推理小説森博嗣『すべてがFになる The Perfect Insider』(1998年『有限と微小のパン The Perfect Outsider』までにS&Mシリーズ全10作を発表)…誤記ではなく、本当に3年で全10作を上梓した。その出番をもってはじまる『すべてがFになる』において登場した真賀田四季というキャラクターは、西尾維新、野崎まどなどに強い影響を及ぼす。漫画的でありながら、そのことを巧みに隠蔽した漫画的な《天才》というキャラクター。"「ほら、7だけが孤独でしょう?」"。
      清涼院流水『コズミック 世紀末探偵神話』(1997年『ジョーカー 旧約探偵神話』、1997-9年『カーニバル』、2004年『彩紋家事件』の《JDC》シリーズを発表)
・小説:保坂和志『季節の記憶』
・映画:北野武キッズ・リターン
    青山真治『Helpless』
・イギリス映画:『トレインスポッティング

○1997年

・エロゲ:LeafToHeart
・アニメ:幾原邦彦少女革命ウテナ
・アニメ映画:『劇場版名探偵コナン 時計じかけの摩天楼』(2003年まで、こだま兼嗣監督・古内一成野沢尚)脚本の体制で全7作が発表される)
・漫画:久住昌之谷口ジロー孤独のグルメ
推理小説麻耶雄嵩『メルカトルと美袋のための殺人』
          『鴉』
・ドラマ:『踊る大捜査線
・映画:黒沢清CURE
    堤幸彦金田一少年の事件簿 上海魚人伝説』
・ラジオ:『爆笑問題カーボーイ』放送開始

○1998年

ライトノベル上遠野浩平ブギーポップは笑わない
             ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』上下巻
・エロゲ:key(※)麻枝准『ONE~輝く季節へ~』(※前身)
     LeafWHITE ALBUM
・ゲーム:小島秀夫メタルギアソリッド
・アニメ:カードキャプターさくら(クロウカード編)(1999年完結)…もともと『カードキャプターさくら』は《魔法少女》モノのアイロニーで構成されていた。さくらの衣装はすべて《魔法少女》モノのアニメに触発された手製という設定だ。それが、いわゆる《魔法少女》モノの典型と見なされるのは皮肉と言う他ない。
     Serial experiments lain
・漫画:冨樫義博HUNTER×HUNTER』連載開始
・映画:北野武HANA-BI
    『踊る大捜査線 THE MOVIE

○1999年

・エロゲ:key・麻枝准Kanon
     D.O.・田中ロミオ(※)『加奈~いもうと~』(※別名義)
     ケロQ終ノ空
・アニメ:『カードキャプターさくら』(さくらカード編)(2000年完結)
・アニメ映画:幾原邦彦少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』
       『金田一少年の事件簿2 殺戮のディープブルー』
       『劇場版カードキャプターさくら
・漫画:あずまきよひこあずまんが大王(2002年完結。全4巻)…新装版はクソ。
推理小説殊能将之ハサミ男
・ドラマ:堤幸彦西荻弓絵ケイゾク
・映画:黒沢清『カリスマ』
    是枝裕和ワンダフルライフ
アメリカ映画:ウォシャウスキー兄弟『マトリックス
        デヴィッド・フィンチャーファイト・クラブ

○2000年

・エロゲ:key・麻枝准AIR
     TYPE-MOON奈須きのこ月姫
     ニトロプラス虚淵玄『Phantom-PHANTOM OF INFERNO
・アニメ映画:『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』
・特撮:仮面ライダークウガ
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第6部連載開始(2003年完結)
    氷川へきるぱにぽに』連載開始(2011年完結)
    最終兵器彼女(2001年完結)
推理小説殊能将之『美濃牛』
・ドラマ:堤幸彦TRICK
     『相棒 pre season』(2001年まで全3回)
・映画:青山真治『EUREKA』
    黒沢清『回路』
    堤幸彦ケイゾク/映画』
韓国映画パク・チャヌクJSA』…にはじまる、キム・ギドクパク・チャヌクポン・ジュノら《386世代》を中心とする韓国の映画監督の躍進がはじまる。パク・チャヌクは「なぜ『オールド・ボーイ』を映画化したのか」と尋ねられ、「最高の漫画は『あずまんが大王』と『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』だけど、僕にそれを映画化するだけの実力はないから」と答えるほどアキバ系サブカルチャーに造詣が深い(『パク・チャヌクモンタージュ』)。
アメリカ映画:クリストファー・ノーランメメント
        『アメリカン・サイコ

○2001年

・時事:アメリカ同時多発テロ事件
    ジョージ・W・ブッシュ大統領(第1期)就任。
    第1次小泉内閣の組閣。

ライトノベル秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』(2003年完結。全4巻)
・エロゲ:age『君が望む永遠
     CRAFTWORKさよならを教えて
     D.O.・田中ロミオ(※)『家族計画』(※別名義)
     ニトロプラス虚淵玄吸血殲鬼ヴェドゴニア
     公爵『ジサツのための101の方法』
・ゲーム:巧舟逆転裁判
・アニメ:真下耕一ノワール
・特撮:『仮面ライダーアギト
・漫画:久保帯人BLEACH』連載開始(2016年完結)…『HUNTER×HUNTER』と『BLEACH』の息吹は、2016年連載開始の『鬼滅の刃』を嚆矢として、『呪術廻戦』、『チェンソーマン』という2010年代後半のジャンプにおけるダークな異能バトル漫画のブームを形成する。これらは①無常観、②皮肉な雰囲気、③多少の感傷主義、という共通の特徴をもっていた。
推理小説殊能将之黒い仏
・小説:舞城王太郎煙か土か食い物
    佐藤友哉フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(2002年までに《鏡家サーガ》全3作と『クリスマス・テロル』を発表)
・映画:是枝裕和『DISTANCE』
アメリカ映画:『ドニー・ダーコ

○2002年

ライトノベル西尾維新クビキリサイクル
            『クビシメロマンチスト(2003年の『ヒトクイマジカル』までに《戯言》シリーズ全6作を発表)…多読家である西尾維新がはじめたニーチェ的な主人公の人物造型は、2000年代のライトノベルに猛威をふるうことになる。入間人間渡航など、直接的な影響を受けた作家も多い。
        乙一『GOTH リストカット事件』
・エロゲ:ライアーソフト星空めてお腐り姫
     ニトロプラス虚淵玄鬼哭街
・ノベルゲーム:KID・打越鋼太郎Ever17
        竜騎士07ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編
・ゲーム:巧舟逆転裁判2
     ZUN『東方紅魔郷
・アニメ:灰羽連盟
・アニメ映画:新海誠ほしのこえ
・特撮:『仮面ライダー龍騎
・漫画:『ローゼンメイデン』連載開始(2007年完結)
・小説:村上春樹海辺のカフカ
・ドラマ:堤幸彦TRICK
     『相棒 season1』
・映画:堤幸彦トリック劇場版
    『踊る大捜査線 THE MOVIE2』…面白いことは面白いが、脚本はメチャクチャ。
韓国映画パク・チャヌク復讐者に憐れみを
アメリカ映画:ダグ・リーマンボーン・アイデンティティー

○2003年

ライトノベル谷川流涼宮ハルヒの憂鬱(2004年までに《涼宮ハルヒ》シリーズ全4作を発表)
        西尾維新きみとぼくの壊れた世界
・エロゲ:Flying Shine・田中ロミオCROSS†CHANNEL
     Leaf天使のいない12月
     S.M.L・瀬戸口廉也『CARNIVAL』
     ニトロプラス虚淵玄沙耶の唄
     ライアーソフト星空めておCANNONBALL~ねこねこマシン猛レース!~』
・ゲーム:ZUN『東方妖々夢
・漫画:『デスノート』連載開始(2006年完結)
・小説:保坂和志カンバセイション・ピース
    舞城王太郎阿修羅ガール
・ドラマ:堤幸彦『TRICK3』
     『相棒 season2』(2004年完結。以降、2009年までに全7シリーズを放送)
・映画:黒沢清アカルイミライ
韓国映画パク・チャヌクオールド・ボーイ

○2004年

ライトノベル鎌池和馬とある魔術の禁書目録』(2011年までに第1部全25作を発表)
        奈須きのこ空の境界
        西尾維新新本格魔法少女りすか』(2007年までに全3作を発表)
・エロゲ:key・麻枝准CLANNAD
     TYPE-MOON奈須きのこFate/stay night
     ライアーソフト星空めてお『Forest』
・ノベルゲーム:KID・打越鋼太郎Remember11
        竜騎士07ひぐらしのなく頃に 暇潰し編
・ゲーム:巧舟逆転裁判3
     ZUN『東方永夜抄
・アニメ:『ふたりはプリキュア
     新房昭之魔法少女リリカルなのは』…巧みな映像作家である新房昭之が真面目に監督した作品。続編は監督が変わり、その点でだいぶ劣る。
     真下耕一MADLAX
     『舞-HiME』(2005年完結)
・アニメ映画:押井守イノセンス
       新海誠雲の向こう、約束の場所
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第7部連載開始(2011年完結)
推理小説殊能将之『キマイラの新しい城』
・映画:是枝裕和『誰も知らない』
アメリカ映画:『バタフライ・エフェクト
・イギリス映画:エドガー・ライトショーン・オブ・ザ・デッド

○2005年

・エロゲ:あかべぇそふとつぅ・るーすぼーい『車輪の国、向日葵の少女
     オーバーフロー『School Days
     戯画・丸戸史明パルフェ~ショコラ second brew~』
     ザウス田中ロミオ最果てのイマ
     TYPE-MOON奈須きのこFate/hollow ataraxia
     Le.Chocolat瀬戸口廉也SWAN SONG

     ライアーソフト星空めてお『SEVEN BRIDGE』…未完というべき本作が星空めておライアーソフトでの最後の作品になる。
・アニメ:『ふたりはプリキュア Max Heart
     新房昭之ぱにぽにだっしゅ!
     『舞-乙HiME』(2006年完結)
・漫画:石黒正数それでも町は廻っている』連載開始(2016年完結)
    木多康昭喧嘩商売』連載開始(2010年完結)
    『ライアーゲーム』連載開始(2015年完結)…過度に戯画的な舞台設定と顔芸が定式化する。
    久米田康治さよなら絶望先生』連載開始(2012年完結)
    松井優征魔人探偵脳噛ネウロ』…2007年発売の第11巻の《電人HAL》編のあと、作品のアイロニーは除去され、あまつさえバトル漫画に路線変更される。そして、作者の続編はみるに耐えないものだった。資本主義のバッドトリップ。
推理小説山口雅也『奇偶』
韓国映画パク・チャヌク親切なクムジャさん
アメリカ映画:ダグ・リーマン『Mr.&Mrs.スミス』

○2006年

ライトノベル西尾維新化物語上下巻…西尾維新は『化物語』で2つの革命を起こした。1つは、掛合いだけでライトノベルは成立するということ、もう1つは、ラブコメの超克。"「言っておくけれど阿良々木くん。私は、どうせ最後は二人がくっつくことが見え見えなのに、友達以上恋人未満な生温い展開をだらだらと続けて話数を稼ぐようなラブコメは、大嫌いなのよ」"(第2話)。
        野村美月『"文学少女"と死にたがりの道化』(2008年までに本編全7作を発表)
・エロゲ:あかべぇそふとつぅ・るーすぼーい『車輪の国、悠久の少年少女』
     戯画・丸戸史明この青空に約束を―
・ノベルゲーム:竜騎士07ひぐらしのなく頃に 祭囃し編』…酷かった。
・アニメ:『ふたりはプリキュア Splash Star
     西村純二シムーン
     涼宮ハルヒの憂鬱京都アニメーションの制作した『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』、『けいおん!』の3作は2000年代のアニメーションの代表作となった。しかし、真に実験的と言えるのは山本寛が演出を務めた『涼宮ハルヒの憂鬱』だけであり、『らき☆すた』の放送中に山本寛は退社し、『けいおん!』第2期のときには、その熱気も失われていた。『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるモブ・キャラクターの設定という挑戦的な写実性は、『けいおん!』第2期で転倒し、ファン・コミュニティとの馴れあいに堕落する。その後、京都アニメーションはよくも悪くも牽引役の役目を降り、安定経営の中小企業になる。そして、その『けいおん!』第2期から存在感を発揮しはじめたのが、いま、京都アニメーションで看板を担う山田尚子だった。
・漫画:迫稔雄嘘喰い』連載開始(2018年完結)
・映画:堤幸彦トリック劇場版2
韓国映画パク・チャヌク『サイボーグでも大丈夫』
      ポン・ジュノグエムル-漢江の怪物-』

○2007年

・時事:ドラマ『ハケンの品格』が放送。2001年から2006年の長期に渡る小泉政権のもたらした資本主義のバッドトリップの見本。当時の評論などを読みなおすと、小泉首相の支持率の絶頂期に蓮實重彦が警鐘を鳴らしていて、その冷静さと観察眼に敬服させられる。ちなみに、世間で喧々囂々の批判がなされている安倍首相に対しては、その支持者と批判者を諸共に、蓮實重彦は冷笑して済ませている。おそらく、蓮實重彦安倍晋三のような馬鹿より小泉純一郎の方が、よほどナポレオン的でヒトラー的だったと思っているのだろうが、もっともなことだ。

