2022年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

 2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2021/01/06/164228

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035

 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916

 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 

 去年、まさか4年も続けるとは思わなかったと書いたが、5年も続けるとはなおさら思わなかった。というか、去年、記事を書いたときは本当に終わらせるつもりだったが、せっかく毎日びっしりと手書きの日記をつけているから、要録しておく。

 最初のシリーズ記事を書いてから5年だが、今年から30代になり、暗い気持ちになる。もはや30代になれば、生活に大きな変化はなく、また変化を起こしたくもなく、規則正しい日々が続くだけということが分かる。私の几帳面さが、私の人生のすべてを規定している。が、それほど悲観はしていない。私と同様に几帳面な性格で、人生を楽しんでいるひとも多くいるからだ。アバター動画配信者のリゼ・ヘルエスタ皇女や、《リンカーン・ライム》シリーズの連続殺人犯ウォッチメイカー(※)だ。

(※"知ってたか。”几帳面(メティキュラス)”って言葉は、”おびえる”という意味のラテン語”メティキュロサス”から来てるんだ。”、”ウォッチメイカーの善と悪という言葉の定義は、ほかの人々のそれとは違っていた。善は心理的刺激。悪は退屈。善は優美な計画とその完璧な実行。悪は隙だらけの計画あるいは不注意に実行された計画。”(『ウォッチメイカー』))

 

・マンガ

 去年までの記事で既掲の作品の続刊は、原則として省略。

 2021年度の新刊のベストで、百合要素のあるものに熊倉献『ブランクスペース』があるが、百合マンガというほどには百合要素の比重がないため除外。

 さすがに三十路になって、「ユリ-リリィがあるから『忍者と極道』は百合マンガ!」などと言うのは廉恥心がなさすぎる。しかし、『忍者と極道』のユリ-リリィは素晴らしい百合だ。

 選出した作品の数が例年に比べて少ないが、官僚主義的に数合わせすることはしない。

 

1.藤本タツキルックバック

 想像力についての話。つまり、自由意志と物質性についての話でもある。

 導入部における藤野の回想は、直前の描写とわずかに異なっており、物語が主部に入る以前、すでにここで想像力の主題が予示されている。

 分節化、すなわちモンタージュ理論、「偽なるつなぎ(フォ・ラコール)」を活用したコマ割りは『チェンソーマン』と通底する。また、自由意志と物質性の主題もそうだ。『チェンソーマン』ではデンジが認識を広げ、自由意志の裁量を拡大するたび、それが(あえて内外を区分すれば外的な)環境に規定されていることを知り、逆説的に不自由を感じる。デンジにおけるその連鎖の終端がマキマさんで、またマキマさんはその連環を一身に体現している。

 『ルックバック』ではその主題が想像力、具体的には芸術創造として物語化されている。よって、想像力がもたらすものは、きわめてささやかなものだ。

 そもそも、認知科学神経科学的に、想像力はまったく自由ではない。心理実験で空想上の動物を想像させると、ほぼ必ず動物の身体構造の原則に従ったものになる(Ward『Structured Imagination: The Role of Categoly Structure in Examplar Generation.』)。神話の変身譚は近いカテゴリー間で起こり、生物が無生物に変わったりはしない(Kelly, Keil『The more things change…: Metamorphoses and conceptual structure.』)。人間はカテゴリーからその対象について予期し、神話・伝承ではそれが破られるために記憶に残るものになるが、違反が2つ以上のものは決してない。それは、その時点で対象について予期できなくなるからだ。また、存在のカテゴリーの転化がもっとも長期記憶に残りやすく、そのため神話・伝承は変身譚が多く、ヴァリエーションが豊かだ(ボイヤー『神はなぜいるのか?』)。

 ついでに言えば、「想像力は自由だ」などと広言する人々の想像力はおよそ貧困なものだ。そうした人々のうちアキバ系サブカルチャーを趣味とするものはおおむねKey系列、麻枝准系列の作品が好きで、そうした作品は神話・伝承が大好きだ。要言すれば、それらのものは安易で直観的に受けいれやすいからだろう。

 では、そのささやかなもの、自由意志を物質性から分かつものとは何か。カント『判断力批判』はこれを厳密に定義している。

 哲学はあえて2つに区分できる。自然概念と自由概念、自然哲学と道徳哲学、結果の物理的可能性=必然性と意志によって実践的・可能的・必然的、技巧的・実践的と道徳的・実践的。しかし、人間とその意志さえ、自然の動機によって技巧的・実践的規則に従うかぎり、意志(※)も前者の区分に属する(原佑訳、所収『カント全集』第8巻、p.27)。(※快・不快の感情と欲求能力。これに対するものとして、認識能力(ア・プリオリな諸原理、すなわち判断力、理性、悟性))

 そして、完全性、すなわち形式的な客観的合目的性というものは矛盾であり、人間は形式的な主観的合目的性に快・美感を覚え(p.57)、構想力の絶対的な総括は不可能であり、人間は構想力の総括に崇高を感じる(p.143)。

 カントの美学論を、非-実用的な象牙の塔の論考だと思っているひともいるかもしれないが、それは誤解だ。カントはジャンル・フィクションのマニアだ。

 "しかし他方、二つないしはそれ以上の経験的な異質な諸自然法則がそれらの諸自然法則を包括する一つの原理のもとで合一することが発見されると、それはきわめていちじるしい快の、しばしばそのうえ讃嘆の、たとえその対象が十分熟知されていても、やむことのない讃嘆の根拠となる。"(p.49)

 つまり、カントは推理小説のマニアだ。また、ただの諸知覚と普遍的な自然概念=カテゴリーに従う法則との合致は無味乾燥なものだと言い(p.49)、純粋な知性に美感的表象様式はないと言っている(p.165)ことから、推理小説サブジャンルであるパズラーについても造詣が深く、優れたフーダニットについて一家言あることが分かる(ただロジックの手順を増やしただけのフーダニットは、煩雑なばかりでむしろ退屈だ)。

 驚嘆は表象とそれによって与えられた規則と、すでに心にある諸原理が合一しないことの衝撃であり、讃嘆はその疑惑が消滅したにもかかわらず、つねに回帰する驚嘆だ(p.258)。無論、これは幻想的な謎とハウダニット、謎解きのどんでん返しのことだ。

 いわゆる後期クイーン的問題や「操り」問題は、芸術家そのものの問題(芸術によって他人の自由意志を操ることは正当化できるか)にも通じるが、謎解きや芸術による影響がカント主義的なものだということは、その解決になるだろう。

 また、カントは崇高として、大きな数概念というより、大なる単位が尺度として、つまり数系列が短縮されて、構想力に与えられるときのことを例挙する。具体的には、男性の背丈を単位として樹木、樹木を単位として山岳、山岳を単位として地球、地球を単位として太陽系、太陽系を単位として銀河系、銀河系を単位として星雲、星雲を単位としてそれ以上の何か、というものだ(p.144)。つまり、カントはハードSFのマニアでもある。

 さらに、カントは力学的に崇高は恐怖とほぼ等しく、崇高は恐怖と(畏敬ではない)尊敬の合成だと言う。より詳細には、この卓越は人間性を卑下せず、私たちが気遣うもの、すなわち財産、健康、生命などを卑小にし、構想力を高揚させる(p.150)。つまり、カントはホラーのマニアでもある。

 この通り、カントの美学論は学術的に見えて実用的だ。一方、想像力を云々したり、オカルトや神話・伝承を引用したり、一般的には避ける性、暴力、違法薬物を採材したりして粉飾した作品は、難解に見せて安直だ。ナボコフの言う「クズ(トラッシュ)」。

 カントによれば、没情動性、すなわち無感動、粘液質は崇高であり、しばしば理性の適意を伴うために、より崇高、高貴だ。また、情動にも心を活化させるものがあり、絶望や怒りさえ、美感的に崇高だ。対照的に、心を不活化させるものは、高貴ではないが美しい。しかし、以下の通り。

 "後者(の感動)は、それが情動にまで高まるときには、全然何物にも役立ちえない。そうした感動への性癖は感傷癖と呼ばれる。"(p.165)

 つまり、ゴミの情動だ。

 "すべての美的芸術における本質的なものは感覚の実質(魅力ないし感動)にあるのではないのであって、この場合にはたんに享受がめざされており、この享受は何ものをも理念というかたちでは残さず、精神を鈍らせ、その対象に対してしだいに嘔吐をもよおさせ、理性の判断において反目的的なその気分を意識することによって、心をおのれ自身に対して不満ならしめ不機嫌ならしめる。”、”そうした美的芸術を利用するほど、ますますこの気散じを必要とし、かくして、人はおのれをますます無益な、おのれ自身に対してますます不満なものにならしめることになる。”(p.242)

 『ルックバック』の抑制的な筆致も、この美学に即したものだ。

1.町田とし子『交換漫画日記』全2巻

 メタ-フィクション百合マンガ。

 高校生のアイコとユーカがリレー形式でマンガを描いていて、その作中作が作品の合間に挟まるメタ-フィクショナルな形式をとる。第三者の存在によって2人の関係は変わってゆき、それは楽園だった作中作の世界に悪魔が侵入することも意味したのだった…

 アイコはユーカより現実的に物事を見ているが、それはかならずしも有用ではなく、思考は暴力的な方向に行きがちで、また人間の欠点や誤ちを良いものとして捉えることができない。それは作風にも表れ、アイコが担当する部分は物語が暴力的なものになりがちだ。

 アイコが泣きながらページに消しゴムをかけて、「どうして私はこんなものしか描けないんだろう」と独白するところは、不覚にも心が震えてしまった。

 というわけで、こんなひとにオススメ。

①暴力や権謀術数を第一に考えるため、人間関係の葛藤や、いわゆる等身大の苦悩を描いたマンガを読んでもポカンとしてしまう。

カップルの形成や儀礼はセックスのための手続きであり省略できると思っている。

③日常を描いたコメディ漫画やラブコメ漫画より、スラップスティックなギャグ漫画やバトル漫画、ミステリー・ホラー漫画が好き。とくに、ラブコメ漫画を読むと居たたまれなくなる。(もっとも、SNSで「ラブコメ漫画」と呼ばれる作品、「○○さんは○○するようです」といった題名の作品は、ラブロマンスを描いてはいないし、コメディとして笑えもしないし、マンガというよりツイッター漫画だ)

1.なおいまい『ゆりでなる♡えすぽわーる』第3巻

 今年、記事を書くつもりがなかったため、第3巻収録分についても去年の記事で書いてしまっている。

 なおいまいは『コミックビーム』2022年2月号にも読切『乙女ゲームの悪役ライバル女子に転生したので、陰から推し(ヒロイン)を支えたいと思います!(仮)』を掲載。なおいまい先生が商業主義に魂を売ったわけではないので安心してください。

4.谷口菜津子『今夜すきやきだよ

 同居する独身都市生活者たち、いわゆるシェアハウスを通じて現代の文化・風俗を諷刺的に描くエッセイ漫画・エッセイ調のマンガは濫作のきらいがあるが、本作は語りが機知に富んでいて面白かった。

 ネタバレ感想:第1話のオチが「原始時代に生まれたかったな」(大意)で、最終的に問題の解決が「現代人だろ! 話し合え!」という発破で行われるのが、漫画賞の脚本賞ものだ。

5.U-temo『今日はまだフツーになれない

 オフビートなコメディが持味の作者の新作だが、作者がすでに中堅にもかかわらず、圧倒的に瑞々しい。

6.マシーナリーとも子『スシシスターハンター』(パイロット版)

 〈『スリーピー・ホロウ』(ドラマ版)のようなホラー・サスペンス×刑事ドラマ〉+〈『コンスタンティン』や『死霊館』シリーズのようなホラー×肉弾戦アクション〉+百合バディもの+寿司、というオタクが好きなものを全部盛った海鮮丼の「ばくだん」のような作品。ただ具の品数を足しただけでなく、それぞれのネタも一級品(刑事ドラマのキレのいい会話劇、ホラー・アクションの聖別された銃火器、寿司職人シスターと女刑事の凸凹コンビ)。

スシシスターハンター - ジャンプルーキー!

 

・小説

 

 年末にハヤカワ関係で騒動が起きたが、「だから言ったのに」(https://snowwhitelilies.hatenablog.com/?page=1565437141)としか思えない。だいたい、「ソリューション」や「現実での利用」など、ギボンズが学術的なモード1に対するモード2として定義したもので、伝統的な反知性主義だ。予想通りでしかない。

 

1.新名智『虚魚

 精巧な懐中時計のような作品。

 知性派のホラーで実話怪談を題材にしている。

 ただ知的でプロットが巧妙だというだけでなく、怪異に川を紐づける、ホラーに関する底堅さもある(黒沢清だ)。

 実話怪談を主題にしているため、文章は淡白。

 

 ネタバレ感想:「本当は怪異なんてなかった」という知性派のホラーの定番オチを前提にして、そうして怪談を生みだす何物かを発見させる二段オチが見事。除霊シーンの伏線回収も熱い。「カナちゃん」という名前は偽名、創作された名前だが、それが真実になるということで、主題が通奏している。

1.アリスン・モントクレア(訳:山田久美子)『ロンドン謎解き結婚相談所』『王女に捧ぐ身辺調査

 会話文が8割だからコージー・ミステリーと言っていいのだろうが、終戦直後の結婚相談所に関する取材は入念で、堅固な内容がある。機知に富んだ会話も良い。

1.サリー・ルーニー(訳:山崎まどか)『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ

 言葉の持つ支配的な力に抗しつつ、それを操る試み。言葉を剣に置きかえれば、話者のおかれた状況はよく理解できるだろう。通俗的なことを言えば、ミレニアル世代、Z世代を、野次馬根性としか言いようのない風俗的なものへの興味ではなく、総体的に、真に記述している小説だ。

4.劉慈欣『三体Ⅲ 死神永生』上下

 まさか第三部で百合になるとは思わなかった。

 程心と艾AAのことは、はじめ他の登場人物と同じく、大河ドラマ狂言回しとだけ見ていたが、駐機場の場面で痺れた。『三体』で史強が「スパスパ作戦です!」と言いだしたときくらい痺れた。

 ちなみに、劉慈欣は短編『郷村教師』(所収『』)でもこの3つの課題というシチュエーションを使っていて、気に入っているらしい(『郷村教師』について野蛮すぎるという批判をするひともいるかもしれないが("「特異点爆弾、発射!」")、しかし傑作だ)。

 マシーナリーとも子・しげる・池谷の『三体』についての鼎談が面白い(『『三体』三部作が完結したのでマシーナリーとも子と「三体面白かったよね会」をやりました』)(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/05/news163.html)。

 時間の超-人間的なスケールに対し、そのものに一体感を抱くことで個人の卑小さを克服するという結末は、古典作品からハードSFまで伝統的なものだ。

 程心-艾AAの2人で結末を迎えることにならず残念だが、AAや史強はバイプレイヤーとしては活躍しても、人類の代表として生きのこることは一般読者にとって受けいれがたいという作者の計算によるものだろう。無論、明らかに好感の持てない雲天明は、序盤から再登場を予示しつつ、陰の立役者に留まる。代わりに、結末までに生きのこっている人類のうち、辛うじて好感の持てそうな関一帆が男性の代表になる。しかも、宇宙船の隠修士のような科学者だったはずの関が、なんかマッチョな農夫になっている。似たことは国連事務総長のセイについても言え、『三体Ⅱ』では加盟国の順送りで国連事務総長になっただけの冴えないオバサンで、そう見えてキレ者だったセイが、なんか美人だったことになっている。

 三部作を通して性的偏見がときどき悪目立ちするが、これは作風そのものが素朴で野蛮なためだ。現に、結末の手前でも程心-雲天明、AA-関一帆の恋愛関係が明記され、しかし人類の代表として生きのこるのは程と関で、人類と恋愛は明確に分けられている。

5.陸秋槎(訳:稲村文吾)『盟約の少女騎士

 人文主義的な抑制的な筆致。中世ファンタジーを謳っているが、作中の時代設定も近世だ。1400年頃、カロリング風の小文字体が変化したゴート風(ゴシック)書体に対し、印刷術の普及により、人文主義の書体が開発され、この楷書体がローマン体、草書体がイタリック体になった(レイノルズ、ウィルソン『古典の継承者たち』)。

 というわけで、「剣と魔法のファンタジー」らしくはない。それを期待すれば、『ロード・オブ・ザ・リング』を見にいったつもりで、ロベール・ブレッソンの『湖のランスロ』を見るようなことになるだろう。

 しかし、『湖のランスロ』は傑作だ。

 陸秋槎の長編は『元年春之祭』も『雪が白いとき、かつそのときに限り』も読後感が素晴らしかったが、本作も読後感が圧巻だった。

 

 ネタバレ感想:本作のトリック、結尾部で明かされる真実は『黙示録3174年』のものであり、そのため『黙示録3174年』を読んでいれば比較的容易に推理できるが、『黙示録3174年』ではそれが冒頭部で語られ、修道士の神学的懐疑、実存的不安に繋がるのに対し、本作では結尾部で明かされ、主人公である騎士の運命を運命論的に肯定するものになっていて、圧倒的な読後感をもたらしている。具体的には、終盤でのロータの命運と、その上でサラがひとりの騎士としてあることを再確認するところだ。まさに、個人が土地と血の宿命に束縛された封建制の騎士の物語として素晴らしかった。

6.林千早(訳:稲村文吾)『杣径』(所収『日華ミステリーアンソロジー』)

 傑作。逆-『ずっとお城で暮らしてる』というべき物語だが、「黒い森」を舞台にした正統なるゴシックな筆致、「黒い森の小さい家」というハイデガー哲学とその批判による主題、唖然とする大トリックと、かなり印象深い作品だ。

 

7.陸秋槎(訳:稲村文吾)『森とユートピア』(所収『日華ミステリーアンソロジー』)

 ネタバレ感想:ズバリ、叙述トリックなのだが、作中に横溢する近代文学への偏愛(作中で触れられる”あるアメリカ人の書いた小説“は『白鯨』ですね)とその植民地主義批判が、物語およびトリックと融合していて、完成されたものになっている。

 

 公正のために書いておくと、アンソロジーそのものは微妙。

 

・選外

 

・桃野雑派『老虎残夢』:

 中国の通俗小説である武侠小説とのジャンルミックスと言われているが、正確には、それをさらに通俗化した日本の伝奇小説とのジャンルミックス

 功夫の軽功(けいくん)を極めた武侠は、雪面に足跡を残すこともなく、それは「踏雪無痕」と呼ばれる――というナレーションのあとで、雪密室を展開する。アホすぎる(絶賛)。

 とはいえ、竜頭蛇尾で全体としては微妙。月村了衛が選評で主役2人が女性同性愛である意味がないと暴言を放ったが、本作が武侠小説というより、伝奇小説のパロディだということを鑑みれば、実際には、主人公が男性のほうが伝奇小説のパロディとして自然で効果的だったと言いたかったことは明らかだ。さすがに主人公の性別を変えろと言うのは横暴すぎるため迂言したら、意味不明な文言になったのだろう。

 

・逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』:

 良くも悪くもゼロ年代ラノベラノベへの戦記小説の埋込はゼロ年代ラノベの定石で(とくに『飛空士』シリーズ)、ラノベらしくなくして、ラノベ的な日常描写との対比で残虐性を強調するのも、対比的に主題性を強調するのもゼロ年代ラノベの定石。

 

・アニメ

 

 『ゾンビランドサガ』の第2期である『ゾンビランドサガ リベンジ』は残念だった。しかし、『ゾンビランド』に対する『ゾンビランド ダブルタップ』ほどは悪化していなかったと思えば諦めがつく。

 

京極尚彦監督『ラブライブ! スーパースター!!

 『ラブライブ!』シリーズも、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』を除いても5期目で、漫然と見ていたが(しかし撮影はやはり素晴らしい)、第4話の後半で急速に引きこまれた。すみれがセンターの座をめぐり既存のメンバーと衝突、そしてショービジネス云々という建前が崩れ、失意のもと彷徨するすみれに、かのんが名刺を差しだして「あなたをスカウトします」と言い、さらに「センターの座を奪いにきてよ」と言う。正直なところ、花田十輝の脚本でこうした重厚なシナリオが展開するとは思っていなかった。さらに第5-6話で、千砂都の依存と自立というかのんとの対立と緊張を高め、さらにダンス大会という明確な障害を提示したのちに、千砂都があえてダンス大会に出場し、優勝して、かのんと対等の関係を結ぶ。このころにはもう本作に完全に引きこまれていた。

 第7-9話ではなんか急にいつもの花田十輝のガバガバ脚本に戻る。

 

 第10話は圧巻だった。本話で本作の主題がはっきりと前景化される。しかも、予告ではギャグ回に見せるという周到さだ。本話の中核は、ここまででかのん-可可という組合せを強調していたのが、可可-すみれに変わる、いわば可可が「推し変」するというものだ。

 可可は中国人の学歴エリート(中華料理が作れないという下りで、現実的な留学生らしさはとくに明示している)らしい人物造形だが、それなら上海出身より北京出身というほうが自然だ。では、なぜ上海出身なのか。ただ首都を避けたと考えることもできる。だが、可可がオタクであることを考えると、むしろコスモポリタンであり、異邦人(アウトサイダー)という属性として中国人留学生という立場は働いていると言える。顧みれば、それは第1-3話で顕著だ。オタクは個人主義者で、さながら敬虔なキリスト教徒のように、信仰によって逆説的に中間団体を経由せず個我を保つ。

 かのんは穂乃果、千歌に続くオレンジ髪の主人公だ。『ラブライブ』シリーズでは他のキャラクターは志向性(目的と性格)を持ち、そのため目的達成に対する障害が生じ、それを克服する。一方、オレンジ髪の主人公はそれらの登場人物のオーガナイザー、総意の器であり、そのためオレンジ髪の主人公の目的は「ラブライブ優勝」など、つねに高度に観念的なものになる。すなわち、世界が主人公の障害となるのではなく、主人公の動機付けと一体的に世界が構築される。

 オレンジ髪でない主人公である侑は、ソシャゲーの無個性のプレイヤーキャラクター(「あなた」)から作中の登場人物に具体化した時点で、キャラクター性が独立し、音楽の才能を獲得し、自己実現を果たすという志向性を持つ。

 さて、かのんは一見してネガティブ、受身、常識的(やや外ハネのストレートヘアと、上瞼が水平のツリ目というキャラクターデザインに、とくにその人物造形は表れている)と、そうした自己確立の未達成と承認欲求を題材にしているようだが、その主題は第10話ですみれにおいて前景化する。そして、可可がいわばすみれに「推し変」すること、すみれを「推す」ことで、その葛藤は解消する。ここでの可可からすみれへの認知は、単純な好意ではなく、むしろ立場論を離れた、純粋な個人から個人への承認であり、それはオタク的な「推し」と呼べ、前述のアナロジーを敷衍すれば神義論的なものと呼べる。そのため、すみれの名前呼びに対して可可は「そんなことはどうでもいい」と返す。

 では、かのんについてはどうかと言えば、じつは作曲家として不安な自己確立をすでにアイデンティティにしている。付言すれば、その不安な自己確立というアイデンティティは、ジェフリー・アーネットが提起する成人形成期(emerging adulthood)に呼応し、同時代的なものだろう。アーネットによれば、18歳-20代後半の成人形成期は、寿命の伸長と知識集約型社会への移行による新しいライフステージで、21世紀の成人形成期は20世紀の思春期に相当する。成人形成期には自己確立、ナラティヴにより、いわば自分の人生の著者になることが課題となる。

 補論として、他のオレンジ髪の主人公についても確認しておく。穂乃果については論じるまでもないが、千歌については継承を志向している。劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』で、鞠莉は母親からスクールアイドルに何の意味があるのか尋ねられ、当然、観念上のものであるスクールアイドルに本質的な意味はなく、その暫定的な答えは他人が意味を感じていることだ。そして、中盤では千歌たち2年生ではなく1年生が立役者となり、自発的に継承を行う。千歌たち2年生は1年生と3年生の紐帯だ。そのため、千歌は「ゼロから始まった」と言う。これは神義論だ。無論、そのスクールアイドルはいわばホビーアニメにおける〈任意のホビー〉(「政界、財界、〈任意のホビー〉界を支配する巨悪」、「〈任意のホビー〉は人を傷つけるためのものじゃない!」)と同じで、観念的なものだが、そうして無から始まった物語の終わりとして、廃校の門が開いているところを見つけ、校内に侵入することを予期させつつ、その門を閉じる場面は見事だった。

 かのんは第11話で、いかにもナラティヴの手法らしく個人史を再構築する。そして、第12話で不安な自己確立というアイデンティティの根幹に、「ラブライブ優勝」という観念論を据える。これは神義論的なもののため不可謬だ。つまり、第12話でのラブライブ敗退とかのんの目標設定は、ヒトラーの挫折と再起と同じく、独裁者の誕生を描いたものなのだ(ヒトラーは再来ならぬ、高坂穂乃果の再来だ)。

佐藤卓哉監督『裏世界ピクニック

 全体的には原作を1話完結の形式に再構成し、予算規模に見合った手堅いものだった。だが、最終回としてアニメオリジナルで制作された第12話が素晴らしかった。ロングショットを多用し、また穏やかな場面では空魚と鳥子が並ぶバストショットを多く挟み(正座で小桜に叱られているカットが好例だ)、独特の静謐な雰囲気を形成している。そして、後半部を空魚と鳥子の対話に当てる。ここで流れる、ヴォーカルが際立つ挿入歌の『街を抜けて』が素晴らしい。やや彩度を暗くし、いままでの冒険の舞台の空撮を挟むのも終わりの寂寥感を演出している。過度に叙情的でもなく、やや哀愁を滲ませたセンチメンタルな情感が終わりとしてとても良かった。テレビシリーズの最終回というより、テレビゲームのクリア後のような雰囲気だ。『サイレントヒル』シリーズの1作をクリアしたような満足感があった。『街を抜けて』の劇伴には、『サイレントヒル2』のエンディングでサントラ『Promise』が流れたときのような余韻を感じた。

川面真也監督『のんのんびより のんすとっぷ』(第3期)

・京極義昭監督『ゆるキャンΔ SEASON2』(第2期)

 『日経トレンディ』2020年ヒット商品の第1位は『鬼滅の刃』だが、2021年ヒット商品予測の第17位は「『ゆるキャンΔ』第2次ブーム」だ。これはもう『ゆるキャンΔ』が百合アニメの『鬼滅の刃』だと言っていいだろう(ちなみに第5位はコオロギフード)。

・上田繁監督、大知慶一郎脚本『ゲキドル

 久しぶりに謎が謎を呼ぶ展開のアニメを見て、ドーパミンを分泌させることができた。やはりこうしたテレビシリーズ作品は年間1、2本は見たい。適宜、ドーパミンを分泌させることは精神衛生上、重要だし、シャブをやるよりは謎が謎を呼ぶ展開のアニメを見るほうが明らかに健康にいい。

 コメント欄で完全に反証されているが、『結局ゲキドルはどういう作品だったのか』というnote記事は分析が誤っているので参考にしてはならない。『『ゲキドル』全12話解説【伏線・考察】』(https://note.com/rabbitsecuhole/n/nbbbb60ad00c7)というnote記事の分析が、既出のものではもっとも整合性が高い。

・古川知宏監督『劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト

 評価が両義的だ。

 本作の演出は紛れもなくマニエリスティックなものだ。エヴァンズ『魔術の帝国』によれば、マニエリスム芸術は二元的な役割を持ち、それは遊戯的な外見に隠された真剣な形而上学的意図だ(下巻、p.48)。例として、ブリューゲルの特徴は知性優位のマニエリスムで、霊的、形而上学的に捉えられた全体と、細部のリアリズムの結合だ(p.64)。ルドルフ2世の寵を受けたアルチンボルドについては、カウフマン『綺想の帝国』が詳しい。さらに、ボヘミアでは1620年以降、マニエリスムからバロック(※ワイルドスクリ――ンバロックとは無関係)へと移行するが、これは貴族的カトリシズムと社会的リアリズムのイデオロギーというより、霊的・神秘的な要請で知が整序されることによることも付言していいだろう(p.81)。本作では、アルチンボルドの直接的な引用さえある。

