私選:洒落怖・怖い話・ホラー映画

・ホラーの2つの問題

 いわゆるホラーというジャンルには、質によって性格の異なる2種が存在する。これがホラーの第1の問題だ。例えば稲川淳二の怪談と、伊集院光の怪談だ。稲川淳二の怪談はしめやかに怖く、語りにより涼感を得ることができる。伊集院光の怪談はそうではない。恐怖が暴力的なのだ。聴けば神経過敏になり、足萎えし、不眠症にかかることになる。当然、ひとびとはジャンル(原語は「嗜好」というフランス語)としてのホラーは娯楽として楽しむのだから、そこまでの恐怖は求めていない。が、伊集院光のような悪ノリの好きな性格の人間もいるし、私たちも刺激を求め、本気で恐怖感を覚えたくなることがある(そして、愚かしくも後悔する)。「洒落怖」スレなどは、明らかに後者の性格だ。この記事では、求められる恐怖感を後者のものとする。
 第2の問題は、物語がなくても恐怖感が成立することだ。例えば、いわゆる「実録」モノだ。何度かカメラがパンする、そして、最後には謎の人影が写っている。たしかにこれらの映像は怖く、その恐怖感はホラー映画を上回るほどだが、この上なく馬鹿らしい。なぜなら、私たちはそれが100%作りものだと知っているからだ。だから、ホラーには物語としての実質がないと、ただ苛立たしいだけのものになってしまう。しかし、物語としての結構性は、恐怖感を失わせる。この意味で、アメリカ映画のホラーで強く恐怖感を喚起するものはただ1作もない(※)。この記事では恐怖感を優先しつつ、そうした意味で馬鹿げていて、ひとを無気力にさせるものは除外する。

(※ ただし『キャリー』は例外だ。この映画は最後にビックリさせるだけとして、映画通とホラー映画マニアのあいだでは悪名高い。しかし、その驚きにはSFサスペンスからホラーへとジャンルが変わることの作劇の工夫がある。また、恐怖感がなくとも、それは映画の質には関係しない。カーペンターの『マウス・オブ・マッドネス』や、ルチオ・フルチの『ビヨンド』は、まったく怖くないが最高の傑作だ)

○みさき

http://bungoku.jp/grand/2010/0091.html)(『忌録』)
 上記の意味でもっとも怖い。
 まず画像が怖い。いわゆるありがちな不気味な画像だが、それに説話が加わったことで実質が伴う。
 説話も、行方不明事件からはじまり、超常現象を提示し、同時に児童虐待を示唆することで不穏さを演出するとともに、前述の超常現象の「呪い」、「穢れ」というプリミティヴな恐怖感に説話的な(すなわち、因果関係による)強固さを与える。
 文章も洗練されていて、冗筆と言えるのは、中盤でB級映画じみて村民がバタバタと連鎖的に死ぬところだけだ。

◯洒落怖

・リゾートバイト
 長編の有名作。スリリングで非常に面白い。怖さもそこそこある(エンターテイメントとして完成されすぎていることが怖さを減殺している)。

・リアル
 長編の有名作。説話としての完成度は『リゾートバイト』とは比較にならないほど低い。が、『リゾートバイト』より、よほど怖い。不気味な視覚的なイメージが秀逸だ。勇を鼓して怒鳴ったあと、それがネガティヴに作用するところの聴覚的なイメージはさらに優れている(「ドーッシッテ、チッテタ? ……」)。よく言われるように、末文は完全に蛇足。

・裏S区
 文章が酷い。が、その幼稚な文章が恐怖感に作用している。
 いわゆる同和部落の住人に対する「穢れ」のような嫌悪感・恐怖感が物語の根底にある。こうした嫌悪感・恐怖感は文化人類学において古今東西のあらゆる文化に存在するものであり、それに素朴な正義感をみせるのは知的能力に欠き、幼稚としか言えない。そうした素朴な正義感を振るう大衆はどうでもいいが、政治的にそうした感情に対処するなら、ベンサム的な技術的な解決が好適だろう。それはさておき、私たちは文芸にそうした感情を利用しよう。
 死および異界と、同和部落の住人および、その狂者じみた言動が恐怖感を煽る。両者は同根のものだ(ドゥルーズ『差異と反復』)。そして、話者も幻聴を中心として、狂気に蝕まれてゆくこととなる。

