グレゴール・ザムザ焼き - 『ご飯は私を裏切らない』 -

 ヤングエースUPで連載されているheisoku著『ご飯は私を裏切らない』が面白い。主役は29歳、フリーター、独身、独居、中卒、職歴なし(※正規雇用について)、交友関係なしの《私》だ。《私》が短期のバイトと日雇い派遣労働で日々を過ごしつつ、食事で人生の苦悩を紛らわせたり、生態系に思いを馳せたりする。
 ジャンルとしてはいわゆる《グルメマンガ》になるのだろうが、じつは毎話に、生態系に関する蘊蓄と思索がある。
 "いくらが私に囁いてくれる… 生き物の実態はむしろ死に物じゃないかなと… 殆どの生き物にとって死ぬほうがメインストリームじゃん…"(第1話。10万の卵を産卵し、そのうち数匹だけが成魚になるゴマンモンガラについて)。
 そうした思索は生計を立てるために強いられる労働を相対化することになる。第3話では、人類社会が生態系に組まれていれば、いまごろ社会の落伍者である自分も、捕食されて資源として役立っていたのにと考える。これはマルクス主義ではないか。
 マルクスの生前に出版されたのは『資本論』のシリーズ中、第1巻だけだ。その結論で引用されるのが有名な《ここがロドスだ、ここで跳べ!》という成句だ。意外に思われるかもしれないが、『資本論』は市場経済に対し、奴隷制農奴制を《自然経済》として批判の対象外にしている(岩波文庫、第5巻、pp.212-3)。つまり、『資本論』の批判の眼目は《労働と労働の価値の二重性》による《社会的総労働と私的労働の倒錯》であり、われわれの生命活動であるはずの労働が、社会規範によって無意識のうちに所与のものに変形されていることだ(『逆転裁判2』の名言"「お盆を運んでサツタバがもらえるのならば……ダレが検事などやるものかッ!」")。これが『資本論』第1巻の主な内容で、これは岩波文庫の第1巻なので、『資本論』に興味がありつつも、全8巻の分量で敬遠しているひとは第1巻だけ読んでもいいかもしれない。エンゲルスマルクスの死後に編纂、出版した残りの7巻はあまり面白くない。
 そして、そうした自然観はニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』の要約するものがもっとも近いだろう。レーンは、シュレディンガーが『生命とは何か?(What is Life?)』で、生命はエントロピー増大に逆らうというドグマを述べたことについて、物理学者を読者層としていたら、エントロピーではなく自由エネルギーを議論の観点にしていただろうと語ったことを引く。つまり、シュレディンガーは『生命とは何か?』ではなく『生とは何か?(What is Living?)』を書くべきだったというのだ(pp.60-1)。本書が明かすのは、生命は、海底のアルカリ流体の熱水孔によるプロトン勾配と変わらないということだ。
 こうした自然観は実存主義をもたらす。トルストイはこうした観点の先鞭をつけていた。"どのようにして無機物から有機物が順応を通じて生れてくるかも明らかなら、どのようにして物理的エネルギーが感情や意志や思考に移行してゆくかも明らかであり、そうしたことがすべて、中学生といわず、田舎の小学生にさえわかっているとしよう。これこれの考えや感情はこれこれの運動から生ずるということが、わたしにもわかっているとしよう。で、それがどうだというのか?"(p.22)。これはアルチュセールによるマルクス主義の分析であるプロブレマティック論だ。
 『ご飯は私を裏切らない』の第5話はもっとも説明的だ。"「そんな場所なかった! この地はどこだって誰かの土地なんだ!!」"など、ほぼ直接的なマルクス主義だ。
 "「それに一品ずつ覚えるにつれ応用出来るようになって全体的に料理上達しそうなものなのに」「覚えたもの以外全くわからないし”」"、"それはそれ これはこれとしかわからない 目の前のこと以外脳に浮かばない 思考が広がったり繋がったりすることがない"。これはまるでサルトルの『嘔吐』に登場する、図書館の蔵書をアルファベット順に読破する独学者そのものだ。
 そもそも、食欲とは躁鬱の気分の反映だ。DSM-5の鬱病の分類では、症状に食欲不振がある。
 カフカは、そうした鬱病と食欲との関係を文章化した初期の作家だ。カフカの『変身』は鬱病により出社できなくなった会社員の寓話として読むことができる。サルトルカフカに影響を受け、フローベール論である『家の馬鹿息子』で、カフカに大きく紙幅を割いている。
 ただ、個人的なこととして『ご飯は私を裏切らない』の第5話には承知できないところがある。登場する《キャベツとチーズのホイル焼き》がどうしても美味そうに思えないのだ。これはキャベツにバターと溶き卵、とろけるチーズとピザ用チーズをのせ、トースターで20分ほど加熱したものだ。

 "半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、グレゴールが二日前にまずくて食えないといったチーズ、何もぬってはないパン、バターをぬったパン、バターをぬり、塩味をつけたパン。なおそのほかに、おそらく永久にグレゴール専用ときめたらしい鉢を置いた。それには水がつがれてあった。そして、グレゴールが自分の前では食べないだろうということを妹は知っているので、思いやりから急いで部屋を出ていき、さらに鍵さえかけてしまった。それというのも、好きなように気楽にして食べてもいいのだ、とグレゴールにわからせるためなのだ。そこで食事に取りかかると、グレゴールのたくさんの小さな脚はがさがさいった。どうも傷はみなすでに完全に癒ったにちがいなかった。もう支障は感じなかった。彼はそのことに驚き、一月以上も前にナイフでほんの少しばかり指を切ったが、その傷がおとといもまだかなり痛んだ、ということを考えた。「今では敏感さが減ったのかな」と、彼は思い、早くもチーズをがつがつ食べ始めた。ほかのどの食べものよりも、このチーズが、たちまち、彼を強くひきつけたのだった。つぎつぎと勢いきって、また満足のあまり眼に涙を浮かべながら、彼はチーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べものはうまくなかった。その匂いがまったく我慢できず、そのために食べようと思う品を少しばかりわきへ引きずっていったほどだった。"(フランツ・カフカ著『変身』)

 私はこの料理を《グレゴール・ザムザ焼き》と呼ぶことにした。

追記:実際に作ったら美味しかった。

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『仮面の少女・櫻井桃華』に寄せて - 文学・経済・アイドル -

 ソーシャルゲームアイドルマスター シンデレラガールズ』(バンダイナムコエンターテインメント)のメディアミックスであるコミックの、廾之著『THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS U149』(以下、『U149』と表記)は高い文芸性を誇る。
 その《櫻井桃華編》である第38-41話『櫻井桃華①-④』には、有志による批評『仮面の少女・櫻井桃華――あなたは『U149』桃華編を誤読していないか?』(以下、『仮面』と表記)が寄せられた。
 本稿では、この批評を確認し、『U149』の《櫻井桃華編》をあらためて読解したい。

 『仮面』では《櫻井桃華編》前話の第37話『特別編』における、桃華の意外な行状を議論の背景においている。それは、桃華が紙飛行機をうまく飛ばしたことであどけない笑みをみせ、それを冷やかされるというものだ。ここには論点が2つあり、第1は、この描写が肯定的であること、第2は、それが《子供らしい》《年齢相応》であることだ。
 『仮面』では、当初は第37話を性格描写の範疇として済ませたとしつつ、《櫻井桃華編》のあとは、人物造型の根本的な変化の予示、もしくはただの表れとして認識を改めたとしている。これは、とくにゲームとの対比による。『仮面』は『U149』における桃華の《レディ》としての振舞いが、自然ではなく、意図的なものだということにつき《仮面説》と命名している。《櫻井桃華編》の読解は以下のとおりだ。本編は《子供らしさ》と《レディ》という2軸があり、かつ、両者は逆相関するものとして設定されている。そこで、《子供らしさ》を要求された桃華が《レディ》としての振舞いを再考する。結果として、桃華は《レディ》としての振舞いをやめ、《素顔》を出す。ここでは、作中で年長のアイドルたちの《素顔》を強調していることが暗示になっている。
 前段の、説話論的な構造の、《子供らしさ》と《レディ》という2軸があり、その相反する要求で、桃華が《レディ》としての振舞いを再考するという分析は正当だろう。しかし、主題論の、桃華が《素顔》を表出するという分析は語弊があるように思える。

 《櫻井桃華編》の構成は複雑だ。これに対し、《橘ありす編》である第4-6話『橘ありす①-③』の構成は明快だ。ありすは完璧主義者で努力家だ。撮影に当たり、ありすは入念な下準備をし、理想とするポーズと表情を演じる。だが、その写真の対案となる表情を要求され、自信喪失してしまう。しかし、プロデューサーの後押しのもと、再度、自身の理想を演じ、それは関係者全員の賛意を得るものとなる。さらに、それはありすの理想と同時に、自然体でもあった。これは典型的なテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの構成だ。
 なお、本編では、そうしてありすが理想と自然体をともに実現するパフォーマンスをみせたあと、あどけない笑みをみせ、それを冷やかされるということが結尾部になる。『U149』がこうした《子供らしさ》をコミックリリーフに使用していることは記憶していい。
 《櫻井桃華編》の構成の複雑さは以下のとおりだ。バラエティ番組のバンジージャンプの企画の撮影につき、桃華は《子供らしさ》を要求されるが、その要求は満たされない。代わりに、《個性》が表れたとされる。しかし、桃華は《レディ》らしい振舞いを貫徹できない。毅然とするものの、わずかに涙を滲ませる。この描写は肯定的だ。台詞では、プロデューサーは《”いつもの櫻井さんらしく飛ぶ”》と《”櫻井さんの思う子供らしさで飛ぶ”》の両者を否定し、《”そういうのを一切考えないで飛ぶ”》ことを提案し、その言に桃華は表面上は諫言しつつ、感銘を受ける。しかし上述のとおり、毅然として飛ぶ。
 『仮面』は、この《個性》と《レディ》の両者の不一致につき、損なわれた《レディ》を《個性》、すなわち《素顔》として名指す。そのため、桃華の《レディ》を仮面として再定義する。
 しかし、本稿はその分析を批判する。説話論的には正しいが、主題論的には問題を含む。

 主題論の前に、作品論を述べる。『仮面』は《櫻井桃華編》は《橘ありす編》の再話にはならないとする。論拠は、主題論が《レディ》の脱却である《櫻井桃華編》は《橘ありす編》と異なるということだ。しかし、それを《素顔》の表出と名指せば、どちらも《子供らしさ》に対する葛藤を経ての自己実現となる。
 『U149』は高度に文学的だ。『U149』のプロデューサーは大人としての良識を備えているものの、背は低く、性格も子供っぽい。これは子供を主役とする『U149』において、大人-子供間、また子供間における差異を精密に描写するためだ。子供を主役とする作品を創造するとき、凡庸な作家ならどうしただろうか。プロデューサーの人物造型はただの大人で、子供たちとの二項対立をつくり、各話は大人-子供間の対立を主題とし、それを延々と反復していただろう。
 文芸論でもあるジル・ドゥルーズ著『差異と反復』は、マルクスの言葉(※)を敷衍し、ただの反復を批判する。曰く、歴史的反復は歴史的行動の1つの条件だが、変身、すなわち真正な創造が悲劇であるのに対し、そうでなければ退化であり、喜劇だ(『差異と反復』上巻、河出文庫、p.150)。(※ "ヘーゲルはどこかで、世界史的な大事件と大人物はすべて、いわば二度現れると言っている。彼は、一度目は偉大な悲劇として、二度目はみすぼらしい笑劇として、とさらに付け加えるのを忘れたのだ。"(『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』))
 そうした反復の最たるものは、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』(高雄統子監督、A-1 Pictures)第2期だ。毎回、その回の主役が予定調和的に所与の個性を再肯定するのは悪夢的だった。
 続いて、主題論を述べる。《櫻井桃華編》を難解にするのは《子供らしさ》の多義性だ。『櫻井桃華③』で桃華は毅然として飛ぶが、しかし涙を滲ませる。この涙は《子供らしさ》の表れとみることもでき、《櫻井桃華編》の主題論をみえにくくする。しかし、そうではない。これは『仮面』も指摘する。そのことは説話論をもって明示されている。大人であるプロデューサーがバンジージャンプの怖さを告白することで、桃華はその怖さを《子供らしさ》から剔抉する。
 だが、生理的な反応を《子供らしさ》とみるのは当然だ。クロード・レヴィ=ストロース著『構造人類学』は、未開と子供の思考に類推が働くのは、未開の思考が古代的(アルカイック)な性質をもつからではなく、子供の思考の多形性が文化の広がりを包含するからだと述べる(p.202)。よって、生理的な反応は一般的に《子供らしさ》と見なされる。
 さらに、その多形性は《タブラ・ラサ》として理想化される。その代表がジャン・ジャック=ルソーだ。ルソーは国家論の『社会契約論』で、人間の文明以前の本性を《自然状態》として美化し、そうした人間たちは《一般意思》として公共性を構築できると説いた。さらに、教育論の『エミール また教育について』で子供を美化し、教育を与えずに放任すべきと説いた。言うまでもなく、これらは現代の科学では誤りだ。ジャン・スタロバンスキー著『ルソー 透明と障害』とジャック・デリダ著『根源の彼方に』は、それを完全な自己実現の試みとして、文学的に肯定する。
 《櫻井桃華編》も《自然さ》への理想主義的な態度がある。『櫻井桃華③』ではプロデューサーが何も意識せずに飛ぶことを勧める場面と、桃華が着地したあとの場面で青空が強調されている。桃華は自意識をもって飛んだが、そのことは《自然な》こととされている。『U149』全編において《自然さ》は理想とされる。これは主として登場人物の個性と態度において表れる。その他では、節目である第25話『第3芸能課⑦』が顕著だ。本話では、プロデューサーとアイドルたちが、それぞれ立聞きで、たがいの本心を知り、信頼を強める。その後、「花火をしよう」というプロデューサーの提案とアイドルたちの要望が同時に発せられる。しかし、本話はそれに留まらず、そうした幸福に達したのち、ありす、桃華、(的場)梨沙という年長の3人とプロデューサーが決意をあらたにする。
 多形性は現代的な問題を含む。ミシェル・フーコーは『性の歴史』シリーズの『知への意志』で現代の性規範を対象化し、多形倒錯的な、無数の性志向の範列を挙げた。それは小児性愛も含む。しかし、ジュディス・バトラーはその異種混交性を批判的に発展させ、『権力の心的な生』で《主体化=従属化(subjection)》の理論を提唱した。多形性からアイデンティティを確立するとき、それは管理されたものでありうる。これは現代におけるポスト・フォーディズムの経済で、労働力の管理のため、コーチングとして実施されている(村越一夫・山本泰三著『コーチングという装置』(『認知資本主義』))。
 そもそも、アイドル産業はポスト・フォーディズムの産物だ。クリスティアン・マラッツィ著『資本と言語』はポスト・フォーディズムの特徴として、以下のものを挙げる。①フォーディズムの批判 ②労働時間の長時間化 ③ヴァーチャル産業の拡大 ④労働作業の計測の不透明化 ⑤記号と資本の同一化 ⑥生産の属人化(pp.43-7)。言うまでもなくアイドル産業は③ヴァーチャル産業であり、④労働作業の計測はアプリオリにはできず、アポステリオリになされ、契約は関係者間で随時、契約を締結する方法でなされ、⑤知的財産など、本来は公共のものである記号を私的所有の対象とすることでなされ、ネットワーク外部性により、所有者はレントを得る。アイドルは自由業のため①テイラーの科学的管理法の対象外だが、②逆に言えば労働時間と余暇時間の区別がなく、⑥技術進歩によって労働時間が縮小することもない。
 こうした問題に『U149』は自覚的だ。そうした政治経済の問題を具体的に挿入しているのではない。すぐれた文学は、歴史を不在として刻印している(蓮實重彦著『凡庸な芸術家の肖像』上巻、p.280)。『櫻井桃華④』で所与の個性としての記号である《"子供らしく"》の要求に悩む登場人物たち(※)に、桃華は軽やかに笑ってみせる。逆に、歴史を前景化したと自らを誤認するのは、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』第2期の最終話、第25話だ。無数のアイドルが所与の個性を《自分らしさ》と称し、画面に登場するのは夢魔的だった。(※ ここではありすが"「結局 メディアは分かりやすいものが好きなんですかね」"とまで直接的に言明している)
 では、《個性》を対象化する『U149』における《レディ》は何か。多形性からの主体化は管理される危険があるが、アイデンティティをもたずにいることはできない。したがって、アイデンティティは自己統治の問題になる。フーコーは『性の歴史』シリーズで、『知への意志』のあと、《生存の美学》を問題にした『快楽の活用』と『自己への配慮』を著す。審美的な正しさは、自己の正しさを保証する。これはイマニュエル・カントの美学の『判断力批判』より、哲学の『純粋理性批判』を参照するのがいいだろう。
 "だが、こうした主観的必然性(これは感じられざるをえないものである)をみずから承認しない人々にもこと欠かないであろうが、おのれの主観がどのように組織されているのかという様式にだけもとづくようなことに関しては、少なくとも人は何人とも論争することはできないであろう。"(『純粋理性批判』上巻、平凡社、pp.328-9)