 つまり、草野原々と難波優輝との対談で、テレビシリーズ『少女歌劇レヴュースタァライト』について草野原々が資本主義的だと評したが、劇場版についても、マニエリスティックな表現の半面は象徴主義的であり、資本主義的だ。その象徴はキャラクターの役割演技だ。

 しかも、それは遡及的にテレビシリーズでやっておくべきだったという感慨を抱かせるものだ。本作のクライマックスである華恋-ひかりのレヴューも、運命的な運命論という時間SFの自己言及的構造(ループ)による悲劇の形式化、そして、それによる時間SF的改変という、なかなか凝ったプロットだが、それもテレビシリーズで中盤に時間SFの話を挿入して、あとは放置したことの結構性の欠陥を強調してしまっている。

 しかし、そうした象徴主義との乖離が本作の面白さを構成している。

 皆殺しのレヴューでは、ロングショットで地下鉄が変形したのち、銀座の空撮と特殊効果、キリンのナレーションが挟まり、ふたたび地下鉄のシーンにカッティングし、香子ら7人を俯瞰のロングショットで捉え、そののちに劇中の大道具として具象化した照明の逆光のもと、ロングショットで大場ななを写す。さらに、大場ななのクローズアップを挟みつつ、香子ら7人と切返しのカッティングを行う。そして、アクション・シーンの開始とともに、主としてロングショットでドリーによる撮影を行う。そうして大場ななが地下鉄の車両の前部から後部に移動したのち、大場ななと香子が対話し、再度のアクション・シーンで大場ななが車両の前部へと戻る。ここでは2度の超-ロングショットの固定ショット(!)まで挟まるのだ。無論、これには一対多の殺陣を見せる意味合いもある。そして、大場ななが真矢とクロディーヌ以外のあらかたを始末し、本作のアスペクト比シネマスコープであることを利用し、フルショットによる固定ショットで、流れる背景に逆行して大場ななが左方向に歩き、道すがら淳那を屠るさまを映したのち、地下鉄が地上に露出した線路に乗りいれる。舞台背景の転換に加味して、ここで劇伴の『wi(l)d-screen baroque』に大場ななの口の動きが重なる盛りあげの演出も行われる。そして対話のシークエンスのち、地下鉄はふたたび地下に乗りいれ、大場ななは真矢とクロディーヌも始末する。

 さて、その後、淳那は「私たちは未成年」云々と言うが、これは大場なな(と真矢)への不理解を表したものではない。その場合、台詞はただ「何を言っているの」というものになるはずであり、「私たちは未成年」という徹底してズレた応答は、理解していないことを理解していないという二重の不理解を表している。

 そして、こうしたズレが本作のマニエリスティックな演出の面白さを形成している。事実、本作で印象的なシークエンスは、第1は断トツで皆殺しのレヴューであり、第2は怨みのレヴューのデコトラであり、第3は狩りのレヴューの後半で背景の大道具として具象化したバナナが分割しているところのはずだ。

・映画

・ザイダ・バリルート監督『TOVE トーベ

 いじめられっ子顔(マーティン・フリーマンとか)のアルマ・ポウスティが道徳と社会常識が欠如していて、自分にだけ通じる造語で話し、ときおり瞬間的に理性的になるトーベ・ヤンソンを好演している。
 本編を見ると、コンセプトアートの自由奔放といったダンスが劇中ではメチャクチャ悲壮なシーンで笑う。

・ゲーム

・『Fate/Grand Order』2部6章『円卓妖精領域 アヴァロン・ル・フェ 星の生まれる刻』

 "私の國はどうですか? 美しい國でしょうか。夢のような國でしょうか。そうであれば、これに勝る喜びはありません。妖精國ブリテンにようこそ、お客様。どうかこの風景が、いつまでも貴方の記憶に残りますように。"

 文庫本4冊分の分量があり、奈須きのこの完全な新作だと言える。サントラも名曲揃いで、とくに『予言の旅〜妖精円卓領域:巡礼』『トネリコ〜女王モルガン戦〜』が素晴らしい。

 大作化の原因はおそらく主題が反出生主義的なもののためだ。『進撃の巨人』と言い、『デス・ストランディング』と言い、この主題を扱うとストーリーにループものの要素を導入したりして、物語が叙事詩じみてくる傾向があるらしい。

 中心的な概念としては、妖精國がおとぎ話=童話(メルヘン)の国だということだ(奈須きのこは「竹箒日記」で妖精國を"童話世界"と言明)。具体的には、それは子供の国だということになる。

 ピアジェは子供の発達段階を感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期の4つに区分した。これは物理的環境に対する認知機能の発達だ。コールバーグはこれを発展させ、子供の道徳判断の発達段階を6つに区分した。

 前慣習的水準、慣習的水準、後慣習的水準の3つに大別し、それぞれ2段階に区分する。まずは前慣習的水準で、①罰と服従志向:「叱られなければ悪いことをしても良い」 ②道徳的相対主義:「彼は悪人だから彼から盗んでもいい」 次に慣習的水準に進み、③対人的同調・「よい子」志向:「両親や先生に褒められたいから良いことをする」 ④法と秩序の維持:「法律で決まっているからダメなものはダメ」 最後に後慣習的水準に至り、⑤社会契約的遵法:「その規則には合理性がある。だから守る」 ⑥普遍的な倫理的基準:メタ-規則を含め、すべての規則をつねに吟味する。

 道徳的、慣習的規則は生得的なものであり、役割取得し、他者視点を獲得することがなければ、後慣習的水準に至ることはできない。子供とは、生得的な能力だけで動物のままの人間のことだ。

 ホルクハイマー-アドルノは『啓蒙の弁証法』所収の『オデュッセウスあるいは神話と啓蒙』で、ルカーチ『小説の理論』の叙事詩から小説へという分析を発展させる。そして、逆説的に、ユートピアとは童話(メルヘン)が実現された状態だという。

 つまり、妖精國は童話(メルヘン)の国であり、それは子供の王国というアンチ-ユートピアだということだ。ファンのあいだでは「滅びろ妖精國」「妖精はクズ」と言われるが、端的に言えば、妖精が文字通りの子供だということだ。

 しかし同時に、人間はそうした子供、あるいは動物から進化した存在でもある。さらにその階梯を遡れば、生命が物質、あるいは無から発生したところまで行着く。そのため、子供の分析はひとを唯物主義、虚無主義に接近させる。

 キャスター・アルトリアにとって家族・社会はネガティヴな存在でしかなく、かつ、自己肯定感も低いために、それらを改革・打倒しようとする向社会性もない。その結果が「予言の子」で、これを通俗化すれば優等生になる。『進撃の巨人』のジークにおいては「エルディア人の王子」だ。そして、喜びがないにもかかわらず、動物的本能、とくに生存本能による苦痛はあるため、これが性格描写・主題論において反出生主義を暗示し、さらにプロットにおける装置により、それがストーリーにおいて、再生産のシステムとしての家族・社会を包含する、世界そのものの絶滅思想を提示する。

 そして、その絶滅思想は、その当事者(キャスター・アルトリア)と同様の独身都市生活者としての気質をもつ他の登場人物との連帯により否定される(春の記憶。逆に言えば、それ以外にはこの世界に価値はまったく存在しない)。より正確には、否定されるというより延期される。

 また、このように家族・社会に根ざさない、いわゆる原子化された存在だから、キャスター・アルトリアは自分が藤丸立香、あるいはプレイヤーと似たものだと言ったのだろう。このアイデンティティと連帯は藤丸立香、あるいはプレイヤーが現世界のために他の可能世界を絶滅させる生存競争という、第2部全体のストーリーの主題にも関係するだろう。

 なお、ここでは再生産のシステムとしての家族・社会は、そうした経済的に自立し、人格的に成熟した他の登場人物との出会いをもたらすシステムとしてのみ評価されるため、より土俗的・本能的な家族・社会そのものは無視される。

 この反出生主義・絶滅思想の遷延策・延命処置はメリュジーヌとオーロラの下りで明確にされる。徹底した自己愛と、利他心という利己心すらない利他心。愛他のために、自己愛しかない相手を殺す。

 不満を言えば、2部6章のラスボスであるモルガンとベリル、とくに『Fate』シリーズで存在を予示されてきたモルガンが、見せ場のないまま途中退場したことが残念だったが、奈須きのこに「『空の境界』で荒耶宗蓮が途中退場するのと同じ」とまで言われれば諦めるしかない。代わりに、メリュジーヌとオーロラが2部6章のクライマックスを担うが、この2人の物語が本章の主要主題を対位法的に表すことは、既述の通りだ。

 デヴィッド・べネターの反出生主義、より中核的な議論として、誕生害悪論は論理的に正しく、価値論が関与する余地はない。誕生害悪論は価値論にとってはコペルニクス的転回と言えるものだが、有名な話として、ガリレオが地動説を発表したとき、教皇庁はその検証を顧問神学者たちに諮問し、地動説が真実であることは認めた。それは地動説の研究が科学的なものであり、その結果が普遍的かつ検証可能だったからだ(その意味で、しばしば主張される地動説の発見における新プラトン主義の影響はトリビアに留まる)。当時、「地球が宇宙の中心でないと認めることは人間の精神に悪影響をもたらす」という論拠で地動説を主張したのは、少数の非-正統的な好事家だけで、当時の水準からも愚かだった(田中一郎『ガリレオ』)。こうした愚かな人々はつねにいて、現代でもアメリカの宗教右派は進化論を否定し、学校教育でインテリジェント・デザインを主張しようとして社会問題になっている。アメリカの宗教右派が進化論を否定するのは、反-べネター主義者が誕生害悪論を否定するのとまったく同じ論拠で、「そう認めることは人間の精神に悪影響をもたらす」というものだ。話にならない愚かさだが、つまり、彼らは子供なのだ。

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2021年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)

Twitterにおける映画感想がダメなものになりがちな理由』(https://theeigadiary.hatenablog.com/entry/2020/04/27/130621

1. 批判を避ける、また過大評価する傾向。(「合計100兆点」など)
2. レッテルが付いた作品だけは過剰に批判する。(「見る拷問」など)
3. 紋切型・定型句の反復。(「○○はいいぞ」など)
4. マンガ化による水増し。
5. 役者・キャラクターへのフェティシズムの表明。(役者の画像を4枚並べてツイートするなど)
6. ファンダムの自己愛。(「○○の場面があっただけで100点だった」など)
7. 大喜利。(「『すみっこぐらし』は実質『ジョーカー』」など)
8. マイナーへの専門分化。(アルバトロス映画を全作鑑賞するなど。無論、それ自体は良いことのはずだ。だがSNSの場合、1~7までと容易に結びつく)
9. 時事、とくにポリティカルコレクトネスとの当否による安直な評価。
10. 字数が短くなりやすい。

 上掲の記事は映画に限らず、Twitterにおける作品の感想が陳腐化しやすい原因をよくまとめている。

 2020年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2020/01/02/132035
 2019年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/02/10/230916
 2018年度私的百合マンガ大賞(付・百合小説大賞)(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2017/12/30/232013

 2017年に個人的な百合マンガの年間傑作選を選定したときは、まさか4年も続けることになるとは思ってもみなかった。
 この3年間は、上掲の記事が指摘する、判断基準の画一化・固定化、評価の偏向に陥ることなく、客観中立的に良作を選出できたと思う。
 ただ、もうやめたい気分も多分にある。3年も続けたため、今年は百合マンガを読むときに次の年間傑作選における位置を考えてしまい、雑念が混ざることになった。私は作品を読むときは全身全霊で楽しみたい。なので、今年はもう来年度の年間傑作選は選定しないことを前提として過ごす。それでも、来年になれば日記帳を読み返して適当に順位付けするかもしれない。

 2020年に読んだ百合マンガのなかでは、模造クリスタルの『ゲーム部』がもっとも素晴らしかった。2020年どころか、この数年間でもっとも心が揺さぶられた作品だった。ただし、2020年に発行されたものではない。というのも、同人誌で商業出版はされていない。しかも、最終巻と後日談の巻はダウンロード販売もされていない。八方手を尽くして探してほしい。
 詳しい感想は別稿で記事を書いたため、そちらに譲る。強いて言えば、『The Red-Headed League(赤毛連盟)』の以下の引用が説明になるだろう。

"“Try the settee,” said Holmes, relapsing into his armchair, and putting his fingertips together, as was his custom when in judicial moods. “I know, my dear Watson, that you share my love of all that is bizarre and outside the conventions and humdrum routine of every-day life. You have shown your relish for it by the enthusiasm which has prompted you to chronicle, and, if you will excuse my saying so, somewhat to embellish so many of my own little adventures.”
“Your cases have indeed been of the greatest interest to me,” I observed.
“You will remember that I remarked the other day, just before we went into the very simple problem presented by Miss Mary Sutherland, that for strange effects and extraordinary combinations we must go to life itself, which is always far more daring than any effort of the imagination.”"
(「かけたまえ」ホームズは彼が厳正な気分のときいつもそうするように、安楽椅子に深く沈みこみ、両手の指を合わせながら言った。「君が毎日の生活の単調なくり返しや決まりごとから外れた奇妙な物事への愛を、僕と同じくすることは知っている、ワトソン君。君を記録へと駆りたてる情熱によってすでに君の関心は見せてもらった、そして、そう言うのを許してもらえれば、細々とした僕のささやかな冒険を物語仕立てにしたものによってね」
「君の事件は実際私にとってもっとも興味深いものだった」私は論駁した。
「君は僕が以前評したことをおぼえていると思う、つい先日僕らがメアリー・サザーランド嬢のごく単純な事件を調査したときのことだ、僕たちは奇妙な結果や超常的な組合せというものを日常それ自体に求めなければならない、それはどのような想像の産物より素晴らしいものなんだ」)

 第2次本格ブームである新本格ブームが日本で起こり、その第2世代、第3世代が「日常の謎」というジャンルを興隆した。だがコナン・ドイルはすでに推理小説の端緒(※)でその本質を言い表わしていた。(※『赤毛連盟』は短編第2作。なお、コナン・ドイル以前の探偵小説が探偵小説であっても推理小説ではないことは、コナン・ドイル自身が当時のインタビューで説明している)

 2020年に訳書が発行されたデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』はGeoff Shullenbergerの『The Rise of the Voluntariat』を引き、以下のように指摘する。企業は支払い労働(ペイレイバー)の代わりに、在野の自発的な成果を刈り集め、大衆的熱狂や創造性の成果を「デジタル小作農(シェアクロッピング)」し、私有化、市場化するようになりつつある(p.285)。
 2020年の訳書で最良の経済書であるグレン・ワイル、エリック・ポズナーの『ラディカル・マーケット』は、第5章『労働としてのデータ』で、このことを「テクノロジー封建主義」として、より包括的・体系的に議論している。
 マンガについてどれだけの作品がデジタル・シェアクロッピングかの統計は、私が知るかぎりない。ただ、ライトノベルについては、すで市場全体の総売上の40%超が単行本だ。そして、単行本のほぼすべて(オリジナル作品があったとして5%未満だろう)がデジタル・シェアクロッピングであることは、周知の通りだ。
 そして、この企画・制作・販売の過程の変化は、作品の内容に強い影響を及ぼしていると私は考える。
 グレーバー曰く、従来の娯楽は、お喋りや政治談議など、1日がかりのものだった。新出の娯楽の特徴は、ジム、ヨガ教室、デリバリー、ショッピング、ストリーミング配信の鑑賞など、分刻みでできることだ(p.322)。また、グレーバーは、「厳格にヒエラルキー的な職場には非-性的なサドマゾヒズムネクロフィリアが蔓延する」というフロムの『The Anatomy of Human Destructiveness』と、フロムの論文を発展させたLynn Chancerの『Sadmasochism in Everyday Life』を引き、これはブルシット・ジョブの職場に特有のものだと指摘する(p.167)。
 創作活動はブルシット・ジョブにはなりにくいが、作品鑑賞は消費の一環として当然にブルシットなものになりうる。そして、そのための作品の物語と形式はブルシット化し、顕著なこととしては、登場人物が動物化・機械化する。つまり、いわゆるツイッター漫画だ。
 以下では人生の1日を捧げるに値する作品を紹介したい。

・マンガ

 去年までの記事で紹介した作品の続刊については、基本的に省略する。
 つばな『惑星クローゼット』は第4巻、毒田ぺパ子著『さよならローズガーデン』は第3巻で完結。

1. つくみず『シメジ シミュレーション』第1巻

 『少女終末旅行』を完結させたつくみずの新作。
 四コマ漫画の形式で、枠外に、廃墟画のような閑散とした地方都市の風景を、無人感のあるロングショットで描くことに成功している。この形式は発明だ。さらに、そうした田畑や団地の風景には奇妙なオブジェクトが散在し、不条理感を強調する。
 チトとユーリが客演する、地階が駐車場になっているため空中楼閣のようになっている、地方特有のファミリーレストランのロケーションが見事だ。

1. なおいまい『ゆりでなる♡えすぽわーる』第2巻

 もともと妄想と現実で前後編に分けて対比するというハイ・コンセプトな作品にもかかわらず、主軸の物語が進展した第2巻ではさらに内容が深化・強化した。
 第7話『最後の一本』で、ついに、駒鳥にとっての諸悪の根源である、花籠総矢が本格的に登場する。その物語上の決定的な分水嶺にもかかわらず、第7話後編で明かされる朝雛先生と花籠の関係は強固で美しいものだ。だが、この朝雛-花籠の関係に、花籠の結婚の当事者である駒鳥は存在しない。その意味でこの関係は(俗語でなく、文芸批評の術語としての)ホモソーシャルだと言えるだろう。しかし、それは花籠における雨海-駒鳥の関係も同じだ(ただし、ここでは花籠と駒鳥の父親が不平等に政治権力を保持している)。
 なぜそれだけの強固さと同時に、無力さが生じてしまうのか。
 イヴ・セジウィックは『男同士の絆』でホモソーシャルについて以下のように指摘する。まず、ありがちな誤解として、家父長制による女性支配はホモフォビアを必要としない。古代ギリシャがその極端な例だ。つまり「男を愛する男」と「男の利益を促進する男」は、古代から近代までに、何らかの原因で分離された(p.4)。明確に両者が分離されるのは近代だ。そして、その決定的な転換点はオスカー・ワイルド裁判だった。オスカー・ワイルド裁判以後、同性愛のイメージは、ホモフォビックにしろ、ホモフィリックにしろ、純粋に性的・想像的なものになった。男性同性愛は「貴族的」なものと見做され、同時に「貴族的」なものは女性化・無力化された。同性愛は、一方はワイルド的=「悲劇的」、もう一方はロレンス的=ホモソーシャルかつホモフォビックなものに分裂した(無論、このことは知的中産階級の勃興に伴う)。そして、それはエロスと政治の分裂を意味した(p.332)。
 第3巻の収録予定作になるが、この先の展開(駒鳥さんがゲロを吐く回)では、かつてないほど心が揺さぶられた。ここで、すでに花籠に悪意がないことは示されている。つまり、ここでは、現実および社会的な次元と、個人の想像的な次元の乖離が描かれている。たとえ、その相手に悪意と社会的な次元における欠点がなくても、どうしても生理的に許容できない人間がいることは、公然たる事実だ。それは内発的な、つまり自然な感情にもかかわらず、内発的であるために、多くの人間は、その感情を社会において不合理・不道徳なもの、つまり不自然なものとして自己否定する。だが、自分がその人間をそれだけ嫌うならば、その人間にはそれだけ嫌われる理由があるはずにちがいない、という考えは、強姦に遭った被害者には、強姦に遭うだけの理由があったにちがいないという考えと変わらない。無論、因果関係はある。だが、その因果関係は個別具体的な、物質的な次元のもので、抽象的な、社会的な次元とは事実上関わりがない。そう、物質的な因果関係はある。
 だからこそ、私たちは想像力で戦わなければならない。それは想像的な次元の王座で、存在しない貢物を得ることではなく、むしろ想像と現実の国境線において、存在しない王権をもって、現実の国土を侵略することなのだ。
 それは、セジウィックが『男同士の絆』で引用する、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』におけるイデオロギーの定義のとおりだ。「イデオロギーは現状に存在する矛盾を通時的な物語に鋳造して隠蔽する。これは古い価値観を一見、理想的に見せるものの、実は新しいシステムに則り、古い価値観の物質的基盤を浸食する」(私は簡単に、フィクションは短期的には現状を固定化するが、長期的にはより大きな影響を及ぼすくらいに解釈している)。
 だから、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の以下の評言には、より注意を払わなければならない。

"不信心はそもそも、これらの英雄と思われた人物たち、これらの本当の聖人たちの致命的な敵である。だから彼らは冷静な悪ふざけ好きや皮肉屋に対して、もったいぶり道義家ぶって激怒するのだ。"

 ゲストの物語も第7話まで来て、マンネリ化するどころかますます先鋭化する。第7話に至っては、駒鳥さんの妄想も行くところまで行った。
 第2巻は短編の傑作『カレーをたべる♥ふぁむふぁたる♥』も収録。

3. 久保帯人BURN THE WITCH』第1巻

 モノトーンの画調に、ジャンプ・カット、ストップ・モーション風の、明晰で迫真のコマ割りと、『BLEACH』から久保帯人の演出がさらに研ぎ澄まされている。美術のスタイリッシュなセンスもいい。
 物語のスタイリッシュな台詞回しもますます冴えている。「シンデレラの魔法が零時で解ける本当の理由を知ってる?」。
 7体の童話竜(メルヒェンズ)、「シンデレラ」「スノーホワイト」「レッドドレス」「ゴールデンアックス」「バブルズ」「シュガーハウス」「バンド・オブ・アニマルズ」とかの、やりすぎのきらいがあるそういうセンスも健在。

4. 西尾雄太水野と茶山』上下

 物語はそのまま『ロミオとジュリエット』だが、主題はその古典を反転させている。
 効果音による生活環境音の強調と時間経過の処理で直写性を挿入している。しかし同時に、モノローグと単ページ、見開きで、説話を粒だったものにしている。
 つまり、『ロミオとジュリエット』は教科書的知識として、近代的自我の誕生による名前と自己の乖離が主題にあるが、本作では逆に自己同一性を確立することで、『ロミオとジュリエット』的な悲劇を回避する。そのため、最終話では茶山が自分の名前を受容する。また、それは市民社会市場経済にコミットメントすることでもある。
 クライマックスの見開きのスプリンクラーの場面は見事。
 會川はティボルトの役回りだが、最終話での水野の"そう声をかけようと思ったけどそれは私が言うべきことじゃない気がしてそのまま別れた"というモノローグも素晴らしい。ここにおける、外面的には独立しているが心理的には共感しているという、個人主義的な態度に作品の主題が通底していることは言うまでもない。

5. 缶乃『合格のための! やさしい三角関係入門』第1巻

 真幸が悪い
 が、真幸を中学生にし、表現においても童顔を強調することで、その責任を阻却させている。これで真幸が中学3年生でなく高校3年生ならば、読者の理解と、少なくとも部分的な共感は得られないだろう。
 三角関係であるのみならず、三角関係に対する姿勢も、凛が賛成、あきらが反対、真幸が思想としては反対だが感情としては賛成と、三者で分かれていて、そのことが三角関係というか、3人の関係性を動的なものにしている。筆運び(ストーリーテリング)も達者で、作者の円熟味を感じる。

6. 須藤佑実夢の端々』上下

 シナリオが巧みだった。
 ネタバレ解説:(上巻では女同士の同居という理想的な仮想の結末を提示し、各話でその可能性が潰えるさまを1話ずつ描いていく。その可能性の焼尽が訴求力の燃料になっている。
 下巻では心中未遂と小指の欠損に関する真相が明かされる。だが、心中未遂の前は貴代子とミツの性格が真逆だったという新たな謎が提示される。そして、性格が真逆になったのは、ともに死ぬのではなくともに生きると決意したためだと明かされる。そして、死ぬのではなく生きるのを決意した理由は、ただ相手が生きているという事実だけで生きていけると理解したからだと語られる。こうして、可能性が焼尽していった半生の意味が逆転し、読者に感銘を与える。ラストは美しい。
 まあ、ぶっちゃけこのプロットのアイディアは東野圭吾の『白夜行』のパクリなんだけど。

7. 真田つづる『私のジャンルに「神」がいます

 デジタル・シェアクロッピングで商業出版された。SNSに過度に依存することは良くない。後編の柚木さんみたいになるぞ。後編の柚木さんは、即売会で綾城さんを見かけたら「かーっ///」と顔を赤くするだろう。ツイッター漫画のように。ツイッター漫画が洗練されるのではなく、私たちの人生がツイッター漫画のようなものに幼稚化する。それが嫌ならSNSの過剰な使用は控えるべきだ。
 ただ、これは本作の内容とは関係のない話だ。
 実際は、作者がキャラクターを客観的に見て、ストーリーを制御することができなくなっただけだ。おかげで、綾城さんとそのコミュニティが、作品よりその二次創作を重視する珍集団になった。
 単行本の描きおろしも、その延長線上にあるために微妙な反応をしてしまう。おまけページの長文マシュマロとかのほうが面白かった。

8. くわばらたもつ『あなたと私の周波数

 『お前に聴かせたい歌がある』が、プロットが気が利いていて良かった。

9. いとう階『函・電網・乙女』(『Z』)、『体験しよう! 好感異常現象』(『S-Fマガジン』)

 読み切り2作品だが、どちらも百合SFで年末に発表されたため併せて。

 『函・電網・乙女』は素晴らしかった。『ヴィクトリア朝のインターネット』×『ファイト・クラブ』×『リヴァイアサン』(伊藤計劃三部作だ)。ヴィクトリア朝タイピスト、電信の交換手といった新技術の労働需要が、女性の経済的自立を促し、「新しい女」という新語を要請する社会・文化をも形成した(余談だが、キム・ニューマンの『ドラキュラ紀元』の新版の後書きに、「新しい女」という言葉が作られたのは1892年のため、その言葉が登場する『吸血鬼ドラキュラ』の年代はじつはそれ以降なのだと書かれていた)。『ヴィクトリア朝のインターネット』には、サイバーパンクの世界がヴィクトリア朝後期に出現したかのような、電信と電信交換手のさまざまな挿話が紹介されている。本作ではその電信網におけるハッカー文化が基盤としてある。吉野先生とはるさんはそうしたパンク(擾乱)精神で「プロジェクト・メイヘム(騒乱計画)」じみた電信網へのハッキングを仕掛けていく。その根底にあるのは、『リヴァイアサン』がその政治哲学である、既存の社会体制の正当性への疑義だ。吉野先生が本格的に犯罪に加担することの説明である、短く鮮明な回想も見事。結末もオープンエンドで明るい。
 個人的には、吉野先生とはるさんで笑いのツボが微妙に異なるのが良かった。
 『Z』でいとう階が作画を務める『サバ―キ』も、第6話が、発展する物語と粒だったコマ割りとで、急に面白くなって驚いたが、驚いたという以上の感想は言いようがない。

 『体験しよう! 好感異常現象』は仮想現実が舞台の掌編。『ディアスポラ』(仮想現実における脱-人間化の進行の度合いでいえば、イーガンでも『順列都市』より『ディアスポラ』が近いだろう)のような世界で人工生命、おそらくはアップロードされた人格が「恋愛」の事象を体験する。森岡浩之の『優しい煉獄』は、仮想世界に意識をアップロードしたあとも、自分の人格を走らせる(演算処理させる)ために働かなければならないという世界観のアイディアが冴えていたが、本作では、通貨として計算資源(リソース)を秒単位で取引きしている描写がスペキュレイティヴで良かった。主役の人工生命は「恋愛」の事象を体験するが、それがナメクジの交尾のようにヌルヌルしたものでなかったことに当惑する。
 掲載の『S-Fマガジン』2021年2月号は2度目の百合特集ということだったが、じつのところ、この特集でもっともSF的・百合SF的だったのは本作だったのではないだろうか。