・地下のまる穴
 《奇妙な味》の傑作。大好きな話だ。ボルヘスが似た話を絶賛していたらしい。怖くはない。

・危険な好奇心
 説話の力点がわかりにくく、恐怖感をおぼえにくい。ムダに長いという印象しかない。

 以下、短編・中編。

・双眼鏡
 傑作。双眼鏡で自宅から周囲を覗くという、誰にでもある背徳感を伴う経験をもとにしていることがすばらしい。異物に自宅に侵入される恐怖の描写も短く適切で見事だ。なお、見る-見られるの逆転というのは映画の古典的な題材(『裏窓』『欲情』。近作では『イット・フォローズ』)だ。
・巨頭オ
 《奇妙な味》の名品。ギャグすれすれの戯画的な不条理の描写がいい。怖くはない。
・パンドラ(禁后)
 やや不気味。怖さもそこそこ。
・くねくね
 怖くない。だが、その不気味さと、嫌悪感を催す視覚的なイメージは秀逸だ。
・八尺様
 まったく怖くない。それどころか、馬鹿馬鹿しい。なぜ世評で名高いのか理解できない。
・コトリバコ
 漫画的。退屈。
・猿夢
 いわゆる自己責任系の説話。イメージがポップすぎる。下品なスプラッター表現も鼻白ませ、恐怖感を損なう。
・姦姦蛇螺
 漫画的すぎてあまり不気味でない。怖さもあまりない。
・リョウメンスクナ
 やや不気味だが、ネット右翼陰謀論的なオチで完全に鼻白んでしまう。
・リンフォン
 やや不気味。漫画的だが、終末的なイメージはわりと好きだ。
・ヤマノケ
 自分でなく子供が犠牲になるのでは恐怖感が半減する。
・海からやってくるもの
 道具立てが映画的すぎる。
・ビデオメッセージ
 わりと怖い。故人の父親に殴られるところのグルーヴ感だけ浮いている。理不尽すぎる。

・『地下の井戸』『カニ風呂』…なぜか有名だが、ゴミ。

 「洒落怖」で主に恐怖感を損なうものは、以下の3つだろうか。

①馬鹿みたいなオチをつけるな
 パーティージョークのつもりか?
②漫画みたいな設定・展開はやめろ
 漫画でやれ。
③お前のことなんか誰も興味がない
 どうでもいい話をするな。

 逆に恐怖感を煽るものは、以下の3つだろう。

①自己責任系
 当然、恐怖感を覚えさせるべき主体は読者なのだから、この手法は鉄板だ。
②回避不能
 この意味で(1)超常現象であり、(2)影響は永続的であり、(3)範囲は無制限であることが必要だ。
 (1)「本当に怖いのは人間」は最悪。お前はもう2度と怪談を語るな。
   超常現象だが非現実的であってはならない。この意味で、幻覚、幻聴をはじめ、狂気に侵されることがもっとも適当だろう。
 (2)「ある体験」という、ありがちな語りの形式はこの点においてまずい。影響は現在まで続いていることが望ましい。
 (3)まずは怪異が自宅内、自室内に侵入すること。さらには学校、職場にも現れること。家族や知人にも累が及ぶとなおよい。
③オチがない
 話の現実味が増す。


伊集院光の怪談

・青いクレヨン
 見事な構成。霊感のない男を主役とし、周囲の反応から徐々に恐怖感を煽る。そして、男がノイローゼになるという急展開だ。不動産屋の友人の忠告に対する反応の、ギスギスとした緊張感と現実味がすばらしい。そしてオチは視覚的で印象的だ。

・タカフミ
 導入部のノスタルジックな語りからの転調。罪悪感を煽り、恐怖感を増す演出。説話そのものの真実味(超常現象の要素はまったくない)。そして、「サトウタカフミ」という具体的な名前の喚起力。名編だ。