 ここで『仮面』に戻る。『仮面』はまず《子供らしさ》を説話論により捨象した。それは正当だが、そのため『櫻井桃華③』の《自然さ》への理想主義的な態度を看過し、怖さへの言及を桃華のアイデンティティ論に解消させた。次に、桃華は《レディ》を脱却したとするが、本稿はこの見解には賛同しない。桃華の《レディ》は自己統治の問題であり、はじめからつねにおこなうべき実践だったと考える。
 《櫻井桃華編》の桃華の不安は2つあった。第1が《子供らしさ》の要求で、第2がバンジージャンプの恐怖だ。そして、桃華の否定される解決策においては、恐怖感を露わにし、《子供らしく》振舞うことで、両者は統一されているが、実際にとられる解決策では個別に処理される。《子供らしく》振舞うという演技への自信のなさは、そもそもそれを選ばないことで解決する。恐怖感と《レディ》としての自負の対立は、自己欺瞞をやめ、あえて認めることで解決する。この構成の複雑さが《櫻井桃華編》を難解にする。しかし、全体として《櫻井桃華編》の主要主題は自己統治の問題であり、それが桃華の性格描写の中心として設計されているだろうと言える。具体的には《レディ》たること、品位を保つことだ。
 つまり、桃華が結果的に《レディ》として振舞うことができなかったとしても、それは桃華の《レディ》としての自負を損なうものでなく、今後も桃華は《レディ》として振舞いつづけるだろうと考える。また、作劇の経済として、今後、桃華が《レディ》として振舞うことに失敗する場面はほぼないだろう。よって、ゲームとの大きな差異もない。

 ここまで書き、文芸作品の読解にもかかわらず、主題論のことばかりで説話論や文体論にあまり触れず、悪しき批評になっているのではないかという不安をおぼえる。
 もともと、わたしはあまり《櫻井桃華編》が好きではない。年長組の桃華が主役で、相応の紙幅と主題があるが、構成がいたずらに複雑になっている。なお、好きなのは《橘ありす編》だ。
 『U149』は作劇が理論的で、説話論、主題論ともに文学的だ。
 ウラジーミル・ナボコフ曰く"私たちは「感傷性」と「感受性」を区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりにして進歩的な思想を語ったが、一方的では自分が生ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。"(『ナボコフロシア文学講義』上巻、p.235)。
 『第3芸能課⑦』につき述べたが、『U149』は《自然さ》の理想主義的な美しさを描きつつ、それは一瞬のものとしている。これが感受性であり、文学性だ。
 木澤佐登志が『ダークウェブ・アンダーグラウンド』で述べるとおり、現代はとくに感傷性が権力をもつ。わたしたち感受性の強い人間は、自殺のことを考え、その合間に『U149』にため息をつく。

私選:洒落怖・怖い話・ホラー映画

・ホラーの2つの問題

 いわゆるホラーというジャンルには、質によって性格の異なる2種が存在する。これがホラーの第1の問題だ。例えば稲川淳二の怪談と、伊集院光の怪談だ。稲川淳二の怪談はしめやかに怖く、語りにより涼感を得ることができる。伊集院光の怪談はそうではない。恐怖が暴力的なのだ。聴けば神経過敏になり、足萎えし、不眠症にかかることになる。当然、ひとびとはジャンル(原語は「嗜好」というフランス語)としてのホラーは娯楽として楽しむのだから、そこまでの恐怖は求めていない。が、伊集院光のような悪ノリの好きな性格の人間もいるし、私たちも刺激を求め、本気で恐怖感を覚えたくなることがある(そして、愚かしくも後悔する)。「洒落怖」スレなどは、明らかに後者の性格だ。この記事では、求められる恐怖感を後者のものとする。
 第2の問題は、物語がなくても恐怖感が成立することだ。例えば、いわゆる「実録」モノだ。何度かカメラがパンする、そして、最後には謎の人影が写っている。たしかにこれらの映像は怖く、その恐怖感はホラー映画を上回るほどだが、この上なく馬鹿らしい。なぜなら、私たちはそれが100%作りものだと知っているからだ。だから、ホラーには物語としての実質がないと、ただ苛立たしいだけのものになってしまう。しかし、物語としての結構性は、恐怖感を失わせる。この意味で、アメリカ映画のホラーで強く恐怖感を喚起するものはただ1作もない(※)。この記事では恐怖感を優先しつつ、そうした意味で馬鹿げていて、ひとを無気力にさせるものは除外する。

(※ ただし『キャリー』は例外だ。この映画は最後にビックリさせるだけとして、映画通とホラー映画マニアのあいだでは悪名高い。しかし、その驚きにはSFサスペンスからホラーへとジャンルが変わることの作劇の工夫がある。また、恐怖感がなくとも、それは映画の質には関係しない。カーペンターの『マウス・オブ・マッドネス』や、ルチオ・フルチの『ビヨンド』は、まったく怖くないが最高の傑作だ)

○みさき

http://bungoku.jp/grand/2010/0091.html)(『忌録』)
 上記の意味でもっとも怖い。
 まず画像が怖い。いわゆるありがちな不気味な画像だが、それに説話が加わったことで実質が伴う。
 説話も、行方不明事件からはじまり、超常現象を提示し、同時に児童虐待を示唆することで不穏さを演出するとともに、前述の超常現象の「呪い」、「穢れ」というプリミティヴな恐怖感に説話的な(すなわち、因果関係による)強固さを与える。
 文章も洗練されていて、冗筆と言えるのは、中盤でB級映画じみて村民がバタバタと連鎖的に死ぬところだけだ。

◯洒落怖

・リゾートバイト
 長編の有名作。スリリングで非常に面白い。怖さもそこそこある(エンターテイメントとして完成されすぎていることが怖さを減殺している)。

・リアル
 長編の有名作。説話としての完成度は『リゾートバイト』とは比較にならないほど低い。が、『リゾートバイト』より、よほど怖い。不気味な視覚的なイメージが秀逸だ。勇を鼓して怒鳴ったあと、それがネガティヴに作用するところの聴覚的なイメージはさらに優れている(「ドーッシッテ、チッテタ? ……」)。よく言われるように、末文は完全に蛇足。

・裏S区
 文章が酷い。が、その幼稚な文章が恐怖感に作用している。
 いわゆる同和部落の住人に対する「穢れ」のような嫌悪感・恐怖感が物語の根底にある。こうした嫌悪感・恐怖感は文化人類学において古今東西のあらゆる文化に存在するものであり、それに素朴な正義感をみせるのは知的能力に欠き、幼稚としか言えない。そうした素朴な正義感を振るう大衆はどうでもいいが、政治的にそうした感情に対処するなら、ベンサム的な技術的な解決が好適だろう。それはさておき、私たちは文芸にそうした感情を利用しよう。
 死および異界と、同和部落の住人および、その狂者じみた言動が恐怖感を煽る。両者は同根のものだ(ドゥルーズ『差異と反復』)。そして、話者も幻聴を中心として、狂気に蝕まれてゆくこととなる。

・地下のまる穴
 《奇妙な味》の傑作。大好きな話だ。ボルヘスが似た話を絶賛していたらしい。怖くはない。

・危険な好奇心
 説話の力点がわかりにくく、恐怖感をおぼえにくい。ムダに長いという印象しかない。

 以下、短編・中編。

・双眼鏡
 傑作。双眼鏡で自宅から周囲を覗くという、誰にでもある背徳感を伴う経験をもとにしていることがすばらしい。異物に自宅に侵入される恐怖の描写も短く適切で見事だ。なお、見る-見られるの逆転というのは映画の古典的な題材(『裏窓』『欲情』。近作では『イット・フォローズ』)だ。
・巨頭オ
 《奇妙な味》の名品。ギャグすれすれの戯画的な不条理の描写がいい。怖くはない。
・パンドラ(禁后)
 やや不気味。怖さもそこそこ。
・くねくね
 怖くない。だが、その不気味さと、嫌悪感を催す視覚的なイメージは秀逸だ。
・八尺様
 まったく怖くない。それどころか、馬鹿馬鹿しい。なぜ世評で名高いのか理解できない。
・コトリバコ
 漫画的。退屈。
・猿夢
 いわゆる自己責任系の説話。イメージがポップすぎる。下品なスプラッター表現も鼻白ませ、恐怖感を損なう。
・姦姦蛇螺
 漫画的すぎてあまり不気味でない。怖さもあまりない。
・リョウメンスクナ
 やや不気味だが、ネット右翼陰謀論的なオチで完全に鼻白んでしまう。
・リンフォン
 やや不気味。漫画的だが、終末的なイメージはわりと好きだ。
・ヤマノケ
 自分でなく子供が犠牲になるのでは恐怖感が半減する。
・海からやってくるもの
 道具立てが映画的すぎる。
・ビデオメッセージ
 わりと怖い。故人の父親に殴られるところのグルーヴ感だけ浮いている。理不尽すぎる。

・『地下の井戸』『カニ風呂』…なぜか有名だが、ゴミ。

 「洒落怖」で主に恐怖感を損なうものは、以下の3つだろうか。

①馬鹿みたいなオチをつけるな
 パーティージョークのつもりか?
②漫画みたいな設定・展開はやめろ
 漫画でやれ。
③お前のことなんか誰も興味がない
 どうでもいい話をするな。

 逆に恐怖感を煽るものは、以下の3つだろう。

①自己責任系
 当然、恐怖感を覚えさせるべき主体は読者なのだから、この手法は鉄板だ。
②回避不能
 この意味で(1)超常現象であり、(2)影響は永続的であり、(3)範囲は無制限であることが必要だ。
 (1)「本当に怖いのは人間」は最悪。お前はもう2度と怪談を語るな。
   超常現象だが非現実的であってはならない。この意味で、幻覚、幻聴をはじめ、狂気に侵されることがもっとも適当だろう。
 (2)「ある体験」という、ありがちな語りの形式はこの点においてまずい。影響は現在まで続いていることが望ましい。
 (3)まずは怪異が自宅内、自室内に侵入すること。さらには学校、職場にも現れること。家族や知人にも累が及ぶとなおよい。
③オチがない
 話の現実味が増す。


伊集院光の怪談

・青いクレヨン
 見事な構成。霊感のない男を主役とし、周囲の反応から徐々に恐怖感を煽る。そして、男がノイローゼになるという急展開だ。不動産屋の友人の忠告に対する反応の、ギスギスとした緊張感と現実味がすばらしい。そしてオチは視覚的で印象的だ。

・タカフミ
 導入部のノスタルジックな語りからの転調。罪悪感を煽り、恐怖感を増す演出。説話そのものの真実味(超常現象の要素はまったくない)。そして、「サトウタカフミ」という具体的な名前の喚起力。名編だ。

・引越し
 「泣けるリアルホラー」のような感動系じみた道具立てからホラーへの転調。引越しを手伝う友人たちの反応も迫真でよい。

・豚女
 コメディじみた道具立てからホラーへの転調。

・赤いハイヒールの女
 物語そのものは単純なのだが、どうしても証明写真を撮らなければならないという舞台設定の説得力と、そのための恐怖感がすばらしい。

○『ひぐらしのなく頃に 問題編』

 『鬼隠し編』はかなり怖い。ギャグからの転調。ギャグから感動系への転調はkeyのお家芸だが、竜騎士07はそれをホラーに応用した。因循たる山村で孤立し、友人たちの行動に殺意が見え隠れする。
 『綿流し編』は演出意図が見透いていてそこまでではない。残る2編はそもそもホラー要素があまりない。『解答編』もホラーではない。

○映画・小説

白石晃士の監督作品

・『オカルト』
 傑作。通り魔事件のドキュメンタリーが、テロリストの物語へと転調する。しかも怖い。恐怖感を煽るのは、テロリストが通りすがりの狂人に「地獄に落ちるぞ!」と攻撃され、むしろ撮影者とテロリストは啓示として喜ぶのだが、映画の終わりでその言葉が真実だったとわかること。テロリストは多くの通行人を道連れに自爆テロに成功し、いわばこの世界からエクソダスするが、その行先は地獄だった。世界に不満があっても道連れでテロを起こすのはやめようと思わせてくれる

・『コワすぎ!』シリーズ
 第2作は、やはり転調の話法を使っているが、かなり怖い。当事者が空中で消失し、しかも、その行方はわからない。第3作のカッパ編は、ギャグらしい描写が多いが、当事者がカッパに変容してしまうというオチは、低予算のVFXにもかかわらずかなり怖い。シリーズはホラーとしての性格をどんどん失ってゆくが、劇場版はレギュラーメンバーたちが「地獄」というべき場所(『オカルト』と同じ)に落ちるというオチで、かなり怖い。この「地獄」は低予算のSFXによるものだが、こうした安っぽく不条理な空間が、「地獄」と言うべきものにもっとも近いのではないかと思う。

・『カルト』『ある優しき殺人者の記録』…怖くないが面白い。『カルト』の霊能力者が3段階で登場するスリップストリームな話法は、『キマイラの新しい城』の探偵役が3段階で登場する話法に影響を受けていると思うのだが、どうだろう。