10. 『終末世界百合アンソロジー

 一迅社の百合アンソロジーというと、おおむね毒にも薬にもならないものが一般的だが、本誌は全体的に手堅くまとまっていて良かった。後書きによれば、寄稿者のしろしが全体の編集にも携わったらしい。

・その他

 アサイ木根さんの1人でキネマ』の第7巻で、映画ネタの作品らしく、初回からの怒涛の伏線回収があって笑った。
 道満晴明オッドマン11』第2巻刊行。第1巻刊行時の、2018年度の記事に「第2巻が出るころには年号が変わっているだろう」と書いたが、意外と早かった。
 志村貴子おとなになっても』第3巻の展開にひっくり返った。パンダの繁殖をするわけじゃないんだぞ。

 雁須磨子あした死ぬには、』第2巻。第1巻に続き、やはり素晴らしい。このマンガの多幸感は何に起因するのだろう。思うに、これが顕著なのは第9話の野球観戦ではないだろうか。サメ型の弁当箱(無論、『シャークス』という球団は架空のもののため、この小道具の出現は現実の因果関係の埒外にある)、そしてページをまたいでのパックのビールという、さりげなく、かつ明瞭な、描くべきものを描くことのできる、余裕のある腰の定まった姿勢が、読中の多幸感の源泉なのではないだろうか。
 第2巻では、ついに鳴神さんが登場。第1巻では、中盤で視点の登場人物がいきなり変わり、あらすじにも書かれ、回想に登場する3人のうち、鳴神さんは最後まで登場しない。この息の長い語りは素晴らしい。さて、第2巻でついにその鳴神さんが登場するが、その乾いた生活が実感をもって語られる。おおむね静的な鳴神さんの生活で、潜在的な憂鬱が顕在化するときというのは、友人の子供に子供ができたり、バイトで働くことはできるが40歳を過ぎると暗黙の年齢制限で雇われなくなるといった、どうにもならないことを意識したときだ。しかも、付録の対談によれば、先々の展開は決めていなく、鳴神の物語はこれでなかば完結しており、続きがあるかも定かではないらしい。だが、それはまったく妥当なことだ。
 SF作家の草野原々が『放浪息子』の感想に簡潔に「はやく技術の進歩で人類が自由に性別を選べる時代がくればいいと思いました」と書いていて感動したが(『放浪息子』に対して、これ以上、美しく倫理的な感想は存在しない。私のもっと一般平均的な感想はこの記事(http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2018/02/06/090929)に書いた)、その顰に倣えば、「はやくUBI(ユニバーサル・ベーシックインカム)が導入されればいいと思いました」だ。
 第2巻では三月ちゃんが希死念慮に悩まされていて、私の年齢では多子より三月に近いにもかかわらず、「頼むから三月ちゃんには憂いのない人生を送ってほしい」と思ってしまった。

 あらた伊里の『とどのつまりの有頂天』(全2巻)の改作である、『雨でも晴れでも』の第1巻は、個人的には残念だった。説明的なモノローグが目に見えて増え、コマ割りも、従来のメリハリの利いたものから、くどく説明的なものになった。ただ、『とどのつまりの有頂天』の第2巻の終盤は、明晰なコマ割りで複雑な心理描写をするために、雰囲気が本当に重く、苦しかったため、(ビジネス戦略や、出版社・編集部の意向だけでなく)作者が表現を模索しているのかもしれない。

 つばな『惑星クローゼット』第4巻。完結編。最後までガチで怖かった。クリーチャーの造形が派手ではないにもかかわらず、強く不安感と嫌悪感を掻きたて、はっきりと印象に残った。
 最終巻の終盤に出た「私たちは幼少期について『物心がつく』という表現を使うが、本当は私たちは外来種の宇宙人のようなもので、人間の肉体に寄生する生命体なのかもしれない」という話は、ホラー的な小話のなかでもかなり鮮烈なものだ。
 まとめかたは○○○モノだが、これは2010年代のアキバ系サブカルチャーの流行りというより、むしろ1990年代のJホラーの流行りの文脈だろう。

・小説

1. シオドラ・ゴス『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち

 ヴィクトリア朝のゴシック小説の愛好家は「シャーロック・ホームズ暦」で生きている。ホームズとワトソンが出会った1881年がA.D.(Anno Detective)1年で、それ以前はB.C.D.(Before Consulting Detective)で数える。「シャーロック・ホームズ暦」の重要な出来事にはホームズに関することの他、『ジキル博士とハイド氏』や『吸血鬼ドラキュラ』、ホワイトチャペルの娼婦連続殺人事件などがある。紀元前の出来事には『フランケンシュタイン』があり、これは洗礼者ヨハネの活動に当たる。本書もまた「シャーロック・ホームズ暦」で記されている。
 面白かった!
 若くして急逝したヘンリー・ジキルの娘、メアリ・ジキルが父親の遺産を整理すると、エドワード・ハイドという謎の人物に財産を信託していたことがわかる。メアリは有名な私立探偵のシャーロック・ホームズに調査を依頼するが、調査が進むにつれ、「錬金術師(マッド・サイエンティスト)」の娘たちが次々と現れ… という話だ。物語がどんどん予想外の方向に展開していって面白いため、実際に読んでほしい。
 原題は『The Strange Case of the Alchemist’s Daughter』だが、「錬金術師」という言葉はレトロフューチャーの響きがあるらしい。『屍者の帝国』でのワトソンの偽装身分(カバー)も「ペシャワール野戦軍第3旅団第81北部ランカシャー連隊第2錬金中隊軍医」だ。
 本作が面白いのは、作品そのものが、登場人物の1人が著した原稿で、執筆中に他の登場人物が勝手にメモ書きしていくメタ=フィクショナルな形式をとっていることだ。そのために作品に、思いこみによる錯誤、冒険活劇にするための意図的な虚偽、当事者を尊重しての省略、意見の対立による訂正、本当に本編とは関わりのないただのメモなどが浮かびあがる。
 分別臭いジキル博士の娘、メアリ・ジキルを初めとして、「錬金術師(マッド・サイエンティスト)」の娘たちも、それぞれ個性的で読んでいて楽しい。ナラティヴが作品の中心にあるため、フェミニズムも主題になる。本作におけるフェミニズムは教科書的知識に則するものだが、登場人物の発話・発想として自然で、物語から遊離していない。
 三部作のため、続刊の早期の翻訳出版を期待する。

 ついでに、「シャーロック・ホームズ暦」について一言しておこう。
 円城塔は『屍者の帝国』の後書きで、コンセプトの源流として、『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』、『ドラキュラ紀元』、『ディファレンス・エンジン』、TRPGクトゥルフの呼び声』(原文の順番通り)の4作を挙げている。
 『屍者の帝国』はというと、屍者と生者を分ける心の哲学と、メタ=フィクションの2つの主題が平行しているため、終盤の展開がかなり煩雑になっている。第2部第4章では、ザ・ワンの目的が「全人類の屍者化」だと仮定され、ヴィクターの手記の内容は『屍者の帝国』の作品そのものであることが示唆される。もちろん、後者の自己言及構造は『ディファレンス・エンジン』のエピゴーネンだが、第2部4章とエピローグ第2章で参照関係になっている"〈このわたし、フライデー〉"という文言はインデックスの1項目に留まり、『ディファレンス・エンジン』のメタ=フィクションとしての厳密な自己言及構造とは異なり、『屍者の帝国』は、作品=フィクションというプログラムのパフォーマンスの主体が、作品の上位に指示されている。第2部第5章では、解析機関と完成後の全球通信網が複雑系の働きをすると説明されるが、これは、そのまま心の哲学のアナロジーだ。そして、この心の哲学が、屍者と生者を分ける「魂」であり、フィクションのパフォーマンスの主体として指示されているものだ。この作中におけるヴィクターの手記の効果と、作品そのものの主題の並立のおかげで、終盤の展開は名状しがたくゴチャゴチャしている。"「……そして君の抱く不安を解消しよう。こう言い換えるのでどうかね。『菌株(ストレイン)』ではなく、未知の『X(エックス)』とね。Xには好きな言葉を入れると良い。一番気持ちが安定するものをな。『魂』でも『意識』でも、『欲望』でも構わない。ただの言い換えにすぎないが、理解はしやすくなるはずだ」"(p.428)。円城先生、ぶっちゃけすぎだろ。Xって(おそらく超越論的統覚Xからとったのだろうが)。
 第1部5章からルビ、情景描写、世界情勢・科学技術への言及、キム・ニューマン的引用が急減するため、おそらく、このあたりから円城先生が苦吟しはじめたのだろう。
 なお、映画版『屍者の帝国』で「M」が全人類の屍者化を行おうとするが、上述のとおり、そこは映画オリジナルではない。だからどうしたというわけではないが…

 ちなみに、ヴィクトリア朝を描いたマンガで最良のものは、アラン・ムーアの『フロム・ヘル』だ。「カタブツ警部とインチキ霊能力者の凸凹コンビが世紀の難事件の謎を解明する!」という話だ。ホントホント。『ミリオンダラー・ベイビー』はボクシングを舞台にしたサクセスストーリーで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は盲目の女性と息子の感動物語だし。

2. 陸秋槎『文学少女対数学少女

 面白かった。
 後書きで作者が源流に挙げている、麻耶雄嵩メルカトル鮎かく語りき』は、解説で円居挽が「メルカトル鮎はキャラ人気があり、作者はメルカトルを探偵役にした短編を量産できるはずだが、特殊な構造の作品でなければ、作者がメルカトルを探偵役に据えることを許さないのだろう」と書いている。本作にも同じことが言えるのが惜しまれる。
 全4作の短編集で、各作品とも、構成が内容に直結しているため、これ以上の言及は控える。

 代わりに、アニメ『ストロベリー・パニック』について話しておきたい。
 2000年代には『ストロベリー・パニック』に限らず、さまざまなアクの強い百合アニメが放映された。ならば、そのなかで『ストロベリー・パニック』がいまなお衰えない魅力を放っているのはなぜだろうか。
 それは、涼水玉青の存在によるのではないだろうか。一般的な通念に対し、じつは玉青はCちゃん・菱川、負けヒロインと言うべきキャラクター・立ち位置ではない。なぜなら、玉青は当初から渚砂に明確な好意を向けており、自分の感情を抑圧してはいない。そしてまた、玉青が静馬に渚砂を略奪されたように見えるのは、エトワール戦というきわめて社会的・儀礼的な擬制のために過ぎず、渚砂から玉青への好意が薄れたわけではない。にもかかわらず、私たちは静馬と渚砂の略奪愛が成就したように見てしまう。玉青の渚砂への愛情は、明るく健全だ。だが、そのために、その感情は計ることができない。明るさのなかの陰影、私たちはまだ涼水玉青を語ることができていない。(アニメ『ストロベリー・パニック』を全話見ていて、『文学少女対数学少女』を読了していなければ意味不明な話題の転換)

3. 高殿円シャーリー・ホームズとバスカヴィル家の狗

 『緋色の憂鬱』から待望の続刊。『ミステリマガジン』2020年3月号の掌編では、完結が予示されていて惜しまれる。

 ちなみに、「後期クイーン的問題(偽の手がかり問題)」は、直接的な影響はないにせよ、「20世紀の数学のドラスティックな抽象化」(佐々木力『二十世紀数学思想』)と時期的に完全に一致している。
 ヒルベルトが初めに数学の保守派(抽象数学の反対派)に直面したのは1888年、抽象的(計算でない非-具体的)な証明を行い、パウルゴルダンなどに激しく論難されたときだ(ちなみに、ヒルベルトのこの論文につき、1890年の『Mathematische Annalen』を初出とするものが多いが、正確には1888年末のゲッティンゲン科学協会の『Nachrichten』だ。それを整理したものが1890年の論文だ。そして、有名なゴルダンの「これは数学でなく神学だ」という言葉も、この期間に吐かれたらしい。そして、1890年の論文掲載時には、すでにヒルベルトと和解していたようだ。(リード『ヒルベルト』))この3年後、ホームズはモリアーティとライヘンバッハの滝に転落死する。ホームズ・パスティーシュのうち、もっとも美しい1編である、『ニュー・サイエンティスト』に寄稿されたモリアーティ教授の架空の伝記、John F. Bowers『James Moriarty: a forgotten mathematician』は、モリアーティが64年に急逝したジョージ・ブールのアイルランドのコーク校の数学教授職を継いだことを示唆している(言うまでもなく、「モリアーティ」も「モラン」もアイルランド系の姓だ)。これはモリアーティの「20代で田舎の大学の数学教授に就任した」という経歴と年代的に符号している。そうだとすれば、モリアーティは数学の改革派(抽象数学の推進派)だったと考えるのが自然だ。モリアーティ教授は登場するなり死んだため、余談にしかならないが、面白い話だ。

4. 青山七恵みがわり

 松浦理英子裏ヴァージョン』以来の百合ミザリーメタフィクションが来た。
 ナラティヴが主題になっているが、この文学史的な意義は、2020年に発行された、平成の日本文学論に関する最良の書である福嶋亮大らせん状想像力』が詳しい。

・その他

 ソローキンでレズビアニズムの要素がある初期作品『マリーナの三十番目の恋』が翻訳出版された。
 今年もっとも楽しかった小説のジャスパー・フォードの『最後の竜殺し』は、シリーズ3作目に百合要素があるらしいため、そこまで翻訳出版されてほしい。
 小川一水の『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』は、『アステリズムに花束を』収録の中編を長編に改作したもの。なので、どちらをさきに読むか選択しなければならない。私は似た内容なら、より短く、SFのアイディアとガジェットはより技術的なほうが(娯楽作品においては尚更そうだ。「技術的」という表現は、「量子○○」みたいなものも含みかねないため、よりシステマティックとでも言ったほうが正確かもしれない)優れていると考えるため、中編のほうをさきに読むことを勧めたい。『裏世界ピクニック』の新作はこれから読む。

・評論

 『「百合映画」完全ガイド』が予想外の傑作だった。映画時評を単行本化したものはわりと読むほうだが、この質と量で新書なのは破格だ。とくに主筆のふぢのやまいの解説は素晴らしい。編集者の石川詩悠の仕事にも頭が上がらない。
 ただ編集段階で追加されたという増補分は、余計だったかもしれない。将○の終わりの解説とかYahoo映画レビュー並みだ(寄稿者の一部の批判するときに「某氏」や「○○した者」などと具体的な名前を避けるのは悪しき慣習だと思う。批判を曖昧にし、いたずらに疑心暗鬼を煽るだけだ。批判するときは、その人間の能力と責任において、きちんと名前を挙げるべきだ。まあ私は同情心があるから、名前の一部を伏せ、誰だかは匂わせるに留めておいたが)。

・映画

1. セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像

 アントニオーニの『欲望』以来、映画におけるshoot(撮る=獲る)の二義性は定型句となっている。本作でも表象化の暴力的な作用が冒頭から顕示され、物語上ではエロイーズの肖像画を完成させることは強制的な結婚に加担することであり、演出上でもエロイーズは執拗に顔を見せることを避ける。主人公とともに画面に現れるときは、切返しでなく、浜辺、刺繍、ピアノといった道具立てによって横並びになり、視線は平行する。

 しかし、それは主人公が真相を告白する序盤までで、中盤におけるソフィーの挿話を経て、両者は対面する。オルフェウスの寓話について、主人公は「オルフェウスは夫であるより詩人であることを選んだ」と語る。エロイーズの結婚は回避しうるものでなく、その意味で死別にも近い。

 海辺のシークエンスにおける、主人公とエロイーズの衝突では、波音の効果音で演出的・付加的に感情を表現する。結尾部の「最初の再会」において、表象化の善の側面を簡単に提示したのち、「最後の再会」でヴィヴァルディの『四季』「冬」の劇伴によって、ふたたび感情を付加する。ここにおける映像は一方的な視線だ。しかし、主人公とエロイーズのあいだには確かな双方向的な知覚が成立している。

 そもそも、『欲望』は映画であるために撮影が中心的な主題となったが、原作であるコルタサルの『悪魔の涎』は鑑賞が主題だ。

 本作はオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』以来の、唯美主義とクイアな愛を説得力をもって表現した傑作だ(ただし、『ドリアン・グレイの肖像』のクイアな愛は同性愛でなく、むしろ自己愛だ(セジウィック著『クローゼットの認識論』より))。

佐藤卓哉どうにかなる日々

 各話で作風が異なり、佐藤卓哉の技巧性が表れている。
 とくに第3-4話は、もともと性にまつわる屈託が多孔質、非晶質的に組みこまれていた原作に対し、第3話の作風を明朗にすることで、屈託を外傷的なものに移行させている。

・その他

 青山真治空に住む』。

・アニメ

 2020年度の第3四半期は凄かった。ほぼ毎日百合アニメを観なければ録画が溜まるという未曽有の状況だった。しかも、本数のみならず内容も濃厚だった。

1.『ストライクウィッチーズ ROAD to BEARLIN

 ほぼ10年ぶりの続編にもかかわらず、1作目、2作目に勝るとも劣らない内容だった。
 説話的にはベルリン奪還戦で、戦局の終盤になる。敵にも第2次世界大戦以後の新兵器が惜しげもなく投入される。恒例の上層部にはパットン将軍が配役され、その意味でも負けはない(パットン将軍は映画史的に敗軍の将とはならない。たしか鈴木貴昭の『ストライクウィッチーズ』の同人誌でも、戦局が勝利に傾いたときに登場したはずだ)。
 『ストライクウィッチーズ2』のあとに高村和宏が監督を務めた『ビビッドレッド・オペレーション』、『ブレイブウィッチーズ』は言容しがたい出来だった。少なくとも、『ストライクウィッチーズ』のほうが、はるかに一般に受けいれられたのは確かだ。では、なぜそうした違いが生じたのか。無論、『ストライクウィッチーズ』のほうが洗練されているなどと僭称するつもりはない。『ストライクウィッチーズ』も、物語は人型ネウロイという投げっぱなしのプロットを使用している。思うに、その違いは戦史の背景の使用にあるのではないだろうか。仮にあくまで装飾だったとしても、その装飾は額縁のように物語を規矩準縄することになる。
 戦史的な年代記に物語が規矩準縄されるために、坂本は現役を退き、代わりに新人の服部が配属され、宮藤は先任の立場になる。
 別にいいのだが、『2』が坂本少佐の烈風斬でグダグダしたように(四部承太郎のような2期坂本少佐は見たくなかった)、『RtB』は宮藤の魔法圧でグダグダする。
 第10話で爆撃機があっけなく撃墜されて、戦史映画(無論、戦争映画とは別物だ)の文法で、無味乾燥に、ひとがあっけなく死ぬ作品だったことを思いだした。
 そして、『RtB』のピークである第6話だ。エーリカが撃墜されたときのミーナたちの反応がいい。身近な人間の死という不安が念頭にあるが、同時に、そのことを日常でありうることとして冷静に対処している。そして、エーリカの描写が素晴らしい。エーリカは本当に死にかかっているが、まったく平常心を失っていない。最強の戦闘機パイロットとして要を得た描写だ。エーリカは通信が繋がりかけたとき、一瞬だけ真剣な表情をするが、この描写のさりげなさは見事だ。バルクホルンはエーリカが死んだものと誤認するが… 第6話の結末については、これだけを言っておこう。エーリカ、お前が柏葉剣付鉄十字章だ…!
 第11-12話では、曇天の空という背景、流血描写と、『ストライクウィッチーズ』のシリーズ、また、戦史映画(重言になるが戦争映画ではない)の文法に対し、例外的に雰囲気が暗くなる。それはベルリン奪還という戦史の背景によるものだろう。ベルリン奪還は第2次世界大戦の終わりを意味する(エピローグのナレーションは、ネウロイの残党がいることと残党狩りを示唆していたが)。そのため、戦争の総決算が強制され、雰囲気は暗いものにならざるを得ない。

1. 『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 第10話から第11話は凄かった。それまでも楽しく見ていたが、第10話のクライマックスで俄然、盛りあがった。
 やはり登場人物が予想外の行動をすると、一気に作品に惹きつけられる。無論、その行動は、作品と登場人物の原理に則し、十分に納得のゆくものでなければならない。
 例えば、岡田麿里の脚本では、登場人物がよく予想外の行動をするが、話のネタとして面白いだけで、誰にも話せないとしたらクソ面白くもなんともない。換金できないパチンコの出玉と同じだ。
 侑の小柄でユニセックスという人物造形はあざといものだが、第11話で歩夢との関係が安定的なものになったあとで、あらためて歩夢に明確に好意を伝えるところは、(穿った見方をすれば、視聴者に好かれるための)人物描写として見事だと思った(カスは関係が安定的なものになると身勝手になるし、アホは関係が不安定になってから好意を伝えはじめるが、残念なことにカスとアホが世間の大多数だ)。

1. 『安達としまむら

 予想外の傑作だった。
 第1-2話では、安達としまむらが静かな時間を過ごす場面は、水平と垂直、とくに水平のコンポジションをとり、安達もしくはしまむらの心理が動揺する場面では明確に斜めのコンポジションをとる。きわめてコンセプチュアルな画面構成で、また、この文法が安達としまむらの性格、そして、それによる物語と調和している。
 第3話以降で、安達としまむらが積極的に関わりはじめると、水平と垂直のコンポジションは減少する。安達の内省がこの作品のかなりの部分を占めている。安達の内省と、それによる行動は、自己完結的なもののため、視聴者からの視点では奇行に見える。
 安達の懊悩は、安達としまむらの関係性において、安達が主体的に関係を形成すればいいように思えるが、第11話では、安達がそうして主体性を持った結果、心の容量を超えて情緒不安定になってしまう。外形的には、ただ安達が情緒不安定になってしまうというだけのことなのだが、これほど静かで緊迫したクライマックスもそうそうない。
 第12話ではしまむらが積極的に安達と関わろうと変心したことで、作中の次元では、しまむらの意思と感情がポジティブ(積極的・肯定的)なものになったことで、作外の次元では、安達としまむらの関係性が好転したと分かることで、視聴者はハッピーエンドだと感じる。しかし、じつのところ、こうした安達としまむらの心の動きは相互に独立的だ。二者間の関係を描いた作品として、この結末は稀有で奇跡的だ。

・ソシャゲ

 5月頃にハマっていた『シャニマス』だが、下半期には完全に飽きてスマホの空き容量に変えた。

 

模造クリスタル『ゲーム部』感想 - 「日常系マンガ」の極北にして金字塔 -

 ※ネタバレ注意。
  傑作です。未読のかたは書籍化を待つか、ただちに同人版を読むことをお勧めします。ただし、最終巻の『ゲーム部⑪ファイナル』と、おまけの『ゲーム部⑫エクストラコンテンツ』はダウンロード販売されていません。

(関連:『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』感想 - 毒物を仕込んだリンゴをスケッチし、その後、それを齧って自殺した男 -)

http://snowwhitelilies.hatenablog.com/entry/2019/10/24/214046

 模造クリスタルの同人誌『ゲーム部』シリーズを読んだ。
 他の同人誌と同様、書籍化されるものと思っていたが、その噂もない。
 だいたい、憂鬱で希死念慮にかられる人生を送っているのに、待つという行為は無意味だ。そのため、同人版で読んだ。
 傑作だった。
 以下、登場人物と各巻のあらすじを書き、そののちに感想を記す。

○登場人物

2年生

・部長:本作の中心人物。健康的な少女。ゲーム制作に血道をあげている。
・副部長:プログラマー。あまり出番はない。

1年生

・べし子:本名「表林戦うべし」。テストプレイヤー。つねにハイテンション。重度のゲーマー。
・おヨネ:プログラマー。冷静沈着。部長の片腕。

新入部員(1年生)

・スワ:物質を偏愛する少年。新作『モンスターズアゴニー』の制作では、キャラクターデザインを担当する。
・森下:無表情で暴力的な少女。新作『モンスターズアゴニ―』の制作では、シナリオを担当する。

3年生

・カイ先輩:お気楽な性格。実質、幽霊部員。
・吉崎先輩:最後まで名前しか出てこない。

顧問

・先生:優柔不断な性格。ゲームマニアでレトロゲームの収集家。

○あらすじ

・『ゲーム部』

 レトロな2Dゲーム『レナードのワールドオブアドベンチャー2』を部長とべし子がプレイ。画面から見切れると死亡扱いになるため協力プレイで喧嘩になったり、リスポーンのために浮きあがった風船が変なところで引っかかって「そこで復活するんじゃない!」と文句を言ったり、ワイワイ言いながらプレイする。
 この実況プレイ形式(コマがそのままゲーム画面で、吹出しが被さる)のパートが本シリーズの魅力で、9、10巻を除き、各巻に1度か2度ずつある。

 おヨネが「ゲーム部にぴったりの人材がいる」と言って、同級生のスワを連れてくる。スワはゴム製のアヒルの「じゅん子」を肌身離さず身につけていて、教師が取りあげようとすると錯乱する変人だった…
 ついでにイラストの技能も持っていた。
 部長はスワをゲーム部に迎えいれた。

 副部長、カイ先輩、先生も顔見せ。吉崎先輩も名前だけ出てくる(最終巻まで名前しか出てこない)。

・『ゲーム部②アングリークッキーキング』

 べし子が「ゲーム部にぴったりの人材がいる」と言って、同級生の森下を連れてくる。端的に言って、森下には暴力癖があった。
 副部長がスワに「ライフゲーム」の解説をする。ライフゲームのデジタル生命に惹かれるスワ。
 2人がコンピュータールームに戻ると、森下が暴力ゲームでゲーム上のキャラクターを殺戮していた…
 ゲームははじめてだが、暴力ゲームは気にいったと言う森下。スワたちがドン引きするなか、部長は森下を大歓迎し、ゲーム部に迎えいれた。
 納得できないスワは、おヨネに「要するに部長は変人が好き」なのだと聞かされる。「部長も昔は森下みたいだった」と言うおヨネに、部長はおヨネが「近頃、反抗的」だと漏らすのだった。

 森下はその後、ゲーム部に行くことがなく、べし子に「要するに疎外感を覚えている」のだとうち明ける。べし子は森下を強引にゲーム部に連れていく。
 部長は森下にゲーム部の過去作をプレイさせる。
 第1作の、いかにも自作の『ひとりでババぬき』。パズルゲームの『ネザーストーン』。縦スクロールシューティングゲームの『ピアシングランス』。
 『ピアシングランス』をプレイして、なぜ敵が宇宙戦艦なのに、プレイヤーキャラクターの武器が槍なのかとツッコむ森下。部長は森下に狂ったバックストーリーを語る。べし子は爆笑しながら、部長の制作したゲームにはすべて狂ったバックストーリーがあると言い、『ネザーストーン』のバックストーリーを教える。曰く、その世界ではすべての物質は4種のボックスに圧縮されて云々…
 最後に、べし子が入部してから制作した2Dゲーム『アングリークッキーキング』をプレイする。一部のステージはべし子が作成したという。森下は素人の作ったステージ独特のバランス調整に翻弄されるのだった(※)。
(※『スーパーマリオメーカー』シリーズを先取りしている)

・『ゲーム部③エスケープフロムマーズ』

 新入部員を除き、グロッキーな一同。新作の横スクロールシューティングゲームエスケープフロムマーズ』を完成させたのだった。
 部長は先生に見せてテストプレイしてもらう。ゲームの「西暦2002年…」のテキストにまずズッコケつつ、破壊された火星から貨物船で脱出し、宇宙戦艦から逃げるという横スクロールシューティングゲーム(貨物船なので自分はシューティングできない)をプレイする先生。
 ステージ1をクリアしたあと、「こうして、火星を破壊した犯罪者たちは宇宙戦艦の追手をふり切ったのだった」というテキストにふたたびズッコケる先生。部長は「大事なことはつねにあとから分かるものです」と語る。先生に乞われ、部長はその後、ステージをクリアするごとに明かされるシナリオを語る。