・エロゲ:OVERDRIVE瀬戸口廉也『キラ☆キラ』
・アニメ:『Yes!プリキュア5
     磯光雄電脳コイル
     『アイドルマスター XENOGLOSSIA』…無印のアニメ『アイドルマスター』はクズ。資本主義のバッドトリップ。
     School Days
     らき☆すた
ライトノベル奈須きのこ『DDD』
・小説:伊藤計劃虐殺器官
    円城塔Self-Reference ENGINE
・映画:青山真治サッド ヴァケイション
    黒沢清『叫』
・イギリス映画:エドガー・ライトホット・ファズ

○2008年

ライトノベル伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがない』…ライトノベルの1つの時代の終わり、あるいは始まり。
・小説:伊藤計劃『ハーモニー』
    舞城王太郎ディスコ探偵水曜日
・映画:黒沢清トウキョウソナタ
アメリカ映画:クリストファー・ノーランダークナイト

○2009年

ライトノベル平坂読僕は友達が少ない』(2011年までに全7作を発表)
・ノベルゲーム:5pb.志倉千代丸(企画)『STEINS;GATE
・アニメ:『フレッシュプリキュア!
     けいおん!
     『とある科学の超電磁砲
韓国映画パク・チャヌク『渇き』
      ポン・ジュノ母なる証明
アメリカ映画:『ゾンビランド

○2010年

・エロゲ:Leaf丸戸史明WHITE ALBUM2(2011年に完結編を発表)…本作をもってエロゲの隆盛は幕を閉じる。
・ノベルゲーム:TYPE-MOON奈須きのこFate/EXTRA
・ゲーム:『ダンガンロンパ
・映画:北野武アウトレイジ
アメリカ映画:マシュー・ヴォーン『キック・アス
・イギリス映画:エドガー・ライトスコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団

○2011年

・時事:東日本大震災
    AKB48ポニーテールとシュシュ』…AKB48そのものの活動開始は2005年だが、本年をもって全国的に認知された。いわゆる《アイドル戦国時代》、資本主義のバッドトリップの始まり。

・アニメ:菱田正和プリティーリズム・オーロラドリーム』(2012年完結)
     幾原邦彦輪るピングドラム
ソーシャルゲーム:『アイドルマスター シンデレラガールズ』…『シンデレラガールズ』のシナリオはクソで、むしろそのことでユーザーが団結感を強めているくらいだが、その泥沼に蓮の花が咲いた。2016年に連載開始する廾之『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』だ。
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョリオン』連載開始
・ドラマ:『家政婦のミタ
アメリカ映画:『キャビン』

○2012年

・アニメ:『アイカツ!』(2013年完結)
     菱田正和プリティーリズム・ディアマイフューチャー』(2013年完結)…対象年齢を下げ、そのため方針の混乱があった。
     『戦姫絶唱シンフォギア』…続編から監督が交代し、演出は洗練されたが、作品のシリアスな雰囲気はなくなった。第1作は低予算で、拙い演出も多かったが、エモーションが最高に達した瞬間に幕を下ろす。それはフィクションの理想の1つだ。資本主義のバッドトリップ。
・ノベルゲーム:TYPE-MOON奈須きのこ魔法使いの夜
ライトノベル榎宮佑『ノーゲーム・ノーライフ…いわゆる異世界モノだが、ニーチェ的、近親相姦と《ゼロ年代》の息吹に溢れている。言うまでもなく、ウェブ小説ではない。
・小説:伊藤計劃円城塔屍者の帝国
韓国映画キム・ギドク『嘆きのピエタ

○2013年

・時事:『そして父になる』をもって是枝裕和の監督作品へのフジテレビの協賛がはじまる。結果、是枝裕和の監督作品からアイロニーは軽減することとなる。『万引き家族』が反骨的だなどと、馬鹿らしい話だ。『ワンダフルライフ』は死後、死者のもっともいい記憶を再現して写真にする物語だが、女子高校生がディズニーランドのパレードと言うと、登場人物が「うーん。いままで君くらいの女の子は4人きたけど、みんなディズニーランドのパレードって言うんだよね」と応える。反骨的すぎる。そして、このフジテレビの協賛と商業化の傾向は、他の芸術的な映画監督にも及ぶ。

・アニメ:『ドキドキ!プリキュア
     菱田正和プリティーリズム・レインボーライブ
     『ラブライブ!』…資本主義のバッドトリップだが、気持ちのいいことが難しい。
・ノベルゲーム:TYPE-MOON奈須きのこFate/EXTRA CCC
ソーシャルゲーム:『艦これ』…誰も気づかなかったが、このとき、水面下で革命が起きた。キャラクターごとに異なるイラストレーターに発注し、誰もそのことを咎めなかった。作品としての一貫性、物語性の排除。
韓国映画パク・チャヌクイノセント・ガーデン
      ポン・ジュノ『スノーピア―サー』
・イギリス映画:エドガー・ライト『ワールズ・エンド』…エドガー・ライトのイギリス時代の終わり。同時に、彼の精神史の終わり。

○2014年

・漫画:木多康昭『喧嘩稼業』連載開始
アメリカ映画:ダグ・リーマンオール・ユー・ニード・イズ・キル

○2015年

・時事:又吉直樹の『火花』が芥川賞を受賞。もともと、芥川賞はつねに採算分岐点に立つ純文学の大きな収益源で、文学性と商業性の両面の役割を担う奇妙な賞だった。そのため、はるか以前から芥川賞の文学的な権威は野間文芸新人賞三島由紀夫賞の下位に転落していた(『芥川賞の偏差値』)。が、この年の『火花』の受賞をもって、純文学の商業主義への迎合は明確になった。

・アニメ:幾原邦彦ユリ熊嵐
     『アイドルマスター シンデレラガールズ』(第1期・第2期)
ソーシャルゲームTYPE-MOON奈須きのこFate/Grand Order

○2016年

・漫画:廾之『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』
・ドラマ:『逃げるは恥だが役に立つ
韓国映画キム・ギドクThe NET 網に囚われた男

《セカイ系》定義論・私論

 私はセカイ系が好きだ。
 しかし、いわゆる《セカイ系》という定義に内容のないことはすでに周知されている。これは前島賢の『セカイ系とは何か』が詳しい。
 そもそも、《セカイ系》の定義である《「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という言説じたい、《中間項》という単語の定義をまちがえており、中学生の作文に過ぎない。
 しかし、《セカイ系》らしい作品はたしかに存在する。でなければ、そもそも《セカイ系》という造語が生まれない。そして、私はそれらの作品が大好きなのだ。

 《セカイ系》らしい作品の系列が存在するということは、その特徴を定義できるということだ。
 『セカイ系とは何か』は、最終的に「《セカイ系》を目指した作品が《セカイ系》である」という循環論法で、定義論を棚上げしている。
 ここでは個人的に《セカイ系》らしさというものの定義を試みたい。
 しかし、そうした試みは《セカイ系》と呼ばれる作品の広範さに、ほぼ失敗してきた。
 そのため、まず逆方面のアプローチで「セカイ系らしくない作品と、そのらしくなさの特徴」によって、消極的な定義をおこないたい。

①『機動戦士ガンダム』シリーズ

 少年が巨大ロボットに乗り、戦争の帰趨を決するという筋書き(意味不明だ)の幼稚さは、セカイ系そのものだ。しかし、セカイ系とは真逆のように思える。
 『ガンダム』の荒唐無稽さを指摘するのは、ジェームズ・ボンドの荒唐無稽さを指摘するようなものだ。しかし、その幼稚さゆえに大衆に人気を博し、そのなかでも教育水準の低い人々は「『ガンダム』で国際政治を学んだ」などと言う。哀れなことだ。
 重要なのは、とくにそうした人々が《セカイ系》という言葉を批判的に言いはじめたということだ。そしてセカイ系の嚆矢である『エヴァ』は、『ガンダム』と巨大ロボットへの皮肉がたっぷり詰まっている。
 ここで、ひとつ「大衆性が強いと《セカイ系》らしくない」ということが言えるだろう。

②『少女革命ウテナ

 物語を要約すると、天上ウテナが姫宮アンシーの意識を改革し、それが世界の革命となるというもの。適度な晦渋さもある。また、《世界の果て》という言葉がキーワードになっている。
 が、セカイ系らしくない。
 セカイ系にしては芸術性が高すぎ、前衛的すぎる。そして、その前衛性はフェミニズムが重要な主題である生硬さによるものだ。同監督の『輪るピングドラム』も、寡少な登場人物に対して壮大な展開という、セカイ系らしさを備えるが、前衛性と、地下鉄サリン事件を作品の背景とする社会性があり、やはりセカイ系らしくない。
 ここで、ひとつ「前衛性が強いとセカイ系らしくない」ということが言えるだろう。

③『二重螺旋の悪魔』

 《セカイ系》におおむね共通する「寡少な登場人物に対して壮大な展開」という特徴につき、ハリウッドの大作映画がよく反証に挙げられる。往年のベストセラーである本作は、作者がまさにハリウッドの大作映画を参考にしたと自作解題している。
 主な登場人物は主人公とヒロイン、そして物語の開始直前で死亡した主人公の恋人のみだ。そして、主人公が世界の命運を握る。まさにセカイ系だ。
 が、明らかにセカイ系ではない。
 本作は80%がアクションシーン、20%が科学技術の解説で構成される。
 ここで、ひとつ「純粋な娯楽作品はセカイ系らしくない」ということが言えるだろう。

④『灰羽連盟

 では、セカイ系には文学性、とくに思弁性が必要なのだろうか。あるいは、そうした文学性の強い作品に特有の暗い雰囲気が必要なのだろうか。
 本作は世界から孤絶した片田舎らしい異世界を舞台にして、思春期の少年少女が主人公だ。テーマは骨太で、作品の文学性が強い。
 が、セカイ系らしくはない。
 本作の物語は淡々と進行する。どうやら「娯楽性が弱いとセカイ系らしくない」らしい。
 本作と強い関係にある『Serial experiments lain』も、主人公とヒロインの関係性が世界の命運を決するという文脈においてセカイ系らしいのだが、やはりセカイ系らしくはない。《セカイ系》と呼ぶには『lain』は高踏派すぎる。

 これで、セカイ系の特徴をほぼ言えるだろう。
 「大衆的でなく、前衛的でなく、適度に娯楽性があり、また文学性がある」。

 さらに具体的には、以下のことが言えるだろう。

Ⓐ『STEINS;GATE

 「主人公が大学生だとセカイ系らしくない」。

Ⓑ『魔法少女まどか☆マギカ

 「主人公の意思がはっきりしているとセカイ系らしくない」。ここでは、暁美ほむらを主人公と仮定している。

 以下、上記の特徴を参考に、《セカイ系》と呼ばれる作品を検討する。

①『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

 個人的に『エヴァ』以前のセカイ系の源流だと思うのだが、どうだろう。

 1.芸術性の高い美術。とくに無人の街や廃墟といった背景の題材。
 2.思弁性の強い脚本。
 3.メタ=フィクション性。これは2とも関係する。

 セカイ系らしいではないか。

②『新世紀エヴァンゲリオン

 『エヴァ』に関する百家争鳴の議論の不幸だったことは、そのメッセージ性を問題にしていたことだ。
 第1に、放送直後の侃々諤々の議論があり、これは作品鑑賞の延長だった。第2に、時間をおいてまっとうな批評がなされるはずが、放送直後の余熱が伝播して、作品鑑賞の延長がさらに延長された。
 『エヴァ』は同時期にいくつか放送されたアニメのうちのひとつに過ぎない。放送中は、緒方恵美が『伊集院光 深夜の馬鹿力』のゲストに招かれ、伊集院光緒方恵美をイジリ倒していた。それは最終回の直前だった。そうした事実を忘れた批評は馬鹿げている。

 第1話の導入を確認する。主人公、碇シンジ無人の街に立つ。避難警報。爆風と車両の横転。シンジは基地に連れてゆかれ、訳のわからないまま巨大ロボットに乗ることを命令される。そして、ここまで設定に関する説明はほとんどない。
 面白すぎる
 視聴者に続きを気にならせるために、庵野秀明がどれだけ工夫を重ねたかわかろうというものだ。そして、この設定を小出しにすることでサスペンス性を維持し、視聴者への訴求力を保つストーリーテリングの手法は最終回まで続く。

 仮に、『エヴァ』が第1話から前衛的な映像を展開したとすれば、誰もみなかっただろう。『エヴァ』が人気を博した理由は面白かったということをおいて他にない。
 しかし、馬鹿げたことに、『エヴァ』に関する批評はそうした脚本や映像、美術、音楽をほとんど問題にしてこなかった。そして、彼らが問題にしてきた『エヴァ』のメッセージ性は幼稚なものだった。『エヴァ』のメッセージ性を問題にするのは、『ダークナイト』の《善と悪の対決》を真剣に捉えるのと同じくらい馬鹿げている。

 そして、『エヴァ』についてほとんど問題にされてこなかったことは、「エヴァ』は娯楽作品として面白い」ということだ。

③『ほしのこえ

 むしろセカイ系らしいのは、同監督の『雲の向こう、約束の場所』だろう。
 新海誠の作劇は非常に貧弱だ。そのため、《セカイ系》らしい展開の壮大さに頼った『ほしのこえ』『雲の向こう』以後、新海誠は低迷することになる。他人の脚本家を登用すればいいものを、馬鹿なことだ。