 以下、他作品。

・『放送禁止』
 第2作以降はバラエティだが、第1作はかなり怖い。ただ、第1作の作品内で超常現象が起こり、そもそも作品そのものが偽造されたもので事件性を有するという構成は、いかようにも解釈できてしまうため、その作風を続けることはできなかっただろう。

・『リング』
 原作は仏文学科卒の著者がいろいろと文学的な工夫をしているが、再帰的な自己複製というアイディアを限界まで切りつめた映画版の脚本の方がはるかに好きだ。何事もムダはないに如くはない。加えて、原作のSF的な説明はあまりに疑似科学的で鼻白む。
 原作にせよ映画版にせよ、怖くはない。

・『呪怨
 説話的な要素を全面的に放棄した実験作。文芸的すぎるとやたらと高尚で怖くないが、説話的な要素がなさすぎるとギャグ的で怖くないという二律背反の問題がある。しばしばネタにされるとおり、気乗りせずに観ると延々と馬鹿馬鹿しい絵面を見せられることになる。

・『残穢
 説話はかなり面白い。やや不気味。が、怖くはない。
 怖いのは「怪談を収集すると実際に怪異が発生するからやめよう」ということで一同が合意したあとに、小野不由美綾辻行人夫妻に、嬉々として怪談をもってくる平山夢明だけだ。やめようと言っただろうが。
 映画に至っては、退屈なだけ。

・『パラサイト・イヴ
 傑作SF。ただ、スリラー的なだけで、怖くはない。

○ゲーム

・『SIREN』シリーズ
・『零』シリーズ
 操作により没入感をもたらすゲームは、メディアとして特殊すぎるため別論とする。『SIREN』の恐怖感はよく知られるところだ。『零』シリーズはラストの感動的な展開のカタルシスが恐怖感を浄化する。

『天気の子』とミレニアル世代のオタクの文化史・補論:現代日本批評の裏面史

 柄谷行人渡部直己の対談によれば、現在、日本において《批評》というものは消えかかっており、一方で東浩紀が《ゲンロン》で、一方で山城むつみが『すばる』で、その傾向に抵抗しているらしい。

渡部:でも、海外はともかく、僕が学生の頃に日本で一番輝いていたのは、批評家でしたよ。そこは小林秀雄の功績を認めざるを得ない。小林のあとに、吉本・江藤、蓮實・柄谷とつづく。僕がおくてだったせいかもしれませんが、七〇年代は、人文系で一番冴えてるのが批評家だと思っていました。最先端の哲学・思想を語ることから、小説の批評や新人の発掘、あるいは、社会批評や文明批評まで、映画・音楽・美術もふくめいろんなことができるのが批評家である、と。もっとも幅が広くて、しかも、それぞれの専門家よりも鋭くないと、その幅を維持できない。そう思ってました。それが、僕自身をふくめ、段々そうじゃなくなってきて、ついには、今や批評自体が消えかけています。
柄谷:近年、東浩紀とかが「批評」についてしきりにいっていますね。僕にはピンと来ないのですが。
渡部:少なくとも、その「批評」の消滅を食い止めようとはしてますね。「ゲンロン」という名の場所と雑誌を作り、ネットもフル活用して、いろいろな書き手を集め、読み手を開拓し、さまざまな企画を作る。その一環として、まさに今いった『近代日本の批評』に倣って、一九七五年から二〇一六年までの日本の批評の総ざらいを、市川真人、大澤聡、福島亮大といった人たちと連続的に討議していました。佐々木敦なども参加している。批評作品個々の重要度を活字の大きさで一目瞭然たらしめるという露骨な年表まで作って(笑)。……
……
渡部:討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。東浩紀一個人にかんしては、こんな言い方は失礼かも知れませんが、『批評空間』でデビューした頃から比べると、ずいぶん「大人」になった感じがしますね。良い傾向だとおもって、僕も時々協力してますが、彼らの議論の中心には柄谷さんがいる。他方に、大澤信亮杉田俊介浜崎洋介という人たちが『すばる』誌を拠点として、この「ゲンロン」に対抗しようとしているようですが、彼らにとっても柄谷さんが淵源。簡単にいうと、かつての小林秀雄の位置に柄谷さんがいるわけです。どちらにも、蓮實重彥の影が薄いのが、個人的には寂しい限りですが、その『すばる』組の言い分を僕なりに敷衍すると、どうやら、柄谷さんがふたりいて、ひとりは理論的な柄谷であり、もうひとりは実存的な柄谷である、と。大きくいえば、「マルクス的柄谷」と「キルケゴール的柄谷」かな。そのマルクス方向は東さんが引き継いで、キルケゴールの方向は山城むつみさんが引き継いでいる、となります。これは、さほど間違った見方ではないとおもいます。東さんは近頃、「観光」といったキーワードで、理論的に批評を構築する。一方の山城さんは、小林秀雄風の実存的な批評をやっている。それで今の若い三十代四十代ぐらいの世代は、東派と山城派にわかれているようですよ。つまり、柄谷さんが持っていたものが枝分れして、表面的に繁茂しているかにみえます(笑)。
柄谷行人・渡部直己対談 起源と成熟、切断をめぐって )

 その意味で、東が《ゲンロン》を創設し、運営してきたことは立派だった。
 しかし、その10年に及ぶ活動の成果は皆無だ。渡部が《討議の方向性や個々の議論にはいくつか疑問を抱きますが、試み自体は評価できます。》という評価で言外に表しているとおり、志大才疏に終わった。
 それはなぜか。

 ただし、関井光男による柄谷へのインタビューで言及されているとおり、東らの思潮は当初から質の低さが懸念されていた。

 関井:それは現実的に無理ですね。人材、スタッフを含めて『批評空間』のようなハイレベルの雑誌を出すことは、状況的に不可能になっていますね。日本以外の人に普遍的に読まれる雑誌を作るのは、生半可な姿勢ではできないですよ。一九三〇年代に北園克衛が『L'ESPRIT NOUVEAU』というフランスでも販売した国際的な詩の雑誌が刊行されたことがありますが、この雑誌はヨーロッパの勉強には役に立たないです。平成一四年に『批評空間』のやりかたを上辺だけ真似た雑誌が出ましたが、これは読むに耐えないですね。『批評空間』が作ったレベルは、よほどのことが起こらない限り、作ることは不可能です。したがって、今、何を考えなければならないかは、ある意味ではっきりしていると思います。ポピュリズムが横行して大衆の欲望の上に胡座をかいている現状では、雑誌メディアを通して知的刺激を受ける環境を作ることは難しくなっています。

柄谷行人編著『近代文学の終り』「イロニーなき終焉」pp.183-4)

 東の批評家としての経歴はジャック・デリダの批判にはじまった。しかし、それは無意味なものだった。なぜなら、デリダの哲学そのものが無意味だからだ。
 デリダは『マルクスの亡霊たち』において、マルクス主義を憑在論(※1)という修辞的な存在論と名指した。その反論の論文集である『Ghostly Demarcations(幽霊的境界画定)』において、フレドリック・ジェイムソンは『Marx's Purloined Letter(マルクスの盗まれた手紙)』で、マルクス主義は体系的な哲学というより方法論、つまり、精神分析のような《unity-of-theory-and-practice(単一の理論と実践)》だと批判する。言うまでもなく、これはルイ・アルチュセールが『マルクスのために』で定式化し、フーコードゥルーズにも影響を与えた、有名なプロブレマティックの理論であり、このマルクス主義についての教科書的知識を踏まえていないだけで、デリダの晩年の著作である本書が、出版されるや否や、幅広い層から論難に晒されたことは当然だと言える(※2)。
 では、なぜデリダはそのような拙作を著したのか。
 これにつき、ジェイムソンは、デリダの後期資本主義への迎合を知的な欠性に帰す。やや専門的な議論になるが、それはデリダが『グラマトロジーについて』でハイデガー存在論記号論をもって再解釈したとき、自身の記号論がすでに存在論と化していることに無自覚だったときに、すでに萌芽していたと言う。

 There is no ‘proper’ way of relating to the dead and the past. It is as though Derrida, in what some call postmodernity, is in the process of diagnosing and denouncing the opposite excess: that of a present that has already triumphantly exorcized all of its ghosts and believes itself to be without a past and without spectrality, late capitalism itself as ontology, the pure presence of the world-market system freed from all the errors of human history and of previous social formations, including the ghost of Marx himself.

 (死者と過去に関係する「正しい」道など存在しない。つまり、まるでデリダポストモダンと呼ばれるもののなかで、対立的で目障りなものを診断し批難しているようだ。すなわち、まさに現在という時代において、あらゆる幽霊と、過去と亡霊は存在しないという信念それ自体、存在論としての後期資本主義それ自体、マルクスの幽霊を含む、人間の歴史の過ちと社会の前駆的形態のもとで形成された世界市場システムの純粋な存在を、誇らしげに厄祓いしたのだ。)
(『Marx's Purloined Letter(マルクスの盗まれた手紙)』)

 東のデリダ記号論への批判も、無限退行のプロセスのように、まったく同じ帰結を迎え、存在論と化した記号論を掲げることとなる。そして、それは後期資本主義の盲信へと展開する。
 東が盲目的に礼賛し、その批評の中心としている概念は《観光》だ。しかし、観光こそ後期資本主義に特有のものに他ならない。
 観光につき、マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルグの銀河系』で《そのためにいわば商業社会の規格製品であるわれわれは、かえってときに観光客として地理的な周辺文化を求めたり、あるいは消費者として芸術のなかに周辺文化を求めたり、いずれにせよ口語的な周辺部へと、ときたま帰還することが可能なのである。》と述べる。
 つまり、観光は近代になってはじめて行われた。そして、マクルーハンが言外に表しているとおり、それは反知性的なものだった。
 蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』でその馬鹿馬鹿しさをこう明晰に表現している。

 人は、捏造された不在と距離に保護され、自分自身と出合うために書く。そこに見出される自分は、つねに変わらぬ自分自身、つまり自己同一性でなければならない。思考し行動する主体を支えるのも、その自己同一性なのだ。旅は、これを崩壊させることがない限りにおいて有効だろう。身近な環境を遠ざかり、異国に暮らしてもなお同じ自分が保たれ、帰郷はその輪郭をなおいっそうきわだたせてもくれよう。だから、完全な異国人へと変容してしまうのでなければ、旅行は、いつでもより確かな自分との遭遇を約束してくれるに違いない。

(『凡庸な芸術家の肖像』)

 無論、しばしば『記号と事件』のエッセイを皮肉っぽく引用されるとおり、ドゥルーズ遊牧民ノマド)の理論を提唱したにもかかわらず、自身は重度の旅行嫌いだ。

 イヴ・K・セジウィックは『男同士の絆』で、『センチメンタル・ジャーニー』を題材に、観光旅行というものの知的劣等をこう指摘している。

 こんなにまで欲望を孕んだ、魅惑的で、一面的な社会地図を、これほど強い説得力をもってこの小説が提示することができるのは、おそらく『センチメンタル・ジャーニー』が定義すれば旅行小説だという事実と関係があろう。イギリス人(今世紀ならアメリカ人)が――特に貧しい地域や国へ――観光旅行するのは、幻想が欲求するままに、社会全体を自分のものにして脚色することができるからである。これは、性的な幻想についてはおそらく特に当てはまるだろう。(『男同士の絆』)

 なお、セジウィックは『センチメンタル・ジャーニー』につき、主人公が周囲の女性や労働者階級をもって形成する、核家族的な「家族」を、資産を持たない中産階級知識人が、自身の欲望と性的幻想を満たすために現実を偽装する醜悪なものだと分析するが、これは東浩紀自画自賛する「疑似家族」そのものだ。

 さて、観光の馬鹿馬鹿しさの好例は京都だ。
 京都国際観光大使や、政府の諮問委員会を歴任したデービッド・アキンソンは著書で京都の観光政策を激しく批判している。いわく、観光招致の資料やガイドブックのイメージ写真はほぼすべて花見小路の南側のもので、つねに同じ数軒の町家を京都の街並みとして紹介している。だが、京都でそのような景観の場所は他になく、現実は東京と大差ない。アキンソンはこれを「詐欺」とまで呼称している。
 アキンソンが比較対象とするのはヴェネツィアだが、『世界史』の著者であるウィリアム・H・マクニールが『ヴェネツィア』で言うところは《快楽の都としての、そして観光地としての都市の役割は、文化的な中心、灯台としてのかつての機能の残光だった。》だ。カントがその経歴の初期で問題化した《尊厳》とは、こういうものだっただろう。観光地とは、もっとも尊厳を欠いた場所のことだ。
 いわゆるライト文芸において、頻繁に京都が舞台になるのは偶然ではない。京都のイメージこそ、知的な欠性にもとづく資本主義リアリズムの表れの好例だ。
 ただし、法月綸太郎麻耶雄嵩などの京都大学推理小説研究会を出自とする新本格推理小説の第1世代は、有名なロラン・バルトの日本論を踏まえつつ、こうした京都の空疎さを前景化している。不安は現在の若手作家だ。
 大林宣彦は『転校生』であえて広島の観光地ではなく、下町でロケーションをおこなったが、細田守は『時をかける少女』でこの真逆をおこない、その知的劣等は彼の作品の全編を貫いている。

 また、東の執着するドストエフスキーと疑似家族も同様のものだ。
 小森謙一郎は『デリダの政治経済学』で、デリダが『弔鐘』でヘーゲルアンティゴネーへの執着に共感していることを指摘する。それは、アンティゴネーの兄への愛情が、《欲望なき結合》という人倫と家族の同一化を象徴しているからだ。それは単婚および近親相姦の禁止と不可分のものだ。ハーバーマスヘーゲル法哲学を、市民社会における個人の意思の対立を問題とし、その止揚を主観性の国家との一致においてなそうとしたが、それは主観性を超えたものを仮定し、問題を回避しただけに過ぎないと分析する。この構造が、ドゥルーズが『差異と反復』で批判の中心とする悪しきヘーゲル主義だ。上述したデリダ記号論は、悪しきヘーゲル主義の典型だ。同様に、東の記号論も悪しきヘーゲル主義だった。『差異と反復』で、ドゥルーズヘーゲル主義を資本主義の亡霊と等置している。
 東のドストエフスキーと疑似家族は、デリダにおけるアンティゴネーと同じだ(※3)。
 田中ロミオの『家族計画』(※別名義)は疑似家族モノの名作とされるが、じつは、いずれのルートでも疑似家族の試み《相互扶助計画「家族計画」》は挫折する。このことは、エロゲーシナリオライターのなかでもマルクス主義的な傾向の強い田中ロミオの作品として、特筆すべきだ。
 われわれは疑似家族を賛美するより、『腐り姫』の簸川樹里、『鬼哭街』の孔瑞麗といった実妹とのセックスを推奨すべきだろう。この両作は、ソフ倫の規制で近親相姦が禁止条項だった時期に発売された。

 蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』は、デリダに関する解説がフーコードゥルーズに対して紙幅が多いが、その余分はすべてデリダの『グラマトロジーについて』とデリダの追従者への批判に割かれている。そして東の言説は、蓮實重彦が蒙昧主義として予見したまさにその通りのものだった。