 部長は一同に先生の好評を報告する。「私たちはゲームを完成させた… ということは、また新しいゲームを作ることができる!」
 たまたま珍しくカイ先輩も来ており、部長は新作の計画を発表する。新作は新入部員2人を中心として企画、制作すると言う。

 新作の企画会議。
 森下は提案を求められ、「勇者がドラゴンと戦ったりするゲームとか」と発案する。「RPG?」「そうそれ」。「でもRPGは大変だよ。イベントを作らなくちゃいけないし…」「イベントはいりません。自分以外、全員死んでいるから」。一同がドン引きするなか、部長だけは乗気に。
 「エネミーはどんなモンスターにするの?」「人間です。モンスターより人間のほうが怖い」。さらに一同がドン引きするなか、部長だけはさらに乗気に。
 反対する一同に、森下は力説する。「モンスターより人間のほうが怖い。なぜなら、人間は嘘をつく。人間は飢えのためならなんでもする。あなたたちは本当の飢えを知らない…」。
 引いたままの一同に、部長が森下の素案を仮案にしてみせる。崩壊後の世界、なんの希望もないなか、主人公は安楽死薬を手に入れる。しかし、主人公はそれを服用することはせず、崩壊後の世界を旅する。自分と同じような人間が、世界にもう1人だけいるかもしれない。その希望のために… 「このゲームの魅力は、いつでもアイテム欄の安楽死薬を使用して、エンディングを迎えられるということね」。「暗すぎる…」とドン引きする一同。「それで、その《もう1人》はマップのどこに配置するんですか? そこが重要でしょう」。おヨネの質問にキョトンとする部長。「え?」「え?」「…暗すぎる!」。
 企画はポストアポカリプスが舞台のRPGということで決定する。

 森下と仲良くしようとするスワ。ホッブス的な世界観を持つ森下はそれを拒否。なおもつきまとうスワに、森下は胸倉を掴みあげる。「私は善人じゃない。でも少なくともあなたのような嘘つきじゃない!」。スワはゲーム部に来なくなる。

・『ゲーム部④アバンドンドシティ』

 部長は新入部員2人を仲良くさせたいらしい。その行動に疑問をもったスワは、部長の変人好きの発端を調べはじめる。
 同じ中学に通っていた部員たちに取材する。おヨネに尋ねても淡泊な反応しか返ってこないが、「そういえば、中学のときはあの髪飾り(※)を着けていなかった」という情報が得られる。副部長に尋ねてもなしの礫。(※キャラクターデザイン参照)
 べし子は髪飾りの正体を「マッドムーン」だと明かす。地球からはつねに月の表面しか見えず、裏面は決して見えない。それと同じく、「マッドムーン」は「お前が見ている私は片面だけだ」ということを宣言している。
 べし子はさらに言う。部長は暗いゲームばかり好む。部長はゲームが下手なのにゲーム部の部長に就任した。おそらく、プレイヤーを殺人や自殺に誘導するゲームを作ろうとしているにちがいない… 「バカなこと言わないで!」。普通に部長の目前でその話をしていたべし子。部長は「マッドムーン」の髪飾りを、ゲーム『ナイトオブマッドネス』のグッズで、イベントで買ったものだと説明する。さらに、ゲームはそこまで下手ではないし、べし子に比べれば誰でもゲームが下手だと言う。
 部長はスワと森下に、新作の取材という名目で、部費で上映中のポストアポカリプスものの映画を観に行かせる。「デートみたいなものだと思って…」「デート!?」。

 映画鑑賞後、感想を話しあうスワと森下。スワはライフゲームを引合いに、ポストアポカリプスのディストピアはおかしいと指摘する。仮に文明が崩壊したとして、人類が全員、略奪者になれば、食物連鎖の生態系が維持できなくなる。それに対し、森下は食糧が乏しければ、人類は全員、略奪者になるというホッブス的な世界観をふたたび披露する。
 報告の際、スワは部長に森下と仲良くなったか尋ねられ、「とりあえず、あれが平常運転だということは分かりました」と答える。

 休日の部長の1日。『NY CITY RAMPAGEⅢ』という『GTA』シリーズのようなオンラインゲームをプレイ。オンラインでべし子と落ちあい、ウサギの被りものをして自殺的なプレイをするべし子にドン引きさせられる。

・『ゲーム部⑤モンスターズアゴニー』

 戦闘コマンドの開発が終わる。部長はスワにキャラクターデザイン、森下にシナリオを割当てる。
 シナリオを任された森下は苦悩する。単純に自分の書きたいように書けばいいという部長に、森下は反問する。「でもそれはゲームのなかで満腹になるのと同じで、かえって惨めになるだけじゃないですか?」。それに対し、部長はゲームと現実の関係に関する長い自説を開陳する。
 どうしてもホッブス的秩序が認められないスワは、森下とともに部長に相談しにいく。それに対し、部長はゲーム理論を解説する。

 部員たちが忙しなくするなか、1人だけFPSをプレイするべし子。森下は部長に、なぜべし子にはなんの仕事もさせないのか尋ねる。部長はべし子は「理想のテストプレイヤー」であり、なるべく空っぽの状態でテストプレイさせたいのだと説明する。納得できない森下に、部長は1日、べし子とゲームをプレイすることを指示する。
 森下ははじめて(コンピュータールームではなく)部室に行き、先生のレトロゲームのコレクションを見る。また、とくに欲しいものがあれば別個に購入できるという。
 べし子は2Dゲーム『Building Break』で、こうしたレトロゲームに付きものの無限のステージを18面までクリア。さらに、バグゲーとして探索型アクションゲーム『NECROPOLIS』を紹介してみせる。
 森下は部長にべし子と1日、ゲームをプレイした感想を尋ねられ、少なくとも、疲れるということだけは分かったと答えるのだった。

・『ゲーム部⑥ゲイジングイントゥダークネス』

 部長はスワにドット絵の作成法を教える。
 スワの部長への調査は進んでいた。部長は友達もなく、遊びもせず、生活のすべてをゲーム制作に捧げている。誰も怒ったところは見たことがない。本当の姿を隠しているにちがいない。
 スワに業を煮やした森下は、スワの調査ノートを取りあげ、その内容を部長に直接、質問すると宣言する。スワが制止するなか、森下は部長のいる部室に歩を進めていった…
 覚悟を決めた森下に対し、秘密を告白しろと言われても、困惑するだけの部長。「そうだ。森下ちゃんの秘密を教えてくれたら、私の秘密も教えるよ」。
 その言葉をきっかけに、森下は幼稚園で暴れたときを端緒とする、暴力に満ちた半生と、社会との齟齬を告白する。
 森下の告白を聞き、部長も語る。その通り、私は本当は暗い人間だ。しかし、あるとき1本のゲームに出会ってから変わった。この世には無数のゲームが存在する。どれだけゲームをプレイしても次のゲームが存在する。そのために生きていられる。「ゲームが私を救ってくれた。私の秘密は、ゲーム開発者になりたいということ」。
 森下はスワとべし子にそのことを報告する。
 部長の人生を変えたゲームが存在する。べし子は言う。「そのゲーム、やったことあるよ」。

・『ゲーム部⑦ファーサイドオブマッドムーン』

 部長と中学以来の付きあいで、ゲーマーのべし子はそのゲームを借りたことがあるという。ただ、暗くて難解で冗長なために途中で投げたらしい。スワと森下は、部長がそのゲームの話をしたがらないのはそのためなのでは? とべし子を睨む。べし子に分かっているのは、そのゲームが最悪で、部長の人生を変えたということだけ。しかし、この世にはプレイしたものを狂わせるゲームがあるとおどろおどろしく語る。
 スワと森下がそのゲーム『ナイトオブマッドネス』を貸すように部長にせがむと、親に捨てられたと答える。1年生たちは、先生に言えばゲームを購入してくれることを思いだし、依頼する。『ナイトオブマッドネス』はさまざまな不穏な噂があり、オンラインで在庫を調べても払底していた。が、先生が専門店に行くとプレミア価格で一点物を買うことができた。

 1年生3人はべし子の家で『ナイトオブマッドネス』をプレイする。
 RPG、ミステリーゲームに付きものの「まだすべて探索していない」だの「そこを調べたらどうだ」だの勝手な推理だので言いあいをしながらプレイする3人。なお、「マッドムーン」はずっとゲームの背景に出ている月のことだった。

 ゲーム部の名義で『ナイトオブマッドネス』を購入したことを知り、驚く部長。「なにも隠さなくていいのに」。暗くて難解で冗長なために1年生3人が途中で投げたと知り、ガッカリする部長。
 『ナイトオブマッドネス』が暗い内容だったために、ゲームは人間に悪影響を与えるか尋ねられ、部長は「与えるに決まってる」と答える。しかし、それは他のメディアも同じだ。部長はコロンバイン高校銃乱射事件を例に、ゲームと人間の関係に関する自説を語る。
 カイ先輩が来て、部長とアクションゲーム『CONTRACT CRASH』をプレイする。部長はローキック連打という姑息な戦法を使うが、カイ先輩にあっさりK.O.されるのだった。

・『ゲーム部⑧ウォリアーウィズアウトソード』

 とうとうゲーム制作も終盤に。
 シナリオもおおむね形になり、マップを作成することに。全6ステージで、おヨネと副部長はコーディングがあるため、残りの4人で分担する。部長が意味深長な第3ステージを、べし子が『アングリークッキーキング』の実績でカオスな最終ステージを、あとはスワと森下が2回ずつ担当する。

 部長がべし子がつねにハイテンションな理由について語る。べし子の両親はメキシコ人で、べし子に「戦うべし」と名付けた。現実世界で戦えば逮捕される。代わりに、べし子はゲームのなかで戦うことを始めた。実のところ、べし子がゲームをプレイしているときは、ゲームそのものを破壊しようとしている。べし子が逸脱したプレイをして、どんな些細なバグも見つけるのはそのためだ。だからこそ、べし子は「理想のテストプレイヤー」なのだ。

 部長とべし子が『マインクラフト』的なオンラインゲームをプレイする。

・『ゲーム部⑨プレアポカリプス』

 いまだに部長のことを疑っているスワ。森下はスワに「要するに部長のことが好きなんでしょう」と言う。
 スワと森下で、直接、部長に殺人ゲームを作ろうとしているのか尋ねると、笑って昔のことだと答える。部長も昔は追いつめられてナイフをもち歩いていたりもしたらしい。ドン引きするスワと森下。一方、スワは物質を偏愛し、森下は幼稚園のとき暴れたことを皮切りに、暴力癖を抱いてきた。

 部長はふたたび取材のため、部費でスワと森下に映画を観に行かせる。前回は森下好みで、今回はスワ好みの子供向けアニメ映画だった。
 映画鑑賞後、感想を話しあうスワと森下。
 川にかかった鉄橋の上で、2人の議論は激しくなる。スワは世界のすべてが物質なら平和で、なぜなら物質は永遠だからだと言う。それを聞き、森下はスワの「じゅん子」を奪う。「物質が永遠? そんなはずはない。物質はとても壊れやすい。私は誰よりもそれを知っている…」。森下が「じゅん子」を壊そうとすると、スワは錯乱する。森下は呆れ、ついには「じゅん子」をポイと川に捨てる。
 スワはそれを追った。

 夜、部長のもとに電話がかかってくる。相手は森下だった。森下は自分のせいでスワが川に飛びこんだことを説明する。そして、警察隊が捜索しているが、いまだにスワが発見されていないことを言う。「どうしよう… 私、スワくんを殺しちゃった…」。呆然とする部長のアップで幕。

・『ゲーム部⑩アンダーウォーター』

 部長は先生に電話する。先生は冷静かつ着実に対応し、そうするともう部長にできることはなくなった。他の部員に状況を知らせることを考えるが、無意味に心配させるだけなので思いとどまる。こうして、部長の長い夜がはじまる…

 心配しても無意味なため、ただ寝ようとするが、スワが死んだ場合のことを考えて眠れなくなる。スワが川に飛びこんだ原因を作った責任は自分にある。自分にすべての責任があるわけではないと分かっていても、自責と憂鬱が抑えられなくなる。気分の沈下は激化する。
 震えるなか、こうして不眠と自殺願望に襲われ、世界の終末を望みながら頭を抱えるのは、ゲーム部に入部する以前は毎夜のことだったと思いだす。なぜ、自分は今日まで生きてこられたのか? そのことが不思議でならない。
 考えた挙句、それはゲームのおかげだったと気づく。ゲームがあるから、私は今日まで生きることができた。ゲームが私を救ってくれた。
 部長はゲームをプレイする。だが、どのゲームをプレイしても、まったく面白くない。人生でもっとも辛いときに助けてくれないのなら、ゲームに救われたなどと言うことはできない。ゲーム画面の前で、部長は絶望する。

 やがて夜明けを迎える。「眠い…」「もうなにも考えたくない…」。なにも解決しないまま朝になる。
 登校しなければならない。部長は憂鬱になりながらも身支度をする。鏡の前で、「マッドムーン」の髪飾りを手にする。そして、髪飾りをつける。

 鏡に映るのは、「マッドムーン」の髪飾りをつけた、いつもの部長だった。

 部長は登校して、何事もなかったかのように振舞う。級友にも昨夜、起きたことは言わない。部長はいつも通りに授業を受ける。授業中、おヨネが部長のクラスを訪れる。そして、スワが無事に発見されたことだけを報告し、すぐ辞去する。授業が再開する。
 部長はいつも通りに授業を受けながら、涙だけを流していた。

 スワが無事に発見されたことで、いつになくハイテンションの部長。だが、ゲーム部に行くと、べし子から森下が欠席していることを聞かされる。スワの次は森下かと疲労感を覚える部長。だが、森下の行先には心当たりがあった。
 案の定、森下は川にいた。「じゅん子」を探していたらしい。部長はカイ先輩を原付を持参させて呼びつける。森下を家まで送ったあと、カイ先輩の原付で川を下っていく。だが、海に着くまで「じゅん子」は見つからなかった… 河口にかかった鉄橋の上で、呆然と海を眺める。カイ先輩は適当なことを言って部長を慰める。

・『ゲーム部 ファイナル』

 部長は残る部員にこれまでの顛末を話す。副部長はドン引きし、べし子も実感がないようだった。
 森下は欠席を続け、いまだ「じゅん子」を探していた。川べりを歩く森下の回想で、最初に森下が幼稚園で暴れたのは、友達を助けるためだったことが分かる。
 部長は森下を慰める。あと1年で自分が部長のようになれるとは思えないと言う森下に、部長は「自分はただお姉さんぶっているだけ」だと諭す。
 部長とおヨネ、そしてべし子でスワを見舞う。そして、スワに森下のことを話し、「じゅん子」を見つけたことにしてほしいと頼む。スワは踏んだり蹴ったりだと言いつつ、その提案に同意する。

 しかし、その後、スワと森下がゲーム部に来ることはなかった…
 結局、ゲーム部は元の4人に戻る。そのゲーム部にある人物が現れる。「吉崎先輩!?」。
 部長は吉崎先輩に、完成した新作『モンスターズアゴニー』をプレイさせる。「OH HEY YOU IDIOT!」(※)。スワと森下が手がけ、トチ狂った内容の『モンスターズアゴニー』に戦慄する吉崎先輩。
(※面白すぎる。最終巻で新登場していいキャラクターではない)

 吉崎先輩は『モンスターズアゴニー』に没頭。それぞれが自分のことをし、沈黙が訪れる。部長は室内を見て独白する。「どんなに酷いことが起きても日常は続くのよね。なぜなら、それが日常ということだから」。その独白とともに、作品は唐突に終わる。

・『ゲーム部 エクストラコンテンツ』

 『ファイナル』の続き。吉崎先輩がなぜゲーム部に来なくなったかと、ゲーム部に来ないあいだ、何をしていたかの話。

○感想

 本シリーズが物語的に最高潮に達する場面は、1枚絵で部長が鏡に映った自分を見るところだ。
 部長は夜を通じて苦悩し、自問自答をくり返すが、物事はなにも解決しない。ただ朝になる。それで問題の進行が終わるだけだ。
 「マッドムーン」の髪飾りをつけた部長は、そうした問題や苦悩とは無関係な、まったくいつもの部長だ。実のところ、べし子が「マッドムーン」について言ったことは正しかった。他人から見える部長は、片面でしかない。鏡を使用した構図がそのことを強調している。
 だが、部長のもう片面、「ファーサイドオブマッドムーン」とは、そうしたドラマチックなものではなく、もっと些細で日常的なものでしかなかった…

 デヴィッド・リンチは『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』で日常に潜む非日常を描いた。その非日常は、大衆的に表現すれば「狂気」とでも言えるだろう。『ゲーム部』シリーズはそれとは反対に、日常が非日常を基盤にしていることを描いた。
 非日常、大衆的に表現するところの「狂気」は、実のところ、まったく重要ではない。ドラマチックな出来事は、私たちの生活のごく一部でしかない。私たちの生活のほとんどを占めるのは日常だ。そして、本来はホッブス的な世界観の、文明の崩壊したポストアポカリプス同然の非日常が、どのようにして日常になっているか。
 『ゲーム部』シリーズは、逆立ちした『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』なのだ。

 模造クリスタルの作品は、『ビーンク&ロサ』は別として、『スペクトラルウィザード』、『黒き淀みのヘドロさん』ともに、思弁的な作風に対し、最後に中心主題を言明する(『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』を独立した1作と見なすなら、本作は説明はない)。本シリーズもそうだ。
 また、『スペクトラルウィザード』の中心主題は本作と通底している。

 さらには、ライフゲームホッブス主義、ゲーム理論の挿入で、唯物主義、物質主義をあらかじめ説明している。
 人間は数学的、物理学的に言えば複雑系で、高等に見えるが、あくまでさまざまな数学的、物理学的な現象が複雑化しただけで、ライフゲームと大差はない。正確に言えば、ライフゲームはもっとも還元しやすい複雑系の1つだ。

 そして、部長は「ゲームに生かされている」と言う。唯物主義的、物質主義的な世界を生きるものにとって、これは真実だ。
 同時に、ゲーム=フィクションも、その唯物主義的、物質主義的な世界を構成するものでしかない。『二流小説家(The Serialist=シリーズ専門家)』という小説に、こうした1節がある。「小説が自己完結的で、独立した世界をもつなんていうのは嘘だ。この世界に無数にあるシリーズものの小説、ジャンル小説のことを考えると、その熱量に圧倒されそうになる」。
 非日常なもの、ドラマチックなものの代表はフィクションだ。フィクションはそのすべてがドラマチックであり、非日常だ。それゆえ「日常系マンガ」というジャンルは逆説的だ。
 『ゲーム部』シリーズは、その逆説性を通じ、私たちの生活の本質を描破した(※)。
(※「日常に潜む『狂気』」だの「日常に潜む『異常』」だのに大喜びする一般大衆が、どれほど愚かかは、いまさら言うまでもない。しかしまた、日常というものの凄絶さを描くことのできる孤高の作家も、ごく少数しかいない)

 『ゲーム部』シリーズは歴史的な傑作だ。誰かが寄贈しているかもしれないと思って、読後、国会図書館の蔵書検索で確かめたほどだ。
 しかし、たしかに商業出版は難航するかもしれないと思った。前半はハトポポコみたいなノリで、しかも、それで並みならず面白いのに、後半で急にいつもの模造クリスタルになるため、販売には向かなそうだ。
 ちなみに、Webラジオの『人生思考囲い』の第1回で『ゲーム部』の話をしているのだが、中野でいちが「どうせ日常が続くなら何も起きなくていいじゃん! ドラマが起きるならもっと俺を甘やかしてくれ! うわあああ!」と悩乱していて面白かった。

戦争は黛冬優子の顔をしていない

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「戦争は黛冬優子の顔をしていない」略解


 ソーシャルゲームアイドルマスター シャイニーカラーズ』の黛冬優子の性格分析を行う。また、その人物造形と、ソーシャルゲームというメディアの関係を分析する。

 無論、ここにおける冬優子の性格とは、ただ二面性があるということではない。むしろ、複雑なのは、表面的な人物像を演じる性格のほうだ。
 冬優子の描写は野心家であることを強調しつつ、頻々に不安感や孤独感を表す。
 つまり、非現実的なまでに高い目標を掲げながら、きわめて現実主義的な自己評価をしている。自信家でありながら、つねに小心翼々としている。

 この両義性につき、ファンダムはおおむね2つの解釈をしている。

 第1は、ゲーム『アマガミ』の絢辻詞の人物造形だ。絢辻詞は表面的には仮面優等生で、その裏面を知ると、裏番長として振舞ってくる。しかし、その裏面も半ば演技的で、半面的なものであり、「スキBEST」エンド(恋愛シミュレーションゲーム一般におけるトゥルーエンド)では、自然体を見せる。この3面は「私」「あたし」「わたし」という一人称の区別で明確にされている。
 冬優子の人物造形につき、この構造を援用することはおおむね妥当だろう。なお、これにつき、冬優子が『W.I.N.G編』の敗退と、シーズン3『諦めたくないものはひとつだけ』共通で、例外的に「私」という一人称を使用していることを指摘できる。
 しかし、『アマガミ』では、絢辻詞が「わたし」という自然体を見せたところが結末になっている。従って、『シャイニーカラーズ』のシナリオとは物語構造が大きく異なる。よって、単純な援用はできない。『アマガミ』は、冬優子の性格分析を終えたあと、あらためて比較論として触れる。

 第2は、目標が一般的で、人格に多面性がある、いわゆる「普通の人間」だ。
 一般的な目標とは、富と名声だ。これに関し、他のキャラクターの目標が、ここまで平均一般的でないことを比較する。ただし、冬優子はときに率直に、ときに露悪的に、声価を求めると同時に、アイドルという職業の理想像を追求している。
 行動原理の一般性と、人格の多面性をもって、冬優子の性格を定義することはおおむね妥当だろう。しかし、この定義は範囲が広すぎ、個別具体性を欠く。よって、さらに詳細に性格分析を行わなければならない。

 本論に入る。冬優子の性格分析を行う。まず、『W.I.N.G編』のシナリオを確認する。
 表情差分と背景につき、適宜、補足した。表情差分の定義は筆者による。あくまで便宜的なものだ。
 ノベルゲームでは、スクリプトにおける、背景の種類、キャラクター・グラフィックの有無と差分、効果音と音楽の再生は、基本的に、シナリオライターがシナリオで指定する。少なくとも、表情差分はシナリオで決定していなければならない。よって、シナリオを確認する際は、表情差分への注意が必要だ。

・シーズン1『ワンダフルドリーミィデイズ』

冬優子(笑顔)「そうだ、プロデューサーさん/ふゆからも質問して、大丈夫ですか?」
「ん、なんだ?」
冬優子「プロデューサーさんは……」「ふゆは、どんなアイドルになれると思いますか?」

・色んな可能性がある
・一緒に探していこう
・冬優子が望むアイドルになろう

「冬優子はアイドルとして歩み始めただろう」「だからこれからもいろんな仕事を一緒にして/いろんな可能性を見つけていこう」
冬優子(瞑目)「ふゆの、可能性……」
冬優子(不安)「もし本当に……ふゆに可能性があったとして……/ふゆはまだ、間に合いますか?」

冬優子(平常)「一緒に……ですか?」
「ああ、俺は冬優子のプロデューサーだけど/ただ答えを言うだけが仕事じゃない」「色んな可能性を一緒に探して/冬優子がなりたい自分を見つけたいんだ」
冬優子(不安)「でも、プロデューサーさんに手伝ってもらうなんて……」
「いいや、それを見つけることで/冬優子はアイドルとしてもっと成長できると思うんだ」「だから、これも俺の仕事なんだよ」

「言っただろう、大事なのは冬優子の気持ちだって」
冬優子(瞑目)「ふゆが望む……/でも、それは……」
「どうした? 冬優子」
冬優子(苦笑)「もし、ですよ? もし……」「もしふゆのなりたい姿が/みんなの求めているものじゃなかったら……」
冬優子(不安)「ふゆは、どうすればいいんですか?」

・シーズン2『台本通りの茶番劇』

背景:楽屋
冬優子(瞑目・不安)「…………」
「冬優子、落ち込むことはない/緊張してただろうし、まだ仕事に不慣れなだけで――」
冬優子「……不慣れだから、本物の笑顔が作れないって?」
「え?」
冬優子(怒り)「何が本物の笑顔よ!/んなもん知らないわよ!」「こっちはちゃんと仕事してんのに/ワケわかんないこと言うなっての!」
「……ど、どうした?/いつもの冬優子らしくないぞ」
冬優子「何よ。いつものふゆって!/あんたがふゆの何を知ってんの!?」「ほんとの顔……ほんとの笑顔……/それのどこがいいの!」「ほんとのふゆを知ったら/みんな嫌いになるくせに!!」
「冬優子、落ち着け!」
冬優子(平常)「……あ……」
冬優子(挑発)「……はっ、どうしたの?/これがほんとのふゆ……だけど? お望みのね」
「冬優子……」
冬優子(悲しみ)「ほら、やっぱりそーゆー顔する/ほんとの顔なんて見せたら、みんなふゆを嫌いになるんだ」「……笑っちゃうわ」「ほら、/あんたも、ふゆに幻滅したでしょ?」

・今見せてるのは本当の冬優子か?
・アイドルの仕事はつまらなかったか?
・そうじゃないかと思ってた

冬優子(怒り)「そうだっつってんでしょ!/アイドルだって、ほんとはたいして興味ないの!」
「……そうか」「でも、アイドルに興味ないってその言葉、/冬優子が心から思っているものだとは思えないよ」
冬優子(不安)「っ……」
冬優子(怒り)「……とにかく! これがほんとのふゆだから!/ふゆがアイドルになるなんて、無理なのよ」
「……俺はそうは思わない」
冬優子(悲しみ)「……ふん/口だけならどうとでも言えるわよ」
背景:暗転
冬優子(名前のみ)「…………期待しちゃったの、バカみたい」

冬優子(怒り)「はあ? 何か関係あるわけ?」
冬優子(瞑目・不安)「…………/私は、別に……」
「冬優子は仕事の時、/いつも楽しそうにしているように見えた」
冬優子(怒り)「そりゃそうよ!/そういうふうにお芝居してたんだから」
冬優子(瞑目・不安)「あ~あ/アイドルなんて適当に笑ってればいいと思ったら」
冬優子(平常)「意外と面倒なのね/……もう、飽きちゃった」
「冬優子……」
冬優子(怒り)「な、なんなの、その眼は!」
「…………」
冬優子(名前のみ)「……もういい!/あんたなんて知らない!」

冬優子(悲しみ)「はっ……/何それ、負け惜しみのつもり?」
「……冬優子はいつも、/何を言われてもにこにこ笑ってるだけだっただろ」「でも、本当はもっと熱いものを内に秘めているんじゃないかって感じてたんだ」
冬優子(平常)「っ!」
「今の冬優子を見て……/冬優子の魅力に気づいたよ」「まっすぐに気持ちをぶつける姿勢とその目……/きっと冬優子の武器になる」
冬優子(困惑)「……はあ? 何それ/適当なことばっか並べないでよ!」
「適当なんかじゃない/俺は、本当に――」
冬優子(怒り)「うっさい!/ほんとのふゆに魅力なんてないんだから!」
冬優子(瞑目・不安)「だって……/こうでもしなかったら……ふゆは……」