・引越し
 「泣けるリアルホラー」のような感動系じみた道具立てからホラーへの転調。引越しを手伝う友人たちの反応も迫真でよい。

・豚女
 コメディじみた道具立てからホラーへの転調。

・赤いハイヒールの女
 物語そのものは単純なのだが、どうしても証明写真を撮らなければならないという舞台設定の説得力と、そのための恐怖感がすばらしい。

○『ひぐらしのなく頃に 問題編』

 『鬼隠し編』はかなり怖い。ギャグからの転調。ギャグから感動系への転調はkeyのお家芸だが、竜騎士07はそれをホラーに応用した。因循たる山村で孤立し、友人たちの行動に殺意が見え隠れする。
 『綿流し編』は演出意図が見透いていてそこまでではない。残る2編はそもそもホラー要素があまりない。『解答編』もホラーではない。

○映画・小説

白石晃士の監督作品

・『オカルト』
 傑作。通り魔事件のドキュメンタリーが、テロリストの物語へと転調する。しかも怖い。恐怖感を煽るのは、テロリストが通りすがりの狂人に「地獄に落ちるぞ!」と攻撃され、むしろ撮影者とテロリストは啓示として喜ぶのだが、映画の終わりでその言葉が真実だったとわかること。テロリストは多くの通行人を道連れに自爆テロに成功し、いわばこの世界からエクソダスするが、その行先は地獄だった。世界に不満があっても道連れでテロを起こすのはやめようと思わせてくれる

・『コワすぎ!』シリーズ
 第2作は、やはり転調の話法を使っているが、かなり怖い。当事者が空中で消失し、しかも、その行方はわからない。第3作のカッパ編は、ギャグらしい描写が多いが、当事者がカッパに変容してしまうというオチは、低予算のVFXにもかかわらずかなり怖い。シリーズはホラーとしての性格をどんどん失ってゆくが、劇場版はレギュラーメンバーたちが「地獄」というべき場所(『オカルト』と同じ)に落ちるというオチで、かなり怖い。この「地獄」は低予算のSFXによるものだが、こうした安っぽく不条理な空間が、「地獄」と言うべきものにもっとも近いのではないかと思う。

・『カルト』『ある優しき殺人者の記録』…怖くないが面白い。『カルト』の霊能力者が3段階で登場するスリップストリームな話法は、『キマイラの新しい城』の探偵役が3段階で登場する話法に影響を受けていると思うのだが、どうだろう。

 以下、他作品。

・『放送禁止』
 第2作以降はバラエティだが、第1作はかなり怖い。ただ、第1作の作品内で超常現象が起こり、そもそも作品そのものが偽造されたもので事件性を有するという構成は、いかようにも解釈できてしまうため、その作風を続けることはできなかっただろう。

・『リング』
 原作は仏文学科卒の著者がいろいろと文学的な工夫をしているが、再帰的な自己複製というアイディアを限界まで切りつめた映画版の脚本の方がはるかに好きだ。何事もムダはないに如くはない。加えて、原作のSF的な説明はあまりに疑似科学的で鼻白む。
 原作にせよ映画版にせよ、怖くはない。

・『呪怨
 説話的な要素を全面的に放棄した実験作。文芸的すぎるとやたらと高尚で怖くないが、説話的な要素がなさすぎるとギャグ的で怖くないという二律背反の問題がある。しばしばネタにされるとおり、気乗りせずに観ると延々と馬鹿馬鹿しい絵面を見せられることになる。

・『残穢
 説話はかなり面白い。やや不気味。が、怖くはない。
 怖いのは「怪談を収集すると実際に怪異が発生するからやめよう」ということで一同が合意したあとに、小野不由美綾辻行人夫妻に、嬉々として怪談をもってくる平山夢明だけだ。やめようと言っただろうが。
 映画に至っては、退屈なだけ。

・『パラサイト・イヴ
 傑作SF。ただ、スリラー的なだけで、怖くはない。

○ゲーム

・『SIREN』シリーズ
・『零』シリーズ
 操作により没入感をもたらすゲームは、メディアとして特殊すぎるため別論とする。『SIREN』の恐怖感はよく知られるところだ。『零』シリーズはラストの感動的な展開のカタルシスが恐怖感を浄化する。