”しかし、一つの危惧が、ある確信とともに語り終ろうとするものの筆を重くする。ある確信、それは、『グラマトロジーについて』が、しばしばそう考えられているように、断じて「現前」の「形而上学」批判の書物ではないという確信である。「ルソーの時代」が「書物の時代」と入れ子状に嵌入しあい、そこに浮きあがる言葉の模様へと二重化された「レクチュール」が投げかけられるとき、そのつど、内部の言葉はかつてない鮮明な輪郭におさまり、豊かな語らいの場を獲得してゆく。「現前」の「形而上学」は、崩壊に瀕するどころか、自分とは無縁と思われていた領域に願ってもない支えを発見する。そこでソシュールの(、)「差異」はルソーの(、)「代補」と手をたずさえることによって、より強固に内部の叙事詩を組織することができる。たしかに、そこには錯覚と、誤謬と、捏造とが指摘されているし、叙事詩がその説話的饒舌をかすめとられるはずの条件までが標定されてはいる。しかし、そうした危険の予告によって、叙事詩は、そっくりそのまま救われてしまったのではないか。というより、さらに確実な地盤へと向けて、欲望の磁場を移動させることになりはしないか。「ディフェランス」を語り「代補」を語りながら、デリダは「現前」の「形而上学」なるものを、それなりにそして誰にもましてみごとなやり方で顕揚することになりはしまいか。「書物の時代」はフェルディナン・ド・ソシュールの思考を、より刺激的なものに再編成してはいないか。「ルソーの時代」はジャン=ジャックの思考を、より広大な展望へと向けて解放していはしまいか。そして、「代補」の「代補」的連鎖が豊かなものとなればなるほど、叙事詩はそれじたいとして刺激的な言葉を生きはじめはしないか。その未来が確かな展望のもとに開かれたというのではないにしても、本来が過去の物語であったはずの叙事詩は、みずから内部の閉域での出来事へと注ぐべき視線を、かつてなく透明なものとしてしまったことにならないか。これまで見えてはいなかった細部が、未知の鮮明な輪郭を獲得して視界に浮上し、人を抗いがたい魅力によって閉域へとつなぎとめ、二重化さるべき「レクチュール」をいたるところで崩壊させはしまいか。通俗化こそが、透明性にいたる唯一のみちだとする叙事詩的錯覚が、戦略を一つの自然として改めて制度化しはしまいか。そして、その結果、内部の言葉が、ある瞬間から、叙事詩的ファシスムといったものに転化することはないか。「代補」の連鎖がその狂暴な死への傾斜をちょっとでも弱めるとき、叙事詩は誇らしげに蘇生するのではないか。
そして、「現前」の「形而上学」批判などと口にする人に限って、「代補」の「代補」的連鎖をあっさり虚構化して叙事詩的ファシスムに加担してしまうのだ。”(太字は引用者)

 では、なぜ東はフーコードゥルーズの研究から経歴をはじめることもできたにもかかわらず、デリダを選択したのだろうか。
 考えられることは、まず、単位不足で法学部を諦め、教養学部への進学を選択せざるを得なかった劣等生にとって、比較的簡単なデリダの研究が手頃だったということだ。
 そうでなければ、後期資本主義が進展するなかで、それと親和的なデリダの研究が大学卒業後の進路にとって有利だったということだ。
 しかし、初期の東の態度は論争的で、そうした妥協的な動機は考えにくい(※4)。
 選択の理由は意外なところから伺える。初期の著作である『動物化するポストモダン』だ。
 いまではこの著作はアキバ系サブカルチャーの粗略な概括に、安易なポストモダニズム論を接木しただけで、ほぼ内容のないことが知られている。しかし、この著作の末尾における捻転が、東浩紀の思想の始点を明らかにする。
 この著作は末尾において、そこまでの論旨から飛躍して『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』を熱賛して終わる。
 その理由は、東が前段で批判するエロゲーのルート分岐を『YU-NO』が超克しているからというものだ。
 その批判は以下のとおりだ。

 作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾だと感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。

(『動物化するポストモダン』)

 このエロゲーのルート分岐の不真面目さに対する批判は理解できないでもないが、それに対し、『YU-NO』を称賛するのは論旨が一貫していない。これは明確にポストモダニズム論から逸脱している。デリダは『散種』で《テクストの外部はない》という公準を掲げ、これにもとづけば、『YU-NO』と他のエロゲーに差異を見出すことはできない。
 東もそのことに自覚的なのか、その箇所の文章は修辞的で、非論理的なものとなっている。

 ドラマの消費とシステムの消費のこの二層化は、コンピュータ・ゲームの前提となる条件であり、この作品も決してそれを逃れているわけではない。しかしとはいえ、『YU-NO』が、そのような条件のなかにいながら、同時にその条件の自覚を目指したアクロバティックな試みであり、きわめて重要な作品であることは疑いない。

(同上)

 この文章を論理的なものに修正すれば、《…その条件に自覚的であり、その意味で歴史的な意義をもつことは疑いない。》となるだろうか。
 さて、東の前段の批判は、当時のアキバ系サブカルチャーにおいて流行していた言説を、そうした俗語を使わずに解説したものだ。つまり、《kanon問題》だ。
 本書における東のエロゲーに関する文章には、哲学の素養を身につけ、自負心を得たオタク青年の、他のオタクたちに対する「なぜお前たちは《kanon問題》に無自覚なのか」という義憤が充溢している。つまり、『YU-NO』への異様なまでの熱賛の理由は、「本作は《kanon問題》を解決している」ということに尽きる。東は『kanon』におけるあるヒロインが、他のルートでは救済されないことに苦悩と義憤をおぼえていたのだ。それが、あゆか、名雪か、真琴か、舞か、栞かは知らないが。
 そもそも《kanon問題》はそこまで論争的なものではない。『kanon』はいわゆる泣きゲーの元祖と呼ばれる。しかし、各ヒロインのルートでは後半に悲劇が起きるが、幼なじみである名雪だけは特別な背景がないため、母親の秋子が何の脈絡もなく、いきなり交通事故に遭って意識不明に陥る。これはもう泣けるというより、ギャグだ。『kanon』の中心となるヒロインは明確にあゆであり、あゆのルートと他のヒロインのルートが衝突するのは、ただ制作スタッフが深く考えていなかったからでしかない。例えば、栞は死病に冒されていて、余命の期限を目前にしている。せめて思い出がほしいとして、病気のことは意識せず、主人公と恋人として振舞う。そして、余命の期限を迎えるが、「やっぱり死にたくない。こんな思いをするなら、思い出なんかいらなかった」と悲痛な叫びをあげる。たしかに泣けるが、とても文芸的に優れているとは言えない。
 『kanon』において世評となった《感動》はkeyの商業主義と結合し、『CLANNAD』で頂点に達する。ヒロインが娘を残して死ぬ。ギャグだ(※5)。
 『kannon』を構成するのは、ヌルいギャグ、幼稚なヒロイン、見透いた構成であり、これは商業主義ときわめて親和的だった。とくにkeyの作品に特有の幼稚なヒロインはたびたび批判されてきて、いまさらくり返すまでもないが、特筆すべきはシナリオライターが年齢相応な少女を書くこともできたということだろう。じつは、ヒロインの5人中3人は、特殊な事情で精神年齢が小学校低学年でとまっている。有名なあゆの「ボク」という一人称もそのためのものだ。にもかかわらず、言うまでもなく、もともとの製品では主人公とセックスしている。ヤバい。そうしたヤバさが注目されることもなく等閑視されるのも、商業主義に特有のことだ。しかし、特別な背景のない名雪は、ときおり年齢相応な言動をみせる。つまり、シナリオライターがそうした幼稚な性格のヒロインの方が、販売戦略の上で有利だと判断したということだ。実際に、その目論見は成功した。
 また、《kannon問題》は作中で解決できる。エキノコックスだ。
 沢渡真琴はキタキツネが変身した少女だ。肉体は人間のものになっても、キタキツネのままエキノコックスを保菌していることは想像に難くない。水瀬一家がエキノコックスに感染すれば、秋子の交通事故という名雪の悲劇は防ぐことができる。ただし、キツネやイヌの糞便から経口感染するエキノコックスは、潜伏期間が長い。急性で発症するには、糞便を多量に摂取する必要がある。つまり、祐一が真琴のウンコを食いまくればいい。さらに、居候先の水瀬秋子名雪の母子をあらかじめSM調教し、スカトロ趣味で自身のウンコを食わせれば、両者を入院させることができる。無論、そのときは祐一も入院している。『kanon』の舞台は北陸-北海道地方の小都市だが、エキノコックスの治療をおこなうことができるほどの設備を有する医療機関は地方にほとんどないだろう。必然的に、長期の植物状態であるあゆの治療をおこなう医療機関と同じということになる。入院していれば、水瀬一家か祐一が、院内に長期の植物状態である同年代の少女がいることを知ることになる。長期の入院生活で暇をもてあまし、好奇心にかられた祐一がその病室を覗けば、そこにあゆがいる。当然、祐一はそれが町で出会った少女と同一人物であることに気づき、あゆとの記憶が復活する。祐一があゆの名前を呼び、その声があゆの脳に刺激を与えれば、昏睡から回復することも可能だ。これであゆの悲劇は回避することができる。さらに、そうした先端的な医療設備を有する総合病院に、難病にかかった舞の母親が入院していることは自然だ。舞と病気の母親と合わせて会えば、祐一も、それが幼少期に出会った孤独な少女であることに気づくだろう。そして、舞と時間をかけて対話すれば、自身の創造した幻想である怪物との対決により死亡するという、舞の悲劇は防ぐことができる。また、死病にかかっている栞も同じ病院に入院しているはずだ。偶然が重なっているのではなく、そもそも『kanon』は難病にかかったり、交通事故に遭ったり、そうでなければ、そうした縁者をもつ登場人物の割合が高すぎるのだ。香織は名雪の見舞いに訪れざるを得ず、そこで栞と対面することを強いられるだろう。栞の死病は解決が難しいと思われるかもしれないが、その病名につき、栞は「病名をおぼえたところで意味がない」と言って明かすことを拒否している。これは作劇の都合でもあるが、きわめて奇妙な台詞だ。病気は治るものと治らないものがあり、後者だから栞は苦しんでいる。病気を区別する必要がないとしたら、時間がないか、金がないかだ。時間は闘病生活が長期に及ぶことの描写から考えにくい。つまり、費用がないと考えるべきだ。この仮説は、香織の冷めた性格と、妹への頑なな態度とも適合的だ。ここで、祐一はすでに舞を通じて佐佑理と縁故ができており、資金援助をしてもらうことが可能だ。その蓋然性に疑問があるなら、もう佐佑理にもウンコを食わせるなり何なりすればいい。これで、舞の病死という悲劇は防ぐことができる(※6)。なお、エキノコックスの感染により、真琴の正体がキタキツネであることは早々に判明している。エキノコックスの伝染により、大規模な害獣駆除の行われる公算の高いことから、真琴はキツネに戻ったあとも水瀬家で引きとることが無難だろう。これで、祐一と真琴の別離という、真琴の悲劇は回避することができる。まだ《あゆの奇跡》が残っているため、真琴をふたたび人間にするために使ってもよい。しかし、SM調教した水瀬秋子名雪の母子、その他の少女たちとの痴情の縺れを解決するために使った方が無難だろう。
 これは頓智ではない。科学だ。
 しかし、当時、オタク青年だった東はこの《kanon問題》に深刻な葛藤をおぼえた。
 もうお分かりだろう。
 東浩紀と《ゲンロン》の活動のすべては、月宮あゆの亡霊を厄祓いするためのものであり、それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

(※1 どうでもいいが、《hauntology》という現代思想に特有の言葉遊びにつき、《憑在論》という訳語を当てた訳業はすばらしい。)
(※2 ただし、本書はデリダの他の著作がそうであるように、SF的な読みものとしては非常に面白い。)
(※3 余談だが、是枝裕和の『万引き家族』では社会に疎外されたひとびとによる疑似家族が解体して終わる。これは、もともと仮象でしかない近代的な家族制度が無化しただけのことで、何の意味もない。同監督の『誰も知らない』では、育児放棄された兄弟たちと年長の少女が、頓死した末女を空地に埋めて、ふたたび共同生活をはじめるところで終わる。映像では、彼らは画面の外部に去る。唖然とする結末だが、ここで彼らは疑似家族を形成したというより、近代的な家族制度を破壊したと見なすべきだろう。おそらく、このときカンヌ国際映画祭の審査委員長だったクエンティン・タランティーノはこのことに気づいていた。その意味で、『万引き家族』は『誰も知らない』よりはるかに大衆迎合的だ。もっとも、タランティーノケイト・ブランシェットでは、映画批評家として比較する方が酷だというものだが。ただし、『そして父になる』以降の、フジテレビ協賛の是枝の監督作品のなかでは『万引き家族』がもっともいいものであることは疑いがない。しかし、是枝の最良の作品のひとつである『奇跡』は、JR九州の協賛で制作された。)
(※4 なお、結果論として後者の理由により東の選択は奏功する。エルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフは『民主主義の革命』において、唯物論的な観点から、階級の物質性と「真のアイデンティティ」を代表=再現前化(プレゼント)する政治的審級が乖離することを分析した。さらに、経済的再配分を重視する階級の政治の社会的左翼と、言説を重視するアイデンティティ・ポリティクスの文化的左翼は背反することとなる。リリアン・フェダマンの『レスビアンの歴史』によれば、ポリティカル・コレクトとは、もともとフェミニズム運動が発展する過程において、難解きわまるフェミニズム理論を理解できない、新たな運動の参加者のために発案されたものだった。同書によれば、ポリティカル・コレクトはやがて教条主義と化し、運動の分裂をもたらした。つまり、ポリティカル・コレクトの論争点とは、もともとイデオロギーの対立ではなく、知性と反知性との対立だった。後期資本主義とは、大衆の台頭のことだ。スマートフォンの普及率は2003年の0%から10年ほどで80%近くまで急増した。もともと人数で圧倒的多数を占めているルンペン・プロレタリアートが発言権を得れば、俺たち知的に優れたエリートは、ただ黙従する他なくなる。そうした潮流でエリートが選択できる政治思想は、完全な個人主義を物質的に実現する、生産の無人化とベーシック・インカムを掲げる左派加速主義だけだ。)
(※5 「288:エロゲじゃなかったらなんなのよ」「300:>>288 人生…かな?」「304:>>300 うわぁ‥‥」「306:>>300 ( ;∀;)‥‥」「311:>>300 (ノ∀`)」)
(※6 栞が助かるのはあゆが死亡し、臓器提供が間に合ったためという仮説は合理的で魅力的だが、あゆは自身を除くすべてのルートで死亡しているために、それでは他のルートで栞が死亡していることと矛盾する。)