・シーズン3『諦めたくないものはひとつだけ』

冬優子(平常)「ふゆは、さ。まぁ、今まで他人からどう見えるかを/ずーっと意識してたわけ」
冬優子(瞑目)「どうやったらもっと可愛いって思ってくれるか/もっとふゆをすごいって思ってもらえるかって」
冬優子(笑顔)「でも、アイドル始めてから……/他人から評価されることより、仕事をするのが楽しかった」
冬優子(瞑目・笑顔)「少しずつ仕事が大きくなっていって……/ちょっとずつ成長できてるって、実感みたいなのもあって」
冬優子(苦笑)「もしかしたら……/ふゆもキラキラできるかもしれないって、期待しちゃった」
冬優子(不安)「でも、本当のふゆは……/…………っ」
「冬優子、無理に話す必要はないんだ」
冬優子(瞑目)「……うっさい/お願いだから……今は黙って聞いて」
「……わかった」
冬優子(不安)「ふゆはね、/ほんとはいい子じゃないし……」
冬優子(瞑目・不安)「そんなの、隠そうとしても隠しきれるもんじゃない」
冬優子(苦笑)「結局あんたにもバレちゃった訳だし/じゃあいつもみたいに逃げようって」
冬優子(挑発)「でも、あんたに言われた言葉を思い出して/……逃げるのはやめた」
冬優子(瞑目)「そんで……考えた/ふゆはどんなアイドルになりたいのかって」
(冬優子(笑顔))「……そういえば、冬優子に聞いたっきりだったな」
冬優子(平常)「あの時ちゃんと答えられなかったけど/ふゆが本当になりたかったのはね……」
冬優子(真剣)「『これがふゆ』って、胸を張れるアイドル」
冬優子(不安)「だから……」
「…………」
冬優子(真剣)「あの……さ、プロデューサー」
「ああ……」
冬優子(不安)「私…………」「もう一回……アイドル、やりたい……!」

 

 説話論としては、冬優子が表面的な演技をやめ、プロデューサーに対し、高慢に接しつつ、ときに甘えてくることにより、ゲームとしての相互作用性(インタラクティヴィティ)と相俟み、冬優子を魅力的なものとすることが中心となる。
 では、強気でありつつ、ときに弱みを見せる、この冬優子の性格をどのように把握すればいいだろうか。
 無論、これはアキバ系サブカルチャーにおける遺制である、人物描写の記号の「ツンデレ」とは異なる。2020年現在における30代以上のひとびとに愛好された、「ツンデレ」という遺制は、物語における展開と、短気で情緒不安定な人物造形が合わさったものだ。なお、冬優子に関する物語と人物造形も、その定義に部分的に一致する。しかし、その遺制も、その遺制を愛好した、あるいは現在も愛好している30代以上のひとびとも、完全に無価値でどうでもいい。

 冬優子の性格を特徴づける構造は、自信家でありながら、自分を客観的に評価していることだ。
 冬優子はアイドルとして大成することを大言壮語していながら、自身と状況を正確に分析している。ゲームシステムと物語の要請で、冬優子は成功するため、自己評価は過小評価となる。事実、冬優子はアイドルという職業に高い理想があり、その理想を実現するために努力しているが、オーディション組ではなくスカウト組だ。つまり、プロデューサーにスカウトされるまで、アイドルになる意思決定はしなかった。
 とくにこの特徴が前景化するのは、シナリオイベント『Straylight.run()』と『ファン感謝祭編』だ。実力が優れ、また性格に表裏のない芹沢あさひに冬優子は遅れをとる。いわば「本物」であるあさひに羨望心と劣等感を覚えつつ、冬優子は事実関係を明確に認める。
 つまり、冬優子は苦悩する近代人、近代的自我の所有者だ。歴史上の人物の典型は「コルシカのチビ」だ。
 この意味で、冬優子は情緒不安定、つまり未熟どころか、老成している(直接的な関係はないが、ストレイライトのサポートイベントではときどきババ臭い)。

 この客観的な自己評価は、行動において、社会性として表れる。
 シーズン2『台本通りの茶番劇』の決定的な対立のあと、冬優子はプロデューサーが働きかけることなく、自ら復帰する。そのときの、理由の説明は"「仕事なんだから……当たり前でしょ」"だ。このとき、冬優子は自発的にアイドルという職業を続け、その理想像を追求することを決めている。そのため、半ば建前論だが、同時に、この説明は冬優子の価値観が表れている。
 この感情性と、それに由来する筋書きの、社会性による切断という物語は、SR『【ザ・冬優子イムズ】黛冬優子』のアイドルイベント『やる気の在庫には限りがあります』で、より簡単的確に展開している。
 なお、この物語はソーシャルゲームとして特異なものだ。このことは、冬優子の性格分析を終えたあと、作品論として分析する。
 言うまでもなく、冬優子の社会性はシナリオの事々で表れている。とくに、『ファン感謝祭編』では、台詞で明確に示される。次の台詞だ。
 "「文句じゃなくて常識って言いなさい/あんたたちに任せてたらとんでもないことになるんだから」"、"「……プロデューサーに確認してくるから/ふたりは先に進めてて、常識と良識の範囲内でね」"。
 プロデューサーに対し、冬優子が暴君として振舞うのは、公私の区別を付けているからだ。つまり、冬優子の暴君としての振舞いと社会性は、対立するどころか、むしろ調和している。
 実際、冬優子は暴君として振舞いながら、しばしばプロデューサーの反応を先読みする。これは、自分を客観的に評価していなければできないことだ。

 この性格をさらに分析するため、哲学を参照する。
 衒学趣味も修辞的な虚飾も避けたい。しかし、冬優子の性格は複雑で、また、その問題は現代的だ。従って、哲学を参照する必要がある。実際、noteには冬優子に関する多数の論評が投稿されていて、その多くが妥当だが、すべて完全ではない。

 表面的な振舞いをやめても、冬優子は半ば演技的に暴君を演じている。このことは、"「ほら、やっぱりそーゆー顔する/ほんとの顔なんて見せたら、みんなふゆを嫌いになるんだ」「……笑っちゃうわ」「ほら、/あんたも、ふゆに幻滅したでしょ?」"に対する"「今見せてるのは本当の冬優子か?」"という選択肢の台詞が、端的に示す。これは、図星を突くことで、もっとも冬優子を怒らせる選択肢だ。

 では、冬優子の自己同一性はなにをもって定義すればいいのか。ここにおける問題は、むしろ、自己同一性というものの不確実性だ。
 ジャン=ポール・サルトルは『存在と無』で、自己同一性というものは不確実だと指摘した。私たちの自己同一性の自認は、むしろ《私は私があるところのものであらぬ》というものだ(『存在と無』第1巻、p.212)。《私は私があるところのものである》と、即自存在として自己を構成しようとすることは、自己欺瞞に他ならない。同様に、《即自的にあらぬ》と言うなら、これも自己欺瞞だ。
 私たちは対自的に、自己を「私」として構成、認識する(同第2巻、p.178)。これはおおむね言語的なものだ(同前、p.289)。

 なお、このことに関し、サルトルは「実存的精神分析」を提唱する。ただ還元主義的に自己を分析すれば、無気力に陥る。"人間は一つの全体であって、一つの集合ではない。"(同第3巻、p.348)。「実存的精神分析」とは、性欲や権力意志といったものに心理を還元することではなく、より根本的に自己を考察することだ。"各々の人格が自己の何であるかを自己自身に告げ知らせるときの、主観的な選択を、厳密に客観的な形のもとで、明るみに出すための一つの方法"だ(同前、p.362)。
 これは、プロデューサーが、ビジネスにおける目標設定として、各キャラクターと行っていることだ。
 逆に、プロデューサーがこのことをキャラクターと相談せず、キャラクターが無断でアイドルの仕事を実行しようとする、あるいはプロデューサーがキャラクターにアイドルの仕事を強制しようとするシナリオは低質だ。この傾向はユニット毎に顕著で、電撃オンラインとファミ通のアンケートで、アンティーカのコミュは全体的に不人気だ。

 ジル・ドゥルーズは、この不確実な自己同一性について、『カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について』で、より詳細に分析した。
 4つの引用は、以下のとおりだ。

 "「〈時間〉の蝶番がはずれている……」──シェイクスピアハムレット』第一幕第五場"。
 "「〈私〉とは他者である……」──ランボー、一八七一年五月イザンバール宛て書簡、一八七一年五月十五日ドゥムニー宛て書簡。"
 "「認識できぬ法の数々によって支配されるのは、何たる刑苦であることか!……というのも、それらの法の性質はかくしてその内容について秘密を要求するからである」──カフカ万里の長城』"。
 "「あらゆる感覚の錯乱[dérèglement]によって未知なるものへ到達すること、……それも、長く、広大で、熟慮にもとづいた、あらゆる感覚の錯乱によって」──ランボー、前掲書簡。"。

 まず、ドゥルーズは、『ハムレット』の有名な台詞について、カント哲学以降の認識の転回を表現していると指摘する。つまり、人間が主観的な存在ではなくなったということだ。"Out of jointな時間、つまり蝶番のはずれた扉が意味しているのは、第一の偉大なカント的逆転である。すなわち、運動こそが時間に従属するのだ。時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうが運動を条件づけるのである。"(『批評と臨床』所収)。
 なお、この有名な台詞は、ハムレットが父親の亡霊から、叔父の謀殺と近親相姦の事実を知らされ、復讐を行わざるを得なくなったことを嘆くものだ。"The time is out of joint: O cursed spite,/That ever I was born to set it right!/Nay, come, let's go together.(この世の関節がはずれてしまった。ああ、何の因果だ。/それを正すために生まれてきたのか。/どうした、さあ、一緒に行こう。)"。
 次の、ランボーの有名な文句が、この評論の中心だ。日本語訳では分からないが、原文の"Je est un autre."における、英語におけるbe動詞の「est」は、三人称の活用だ。その修辞が、この文句を詩美的にし、有名にした。
 この文句を引用し、ドゥルーズはカント哲学以降の人間の主体性を説明する。

 "カントにとっては、反対に、〈私〉とは概念ではなく、すべての概念を伴う表象である。そして〈自我〉とは対象ではなく、すべての対象がまるでそれ自身の継起的諸状態の持続的変動に、そして瞬間におけるそのさまざまな度合いの無限の変調にそうするようにしてみずからを関係づけるところのものである。概念─対象関係はカントにおいても存続しているが、それは、もはや鋳造[moulage]ではなく変調[modulation]を構成するような〈私―自我〉関係によって二重化されているのである。"(同前)。
 "〈私〉がわれわれの実存を受動的で時間の中で変化する自己の実存として規定するとすれば、時間とは、精神がそれにしたがってみずからを触発するこの形式的関係、あるいはわれわれがその内部においてわれわれ自身によって触発される仕方のことである。時間とは、したがって、自己による自己の〈触発〉、あるいは少なくとも自己によって触発されることの形式的可能性として定義され得るだろう。"(同前)。

 つまり、ただの物質的な主体である自我が、「私」を規定する。時間は、その客観性に関係する基準だということだ。

 なお、残る2つの引用は、カントの『純粋理性批判』の他2つである、『実践理性批判』と『判断力批判』に対応するものだ。ドゥルーズは、美学論である『判断力批判』について、こうした強い理性を逆向きに活用するものだと論述し、本論を終える。

 つねに冷静なもう1人の自分が囁きつづけるために、使命に没頭することができない。そのために懊悩する。使命は、ハムレットの場合は復讐で、冬優子の場合はトップアイドルになることだ。しかし、その懊悩が、両者を魅力的な人物にしている。

 この性格分析に関連して、人物評価を行う。
 また、ここでもドゥルーズを参照する。
 ドゥルーズは、こうした性格を正当なものだと考える。『ニーチェ』では、主体性の理想を"意志を二分化し、活動し抑制する能力が要求される、自由意志をもった中立的主体"(『ニーチェ』、p.60)と明確に定義する。

 冬優子の本質的な性格は、悲観的で内向的だ。そのことはSSR『【オ♥フ♥レ♥コ】黛冬優子』のアイドルイベント『静寂の頃はまだ遠く』で示されている。そのため、冬優子の行動はおおむね自己を客観視していて、謙抑的なものになる。しかし、同時に冬優子は無気力に陥ることなく、実力を出そうとする。これこそ、前述の主体性の理想だ。

 また、この性格は理性にも関係する。ドゥルーズは『差異と反復』で、現代における哲学の必要性を述べる。それは、現代の世界は見せかけ(シミュラクル)の世界であるために、現代思想は表象=再現前化(ルプレザンタシオン)の下で作用するすべての威力の発見から生まれるということだ。
 ドゥルーズによれば、愚劣・悪意・狂気は誤謬に還元できない。なぜなら、愚劣=獣並み=馬鹿(ベティール)は、動物の本質ではない。そう罵倒しても、批判は、最終的に普遍的な背景=基底(フォン)に到着するだけだ(『差異と反復』、上巻、p.398)。これはまったく不毛だ。
 蓮實重彦は、『凡庸な芸術家の肖像』で、この議論をより具体化する。

 "凡庸さとは、才能の不在とは根本的に異質の、より積極的な資質でなければならない。不在だの欠如だのといった否定的な言辞によってではなく、肯定的な言辞によって積極的に語られるべき過剰なる何ものか、それこそが凡庸さというものだ。"(『凡庸な芸術家の肖像』、上巻、p.143)

 これに対し、判断の性質としての「常識(サンス・コマン)」と「良識(ポン・サンス)」は、自己を分与する配分として表象=再現前化(ルプレザンタシオン)される(『差異と反復』、上巻、p.73)。自己を分割するのではなく、自己を無批判に当然のものとし、自己の領有する空間を分割しようとすることが愚劣さだ。
 蓮實重彦の前掲書を引用すれば、こうなる。"凡庸さとは……前言語的な距離と方向の計測者的な役割への確信として露呈するもの"(『凡庸な芸術家の肖像』、上巻、p.126)だ。

 この自己を客観視する理性が、冬優子の社会性を構築している。冬優子は女性語で喋るが、まず女性語は文語だ。
 逆に、自己を自明視する愚劣さが、社会との軋轢を発生させ、「個性」と称されることになる。つまり、冬優子の社会性は「個性」の欠如でもある。このことのソーシャルゲームとしての特異さは、前述のとおり、作品論において分析する。

 性格分析の最後に、作中の冬優子における目標設定を確認する。
 冬優子の目標設定は、『W.I.N.G編』で述べられた。"「あの時ちゃんと答えられなかったけど/ふゆが本当になりたかったのはね……」「『これがふゆ』って、胸を張れるアイドル」"だ。
 より具体的には、どういうものか。
 『【オ♥フ♥レ♥コ】黛冬優子』の「True End」『今、ここにある光の色は』を参照する。

"冬優子(マスク・平常)「……アニメに漫画、ゲームに映画にドラマに、音楽……」
「?」
冬優子「……今ってさ、/追っかけきれないくらい面白いものがあって……」「しかも、スマホがあれば簡単に見れちゃうじゃない?」
「確かに、スマホでドラマとか観ること増えたな」
冬優子「うん、最新のとかも観られるし便利よね」
「ああ、じわじわ話題になったのも、/後から気軽に観られるからな」
冬優子「…………」「……それに比べて、アイドルの応援って大変よね/現場まで行かないといけないし、お金もかかるし」「あと、グッズが欲しけりゃ朝一番から並んで、/っていうかそもそもチケットも取れなかったりして……」
冬優子(マスク・怒り)「ふゆだって、アニメのイベント、/チケット取れなくてブチ切れたことあるし」「なんなのよほんと/ご用意しなさいよ」
「はは……」
(冬優子(マスク・瞑目))冬優子(マスク・平常)「……でもさ、いざふゆがそうやって、/色んな大変なことをしてもらう側の立場になると……」「――ほんとにふゆに、/そんな価値があるのかなって、思っちゃう」
「冬優子……?」
(冬優子(視線の揺らぎ))冬優子(マスク・平常)「頑張ってチケット取ってもらって、/お金使ってもらって、現場まで来てもらって――」
冬優子(マスク・瞑目)「……それでふゆを見て、/苦労は無駄じゃなかったって、そう思っておもらえてるのかな」
冬優子(マスク・不安)「こんなにいっぱい、楽しいものがある中で……」
冬優子(マスク・瞑目・不安)「…………なんて、考えちゃってた」
「…………」「俺がファンの気持ちを代弁することはできない」冬優子(マスク・平常)「……けど……/きっと、冬優子の気持ちは……」"

 ここで冬優子の述べる社会不安は、ヴァルター・ベンヤミンが20世紀前半に『複製技術時代の芸術』で予測したものだ。
 ベンヤミンは、ある芸術作品が、多人数が称賛することで物神化することを批判し、工業製品のように大量に複製できる芸術を評価した。
 ベンヤミンの予測は妥当だった。アイドルがその批判の代表的なものだ。シャーウィン・ローゼンは論文『スーパースターの経済学』で、録音技術の発達で、需要が激増し、かえってそのことで所得が「スーパースター」に偏ることを分析した(Sherwin Rosen『The Economics of Superstars』)。
 冬優子は理性が強すぎるために、その複雑化した状況に社会不安を覚える。アイドルという職業の理想像を実現し、この社会不安を解消することが、冬優子の目標設定だと言えるだろう。

 以上で冬優子の性格分析を終える。以下、『シャイニーカラーズ』の作品論を行う。

 まず、予告した『アマガミ』の比較論を行う。ここまでの冬優子の性格分析は、おおむね絢辻詞の性格分析に援用できるだろう。ただし、絢辻詞の場合は、暴君的な振舞いをせず、自然体でいられるほどの信頼関係を構築したところで、作品そのものが結末を迎える。そのため、この人間不信の強さに関し、姉の日陰者である家庭環境という物語的、感情的な理由が明示されている(冬優子は家庭環境は良好だ)。

 冬優子の人物造形はソーシャルゲームとして特異なものだ。なぜなら、社会性があり、その意味で「個性」が欠如することは、ソーシャルゲームに必要なキャラクター性が欠如することだからだ。
 その特異さが端的に表れているのが『やる気の在庫には限りがあります』だ。冬優子は感情的な振舞いをするが、責任論をもって、独自に解決する。『シャイニーカラーズ』の通常のイベントでは、この感情的な振舞いに対し、キャラクターの「個性」に合致した選択肢を選ぶことがゲームとしての相互作用性(インタラクティヴィティ)になる。どこまでシナリオライターが意図したかは不明だが、これは『シャイニーカラーズ』、ひいてはアイドル育成シミュレーションゲーム、また恋愛シミュレーションゲーム一般への皮肉になっている。実際、このコミュの力点は、そうした定型からの逸脱で、その意外な展開のために物語が構成され、その点を除けば冬優子の他のコミュより低質だ。
 無論、冬優子の人物造形とシナリオを『シャイニーカラーズ』、またソーシャルゲーム全般の例外だと僭称するつもりはない。例えば、『シャイニーカラーズ』の全キャラクターの中でもっとも依存心の強い大崎甜花でさえ、一定の社会性を持つ。
 しかし、シナリオライターがキャラクターの「個性」を無批判に当然のものだとし、怠慢になるとき、シナリオは大きく低質化するだろう。その結果は、明確に表れている。
 必要なものは、アイロニーだ。ジェルジ・ルカーチの『小説の理論』によれば、散文の文学である小説は、アイロニーによって、叙事詩から分かたれる。

 ストレイライトのユニット名は、そのままウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』から採題している。サイバーパンクというジャンルは定義が広すぎ、また、分派による内部対立がある。そのため、ここではギブスンとブルース・スターリングという2人の作家を、参照元として特定すべきだろう。両者の作品は、後期資本主義と、いわゆるポストモダニズムと密接な関係がある。詳しくは、ラリー・マキャフリー編『フィクションの現況』(『コロンビア大学文学史』所収)、同著『アヴァン・ポップ』、巽孝之著『サイバーパンクアメリカ』による。ちなみに、巽はギブスンの作歴を第1期の電脳空間三部作『ニューロマンサー』、『カウント・ゼロ』、『モナリザ・オーヴァドライヴ』、第2期の『ディファレンス・エンジン』、第3期の『ヴァーチャル・ライト』、『あいどる』に分類する。そして、90年代である第3期の作品が、もっとも世界観が現実に近いが、ギブスンは『あいどる』で日本の「アイドル(IDORU)」を"主観的欲求の集合体、統合された"憧れ"のアーキテクチャー"と指示する。

 いわゆるポストモダニズムの批判に先鞭をつけたのはカール・マルクスだ。市場経済市民社会、資本主義と自由民主主義の効用(ベネフィット)を理論化した代表的な論者がイマヌエル・カントアダム・スミスで、その犠牲(コスト)を理論化した代表的な論者がフリードリヒ・ニーチェカール・マルクスだ。ニーチェの警句はよく知られるところだ。テリー・イーグルトンは『ポストモダニズムの幻想』で、マルクスは修辞技法としてもっとも皮肉を好んだと指摘する(p.89)。

 ウンベルト・エーコは『記号論1』『記号論2』という記号論の教科書的著作を著した。そのエーコのフィクションに関する記号論、テクスト論の代表作が『物語における読者』だ。これによれば、作品は作者-作品の二項間で成立するわけではない。作者-作品-読者の三項間で成立する。また、ドゥルーズは『シネマ1』で、ヒッチコックを、監督-映画の二項間から、監督-映画-観客の三項間の関係に映画の文法を変えたとして評価する。
 冬優子がプロデューサーの反応を先読みするとき、シナリオライターもプレイヤーの反応を先読みしている。こうした意識のないシナリオライターによるコミュは退屈だ。
 サルトルは『文学とは何か』で、以下のように述べた。すべての文学は本を開くことを前提としているために、読者を信頼している。よって、「暗黒の文学」など存在しない。ただ悪い小説(読者に媚びた小説)と良い小説(読者への信頼と要求の小説)があるだけだ(『文学とは何か』、p.88)。

『Straylight.run() 』

・第5話『FALSE』

"あさひ(笑顔)「いつもの愛依ちゃんから何か変えなくても、/すごいパフォーマンスができれば、ファンは増えるっすよ!」「だから愛依ちゃんは大丈夫っす!」
(あさひ・OFF)冬優子(真剣)「――……」
冬優子(瞑目)「……もちろん、/そういうふうに上手くいくのが一番だけど――」
冬優子(苦笑)「アイドルだもん、ファンサも大事にする必要があると思うの/愛される努力は忘れちゃダメっていうか……」
あさひ(平常)「?/そのままの自分を好きになってもらうんじゃダメなんすか?」
冬優子(怒り)「……っ」
(冬優子・OFF)あさひ(平常)「別に、嘘をつかないと好きになってもらえない/ってわけじゃないっすよね?」
あさひ(笑顔)「だったら、好きになってもらえるように無理するんじゃなくて」
あさひ(平常)「無理しなくても好きになってもらえるのが/一番なんじゃないんすか?」
(あさひ・OFF)
冬優子(怒り)「……」
冬優子(苦笑)「……あさひちゃん、すごいな/ちょっとうらやましくなっちゃう」
冬優子(瞑目)「あさひちゃんの考え方は、まっすぐだと思うよ」
冬優子(笑顔)「……でもね/あさひちゃんにはわからないかもしれないけど」
冬優子(真剣)「誰でも、あさひちゃんみたいに振る舞えるわけじゃないの」
冬優子(苦笑)「……みんながあさひちゃんみたいに/強いわけじゃないんだよ」
(冬優子・OFF)あさひ(平常)「……そんなわけないっす」
(あさひ・OFF)冬優子(苦笑)「だから、あさひちゃんには――」
(冬優子・OFF)あさひ(怒り)「そんなわけないっすよ!/だって――」
あさひ(真剣)「たくさん我慢できる人は強い人っす」「……違うっすか?」
(あさひ・OFF)冬優子(真剣)「……」
あさひ(真剣)(台詞なし)
冬優子「……ふゆは違うと思う」」
(冬優子(瞑目・不安))あさひ「……」
あさひ(瞑目)「そうっすか/じゃあ、間違えたっす」
《あさひ&冬優子》「……」"

 

 冬優子が、自分はあさひのように強くないと言うのに対し、あさひは"「たくさん我慢できる人は強い人っす」"と返す。『シャイニーカラーズ』全編でも、屈指の名台詞だ。
 この皮肉と逆説がアイロニーだ。
 文学の典型であるシェイクスピアの戯曲の台詞も、皮肉と逆説に満ちている。
 サルトルフローベール論である『家の馬鹿息子』で、文学とは何かを述べる。文学が始まるのは、(意味作用を保持しつつ)分節化できないものを現前化させようとするときだ。読者は意味=物語を読むが、芸術家は意味を非-意味に保つ。そのとき、非本質的・直接的な意味作用が総合すると同時に、本質的なさらなる意味が現実化する(『家の馬鹿息子』、第4巻、p.233)。
 これに対し、自身の愚鈍さに気づかない愚鈍さ、この二重の愚鈍さこそが、アイロニーの欠けたものだ(同、第1巻、p.660)。
 ドゥルーズも同様に、愚劣さに対する文学の有用性を指摘する。最悪の文学は、名言集の代わりに愚言集を作るが、最良の文学は、愚劣の問題に取りつき、現実をそのまま再現しようとする(『差異と反復』、上巻、p.402)。その代表例がフローベールだ。

 つまり、問題は「本物」かどうかではなく、偽物が偽物として、いかに「本物」らしくあるかということだ。

 しかし、ソーシャルゲームの場合、シナリオライターは「本物」であればそれでいいという怠慢に陥りやすい。
 ソーシャルゲームフリーミアムのビジネスモデルだ。このプラットフォームビジネスは、ネットワーク効果とクリティカル・マスの2点に依存する。この場合、キャラクターは簡単で記号的なほうがいいとすら言えるかもしれない。田中辰雄・山口真一の『ソーシャルゲームのビジネスモデル』は、社会調査から、やはりネットワーク効果が課金行動に関する多変量解析で最大の因子であることを分析する(p.133)。これに関し、「キャラクター」の因子は、重回帰分析で、課金額に相関係数-0.096(p値0.01)、週当たりプレイ時間に相関係数-0.914(p値0.01)で、むしろ負の相関をしていることを分析した(p.85)。これは、「キャラクター」の説明変数は、全回答者でほぼ変わりがなく、他の説明変数の影響を受けるからだ。

 なお、あさひは冬優子とは真逆で、社会性を欠く本物だが、その場合、社会には居場所がないことを、シナリオライターSSR『【空と青とアイツ】芹沢あさひ』の「True End」『(見つけような)』で暗喩している。また、この問題が『ファン感謝祭編』の主題だ。

"『かっこよかったです』
『すっごく可愛かったです』
(『この子、性格悪そう』)

(冬優子(笑顔))(……これはやめよう、違うのを……)
冬優子(平常)「……あんた今、何見たの?」
「い、いや別に――」
(冬優子(怒り))「……あっ」
冬優子「どれ見てたのよ……/……………………」
「冬優子、意見を必要以上に気にすることは……」
冬優子(挑発)「――はっ/これ書いたやつ、大正解じゃない」
「…………」
冬優子「ふゆはね、こいつの言う通り性格が悪いの/そんなのわかりきってるわよ」
冬優子(怒り)「『性格悪そう』って思われてるなら思わせとけばいいわ/……『性格悪い』とこ、ふゆは絶対見せてやんないから」
冬優子(挑発)「作り物みたいにきらきらで、完璧なアイドル……/ふゆは、最後までそれしか見せてやんないんだからね」「だから、あんたも協力してよね」
「……ああ/一緒に冬優子を、最高のアイドルにしよう」"(『【オ♥フ♥レ♥コ】黛冬優子』、『#EGOIST』)

  ジャン=リュック・ゴダールは『映画とその分身――アルフレッド・ヒッチコック『間違えられた男』』で、ヒッチコックの映画の筋書きは、偽物が本物になるものだと論述した(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』所収)。この見方はまったく正当だろう。