 『君の名は。』の許しがたいのは、「男女の精神転移という設定、じつは精神転移に時間差があったというどんでん返しと、それによる救出劇」というプロットがゲーム『Remember11』を完全に盗用したものであることだ。
 プロットの転用は法的にも道徳的にも問題ないということは理解している。それでも、『Remember11』のファンである私は、本作の流通における不遇と、『君の名は。』の大ヒットの落差をみるたびに、不平等への怒りをおぼえるのだ。

 ともあれ、「ほしのこえ』『雲の向こう』の《セカイ系》らしさで重要なのは、あくまで展開の壮大さ」だということが言える。

④『最終兵器彼女

 『最終兵器彼女』でもっとも面白いのは、それまで普通のラブコメだったにも拘わらず、第2話の終わりで兵器と化したヒロインが降下してきて《最終兵器彼女》という題名が見開きで表示されるところだ。
 残りはクズだ。
 しかも、蛇足にも拘わらず、分厚い単行本で全7巻もある。
 この「メタ=フィクショナルなジャンルスイッチ」が本作の面白さだ。ある種のメタ=フィクション性は設定と展開の壮大さを担保することができるということが言えるだろう。

 ゲーム『ネコっかわいがり!』なども、ジャンルスイッチに力点をおいたセカイ系だ。

⑤『イリヤの空、UFOの夏』

 じつのところ、本作では最終巻の最終章まで世界の命運は問題にならない。あくまで物語の筋書きは、主人公と、軍属の超能力者であるイリヤの逃避行だ。しかも、それまでの物語と最終章はほとんど整合性がない。
 苛酷な逃避行において、イリヤの記憶はどんどん退行してゆき、最終的に主人公の出会いのときまで戻る。そこで、イリヤが最後の記憶を失うと同時に、主人公はイリヤの思いを知る。その哀切さがクライマックスになっている。
 それが最終章ではなんか記憶が戻っている。そして、なんかイリヤが世界の命運を握ることになっている
 最終章を除く筋書きがミリタリーSFとしてリアリスティックなものであることは、前島賢が『セカイ系とは何か』で指摘するとおりだ。
 つまり、本作は「最終章でいきなり《セカイ系》になり、しかも、作者がオチに困った結果でしかない」。その意味で、本作はセカイ系と言いがたい。少なくとも、作者の意図した主題ではない。

⑥『涼宮ハルヒの憂鬱

 いいのか悪いのか、《セカイ系》という言葉が瀰漫した時期の作品で、《「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という定義が完全に当てはまる。
 つまるところ、本作は作品の内容からしても、作品の成立した背景からしても、完全な意味で《セカイ系》と言える。

 ともあれ、本作の特徴としていえることは、第1に「面白い」ということだ。そのストーリーテリングの巧みさは、新人賞受賞の講評で強調されている。
 また、そのセカイ系らしさ、《きみとぼく》が《世界》と直結することを担保しているのは、いわゆる青年心理学の、思春期の問題だ。これが、「思春期の少年少女が主人公だとセカイ系らしい」ことの理由ではないだろうか。この青年期に特有の問題を主題とした作品は、文学史おいて19世紀末の「世紀病」にもみることができる。

⑦『ブギーポップ』シリーズ

 じつは題名はミスリーディングで、ブギーポップは物語の終わりに登場して事件を解決するだけだ。そのため、ブギーポップと、そのもうひとつの人格である宮下藤花、その恋人である竹田啓司を主人公ということはできない。つまり、思春期の少年少女が主人公であるということはできない。ただし、ある高校を舞台にした第1巻は、その意味で完全に条件を満たす。
 しかし、シリーズを通してじつにセカイ系らしい。
 「①舞台と登場人物がミニマリズム的で、②世界の危機が問題になり、③さりげない文学性があり、④暗い雰囲気である」という条件を満たせば、かなりセカイ系らしいということが言えるのではないだろうか。秘密結社や超能力が存在すればなおいい。

 思うに、セカイ系とは「設定と展開は壮大であった方が娯楽性においていい」という一方、「壮大さは荒唐無稽さになりやすい」という二律背反に対して、「青年心理学やメタ=フィクション性といった文学性でバランスをとろうとする」ものではないだろうか。そうした文学性は作中の物語に対して外在的なもののため、いきおい、物語は大衆性、通俗性に反して前衛的になりやすい。しかし、純文学的ではない。

 また、その二律背反のアンバランスさが目立つとき、よくも悪くも《セカイ系》らしさは際立つだろう。『機動戦艦ナデシコ』がその好例(批判者にとっては悪例)だ。『少女終末旅行』などは、ミニマリズム的な筋書きと、世界観と主題の壮大さは《セカイ系》らしいが、まったくセカイ系らしくない。それは、本作が作品としてバランスがとれているからだ。

 最後に、《セカイ系》と呼ばれる次の作品の紹介をもって、本論を終えたい。

⑧『Angel Beats!

 待ってほしい。読者の諸賢が何を言いたいのかはわかっている。
 本作は、登場人物は魅力に欠け、ギャグはだだ滑りしており、シリアスな場面は寒く、メッセージ性は幼稚だ。そのメッセージ性すらすべて言葉で説明していて、脚本はクソだ。
 だが、私はこの作品が大好きなのだ
 最終回、感動的な劇伴が流れるとともに感動的な台詞で感動的な場面が展開され、もちろん、私はそれを額面どおりに受けとることはできなかったが、制作者の視聴者を感動させようという意気込みには、ささやかな感動をおぼえた。そして、その場面そのものにも、幾分かは心を動かされたのだ。

 《セカイ系》と称される作品は、その誇大妄想的な設定と展開のために、失敗は惨憺たるものになる。
 しかし、私はウェルメイドな成功作よりは、そうした壮大な失敗作を愛したいのだ。ごめん、嘘。本当は失敗作はみたくない。
 だが、いわゆる《空気系》や《なろう系》の、大きな挑戦心はなく、そのため大きな失敗もないが、大きな成功もない作品が大勢を占める現況において、たまには誇大妄想的な蛮勇をもった作品をみたい気持ちにかられるのだ。

『"文学少女"』シリーズの卓越した構成

 

 野村美月の『"文学少女"』シリーズは全7作(全8巻)、本編完結後に出版された外伝が8作(巻数同じ)の構成だ。
 第1巻および第8巻の後書きによると、本作は野村の持込み企画だったらしい。そして、第7巻の後書きによると、全7作の構成は企画の通りだったらしい。
 実際、本作の全7作はシリーズとしてプロットの結構性がきわめて高いものになっている。また、そのための伏線が比類なく機能している。
 『出版指標年報』2018年版、『出版月報』2019年3月号によると、現下のライトノベルは売上の中心を長期シリーズの続刊に依存しているらしい。しかし、そうして所定の結末を持たないことは、シリーズの全体の品質を低下させるのではないだろうか。
 気まぐれで『"文学少女"』シリーズを再読したところ、その構成と伏線の効果というものをあらためて認識した。
 以下、『"文学少女"』シリーズの卓越したプロットを確認することで、その効果をみたい。当然だが、全面的にネタバレしている。

・第1作『“文学少女”と死にたがりの道化

 初巻。じつは単巻としては、書簡の記述者が竹田千愛であるという、作品の中心であるどんでん返しが見透いていること、作中で大きな比重を占める井上心葉の過去の問題が解決せずに終わるという2点の弱点があり、やや訴求力は弱い。
 心葉の過去は、美少女覆面小説家としてデビューし、ベストセラー作家になったものの、それを契機として恋人である朝倉美羽が飛降り自殺をしたというものだ。ただし、自殺はミスディレクションだったことが第3作でわかる。
 ショックにより心葉は断筆し、呆然自失のうちに歳月を過ごしていた。だが、校庭の木の下で本を食べる上級生、天野遠子を目撃したことにより、彼女の後輩として日々、三題噺を書かされることになった。
 千愛の自殺をとめる、遠子の数頁におよぶ演説が本巻の白眉だ。この長台詞は本当に素晴らしい。高校生の当時から太宰治の作品を実際に読んだためか、再読して感動がより強まった気がした。
 イラストレーターは、ライトノベルでは異例の少女漫画の画調かつ透明水彩の塗りの竹岡美穂によるもので、作品との最高の相乗効果を発揮している。『涼宮ハルヒ』シリーズにおけるいとうのいぢ伏見つかさ作品におけるかんざきひろを上回り、作品に対するイラストレーターの選出としては、ライトノベルで最高のものだ。ライトノベルを「イラストの付いた小説」と定義するなら、この担当編集者はライトノベルの制作に当たり、もっともいい仕事をしたと言える。

 書出しはきわめて秀逸だ。天野遠子がバリバリと本を食べながら蘊蓄を垂れている場面で、抜群の訴求力をもち、さらには遠子のキャラクターと作品の雰囲気が伝わる。さらに、すぐに遠子の心葉に対する「君は薄幸の美少年みたいな外見なのに、どうしてそんなに意地悪なの」という主旨の台詞が続く。この冒頭の数頁で簡単的確な人物描写をおこなう手際は見事と言う他ない。

 天野遠子、井上心葉、竹田千愛、姫倉麻貴、脇役として琴吹ななせ、芥川一詩、回想のみにおいて朝倉美羽が登場。
 遠子は新宿の母に「恋愛大殺界中で、7年後の夏に鮭をくわえた熊の前で白いマフラーを巻いた男性と運命の恋に落ちるまで恋愛できない」と占われたため、恋愛には無縁だと宣言する。これで遠子はいわゆるライトノベルのヒロインながら、恋愛要素からはオミットすると、読者にメタ的にわからせる。が、これが伏線。ライトノベルでもっとも優れた伏線だ。
 登場からななせがツンデレしているが、つまり、第1作の時点ですでに当馬でしかなく、その後も当馬としての役割を果たしつづけたことになる。そう考えると同情する。

・第2作『“文学少女”と飢え渇く幽霊

 本シリーズが単巻完結の作品集の外観をとっていた最後の巻だ。その意味で2巻は最短の長さであり、本シリーズの結構性の高さをしめす。
 後書きによると、執筆に苦労したらしいが、そのためか物語の迫力は第1作に勝る。

 櫻井流人、櫻井叶子が登場。この時点で、最終巻の構図が完全に提示されている。この周到なプロットは見事と言う他ない。
 遠子が彼氏がいるとななせに吹聴し、「恋愛大殺界」の伏線を念押しする。

・第3作『“文学少女”と繋がれた愚者

 一詩が本格的に登場する。
 巻末で一詩の書簡の相手が、本巻の登場人物ではなく美羽だったとわかるどんでん返しがおこる。
 そのため、本巻の物語の訴求力は弱化するが、総合的な効果はそれをはるかに上回る。
 このシリーズ全体において、主人公を好きな少女が黒幕として陰謀を巡らせているという構図は、河野裕の『サクラダリセット』シリーズに直接的な影響を与えた。『サクラダリセット』では第2巻において、その巻の物語がサブヒロインの存在と、シリーズ全体に繋がる。
 「恋愛大殺界」の伏線を念押ししている。

・第4作『“文学少女”と穢名の天使

 一応、ななせが主役だ。
 作者が後書きで美羽の登場を引延ばして申訳ないと一言している。
 しかも、末尾に登場してクリスマスプレゼントの栞を食べてしまう遠子に、ななせの存在感が喰われている。
 伏線として、本巻でさりげなく白いマフラーが登場する。

・第5作『“文学少女”と慟哭の巡礼者

 ついに美羽と最終決着をつける。そして、番外編である次巻を挟み、続巻が最終巻となる。冗長のない見事な構成だ。
 屋上での美羽の慟哭と心葉との対峙の場面は素晴らしい。
 巻末で「天野遠子は存在しない」と述べられ、最終巻への期待と緊張が否応なく高まる。

・第6作『“文学少女”と月花を孕く水妖

 心葉の過去の決着がつく第5作と、最終巻であり遠子の物語が明らかになる第7作とのあいだの緩徐楽章。
 前巻で心葉とななせが完全に恋人として成立したため、遠子との関係をふたたび強調する役割もある。
 一応、麻貴が主役と言える。

 巻末に謎の女性が心葉にレモンパイをつくっている未来が描かれる。この女性が遠子かななせか、初読の当時はやきもきした。本巻で遠子の魅力を強調しつつ、料理をつくっているとなるとななせの蓋然性が高い。読者の多くがやきもきしたのではないだろうか。正体はただの妹だ。

・第7作『“文学少女”と神に臨む作家

 最終巻だ。
 本巻の物語である天野家-櫻井家の謎と真実も完成度が高い。また、この物語を通じて作家としての孤独な道か、ささやかな日常の幸福かという二択が示される。
 余談だが、第5作と本作とも、千愛がここまでトリックスターとして活躍していることを再読するまで忘れていた。自由すぎる。