『天気の子』とミレニアル世代のオタクの文化史

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ゼロ年代

 『天気の子』を観た。
 100点満点中の100点満点だった。
 が、脚本は酷い。
 ヒロインの陽菜が明日、誕生日だとわかる。主人公の帆高がプレゼントを用意する。「ああ、明日、悲劇的なことが起こるのだな」と予想すると、そのとおりになる。酷い
 その粗漏さは冲方丁が「改善案」という形で穏当に指摘している。「拳銃が物語から浮いている。どうしても登場させるなら、その拳銃で天気の龍を撃つなどして活用すべきでは?」。ホントだよ。「手錠が画面の邪魔だ。どうしてもはめるなら、その手錠で帆高と陽菜を繋ぐべきでは?」。ホントだよ
 以下、物語を確認しよう。
 家出少年の帆高は、東京をさまよった末、フリーの雑誌記者の須賀に拾われる。この過程でフリーターの陽菜と知りあい、また、拳銃を拾う(酷い)。須賀や、その姪の夏美とともに日常を過ごす。チンピラに絡まれていた陽菜を助ける。陽菜の金に困っていることと、天候を操作する能力を知り、2人で《晴れ女》の仕事をはじめる。陽菜の弟の凪とも親しくなる。が、天候を操作する能力には代償があった。このままでは陽菜は消えてしまうらしい。しかも、それは異常気象を正常にするための生贄として社会に必要なことらしい。また、陽菜と凪の家庭には児相が、帆高には警察が迫っていた。帆高、陽菜、凪の3人は逃避行をはじめる。その過程で陽菜は能力を使い、ますます消耗する。そして、陽菜は消失する。帆高は捕まる。陽菜をとり戻すため、帆高は警察から逃走する。ここが山場になっている(陽菜が生贄として犠牲になることと、児相と警察が帆高らを捕まえようとすることの関連性が低いため、盛りあげが不自然なものになっている。酷い)。社会の代弁者だった須賀、夏美もここにきて翻意し、帆高を手助けする。凪も駆けつける(盛りあげのためだが、時間的にありえない。明らかな脚本の矛盾。酷い)。そして、世界を代償に、帆高は陽菜をとり戻す。
 ここまでは微妙だ。だが、このあとのラスト5分が素晴らしい。
 3年後、異常気象は続き、東京は水没していた(いくら雨が降っても海面は上昇しない。平均気温が上昇したことの説明を省略しただけだと思うことはできるが、酷い)。保護観察処分が満了し、帆高はふたたび東京に赴いた。須賀たちは世界の変化を「ただの自然現象で受けいれるしかない」「そもそも、個人が世界を変えられるはずがない。おかしな幻想を抱くな」と言い、罪悪感を抱く帆高を慰める。そして、帆高は陽菜と再会する。そのとき、雲間から日射しが差す。陽菜が能力を使っていた。大事な人と再会するときに晴れていてほしいから。そのためだけに、世界を代償にする能力を。帆高は確信する。「ちがう、やっぱりちがう! あのとき、僕は僕たちはたしかに世界を変えたんだ! 僕は選んだんだ、あの人を、この世界を! ここで生きていくことを!」。暗転、エンドロール。
 スタンディングオベーション拍手喝采
 SNSを見たら、観客の半分くらいはこの結末に憤っていた。ウケる。『おやすみシェヘラザード』のコラボ漫画を読むと、試写会の反応もドン引きだったらしい。
 その反応はもっともなものだ。2011年の死者1万5000人、行方不明者2500人を出した東日本大震災から8年しか経っていない。『天気の子』で異常気象による直接の死者は描かれていないが、少なくとも東京が水没したあとは、罹災者のなかに震災関連死と同じ原因の死者が相当数出ているだろう。
 しかし、私の見るかぎり、いわゆるミレニアル世代は『天気の子』に熱狂している。彼らが中高生のときにプレイした2000年代のエロゲーの経験を呼びおこしたらしい。少なくとも私はそうだ。陽菜が登場したあと、夏美が登場したときに「《攻略可能ヒロイン》だ」と思ったし、前半を「《日常パート》だ」と思ったし(私は当時からエロゲーの《日常パート》の冗長さは問題だと思っていた)、陽菜が消えるときに「いつものこととはいえ、エロシーンの前後に重要なイベントを配置するのはシナリオの温度差が激しいのでやめてほしい」と思ったし、クライマックスで帆高が拳銃を構えたときに「《拳銃を撃つ》《拳銃を撃たない》」という選択肢が見えて「《拳銃を撃つ》を選択すると《陽菜トゥルーエンド》、《拳銃を撃たない》を選択すると《陽菜グッドエンド》だな」と漠然と理解した。「1周目では《陽菜トゥルーエンド》には到達できず、誰かのグッドエンドを開放するとタイトル画面が雨から晴れに変わって、《陽菜トゥルーエンド》を開放するとふたたび雨になり、もう変化しない」という言説も「言葉」でなく「心」で理解できたなんなら原作のエロゲーが「2chベストエロゲー」や「萌えゲーアワード」で下位に入賞していた気すらした
 2000年代前半に、アキバ系サブカルチャーで多種多様な意欲作が発表された。こうした作品はのちに《ゼロ年代》と分類されることになる。また、その一部は《セカイ系》と呼ばれた。2000年代はとくにエロゲーの躍進が目立ち、これはCD-ROMのノベルゲームが比較的、初期費用がかからず、有志が起業しやすかったためだと思われる。そして、新海誠もそうしたエロゲーのメーカーであるminoriの映像作家として、その経歴をはじめることになる。
 その後、新海誠は2002年、自主制作映画の『ほしのこえ』で注目を集め、2004年、初の商業映画である『雲の向こう、約束の場所』を発表する。この2作はまさに《セカイ系》だった。
 『天気の子』につき、脚本の粗漏さを論難したが、じつは新海誠の作劇の貧弱さは初めからのものだ。『きみのこえ』は時間論を重視した実存主義を主題として、批評的に高い評価を得た。が、自主制作映画ということで過大評価されているが、30分未満の小品で、主題は高度に文学的だが、その脚本における具体化は単純だ。『雲の向こう、約束の場所』は青春の喪失感を主題としているが、脚本はやはり単純だ。眠りつづける青春時代の恋人を小型飛行機に乗せて、《塔》まで飛行する。そのおかげで恋人は目覚めるが、代償にかつての思い出は失われる。『星を追う子供』はジブリ映画の模作だし、『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』はさらに酷い。なにが酷いかと言えば、つまらない上に気持ち悪かった。『君の名は。』の「男女間の精神転移、精神転移に時間差があったというどんでん返し、それによる救出劇」という筋書きはゲーム『Remember11』の盗用で、そのことは南極観測隊員すら南極で呆れていた
 『天気の子』は個人と社会の対立を主題としているが、児相と警察はつねに無謬で、帆高たちの《子供の理屈》も自明のものとされ、高井刑事の髪型をリーゼントにして深刻さを緩和しているように、その描写はきわめて戯画的だ。帆高たちは一緒にいるために社会と対立するが、べつに陽菜と凪が異なる養親か施設で養育されるとは限らないし、帆高とも会えなくなるわけではない。酷い
 ただ、「妻と死別し、別居する幼い娘のいるフリーの雑誌記者」というステレオタイプなキャラクターである須賀に違和感がなく、夏美が魅力的だったのは意外だった。これは新海誠の過去の監督作品にはないことだった。もっとも、これは演者である小栗旬と本田翼の功績も大きいだろうが。プロの俳優はすごい。しかし、陽菜がじつは年下であることはもっと前倒しで明かした方がよかった。おそらく帆高が自責の念にかられる場面に繋げたかったのだろうが、そうすれば、年上の夏美との対比で、陽菜をはるかに魅力的に描写することができたはずだ。新海誠は処女作から一貫してヒロインを物語の道具立てとしてしか使用していない。おそらく、もともと興味がないのだろう。
 では、なぜミレニアル世代は『天気の子』に熱狂したのか?
 2000年代前半にブームを築いたエロゲーだが、そのために制作コストとユーザーの時間コストは無限に上昇し、2010年代にはシナリオ重視のエロゲーは衰退した。2010年に発売された『WHITE ALBUM2』はエロゲーの代表作だが、プレイ時間が60-80時間ある。おそらく、本作がエロゲーブームの掉尾だった。エロゲーそのものの市場規模も最盛期の2006年の350億円から150億円まで縮小している。2000年代のエロゲーシナリオライターライトノベルやアニメの脚本に転出し、もはや戻らない。また、エロゲーブームはライトノベルや漫画、アニメに類似のジャンルを創造し、それがエロゲーの市場規模の縮小を補填した。そのため、もはや需要は回復しない。
 また、ライトノベルも2000年代の栄華を失った。ライトノベルの市場規模は最盛期の2012年の280億円から160億円まで減少している。書店の売場面積はウェブ小説の書籍化が補填し、こちらは市場規模は増大しつづけ、そのため、もはや需要は回復しない。一方、ウェブ小説は小説投稿サイトの順位制のために、先行作との類似と、短く簡単な構成、半永久的な継続が要求され、2000年代のライトノベルのような挑戦的な作品を書くことはできない。
 つまり、ミレニアル世代における《ゼロ年代》は失われた夢だ。
 また、批評はこれに対して何も応答できなかった。いまでは周知されているとおり、2001年の東浩紀の『動物化するポストモダン』は無内容だった。東浩紀デリダ批判からその経歴をはじめたが、デリダが文学について凡庸なのは蓮實重彦が指摘するとおりだ(『ユリイカ《総特集=蓮實重彦》』)。デリダの『マルクスの亡霊たち』への反論である論文集の『Ghostly Demarcations』において、フレドリック・ジェイムソンはそもそもデリダ記号論は、記号から意味を捨象するだけで無意味なものだったと指摘している。皮肉なことに、そのためにデリダ記号論は後期資本主義ときわめて相性がよかった。東浩紀が《ゲンロン》を創設し、論壇を維持しようと務めたことは立派だった。だが、その成果は皆無だった。デリダ批判にはじまる東浩紀の批評は、デリダ記号論の再演に終わり、無意味だった。60年代の『カイエ・デュ・シネマ』の批評は実作と直結していた。《ゲンロン》の実作がなにかと言えば、『異セカイ系』だ。クソだ。
 木澤佐登志は『ニック・ランドと新反動主義』の末尾で、ポツリとミレニアル世代を主題化している。それは木澤自身がミレニアル世代だからだろう。そして、木澤はミレニアル世代を中心とする新しい思潮のなかで、まるでニーチェが亡霊のように徘徊しているようだと述べる。それは偶然ではなく、加速主義などの新しい思潮が思想的背景とするドゥルーズの思想は、ヘーゲル主義を排撃し、ニーチェを顕揚する『差異と反復』からはじまった。ヘーゲル主義は資本主義の亡霊であり、マルクスニーチェの後継者だ。デリダ記号論は、ただのヘーゲル主義だ。
 『天気の子』のラスト5分の爽快さは、まさにニーチェだ。
 フレドリック・ジェイムソンは『政治的無意識』で、19世紀末のジャック・ロンドンの作品をもって、フィクションが現実から自立したと分析する。『天気の子』のラストに憤る観客は、フィクションと現実の区別がついていない。ドゥルーズガタリとの共著の『アンチ・オイディプス』で、記号から意味を捨象することを《去勢》と呼び、それが人間を資本主義に適合させる方法だと述べた。《去勢》された消費者の群れ、ニーチェの言う畜群。『天気の子』は現実の東京を直写的に描き、それを崩壊させることで、ひとつの世界観を表現した。『天気の子』はフィクションの現実に対する勝利宣言でもある。
 左派加速主義の論者であるマーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』で、マーケティングはリスクを低減させるためのものであり、よって、マーケティングが浸透するとリスクテイカーによる挑戦的な作品はなくなると述べる。『天気の子』の新海誠はまさにリスクテイカーだ(リスクを負ったはいいものの、失敗しそうな気はするが)。挑戦的な作品の代わりにもたらされるのは、鑑賞者に感情を押しつける、扇情的で情緒的な作品だ。ナボコフの言う《クズ(トラッシュ)》。エロゲーのトゥルーエンドは情緒的で単純なグッドエンドではなく、文学性があるからトゥルーエンドと呼ばれる。資本主義リアリズムを相対化する、つまり、資本主義のシステムの外部の想像力をもつこと。フレドリック・ジェイムソンは『未来の考古学』でそのことをSFの特質だと述べた。それこそ文学性だ。また、マーケティングでもっとも重要なのはシリーズ化、IP化であり、物語に見事な結末をつけるトゥルーエンドとは真逆のものだ。丸戸史明は『WHITE ALBUM2』のPS3版の追加シナリオが《かずさグッドエンド》の後日談であることについて、《かずさトゥルーエンド》では物語が完全に決着しているからだと述べている。また、丸戸史明は2012年の『冴えない彼女の育て方』をもってライトノベルに転出し、商業的な成功をおさめたが、本作はいわば《グッドエンド》を所与の結末としてもつものだった。シリーズ作品であることが要求されるライトノベルにおいて、その戦略が最善だと判断したのだろう。数年前から、『ORICON エンタメ・マーケット白書』、『出版指標年俸』、『出版月報』はライトノベルは収益をシリーズ作品の続刊に依存していることを分析している。つまり、エロゲーのトゥルーエンドとは、2つの意味で時代に逆らうものなのだ。

 いまこそ言おうではないか。「フェイスブックに登録し、『テラスハウス』を観ている私大文系卒に、優れた作品を創造できる理由はない」と。
 いま、アキバ系サブカルチャーを1匹の亡霊が徘徊している。《セカイ系》という名の亡霊が。

 以下、2000年代のオタクの文化史を概観する。《ゼロ年代》と深い関係があると思うものは太字に、《セカイ系》と深い関係があると思うものは赤字にした。個人的な直観に依存しているのはご容赦願いたい。言うまでもなく、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という《セカイ系》のよく知られた定義は、《中間項》という言葉の意味すらまちがっており、中学生の作文でしかない。しかし、「《セカイ系》らしさ」というものは明らかに存在する。それを否定するのは、《セカイ系》という定義を自明のものとすることと同様に、反知性的だ。一応、私はこういう傾向を「《セカイ系》らしさ」だと考えている。参考:『《セカイ系》定義論・私論

 

○1979年

・時事:マーガレット・サッチャーがイギリス首相になる。ここから1980年代のサッチャーレーガン、中曽根の新自由主義がはじまる。経済における自由主義と政治における保守主義の融合した新自由主義は、社会を不可逆に変化させた。

・映画:長谷川和彦太陽を盗んだ男…『新世紀エヴァンゲリオン』との直接の影響関係。

○1981年

推理小説島田荘司占星術殺人事件』(1993年までに《御手洗潔》シリーズ全9作を発表)

○1983年

・批評:浅田彰『構造と力』…にはじまる、1980年代前半のニュー・アカデミズムの流行。1990年の『近代日本の批評《昭和篇》』のころには鎮静化していた。

○1984年

・アニメ映画:押井守うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
・SF小説:神林長平戦闘妖精・雪風

○1985年

・小説:村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド…『灰羽連盟』との直接の影響関係。

○1987年

推理小説綾辻行人十角館の殺人』(1992年『黒猫館の殺人』まで《館》シリーズ全6作を発表)

○1988年

推理小説法月綸太郎『密閉教室』

○1989年

推理小説山口雅也『生ける屍の死』
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第3部連載開始(1992年完結)

○1990年

・アニメ映画:押井守機動警察パトレイバー 2 the Movie』
・漫画:藤田和日郎うしおととら』連載開始(1996年完結)
    岩明均寄生獣』連載開始(1995年完結)
・フランス映画:リュック・ベッソンニキータ