"現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。『はなればなれに』でゴダールはいっていたものだ。「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが、映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ」。引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは、変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。われわれはしばしば、映画的幻覚の性質について問うてきた。世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である(ただし悪質であることをやめるときに)。"(『シネマ2』、pp.239-40)

 

追記:和泉愛依について。その人物造形については多言を要さない。黛冬優子は名前に人物造形が象徴されている。愛依もその例だと仮定する。では、「和泉」という名字はなにを象徴するのか。ロラン・バルトは『恋愛のディスクール』で、恋愛の構造を分析する。恋愛は経済合理性に対する不合理な消費だ。そして、消費が続くとき、そこに豊かさが存在する。いわば、無償だということが、愛の本質だ。同様の指摘はバタイユ以降、多数の論者がしている。さて、バルトはここでウィリアム・ブレイクの詩を引用する。"豊かさとは美である。貯水槽は水を溜めるが、泉は水を溢れさせる。"(『恋愛のディスクール』所収、『消費……豊かさ』)。これが愛依の名字の象徴するものだ。愛依に対し、本論で述べたとおり、冬優子は苦労性で、良く言って客観的、悪く言って打算的な物の見方をする。この対比は、とくにシナリオイベント『WorldEnd:BreakDown』で前景化している。

アポカリプス・ナウナウ - 終末モノの映画・小説・マンガ案内 -

"本書はみなさんに、世界が崩壊寸前にあることを、証拠をそろえて提示した。これを読んだ読者の大半はおそらく、それまでの考えを一変させ、世界の終わりが近いことを信じるようになったと思う。そうして……それだけだ。この問題に見合う行動は、個人的なものもの政治的なものも何も(ほとんど)起こらないだろう。"
(セルヴィーニュ、スティーヴンス『崩壊学』「あとがき」より)

・前書「COVID-19のパンデミックについて」

・事実確認

 COVID-19の流行は終末論ではない
 2020年4月末の感染者数・死者数は世界で280万人・20万人、日本で1万2000人・340人だ。あくまで公式なものだ。しかし、実質も誤差の範囲だろう。
 おそらく死者数が1000万人以内で流行は収束するだろう。
 感染率が全世界で100%に達したとして、死者数は数千万人だ。20世紀中に虐殺で死亡した人数の、半分にも満たない。

 ここ10Cで自然災害による死者は1500万人超。ここ2、3年では毎年約2万人が洪水で死ぬ。毎日2万人が餓死し、8億/63億人が飢餓と栄養失調で苦しむ。紀元前5Cから20Cまでに1億2千万人超が伝染病で死亡。毎年1000万人超が伝染病で死亡。700万人が悪性新生物で死亡。350万人が事故死(うち交通事故は100万人超)。…20C以前には1億3300万人が、20Cの88年間で1億7千万-3億6千万人が虐殺で死亡。16Cには160万人、17Cには610万人、18Cには700万人、19Cには1500万人、20Cには1億人超が戦争で死亡した。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった』より)

 2008年の『ニュー・サイエンティスト』掲載のDebora MacKenzie『Will a pandemic bring down civilisation?』は、パンデミックの結果につき、悲観的な予測を述べる。
 事例として挙げるのは、2000年のトラック運転手のデモだ。トラック運転手たちは、石油精製所を封鎖し、ガソリンの供給を止めた。この件では、デモが10日間続いただけで都市機能が崩壊した。
 石油メジャー「エクソンモービル」の危機管理部門によれば、1918年のスペイン風邪が再流行すれば、スタッフの25%が欠勤する。この場合は許容範囲だ。問題は、欠勤率が50%を超えた場合だ。これに関する対策は策定していない。
 2006年のWarwick McKibbin『Global macroeconomic consequences of pandemic influenza』(https://cama.crawford.anu.edu.au/pdf/working-papers/2006/262006.pdf)によれば、パンデミックにつき、最悪のシナリオで、死者数は1億4200万人、世界のGDPは-12.6%、4兆4000億ドル減少する。この想定は致死率3%だ。

 IMFは4月度の2020年の世界経済見通しを発表した(https://blogs.imf.org/2020/04/14/the-great-lockdown-worst-economic-downturn-since-the-great-depression/)。
 これによれば、第2四半期がパンデミックのピークとして、世界のGDPは-3%だ(前月比-6.3pt)。
 2021年までに、経済が2009年以前の状態まで回復した場合、2021年は+5.8%だ。2020年、2021年のGDPの損失は合計9兆ドルだ。
 2020年、先進国のGDPは-6.2%だ。発展途上国は-1.0%、中国を除外すれば-2.2%だ。
 以上は楽観的なシナリオに基づく。悲観的なシナリオでは、今年の半ばを過ぎても、パンデミックは拡大する。この場合、世界のGDPは2020年は-6%、2021年は-3.8%だ。

 スティグリッツは名著『世界を不幸にしたグローバリズムの正体(Globalization and Its Disxontents)』でIMFの体質を厳しく批判する。経済学における最高の知性であり、同時に、世銀で辣腕を振るったスティグリッツだけに、その批判は明晰かつ具体的だ。
 IMFは「ワシントン・コンセンサス」をドグマとし、そのため、失策を重ねてきた。
 IMFの体質が変わっていないとすれば、おそらく、現実化するのは悲観的なシナリオだろう。

・分析

 COVID-19による政治不信、景気後退、社会不安とはウイルスというより、免疫反応によるものだ。
 なぜなら、COVID-19と同等のリスクは無数に存在する。例えば、交通事故の年間死者数は世界で130万人、日本で3500人だ。戦争、貧困、犯罪、交通事故、労働災害アルコール依存症ギャンブル依存症。先進国各国において、人命のため、GDP-6%の縮小幅が許容できるなら、諸課題への対策は実施されていたはずだ。
 この経済政策の不備は、ディートン『大脱出』、ウィルキンソン、ピケット『平等社会』が詳しい。
(※COVID-19の対策を実施すべきではなかったという意味ではない)

 現在の政治、経済、社会はどのようなものか。
 ゴードン『アメリカ経済 成長の終焉』が、世界がいわゆる「長期停滞」にあることを立証している。
 ネグリ、ハート『マルチチュード』は、その社会の文化を述べる。低成長(本文では「近代以後」)の社会では、文化は原始的、神話的なものを志向する。
 同時に、労働と消費は祭祀的なものになる。労働は、グレーバーが『Bullshit Jobs』で「低能のためのクソ仕事:bullshit job」と呼ぶものが大半になる(https://toyokeizai.net/articles/-/231990)。また、消費も「浪費:誇示的消費」が大半になる。誇示的消費の概念を構築したのは、ヴェブレン『有閑階級の理論』だが、本書の内容は「低能のためのクソ消費」だ。
(※エリート主義ではない。この価値観は普遍的なものだ。『1日外出録ハンチョウ』の第58話『主従』の、「最高の焼肉は、小汚い焼肉店で安い肉を自由に食べること」という内容でさえ、この価値観に則している)

 総合すれば、現在の政治、経済、社会は、生政治的経済に基づくものとなる。ネグリ、ハート『〈帝国〉』、『マルチチュード』。マラッツィ『現代経済の大転換(原題:靴下の経済)』、『資本と言語』が詳しい。
 金融市場の膨張と経済格差の拡大につき、より具体的には、ピケティ『21世紀の資本』、アンソロジー『ピケティ以降』が詳しい。経済問題が政治、とくに労働組合の加盟率の急減に起因することは、ディートン、同前、ゴードン、同前が詳しい。

 ネグリは『マルチチュード』で以下のように指摘する。本来的に、国家は規律権力(規律的な行政権力)、管理権力(政治的な管理権力)、戦争(を起こす権力)の順番で、意思決定が為される。しかし、セキュリティが生産的な性格を帯びるに従い、この順番は逆転する。
 セキュリティとは、つまり生政治的なものだ。
 これが、COVID-19による影響を、ウイルスというより免疫反応だと言う理由だ。

 武漢市でCOVID-19の流行が起き、中国政府が、封鎖による感染拡大の防止を実施しようとしたとき、良識あるひとびとは「現実的に不可能だ」と考えた。しかし、各国政府は中国政府に対応を一任し、拱手傍観した。
 現在、先進国各国で都市封鎖が実施されている。これで感染拡大の防止ができるかと言えば、私たちはふたたび「現実的に不可能だ」と考える。つまり、イギリス政府の当初の対応策が、もっとも現実主義的なものだった。
(※ネットスラングで言えば「ブリカス」だ。しかし、現実主義への批判で使用する「人命尊重」という名目が、きわめて欺瞞的なことは、ここまで詳述したとおりだ)

 …ここまで長々と書いたが、COVID-19の流行に関する政治、経済、社会の概説は、浅田彰『疫病の年の手紙』が、私の知るかぎり、もっとも妥当だhttp://realkyoto.jp/article/asada20200424/)。

(私的なことを述べる。ツイッターについてだ。
 日本政府は「定額給付金」として、全国民への10万円の支給を決定した。財源は8兆円超の赤字国債の発行だ。言うまでもなく、赤字国債の累積は、利率の上昇と、潜在的リスクという、経済への悪影響がある。日銀が国債保有率の46%ほどを占めるという、日本固有の事情を踏まえてもだ。しかも、定額給付金が景気刺激策として、「完全に」無意味であることは、この愚策がリーマンショック後に実施されたことで立証された。しかし、日本政府は生活保障の名目で、この愚策を決定した。だが、生活保障と言うならば、この愚策は、低所得層向けの30万円の支給を改定したものだ。つまり、完全に論理的に破綻している。当然、景気対策と生活保障の財政出動はすべきだ。しかし、この愚策は有害無益でしかない。
 ところが、ツイッターでは、2クリック圏のアカウントでも、この愚策を賛成、少なくとも消極的に肯定するものが多い。だが、当然、朝日新聞日経新聞は、この愚策に批判的だ。つまり、ツイッターの品位はゴシップ紙未満ということだ。ゴシップ紙は精神衛生に悪い。そういう事情で、私はツイッターの利用をやめようかと考えている…)

・予測

 COVID-19のパンデミックで、政治、経済、社会は変わらない
 ここまで詳述したとおり、現在の先進国各国の政府の対応は、むしろ保守的なものだ。
 さらに、資本主義は、むしろ災害で拡大しようとする。これについては、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で例証する。
 パンデミックの収束とともに、生政治的な経済は、前年度以上に加速する。ただし、パンデミックという外圧により、全要素生産性は向上するだろう。これまでも、技術的には導入可能だったテレワークが、ようやく大規模に導入されたことが好例だ(しかし、パンデミックが収束すれば、導入されたテレワークは大半が撤廃されるだろう。低成長の社会では、労働と消費は祭祀的なものになる。ひとびとはふたたび、無意味に出勤させられるだろう。つまり… わざと、生産性を下げる(!)のだ)。
 ちなみに、戦争、災害で社会秩序の崩壊が起こることはない。アルドリッチ『災害復興におけるソーシャル・キャピタル』、ソルニット『災害ユートピア』は、逐次的に、ホッブスの自然状態という神話に反証する。

・なぜ、ここまで長い前置をしたのか。

 ドゥルーズは書斎派で旅行嫌いだった。旅行という文化を嫌悪してすらいた。(『記号と事件』所収の『口さがない批評家への手紙』より)
 つまり、ドゥルーズは、都市封鎖における模範市民だ。
 しかし、都市封鎖が代表する、生政治的な経済と権力をもっとも先鋭に批判し、その概念を構築したのが、他ならないドゥルーズだった。
 ドゥルーズは『黙示録』を嫌悪した。まさに、『黙示録』こそが、そうした経済と権力の構造を支える、暗愚さの象徴だからだ。(『批評と臨床』所収の『裁きと訣別するために』より。本論でドゥルーズは『黙示録』を批判した作家として、ニーチェ、ロレンス、カフカアルトーを挙げる。彼らの作品は、終末モノに直接、間接の影響を及ぼす)
 そして、COVID-19の流行を黙示録めいて考えているひとびとは、どうにも、読書嫌いで旅行好きのようだ。

 そもそも、アポカリプスというなら、私たちはすでにその中にいる。上掲の『崩壊学』によれば、エネルギー収支比率(ERoEI)は、アメリカで、20世紀初頭に100:1、1990年代に35:1、2010年代に11:1だ。世界平均は10-20:1。都市生活を経営するのに必要なのは12-13:1だ。
 地球資源に関する「ローマ・クラブ・レポート」は1960年代末から、2004年の改訂版まで、一貫して正確だ。2004年の勧告では、①人口を2040年までに75億人で安定させること。②工業生産を2000年度の20%以下で安定させること。③農業収穫高を向上させること。の3点を、持続可能性の条件とした。しかし、プロジェクトの主任のメドウズは、2013年に、もはや条件は存在しないと声明した。曰く「70年代、限界は誤りだと言われた。80年代、限界はまだ先だと言われた。90年代、市場とテクノロジーが、限界を克服すると言われた。2000年代、それでも成長以外に、限界を克服する方法はないと言われた」だ。

 念のために言えば、「スウェーデン国籍」「10代」「女性」の3つの属性で指示される、ある有名人はクソだ。ウェルベックの『セロトニン』では、話者の恋人が富裕層出身のエコロジストで、話者は恋人を「甘やかされた我がままなクソ女」と言って、環境破壊に与する(つまり、ゴミの分別をやめる)。もちろん、ウェルベックが正しい。人類に存続する価値があるというのは、増長した、自己中心的な考えだ。
 というより、専門機関の調査報告は無視するにもかかわらず、有名人の発言には一喜一憂するほどに人類が暗愚だから、環境問題はここまで深刻化したのだ。
 人類が絶滅しても、誰も困らない。人類とは、スピード狂の友人のようなものだ。死んでほしいとは誰も思わないが、死んだとしても、誰も同情しない。

 以下、終末モノを渉猟するが、それらは決して黙示録ではない。
 むしろ、私たちの日常と、黙示録の中間にあるものなのだ。

・本文

 各作品のネタバレをしている。適宜、注意してほしい。

・映画

 終末モノといえば、視覚的なものだ。従って、まず映画を紹介する。次いで、小説、漫画を紹介する。

スタンリー・クレイマー監督『渚にて』(1959)

 終末モノの古典。
 きわめてペシミスティックだ。なにせ、終末を目前にして、市民には安楽死用の睡眠薬が配布される(YouTubeの『Local 58』シリーズの元ネタ)。
 クレイマーの監督作は他に、『手錠のまゝの脱獄』、『ニュールンベルグ裁判』、『招かれざる客』(とくに後二者は傑作)とあり、きわめてヒューマニスティックなのが面白い。

・ジョージ・A・ロメロ監督『ゾンビ』(1978)

 いわゆるゾンビ映画の原点。同時に、到達点でもある。
 導入はテレビ局の報道番組のスタジオだ。緊迫した会話で、すでに社会が崩壊の瀬戸際にあることが分かる。そして、テレビ局のヘリで脱出する…
 きわめて小規模の予算で、簡単的確に、世界の終末を表現している。
 付言すれば、郊外で、いかにも予備役らしい、軍服を着た若者たちが佇立しているシークエンスも見事だ。無人のショッピングモールというロケーションについては、言うまでもない。
 終末という主題性と映像が、完璧に合致している。
 ヘリでの脱出をエンディングとするシノプシスは、あまりに見事で、諸作品の範例になった。

・『アイ・アム・レジェンド』(2007)

 …『ゾンビ』が原点にして、到達点に達してしまったのではないかという疑念をもたせる1例。
 大予算で、廃墟と化したニューヨークを見事に撮影している。…が、映画としては、それだけ。映像としては、見る価値がある。

ダニー・ボイル監督『28日後…』(2002)

 終末モノとして『ゾンビ』に比肩する、数少ないゾンビ映画
 クライマックスで、あからさまに宗教的なモチーフを引用する。ただの終末というより、「最後の審判」に近い。

白石晃士監督『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!最終章』(2015)

 映画の冒頭で、何者かが作った人形が、各所に大量に放置されていることが語られる。人形はゴミ袋で作ったもので、人間の大きさがある。意図が不明で、不吉な兆候だ。黙示録的だ。そして、クライマックスで、町全体に警報が響く。防災無線の警報だと推測できるが、状況は不明なままだ。慌てて外に出ると、人形が人間を襲っている。人形に触れられると、人間は灰になるらしい。
 いわゆるフッテージで、ごくごく小規模の予算ながら、世界の終末を的確に表現している。
 終末モノとしては、同監督の『ある優しき殺人者の記録』の台詞が、主題を端的に表現している。「信じてくれてありがとう」。妄想と区別できない啓示を他者が信じたとき、世界の秩序は回復する。

ジョン・ヒルコート監督『ザ・ロード』(2009)

 コーマック・マッカーシー原作なら、『ノーカントリー』のほうが虚無的にも思える。

ジョン・カーペンター監督『マウス・オブ・マッドネス』(1994)

 メタ=フィクション的に、作品の終わりと、作中における世界の終わりが同致している。このフィクションへの感覚の鋭敏さは、後述の『キャビン』と『カリスマ』も同じだ。
 その鋭敏な感覚により、初期作の『ダーク・スター』『要塞警察』、ポスト・アポカリプスの『ニューヨーク1997』、『エスケープ・フロム・L.A.』、明確に社会批判的な『ゼイリブ』、など、数々の名作を制作した。

ドリュー・ゴダード監督『キャビン』(2012)

 エレベーターの「チン!」。
 …終末モノとしては、メタ=フィクション的な外部の含意もある巨腕で、すべてが破壊されるエンディングだ。ここには、ラヴクラフト的な宇宙的恐怖の文脈もある(「クトゥルー神話」というジャーゴンは避ける)。

・同監督『クローバーフィールド』(2008)

 同監督の名前を出したため、一応。「等身大」の登場人物に感情移入させる「リアリティ」のためとはいえ、冗長が大部分で、とても勧められない。
 しかし、エンディングの、なにか巨大なもの(「KAIJU」)にアリのように踏みつぶされる感覚は迫真だ。

フランク・ダラボン監督『ミスト』(2007)

 人間が遭遇したくない状況がだいたい出てくる。
 終末モノとしては、ファイナル・シークエンスの巨大な怪物が白眉だろう。ここまで無限にアポカリプス的な状況に遭遇していても、諦めがつく。カントは『判断力批判』で、この感覚を「崇高」と定義した。
 映画版の『ミスト』で正しい選択についてはよく話題になるが、主人公、弁護士、宗教オバサンが、それぞれヴェーバーの「伝統的支配」「合法的支配」「カリスマ的支配」を代表していて、すべて、その悪い側面が表れただけだ。つまり、正解はない。なお、ヴェーバーは『職業としての政治』で、いわゆるこの「三類型」について、ごく簡単にしか触れていない。

スティーブン・スピルバーグ監督『宇宙戦争』(2005)

 傑作
 本作の360度連続ショットは映画史の画期とされる。
 他に、避難民たちに襲撃されるシークエンスが白眉。
 アメリカ人は銃と車があればなんとかなると思っているらしいが、本作では、銃と車が悪い方向にしか作用しない。

黒沢清監督『CURE』(1997)
・同監督『カリスマ』(1999)
・同監督『回路』(2000)
・同監督『叫』(2007)

 …黒沢清は『カイエ・デュ・シネマ』の「2000年代の映画ベスト10」の企画で『宇宙戦争』を第1位に挙げ、その声望を増した(その黒沢自身、鼎談で、こうしたランキングは本人のセンスが問われるため、不正確になりがちだという意見に賛成している)。

 『CURE』の、よく知られたプロットは以下のとおりだ。役所広司演じる刑事が、他人を催眠術で殺人衝動に追いやる記憶喪失の男を追跡する。が、実は、エンディングで、刑事がその能力を継承したことが示唆されている。そして、映画の全編に渡り、刑事を通じ、個人と世界の齟齬を描写していた。作品の終わりから数ヶ月後には、作中の世界が滅んでいることは、想像に難くない。そして、その世界の終末こそが、個人と世界の齟齬に関する、個人の精神病の「CURE:治癒」なのだ。

 『カリスマ』については上述した。《世界の法則を回復せよ》。「お前… なにしたんだ」。本作のロケーションは、ほぼ山中だ。スタッフロールが始まると同時に、それまでのシナリオとはまったく無関係に、崩壊する都市が山腹からロングショットで撮影される。そして、上空を高速でヘリが去ってゆく。
 あらゆる映画で随一のエンディングだ。

 『回路』はクライマックスの無人の銀座が白眉。
 その後、旅客機が低空を滑空して墜落するカット(当然、1カットだ)が終末の「崇高」の感覚をもたらす。
 エンディングの、洋上のほぼ無人の客船は、こうして見ると『渚にて』と『ゾンビ』の合わせ技だ。

 『』は黒沢清の終末モノの集大成だ。ここにおける「赤いドレスの女」のイメージは、そのまま『デス・ストランディング』に借用された。

 近作の『散歩する侵略者』もエイリアン映画で終末モノなのだが、『トウキョウソナタ』以降の作風の変化と、フジテレビの協賛で、以上の作品とは主題が真逆だ。

テリー・ギリアム監督『未来世紀ブラジル』(1985)

 情報省ビルと、ファイナル・シークエンスのロケーションが見事だ。ファイナル・シークエンスの「崇高」な空間は、ロンドンの南クロイドン発電所の冷却塔らしい。情報省ビルは、ポストモダン建築家の設計した、パリ郊外の公共住宅「アブラクサス」だそうだ。

・同監督『12モンキーズ』(1996)

 終末モノで、主演がまさかのブルース・ウィリスだ。
 だが、傑作だ。短編映画の『ラ・ジュテ』が原案になっている。
 メタ=フィクショナルな構造をもち、『ラ・ジュテ』と同様、ヒッチコックの『めまい』を引用する。『めまい』もまた、映画そのものの存立を揺るがす、メタ=フィクショナルな作品だ。

リチャード・ケリー監督『ドニー・ダーコ』(2001)

 …本作もまた、ループものの構造をとる。
 鬱屈した青春を過ごしたひとびとにとっての記念碑的な映画だ。
 世評で「難解」と言われることが多いが、そうしたひとびとにとっては、この上なく明快なシナリオだ(あえて通俗的に要約すれば、こうなる。10代にして限界を覚えた少年が、社会のことを分かっているクールな教師に認められたり、自己啓発セミナーのクソ講師を論破して喝采されたりして、最後には、かわいい彼女と妹を助けて死ぬ)。
 主題歌の『Mad World』の歌詞が、すべて言明している。

 "The dreams in which I'm dying are the best I've ever had."(人生でいちばんいい夢を見たんだ。僕が死んでいる夢だ)

 "Went to school and I was very nervous. No one knew me, no one knew me. Hello teacher, tell me what's my lesson. Look right through me, look right through me."(緊張して学校に行ったら、誰も僕のことを知らないみたいだった。先生に挨拶して、僕のクラスはどこか尋ねたんだ。でも、誰も僕のことが見えないみたいだった)

ヴィム・ヴェンダース監督『夢の涯てまでも』(1991)

 SFだが、ヴィム・ヴェンダースなら、終末モノの雰囲気は『さすらい』と『ベルリン・天使の詩』のほうが強い。

リドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982)

 やたらと版(ヴァージョン)があるが、単純に、ディレクターズ・カット版を推奨する。劇場公開版だけは論外で、クライマックスの、腐朽した公共住宅を舞台にしたシークエンスが大幅に除去され、ゴシック・ホラーの雰囲気が毀損されている。
 展開そのものは原作と同じだが、この雰囲気は映画固有のものだ。
 一方、原作はディックが得意とするミステリー・サスペンス的なシノプシスで、より直接的に主題を述べている。放射性物質の降下で火星への移住が進み、地上の動物は模造品で代替されている。また、人間も「情調オルガン」で自己の感情を制御する。賞金稼ぎのデッカードは、偽警察官、警察署分署の偽装など、さまざまな罠に遭遇する。まず疑うべきは、自分がアンドロイドかということだ。しかも、懸賞金のかかったアンドロイドは、人間より人間らしかった…
 映画、原作のどちらも終末モノに通ずる。ディックが『高い城の男』の田上について、"わたしにとって小説を書く上での大きな喜びは、ごく平凡な人物が、ある瞬間に非常な勇気を発揮しなにかの行動をするところを描くことだ。"と述べたことに注目しよう。

ルチオ・フルチ監督『ビヨンド』(1981)

 傑作
 "「汝は暗き海に向かい、とこしえにさまよわん」"。
 終盤で展開が混迷することについて、疑問を持つひとが多いようだが、世界の終末、秩序の崩壊としては、非常に納得がゆく。コーラスのある劇伴『Voci dal Nulla』とともに、上掲の『エイボンの書』の1節がナレーションされ、主役2人が荒涼とした冥界に放置されるエンディング・シーンは、死後の世界の表現として、もっとも説得力がある。
 序-中盤の、主役が老朽化したホテルの再建に苦慮したり、主役2人が「中年の恋愛」に躊躇したりという、ささやかでちっぽけな日常の情景が、主題性を支えている。

アンドレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』(1979)
・同監督『サクリファイス』(1986)

 タルコフスキーの『ストーカー』は終末モノの代表作とされる。いわゆる芸術映画からサブカルチャーまで、影響は大きい。
 さて、ここである逸話を引こう。カンヌ国際映画祭に関するシンポジウムで、若手の映画監督や批評家がデ・パルマのことをクソミソに貶していた。彼らの1人が「自分はタルコフスキーが好きだ」と言うと、脇で聞いていた蓮實重彦がスッとはいり、「タルコフスキーよりはデ・パルマのほうが映画を分かっている。タルコフスキー映画作家ではあるが、映画人ではない。デ・パルマは映画人だ」と言って、彼らを黙らせたらしい。感動的な話だ。
 タルコフスキーは著書でブレッソンについて、「ブレッソンがはじめて映画を芸術にした」と熱賛している。ブレッソンは『シネマトグラフ覚書』で、"演劇というどうにも始末に負えない因習"を厳しく批判している。ところが、タルコフスキーの映画は演劇的だ。
 無論、タルコフスキーの映画は傑作だ。しかし、この程度のことは弁えておかなければ、タルコフスキーの映画に感銘を受けたと言っても、インドのガンジス川や、オーストラリアのエアーズロックを見て「人生観が変わった」と言う、マジでしょうもないカスと同等だろう。

 『ストーカー』の映像は、とくに《サザーン・リーチ》三部作や、《裏世界ピクニック》シリーズに直接的な影響を与えた。ただし、注意点がある。参照元の重点は、幻想的な建築物の内部ではなく、ひとの手のはいらない自然だ。ティモシー・モートンの《ダーク・エコロジー》論や、『Collapse』掲載の思弁的実在論は、タルコフスキーを参照するが、これも、正確には『ストーカー』の自然だけだろう。
(※なお、これらの論者がタルコフスキーと並び、引用するのがラヴクラフトだ。しかし、実のところ、ラヴクラフトの作品で、プロットに世界の終末が関わるのは『クトゥルフの呼び声』だけだ。無論、宇宙的恐怖そのものは、ラヴクラフトの多くの作品で使用されている。『クトゥルフの呼び声』がセミ・ドキュメンタリー形式であることは、注目すべきだ)
 原作の『路傍のピクニック』の1節は、人間中心主義批判を見事に表現している。

"「ピクニックだよ。こんなふうに想像してみたまえ――森、田舎道、草っ原。車が田舎道から草っ原へ走り下りる。車から若い男女が降りてきて、酒瓶や食料の入った籠、トランジスターラジオ、カメラを車からおろす……テントが張られ、キャンプファイヤーが赤々と燃え、音楽が流れる。だが朝がくると去っていく。一晩中まんじりともせず恐怖で戦きながら目の前で起こっていることを眺めていた獣や鳥や昆虫たちが隠れ家から這いだしてくる。で、そこで何を見るだろう?。草の上にオイルが溜り、ガソリンかこぽれている。役にたたなくなった点火プラグやオイルフィルターがほうり投げてある。切れた電球やぼろ布、だれかが失したモンキーレンチが転がっている。タイヤの跡には、どことも知れない沼でくっつけてきた泥か残っている……そう、きみにも覚えがあるだろう、りんごの芯、キャンデーの包み紙、罐詰の空罐、空の瓶、だれかのハンカチ、ペンナイフ、引き裂いた古新聞、小銭、別の原っぱから摘んできた、しおれた花…」
「わかりますよ。道端のキャンブですね」
「まさにそのとおりだ。どこか宇宙の道端でやるキャンプ、路傍のピクニックというわけだ。きみは、連中が戻ってくるかどうか知りたがっている」"
ストルガツキー兄弟『路傍のピクニック』より)

 バラードは短編で延々と似たようなことを書いている。また、ギブスンも短編『辺境』で同様の表現を使用している。
 『惑星ソラリス』はレムの原作だと、主題は人間中心主義批判だが、タルコフスキーの映画では、単純に、個人の苦悩に回収している。
 『サクリファイス』は宗教的な雰囲気が強い。しかし、着物を着た男が、家に火を点けてバタバタするクライマックスは、まるでドリフの大がかりなセットを使ったコントだが、なぜか説得力がある。

ジャン=リュック・ゴダール監督『アルファビル』(1965)
・同監督『新ドイツ零年』(1991)

 『アルファビル』は文明の終焉を主題とした近未来SFで、間諜のレミー・コーションが管理都市「アルファビル」に潜入する。『新ドイツ零年』は初老のレミー・コーションを主役にした『アルファビル』の続編だが、なぜか崩壊する東ドイツが舞台になっている。しかし、主題は同じく文明の終焉だ。62分の短い作品だが、ゴダールの監督作の白眉だろう。
 ゴダールの監督作では、近作の『愛の世紀』、『アワーミュージック』も終末モノの雰囲気が強い。
 もちろん、『新ドイツ零年』の題名は、ロッセリーニの『ドイツ零年』にオマージュを捧げたものだ。ゴダールは『映画史』シリーズで、イタリアのネオ・レアリズモを熱賛した。驚嘆すべきことに、戦災のあとの廃墟で、稀代の傑作の群れが撮影されたのだ…
 『新ドイツ零年』では、モーツァルトベートーヴェンストラヴィンスキーショスタコヴィッチと、クラシック音楽の古典派、新古典派の楽曲を劇伴に使用している。
 このことは注目すべきだ。いわゆる「人間の終焉」と親縁的なのは、フィリップ・グラスアルヴォ・ペルトなど、現代クラシックのミニマリズムだろう。つまり、終末モノと「人間の終焉」は系譜が異なる

ケヴィン・スミス監督『レッド・ステイト』(2011)

 観ろ
 傑作カルト教団とATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)の銃撃戦が、奇妙にも、黙示録的な光景を招来する。

ラース・フォン・トリアー監督『メランコリア』(2011)

 近年における、終末モノの代表作だろう。小惑星の衝突による人類の滅亡が目前に迫ったひとびとを描く。
 内容はかなり単純だ。前半で、不快なひとびとの「こんな連中は死んだほうがマシ」という様子を描く(鬱病の人間には、不快なひとびとはとくに耐え難い)。後半で、人類の滅亡を目前にして、鬱病の主役がひとり勝ちする様子を描く。鬱病の主役は、小惑星の衝突の当日に、木の棒でテントを作ったりもする。はしゃぎすぎだろ。
 道満晴明が同名、同設定の漫画を描いた。詳しくは後述する。

 『崩壊学』は、文明社会の崩壊を認めたひとびとを、以下のとおり分類する。①冷笑:「それはいい。この社会は本当に腐っている。崩壊して当然だ。いっそ、崩壊万歳! と言いたいくらいだ」 ②無関心:「どうでもいい。文明社会が崩壊しようが、そのときどきで最善を尽くすだけだ」 ③サバイバリスト:映画マニア。シェルターを建設したり、サバイバル技術を訓練したりする。 ④エコロジスト:楽天家。トランジションや低成長を陳情したり、啓蒙したりする。
 本作の立場は… 分かるよね?