 シリーズ全体の構成として、心葉が作家として再起するかどうか、遠子とななせのどちらを選ぶのかという選択肢が提示される。つまり、ななせは心葉が作家にならない未来の体現者だ。
 また、本巻まで遠子が探偵役を務めてきたが、本巻では心葉が探偵役を務め、遠子を救う。
 心葉は遠子への愛情を自覚し、その思いが小説の執筆へと駆りたてる。完成した、心葉の2番目の小説の題名は『文学少女』だった。
 原稿を書きあげ、遠子のもとに向かう心葉にななせは「その小説、破って」と言う。ななせがシリーズ全体でもっともカッコいい場面だろう。とはいえ、ななせは選ばれないことは第1作から決まっている。
 このあと、心葉はななせの友人の「森ちゃん」に「ななせをバカにするな」と殴られる。再読して「ホントだよ」と思った。初読のときもまったく同じ感想を抱いた。それはともかく、ななせは脇役(ライトノベルにおけるサブヒロイン)のなかで最高のものだろう。

 原稿を一読した遠子は、「この原稿は食べるわけにはいかない」と宣言する。そして、心葉に別れを告げる。遠子の真意を汲んだ心葉は涙ながらに別れを受けいれ、強引にキスをする。この場面はすばらしくロマンチックだ。
 姉であり、母であり、庇護の対象であり、友人であった遠子が恋人になる。
 本シリーズにおいて各巻で書簡体が使われるが、最後の書簡の記述者は遠子だ。この演出はすばらしく感動的だ。
 そこで、心葉との出会いは偶然ではなく、心葉に第2作を書かせるために、あえて本を食べるところをみせて偶然の出会いを装ったこと、そもそも心葉のデビュー作は遠子が落選原稿のなかから見つけだしたもので、その意味で心葉をデビューさせたのは遠子だったことが語られる。
 これほど結構性の高いプロットは、あらゆる小説においてほとんど類をみない。あえて言うなら、ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』だけだろう。このプロットは、小島秀夫の『メタルギアソリッド』のシナリオに直接的な影響を及ぼしている。これらのプロットは、ゴダールが『ゴダール全評論・全発言』第1巻のヒッチコックの評論で、ヒッチコックのプロットは虚構が現実になるものだと述べた評言が当てはまる。
 書簡で遠子は心葉を作家として再起させるため、自身の恋情を殺したことを告白する。また、ここで数巻を跨いだ「恋愛大殺界」の伏線を読者に思いださせる。

 本巻で白いマフラーは遠子-心葉-ななせのあいだを何度も往復するが(デスノートの所有権並みだ)、最終的に心葉の手元にゆく。
 6年後、つまり「恋愛大殺界」の占いから7年後、心葉は作家としての地位を確立していた。真夏に、鮭をくわえた熊のタペストリーの前で、白いマフラーを巻き、新しい担当編集者を迎える。これほど見事な伏線回収は、他に何作もない。

 ライトノベルがあるヒロインを描く小説であると定義するなら、本作はその最高のものだろう。他に比肩しうるのは全4巻の秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』だけだ。本作で主人公はヒロインの伊里野と逃避行をおこなうが、その苛酷さに伊里野の記憶は徐々に退行する。そして、逃避行が終着点に達したとき、伊里野の記憶は主人公との出会いのときに遡り、奇しくもそのときの言葉が愛の告白になる。青春の哀歓をノスタルジーのもとに描いた名作だ。が、そのあとに伊里野の記憶が戻って戦闘機で決戦する余計な1章があり、その蛇足が作品の完成度を損ねている。

 本作は驚くべきことに、本編と同量の番外編がある。ライトノベルでは人気のあるシリーズは長期化する。だが、前述のとおり、そのことはシリーズ全体の品質を下げる。そのジレンマを、本作は本編の完結後に番外編を発表するという形式で解決した。
 野村は最終巻の後書きで、番外編では気の向くままに書くことができると心情を吐露している。最終巻で遠子は自身の恋情を殺したと語るが、それは作者の執筆の姿勢とも一致するだろう。もし、全8巻の区切りで緊張感をもって天野遠子という人物が描かれることがなかったら、彼女はこれほど魅力的なヒロインにはならなかった。
 まさに、本作はライトノベルで最高のものである。

つぐみのおっぱいが大きい方がいいと言うプレイヤーは『ガルパ』の文芸的な読解ができていない

 5月27日、アプリゲーム『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』において、公式の告知として《羽沢つぐみの一部のLive2Dキャラクターの胴体部分において、想定と異なる箇所がございましたため、近日中に修正を予定しております。》なることが発表されました。この修正は、つまるところ、つぐみのおっぱいを平坦に変更するものでした。制服の立ち絵では、胸部の影の処理が、美竹蘭および青葉モカから、湊友希那および宇田川巴と同じものになりました。
 この変更につき、ナンセンスとして笑われるユーザー、または不条理として憤られるユーザーがいらっしゃいます。ですが、『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』のシナリオを正確に読解していれば、この変更が無意味でないことは御理解いただけるはずでございます。なぜ、つぐみのおっぱいは平坦でなければならないのか。一介のユーザーごときが語るのは口幅ったいと思われるかもしれませんが、1.氷川紗夜というキャラクターとの関係性 2.羽沢つぐみというキャラクターの人物造型 の2点から解説させていただきたく存じます。

1.氷川紗夜というキャラクターとの関係性
 氷川紗夜と羽沢つぐみの関係性は、2017年10月31日配信のイベントストーリー『ちぐはぐ!?おかしな お菓子教室』を起点にはじまりました。両者の関係性はイベントストーリー、エピソード、ラウンジなどで描かれ、2019年4月10日配信のイベントストーリー『めぐる季節、はじまりの空』では直接、言及される※に至りました。(※「(モカ)去年はあの紗夜さんと真っ先に仲良くなってたしねー」)
 なぜ、この両者が親しくなったのでしょうか。ここで厚顔無恥にも、両者がいわゆるカップリングにおいて余っていたという作外の事情から説明することは可能でございます。しかしながら、そうした外在的な理由は、作中の事情とは無関係でございます。したがって、いずれにせよ作中の事情から説明しなければなりません。
 まず、氷川紗夜というキャラクターの特性から確認致したく存じます。それは、第1に性格描写として規範意識が強く、他者とのコミュニケーションを不得手としていること。第2に人間関係において妹である氷川日菜に劣等感を抱いていること、でございます。これは《Roselia》のバンドストーリー第1章において明確にされています。
 この性格はしばしば作中で他のキャラクターから《真面目》と表現されております。しかしながら、この性格はそうした意識に留まらず、アスペルガー症候群非言語性学習障害と言えるものでございます。なお、フィクションのキャラクターについて自閉症アスペルガー症候群または学習障害として定義することについて、ネガティヴな感想を抱かれる方がいらっしゃいましたら、僭越ながらその偏見について脚下照顧されることを御注進申しあげます。
 このことに関する描写は、とくに《魅惑の手》と《新米タンク》のエピソードが顕著でございます。《魅惑の手》のエピソードにおいて、紗夜は待合せの目的があらかじめ告げられたものとちがうことを知ると、単純に帰ろうとします。《新米タンク》のエピソードでは、オンラインゲームでクエストのマーカーが残っていると不安に感じることを説明しています。冗言ながら、この真摯さと不器用さが氷川紗夜という人物の魅力になっているものと存じます。
 さて、こうした非言語性および非習慣性の物事を理解することが苦手な紗夜において、性的な物事はストレスがかかるであろうことが理解できるのでございます。そのため、紗夜が好意を抱くつぐみが中性的である、ひいてはおっぱいが平坦であることは、『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』を文芸的に読解すれば、ごく当然のことでございます。
 性的な魅力と言語的な合理性が背反することについて、書物を手繰らせていただければ、文芸的にはすでにドゥルーズが『シネマ1』で述べております。いわく《…このリアリズムは純然たる行動イメージの構築のことであり、この純然たる行動イメージは、環境とふるまいとのもうこれしかないといった連関のなかで直接に把握されねばならないものである(自然主義の暴力とはまったく別のタイプの暴力)。それは、欲動イメージを抑圧する行動イメージである。すなわち、その粗暴さと粗末さそのものとその非リアリズムとを通じてあまりにも下品な欲動イメージを抑圧する行動イメージである。…おそらく、或るいくつかの女性の役において、そして或る幾人かの女優達を介して…》※。(※ジル・ドゥルーズ著、財津理・齋藤範訳『シネマ1』p.236)
 余談ではございますが、おっぱいに関する研究として名高いマリリン・ヤーロム著『乳房論』は、痩せた体に大きなおっぱいという体型を魅力的なものとして扱う文化は、後期資本主義に特有のものと断言しております。ここでドゥルーズが『差異と反復』の巻末において、ガタリとの共著である『アンチ・オイディプス』において全面的に後期資本主義の消費社会における常同症と呼ぶべきものを批判していたことを連想いただければ幸いでございます。何も、わたくしは衒学や文学的な虚飾をおこないたいわけではなく、もし大きいおっぱいが無条件に良いものだと見做している方がおられれば、御自身の定見に「御一考を」と申しあげたいのでございます。

2.羽沢つぐみというキャラクターの人物造型
 羽沢つぐみというキャラクターは、公式ホームページのキャラクター紹介では《個性的なメンバーに囲まれた、ごくごく普通の女の子。》と説明されております。このとおり、羽沢つぐみというキャラクターは特性を把握しにくく、不遜を承知で、つぐみの性格を捉えることができていない方におかれましても「御尤も」と同情をしめさせていただきたいのでございます。
 つぐみの性格が顕著となるのは、前述のイベントストーリー『ちぐはぐ!?おかしな お菓子教室』における紗夜との交流でございます。この料理教室を舞台にしたイベントストーリーにおいて、紗夜は非言語性の物事を理解することが不得手であるために、終始、料理の教則にありがちなあいまいさに翻弄されます。そして、つぐみがその紗夜を助けることになります。このイベントストーリーはコメディタッチで、紗夜とつぐみの掛合いはユーモラスなものですが、興味深くもあります。紗夜の奇行の最たるものは、以下のとおりでございます。《「(紗夜)……あ。羽沢さん、定規はありますか?」「(つぐみ)えっ!? 定規、ですかっ!?」「(紗夜)生地を5mmにするので、貸してほしいのですが…」((つぐみ)紗夜さんって、本当に真面目な人なんだ。きっと色々なことに誠実に向き合ってるんだろうな)》。
 さて、平均的な一般人がこうした紗夜の言動を受ければ、聞くに堪えない罵倒をするであろうことは想像に難くありません。心持ちのよい『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』のキャラクターのなかでも、こうして疑義を覚えることすらない人物はつぐみただ1人だけであると存じます。
 つまるところ、つぐみもまた自閉症的な傾向を有するのでございます。つぐみは仕事を抱えすぎてあたふたしているとよく他のキャラクターから言及され、とくに青葉モカからはその様子を《「ツグってる」》と表現されています。ここで、フィクションのキャラクターについて自閉症的な傾向を有することを指摘することについて、悪意にもとづく笑いをされたり、正義感にもとづく憤りをされたりする方におかれましては、それが無知によるものであり、政治的な公正さに反するのみならず、御自身の自己実現をも阻害するであろうことを、衷心よりあらためて申しあげさせていただきます。
 《ごくごく普通の女の子》と表現されるつぐみは、きわめて特異な人格を有しているのでございます。ただし、これにつきましては「《ごくごく普通の女の子》と表現される女の子は普通であるはずがなく、それどころか普通からもっとも遠い人物であるはずだ」という、ごく基礎的な読解ができるものと、恐れながら申しあげさせていただきます。
 さて、こうした特異な人格を有する羽沢つぐみという少女について、美竹蘭や青葉モカのような、『Afterglow』バンドストーリー第2章に象徴される、良きにつけ悪しきにつけ年齢相応の人物として描写すべきか、湊友希那や宇田川巴のような、やや風変りな人物として描写すべきかと言えば、これは一も二もなく後者なのでございます。

 長広舌が過ぎましたが、つぐみのおっぱいが平坦であることは、『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』における文芸の観点からは当然であることがご理解いただけたものと存じます。また、これに反対するプレイヤー諸兄におかれましては、僭越ながら御自身の見識に「御研鑽を」と申しあげたいのでございます。

『いでおろーぐ!』全7巻感想

 椎名十三著『いでおろーぐ!』全7巻が思いがけない佳作だったため、感想をしるす。
 第1巻のおおまかな内容は2つある。第1に、いわゆる「非モテ」による共産主義と、かつての学生運動、現代の共産主義の学生団体のパロディだ。第2に、アンチラブコメのラブコメだ。第1は、ヒロインの領家薫の演説が堂に入っている。毎巻、数ページにおよぶ演説が2箇所はあり、そのいずれも読ませるものだ。かつての学生運動を主題にした文学のパロディも巧妙で、かなり笑わせる。なお、後者についてはほぼ第1巻のみだ。第2は、主人公とヒロインは、恋愛により人間が没個性化し、思考力と行動力を失うことを恐れている。作中の言葉でいえば「生産性を回収される」ことを恐れている。その上で、どう恋愛するかが眼目だ。
 これは各巻およびシリーズ全体を通して一貫している。以下、各巻について記述するが、物語の核心まで触れる。ここまでで気になった読者がいれば、実際に購読することを勧める。全7巻の分量を負担に感じるなら、第1、3、5、7巻の奇数の巻だけでいい。第2、4巻は物語が動かず、しかも、あまり面白くない。第6巻は短編集だ。ただし、第6巻は面白い。