○1991年

推理小説麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』
      山口雅也キッド・ピストルズの冒涜』
・映画:北野武あの夏、いちばん静かな海
アメリカ映画:ジョナサン・デミ羊たちの沈黙

○1992年

・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第4部連載開始(1995年完結)
    『金田一少年の事件簿』連載開始(2001年完結)
推理小説有栖川有栖『46番目の密室』(1994年の『ロシア紅茶の謎』から1999年まで《国名》シリーズ全5作を発表)
      法月綸太郎法月綸太郎の冒険』(1999年、2002年に《法月綸太郎》シリーズの短編集を発表)

○1993年

推理小説麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』
      山口雅也『13人目の探偵士』
架空戦記佐藤大輔征途』(1994年完結・全3巻)
・書籍:『完全自殺マニュアル
・映画:北野武ソナチネ

○1994年

推理小説京極夏彦姑獲鳥の夏』(1998年の『塗仏の宴』上下巻まで《百鬼夜行》シリーズ全6作を発表)
      はやみねかおる『そして五人がいなくなる』(2002年の『『ミステリーの館』へ、ようこそ』まで《名探偵夢水清志郎事件ノート》全8作・外伝2作を発表)
      山口雅也『日本殺人事件』…『ニンジャスレイヤー』の元ネタ。
          『ミステリーズ』
・漫画:青山剛昌名探偵コナン』連載開始
アメリカ映画(※):リュック・ベッソン『レオン』

○1995年

・時事:地下鉄サリン事件
    阪神・淡路大震災

・アニメ:庵野秀明新世紀エヴァンゲリオン
・アニメ映画:押井守GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第5部連載開始(1999年完結)
・小説:保坂和志『この人の閾』
アメリカ映画:マイケル・マン『ヒート』
・ラジオ:『伊集院光 深夜の馬鹿力』放送開始

○1996年

・エロゲ:Leaf『雫』『痕』
・アニメ映画:『金田一少年の事件簿
・漫画:福本信行『賭博黙示録カイジ』連載開始(1999年完結)
推理小説森博嗣『すべてがFになる The Perfect Insider』(1998年『有限と微小のパン The Perfect Outsider』までにS&Mシリーズ全10作を発表)…誤記ではなく、本当に3年で全10作を上梓した。その出番をもってはじまる『すべてがFになる』において登場した真賀田四季というキャラクターは、西尾維新、野崎まどなどに強い影響を及ぼす。漫画的でありながら、そのことを巧みに隠蔽した漫画的な《天才》というキャラクター。"「ほら、7だけが孤独でしょう?」"。
      清涼院流水『コズミック 世紀末探偵神話』(1997年『ジョーカー 旧約探偵神話』、1997-9年『カーニバル』、2004年『彩紋家事件』の《JDC》シリーズを発表)
・小説:保坂和志『季節の記憶』
・映画:北野武キッズ・リターン
    青山真治『Helpless』
・イギリス映画:『トレインスポッティング

○1997年

・エロゲ:LeafToHeart
・アニメ:幾原邦彦少女革命ウテナ
・アニメ映画:『劇場版名探偵コナン 時計じかけの摩天楼』(2003年まで、こだま兼嗣監督・古内一成野沢尚)脚本の体制で全7作が発表される)
・漫画:久住昌之谷口ジロー孤独のグルメ
推理小説麻耶雄嵩『メルカトルと美袋のための殺人』
          『鴉』
・ドラマ:『踊る大捜査線
・映画:黒沢清CURE
    堤幸彦金田一少年の事件簿 上海魚人伝説』
・ラジオ:『爆笑問題カーボーイ』放送開始

○1998年

ライトノベル上遠野浩平ブギーポップは笑わない
             ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』上下巻
・エロゲ:key(※)麻枝准『ONE~輝く季節へ~』(※前身)
     LeafWHITE ALBUM
・ゲーム:小島秀夫メタルギアソリッド
・アニメ:カードキャプターさくら(クロウカード編)(1999年完結)…もともと『カードキャプターさくら』は《魔法少女》モノのアイロニーで構成されていた。さくらの衣装はすべて《魔法少女》モノのアニメに触発された手製という設定だ。それが、いわゆる《魔法少女》モノの典型と見なされるのは皮肉と言う他ない。
     Serial experiments lain
・漫画:冨樫義博HUNTER×HUNTER』連載開始
・映画:北野武HANA-BI
    『踊る大捜査線 THE MOVIE

○1999年

・エロゲ:key・麻枝准Kanon
     D.O.・田中ロミオ(※)『加奈~いもうと~』(※別名義)
     ケロQ終ノ空
・アニメ:『カードキャプターさくら』(さくらカード編)(2000年完結)
・アニメ映画:幾原邦彦少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』
       『金田一少年の事件簿2 殺戮のディープブルー』
       『劇場版カードキャプターさくら
・漫画:あずまきよひこあずまんが大王(2002年完結。全4巻)…新装版はクソ。
推理小説殊能将之ハサミ男
・ドラマ:堤幸彦西荻弓絵ケイゾク
・映画:黒沢清『カリスマ』
    是枝裕和ワンダフルライフ
アメリカ映画:ウォシャウスキー兄弟『マトリックス
        デヴィッド・フィンチャーファイト・クラブ

○2000年

・エロゲ:key・麻枝准AIR
     TYPE-MOON奈須きのこ月姫
     ニトロプラス虚淵玄『Phantom-PHANTOM OF INFERNO
・アニメ映画:『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』
・特撮:仮面ライダークウガ
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第6部連載開始(2003年完結)
    氷川へきるぱにぽに』連載開始(2011年完結)
    最終兵器彼女(2001年完結)
推理小説殊能将之『美濃牛』
・ドラマ:堤幸彦TRICK
     『相棒 pre season』(2001年まで全3回)
・映画:青山真治『EUREKA』
    黒沢清『回路』
    堤幸彦ケイゾク/映画』
韓国映画パク・チャヌクJSA』…にはじまる、キム・ギドクパク・チャヌクポン・ジュノら《386世代》を中心とする韓国の映画監督の躍進がはじまる。パク・チャヌクは「なぜ『オールド・ボーイ』を映画化したのか」と尋ねられ、「最高の漫画は『あずまんが大王』と『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』だけど、僕にそれを映画化するだけの実力はないから」と答えるほどアキバ系サブカルチャーに造詣が深い(『パク・チャヌクモンタージュ』)。
アメリカ映画:クリストファー・ノーランメメント
        『アメリカン・サイコ

○2001年

・時事:アメリカ同時多発テロ事件
    ジョージ・W・ブッシュ大統領(第1期)就任。
    第1次小泉内閣の組閣。

ライトノベル秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』(2003年完結。全4巻)
・エロゲ:age『君が望む永遠
     CRAFTWORKさよならを教えて
     D.O.・田中ロミオ(※)『家族計画』(※別名義)
     ニトロプラス虚淵玄吸血殲鬼ヴェドゴニア
     公爵『ジサツのための101の方法』
・ゲーム:巧舟逆転裁判
・アニメ:真下耕一ノワール
・特撮:『仮面ライダーアギト
・漫画:久保帯人BLEACH』連載開始(2016年完結)…『HUNTER×HUNTER』と『BLEACH』の息吹は、2016年連載開始の『鬼滅の刃』を嚆矢として、『呪術廻戦』、『チェンソーマン』という2010年代後半のジャンプにおけるダークな異能バトル漫画のブームを形成する。これらは①無常観、②皮肉な雰囲気、③多少の感傷主義、という共通の特徴をもっていた。
推理小説殊能将之黒い仏
・小説:舞城王太郎煙か土か食い物
    佐藤友哉フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(2002年までに《鏡家サーガ》全3作と『クリスマス・テロル』を発表)
・映画:是枝裕和『DISTANCE』
アメリカ映画:『ドニー・ダーコ

○2002年

ライトノベル西尾維新クビキリサイクル
            『クビシメロマンチスト(2003年の『ヒトクイマジカル』までに《戯言》シリーズ全6作を発表)…多読家である西尾維新がはじめたニーチェ的な主人公の人物造型は、2000年代のライトノベルに猛威をふるうことになる。入間人間渡航など、直接的な影響を受けた作家も多い。
        乙一『GOTH リストカット事件』
・エロゲ:ライアーソフト星空めてお腐り姫
     ニトロプラス虚淵玄鬼哭街
・ノベルゲーム:KID・打越鋼太郎Ever17
        竜騎士07ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編
・ゲーム:巧舟逆転裁判2
     ZUN『東方紅魔郷
・アニメ:灰羽連盟
・アニメ映画:新海誠ほしのこえ
・特撮:『仮面ライダー龍騎
・漫画:『ローゼンメイデン』連載開始(2007年完結)
・小説:村上春樹海辺のカフカ
・ドラマ:堤幸彦TRICK
     『相棒 season1』
・映画:堤幸彦トリック劇場版
    『踊る大捜査線 THE MOVIE2』…面白いことは面白いが、脚本はメチャクチャ。
韓国映画パク・チャヌク復讐者に憐れみを
アメリカ映画:ダグ・リーマンボーン・アイデンティティー

○2003年

ライトノベル谷川流涼宮ハルヒの憂鬱(2004年までに《涼宮ハルヒ》シリーズ全4作を発表)
        西尾維新きみとぼくの壊れた世界
・エロゲ:Flying Shine・田中ロミオCROSS†CHANNEL
     Leaf天使のいない12月
     S.M.L・瀬戸口廉也『CARNIVAL』
     ニトロプラス虚淵玄沙耶の唄
     ライアーソフト星空めておCANNONBALL~ねこねこマシン猛レース!~』
・ゲーム:ZUN『東方妖々夢
・漫画:『デスノート』連載開始(2006年完結)
・小説:保坂和志カンバセイション・ピース
    舞城王太郎阿修羅ガール
・ドラマ:堤幸彦『TRICK3』
     『相棒 season2』(2004年完結。以降、2009年までに全7シリーズを放送)
・映画:黒沢清アカルイミライ
韓国映画パク・チャヌクオールド・ボーイ

○2004年

ライトノベル鎌池和馬とある魔術の禁書目録』(2011年までに第1部全25作を発表)
        奈須きのこ空の境界
        西尾維新新本格魔法少女りすか』(2007年までに全3作を発表)
・エロゲ:key・麻枝准CLANNAD
     TYPE-MOON奈須きのこFate/stay night
     ライアーソフト星空めてお『Forest』
・ノベルゲーム:KID・打越鋼太郎Remember11
        竜騎士07ひぐらしのなく頃に 暇潰し編
・ゲーム:巧舟逆転裁判3
     ZUN『東方永夜抄
・アニメ:『ふたりはプリキュア
     新房昭之魔法少女リリカルなのは』…巧みな映像作家である新房昭之が真面目に監督した作品。続編は監督が変わり、その点でだいぶ劣る。
     真下耕一MADLAX
     『舞-HiME』(2005年完結)
・アニメ映画:押井守イノセンス
       新海誠雲の向こう、約束の場所
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第7部連載開始(2011年完結)
推理小説殊能将之『キマイラの新しい城』
・映画:是枝裕和『誰も知らない』
アメリカ映画:『バタフライ・エフェクト
・イギリス映画:エドガー・ライトショーン・オブ・ザ・デッド

○2005年

・エロゲ:あかべぇそふとつぅ・るーすぼーい『車輪の国、向日葵の少女
     オーバーフロー『School Days
     戯画・丸戸史明パルフェ~ショコラ second brew~』
     ザウス田中ロミオ最果てのイマ
     TYPE-MOON奈須きのこFate/hollow ataraxia
     Le.Chocolat瀬戸口廉也SWAN SONG

     ライアーソフト星空めてお『SEVEN BRIDGE』…未完というべき本作が星空めておライアーソフトでの最後の作品になる。
・アニメ:『ふたりはプリキュア Max Heart
     新房昭之ぱにぽにだっしゅ!
     『舞-乙HiME』(2006年完結)
・漫画:石黒正数それでも町は廻っている』連載開始(2016年完結)
    木多康昭喧嘩商売』連載開始(2010年完結)
    『ライアーゲーム』連載開始(2015年完結)…過度に戯画的な舞台設定と顔芸が定式化する。
    久米田康治さよなら絶望先生』連載開始(2012年完結)
    松井優征魔人探偵脳噛ネウロ』…2007年発売の第11巻の《電人HAL》編のあと、作品のアイロニーは除去され、あまつさえバトル漫画に路線変更される。そして、作者の続編はみるに耐えないものだった。資本主義のバッドトリップ。
推理小説山口雅也『奇偶』
韓国映画パク・チャヌク親切なクムジャさん
アメリカ映画:ダグ・リーマン『Mr.&Mrs.スミス』

○2006年

ライトノベル西尾維新化物語上下巻…西尾維新は『化物語』で2つの革命を起こした。1つは、掛合いだけでライトノベルは成立するということ、もう1つは、ラブコメの超克。"「言っておくけれど阿良々木くん。私は、どうせ最後は二人がくっつくことが見え見えなのに、友達以上恋人未満な生温い展開をだらだらと続けて話数を稼ぐようなラブコメは、大嫌いなのよ」"(第2話)。
        野村美月『"文学少女"と死にたがりの道化』(2008年までに本編全7作を発表)
・エロゲ:あかべぇそふとつぅ・るーすぼーい『車輪の国、悠久の少年少女』
     戯画・丸戸史明この青空に約束を―
・ノベルゲーム:竜騎士07ひぐらしのなく頃に 祭囃し編』…酷かった。
・アニメ:『ふたりはプリキュア Splash Star
     西村純二シムーン
     涼宮ハルヒの憂鬱京都アニメーションの制作した『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』、『けいおん!』の3作は2000年代のアニメーションの代表作となった。しかし、真に実験的と言えるのは山本寛が演出を務めた『涼宮ハルヒの憂鬱』だけであり、『らき☆すた』の放送中に山本寛は退社し、『けいおん!』第2期のときには、その熱気も失われていた。『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるモブ・キャラクターの設定という挑戦的な写実性は、『けいおん!』第2期で転倒し、ファン・コミュニティとの馴れあいに堕落する。その後、京都アニメーションはよくも悪くも牽引役の役目を降り、安定経営の中小企業になる。そして、その『けいおん!』第2期から存在感を発揮しはじめたのが、いま、京都アニメーションで看板を担う山田尚子だった。
・漫画:迫稔雄嘘喰い』連載開始(2018年完結)
・映画:堤幸彦トリック劇場版2
韓国映画パク・チャヌク『サイボーグでも大丈夫』
      ポン・ジュノグエムル-漢江の怪物-』

○2007年

・時事:ドラマ『ハケンの品格』が放送。2001年から2006年の長期に渡る小泉政権のもたらした資本主義のバッドトリップの見本。当時の評論などを読みなおすと、小泉首相の支持率の絶頂期に蓮實重彦が警鐘を鳴らしていて、その冷静さと観察眼に敬服させられる。ちなみに、世間で喧々囂々の批判がなされている安倍首相に対しては、その支持者と批判者を諸共に、蓮實重彦は冷笑して済ませている。おそらく、蓮實重彦安倍晋三のような馬鹿より小泉純一郎の方が、よほどナポレオン的でヒトラー的だったと思っているのだろうが、もっともなことだ。

