ドゥルーズとガタリの共著『カフカ』は、カフカの創作の起点を手紙におく。
手紙は次のような機能をもつ。運動を言表の主体(媒体)へと転移させ、言表行為の主体(作者)から免除する。
カフカの作品では、言表(表現)が内容に先行する。これはマイナー文学の特徴だ。メジャー文学では、内容に表現を与える。カフカにおける表現の独立分化は手紙から始まった。
そして、同じ手紙魔としてプルーストを挙げる。
ただし、カフカとプルーストはともに恋人に手紙攻勢をかけつつ、そのありかたはだいぶ違った。
カフカは手紙攻勢で実際に会うことを延期した。対して、プルーストは手紙攻勢で会うときのことを細かく指示した。
カフカとプルーストはともに手紙で親密性、すなわち、見る=見られるの関係を拒否した。だが、カフカがみずから囚人になったのに対し、プルーストは恋人を閉じこめ、監視するだけの牢番になろうとした。
"プルーストにとって手紙の理想は、ドアの下に滑り込んだ短い紙きれである。"(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳『カフカ:マイナー文学のために』p.68)
ここで思いだすのは、藤本タツキの『ルックバック』だ。
『ルックバック』で藤野が出すのは、まさにドアの下に滑りこませた紙きれだ。引きこもりの京本に対し、藤野は間違っても引きこもったりしない。
そして、題名では「ルックバック」を謳いつつ、画面における視線誘導と、藤野の視線はつねにルックフォワード(前向き)だ。見る=見られるの関係の拒否は単純で、たんに視線を一方向的にするだけだ。
『ルックバック』が内容において独善的、表現において不徹底なら、それは表現の主体について留保しているからだろう。
だが、あくまで『ルックバック』は内容と表現、現実と創作という主題における試行錯誤に過ぎない。その主題は『さよなら絵梨』で達成される。
フーコーの『幻想の図書館』は、表現の問題について、フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』で最後に幕が燃えつきることの意味を論じる。
『さよなら絵梨』の爆発オチは、実際にはスクリーンの炎上だ。
つまり、『ルックバック』がタランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』なら、『さよなら絵梨』は『イングロリアス・バスターズ』なのだ。
だから、『さよなら絵梨』は『イングロリアス・バスターズ』の最後の台詞がふさわしい。
"「I think this just might be my masterpiece.(こいつは俺の最高傑作だぜ)」"(『イングロリアス・バスターズ』)