・第1巻

 第21回電撃大賞銀賞受賞作。
 12月24日、クリスマス・イヴ。高校1年生の高砂は、渋谷駅前で学生運動スタイルをして「反恋愛主義」の演説をしている自校の女生徒を見つける。彼女は高所である緑の電車に登って演説していたため、高砂はスカートの中が見えるのではないかという下心で近づく。そうはならなかったものの、高砂は反恋愛主義思想に強い興味を抱くことになる。
 高砂は校内の反恋愛主義団体を探す。しかし、非公然団体であるその団体を見つけることはできなかった。その折、屋上からイチャつくカップルを見つけた高砂は、教化された反恋愛主義精神に則り、「リア充爆発しろ!」と叫ぶ。その声に惹かれ、1人の少女が現れる。彼女こそ件の運動家であり、同級生の領家薫なのだった。
 屋上まで高砂の反恋愛主義運動を糾弾しにきたプチブルリア充たちに、領家は高砂と情事に及ぼうとしているかのように見せかけることで追及をかわす。ただ、領家もそういった行為には照れがあるようだった。
 領家は自身を「反恋愛主義青年同盟部」と名乗り、地上の公然アジトと地下の非公然アジトを案内する。じつのところ、「反恋愛主義青年同盟部」は領家だけの団体だった。その帰り、高砂は1人の幼女、「女児」に呼びとめられる。領家の反恋愛主義思想は、理論が人間の生物学的本能に及ぶと、宇宙人による陰謀論へと捻転する奇妙なものだった。しかし、それは事実だった。「神」を自称する女児により、高砂は領家と恋人になり、彼女を反恋愛主義から転向させることを命令される。
 ここまでがおよそ全体の30%だ。作者の自称するとおり、展開は予想がつかず面白い。ただ、このあと急激に失速する。部員集めに奔走し、レズビアンの西堀、ロリコンの瀬ヶ崎、巨乳で性嫌悪の強い神明という3人の部員を獲得するのだが、これが面白くない。キャラクターの配置と、物語の展開ともに『涼宮ハルヒの憂鬱』に類似していることが、退屈さを増す。
 ただ、この冗筆を除けば面白い。女児は自称するとおり物語の「神」で、作者のような存在だ。女児の後押しもあり、高砂と領家は「リア充の威力偵察」と称し、初詣や休日デートをおこなう。そして、反恋愛主義青年同盟部は「2・14バレンタイン粉砕闘争」に向けて邁進する。しかし、女児の手先である大性欲賛会=生徒会によって、バリケードは突破され、反恋愛主義青年同盟部は敗走する。そして、生徒会に追いつめられ、公然アジトに籠城するなか、領家は高砂にバレンタインチョコを渡し、告白する。
 が、高砂はチョコを窓から捨て、領家を総括する。ここが本巻のクライマックスだ。高砂と領家は、すべての恋人を亡きものとしたあと、最後にたがいの体に刃を突きたてることを誓い、ふたたび反恋愛主義運動に身を投じるのだった。
 最後に、女児が高砂の妹として居候し、領家との関係を後押ししつづけることを宣言する。
 受賞の選評によれば、初稿ではかなりキツい下ネタが多々あったらしく、好奇心をそそられる。

・第2巻

 面白くない。
 公然アジトを失った反恋愛主義青年同盟部は風紀委員会を支配、偽装団体とする。領家は風紀委員長に就任する。奇しくもこのことで、領家は大性欲賛会=生徒会の走狗であり、校内の恋愛至上主義の指導者である生徒会長・宮前に気にいられる(本当に本文中の表記が「生徒会長・宮前」なのだ)。
 風紀委員会として校内の恋愛相談に介入する反恋愛主義青年同盟部だったが… これが面白くない。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のような設定だが、まったく面白くない。にもかかわらず、第4巻までこの設定が使われる。この恋愛相談と、『涼宮ハルヒの憂鬱』か『僕は友達が少ない』のような、リア充への威力偵察と称した種々の活動が、今後の物語の主軸となる。
 物語としては、映研からの恋愛相談に便乗して映画を制作する。また、スキー合宿に参加する。
 一応、領家と高砂が、互い以外の恋人はつくらないことを誓い、否定弁証法的に関係が進展する。
 神明さんに鉄オタという属性がつき、脇役として活躍しはじめる。

・第3巻

 面白い。
 冒頭で領家と宮前が交戦するのだが、ゲバ棒で戦う領家に対し、宮前が自撮り棒を警棒として使っていて笑える。ただし、宮前が自撮り棒を武器にするのはこの場面だけだ。
 新年度になり、新入生のオルグをおこなう。結果、極右の新入生の天沼が入部する。極左と極右で真逆のはずだが、結果として主張は同様のものになってしまうのだ。現代の極左と極右を知るものにとっては笑えるギャグだ。この極右のパロディもなかなかの力作だ。
 反恋愛主義青年同盟部の面々は天沼を歓迎し、非公然アジトまで教えてしまう。ただ1人だけ警戒心を保っていた高砂は、天沼が女児の派遣した大性欲賛会のスパイであることを知る。女児の企みを阻止しようと、高砂は自分も大性欲賛会のスパイだと名乗り、秘密裏に天沼を排除しようとする。が、これは大きな失敗だった。
 素の天沼はいわゆる生意気な後輩系キャラだった。ちなみに、なかなかかわいい。高砂と天沼が2人で行動することに対し、領家は不信感を強める。ついに高砂と天沼がホテルから出てくるところを目撃するにおよび、領家は高砂と絶縁する。なお、生徒会からの三角関係の恋愛相談がサブストーリーになっているが、前述のとおり、これは面白くない。
 反恋愛主義青年同盟部は解散の危機に瀕する。また、高砂は天沼から領家の扱いについて、ただ、いわゆるキープをしておいただけだと批判される。
 しかし、高砂が天沼にいかに自分が領家を愛しているかを熱弁し、それを領家が聞いていたことで、2人の関係はより強固なものとなるのだった。
 じつは女児の計画は、反恋愛主義青年同盟部を解散させることではなく、高砂と領家の仲を進展させることだった。予想はついたとはいえ、こうした筆運びはやはり面白い。なお、高砂の熱烈な告白を聞いて、天沼が絆されるが、最終巻まで出番はほぼない。高砂は天沼を二重スパイに転向させる。

・第4巻

 海水浴と怪談および夏祭りの2本立て。あまり面白くない。
 海水浴では旅館の跡取り娘の縁談を妨害する。前述のとおり、面白くない。反恋愛主義青年同盟部の面々が、スイカ割りに対し、いかに知的に劣後したプチブルリア充といえど、ただ棒でスイカを割るだけのことに遊戯性を感じるはずがないとして、科学的反恋愛主義の精神に則り、スイカ割りのルールを研究するのが笑える。
 怪談はホラーオチ。夏祭りでは高砂と領家が例によって威力偵察と称して花火大会にゆく。

・第5巻

 傑作
 文化祭で反恋愛主義青年同盟部が総決起をおこなう。物語、文章ともに充実していて、前巻までとは質的にも異なる。
 本巻の最終章の題名が『恋愛論とイデオローグ』で、シリーズの総決算とも言える。
 『やはり俺の…』でも文化祭を主題にした第6巻がシリーズ全体で最高傑作と言われることに因縁を感じる。
 反恋愛主義青年同盟部は文化祭を総決起のときと位置づけ、準備をおこなう。しかし、文化祭を目前に生徒会は活動を強化し、ついに地下アジトが摘発されてしまう。
 領家は意気消沈し、また、文化祭によりクラスに溶けこみつつあったことで、議長の辞職を宣言する。そして、後任に高砂を推薦する。それに対し、高砂は議長に就任したらまず領家を除名し、自身も脱会、領家に告白すると宣言する。この率直な言葉に、領家は自己批判し、反恋愛主義の闘士として再生するのだった。
 文化祭で反恋愛主義青年同盟部は活発な活動をおこなう。そして後夜祭、領家は後夜祭企画長という表向きの立場を利用し、狂言誘拐をおこなう。そして、学園を封鎖する。文化祭において鬱屈の溜まっていた非リア充たちが次々に籠城に参加する。バレンタインのときには失敗した学園の封鎖をついに実現したのだ。
 しかし、領家にはただ1つの誤算があった。宮前が立場をこえて領家に友情を感じていたのだ。狂言誘拐を信じる宮前は単身、校舎に突入する。
 キャンプファイヤーの火が赫々と燃えるなか、学生運動スタイルの領家と宮前は屋上で対峙する。領家は戦いを制する。しかし、激闘の末に宮前に正体を知られてしまう。
 もはや領家に希望はない。高砂が首謀者を名乗り、領家を庇おうとするが、逆に領家に庇われてしまう。際限なくたがいを庇う2人を見て、宮前は屋上から絶叫する。「リア充爆発しろ!」。
 宮前は反恋愛主義に転向、その場で高砂と領家に自己批判を要求する。そして領家に反恋愛主義青年同盟部議長の辞任を求める。結果、宮前が議長、領家が書記長の新体制になり、高砂と領家はリア充の偽装という反恋愛主義活動を続けるのだった。

・第6巻

 正規のナンバリングがされているが、短編集だ。ここまで本シリーズの部活動モノの要素を腐してきたが、この巻はけっこう笑える。
・遊園地に威力偵察にゆく。この遊園地が明らかにディズニーランドのことで、ディズニーランドをここまで腐したライトノベルも他にないのではないか。
・女児の観察日記をつける。瀬ヶ崎のヤバさが光る。
・女児が高砂に反恋愛主義を放棄した場合、保持した場合の10年後をみせる。放棄した場合は大学では高砂と領家は甘々な半同棲生活を送り、最終的に結婚する。保持した場合は、高砂は領家と大学進学で別れ、大学では反社会的な学生団体に加盟し、鬱屈した生活を送り、就職にも失敗し日雇いに身をやつす。そして1人で反恋愛主義の街頭演説をおこなう。そこで領家と再会するが、彼女はすでに結婚している。怖すぎる。読んでいて泣きそうになってしまった。高砂も転向しかかる。しかし、領家が大学が別れても離れないし、そもそも同じ大学に進学すると言い、高砂は一瞬で不安をなくす。その様子を見て女児も洗脳を諦めるのだった。
・反恋愛主義青年同盟部で異世界転生モノのリレー小説を書く。ギャグがキレていて、不覚にも爆笑してしまった。

・第7巻

 最終巻。
 宮前の転向により、領家は次期生徒会長に立候補、公的な権力も奪取しようとする。しかし、生徒会長選挙で領家はあっさりと敗北する。そして、新任の生徒会長である佐知川は人権侵害となる非リア充弾圧を開始する。
 そうしたなか、女児が姿を消す。高砂は清々するとともに、一抹の寂しさを感じ、また危機感をおぼえるのだった。
 12月24日、クリスマス・イヴが近づき、新しい生徒会の非リア充弾圧が強まるのに対し、反恋愛主義青年同盟部は為すすべもなかった。
 高砂は大性欲賛会に拉致され、洗脳施設に送られる。そこは、ギャルゲーの世界を再現したような疑似的な町だった。そこで高砂は幼なじみ、同級生、先輩の3人の少女から迫られる。これがムダに長く、320ページほどの本文に対し、60ページもある。読んでいるあいだ、さすがに辟易した。
 だが、クリスマス・イヴに、天沼によって高砂は救出される。天沼は3人が他の男とセックスしていることを暴露する。しかし、高砂は覚醒するどころか無気力になり、反恋愛主義運動を脱退すると言う。だが、クリスマス・イヴに渋谷駅前で演説する領家の姿をふたたび見たとき、一瞬で高砂は復活するのだった。
 ここのところの筆致が見事だ。文中では明記されていないが、洗脳施設の下りはまさにメタ的なラブコメのアンチテーゼだ。主人公に好意を寄せる都合のいい美少女キャラクターという作劇の人工性が浮きぼりにされる。また、それは恋愛そのものの虚構性をも剔抉する。だが、高砂が領家の姿を見たとき、そういったことはすべて問題ではなくなる。そうした外在的なことには関係なく、高砂が領家を愛していることは確かだからだ。
 高砂は反恋愛主義青年同盟部とふたたび合流する。が、学園に向かうと校内は完全に荒廃し、反恋愛主義青年同盟部の支配下にあった。高砂を失った領家が武力闘争路線に転換したらしい。ちなみに、ここのギリギリのギャグはかなり笑える。
 ともあれ、新しい生徒会を弱体化させた反恋愛主義青年同盟部は、終業式に最後の闘争を仕掛ける。高砂と領家は第1巻以来、ふたたび屋上に追いつめられる。また情事に及ぶふりをするが、ここで高砂は領家に告白する。「それに……俺には領家ひとりいればいい。それが分かったんだ」。
 領家は佐知川に正体を明かし、ついに正攻法で生徒会を敗北させる。それは反恋愛主義革命の大きな一歩のはずだった。
 高砂の家に女児が戻る。高砂を失った領家が弱化するどころか、武力闘争路線に転換し、何倍も強靭になることを知った女児は、ふたたび高砂と領家の仲を後押しすることにしたのだった。
 新年を前にして、領家から高砂に初詣の威力偵察の誘いがある。高砂はその問いにどう答えるかじっくり考えるのだった。完。
 最終章の題名は『自己矛盾するイデオローグ』だ。大団円ではないが、アンチラブコメとしては最上の終わりだろう。これはアドルノの否定弁証法だ。マルクス主義の観点からすれば、アルチュセールの重層的決定だし、ドゥルーズの力能だ。椎名十三は時折、文章の端々にインテリらしいところが滲む。物語としては『いでおろーぐ!』は第5巻で決着がついているが、アンチラブコメという主題としては、この巻の解答が理想のものだろう。