ウォン・カーウァイ監督『花様年華』(2000)

 ウォン・カーウァイの代表作。傑作。
 不倫の話。イギリス人が好きらしい。好きそう。

 とくにアポカリプスは関係ない。が、このリストに挙げたことには理由がある。
 エンディングのシークエンスが、アンコールワットでの長回しになっている。
 美学者の谷川渥は『形象と時間』と『廃墟の美学』を中心に、西洋絵画における「廃墟画」と、それに関する評論を分析している。おおむね、無人ネクロポリス:死都)荒廃(時間性)が、廃墟の審美的な特性のようだ。
 無論、これは終末モノの特性でもある。
 その意味で、本作は終末モノのジャンルに示唆的だ。

レオス・カラックス監督『汚れた血』(1986)

 パンデミックによる都市封鎖下なので、一応。
 「愛のないセックスをすると死ぬ」という伝染病の蔓延したパリを舞台にしたノワール映画だ。この映画を観て「物語の設定は、いまのソーシャル・ディスタンスを連想させます。主人公の青年は「愛」がなくて死んでしまう。ひととひととの繋がりが大切だということを切実に感じました」というコメントでもフェイスブックに投稿すれば、たくさんの「いいね!」が貰えるだろう。勝手にやってろ。
 実際の映画の主題は、孤独と相互不理解だ。ドニ・ラヴァンジュリエット・ビノシュがベッドに横並びに座って対話するシーンは、映画史に残る。このシーンは、同時に1つの方向しか撮影することができないという、カメラの性質を前景化する。

・小説

 メアリー・シェリーの『最後の人間』は読むな。『フランケンシュタイン』の著者による終末モノということで、近年、引用されることが多いが、内容はただのハーレクイン小説。『終末のハーレム』を読んだほうがマシ。逆に、本作をもっともらしく引用する人間は、それだけで疑わしいと識別できる。
 バラードは、この主題について記述するなら別稿を要するため、省略する

・ベン・H・ウィンタース著『地上最後の刑事』(2012)
・同著『カウントダウン・シティ』(2013)
・同著『世界の終わりの七日間(World of Trouble)』(2014)

 『地上最後の刑事』三部作。
 近日中に小惑星が衝突し、人類が滅亡することが、幾多の検証を経て、疑いなく証明された。ひとびとは諦念とともにその事実を認め、社会は緩やかに崩壊を始めていた… その世界で、ただひとり、警察官としての職務を果たそうとする新人刑事を描く。
 実のところ、この設定と主題は、第1作でほぼ描ききっている。
 いわゆる「喪の作業」に従い、第2作は狂躁的に、第3作は沈痛になる。
 というわけで、パンデミックにかこつけて、フェイスブックで「いいね!」稼ぎがしたいなら、第1作の『地上最後の刑事』がオススメだ。
 それは別論としても、終末を目前にした世界の哀愁や、真面目でひたむきな主役など、非常にいい作品だ。

・ウラジーミル・ソローキン著『氷』(2002)
・同著『ブロの道』(2004)
・同著『23000』(2005)

 『』三部作。
 三部作と題されているが、『ブロの道』と『23000』は『』の前日譚、後日譚で、副次的なものだ。実質的には『』がすべてだ。
 隕石落下現場から採掘された氷塊で胸を叩くと、選ばれた人間が覚醒する。その特徴が金髪碧眼で、覚醒したひとびとで構成されたカルトは、組織的、計画的に金髪碧眼の人間を襲撃していた。
 白眉は第3部だ。規模を拡大したカルトが、大企業の新製品の装置の試供を装い、条件に該当するすべてのひとびとに試験を実施する。その結果、無差別的に、無数のひとびとが覚醒する様子が、多数のインタビューのコラージュで描かれる。まさに黙示録だ。
 この手法はセミ・ドキュメンタリー形式とも言え、終末モノのジャンルに示唆的だ。バラードは終末モノで、写実調の文章を多用した。

・ミシェル・ウェルベック著『素粒子』(1998)
・同著『ある島の可能性』(2005)

 『素粒子』はいわゆる枠物語で、遺伝子工学によって創造された新人類による、旧人類のドキュメンタリーの体裁をもつ。まさに終末モノだ。
 「遺伝子工学で死を克服した新人類」というユートピア主義は、かなり分かりやすく、『Fate/Grand Order』の第1部のラスボスの目的にも借用された。
 『ある島の可能性』は、その過程を描写したSFスリラーだが、ウェルベックの全作と同じく、陰気な話者が延々と社会を愚痴りつづけていて、かなり笑える。

伊藤計劃著『虐殺器官』(2007)
・同著『ハーモニー』(2008)

 クラヴィス・シェパードがアメリカをホッブス的な混沌に導いたのは、当然、諸外国のためではなく、自分のためだ。そもそも、シェパードの行為は、直接的に、アメリカだけでなく、英語圏すべてを犠牲にする。間接的には、全世界を破壊する。実際、『虐殺器官』の未来という設定の『ハーモニー』で、そう説明されている。
 はてな匿名ダイアリーの『伊藤計劃虐殺器官』の"大嘘"について』という投稿は、本書と伊藤計劃のブログを引用して、本当のシェパードの動機を説明する。要は終末願望で、ノベルス版のp.99-100、文庫版のp.140に明記してある。
 その終末願望の背景である厭世観も書かれている。

"これでぼくらは三十だ。ぜんぜん大人になれていない。少なくともこのアメリカで消費サイクルに組みこまれているあいだは。"
伊藤計劃虐殺器官』より)

 そんな理由で世界を滅亡させないでください…
 主題を除いても、ポリティカル・サスペンス、ミリタリーSFとしてのアイディアが全章に充実していて、傑作だ。

 『ハーモニー』は、『素粒子』の枠物語をより洗練し、文体、物語、SF的なアイディアのすべてで、この主題の金字塔となった。
 その衝撃は甚大で、ギブスンの『ニューロマンサー』が英米においてそうだったように、国内のジャンルに決定的な影響を与えた。

 『虐殺器官』の表題、『ハーモニー』の章題は、ナイン・インチ・ネイルズからの引用だ。ナイン・インチ・ネイルズはしばしば社会批判を主題にしていて、とくにアルバム『ザ・フラジャイル』では終末思想が前景化している。このことは指摘しておくべきだろう。

・ジェフ・ヴァンダミア著『全滅領域』(2014)
・同著『監視機構』(同前)
・同著『世界受容』(同前)

 《サザーン・リーチ》三部作。『ストーカー』が影響を与えたサブカルチャー作品の中では、もっとも結実したものだろう。『ストーカー』と直接の参照関係がある『全滅領域』に、カフカ的な官僚機構と近代建築の『監視機構』、そして、いよいよ世界が終焉を迎え、ひとびとが物理的に変容してゆく『世界受容』だ。

 なお、ヴァンダミアと近しい位置にいるチャイナ・ミエヴィルについては、短編『ジェイクをさがして』(1998)で、終末モノについて、すべて表現している。

・漫画

・つくみず著『少女終末旅行』全6巻(2014-8)
・同著『シメジ シミュレーション』第1巻(2020)

 『少女終末旅行』は題名そのままのため、説明は省略。公式アンソロジーによる、作者自身による大学生パロディ(?)で、ユーリが"「私 過去も未来も好きじゃないもん」「今しかほしくない…」"と言って、チトを抱こうとする。しかも、チトの夢オチ。世界が終末で良かったじゃん!(?)

 『シメジ シミュレーション』は傑作だ。
 本稿を記述したのは、新刊である本作のためだと言っていい
 いわゆる「日常系四コマ漫画」の形式だが、むしろ、四コマ漫画の枠線を用い、枠外で無人感のあるロングショットを描写することに重点があるだろう。
 閑散とした地方都市を舞台とし、やはり人影のない田畑や郊外団地に、奇妙なオブジェクトが点在している。

・つばな著『第七女子会彷徨』全10巻(2009-16)
・同著『惑星クローゼット』全4巻(2017-20)

 『第七女子会彷徨』では、作品のキーナンバーである第7巻が終末モノになっている。
 『惑星クローゼット』は夢が不気味な異界に繋がっていて、しかも、夢がどんどん現実を侵食してくるというホラーだ。異界だけではなく、起きているあいだの、地方都市の描写もいい。

・模造クリスタル著『スペクトラルウィザード』(2017)
・同著『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』(2019)

 世界を破壊する魔導書を発明したために、逮捕・処刑されるようになった魔術師たちの物語。むしろ「終末は訪れない。だから絶望している」という作品。

道満晴明著『メランコリア』上下(2018-9)

 道満晴明が『ヴォイニッチホテル』で確立した、『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』方式の無関係のエピソードと伏線回収を活用している。
 同年の『バビロンまでの何光年?』も同様だ。
 どちらも、きわめて高い水準の作品だ。しかし、管見としては、あからさますぎるメッセージ性が没入感を損なっているようだ。
 その点では、怪雨(ファフロツキーズ)でカエルが降ってくる、奇妙で、不思議に晴れやかなエンディングの『ヴォイニッチホテル』に落ちるだろう。

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行』全14巻(1995-2006)

 もはや、内外に知られる終末モノの古典。

・余談

 Sound Hrizonのアルバム『Chronicle 2nd』(2004)Elysion ~楽園幻想物語組曲~』(2005)は終末論の主題が大きいので、気になったかたは、ぜひ!

神聖かまってちゃんの詩学 - 『Os-宇宙人』、『友達なんていらない死ね』、『ズッ友』 -

 筆者はバンド《神聖かまってちゃん》のよき聴者ではない。公正な観点からも、各アルバムにつき、多大な魅力があるとは言えない。《神聖かまってちゃん》はいわゆる「メンヘラ」と「サブカル」のアイコンと見做されることが多い。その紋切型は、批判的には、具体的に、以下のようになる。生活に卑近な風俗的なものを題材に、自己愛を基底とする、自己憐憫的、自己陶酔的な歌詞を、情緒不安定さを演出意図とする、高音の歌声で歌う。とくに、その皮相さにつき、風俗的なものの題材は悪趣味と少女趣味に偏向している。この紋切型はかならずしも否定できない(無論、あくまでただの紋切型だ。例えば、近しい2018年のアルバム『ツン×デレ』でこの紋切型が当てはまる曲は『犯罪者予備君』だけだ。しかし、本稿ではほぼこの紋切型に当てはまる曲のみについて論じる)。
 だが、この紋切型は表面的なものだ。『Os-宇宙人』、『友達なんていらない死ね』、『ズッ友』の3曲はまったくの名曲だ。
 なお、『友達なんていらない死ね』は音源が3つあり、アルバム『楽しいね』、ベスト盤『ベストかまってちゃん』、そしてYouTubeだ。このうち、YouTubeに投稿されているものは、ノイジーな加工が多分に施されており、CDに収録されているものとは別物だ。筆者はあらゆる作品はアクセスが容易に如くはないと考える。金銭的取引を含め、アクセス可能性が下がることで作品の価値が上がるという考えは明らかにバカげている。しかし、防衛的に、大量の流通による記号化を阻止するため、アクセス可能性を下げることは部分的に賛成する。ともあれ、『Os-宇宙人』につき、『友達なんていらない死ね』を欠くことは、モーツァルトの《レクイエム》につき、《大ミサ曲 ハ短調》を欠くことと同じで、作品鑑賞を不十分なものとする。
 以下、『Os-宇宙人』、『友達なんていらない死ね』、『ズッ友』の3曲を中心に、《神聖かまってちゃん》の曲のコードと歌詞を時系列順に分析し、その作曲と作詞の特徴を指摘する。それを踏まえ、上述の紋切型を修正する。
 作曲と作詞の特徴につき、あらかじめ結論を言う。作曲の特徴は以下の3点だ。①聴きやすい調性 ②分かりやすい、ほぼ三和音のみによる構成 ③大部分を順次進行とする、メロディアスな曲調 作詞の特徴は以下の3点だ。①皮肉、掛詞などの機知に富む地口 ②口語的な造語 ③生活に近く、かつマージナル(限界的、周縁的)な題材

 デビューアルバムの『友だちを殺してまで。』(2010年3月)の劈頭をなす『ロックンロールは鳴り止まないっ』は、明るく印象的な曲調と、普遍性のある歌詞で、幅広い人気をもち、《神聖かまってちゃん》の代表曲だ。すでにここで「駅前TSUTAYAさんで」という風俗的なものの固有名詞を使用しているが、これは時代が変わっても意味と文脈は十分に理解されるだろう(すでに2020年現在、ツタヤはほぼ過去のものになっている)。

 F G     Am F
ロックンロールは鳴り止まないっ

 本曲の調性はきわめて聴きやすいハ長調だ。そして、ほぼ三和音で構成されている。
 しかし、この中心となるフレーズのコードは《神聖かまってちゃん》では例外的だ。SD-D-《T》-SDという、ハ長調平行調であるト短調をもちい、疑似的にドミナント終止を再現し、最後にサブドミナント終止の逆行に開く。それにより、印象的で、かつ掻きたてられるようなコードになっている。以下で見る曲のコードでも、同様に、掻きたてられるような叙情性のため、ドミナント終止の逆行が用いられる。しかし、このように非-旋律的で和声進行的な、印象的な構成はされない。そのため、『ロックンロールは鳴り止まないっ』は《神聖かまってちゃん》ではじつは例外的な曲だ。

 『みんな死ね』(2010年12月)は上述のとおり、名盤とは言いがたい。しかし、以下の3曲が、のちの名曲の準備になっている。『最悪な少女の将来』は、まさに《神聖かまってちゃん》の紋切型の条件をすべて満たす。その意味で、後作の前身的な作品と見ていいかもしれない。しかし、洗練さを欠き、陰々滅々とした、風俗的なものに彩られた歌詞は詩性が足りない。ただし、「休み時間をトイレに流すように」というフレーズの機知には光るものがある。この機知は、『ねこラジ』の歌詞「塔の伝説を信じて 塔にのぼるようなバカになりたいのです トタン屋根の上よりもはるか上でさ 未知の電波受信したいにゃっ」にも表れている。最後に、《神聖かまってちゃん》の全曲中、もっともヘヴィメタルに近い『あるてぃめっとレイザー!』における、「あるてぃめっとレイザー!」のフレーズの連呼は、《神聖かまってちゃん》の、メロディアスな曲調で、叫ぶような歌唱法により、印象的な歌詞を伝えるという詩法の準備になったかもしれない。

 『Os-宇宙人』(2011年4月)は《神聖かまってちゃん》の傑作だ。

 BM7 C# D#m
2年生、バカは一人
 BM7 C# D#m
ここの町の、空見上げる
 BM7 C#  D#m
サボり学生、パジャマ着てる
 BM7      C# D#m
夏休みが、来ずに中退
 BM7 C# D#m   A#7
地球で宇宙人なんてあだ名でも
 BM7 C# D#m   A#7    BM7  C# D#m
宇宙の待ち合わせ室にはもっと変なあなたがいたの
 BM7 C# D#m
受信してるかなと
 BM7 C# D#m
接続してみると
 BM7 C# D#m   G#m7  A#m7   A#7
みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから
 BM7 C# D#m
テレパシる気持ちが、
 BM7 C# D#m
電波が違くても
 BM7 C#  D#m     BM7  C# D#m
きっとね何か掴んでくれてる あなたの事が好き

 調性は聴きやすいロ長調だ。また、大部分が三和音で構成されている。
 コードのほぼ大半は根音のメジャー・セブンス・コードから2回、2度ずつ三和音に下行するもので、きわめて簡単だ。D#mをD#m7の付加音を除したものと見て、コード進行はT-《経過音》-Tとなる。
 その例外は2つのサビの部分だ。「宇宙の待ち合わせ室には」のA#7への一時的な下行と、「ぱちくり見ているあなたがいたから」のG#m7 A#m7 A#7への展開だ。A#7はドミナントで、サビにおいて長いフレーズをT-D-Tで接続するのは無難妥当だ。G#m7 A#m7 A#7はT-D-《D》で、ドミナント終止の逆行で、掻きたてるような叙情性を与える。A#7はロ長調平行調嬰ト短調ドミナントだ。この平行調の使用は効果的だ。
 全体として、ほぼ順次進行で、聴きやすい、メロディアスな曲調だ。かつ、調性は明るい。このため、導入部にコーラスを用い、曲調に厚みを補足的に付加している。これにつき、『ズッ友』でも同様にピアノの伴奏を使用している。しかし、曲そのものの印象は切実だ。それは高音の歌声と、叫ぶような歌唱法、そして歌詞による。
 「夏休みが、来ずに中退」という深刻な内容の簡潔な表現と、そこに対照的に「夏休み」という牧歌的な名詞を使用することは、見事な詩学だ。「地球で宇宙人なんてあだ名でも 宇宙の待ち合わせ室にはもっと変なあなたがいたの」(無論、ここでの「待ち合わせ室」は精神科の待合せ室の含意(コノテーション)がある)、「受信してるかなと 接続してみると みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから」、「テレパシる気持ちが、 電波が違くても」の心療内科の語彙の使用と、孤独感の表現、そしてそれを洗練された文学的なものとする機知は、まったくすばらしい。なお、ここで「テレパシる」という口語的な造語を使用し、その機知を高踏的なものとせず、日常的なものに留めている。
 この詩学を見るかぎり、明るく、メロディアスな曲調は、むしろヴォーカルを強調するためだ。この方法論はJoy Divisionの『The Eternal』や、『Decades』の系譜に位置する(ただし、Joy Divisionの場合は、短調の調性を用い、メロディアスだが、ポップではなくメランコリックな曲調だ。そして、苦悩的で、内省的な歌詞だ)。
 おそらく《神聖かまってちゃん》の代表曲である本曲が、その紋切型の形成に多く加担している。しかし、このとおり歌詞は理知的で、自己憐憫的、自己陶酔的なものではない。

 『楽しいね』(2012月11日)の『友達なんていらない死ね』は、上述のとおり、『Os-宇宙人』の姉妹曲だ。

B♭ C F A
午後2時 精神科
B♭ C  F  A
家族連れの君もいる
B♭ C F A
待合室ではね
B♭ C  A
お互いまっ白ね


 B♭
午後2時 精神科
 B♭
家族と車で行く
 B♭
車の窓を開けて
F     C Dm ConE F
「秋の空がとても綺麗だ。」


B♭
淡々と
C      F
タンタンタンタンタンタン
A     B♭   C   Dm  A
タンバリンで首を吊っちゃった君は死んだんだ
B♭   C    Dm 
タンタンタンタンタンタンタン
A      B♭ C
タンバリンを一応鳴らして
Dm A
一応生きてる
B♭
淡々と
C      F
タンタンタンタンタンタン
A     B♭   C   Dm  A     B♭ C
タンバリンで首を吊っちゃった君は死んじゃったんだ

 調性は変ロ長調だ。平行調はもっとも憂愁な調性であるト短調だ。主となるコードのB♭ C F AはT-《経過音》-《D》-《D》だ。FはドミナントであるF7の付加音の省略、Aは平行調ドミナントだ。ドミナント終止の逆行を主要主題に使用している。
 比較的、ポップな『Os-宇宙人』に対し、より秀麗で、きわめて聴きやすい変ロ長調を使用し、焦燥感と不安感を掻きたてるドミナント終止の逆行をはるかに多用している。
 その歌詞は多言を要さない。ただし、「午後二時 精神科」「家族と車で行く」の視覚的なまでの強いイメージの喚起力は特筆すべきものだ。《神聖かまってちゃん》の見事な詩法を示す。
 そして、友人の死と、その喪失感および絶望感を表現する部分の歌詞は、地口を用い、その情緒性への自家撞着を阻止している。上述のとおり、アクセス可能性の高いYouTubeの音源では、ノイジーな加工を施し、さらに距離感を強めている。

 このアルバムに収録されている『花ちゃんはリスかっ!』は《神聖かまってちゃん》の紋切型にもっとも適合的だ。「ジャスコで買っちゃった武器を手に持ち 198円 全員殺せ」「ジャスコで買っちゃった武器を持つ時立ちはだかるのは 非国民的英雄花子」の皮肉と、土着的なものと、風俗的なものの題材の使用は見事だ。しかし、本曲は終盤に三人称から二人称へと変化し、そのことが文学的、政治的な危険をもつ。ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』で三人称は事実と虚構を等価とする人称だと分析した。これに対し、一人称と二人称だけが、つねに主体的なものだ(なお本書は、だから、安直に、主観的な一人称と二人称を使用すべきというのではなく、自身の非-主体性を自覚し、細心の注意を払いつつ、三人称を使用すべきという趣旨だ)。本曲で三人称から二人称へ変化することは、発話者の主体性を隠蔽し、その責任を棚上げし、また、所与の規範を透明化する。こうした発話者の主体性と、その責任と、所与の規範に無自覚であったために、文学的、政治的な危険が発露した例は椎名林檎だ。しかし、《神聖かまってちゃん》はこのあと、同様の危険を冒していない。

 シングル『ズッ友』(2015年6月)は『Os-宇宙人』に並ぶ傑作だ。

D♭M7 E♭
春の日の午後
Cm
雨はちらつき
D♭M7 E♭
涙もろいね
Cm
季節はずれだ
D♭M7 E♭
初恋はまだ
Cm
黙り続ける
D♭M7 E♭
涙が出たと
Fm
勘違うから


  D♭M7
神は罰するか
 Fm D♭M7 Fm
私の白い部屋で鳴る
  Fm
このワルツ
 D♭M7 Fm
新しい世界が
 D♭M7 E♭ Fm
魅惑な君がいた
   D♭M7 Fm
マリア少々のお許しを
 D♭M7 E♭
私の  本性
  Fm
美しすぎて
 D♭M7 Fm
バイオロジカルを
 D♭M7 E♭ Fm
超えてく君がいた

 調性は変ニ長調でやはり聴きやすいものだ。
 コードもやはりメロディアスなものだ。主な部分は順次進行で、サビの部分はT-T-T-T-…とトニックを連結してゆく、調性のきわめて安定したものだ。上述のとおり、これにつき、ピアノの伴奏で曲の厚みを補足的に付加している。
 反-異性愛規範的な歌詞は多言を要さない。「勘違うから」という口語的な造語に、対照的に、サビの部分で荘厳な語彙を使用することの効果は見事だ。「初恋はまだ 黙るだけです 今日の続きを 信じるだけです」「愛がどーとか いらん茶々です」。注意すべきだが、反-異性愛規範は、異性愛の類例としての同性愛の称賛ではない。これにつき、自己が自己であるために自己像を否定したい、あるいは自己がまったき自己像のままであるために自己を否定したいという、現代的で、普遍的な問題意識がある。また、ここに政治性の契機がある。ビスワンガーの《症例エレン・ウェスト》は自殺願望を「絶望的なまでに自分でありたくなく、〈違って〉いたい」がために「自分自身でありたい」要求だと解釈する。ここにおいて、死は救いだが、それは存在が〈絶望的なまでに自分自身である〉のではなく、自分自身になったからだ(『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』からの孫引き)。フーコーはビスワンガーの『夢と実存』の序論で、この分析への賛意を示す。この問題意識を契機に、フーコーは自分自身を含め、ひとびとに内面化された所与の規範を批判する。そのうち、もっとも有名なものが『知への意志』の異性愛規範の批判だ。そして、これが《神聖かまってちゃん》がマージナル(限界的、周縁的)なものを採材する理由だ。

 ただし、マージナル(限界的、周縁的)なもの(精神病、薬物、不登校、無職、引きこもり、その他、反社会的なもの)の採材は致命的な危険をもつ。反社会的なものを、無自覚にそう認定して採材することは、所与の社会規範を反復し、再強化することに他ならない。上述のとおり、『ズッ友』では韜晦を用い、同性愛的なものを、特権的な地位からそう認定し、所与の異性愛規範を反復し、再強化することを避ける。このように、《神聖かまってちゃん》のマージナル(限界的、周縁的)なものの採材は、つねに理性的で、感情的に距離をおいている。これが、《神聖かまってちゃん》が歌詞で地口を多用する理由だ。
 これにつき、殊能将之フリッツ・ライバーについて述べたことが参考になる。