・エロゲ:OVERDRIVE瀬戸口廉也『キラ☆キラ』
・アニメ:『Yes!プリキュア5
     磯光雄電脳コイル
     『アイドルマスター XENOGLOSSIA』…無印のアニメ『アイドルマスター』はクズ。資本主義のバッドトリップ。
     School Days
     らき☆すた
ライトノベル奈須きのこ『DDD』
・小説:伊藤計劃虐殺器官
    円城塔Self-Reference ENGINE
・映画:青山真治サッド ヴァケイション
    黒沢清『叫』
・イギリス映画:エドガー・ライトホット・ファズ

○2008年

ライトノベル伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがない』…ライトノベルの1つの時代の終わり、あるいは始まり。
・小説:伊藤計劃『ハーモニー』
    舞城王太郎ディスコ探偵水曜日
・映画:黒沢清トウキョウソナタ
アメリカ映画:クリストファー・ノーランダークナイト

○2009年

ライトノベル平坂読僕は友達が少ない』(2011年までに全7作を発表)
・ノベルゲーム:5pb.志倉千代丸(企画)『STEINS;GATE
・アニメ:『フレッシュプリキュア!
     けいおん!
     『とある科学の超電磁砲
韓国映画パク・チャヌク『渇き』
      ポン・ジュノ母なる証明
アメリカ映画:『ゾンビランド

○2010年

・エロゲ:Leaf丸戸史明WHITE ALBUM2(2011年に完結編を発表)…本作をもってエロゲの隆盛は幕を閉じる。
・ノベルゲーム:TYPE-MOON奈須きのこFate/EXTRA
・ゲーム:『ダンガンロンパ
・映画:北野武アウトレイジ
アメリカ映画:マシュー・ヴォーン『キック・アス
・イギリス映画:エドガー・ライトスコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団

○2011年

・時事:東日本大震災
    AKB48ポニーテールとシュシュ』…AKB48そのものの活動開始は2005年だが、本年をもって全国的に認知された。いわゆる《アイドル戦国時代》、資本主義のバッドトリップの始まり。

・アニメ:菱田正和プリティーリズム・オーロラドリーム』(2012年完結)
     幾原邦彦輪るピングドラム
ソーシャルゲーム:『アイドルマスター シンデレラガールズ』…『シンデレラガールズ』のシナリオはクソで、むしろそのことでユーザーが団結感を強めているくらいだが、その泥沼に蓮の花が咲いた。2016年に連載開始する廾之『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』だ。
・漫画:荒木飛呂彦ジョジョリオン』連載開始
・ドラマ:『家政婦のミタ
アメリカ映画:『キャビン』

○2012年

・アニメ:『アイカツ!』(2013年完結)
     菱田正和プリティーリズム・ディアマイフューチャー』(2013年完結)…対象年齢を下げ、そのため方針の混乱があった。
     『戦姫絶唱シンフォギア』…続編から監督が交代し、演出は洗練されたが、作品のシリアスな雰囲気はなくなった。第1作は低予算で、拙い演出も多かったが、エモーションが最高に達した瞬間に幕を下ろす。それはフィクションの理想の1つだ。資本主義のバッドトリップ。
・ノベルゲーム:TYPE-MOON奈須きのこ魔法使いの夜
ライトノベル榎宮佑『ノーゲーム・ノーライフ…いわゆる異世界モノだが、ニーチェ的、近親相姦と《ゼロ年代》の息吹に溢れている。言うまでもなく、ウェブ小説ではない。
・小説:伊藤計劃円城塔屍者の帝国
韓国映画キム・ギドク『嘆きのピエタ

○2013年

・時事:『そして父になる』をもって是枝裕和の監督作品へのフジテレビの協賛がはじまる。結果、是枝裕和の監督作品からアイロニーは軽減することとなる。『万引き家族』が反骨的だなどと、馬鹿らしい話だ。『ワンダフルライフ』は死後、死者のもっともいい記憶を再現して写真にする物語だが、女子高校生がディズニーランドのパレードと言うと、登場人物が「うーん。いままで君くらいの女の子は4人きたけど、みんなディズニーランドのパレードって言うんだよね」と応える。反骨的すぎる。そして、このフジテレビの協賛と商業化の傾向は、他の芸術的な映画監督にも及ぶ。

・アニメ:『ドキドキ!プリキュア
     菱田正和プリティーリズム・レインボーライブ
     『ラブライブ!』…資本主義のバッドトリップだが、気持ちのいいことが難しい。
・ノベルゲーム:TYPE-MOON奈須きのこFate/EXTRA CCC
ソーシャルゲーム:『艦これ』…誰も気づかなかったが、このとき、水面下で革命が起きた。キャラクターごとに異なるイラストレーターに発注し、誰もそのことを咎めなかった。作品としての一貫性、物語性の排除。
韓国映画パク・チャヌクイノセント・ガーデン
      ポン・ジュノ『スノーピア―サー』
・イギリス映画:エドガー・ライト『ワールズ・エンド』…エドガー・ライトのイギリス時代の終わり。同時に、彼の精神史の終わり。

○2014年

・漫画:木多康昭『喧嘩稼業』連載開始
アメリカ映画:ダグ・リーマンオール・ユー・ニード・イズ・キル

○2015年

・時事:又吉直樹の『火花』が芥川賞を受賞。もともと、芥川賞はつねに採算分岐点に立つ純文学の大きな収益源で、文学性と商業性の両面の役割を担う奇妙な賞だった。そのため、はるか以前から芥川賞の文学的な権威は野間文芸新人賞三島由紀夫賞の下位に転落していた(『芥川賞の偏差値』)。が、この年の『火花』の受賞をもって、純文学の商業主義への迎合は明確になった。

・アニメ:幾原邦彦ユリ熊嵐
     『アイドルマスター シンデレラガールズ』(第1期・第2期)
ソーシャルゲームTYPE-MOON奈須きのこFate/Grand Order

○2016年

・漫画:廾之『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』
・ドラマ:『逃げるは恥だが役に立つ
韓国映画キム・ギドクThe NET 網に囚われた男

《セカイ系》定義論・私論

 私はセカイ系が好きだ。
 しかし、いわゆる《セカイ系》という定義に内容のないことはすでに周知されている。これは前島賢の『セカイ系とは何か』が詳しい。
 そもそも、《セカイ系》の定義である《「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という言説じたい、《中間項》という単語の定義をまちがえており、中学生の作文に過ぎない。
 しかし、《セカイ系》らしい作品はたしかに存在する。でなければ、そもそも《セカイ系》という造語が生まれない。そして、私はそれらの作品が大好きなのだ。

 《セカイ系》らしい作品の系列が存在するということは、その特徴を定義できるということだ。
 『セカイ系とは何か』は、最終的に「《セカイ系》を目指した作品が《セカイ系》である」という循環論法で、定義論を棚上げしている。
 ここでは個人的に《セカイ系》らしさというものの定義を試みたい。
 しかし、そうした試みは《セカイ系》と呼ばれる作品の広範さに、ほぼ失敗してきた。
 そのため、まず逆方面のアプローチで「セカイ系らしくない作品と、そのらしくなさの特徴」によって、消極的な定義をおこないたい。

①『機動戦士ガンダム』シリーズ

 少年が巨大ロボットに乗り、戦争の帰趨を決するという筋書き(意味不明だ)の幼稚さは、セカイ系そのものだ。しかし、セカイ系とは真逆のように思える。
 『ガンダム』の荒唐無稽さを指摘するのは、ジェームズ・ボンドの荒唐無稽さを指摘するようなものだ。しかし、その幼稚さゆえに大衆に人気を博し、そのなかでも教育水準の低い人々は「『ガンダム』で国際政治を学んだ」などと言う。哀れなことだ。
 重要なのは、とくにそうした人々が《セカイ系》という言葉を批判的に言いはじめたということだ。そしてセカイ系の嚆矢である『エヴァ』は、『ガンダム』と巨大ロボットへの皮肉がたっぷり詰まっている。
 ここで、ひとつ「大衆性が強いと《セカイ系》らしくない」ということが言えるだろう。

②『少女革命ウテナ

 物語を要約すると、天上ウテナが姫宮アンシーの意識を改革し、それが世界の革命となるというもの。適度な晦渋さもある。また、《世界の果て》という言葉がキーワードになっている。
 が、セカイ系らしくない。
 セカイ系にしては芸術性が高すぎ、前衛的すぎる。そして、その前衛性はフェミニズムが重要な主題である生硬さによるものだ。同監督の『輪るピングドラム』も、寡少な登場人物に対して壮大な展開という、セカイ系らしさを備えるが、前衛性と、地下鉄サリン事件を作品の背景とする社会性があり、やはりセカイ系らしくない。
 ここで、ひとつ「前衛性が強いとセカイ系らしくない」ということが言えるだろう。

③『二重螺旋の悪魔』

 《セカイ系》におおむね共通する「寡少な登場人物に対して壮大な展開」という特徴につき、ハリウッドの大作映画がよく反証に挙げられる。往年のベストセラーである本作は、作者がまさにハリウッドの大作映画を参考にしたと自作解題している。
 主な登場人物は主人公とヒロイン、そして物語の開始直前で死亡した主人公の恋人のみだ。そして、主人公が世界の命運を握る。まさにセカイ系だ。
 が、明らかにセカイ系ではない。
 本作は80%がアクションシーン、20%が科学技術の解説で構成される。
 ここで、ひとつ「純粋な娯楽作品はセカイ系らしくない」ということが言えるだろう。

④『灰羽連盟

 では、セカイ系には文学性、とくに思弁性が必要なのだろうか。あるいは、そうした文学性の強い作品に特有の暗い雰囲気が必要なのだろうか。
 本作は世界から孤絶した片田舎らしい異世界を舞台にして、思春期の少年少女が主人公だ。テーマは骨太で、作品の文学性が強い。
 が、セカイ系らしくはない。
 本作の物語は淡々と進行する。どうやら「娯楽性が弱いとセカイ系らしくない」らしい。
 本作と強い関係にある『Serial experiments lain』も、主人公とヒロインの関係性が世界の命運を決するという文脈においてセカイ系らしいのだが、やはりセカイ系らしくはない。《セカイ系》と呼ぶには『lain』は高踏派すぎる。

 これで、セカイ系の特徴をほぼ言えるだろう。
 「大衆的でなく、前衛的でなく、適度に娯楽性があり、また文学性がある」。

 さらに具体的には、以下のことが言えるだろう。

Ⓐ『STEINS;GATE

 「主人公が大学生だとセカイ系らしくない」。

Ⓑ『魔法少女まどか☆マギカ

 「主人公の意思がはっきりしているとセカイ系らしくない」。ここでは、暁美ほむらを主人公と仮定している。

 以下、上記の特徴を参考に、《セカイ系》と呼ばれる作品を検討する。

①『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

 個人的に『エヴァ』以前のセカイ系の源流だと思うのだが、どうだろう。

 1.芸術性の高い美術。とくに無人の街や廃墟といった背景の題材。
 2.思弁性の強い脚本。
 3.メタ=フィクション性。これは2とも関係する。

 セカイ系らしいではないか。

②『新世紀エヴァンゲリオン

 『エヴァ』に関する百家争鳴の議論の不幸だったことは、そのメッセージ性を問題にしていたことだ。
 第1に、放送直後の侃々諤々の議論があり、これは作品鑑賞の延長だった。第2に、時間をおいてまっとうな批評がなされるはずが、放送直後の余熱が伝播して、作品鑑賞の延長がさらに延長された。
 『エヴァ』は同時期にいくつか放送されたアニメのうちのひとつに過ぎない。放送中は、緒方恵美が『伊集院光 深夜の馬鹿力』のゲストに招かれ、伊集院光緒方恵美をイジリ倒していた。それは最終回の直前だった。そうした事実を忘れた批評は馬鹿げている。

 第1話の導入を確認する。主人公、碇シンジ無人の街に立つ。避難警報。爆風と車両の横転。シンジは基地に連れてゆかれ、訳のわからないまま巨大ロボットに乗ることを命令される。そして、ここまで設定に関する説明はほとんどない。
 面白すぎる
 視聴者に続きを気にならせるために、庵野秀明がどれだけ工夫を重ねたかわかろうというものだ。そして、この設定を小出しにすることでサスペンス性を維持し、視聴者への訴求力を保つストーリーテリングの手法は最終回まで続く。

 仮に、『エヴァ』が第1話から前衛的な映像を展開したとすれば、誰もみなかっただろう。『エヴァ』が人気を博した理由は面白かったということをおいて他にない。
 しかし、馬鹿げたことに、『エヴァ』に関する批評はそうした脚本や映像、美術、音楽をほとんど問題にしてこなかった。そして、彼らが問題にしてきた『エヴァ』のメッセージ性は幼稚なものだった。『エヴァ』のメッセージ性を問題にするのは、『ダークナイト』の《善と悪の対決》を真剣に捉えるのと同じくらい馬鹿げている。

 そして、『エヴァ』についてほとんど問題にされてこなかったことは、「エヴァ』は娯楽作品として面白い」ということだ。

③『ほしのこえ

 むしろセカイ系らしいのは、同監督の『雲の向こう、約束の場所』だろう。
 新海誠の作劇は非常に貧弱だ。そのため、《セカイ系》らしい展開の壮大さに頼った『ほしのこえ』『雲の向こう』以後、新海誠は低迷することになる。他人の脚本家を登用すればいいものを、馬鹿なことだ。

 『君の名は。』の許しがたいのは、「男女の精神転移という設定、じつは精神転移に時間差があったというどんでん返しと、それによる救出劇」というプロットがゲーム『Remember11』を完全に盗用したものであることだ。
 プロットの転用は法的にも道徳的にも問題ないということは理解している。それでも、『Remember11』のファンである私は、本作の流通における不遇と、『君の名は。』の大ヒットの落差をみるたびに、不平等への怒りをおぼえるのだ。

 ともあれ、「ほしのこえ』『雲の向こう』の《セカイ系》らしさで重要なのは、あくまで展開の壮大さ」だということが言える。

④『最終兵器彼女

 『最終兵器彼女』でもっとも面白いのは、それまで普通のラブコメだったにも拘わらず、第2話の終わりで兵器と化したヒロインが降下してきて《最終兵器彼女》という題名が見開きで表示されるところだ。
 残りはクズだ。
 しかも、蛇足にも拘わらず、分厚い単行本で全7巻もある。
 この「メタ=フィクショナルなジャンルスイッチ」が本作の面白さだ。ある種のメタ=フィクション性は設定と展開の壮大さを担保することができるということが言えるだろう。

 ゲーム『ネコっかわいがり!』なども、ジャンルスイッチに力点をおいたセカイ系だ。

⑤『イリヤの空、UFOの夏』

 じつのところ、本作では最終巻の最終章まで世界の命運は問題にならない。あくまで物語の筋書きは、主人公と、軍属の超能力者であるイリヤの逃避行だ。しかも、それまでの物語と最終章はほとんど整合性がない。
 苛酷な逃避行において、イリヤの記憶はどんどん退行してゆき、最終的に主人公の出会いのときまで戻る。そこで、イリヤが最後の記憶を失うと同時に、主人公はイリヤの思いを知る。その哀切さがクライマックスになっている。
 それが最終章ではなんか記憶が戻っている。そして、なんかイリヤが世界の命運を握ることになっている
 最終章を除く筋書きがミリタリーSFとしてリアリスティックなものであることは、前島賢が『セカイ系とは何か』で指摘するとおりだ。
 つまり、本作は「最終章でいきなり《セカイ系》になり、しかも、作者がオチに困った結果でしかない」。その意味で、本作はセカイ系と言いがたい。少なくとも、作者の意図した主題ではない。