『White Album2』の物語の構造分析

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WhiteAlbum2

 『元年春之祭』の陸秋槎が『ミステリマガジン』2019年3月号の寄稿において、影響を受けた作品のなかで、『CROSS†CHANNEL』『キラ☆キラ』『White Album2』の3作を「魂の名作」と評していた。
 いわゆるエロゲの成熟期における代表的なシナリオライター虚淵玄奈須きのこ田中ロミオ丸戸史明、るーすぼーいは現在のアキバ系サブカルチャーに強い影響を及ぼしている。個人的には評価しないが麻枝准もそうだ。
 このなかで丸戸史明はいわゆる作家性より、技術的な水準の高さが際立つ。映画監督でいえばビリー・ワイルダーだろう。名匠と呼ぶのがふさわしい。
 とくに本人の代表作であり、エロゲそのものの代表作である『White Album2』は構成がきわめてロジカルで、技術の粋を極めている。だが、本作は「感動的」と評されるあまり、その技術に注目されることが少ない。
 そこで、本稿では『White Album2』のシナリオを分析し、脚本における技術の重要性を確認する。また、付論として丸戸史明がライターの『パルフェ』のシナリオもみる。両作のネタバレをしているため、注意されたい。
 余談だが、ライトノベルの『冴えない彼女の育て方』において、丸戸史明はこうした脚本上の技術をほとんど使っていない。個人的に残念に思う。

『パルフェ~ショコラ second brew~』

・あらすじ:八橋大学(事実上の一橋大学)経済学部3年生の高村仁は、半年前、義姉の経営する喫茶店が全焼する不幸に見舞われていた。そこに、近日開店する大型ショッピングモールのテナントに出店できる僥倖が訪れる。仁は義姉、そして店員たちと悪戦苦闘しつつ新店を経営することになる。
・本作の白眉は里伽子ルートだ。夏海里伽子は仁の旧友で、新店には参加しないものの、陰ながら仁を手伝うことになる。
 このルートではどんでん返しがあり、里伽子がじつは利手だった左手が不随になっていたことが明らかになる。件の火事のとき、里伽子は左手の神経を損傷していたのだ。そして『パルフェ』という作品において巧妙にその伏線が張られている。共通ルートにおいては、里伽子が食事をみられたがらないこと、講義ノートをみられたがらないこと、メガネをかけているところをみられたがらないことだ。メガネを着用するのは片手ではコンタクトを嵌めることができないためだ。そして、そのそれぞれで伏線が笑劇として巧みに消化されている。何より、里伽子が頑なに新店を現場で手伝わないことが最大の伏線になっている。里伽子ルートでは、濡場になったときに里伽子は両手を縛らせ、物語の後半からは火傷と称して左手に包帯を巻く。
 そして、どんでん返しがおきたとき、読者は障害のことを隠していた里伽子の憎悪と、それを超える愛情を知る。

《「好きだから、好きだから、大好きだからっ! 仁が、憎いよぉっ!」》

 感動は技術がおこすのだ。

『White Album2』

 作品のコンセプトもすばらしい。『天使のいない12月』のなかむらたけしが原画を務める。作中の季節は一貫して冬だ。デザインは寒色を基調とし、輝度が高く、彩度が低い。音楽はいずれもピアノが際立つものだ。
 本作は三部作で、以下、順番に確認する。

○introductory chapter

エピグラフ:《初めて好きな人が出来た。一生ものの友だちができた。嬉しいことが二つ重なって。その二つの嬉しさが、また、たくさんの嬉しさを連れてきてくれて。夢のように幸せな時間を手に入れたはずなのに……》
 本作は非常にロジカルで、このエピグラフがコンセプトと物語の骨子を要約している。
・導入部は、空港で春希とある少女がある少女を見送っているというものだ。三角関係により、もともと交際していた2人も離別したということが示される。「悲しさのあまり、あなたがわたしを受け入れてるって、最低の思い込み、しちゃうよ?」。
・あらすじ:峰城大学(事実上の慶応大学)付属高校3年生の北原春希は学園祭にバンドで参加する予定だった。しかし、ボーカルの少女を巡る痴情のもつれにより、バンドは解散。春希と親友の飯塚武也だけが残される。
 春希はふとした偶然から、学園のアイドル・小木曽雪菜と知己になり、彼女をボーカルにバンドを再結成しようとする。他のメンバーを募集しようとしたところ、今まで壁ごしに合奏していた人物の正体が、同級生の不良の冬馬かずさであることを知る。春希はかずさを勧誘するが拒絶される。
・序盤に面白みはない。かずさが物語に登場して、ようやく面白くなりはじめる。雪菜が誘いに乗ったのは、春希のことが気になりかけていたからだ。明示されないものの、春希はかずさに片思いしていて、かずさも春希に好意を抱いているらしい。ただし周囲から弧絶しているかずさは、おそらくその思いを告白しない。
 それが、学園祭というきっかけで春希と急接近する。雪菜がかずさの勧誘に成功したとき、「あなたも男の趣味が悪いね」という趣旨のことを言う。ここから学園祭までは王道の三角関係モノのラブコメだ。その後の悲劇が本編の核心である。
・学園祭は無事に成功する。春希たち3人は「このままずっと3人でいよう」と誓う。
・学園祭の直後、音楽室で、春希はかずさのピアノを聴きながら眠ってしまう。目覚めたとき、眼前には雪菜がいた。雪菜から告白され、春希はそれに応じる。『White Album2』はここからはじまると言っていい。
・春希はかずさに雪菜と交際することを告げる。かずさもそのことを承諾する。『White Album2』は三角関係モノでありながら、登場人物たち3人は廉潔で、それぞれ自分の行動にきっちりとケジメをつけている。それが本作を高い完成度たらしめ、また、悲劇性を強めている。
・雪菜とかずさが対話する。「だって、だって… わたし、知ってたんだ。ずっと、知ってたんだよ」。かずさは春希と雪菜の2人が好きだから、(言葉にはしないが春希に気があったことを認めつつ)2人と友人関係を続け、2人の交際を祝福すると言う。
「かずさが…さぁ…っ、かずさが男の子だったらよかったのになぁっ」「そしたら…どうなってたんだろうな」「そしたら…そしたらね…っ、きっとわたし、かずさも春希くんも好きになっちゃって、やっぱり酷い女の子になってたって思う」
 名言である。
12月24日。『White Album2』はきわめてロジカルな構成で、序章、終章とも12月24日と2月14日が転機になるように構成されている。
 春希たち3人は卒業旅行として温泉旅行にゆく。夏に免許をとったかずさが車を出すのだが、このあたりが大変よく書けている。丸戸史明の地力の高さが伺える。
 『White Album2』の登場人物たちは廉潔なので、かずさの同伴している旅行で春希と雪菜が恋人らしくすることはない。春希とかずさは微妙な雰囲気になりかけるが、たがいに否定する。
2月14日。雪菜の誕生日。だが、かずさと連絡がとれない。かずさの自宅にゆくと、母親の冬馬曜子がいて、かずさがオーストリアに転居することを告げられる。その下見のため、かずさは渡墺していたのだ。オーストリアは国際的ピアニストである曜子の実家があり、かずさは母親と復縁するとともに、進路をピアニストに定めたのだった。春希は雪菜を残し、空港までかずさを迎えにゆく。ここからの一連のシークエンスが本章の白眉である。
 春希はかずさを雪菜の誕生日パーティーに参加するように説得するが、かずさは顔を合わせにくいと言って断る。黙って渡墺しようとするかずさを春希は責める。
 それに対し、かずさは悲痛な声で応える。この「そんなのはなぁ………っ、親友の彼氏に言われる台詞じゃないんだよ!」の台詞をスクロールした瞬間、BGMが『After All -綴る想い-』に変わる。この挿入歌は最終章『coda』の場面でも使われる。コーラスはかずさ役の声優であり、物語上の場面はともにかずさが傷ついているところだ。この2つの場面が『White Album2』でもっとも盛りあがるところだ。つまり、雪菜とかずさの二者択一の葛藤が顕在化する場面だ。
 『After All -綴る想い-』そのものも非常な名曲だ。ハ短調の旋律的で力強いピアノの序奏を聴くたびに、かずさの哀切さを想起する。

《「そんなのはなぁ………っ、親友の彼氏に言われる台詞じゃないんだよ!」「っ!?」「あたしの前から先に消えたのはお前だろ!? 勝手に手の届かないとこに行ったのはお前だろ!」「え…」
 ふたたび目を上げると… そこには、俺が零しそうになっていたものが、もう、とめどなく溢れていた。
 信じられないことに、冬馬の瞳から。
「手が届かないくせに、ずっと近くにいろなんて、そんな拷問を思いついたのもお前だろ!」
 冗談でも、なんでもなく… こんな言葉と態度を、冗談でできる奴なんか、この世にいるわけがないって、信じられるくらい。
「なのに、なんであたしが責められなきゃならないんだ…?」
 その震える口からこぼれる言葉と、その歪んだ表情から溢れる感情が、冬馬の叫びと同調していく。
「あんな…毎日、毎日、目の前で、心抉られて… それが全部あたしのせいなのかよ…酷いよ…っ」
 それでも…
「冗談………だよな?」
 俺の口は、相変わらず冬馬の言葉を否定する。
「まだそんなこと言うのかよお前は…」「だって冬馬…お前、俺のことなんかなんとも… 俺だけが、俺だけが勝手に空回りして、 変に諦めきれなくって、情けないなって…」
 だって、否定しなければ… 逆に、今までの俺の決断が全部否定される。
「だから俺…せめて誠実にだけはなろうって。雪菜にも、冬馬にも、嘘だけはつきたくないって」
 ずっと、冬馬のことを想っていたことも。雪菜に、あっという間に惹かれていったことも。
「雪菜が告白してくれた時だって、冗談だろって言いそうになったけど…それでもものすごく真面目に考えた」
 雪菜の歌声に引き寄せられたことも。冬馬の演奏に身を委ねていたことも。
「けど、雪菜のこと、好きか嫌いかなんて聞かれたら、そんなの考えるだけ無駄だろ? 好きに決まってる」
 じゃあ、どっちが一番かなんて聞かれたら、本当は、結論が出てたってことも。
 「そう言ったら、雪菜はまた冗談みたいに喜んでくれた。それで、さすがに本気なんだって、気づいた」
 だけどそんな、自分の勝手な思い込みよりも、思いをぶつけてくれる相手の言葉の方が強くて尊いって、そう信じたことも。
「それでもやっぱり、冬馬にも嘘はつきたくなかった。だから、冬馬には一番に知らせた」
 何も言ってくれなかった相手には、俺の思いは届いてないんだって、そう信じてしまったことも。
「あたしに最初に言うことが誠実なのか…? そんなののどこが誠実なんだ?」「だって冬馬………俺たちのこと、認めてくれるって」「人を傷つける事実を堂々と相手に押しつけて、それで自分は誠実でしたってか?」「傷ついてるなんて知らなかった。だってお前、いつも通りだった…」「そんなの、女の扱い方を何も知らない、つまらない男の無知じゃないか」「そうだよ、俺はそういうつまらない普通の男だよ。冬馬みたいな奴が振り向くはずのない…」「そんな女のこと何も知らない奴が、あたしの想いを勝手に否定するな! あたしがつまらない男を好きになって何が悪い!」「そういうことは最初に言ってくれよ! 俺なんかにわかるわけないだろ!?」「言えるわけないだろ! 雪菜がもう言っちゃったのに… 雪菜を傷つけるってわかってるのに…っ」
 ほら見ろ… お前だって、俺と同じじゃないか。雪菜に対して誠実でいるために、俺に対して誠実でいられなかったじゃないか。》

 

《「北原とあたし、たった今、友達になっちゃったな」
 冬馬が、目元をぐいっと手でぬぐって、もう一度、無理やり卑屈に笑った。
「言いたかったこと、全部言っちゃったな。なんでもわかってる間柄に、なったもんな」「冬馬…」「友だちになった瞬間、絶交だけどな」
 冬馬が一歩、二歩と、後ろに下がる。また、車道に逃げようとする。
「追うな…今度こそ追うなよ? 二度と、あたしの前に顔出すなよ?」
 …俺から、離れていこうとする。
「あたしも今…こんなこと言ってるけど、内心じゃものすごく後悔してるんだからな?」
 だから俺は… 一歩、二歩と、距離を詰める。冬馬を、追い詰める。
「ちょ、ちょっと… 北原、だからやめろって…」
 俺に気を取られていた冬馬は、ガードレールに阻まれ、それ以上後ろに下がれない。だから俺は…
「や、やめ、やめ………やめてよぉ。こんなの、駄目だって…ば…」
 捕まえた。やっと、冬馬を、この腕の中に、捕まえた。
「っ…」「北原…北原ぁ…っ」
 肩を掴み、正面を向かせると、真っ赤に腫れ上がった目と、濡れた頬が、いつもの冬馬と全然違う雰囲気を醸し出していた。》