 "ライバーは、つねに自分の頭のなかの出来事を書いており、幻想に深く取り憑かれている。しかも、その幻想は非常に子供っぽいものだ。……しかしながら、その書き方は、幻想に完全にのめり込むことなく、ある距離をおいている。その距離感がユーモアを生む。書き方は大人なのだ。……ライバーは稀代のファンタシストでありながら、どこかしら醒めている。幻想に幻想を抱いていない、と言ってもいい。……幻想は幻想以上のものであり、自分を救済してくれるに違いない、などと考えるのは最悪である。そんなふうに思い込んでいるバカが幻想に溺れようとすると、ろくなことにならない。バカはクスリやったり酒飲んだりするな!……と、今日、テレビのニュースを見ていて、つくづく思った。……バカは頭がおかしくなるな!"(『殊能将之読書日記』pp.54-6)(太字は原文ママ

 殊能将之の顰に倣えば、「バカはメンヘラになるな!」となる。

 その愚かしさは当事者性があるときに限らない。いわゆる「メンヘラ」でなく、いわゆる「メンヘラ」を「メンヘラ」と情緒性をもって名指すひとびとだ。当事者性がなければ、その愚かしさはなお醜悪だ。それは、いわば観光客的なものだ。これを、蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』で、"凡庸さとは……前言語的な距離と方向の計測者的な役割への確信として露呈するもの"(上巻、p.126)と述べる。これはヒッチコックが対談で語った観光客の姿そのものだ。こうしたひとびとはトリヴィアルな事物にばかり執着し、それ以外の視野をもたない。この愚かしさを避けるためには"遊戯への余裕ある距離の意識"(上巻、p.33)が必要となる。卑近な例を挙げれば、下ネタは面白いが、下ネタばかり言う人間ほどつまらない人間はいない、性表現、暴力表現は印象的で力強いが、性表現、暴力表現を特別だと思っている人間ほど退屈でつまらない人間はいない。Coccoの『強く儚い者たち』は唐突な下品さの挿入で成功しているが、この手法は1度きりしか使えず、また、発展の見込みもない。

 "H「……彼らはヨーロッパに観光旅行に出かけるのが大好きで、ナポリの貧民街に入りこんで三脚を立てて飢えて痩せ衰えた小さな子供を写真に撮ってよろこんでいる。狭っくるしい路地裏の貧しい長屋アパートにぶらさがっている洗濯物とか、街のまんなかをロバが歩いていく光景とか、そんなトリヴィアルなけばけばしいものにばかり目を惹かれて興にいっているんだよ! いまの若いイギリスの映画作家たちもその種のものを映画のなかに描くことに熱中しはじめた。社会的なヴィジョンというやつがはやりだ。わたしがイギリスにいたころは正直の(ママ)ところ考えもしなかったが、アメリカから帰ってきたときに、はじめてその大きなちがいに気がついたんだよ――つまりイギリス的な視点がいかに島国的なものかということだ。こんなことはあたりまえのことかもしれないけれども、やはりイギリスを一度離れてみないとわからないことだ。イギリスから出てみれば、すぐ、もっと広い世界観に出くわすことになる。ひとびとの話しかたを聞いてみたり、ひとびとと話しあったりするだけで充分だ。」"(『定本  映画術 ヒッチコックトリュフォー』p.112)

 『ツン×デレ』(2018年7月)の『犯罪者予備君』はサビの部分につき、コードが力強くで、歌詞が幻想的だという、上述の《神聖かまってちゃん》の特徴と相違するところはあるが、その詩学は同じだ。コードは主な部分は順次進行のメロディアスなものを、サビの部分は4度下行の力強いものを配置している。歌詞の導入部の「パッキパキにクリーニングした サイゼリアの赤ワイン」の頭韻は印象的で見事だ。無差別殺傷事件を正面から扱った音楽家が国内では他にいないというだけで、《神聖かまってちゃん》と、の子の文学性、政治性は注目すべきだ。
 『負債論』の著者で、ウォール街占拠運動などの運動家の、デヴィッド・グレーバーは『官僚制のユートピア』で、Mark Amesの『Going Postal』の、多発する職場における殺傷事件へのジャーナリズムの言説の分析を引用する。これらのジャーナリストの説明における言葉遣いは、19世紀の奴隷の蜂起への新聞雑誌によるものとほぼ一致する。こうした出来事を原因と思われるシステムに根差す屈辱感から切断し、理解しがたい個人的な怒りや狂気による行動として描写する。これらのことを構造的に説明できると仄めかすだけでも不道徳と見做される。例えば、奴隷制の悪弊について語ることで、1980年代の企業文化改革以前、アメリカ史上、職場における殺傷事件は1例も存在しなかったこと(ただし、奴隷によるものを除く)を指摘することだ。それは暴力を正当化すると見做される。また、具体的で、物質的な現実に即した強靭な知性をもつイタリアン・セオリーの哲学者で、アウトノミア運動の中心的な運動家の、フランコ・ベラルディは2015年に『大量殺人の"ダークヒーロー"』を発表し、そこで、若者世代の高い自殺率と、多発する無差別殺傷事件が社会の金融資本主義を原因とすることを分析した。これにより、ベラルディは若者世代の自殺率と、無差別殺傷事件は増加しつづけることを予測し、これは的中した。
 上述した、《神聖かまってちゃん》の詩学を踏まえれば、サビの部分で特別にコードが力強いものであることの意味も理解できる。歌詞は「深呼吸を深呼吸を深呼吸をしてよ」だ。この、幻想性を緩衝材としておき、一人称から二人称に移行し、呼びかけをおこなう構成はまったく無難妥当だ。

スコット・マクラウド『THE SCULPTOR』あらすじ・感想メモ


 批評と実作は車の両輪だ。しかし、マンガは実績のある作家による批評、解説書が乏しい(お分かりのとおり、暗に既存の批評、解説書を批判している)。
 スコット・マクラウドの『マンガ学』は、例外的な秀逸なマンガの解説書だ。しかし、批評と実作は相補的なものだ。なので、未邦訳の実作『THE SCULPTOR』を読んだ。面白かった。
 ニール・ゲイマンの「数年に1度の傑作」は言いすぎにしろ、年間傑作選にはかならず入選する出来だった。
 400ページ超のハードカバーで、邦訳されるとも思えないので、備忘用にあらすじと感想をメモ。

・オープニング

 朝、ベッドで傍らにいる女性が囁く。「準備はいい?(READY?)」
 今にも地面に激突しそうな1人の青年。
 ふたたび女性。「じゃあ、話して」

・1.THE OTHER DAVID SMITH

 ダイナーで泥酔する青年(オープニングの青年)DAVID SMITH。偶然、彼の大叔父HURRYがDAVIDに気づく。
 DAVIDは彫刻家で、大学時代、起業家DONALDOSONの後援を受け、名声を得たが、6ヶ月前に支援を打切られたらしい。残金も、このダイナーの支払いをすればなくなる。おまけに、そのときのいざこざが原因でロシアン・マフィアに睨まれていた。
 HURRYはDAVIDに1冊の冊子を見せる。『SUPER FAMILY』。DAVIDが9歳のときに描いた漫画で、母を「PAIN-TER」、妹スージーを「GENIUS GIRL」、自分を「SUPER SCULPTOR」、父を「OTHER MAN」というスーパーヒーローに描いていた。「OTHER MAN」は誤字で、「AUTHOR MAN」のつもりだった。DAVIDの家族は芸術一家だった。
 たまたまウェイトレスが夜学の芸術コースに通っていて、DAVIDに気づく。「DAVID SMITH? 聞いたことがある。私の講師が敬愛してるって」が、DAVIDは絶叫。「それは20世紀の名彫刻家のDAVID SMITHだ! 僕はOTHER DAVID SMITHなんだよ!」
 誕生日、26歳。職もなく、金もなく、彫刻家の夢も失い、DAVIDは打ちひしがれていた。せめて、ダイナーの支払いをするというHURRYをDAVIDは固辞。DAVIDは誰とも貸借りを作らないという誓約(PROMISE)を自分に設けていた。
 そのとき、DAVIDは気づく。「そうそう。最後にあんたに会ったとき、あんたは…」「…死んでいた」
 HURRYはDAVIDの未来を語る。DAVIDは今は打ちひしがれているが、そのうちコミュニティ・カレッジの教職を得て、1人の女性と出会う。結婚し、家と、2人の息子、黄色のラブラドール、ミニバンを得る。それでもDAVIDは地下室で自分のためだけに芸術を続ける。しばらくの間は… 「やめろ…」やがて老い、過去の記憶に耽るようになり、周囲の物事が分からなくなってゆく。そして死ぬ。「やめてくれ!」「ああ。家族と愛については省略したぞ。些細なことだからな」「芸術がお前に何を与えてくれた? DAVID」「人生だ。人生を与えてくれた」「そうか。なら、お前に1つのものを見せよう」
 DAVIDは骸骨の手に触られ、絶叫する。見開き1ページの白紙。「意識は《無》それ自体を認識できない。だから、すこし手助けしてやった」「これを見ても、まだ同じことが言えるか?」青色吐息になったあと、DAVIDはまた同じことを言う。「芸術は人生を与えてくれた」
 夜明けを迎えていた。店を出たHURRYは言う。「朝日が昇るとき、お前は望みを叶えるだろう」「望み?」「そして、200日後に死ぬ」
 DAVIDの記憶は徐々に蘇る。父、母、そして下半身不随の妹は次々に死に、DAVIDは今は天涯孤独だった。
 蹌踉としてニューヨークの街を歩いていると、DAVIDの周囲を通行人たちが一斉に囲み、拝跪する。そして羽の生えた少女が降りてくる。黒髪、そばかす、ヤンキースのベースボールシャツで、羽が生えていること以外、まったく天使らしくない少女だ(表紙、オープニングの女性)。「きっとすべてうまくいくから」そう囁き、少女はDAVIDにキスをした。ハトが羽ばたき、気づくと街は元通りになっていた。
 呆然とするまま、友人のOLIVERと、ギャラリーのオーナー「ミス・ハンマー」ことPENELOPEに会う。PENELOPEはニコニコおばさんで、DAVIDは適当な応対をする。しかも、ギャラリーにあったDJランスの顔が大量に突出する彫刻を「感想ですか… 金持ち息子の道楽で、金をドブに捨てているように見えますね」と酷評。そこに、OLIVERと親しい仲のFINNが現れる。しかも、FINNはDJランスの彫刻の作者だった。「本当に申訳ない… 誰であれ、他の芸術家を中傷する権利はなかった」「なんでだよ? 事実を言っただけだろ? それに、あれはどうせ習作さ」OLIVERはDAVIDに今後の計画を尋ねるが、彫刻の材質を石材から金属にしたいと言われ、再考を促すことしかできなかった。
 しょぼくれるDAVIDをOLIVERとFINNはパーティーに連れていく。「僕がこういう場が嫌いなことは知ってるだろ」「いいか、DAVID。ここで芸術科専攻の知合いをつくれ。《かわいい》《女の子の》知合いだぞ!」パーティー会場に残され、不機嫌に飲酒するDAVIDだったが、愕然とする。そこに天使の少女がいた。
 呆然と少女を追いかけるが、様子がおかしい。DAVIDは陽気な集団に囲まれる。「あれ、よくここが分かったな?」跪く通行人たち、空から降りてくる天使の少女、キス。そのすべては特撮によるパフォーマンス・アートだった。「この動画なら100万再生も確実だな」美術担当の若者が言う。「ニーソックスは好き? いや、僕はニーソックスが良かったんだけどね。オタクっぽすぎるって反対されちゃってね」DAVIDは嘔吐。暴れ、会場を追いだされる。
 路地裏で1人、沈んでいると、たまたま天使の役者の少女、MEGが通りかかる。MEGとDAVIDは簡単な謝罪と和解をする。「そういえば、あのとき僕に言ったことは何だったんだい?」「もし、私が悲しかったら言ってほしい言葉」「嘘でも?」「信じてないなら、言わなかったよ」「待って、あのときのことを謝りたい!」「何?」「あのとき酔ってたから、キスしたとき、僕の息が酒臭かったんじゃないかと思って…」「気づかなかったよ。一瞬だったからね」
 失意のうちに、夜の街を彷徨するDAVID。夜明け、橋上でDAVIDはつっ伏す。が、そのときDAVIDは橋にくっきりと自分の手形が写っていることに気づく。
 DAVIDはあらゆる材料を自由に変形するスーパーパワーを手にしていた。HURRYの言葉が蘇る。有頂天になり、さまざまな彫刻を試作するDAVID。が、そこにHURRYが現れる。「あと200日だ」

・2.ALL OR NOTHING

 公園でチェスをしながらDAVIDとHURRYは語らう(今後も、説明パートはこの形式)。あれから6週間が経過していた。
 HURRYは簡単に自己の存在を説明する。「あのレッドソックスの帽子を被っている男… 今日、死ぬぞ」「レッドソックスの帽子のせいで?」「真面目な話だ」そして、HURRYは男の半生を事細かに説明する。「分かった。もうやめてくれ」
 DAVIDは有頂天だった。この日、DAVIDは作品を専門家たちに紹介するつもりだった。まずOLIVERがDAVIDの元を訪れる。そこには、大量の彫刻でDAVIDの半生が細大漏らさず再現されていた。そこには、亡き妹の彫刻もあった。「DAVID。これはひとに見せちゃいけない。いや、誰1人、ここにあるものは理解できない」
 それでもDAVIDは作品の紹介を強行し、批評家たちに酷評されて終わった。とくに美術評論家のBECKERは辛辣だった。
 失意に打ちひしがれるDAVID。おまけに、OLIVERはFINNとサマーハウスに海外旅行に行ってしまう。DAVIDはOLIVERにパーティー会場でFINNの浮気の現場を見たと訴えるが、逆に頭を冷やせと怒られてしまう。
 アトリエに帰ると、ロシアン・マフィアが待伏せしていた。あまりにも大量の彫刻の重量で床が抜けたらしい。ロシアン・マフィアたちはDAVIDを痛めつけ、借金を支払うまで彫刻は預かると脅した。「あのガラクタ(JUNK)は預かった」「ガラクタか… 当たってるよ」
 呆然と夜の街をさまよううちに、DAVIDは建物の倒壊現場を見つける。そこには、レッドソックスの帽子が落ちていた…
 失意のなか、DAVIDは亡父の言葉を思いだす。「人生でどうしても必要になったときは、この名前を頼れ」「DAVID SMITH」図書館で電話帳を借りたDAVIDが見たものは、無数に連なる「DAVID SMITH」の同姓同名だった…
 ついにDAVIDは地下鉄に飛びこもうとする。そのDAVIDを、誰かが背中から止めた。

・3.THE PROMISE

 DAVIDを助けたのは、MEGとMEGの元カレのMARCOSだった。目覚めてボーッとするDAVIDはMEGに言う「愛してる」。ビンタ。
 MEGはルームメイトのSAMと2人暮しの下宿にDAVIDを住まわせ、介抱する。
 MEGの支援でDAVIDは徐々に社会復帰する。が、MEGはDAVIDに釘を刺す。「決して私に《愛してる》と言わないこと」「あなたは私と天使を同一視してる。でもそうじゃない、分かった?」。MEGは先日のパフォーマンス・アートのディレクターのMIKEYと交際していた。
 DAVIDの居候は続く。MEGは若手の役者で、自転車便のメッセンジャーのバイトをしていた。交通事故の多い仕事で、MEGは危険を好んでいた。
 DAVIDはOLIVER、MEGとともに子供時代に影響を受けたモデラーを訪ねたり、MEGと美術館に行ったりして、芸術と格闘する。そんなDAVIDにHURRYは釘を刺す。「お前、あの娘と付きあいたがっているだろう」「僕がMEGと? ありえないよ」「だがお前はそれを望んでるんじゃないか?」「忘れるな。お前が彼女と付きあうことは、彼女に喪失を経験させることだぞ」
 DAVIDが頑なに貸借りを拒むことに、ついにMEGは問いただし、DAVIDは「36の約束」を自分に設けていることを話す。様々な誓約「それから、2度と絶対にスウェーデン人監督の映画を観に行かない…」「なんで?」「長い話なんだ」。「まあ、1番目の前、最初の約束は父さんとしたことで、決して自分でした約束は破らないってことなんだけど」
 ホームパーティーの最中、MEGは電話越しにMIKEYと破局。MEGは屋上に上がり、DAVIDは追いかける。「本で読んだんだけど、彫刻は石材のなかから本物の姿を見つけて削りだすんだって」「この本のこと? 対象年齢は10歳だけど」「あなたのことを知った友達が置いていったの」。「近年、新しい方法論ができた。ジャコメッティがワイヤーの骨組みに、金属で肉付けする方法を考案したんだ」「とり去る代わりに足したわけね」「そうとも言える」。「あなたは私をとり巻く大気をすべて削れば、私を見つけることができると思ってる。でも、それは私じゃない。私は彫ったり削ったりするんじゃなくて、私がそうある人間に足していきたいの」「ジャコメッティみたいにか」「このやり方なら痩せて見えるしね(ジャコメッティの彫刻の図版)」。「もう、約束は終わり。私はあなたを愛してる。次は、あなたの番だよ」「……」「…DAVID?」DAVIDの脳裏にHURRYに言われた言葉が去来する。「もうあの言葉を言っていいの。言って」。DAVIDはMEGにキスをする。勢いあまって、屋上から落ちかける2人。「僕たちは死んでしまう!」「大丈夫、大丈夫だよ」「僕たちは死んでしまう!」、「触って、DAVID。心臓がすごい打ってる。削岩機(JACKHAMMER)みたい…」
「あなたは生きてる」
 一方、DAVIDとOLIVERは、OLIVERがDAVIDの要求に応えられない上、FINNとの関係で険悪に。「僕には時間がないんだ!」。「FINNは君を利用してるんだ。そう言ってるだろ!」「そんな単純じゃないんだ」「そんな単純じゃない? …まさか。君たちはたがいに利用しあっていた」「そんな単純じゃないと言ったはずだ」。DAVIDとOLIVERは喧嘩別れをする。
 MEGは突如として情緒不安定になり、DAVIDを遠ざけようとする。DAVIDは混乱するが、付合いの古いSAMとMARCOSはMEGのことを理解していた。「みんな私の前からいなくなる。あなたもきっといなくなる」。「僕はいろいろなことを知っている。けど、今それは問題じゃない」「なにが正しいか、なにが賢明か。なにが君にとっていいか、僕にとっていいかも問題じゃない」「もしこの街全部が僕たちの耳の周りで崩れ落ちるとしても、決してそうはさせない」「約束する」

・4.DEADLINE

 季節は冬。DAVIDはFINNのDJランスの彫刻を改造して、一泡吹かせたりしていた。FINNはOLIVERを捨てていた。HURRYは渋い顔で忠告する。「そうだ。専門的な話をすると、お前は死ぬ前に家族ともう1度会うことができるぞ」「なんだって?」「走馬灯だよ」
 DAVIDはMEGと初体験を迎える。「い、いや、僕にも男女交際の経験はあるよ。複数回の経験がね!」
 OLIVERと喧嘩別れしたことで、ギャラリーへの伝手がなくなったDAVIDは、ニューヨークの街中をギャラリーとすることに決める。「『ニューヨーク・タイムズ』を見なければ、言葉で説明してもピンとこないと思ってね。《一夜像》でググってみなよ」「グーグルなんぞ知るか。こりゃ『ニューヨーク・タイムズ』だぞ! 2面だ!」。DAVIDは夜間にビル大の巨大な彫刻を創造していた。「街中の注目を集めたな。で、次はどうするんだ?」「それは…」「……」
 顔を能力で変形。盗難車(能力で鍵を複製)を使用。ステップ1:警備を封鎖。ステップ2:40秒で建材を用意。ステップ3:3分で基礎を成形。ステップ4:5分で仕上げ。「見たか、SCULPTORの新作」「リアル《プロジェクト・メイヘム》だよな!」
 残り51日、DAVIDはまだ芸術と格闘していた。一方、警察の包囲網は徐々に狭まっていた。美術評論家BECKERはテレビのインタビューで「SCULPTORの作品は最近、失踪した若手彫刻家と作風が酷似している。我々はすでに警察にそのことを通報した」と語っていた。ニュース番組を見てDAVIDは愕然とする。SCULPTOR事件の捜査担当者の名前はDAVID SMITH刑事だった。
 残り26日、DAVIDはMEGと喧嘩別れする。MEGが介抱するために招いたホームレスを、DAVIDがそうと知らずに追いだしたためだ。「間違ってる。どうかしてるぞ!」「それはあなたを拾ったときにSAMが言ったことだよ!それでも間違いだって言うの!?」「そうだよ… 間違いだった!」「…間違いだったんだ」
 残り24日、DAVIDは長期旅行中の家を借り、とうとう独居する。

・5.THE ART OF DYING

 残り15日。MEGが訪ねてくる。「私は医者に子供はできない体だって言われてたの。MARCOSとも、それで別れたのね」「だから、あんたとするときも避妊はしてこなかったの」「……」「…!?」。DAVIDはMEGに能力を見せ、今までの経緯を説明する。「それで、残り15日の命!?」「ああ… いや。残り12日になったみたいだ。秘密を話したペナルティでね」。「あんたの今までの奇行もそれが原因!? もうすぐ死ぬから!? 私のことを、あんたの世話なしで生きていけない繊細なお花とでも思ってたの!?」ひとしきり怒りをぶちまけたあと、MEGはすすり泣く。
 残された日々をDAVIDとMEGは大事に過ごす。
 残り7日。MEGは闘病中の恩師のもとを訪ねる。恩師は死にかけていた。1人にしてほしいと言われ、DAVIDは久しぶりに1人の時間を過ごす。静寂のなか、DAVIDは死への心構えができたと思ったが、夜になりMEGに「死にたくない」と泣きつく。
 残り5日。DAVIDとMEGはフェミニストのヌード・デモに遭遇。宗教的狂信者の老人がデモ隊に怒鳴りはじめ、割って入った母親の赤子をMEGが預かる。赤子をあやすMEGを見て、DAVIDは感慨を覚えた。
 残り4日。MEGがOLIVERを連れてくる。DAVIDとOLIVERは和解。ワインを飲みながら、昔の写真を見てDAVIDとOLIVER、MEGは語らう。「父さんだ…」「死んだお父さん?」「うん。このときはすごい年長に思ったのに、今見ると全然、年をとってないな」。OLIVERからDJランスの彫刻の顛末を聞く。DONALDSONが彫刻を17万ドルで落札。しかも、FINNとDAVIDの合作として扱われ、今、DAVIDは斯界で高評価され、しかも事実上、SCULPTORと同一視されていた。OLIVERがワインを飲むために持ってきたグラスはFINNの秘蔵品らしい。「FINNとの関係は?」「まだ複雑なんだ」。「DAVID、カム・バックを約束するぞ」「また週末に会えないか?」「忙しくてな。来週はどうだ?」「… そうだな。来週に」。「愛してるよ、OLIVER。…性的な意味合いは抜きにね」
 その夜、OLIVERの紹介でDAVIDはPENELOPEの元をふたたび訪れる。「今でこそバカだったと分かるけど、僕は芸術で世界が変えられると思ってた」「芸術は世界を変えられますよ。ただし、ゆっくり… とてもゆっくりとね」
 残り3日。DAVIDはMEGに球体の彫刻を見せる。これが、ひとまずのDAVIDの芸術の解答だった。HURRYが2人の元を訪れる。「あなたがHURRYね」「ワシも、お前さんのことは知っておるよ」「おい、どういう意味だ」「妻が死んだあと、古い映画を観て時間を潰すようになってな。とくに、名画座で」「私、そこでモギリと案内をしてた!」「あのときの帽子のお嬢さんは、君じゃなかったかな」「まったく、驚かすなよ!」。MEGが買物に出かけ、DAVIDとHURRYは最後のチェスの対戦をする。「分かったよ、HURRY。昔から、ひととひととは鎖の輪のように繋がってきた。けど、それは《不滅》なんかじゃなくて。生命は川の流れのごとく、そして流れは毎日続いている。だろ?」。「DAVID。ワシは名画座に行ったことなどないよ」「は?」「彼女とは、また10分後に会う予約をしておる」「予約…?」。DAVIDは血相を変える。同時にドアが激しく叩かれる「開けろ! 警察だ!」。警官隊を退け、MEGを探すDAVID。すでにMEGは轢死していた。「彼女が急に飛びだしてきて…」「分かってる。彼女は… 不注意だった」。DAVID SMITH刑事と警官隊に銃口を向けられ、DAVIDはMEGの死体を抱えて能力で地下に逃げる。
 出現したHURRYをDAVIDは問詰する。「定めだよ」「ワシはもう無くなる。お前がもう死ぬからだ」。
 豪雨のなか、DAVIDは能力で鉄塔に登攀する。豪雨に晒されながら、DAVIDは鉄塔を変形する。向かいのビルにSWAT(ニューヨーク市警なのでESU)を引連れたDAVID SMITH刑事がいて、DAVIDに警告する。「どうして僕のことが分かった!」「君の友人の恋人が、彼を尾行していた! 彼の提出したグラスについた指紋と、SCULPTORの指紋が一致した!」「嘘だ! 僕は作品に指紋を残さなかった!」「最初の作品だよ!」「最初…?」「橋だ!」。「はやく投降するんだ! その鉄塔は、すぐ鉄屑(JUNK)になるぞ!」「鉄屑か… 誰もが批評家だな」。「刑事さん! あなたの名前は!」「君と同姓同名のDAVID SMITHだ!」「じゃあ、あんたはOTHER DAVID SMITHってわけだ!」。「家族はいるか!」「ああ! 妻と、8歳と10歳の娘がいる!」。DAVIDはDAVID SMITH刑事、SWATの前に能力で降りる。「全員、5分以内にここから離れるんだ!」
 警察と見物人は退避。雨と霧で視界は閉ざされる。「あの青年、生きて帰れますかね」「さあな。ニューヨーク市警は白人のセレブを撃つのが大好きだしな」。とうとう、狙撃隊の誰かが発砲して、DAVIDは落下する。オープニングの場面。DAVIDの脳裏に走馬灯が過ぎる。地面に激突する直前で、永遠に引延ばされる落下。その日の朝のこと。ベッドでMEGが囁く。「ねえ。なにか秘密を教えてよ」「僕たちだけが知っている秘密は、僕たちが死ぬと同時に消滅する… 不思議な感覚だ」「じゃあ、話して」「私の耳に囁いて」。激突。
 やがて、朝になり、雨と霧が晴れて見物人たちは呆然とする。そこには、摩天楼ほどの大きさの、赤子を抱きあげるMEGの巨大な彫刻が完成していた。
 巡査がDAVID SMITH刑事に言う。「笑い話なんですがね。CBSが、《あなたが》死んだと報道しているそうですよ」「笑えない。CNNが正しい報道をするだろうがな」、「ボス。妻に電話してもいいですか。誤報を見て心配しているといけないので」「私用電話は後にしろ」。無視して電話をかけるDAVID SMITH刑事。《よかった。DAVID。無事なのね》
《あなたは生きてる》(完)

(感想:もっとも面白いのは第1章で、まったく予想のつかないストーリー展開だった。その後はわりと順当に推移。しかし、MEGが妊娠して、再生産での永遠性という安直なところに落着すると見せて、MEGが死ぬあたり、巧みなストーリー・テリングだった。『マンガ学』で見たとおりの知的さだ。含意もなかなか。コマ割りの文体が3つのあいだで変わって、『グランド・ブタペスト・ホテル』を連想した(画面サイズが3つのあいだで変わる)。)