⑥『涼宮ハルヒの憂鬱

 いいのか悪いのか、《セカイ系》という言葉が瀰漫した時期の作品で、《「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと》という定義が完全に当てはまる。
 つまるところ、本作は作品の内容からしても、作品の成立した背景からしても、完全な意味で《セカイ系》と言える。

 ともあれ、本作の特徴としていえることは、第1に「面白い」ということだ。そのストーリーテリングの巧みさは、新人賞受賞の講評で強調されている。
 また、そのセカイ系らしさ、《きみとぼく》が《世界》と直結することを担保しているのは、いわゆる青年心理学の、思春期の問題だ。これが、「思春期の少年少女が主人公だとセカイ系らしい」ことの理由ではないだろうか。この青年期に特有の問題を主題とした作品は、文学史おいて19世紀末の「世紀病」にもみることができる。

⑦『ブギーポップ』シリーズ

 じつは題名はミスリーディングで、ブギーポップは物語の終わりに登場して事件を解決するだけだ。そのため、ブギーポップと、そのもうひとつの人格である宮下藤花、その恋人である竹田啓司を主人公ということはできない。つまり、思春期の少年少女が主人公であるということはできない。ただし、ある高校を舞台にした第1巻は、その意味で完全に条件を満たす。
 しかし、シリーズを通してじつにセカイ系らしい。
 「①舞台と登場人物がミニマリズム的で、②世界の危機が問題になり、③さりげない文学性があり、④暗い雰囲気である」という条件を満たせば、かなりセカイ系らしいということが言えるのではないだろうか。秘密結社や超能力が存在すればなおいい。

 思うに、セカイ系とは「設定と展開は壮大であった方が娯楽性においていい」という一方、「壮大さは荒唐無稽さになりやすい」という二律背反に対して、「青年心理学やメタ=フィクション性といった文学性でバランスをとろうとする」ものではないだろうか。そうした文学性は作中の物語に対して外在的なもののため、いきおい、物語は大衆性、通俗性に反して前衛的になりやすい。しかし、純文学的ではない。

 また、その二律背反のアンバランスさが目立つとき、よくも悪くも《セカイ系》らしさは際立つだろう。『機動戦艦ナデシコ』がその好例(批判者にとっては悪例)だ。『少女終末旅行』などは、ミニマリズム的な筋書きと、世界観と主題の壮大さは《セカイ系》らしいが、まったくセカイ系らしくない。それは、本作が作品としてバランスがとれているからだ。

 最後に、《セカイ系》と呼ばれる次の作品の紹介をもって、本論を終えたい。

⑧『Angel Beats!

 待ってほしい。読者の諸賢が何を言いたいのかはわかっている。
 本作は、登場人物は魅力に欠け、ギャグはだだ滑りしており、シリアスな場面は寒く、メッセージ性は幼稚だ。そのメッセージ性すらすべて言葉で説明していて、脚本はクソだ。
 だが、私はこの作品が大好きなのだ
 最終回、感動的な劇伴が流れるとともに感動的な台詞で感動的な場面が展開され、もちろん、私はそれを額面どおりに受けとることはできなかったが、制作者の視聴者を感動させようという意気込みには、ささやかな感動をおぼえた。そして、その場面そのものにも、幾分かは心を動かされたのだ。

 《セカイ系》と称される作品は、その誇大妄想的な設定と展開のために、失敗は惨憺たるものになる。
 しかし、私はウェルメイドな成功作よりは、そうした壮大な失敗作を愛したいのだ。ごめん、嘘。本当は失敗作はみたくない。
 だが、いわゆる《空気系》や《なろう系》の、大きな挑戦心はなく、そのため大きな失敗もないが、大きな成功もない作品が大勢を占める現況において、たまには誇大妄想的な蛮勇をもった作品をみたい気持ちにかられるのだ。

『"文学少女"』シリーズの卓越した構成

 

 野村美月の『"文学少女"』シリーズは全7作(全8巻)、本編完結後に出版された外伝が8作(巻数同じ)の構成だ。
 第1巻および第8巻の後書きによると、本作は野村の持込み企画だったらしい。そして、第7巻の後書きによると、全7作の構成は企画の通りだったらしい。
 実際、本作の全7作はシリーズとしてプロットの結構性がきわめて高いものになっている。また、そのための伏線が比類なく機能している。
 『出版指標年報』2018年版、『出版月報』2019年3月号によると、現下のライトノベルは売上の中心を長期シリーズの続刊に依存しているらしい。しかし、そうして所定の結末を持たないことは、シリーズの全体の品質を低下させるのではないだろうか。
 気まぐれで『"文学少女"』シリーズを再読したところ、その構成と伏線の効果というものをあらためて認識した。
 以下、『"文学少女"』シリーズの卓越したプロットを確認することで、その効果をみたい。当然だが、全面的にネタバレしている。

・第1作『“文学少女”と死にたがりの道化

 初巻。じつは単巻としては、書簡の記述者が竹田千愛であるという、作品の中心であるどんでん返しが見透いていること、作中で大きな比重を占める井上心葉の過去の問題が解決せずに終わるという2点の弱点があり、やや訴求力は弱い。
 心葉の過去は、美少女覆面小説家としてデビューし、ベストセラー作家になったものの、それを契機として恋人である朝倉美羽が飛降り自殺をしたというものだ。ただし、自殺はミスディレクションだったことが第3作でわかる。
 ショックにより心葉は断筆し、呆然自失のうちに歳月を過ごしていた。だが、校庭の木の下で本を食べる上級生、天野遠子を目撃したことにより、彼女の後輩として日々、三題噺を書かされることになった。
 千愛の自殺をとめる、遠子の数頁におよぶ演説が本巻の白眉だ。この長台詞は本当に素晴らしい。高校生の当時から太宰治の作品を実際に読んだためか、再読して感動がより強まった気がした。
 イラストレーターは、ライトノベルでは異例の少女漫画の画調かつ透明水彩の塗りの竹岡美穂によるもので、作品との最高の相乗効果を発揮している。『涼宮ハルヒ』シリーズにおけるいとうのいぢ伏見つかさ作品におけるかんざきひろを上回り、作品に対するイラストレーターの選出としては、ライトノベルで最高のものだ。ライトノベルを「イラストの付いた小説」と定義するなら、この担当編集者はライトノベルの制作に当たり、もっともいい仕事をしたと言える。

 書出しはきわめて秀逸だ。天野遠子がバリバリと本を食べながら蘊蓄を垂れている場面で、抜群の訴求力をもち、さらには遠子のキャラクターと作品の雰囲気が伝わる。さらに、すぐに遠子の心葉に対する「君は薄幸の美少年みたいな外見なのに、どうしてそんなに意地悪なの」という主旨の台詞が続く。この冒頭の数頁で簡単的確な人物描写をおこなう手際は見事と言う他ない。

 天野遠子、井上心葉、竹田千愛、姫倉麻貴、脇役として琴吹ななせ、芥川一詩、回想のみにおいて朝倉美羽が登場。
 遠子は新宿の母に「恋愛大殺界中で、7年後の夏に鮭をくわえた熊の前で白いマフラーを巻いた男性と運命の恋に落ちるまで恋愛できない」と占われたため、恋愛には無縁だと宣言する。これで遠子はいわゆるライトノベルのヒロインながら、恋愛要素からはオミットすると、読者にメタ的にわからせる。が、これが伏線。ライトノベルでもっとも優れた伏線だ。
 登場からななせがツンデレしているが、つまり、第1作の時点ですでに当馬でしかなく、その後も当馬としての役割を果たしつづけたことになる。そう考えると同情する。

・第2作『“文学少女”と飢え渇く幽霊

 本シリーズが単巻完結の作品集の外観をとっていた最後の巻だ。その意味で2巻は最短の長さであり、本シリーズの結構性の高さをしめす。
 後書きによると、執筆に苦労したらしいが、そのためか物語の迫力は第1作に勝る。

 櫻井流人、櫻井叶子が登場。この時点で、最終巻の構図が完全に提示されている。この周到なプロットは見事と言う他ない。
 遠子が彼氏がいるとななせに吹聴し、「恋愛大殺界」の伏線を念押しする。

・第3作『“文学少女”と繋がれた愚者

 一詩が本格的に登場する。
 巻末で一詩の書簡の相手が、本巻の登場人物ではなく美羽だったとわかるどんでん返しがおこる。
 そのため、本巻の物語の訴求力は弱化するが、総合的な効果はそれをはるかに上回る。
 このシリーズ全体において、主人公を好きな少女が黒幕として陰謀を巡らせているという構図は、河野裕の『サクラダリセット』シリーズに直接的な影響を与えた。『サクラダリセット』では第2巻において、その巻の物語がサブヒロインの存在と、シリーズ全体に繋がる。
 「恋愛大殺界」の伏線を念押ししている。

・第4作『“文学少女”と穢名の天使

 一応、ななせが主役だ。
 作者が後書きで美羽の登場を引延ばして申訳ないと一言している。
 しかも、末尾に登場してクリスマスプレゼントの栞を食べてしまう遠子に、ななせの存在感が喰われている。
 伏線として、本巻でさりげなく白いマフラーが登場する。

・第5作『“文学少女”と慟哭の巡礼者

 ついに美羽と最終決着をつける。そして、番外編である次巻を挟み、続巻が最終巻となる。冗長のない見事な構成だ。
 屋上での美羽の慟哭と心葉との対峙の場面は素晴らしい。
 巻末で「天野遠子は存在しない」と述べられ、最終巻への期待と緊張が否応なく高まる。

・第6作『“文学少女”と月花を孕く水妖

 心葉の過去の決着がつく第5作と、最終巻であり遠子の物語が明らかになる第7作とのあいだの緩徐楽章。
 前巻で心葉とななせが完全に恋人として成立したため、遠子との関係をふたたび強調する役割もある。
 一応、麻貴が主役と言える。

 巻末に謎の女性が心葉にレモンパイをつくっている未来が描かれる。この女性が遠子かななせか、初読の当時はやきもきした。本巻で遠子の魅力を強調しつつ、料理をつくっているとなるとななせの蓋然性が高い。読者の多くがやきもきしたのではないだろうか。正体はただの妹だ。

・第7作『“文学少女”と神に臨む作家

 最終巻だ。
 本巻の物語である天野家-櫻井家の謎と真実も完成度が高い。また、この物語を通じて作家としての孤独な道か、ささやかな日常の幸福かという二択が示される。
 余談だが、第5作と本作とも、千愛がここまでトリックスターとして活躍していることを再読するまで忘れていた。自由すぎる。

 シリーズ全体の構成として、心葉が作家として再起するかどうか、遠子とななせのどちらを選ぶのかという選択肢が提示される。つまり、ななせは心葉が作家にならない未来の体現者だ。
 また、本巻まで遠子が探偵役を務めてきたが、本巻では心葉が探偵役を務め、遠子を救う。
 心葉は遠子への愛情を自覚し、その思いが小説の執筆へと駆りたてる。完成した、心葉の2番目の小説の題名は『文学少女』だった。
 原稿を書きあげ、遠子のもとに向かう心葉にななせは「その小説、破って」と言う。ななせがシリーズ全体でもっともカッコいい場面だろう。とはいえ、ななせは選ばれないことは第1作から決まっている。
 このあと、心葉はななせの友人の「森ちゃん」に「ななせをバカにするな」と殴られる。再読して「ホントだよ」と思った。初読のときもまったく同じ感想を抱いた。それはともかく、ななせは脇役(ライトノベルにおけるサブヒロイン)のなかで最高のものだろう。

 原稿を一読した遠子は、「この原稿は食べるわけにはいかない」と宣言する。そして、心葉に別れを告げる。遠子の真意を汲んだ心葉は涙ながらに別れを受けいれ、強引にキスをする。この場面はすばらしくロマンチックだ。
 姉であり、母であり、庇護の対象であり、友人であった遠子が恋人になる。
 本シリーズにおいて各巻で書簡体が使われるが、最後の書簡の記述者は遠子だ。この演出はすばらしく感動的だ。
 そこで、心葉との出会いは偶然ではなく、心葉に第2作を書かせるために、あえて本を食べるところをみせて偶然の出会いを装ったこと、そもそも心葉のデビュー作は遠子が落選原稿のなかから見つけだしたもので、その意味で心葉をデビューさせたのは遠子だったことが語られる。
 これほど結構性の高いプロットは、あらゆる小説においてほとんど類をみない。あえて言うなら、ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』だけだろう。このプロットは、小島秀夫の『メタルギアソリッド』のシナリオに直接的な影響を及ぼしている。これらのプロットは、ゴダールが『ゴダール全評論・全発言』第1巻のヒッチコックの評論で、ヒッチコックのプロットは虚構が現実になるものだと述べた評言が当てはまる。
 書簡で遠子は心葉を作家として再起させるため、自身の恋情を殺したことを告白する。また、ここで数巻を跨いだ「恋愛大殺界」の伏線を読者に思いださせる。

 本巻で白いマフラーは遠子-心葉-ななせのあいだを何度も往復するが(デスノートの所有権並みだ)、最終的に心葉の手元にゆく。
 6年後、つまり「恋愛大殺界」の占いから7年後、心葉は作家としての地位を確立していた。真夏に、鮭をくわえた熊のタペストリーの前で、白いマフラーを巻き、新しい担当編集者を迎える。これほど見事な伏線回収は、他に何作もない。

 ライトノベルがあるヒロインを描く小説であると定義するなら、本作はその最高のものだろう。他に比肩しうるのは全4巻の秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』だけだ。本作で主人公はヒロインの伊里野と逃避行をおこなうが、その苛酷さに伊里野の記憶は徐々に退行する。そして、逃避行が終着点に達したとき、伊里野の記憶は主人公との出会いのときに遡り、奇しくもそのときの言葉が愛の告白になる。青春の哀歓をノスタルジーのもとに描いた名作だ。が、そのあとに伊里野の記憶が戻って戦闘機で決戦する余計な1章があり、その蛇足が作品の完成度を損ねている。

 本作は驚くべきことに、本編と同量の番外編がある。ライトノベルでは人気のあるシリーズは長期化する。だが、前述のとおり、そのことはシリーズ全体の品質を下げる。そのジレンマを、本作は本編の完結後に番外編を発表するという形式で解決した。
 野村は最終巻の後書きで、番外編では気の向くままに書くことができると心情を吐露している。最終巻で遠子は自身の恋情を殺したと語るが、それは作者の執筆の姿勢とも一致するだろう。もし、全8巻の区切りで緊張感をもって天野遠子という人物が描かれることがなかったら、彼女はこれほど魅力的なヒロインにはならなかった。
 まさに、本作はライトノベルで最高のものである。