 イベントCGで2人のキスシーン。美しいものだ。BGMは穏やかなものに変わる。が、かずさは拒絶する。ここでBGMが『氷の刃』に変わる。

《俺の胸と頬を、激しい拒絶の意志が貫いた。
「はっ、はっ、はぁぁ…っ」「と…冬馬…?」
 胸を思い切り突き飛ばされ、次の瞬間には、頬を思い切り引っぱたかれてた。どこまでも明確な、拒絶の意志。
「ふざけるな…ふざけるなよっ」
 もう遅いって。
「冬馬、俺… 俺はお前のことがさぁっ!」
 今の冬馬は、もう俺のことを振り返ったりはしないって。
「なんで…」
 俺なんか、眼中にないんだって…
「なんでそんなに慣れてんだよっ!」「………ぇ?」
 そう、言ってくれればよかったのに…
「雪菜と…何回キスしたんだよ!?」
 なのに、冬馬の口から出た言葉は…
「どこまであたしを置いてきぼりにすれば気が済むんだよ!?」
 信じられないくらいの悲しみが籠った、心からの嫉妬、だった。》

 すごすぎる。かずさが雪菜を裏切ることを受容するか拒絶するかに読者の関心を誘導し、かずさが拒絶し、やはり雪菜への友情が勝ったのだろうと思わせたところに、この台詞をおく。ピアノ曲で言うところの超絶技巧だ。「なんでそんなに慣れてんだよっ!」の台詞そのものも素晴らしい(当然、ここまでで恋人同士になった春希と雪菜は何度もキスしている)。
かずさの渡墺前日。春希は電話でかずさに別れを告げられる。かずさは自分とはもう会うな、雪菜の恋人を全うしろと言う。が、春希は通話の背景音から、かずさは自分の家の門前で電話していることに気づく。対面すると、もはやたがいに自身の恋情を否定できず、2人はセックスする。
 『White Album2』は非常にロジカルで、エロゲーというジャンルにより濡場がかならずあることと、三角関係という主題により、セックスが物語を左右する。春希は規範的な人物で、一般的にはセックスするような流れでも自重する。そのことが本作のロジカルさを高めている(このため、おそらく濡場の数値目標があるために、セックスしたときは何回戦もしている)。
渡墺当日。空港へ向かうゆりかもめの車中で、春希は雪菜に浮気を告白する。それに対し、雪菜は自分がかずさより春希を愛しているわけではないと応える。すなわち、どちらかといえばかずさへの友情のほうが勝っている。それでも春希と恋人になったのは、このままだと春希とかずさが恋人同士になることが明白で、その場合、当然の推移として自分が疎外されるだろうから。自分が先んじて春希の恋人になることで、3人の関係性を維持しようとした。
 ここは台詞回しも巧みだが、正直、春希とかずさだけに《原罪》を負わせないようにするという作為を感じた。さらにいえば、雪菜という存在そのものが、三角関係と浮気という主題を成立させるための作劇上の都合に思われることがままある。
・空港で、雪菜の眼前において、春希とかずさは抱擁を交わす(まさにこの言葉どおりのイベントCGがある)。それは、3人の関係が決定的に破綻したことの象徴だった。そして導入部に戻る。
 この『introductory chapter』だけで10時間ほどの分量があり、内容も十分だ。物語としても単体で完結している。

○closing chapter

・あらすじ:introductory chapterから3年後。春希と雪菜は峰城大学に進学していた。2人は自他ともに認める恋人同士であったものの、事実上は絶縁していた。そして、2人は関係を修復するか、完全に破局するか、どちらとも決めかねていた。
・本稿では雪菜ルートについてのみ記述する。丸戸史明の脚本の執筆は「CC:千晶、小春、麻理、雪菜」「coda:浮気、雪菜、かずさ」の順番だ(

社会に全力で立ち向かいたい人のための,PS3「WHITE ALBUM2」インタビュー。シナリオ・丸戸史明氏,原画・なかむらたけし氏に聞く,その思惑 - 4Gamer.net

)。よって、それぞれ「雪菜ルート」と「かずさEND」を正史としていいだろう。
 本章では春希と雪菜の関係は別れたほうがいいものとして設定されている。そして、千晶はともかく、小春と麻理はかなりかわいく描かれている。しかし、そうして順当に雪菜と別れると、雪菜のいたいけさが引立つようになっている。なお、雪菜ルートそのものは、時間をかけて2人の関係を修復するというもので、率直に言えば退屈だ。
・かずさルートは存在しない。かずさの出番そのものがほとんどない。唯一、かずさルートに進むことができるようにみえる「コンサートに行く」という選択肢があるが、これはただのギミックで、実際には選択できない。そして、春希とかずさがたがいに再会の機会を失ったことも知らず、かずさがもう日本にくることもないと独白し、春希と雪菜の幸福を祈るところだけが描写される。当然、読者は雪菜ルートをクリアしたあとに選択肢が解放されるものと推測し、雪菜ルートのシナリオを進める。だが、そのエンディングののち『coda』の導入部がはじまる。なお、「コンサートに行く」の選択肢のギミックは表示されなくなる。
・この状況につき、序盤で雪菜がもう別れたほうがいいと漏らし、必死に撤回する。このあたりの筆致はさすがだ。
・大学3年生になり、春希は雪菜と距離をおくため、政経学部から文学部に転部している。そして、出版社に就職することを決め、中堅どころの出版社の開桜社の編集部でアルバイトしている。
 ある日、春希にアルバイトながら記者の仕事が与えられる。向上心の強い春希としては、絶対に失敗できない。だが、その記事は新進気鋭のピアニストである冬馬かずさの取材だった。元同級生の縁故でその記事を任されたのだった。
 この構成の結構性がすばらしい。こうして春希はかずさとの過去を反省させられる。
 なお、物語が進むと、学園祭の映像記録のDVDが出てきて、小春、麻理がそれぞれ春希とかずさの過去を知ることになる。この小道具の使用も巧みだ。
・失敗を経て、春希はかずさの特集記事を脱稿する。それは、かずさとの過去を清算したことを意味するはずだった。
12月24日。武也と、同じく旧友の水沢依緒の後押しもあり、春希と雪菜は関係を修復する。春希は件の記事の掲載された雑誌をみせ、過去を清算したことを告げる。そしてホテルに泊まる。3年間交際を続けていながら、ここまで2人に肉体関係はない。前述のとおりのロジカルさだ。
 だが、セックスに及ぶ直前で雪菜は豹変する。
 以下の台詞からBGMが『氷の刃』に変わる。

《「もう、正直に言っちゃうね」
 ホテルに入るまでの、堂々と俺に身体を預けた雪菜とは違う。
「春希くんが本当のこと話してくれないから、わたし、切れちゃうね」
 赤く腫れた目で、ようやく俺を正面から見据え、もう、何もかも諦めたように、堂々と俺を否定する。
「わたしね、この記事、もう何十回も読んだんだ。読むたびに、笑って、泣いて…」「心と身体の両方が痛くて、たまらなくて… 自分を抱きしめたまま、眠れない夜を過ごしたよ」「だって…言ってること何も変わってないんだもん。かずさを追い続けてた、あの頃の春希くんと」
「何を… そんなこと、あるわけ…」
 論破、しないと。抱きしめて誤魔化せない俺だから。言葉を連ねて言い負かすことだけは得意な俺だから。
「俺、あいつを利用したんだ。売り渡したんだ。ただウケ狙いで、悪口ばかり面白おかしく書き殴って…」「こんなに愛が籠もってるのに? かずさへの気持ちが滲み出てるのに!?」「………」
 …なのに、たった一言で、黙らされてしまう。
「そうだよね、春希くんはかずさのこと、いつも悪く言ってた」「照れくさそうに、自慢げに、まるで自分のことみたいに…」「最初は悪口ばかりだけど、そのうち一生懸命庇い始めて、でも、最後は余計なお説教で照れ隠し」「これは、この文章はさぁ…あの頃の春希くんの言葉そのままだよ…っ」
「ぁ…ぅ」
 否定する言葉が頭に浮かんでも、口が否定してしまう。
「こんな想いを込めたラブレター見せつけられて、わたし、どうやって納得すればいいの…?」
 全然、そんなつもりじゃないんだ。ただ、採用されればいいって。ちょっと誇張して、下手をすれば捏造までして、自分の評価さえ上がればそれでいいって。かずさへの想いなんか何も関係なく、ただネタ的に美味しいものを並べただけで。
「嘘つき」「っ…」「春希くんの、嘘つき」「ぁ…ぁ」「嘘つき…嘘つき嘘つき嘘つき…っ」
 そんな… 俺が頭の中でついた嘘まで、勝手に見抜かないでくれよ…》

 本章の白眉である。ここまでが共通ルートだ。
・この後、春希と雪菜は時間をかけて関係を修復する。この微温的な展開は独白で自虐までされている。
・雪菜をライバル視する柳原朋の計略で、雪菜はバレンタインイベントのステージに立つことになる。なお、朋は『introductory chapter』の冒頭でバンドが解散するきっかけをつくった人物だ。じつに構成にムダがない。3年前から歌を忌避していた雪菜だったが、春希の助けで回復する。そして2月14日。春希のギターの伴奏で雪菜は歌う。それは、3年前の学園祭でのバンドに対し、3人からかずさがいなくなったことを、2人が認める儀式でもあった。
 こうして名実ともに恋人同士になった2人はセックスする。
・そして2年後の12月24日、春希はストラスブールにいた。春希は無事に開桜社に就職していた。仕事の都合で海外出張したついでに、春希と雪菜は婚前旅行することにしたのだ。そして、この日、春希は雪菜に正式にプロポーズすることに決めていた。街頭で春希は自分の名前を呼ばれる。だが、その声の主は雪菜ではなくかずさだった…

○coda

・事実上の本編。上掲の記事によると、『君が望む永遠』は二部構成で、第1部の終結部における転調が全体の構成の要になっているが、本作ではそれが第2部の終結部にある。元は『White Album chapter』という題名だったらしい。
・前述のとおりかずさENDが正史だ。
 三角関係モノときいて、まず思いつく最悪の展開は、2人のヒロインが掴みあいの喧嘩、いわゆるキャットファイトをして、事後に和解することだろう。雪菜ENDではそれをする。その場面がはじまったとき、かなり鼻白んだ。とはいえ、こうした総花的な結末も読者が期待するもので、なければまた不満を覚えただろう。物語の大枠としては、かずさが視野を広げ、二者関係に留まらない社会性を身につける。そして春希と雪菜を祝福する。その過程で3人が共同作業し、5年前の再演をするというものだ。正直なところ、予定調和的なシナリオで、あってもなくてもどちらでもいい。
・『introductory chapter』と『closing chapter』では12月24日と2月14日が転機になっている。本章は導入部が12月24日で、物語上はかずさの2度の日本公演が転機になっている。
・導入部で、かずさが足を怪我しているというのが巧みだ。春希とかずさは即座に距離をおこうとするが、その外的な事情により、やむなく密接な関係をもつことになる。
・かずさの日本公演が決まる。そして、曜子の差配で、かずさは春希の隣室に転居する。かずさはもともと生活力がないことに加え、日本で実力以上の注目を集めていたことにより、精神的に衰弱していた。そのため、やむなく春希がかずさに親身になる。
 余談だが、曜子のモデルは内田光子だろう。個人的には、端正な演奏でもピリスは好きだが、内田光子はそこまでわからない。無論、きわめて高い水準にあることはわかる。要するに、私は感受性に欠けているのだ。しかし、そのほうがアーティキュレーションに注目することができるはずだ。その姿勢は本稿でも活きていると思っている。
・春希とかずさはどうしようもなく愛情が再燃していた。だが、2人はあくまで雪菜への義理を守り、廉潔であろうとする。
 かずさの日本公演の前日。取材の一環で、2人は峰城大学付属高校にゆく。そして、そこでかずさは5年前、学園祭のあと、雪菜が春希にキスした場面を再現しようとする。だが、その場面をかずさがみることはできなかった。だとすると、その場面をみたのはかずさではなく…
 次の台詞からBGMが『After All -綴る想い-』に変わる。前述のとおり、ここが『White Album2』でもっとも盛りあがる場面の1つだ。Leafのアンケートによると、次の台詞が本作でもっとも人気があるらしい。

《「あたしが、先だった… 先だったんだ」「かず、さ…っ」
 かずさの手のひらが、俺の頬に触れる。もしかしたら、これも五年前の再現なのかもしれなくて。…俺が目覚める、ほんの数分前の。
「キスしたのも、抱きあったのも。…そいつのこと好きになったのも」「~~~っ」「卑怯な真似だって… 許されることじゃないってわかってた」
 かずさの吐息が、一声ずつ俺に触れる。
「でも、告白なんてできる訳がなかった。あの時のあたしは、あたしですら大嫌いな奴だったから、そいつが好きになってくれるわけないって思ってた」
 かずさの唇が、俺の唇と触れそうなくらいまで近づいてくる。
「だから、そんな自分にふさわしい最低の真似をした。そこまで切羽詰ってたんだ。苦しかったんだ」
 もう、俺の視界の中にかずさの表情が収まりきらなくなっていた。
「…誰にも、奪われたくなかったんだ」
 かずさの身体から、甘い匂いがする。かずさが甘党だからとか、そんな色気のない話では逃げ切れないほどの、心の底まで揺さぶる香りだった。
「でも、その日のうちに雪菜に奪われた。何もかも、雪菜に持っていかれた」
 かずさの声が、胸に響く。甘い匂いとは対照的な、顔をしかめたくなるくらい痛々しい言葉とともに。
「だって、思わないって。あたしみたいな変な女が他にもいるなんて…」
 あまりにも、痛かった。その言葉が、立ち振る舞いが、五年前と何も変わっていないって、俺に勘違いさせることが。
「あんないい奴が、あんないい女が… あんなに悪趣味だなんて、そんなの誰がわかるんだよ…」
 五年前の、かずさの慟哭も… 熱さも、冷たさも、悲しさも、痛々しさも、あの別れの夜から何一つ劣化していないって、俺に勘違いさせることだ。
「春希、春希ぃ…」「やめ…ろよ」
 触れてしまいそうなほど目の前のかずさの瞳が、ゆっくりと潤んでくるのを見てしまった俺は、自分もそうなっているかのような声を上げた。
「からかってんだろ? 俺に仕返ししてんだろ? そうだろ…そうだって言ってくれ」
 悲しかったから。俺の、進んでしまった時間と、かずさの、停滞した時間との間に、こんなにも決定的な乖離が生まれていることが。乖離…してるはずだ。
「冗談だと…思うか? ここまで言っても、冗談だって笑うのか? 春希」「俺が笑えるわけないだろ… だから頼む、お前の方から笑ってくれよ」「っ…」
 瞬間… かずさの潤んだ瞳から、ゆっくりと雫が伝った。
「お前が笑ってくれないと、俺、どうしていいかわかんないよ…っ」「どうすることもできないくせに、今さらどうしようもできないのに、わかんないとか軽々しく言うな…っ」「ならお前も今さらなこと軽々しく言うな! 今日が最後だって言うなら墓まで持ってけよ!」「………っ、春希… 春希、春希…酷い、よ」「酷いのは… 酷いのは、お前の… かずさ…お前の方が…」》

 そして、2人はキスをする。

《「………ごめんな、春希」「え…」
 けれど、触れたのはほんの一瞬だった。
「駄目だよな…ほんと、全然駄目だよな、あたし」「かずさ…?」
 俺の肩に手を置いたまま、かずさがゆっくりと距離を取る。
「そうだよ、冗談だよ。からかってたんだよ。春希に、仕返ししたんだよ」
 今さら言ったって遅すぎる… 誰も信じない言い訳とともに。
「その証拠にさ… はは、あははっ、笑ってるだろ? あたし」
 目を真っ赤にして、けれど多分、その微笑みだけは心の底から。
「だから、ほら、これで最後の取材も終わり。…お疲れさまでした」
 俺に対する強がりと、雪菜に対する気遣いと。かずさ自身の、本当に、本当に小さな願いが満たされたという喜びとともに。》

 ロジックの粋である。
日本公演当日。自分の自制心に自信のなくなった春希は、ケジメをつけるため、コンサートに出席せず、仕事で大阪に出張している雪菜のもとにゆく。
 だが、結果、かずさの公演は表面上は無事に終わったものの、批評的には酷評されることとなる。
・かずさは失踪する。また、曜子は音信不通になる。春希はかずさのかつての生家でかずさを発見する。売家になった、かつての生家に不法侵入したかずさは手を負傷していた。
 かずさを責める春希に、かずさはコンサートにこなかったことを非難する。かずさはそのコンサートで春希への愛情を諦めようとしていたのだ。ここでのBGMは『氷の刃』だ。「どうして思わせぶりなことばかり言ったんだ。どうしてあたしのこと… 嫌ってないみたいな態度取ったんだ」「嫌ってないからだよ! 決まってるだろ!」「嫌ってないくらいであたしの心を乱すな! あんな、期待させるような、手を伸ばせば届くって錯覚させるような…」。「なのに、いつも最後の最後でするりと逃げて… あんな痛くて苦しい拷問、耐えられるわけないだろ…」。「お前に聴かせるためだけに帰ってきたのに… 最後に、最高の演奏を聴かせて、今度こそ、諦めるはずだったのに」。「なのにお前は来なくて、あたしは最低の演奏をして、今度こそ、何もかも失った」。
 自暴自棄になるかずさを春希は必死でとめる。それに対して、かずさは憎悪とともに愛情を告白する。
 それに対し、春希はあくまで雪菜への義理を守り、かずさを拒絶する。実際のところ、春希は雪菜よりかずさへの愛情のほうが勝っているから、たとえ仮初めのことでもかずさを愛することはできない。また、それは最終的に雪菜を大事に思っているかずさをも傷つけることになる。このロジックはすばらしい。なお、ここでかずさを受容し、セックスすると浮気ENDになる。
・曜子が音信不通になったことの真相が明らかになる。曜子は白血病に罹患していた。そして、死地として日本に永住することを決めていた。また、かずさに親元を離れて独立することを望んでいた。日本公演はそのための試金石だった。さらに、この機会に春希との関係を清算させようとした。しかし、逆に2人の愛情が再燃してしまった。
 かずさが唯一の肉親と社会との関係を失う。新進気鋭のピアニストであるかずさは、対人関係がまったくできず、母親が死ねば、ただの生活能力のない無職になる。
 曜子に依頼され、かずさの追加公演までに、春希は曜子とともにかずさを精神的に自立させようとする。また、かずさの手の負傷が回復するまで、生活を支えることになる。
 『closing chapter』の雪菜ルートを経て、また婚約し、読者はもはや雪菜と離別できないことをわかっている。規範意識の強い春希においてはなおさらだ。それでもなお、春希はかずさを選択する。
・ここから、雪菜と離別し、会社を退職し、友人たちと絶縁し、小木曽家の人びとに謝罪する。しかも、編集部の同僚、友人たち、小木曽家の人びとがみな善人なのだ。そして、ここまでの物語で春希は彼らと信頼関係を築いてきた。三角関係という主題で、主人公を規範的な性格に設定したことの効果が、ここで最大限に発揮される。ここが『White Album2』でもっとも胃が痛い場面で、作品そのものがそう評価される所以だ。
・友人たちに絶縁を覚悟して事情を話す。朋がかずさを不潔だともっともな非難をし、春希は肉体関係はないと弁解する。それに対する依緒の台詞が冴えている。「………なにそれ、最低」「寝てもいないのに、何もしてないのに、取り返しがつかなくなった訳でも、重いもの背負った訳でもないのに…」「ただ、彼女を愛してるからって理由だけで、雪菜を、切り捨てるの…?」「じゃあ、雪菜はなんだったの? 心と身体の両方の繋がりをあわせても、彼女との心の絆に敵わないって言われたんだよ?」。「これだけ周囲をボロボロに壊して、自分たちはプラトニックですって…」「最低の純愛だね。吐き気がする」。「雪菜は色々ないからいいんだ? 一人ぼっちじゃないから捨ててもいいんだ?」「そんなこと言ってないだろ!」「言ってるよ春希… 雪菜は自分がいなくても一人じゃないから、可哀想じゃないから捨ててもいいって、言ってるよ…」。「痛いだろ? 春希」「でもな、春希… 雪菜は…あんたに捨てられた雪菜はこんなもんじゃ…」。
 だが、武也が朋と依緒を制する。「………帰れ、お前ら」「春希を説得する気がないなら帰れ。ただ言い負かしたいだけなら、もう二度と会うな」「もう諦めろ。というか、お前らもう諦めてるじゃないか。いらねぇよこの場に」。名場面だ。結局、春希は親友である武也にだけ曜子の死病のことを話す。武也は春希がかずさを選択したことを諦める。そして、春希は親友をも失うのだった。
・小木曽家の人びとに婚約破棄のことを告げ、謝罪する。5年に及ぶ交際で家族同然の関係になっていただけに、小木曽家の人びとの怒りと悲しみは大きなものだった。だが、愁嘆場に雪菜が飛びこみ、春希を責めるなと言う。そして、もはや自分たち3人の問題であり、他の誰にも口出しさせないと言う。
追加公演前日。とうとうかずさは雪菜と対面する。そして、2人だけで話をつけようとする。雪菜はショックで統合失調症の前駆症状を発症していた。症状の悪化で会社を強制的に休職させられてまでもいた。それでもときおり鋭さをみせ、かずさと対話する。「そんなことある。あなたはたくさんのものを持ってるよ」「ピアノに、賞に、女性としての魅力。それに、それに…」「愛する、人」「全部、かずさが持ってる」「いつの間にか、かずさのものになってる…」。「…あなたの求めてる春希くんは、本当に、今ここにいる春希くんなのかなぁ」「ずっと会えなかった五年間のうちにかずさが作り上げた理想の存在… アイドル、なんじゃないの?」「わたしはずっと、本当の春希くんを知ってる」「三年間、ずっと遠くから見てきた。二年間、ずっと側で見てきた」「かずさの気持ちが変わらなくても、春希くんは変わってしまったんだって、どうして思えないのかなぁ」「あたしの想いが、嘘だって… ただの思い込みだって言うのかよ…?」「じゃあかずさは、春希くんの欠点をどれだけ知ってる?」「わたしは、嫌なところも駄目なところも沢山知ってる。それ以上に、いいところも、素敵なところも、数え切れないくらい知ってる」「かずさが五年間、ずっと夢の中で描いてきた春希くんなんかとは違う… 本物…なの」「たとえあたしの五年間が全部夢だったとしても、それでもあたしはこの数日間、現実と戦ったんだ…」「そしてあたしは… 理想と現実とのギャップに、押し潰されたりしなかったんだ」。
 あくまで話をつけようとするかずさに対し、雪菜は精神病を理由に、何を言ってもムダだと応じる。そして、このまま壊れて、かずさより助けを必要とすれば、春希の気持ちをとり戻すことができると言う。かずさは、それは春希とかずさを苦しめるだけだと言う。そして、もしそうなっても、もはやかずさは雪菜のために春希を諦めることはないと宣言する。
 かずさは自分にはピアノと春希しかないと言い、春希をとった償いのために、ピアノは捨てると言う。そして、卓上のコップを割り、自分の指に叩きつける。この場面にはイベントCGがある。感極まる場面だ。かずさは春希を奪ったという《原罪》を負っているわけだが、ここで春希への愛情が自分の生命と等価であることを端的に示す。そして、贖罪が果たされる。きわめてロジカルだ。
・春希はかずさと雪菜が対面したことを知る。そして、かずさの指は無事なままだった。指が傷つく直前、雪菜が庇っていたのだった。雪菜はかずさを憎みきることができなかった。また、そのことに自分でも混乱して、その場を離れる。呆然自失のうちに、雪菜は交通事故に遭う。
追加公演当日。コンサートの直前、依緒から春希に雪菜が失踪したという緊急の電話連絡がくる。春希は雪菜を探しにゆく。
 春希は雪菜を発見する。雪菜はふたたびかずさのコンサートを妨害したことを謝る。だが、春希はそれを否定する。かずさのコンサートは大きな成功をおさめていた。春希はもう状況に関わらずかずさを愛しつづけることを誓い、かずさもそのことを認めていた。そのため、もはや春希の不在はかずさの障害とはならなかった。
 ここにおいて本作の三角関係という主題が昇華される。つまり、本作において愛は一貫してネガティヴなものとして描かれていた。雪菜への愛は義務感によるもので、かずさへの愛は罪悪感をともなうものだ。それが、この場面において愛が奪うものから与えるものへと逆転した。このため、やはりかずさENDが本作の正史である。
 「なぁ、春希」「ん?」「あたしはさ、これからもピアノ以外は何もできないかもしれない。…ううん、多分その可能性が一番高いと思う」「何を今さら」「金銭感覚がなくて、家事もできなくて、もしかしたらピアノで金を稼ぐこともできなくなって、お前に地獄を見せてしまうかもしれない」「織り込み済みだよ、そんなの」「お前はあたしのために無理して、体を壊して、長生きなんかできないかもしれない」「お前なぁ… 今からそんな縁起でもないこと考えてたって」「けどさ…たった一つだけ、絶対に保証する未来がある。…お前が死んだら、あたしはすぐに後を追う」。
・春希とかずさは渡墺する。機上で春希はギターの処分を忘れたことに気づく。ギターは雪菜に捧げたもののため、オーストリアに持ってゆくことはできなかった。
・エピローグ。2年後、すでに春希とかずさは入籍していた。曜子からオンラインでメッセージが届く。添付されていた動画には、朋、依緒、武也、そして雪菜が映っていた。そして、雪菜は春希の残したギターで弾語りを披露するのだった。
 大団円である。

 いかがだったろうか。感動的と評される本作が、きわめてロジカルに構成されていることがお分かりいただけたと思う。
 ただ、本作にもただ1つだけ難点がある。それは多大な分量だ。プレイ時間が60-80時間ある。いわゆるエロゲが衰退した理由に制作コストとユーザーの時間コストの上昇がある。他のハードに移植するときの通例として、本作にもシナリオが追加されているが、作品の品質そのものには逆作用しているだろう。2011年発売の本作はエロゲの成熟期から衰退期の半ばに位置するが、その観点において、本作はエロゲの可能な品質の臨界点に達している。